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太平記を歩く。 その158 「天龍寺」 京都市右京区

世界遺産に登録されている京都・嵐山の天龍寺を訪れました。

ここは、暦応2年/延元4年(1339年)に吉野で崩御した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために、足利尊氏夢窓疎石を開山として創建したと伝わる大寺院です。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、なんで菩提を弔う寺院を?・・・と思ってしまいますが、そこは、複雑な心中があったのでしょうね。

尊氏の「尊」は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて改名したもの。

そんな関係にありながら、結果的に敵対する関係になってしまったことで、少なからず胸を痛めていたのかもしれません。

逆賊の誹りを逃れたいという思惑もあったかもしれませんね。

あるいは、天皇が怨霊となって祟りをなすのを恐れたのかもしれません。

そんな尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うことを強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石だったと伝わります。


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元々この地は、嵯峨天皇(第52代天皇)の后である檀林皇后が開創した檀林寺のあったところで、のちに後嵯峨上皇(第88代天皇)ととその皇子である亀山天皇(第90代天皇)の仙洞御所・亀山殿が営まれた場所です。

後醍醐天皇は、この地で幼少期を過ごしたと伝わります。


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寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定だったそうですが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたといわれます。


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造営に際して尊氏や光厳上皇(北朝初代天皇)が荘園を寄進しましたが、それでも費用が足りず、直義は夢窓疎石と相談のうえ、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画しました。

これが有名な「天龍寺船」の始まりです。


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庫裏と呼ばれる堂の玄関を入った正面に置かれる達磨図の大衝立。

前管長である平田精耕老師の筆によるもので、大方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴した天龍寺の顔といえるものです。


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こちらは大方丈のなか。

庫裏、大方丈内は自由に見学できるのですが、観光客がいっぱいで、いい写真がありません。


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こちらが、大方丈の西側に広がる曹源池庭園

夢窓疎石作の庭園といわれ、わが国最初の史跡・特別名勝に指定された庭園です。


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そして、平成6年(1994年)、世界文化遺産に登録されました。


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こちらは、境内西北にある多宝殿

ここに、後醍醐天皇の木像が安置されています。


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畳の間には入れませんが、ラッキーなことに撮影禁止ではありませんでした。


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ズームです。

肖像画に似てますね。

いつの時代に作られたものかは、調べがつきませんでした。


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康永2年(1343年)に完成した天龍寺は京都五山の第一位に擬せられ、室町幕府の隆盛とともに最盛期には子院が150を数える巨大寺院にまで成長しますが、その後、度重なる大火に見舞われ、やがて室町幕府の衰退とともに寺運も衰え、応仁の乱によって堂塔伽藍がことごとく焼失すると、しばらく再建もままならない状態が続きます。

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この状況を救ったのが豊臣秀吉で、豊臣政権下で天龍寺は蘇り、その後、徳川政権下でも庇護を受け、江戸時代中期にはかつての隆盛を取り戻すまでに至りますが、幕末の禁門の変の際に長州軍の拠点となったことで薩摩軍から砲撃を受け、ことごとく破壊されました。

現代の建造物のほとんどは、明治期に再建されたものです。


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嵐山といえば紅葉の名所で知られ、ここ天龍寺の庭園も、美しい景観が見られるとのことです。

ここを訪れたのは10月10日、ちょっと早かったですね。

今度は紅葉狩りに訪れたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-30 01:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その157 「足利尊氏邸・等持寺跡」 京都市中京区

延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏光明天皇(北朝第2代天皇)から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が樹立します。

その、室町幕府発祥の地を訪れました。


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京都市中京区のオフィス街になかに、「足利尊氏邸・等持寺跡」と刻まれた石碑があります。

ビルの隅っこの植え込みのなかにあるその石碑は、気づかずに通り過ぎてしまうほど質素なものでしたが、かつてこのあたりに、尊氏の邸「三条坊門第」(二条万里小路第)があったとされています。


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現地説明板によると、尊氏邸の範囲については諸説ありますが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えられているそうです。

