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西郷どん 第3話「子どもは国の宝」~島津斉彬の藩主就任が送れた理由~

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 その卓越した見識により、幕末きっての開明派大名として後世に名高い島津斉彬は、16歳のときに薩摩の世子(嫡子)として徳川第11代将軍・家斉への謁見もすませており、やがてその賢名は天下に聞こえ、まだ部屋済みに身でありながら主席老中の阿部伊勢守正弘を始め賢侯と呼ばれる他藩の藩主とも親交を持ち、それらの人たちから尊敬されていたほどの人物でしたが、40歳を過ぎてもまだ藩主には就いていませんでした。その理由は、父の島津斉興が藩主の座に固執してなかなか隠居しなかったからですが、なぜ斉興が藩主の座を譲ろうとしなかったかというと、一言でいえば、斉興はわが子ながら斉彬が嫌いだったからでした。もちろん理由があります。

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 斉興が藩主に就いたとき、薩摩藩の財政どん底でした。その原因はひとつではありませんが、最も大きな原因は、斉興の祖父で薩摩藩8代藩主の島津重豪にあったといいます。重豪はすこぶる面白い人物で、早くから洋学に関心を持ち、領内に西洋風の博物館や植物園・天文館・医学校などをつくらせ、自らも洋学者に学び、ときに蘭語(オランダ語)を話すような人だったといいます。そのため、藩費を湯水の如く浪費し、その結果、ただでさえ苦しかった藩の財政は底をつきます。当然、その影響は領民に直接降りかかりました。農民は年貢の取り立ての厳しさに耐えかねて他国へ逃散するものが相次ぎ、家臣らは藩に俸禄を借り上げられ、刀剣を売って生活の足しにする始末。この頃の薩摩藩の負債は500万両だったといいますから、現在の貨幣価値にすれば1兆円を越える額にあたります。

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 この財政立て直しのため、重豪は調所笑左衛門広郷を登用します。調所は元は茶坊主出身で、その才覚を見込まれて町奉行等要職を経て、重豪つきの側用人兼続料がかりの職に就いていました。側用人は現在の官房長官、続料がかりは財務官の職務です。役目を引き受けた調所は、かなり強引な手法によって財政再建を進めます。具体的には、節倹策や国産品の専売制および新田開発、税法の見直しなどを実施する一方、借金を500万両に固定して金利を放棄させ、それを250年かけて返済するというむちゃくちゃな手法で乗り切ります。つまり、毎年2万両ずつしか払わないというのですから、事実上、借金の踏み倒しですね。調所に財政立て直しを命じた重豪は、その途上でこの世を去りますが、その後も重豪は斉興の下で改革を継続し、立て直しにかかってから15、6年ほど経つと、財政再建はすっかり成ったばかりか、150万両の蓄えまで出来たほどだったといいます。

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 こうして財政難を乗り切った薩摩藩でしたが、重豪は生前、曾孫の斉彬をたいそう可愛がり、斉彬もまた、曽祖父の重豪を慕い、感化を受けて育ったため、金のかかる洋学好きの人物に育っていました。斉興にしてみれば、西洋好きの斉彬を藩主に就かせると、また、重豪の時代の二の舞いになりかねないという懸念があります。その不安は、調所やその他、重臣たちの多くも同じでした。もう二度とあんな苦しみを味わいたくない・・・。血の滲むような思いをして立て直した財政を、斉彬にめちゃめちゃにされたくない。そう思って当然だったでしょう。斉興は藩のためにも、わが子・斉彬を徹底的に嫌いぬきました。そして、いつしか側室のお由羅が産んだ子・久光に時期藩主に、という思いがめばえ始めます。そうなると、必然的に藩内が斉彬派と久光派に分裂し始めます。

 嘉永元年(1848年)12月、調所は江戸に出仕した際、幕府主席老中の阿部正弘から呼び出され、糾問されます。その内容は、薩摩藩あげての密貿易の疑いと、琉球に派遣していた警備兵の数が幕府に報告していた数より少なかったという件でした。調所は、すべては自身の独断で行ったことで、藩公認のものではないと主張してその場をしのぎますが、その後、江戸上屋敷芝藩邸にて急死します。公式には「病死」として届けられましたが、藩主・斉興の立場を守るため、事件をうやむやに葬ろうとしての自決(服毒自殺)だったといわれています。享年73。ドラマでは、斉彬が阿部に密貿易の件をリークしていましたが、証拠は残っていないものの、おそらく、斉彬が阿部と通じて自身の藩主就任の障害である調所を追い落としたとみて間違いないのではないでしょうか。斉彬も、40歳を超えて相当に焦っていたのかもしれません。

 調所の死をきっかけに、薩摩藩内の斉彬派斉興・久光派の対立が激化。やがて、西郷吉之助(隆盛)大久保正助(利通)らにも少なからず影響を及ぼす「お由羅騒動」へと発展していきます。その話は、また次週にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-22 18:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その185 「赤松円心公墓所(常厳寺)」 兵庫県三木市

三木市にある常厳寺に赤松則村(円心)の墓があると知り、訪れました。


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でも、一般に知られている円心の墓所は京都の建仁寺にあり、供養塔はが兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺にあります。

それが、なぜ三木市にあるのか・・・まあ、墓所が複数あるという話はよくあることなので、とりあえず訪れてみることに。


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門前の「温故知新」の石碑の背面には、たしかに「開基・赤松円心公墓所」と刻まれています。


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しかし、探せど探せど、境内にそれらしき墓石が見当たりません。

そこでスマホでググってみると、どうやら境内内ではなく、近くの墓苑にあるようです。

早速周辺を逍遥。


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墓苑は常厳寺境内を出て少し北に行ったところにありました。

そこに、白塀で囲われた特別な場所といった空間が見えます。


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円心の墓、見つかりました。

でもちょっと、綺麗すぎるんじゃない?

ネットで見たときは、ほとんど崩れかけの古い墓だったような・・・。


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よく見ると、「維持平成廿八年二月建立」とあります。

なんだ、去年建て直されたんじゃないか!


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背後に並べられた古い石碑と、周囲を囲む白塀の下の石垣は、当時のものなんでしょうね。

崩れかけていたから建て直したのでしょうが、もうちょっと、元の墓石を修理するだけとか、なんか方法はなかったのでしょうか?

これじゃあ、歴史的価値は皆無で、もはや史跡ではありません。

わたしの親父の墓のほうが歴史があるという・・・(苦笑)。


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円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1351年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。


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なぜこの地に円心の墓があるかというと、円心が入道となって上郡に法雲寺を建立したとき、東播磨の三木にも守護仏を祀る寺を建てて聖観音を安置したそうで、それが君峯山常厳寺の縁起だそうで、その縁でこの地に埋葬されたのだとか。

京都で死んだ円心の亡骸が三木に埋葬されたとは考えづらいのですが、あるいは、分骨されて一部が埋葬されたのかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-20 22:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その184 「平野城(御影村城)跡・中勝寺」 神戸市東灘区

神戸市東灘区の山の手に、かつて平野城(御影村城)があったと伝わります。

詳細な場所はわかっていませんが、御影の古い地図には、大手筋、大蔵、城之前といった地名があったそうで、城が存在したことは間違いないでしょう。


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阪急御影駅の北側に、その石碑があります。


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推定では、阪急電鉄御影駅の北側にある御影北小学校あたりを中心に、東は深田池、浅田池、北は御影山、西は石屋川の谷によって区切られた高台になっている場所に、平野城があったとされます。


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上の写真は御影駅北にある深田池公園

この池が、平野城の堀の名残だと