実に約9000坪以上、これは邸というより、ほとんど城ですね。

尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358年)にここで薨じました。

のちにこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められました。

尊氏は3つの寺院を建てることを願っていましたが実現できず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられています。


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等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たしました。

しかし、応仁の乱以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院に合併されてしまったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-28 22:47 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第47話「決戦は高天神」 ~高天神城の戦い~

 息子の松平(徳川)信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田氏の高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高天神城は武田氏、徳川氏の間で幾度となく攻防戦が行われてきました。しかし、戦いは両者とも一進一退を繰り返し、決定的な決着がつかずにいました。そんななか、信康の武田氏内通の嫌疑が浮かび上がり、信康は自刃に追い込まれます。前話の稿でも述べましたが、信康自刃の背景には、徳川家内での織田派、武田派の分裂の危機があったといわれます。となれば、家臣を結束させるためには、信康の自刃だけではなく、その根源である武田氏を攻め滅ぼす必要があったわけです。


 信康が自刃して約半年後の天正8年(1580年)3月以降、家康は高天神城の周囲に付城を築いて包囲網を形成、そして9月、5000人の軍勢で城を取り囲みます。このとき家康は力攻めではなく、兵糧攻めの作戦をとります。ドラマでは、「兵糧攻め」を敵味方ともに兵を失わずに戦う策と言っていましたが、たしかに「兵糧攻め」は味方の兵の損傷を少なくする作戦ではありますが、敵(籠城軍)にとっては、そんな心優しい作戦では決してありません。籠城兵にとって、食糧を断たれることほど苦しいことはなく、餓死者は続出し、飢餓の極致に達した者たちは、人肉をも食らったという記録も数多く残されています。同じ頃に羽柴秀吉が指揮した「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し」などが有名ですね。「兵糧攻め」とは、決してドラマで言っていたような人命尊重の戦い方ではありません。


 城代の岡部元信はよく耐えましたが、武田勝頼からの援軍を得ることができず、やがて城兵の大半が餓死します。この戦いには織田の援軍も加わっており、織田信長からは、「高天神城が降伏してきても許すべからず」といった書状が家康に対して送られています。これはドラマでも描かれていましたね。信長は、勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようです。そして、ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、残った城兵は城から討って出るも、徳川軍の包囲網によって岡部元信と兵688の首が討ち取られまず。


 『寛政重修諸家譜』によると、この戦いに出陣していた万千代(のちの井伊直政)は、水の手を断つなどの手柄をあげたと記されていますが、派手な活躍は伝えられていません。また、『井伊家伝記』によると、同じ頃に万千代は2万石加増されていますが、それが、この戦いでの戦功だったかどうかは定かではありません。ドラマで描かれていたように、この加増によって、中野直之、奥山六左衛門朝忠以下、山中に籠っていた旧井伊家譜代の家臣たちが万千代のもとに集まり、仕えたといいます。


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 この戦いのあと、武田氏の凋落は一気に加速し、戦国の世のならいとはいえ、武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。これが、高天神城の城兵を見捨てたことに端を発したとすれば、信長のシナリオどおりになったといえます。そして、「高天神城の戦い」から約1年後の天正10年(1581年)3月11日、武田勝頼は自害します。享年37。このとき、勝頼に付き従っていた家臣団は、わずか43人になっていたとも。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。


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by sakanoueno-kumo | 2017-11-27 17:45 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その5 「福禅寺・對潮楼(いろは丸事件第2・3回談判場)」

前稿で紹介した旧魚屋萬蔵宅の東側の高台にある福禅寺・對潮楼が、慶応3年(1867年)4月25日と26日に行われた「いろは丸事件」2回目、3回目の談判場となりました。


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細い路地の坂道を上ると、「国史跡 對潮楼」と書かれた誘導板が出てきます。


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海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。


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石碑には、「日東第一形勝」と刻まれています。

この言葉は、正徳元年(1711年)にここを訪れた朝鮮通信使が、あまりにも美しい景観に感動して言った言葉だそうです。

つまり、朝鮮より東で一番美しい景色ってことですね。

楽しみです。


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本堂です。

元禄年間(1690年代)に建立されたそうです。


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隣接する客殿・對潮楼も、同じ時代に建てられたものだそうです。

「對潮楼」という名称は、延享5年(1748年)に訪れた朝鮮正使の洪啓禧が名付けたそうです。

さっそく對潮楼に行ってみましょう。


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おおっ!


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おおおおっ!


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たしかにこれは素晴らしい!


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窓枠が額縁の絵画のようです。


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話をいろは丸事件の談判のことに戻します。

慶応3年(1867年)4月25日、2回目の交渉の席についた坂本龍馬は、要領を得ない紀州藩汽船・明光丸船長の高柳楠之助に対し、急場の難を救うために1万両を要求します。

これを受けた高柳は、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい」と返答します。

ところが、これに対して龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない」と、強気に跳ね返したといいます。

万国公法に明るい龍馬は、よほど自信があったのでしょうか?


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坂本龍馬率いる海援隊の船・いろは丸と紀州藩汽船・明光丸が瀬戸内海で衝突したこの事故ですが、実は、海援隊側に重大なミスがあったという説があります。

西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。

この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵、つまり右折して回避するのがルールなんだそうです。

ところが、記録では、いろは丸は左折し、右折の明光丸と衝突しています。

あわてた明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

つまり、致命傷となった2回目の衝突は明光丸側に過失があるとしても、最初の操縦ミスはいろは丸側にあったというんですね。

もし、これが本当の話なら、いろは丸側の方が不利な立場だったんじゃないでしょうか?

龍馬はこれを知らなかったのか・・・。

神戸海軍操練所航海術を学び、さらに国際ルールにも明るい龍馬ですから、知らなかったとはとても思えない。

だとしたら、なかなかしたたかですね。


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交渉は翌26日も平行線をたどり、27日午後に交渉は決裂

談判の場は長崎に移されることになります。

このあと龍馬は、身の危険を感じたのか、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っています。

それほど殺気立った交渉だったのでしょうね。

龍馬も見たであろうこの景色。

とても景色を楽しむような気分ではなかったでしょう。


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観光客用の渡し船「平成いろは丸」です。

実際のいろは丸に比べるとぜんぜん小ぶりですが、まあ、町おこしの一環でしょうね。


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長崎での談判では、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が根負けし、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めます。

しかし、それでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけて海援隊側を威圧する策に出ました。

ところが龍馬も負けておらず、世論を味方につけます。


 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う♪」


こんな狂歌をつくり、長崎丸山の妓楼で歌わせたそうです。

この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まりました。

さらに龍馬は、追い打ちをかけるように交渉の席に土佐藩家老の後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者vs紀州藩の事件を、土佐藩vs紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としました。

藩同志の談判となれば、紀州側もこれまでのような脅しまがいの交渉は出来ません。

もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助(のちの五代友厚)に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやく事件に決着がつきます。

龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには、大藩相手に怯まない腹の据わったリーダーシップ

どれをとっても、一級品の外交手腕ですね。

現代の政治家さんにも見習ってほしいものです。


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くつろいでいるのは、わたしの高1の娘です(笑)。


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サザエさんも鞆の浦に来たようです(笑)。


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最後に、下の道路に降りて、さっきまでいた對潮楼を見上げます。

この日、鞆の浦での滞在は約3時間

まだまだ観光スポットはたくさんあったのですが、時間に限りがあったため、龍馬関連に絞って観光しました。

また機会があれば。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-26 00:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その4 「旧魚屋萬蔵宅(いろは丸事件第1回談判場)」

「いろは丸事件」坂本龍馬紀州藩鞆の浦での談判は、慶応3年(1867年)4月24日から26日にかけて3回行われましたが、その最初の談判の会場が、ここ旧魚屋萬蔵宅だったといいます。


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といっても、この建物は当時のものではありません。

旧町役人の家である魚屋萬蔵宅は、明治以後、何度も増改築が繰り返され、戦後には通りに面した部分に近代的な増築が施され、伝統的な外観を大きく損ねる建物になっていたそうです。

長く呉服店として使用されていたそうですが、平成13年(2001年)からは空き家になり、老朽化が進んでいたそうです。

その後、地元のNPO「鞆まちづくり工房」をはじめ、さまざまな協力を得て改修し、旅館「御舟宿いろは」として平成18年(2008年)にオープンしたそうです。

なんと、外観はあの宮﨑駿氏がデザインしたんだとか。

宮崎氏は、ここ鞆の浦の滞在中に映画『崖の上のポニョ』の構想を練ったそうで、そのときの縁で、ここの改修工事に関わったそうです。


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「いろは丸事件談判跡」と刻まれた石碑があります。


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中に入ると、1階は御食事処でした。

観光のつもりで入ったのですが、「いらっしゃいませ」と言われてしまい、ちょうど昼食がまだだったこともあり、やむなく食事をとることに(苦笑)。

でも、「鯛いろは漬け御膳」、メチャウマでした。


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修復作業の際の調査により、旧魚屋萬蔵宅は江戸時代後期に当たる18世紀後半に建てられたと推測されたそうです。

また、龍馬たちの談判の場は2階だとされていましたが、調査の結果、2階部分は明治以降に増築されたことが判明し、談判が行われたのは1階の8畳間であると断定されたそうです。

それが、この部屋。


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もちろん、改修されていますので当時のままの部屋ではありません。


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慶応3年(1867年)4月24日、この部屋で交渉の席についた龍馬は、明光丸船長・高柳楠之助に、「今回のような海難事故は例のないこと。万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい」と提案します。

万国公法はアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、龍馬は神戸海軍操練所時代に勝海舟らを通じてこれを学び、日本語への翻訳を計画するほどに内容を熟知していたといいます。


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しかし、この時代のほとんどの日本人は国際ルールなど知らず、そのため、万国公法をたてに取って談判に臨めば、自分の土俵で相撲をとれるいう目算があったのでしょう。

龍馬は、事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールとして、「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい」と要求しますが、高柳は首を縦にふりません。

「万国公法に基づき非は明光丸にある」と主張する龍馬と、「すべて藩命に従う」とする高柳。

交渉はまったく進まないまま、ここ旧魚屋萬蔵宅での第1回目の談判を終えます。


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談判時も、こんな中庭があったのでしょうか?


さて、次稿では、第2回、第3回の談判が行われた場所を訪ねます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-25 00:11 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その3 「桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ家)」

坂本龍馬鞆の浦に滞在した4日間、宿泊していたとされる桝屋清右衛門宅を訪れました。

屋根が片方だけ長い特徴的なつくりですが、これは、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけてる工法で、鞆では19世紀以降に流行した手法だそうです。

商家の見栄っ張りな気風がよく現れている建物だそうです。


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「坂本龍馬宿泊跡」と刻まれた石碑が。


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入口は2ヵ所ありますが、南側の入口から入ります。


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玄関を入るとすぐに、龍馬の写真パネルが迎えてくれます。


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こちらは説明板。


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順路を進むと、日本間に時代劇などでよく見る商家の衝立が。

ここに番頭さんがいたのでしょうか?


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横のふすまには坂本家の桔梗の家紋が入った袴下が飾られています。


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順路に沿って奥に進みます。


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物置のような箪笥部屋に、梯子が架かっています。


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当時は、屋根裏部屋に行くにはこの梯子しかなかったようで、板が閉じられていれば、上に部屋があることはわからなかったそうです。

まさに隠し部屋ですね。

あるいは命を狙われるかもしれない談判に臨む龍馬としては、このような場所に潜む必要があったわけです。


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いまは観光用に階段が設置されています。


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階段を上ると、海援隊のメンバーが集っていました(笑)。

左から3番目が龍馬です。


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そして更にこの細い階段を上ると・・・。


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ありました!

龍馬の隠れ部屋です。

広さは約8畳で、壁は当時のままだそうです。


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ホームページの解説によると、龍馬がここに宿泊した理由は、長崎の豪商・小曽根乾堂の末弟である小曾根英四郎が積荷の仕切り役としていろは丸に乗っており、その小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたと考えられているそうです。

ここ桝屋清右衛門宅に龍馬が泊ったという伝承がありましたが、長年その場所は確認されていなかったそうです。

そこで平成元年(1989年)、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、この隠れ部屋が発見されたそうです。

部屋は当時のまま手つかずで残されていたそうで、ほこりや傷みがひどく、一般に公開できる状態ではなかったそうですが、広島県などの補助金を利用し整備を進め、平成23年(2011年)から一般公開することになったそうです。


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龍馬がここに泊まったとしては、紀州藩との賠償交渉の経過が記された『備後鞆津応接筆記』のなかに残されているそうで、そこには、「才谷梅太郎」の偽名で宿泊していたと記されているそうです。


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机の上の手紙は、「才谷梅太郎」の名で京都の伏見寺田屋お登勢に宛てて書いた手紙(複製)で、その日付から、龍馬がこの鞆の浦で書いたものと思われるそうです。


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身の危険を感じながらも、龍馬はこの部屋で談判の策を練っていたんでしょうね。

次回はその談判の場を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-23 23:41 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その2 「いろは丸展示館」

前稿で紹介した常夜燈のすぐ側に、「いろは丸展示館」があります。

せっかくなので、入ってみることに。


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建物は坂本龍馬が訪れた当時からあったという「大蔵」と呼ばれる土蔵で、国の登録有形文化財だそうです。


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入口から中を覗くと、上野彦馬撮影の有名な龍馬の肖像写真が迎えてくれます。

実はこの写真、わたしの職場の部屋にも飾っていて、毎日見ています。

入口横に掲げられた紅白の旗は、海援隊の隊旗です。


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館内は写真撮影オッケーです。

入ってすぐに龍馬の像がお出迎え。


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1階の館内です。


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グッズ販売やパネル展示が所狭しと並べられています。


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いろは丸沈没した正確な場所は長年の間わかっていませんでしたが、平成元年(1989年)、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」によって発見され、その後、京都の水中考古学研究所によって平成2年(1990年)、平成18年(2006年)、平成22年(2010年)の4回に渡って潜水調査され、船体の鉄材、部品、装備品、日用品、石炭などが引き上げられました。

上の写真は、その潜水調査を再現したジオラマです。


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背面のパネルには、衝突地点沈没場所の地図があります。


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こちらでは衝突した経緯が解説されています。


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こちらの展示コーナーでは、引き上げられた物品が展示されています。


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革靴のかかとなんて、150年近くも海中にあって、よく残っていましたね。


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ここ鞆の浦で行われた紀州藩汽船・明光丸海援隊との談判において、龍馬は鉄砲400丁などの武器弾薬3万5,630両分、金塊など4万7,896両198文分が沈んだとして、合わせて8万3,526両198文損害賠償を要求します(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)。

その後の談判で、最終的に紀州藩は龍馬側に賠償金7万両を支払ったのですが、平成18年(2006年)に行われた潜水調査では、龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした。

龍馬もなかなかしたたかですね。


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展示館2階です。


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こちらは、龍馬が鞆の浦に滞在した4日間、隠れ家としていた回船問屋の桝屋清右衛門宅屋根裏部屋を忠実に再現したとのことですが、桝屋清右衛門宅の屋根裏部屋、現存してるんですよね。

再現する必要あるのかなぁ・・・と。


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龍馬の蝋人形は高知県の坂本龍馬記念館にもありましたが、こうして見ると、五木ひろしさんに似てません?

さて、次回は実際の桝屋清右衛門宅を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-22 23:52 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その1 「鞆の港」

平成29年(2017年)の今年は、坂本龍馬没後150年にあたる年ですが、同じ年の4月23日に起きた「いろは丸事件」からも、ちょうど150年になります。

そこで、かねてから行きたかったいろは丸事件の談判の地鞆の浦に、この夏、足を運びました。


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鞆の浦はJR福山駅から南へ14km、沼隈半島南端にある港町で、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、このあたりで潮の流れが変わることから、古来、潮待ち風待ちの港として栄えてきました。

現在では風光明媚な観光地として人気のスポットで、映画のロケ地や、あの宮崎駿氏のアニメ『崖の上のポニョ』の舞台にもなっています。


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慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗りこみ、土佐藩の帰属となった海援隊として初めての航海に出発しました。

しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突してしまいます。

いろは丸は160トン、明光丸は880トン軽自動車と大型トラックの衝突のようなものでした。


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いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしましたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれて機関室を破壊したといいます。

佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責しましたが、お互いにあわてて要領を得ない。

そうこうしているうちに、明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため、同夜のうちに明光丸をここ鞆の浦に入港させます。

そして、そこから4日間、この地で激しい談判が繰り広げられました。


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写真は鞆の港のシンボルといっていい常夜燈です。

安政6年(1859年)に作られたものだそうですから、龍馬がこの地を訪れたとき、すでにあったものです。


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常夜燈は船の出入りを誘導する燈台で、鞆の浦では「灯籠燈」と呼ばれて親しまれてきました。

燈の部分は5.5mですが、海中の基礎の上から宝珠までは11mあり、現存する江戸期の常夜燈のなかでは日本最大級の高さだそうです。


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こちらは、雁木と呼ばれる石段で、いわゆる船着き場ですね。

潮の満ち干きによる水面の上下に応じて階段状になっていて、停泊中の船からここに渡り板を架けて乗降していました。

時代劇なんかでは、よく見る港の風景ですよね。

この雁木は文化8年(1811年)に作られたといいますから、龍馬がこの地を訪れる半世紀以上前から存在するものです。

説明板によると、雁木、常夜燈ともに花崗岩製だそうです。


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というわけで、しばらく鞆の浦での龍馬の足跡をたどります。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-21 23:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第46話「悪女について」 ~松平信康自刃事件(後編)~

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 徳川家康の命令によって長子・徳川(松平)信康自害に追い込まれ、家康の正室・築山殿(ドラマでは瀬名)も家臣によって殺害されたという徳川家の最大の悲劇ですが、実際には、史料に乏しく詳しい内容はわかっていません。一般に知られる話としては、信康の妻・徳姫が、父である織田信長に宛てて信康が武田氏と内通しているといった内容が含まれる手紙を送り、これを受けた信長が、家康に信康と築山殿の処分を迫り、力関係から考えて信長に従わざるをえなかった家康は、苦渋の決断に及んだ、というもので、多くのドラマや小説が、この説をベースに描かれています。しかし、この説は江戸時代に入ってから書かれた『三河物語』のみにある話で、同著は、徳川家に都合よく書かれた部分が多々見られるため、史料として十分とはいえません。

また、信長が自身の息子である織田信忠より信康の方が優れていると見て、息子の代になって徳川と織田の力関係が逆転することを恐れて事前に芽を摘んだという説もありますが、これも、何の根拠もない推論にすぎませんし、本当に信康が有能な人材だったのなら、能力主義の信長であれば、むしろ婿として重宝したのではないかとわたしは思います。信長の一代記『信長公記』には事件の記述はなく、この事件に関しては、信長は不介入だったと見るほうが妥当かもしれません。


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 築山殿の殺害についても史料に乏しく詳らかではありませんが、ひとつの説としては、築山殿は今川一族の出であり、彼女の父は家康が今川氏を裏切って織田氏と結んだことで今川氏真切腹させられ、そのことで、築山殿は家康を憎んでいたとの見方があります。そのせいか、のちに今川の人質生活から岡崎に移ったあとも、岡崎城には入らず(あるいは入ることが許されず)、城外にある惣持尼寺の西側に屋敷を与えられ、そこで暮らしていました。その屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、「築山殿」と称されるようになったと言われます(ドラマでは、この呼称は使われなかったですね)。そんな立場ですから、当然、信長の娘である徳姫との関係も悪く、かつて武田氏の家臣だった浅原昌時日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせ、また、築山殿自身も、唐人医師の減敬とのゲス不倫があったとも、武田氏と内通していたともいわれます。


 しかし、これらもすべて確かな史料には見られず、後世に作られた話と思われます。築山殿が今川を裏切った家康を憎んでいたという話はあったかもしれませんが、そもそも彼女に武田氏と内通するほどの政治力があったとは考えづらく、これも、築山殿の殺害を正当化するために理由づけされたものと見るべきでしょう。別の説では、信康を殺せば築山殿は半狂乱になるだろうとし、信康に切腹を命じる前に彼女を殺したとの説もあります。しかし、それだけで正室を殺すというのも、理由としては薄い気がしますね。いずれにせよ、わかっているのは、信康の自刃の約半月前の天正7年(1579年)、遠江国の佐鳴湖の畔の小藪村にて、家康の家臣によって殺害されたということ。一説には、信康の助命嘆願のために浜松城に向かう途中だったとも。子を思う親心は、いまも昔も変わりません。


 信康の自刃に関しては、近年の研究では、家康との父子不仲説が主流となりつつあるようです。不仲説というと聞こえが悪いですが、この時期、織田氏と同盟関係にありながらも、徳川家内はまだまだ武田氏と結ぶべきとの意見も多く、その急先鋒が息子の信康だったとされ、そのせいで、家臣団も両派に分裂しつつあったとされます。家康は徳川家の分裂を避けるため、やむを得ず息子を殺す決断をした、と。一国を預かる武家の棟梁としては、肉親の命よりも、お家の結束が優先だったんですね。


 ドラマでは、虚実織り交ぜてきれいにまとめていたんじゃないでしょうか。家康も信康も瀬名も、それぞれが互いの立場を尊重しながら、なんとかこの苦境を乗り切ろうと必死で模索しますが、上手く連携できず、結局は徳川家にとって最悪の着地点となりました。何もかもが終わったあと、万千代に碁石を投げつけて嘆くシーンが切なかったですね。ちなみに、落ち込む万千代に対して井伊直虎が、「そなたが信康様の代わり身となればよいではないか」と言っていましたが、このとき万千代は19歳。死んだ信康は21歳で、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があったかもしれません。事実、これより間もなく井伊直政異例の出世街道がはじまります。あるいは、家康は直政のなかに信康の面影を見ていたのかもしれません。


 後年、家康は関ヶ原の戦いにおいて、大遅参した三男・徳川秀忠の器量のなさを嘆き、「信康が生きていてくれれば・・・」ため息をついたという有名な話がありますが、奇しくも、その日は9月15日、信康の21回目の命日でした。きっと、家康は戦い前から信康のことを思い出していて、だから、そんな言葉を吐いたのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-20 15:24 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4

坂本龍馬暗殺の黒幕説として、ここまで松平容保説と薩摩藩説、紀州藩士報復説を考えましたが、もうひとつの有力な説として、土佐藩説があります。

実は、最近のわたしは、この説にいちばん信憑性を感じています。


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一般的に言われる土佐藩黒幕説は、具体的な人物名でいえば参政の後藤象二郎ですね。

かつては龍馬の盟友・武市半平太率いる土佐勤王党弾圧した後藤でしたが、慶応2年(1866年)に長崎に出張して以来、龍馬と深く関わるようになり、次第に龍馬に感化されていきます。

そして慶応3年(1867年)、龍馬の発案とされる船中八策に基づいて大政奉還を土佐の藩論とし、将軍・徳川慶喜に上申して実現に至るのですが、この働きが藩主の父・山内容堂から高く評価され、大きく栄進します。

しかし、後藤はこれが龍馬の発案だとは明かしませんでした。

この一連の発案が龍馬であることを隠すために龍馬を亡き者にした・・・というのがこの説の推論ですが、であれば、そのことを知るすべての人物を殺さねばならず、動機としては無理があります。

それに、後藤象二郎という人物像の他のエピソードなどから見ても、そこまで器の小さな人物だったとも思えません。

龍馬の名を容堂に明かさなかったのも、明かす必要がなかったからではないでしょうか。

いくら坂本龍馬という名が天下に轟いていたとしても、土佐に帰れば下級藩士

藩主の耳に入れるべき人物ではなかったでしょうし、後藤にしてみれば、特にそれが普通の感覚だったんじゃないかと思います。

後藤自身としても、龍馬の能力は認めつつも、所詮は郷士といった見下した感情があったでしょうし、むしろ、自分が龍馬を使っているといった気分だったんじゃないでしょうか。

龍馬の手柄を横取りしたなんて意識は毛頭なかったと思います。


じゃあ、他にどのような動機があったか・・・。

この点で、ある方のブログを読んで目からウロコが落ちました(参照:しばやんの日々「坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2」)。


前稿でも紹介しましたが、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた「いろは丸事件」で、龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

なんか匂いませんか?

本来であれば、そのうちの約半分の船の損害金は、船のオーナーである大洲藩に支払われるべきでしたが、実際に支払われた形跡がないそうです。

その後、その7万両がどうなったのか・・・。

ここで登場するのが、のちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。


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龍馬の死によって求心力を失った海援隊は解散を余儀なくされ、その事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、やがては岩崎の立ち上げた九十九商会に繋がっていきますが、のちに岩崎は、明治政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤からのインサイダー情報によって、10万両で藩札を安く買い漁ってボロ儲けします。

この資金の出どころが、いろは丸事件の賠償金だったんじゃないかと・・・。

岩崎は龍馬が暗殺された数ヶ月前、龍馬が長崎から上京していく船を見送った日の日記に、「余、不覚にも数更の涙を流す」と記しているそうです。

それほどの関係にありながら、岩崎は、龍馬が暗殺される少し前の10月28日から龍馬が殺されたあとの11月22日まで大阪に滞在していますが、その間、龍馬をまったく訪ねていません。

これは少し不自然な気がしますよね。

まるで何かを知っていたかのような・・・。


実際に後藤と岩崎が龍馬を亡き者にするために見廻組に指示したというのは考えづらいとしても、龍馬の居場所をリークした、ということは考えられなくもない気がします。

龍馬が近江屋に潜伏していた事実を知っていたのは、土佐藩士の一部だけだったといい、当然そのなかには、後藤が含まれています(もっとも、龍馬自身が不用心に出歩いていたため、近江屋潜伏の事実は知れ渡っていたとも言われますが)。

後藤は経済面においては公私混同も甚だしかったといい、岩崎も、かつて土佐藩の公金100両を使い込んで役職を罷免された前科があります。

ふたりとも、金に目がくらんでもおかしくない男だとは、ちょっと言い過ぎでしょうか。

でも、暗殺の動機としては、政治的なものや思想的なものより、よほど現実味があるように思うのですが・・・。


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土佐藩黒幕説には、他にも谷干城説があります。

谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物で、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、新選組の仕業と決めつけ、局長・近藤勇斬首に処したのも谷でした。

見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけで、のちに見廻組今井信郎が暗殺を自供したときも、売名行為だとしてこれを認めようとしませんでした。

谷は龍馬の暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われていますが、どうも、不自然な気がしないでもないです。

現在伝わる龍馬と慎太郎襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

谷たちが作った話なんじゃないかと・・・。


いずれにせよ、龍馬が潜伏していた近江屋は、土佐藩邸の目と鼻の先にあり、であれば、なぜ土佐藩邸に寝泊まりしなかったのかという疑問は拭いきれません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・というのは物語などに見る龍馬像ですが、実際には、そんなカッコイイ理由ではなく、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないでしょうか。

残念ながら、この時期の龍馬には、安全な場所などどこにもなかったような気がします。


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他にも、紀州藩説新選組説御陵衛士説や、なかには中岡慎太郎との心中説まで、様々な推論、邪論がありますが、結局はどれも決定的な論証はなく、推論の域をでません。

通常、推理小説などで犯人探しをする場合、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」といった着眼点で絞り込みますが、龍馬の場合、その条件に当てはまる人物がたくさんいるんですよね。

それが、これだけ多くの説を生むことになったと言えます。

後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬ですが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようです。


龍馬の語録にこんな言葉があります。


「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」


大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味ですね。

本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわりませんが、国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉だったのでしょう。

龍馬の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、この時期の龍馬は、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていたといえます。

その意味では、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれません。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-19 00:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)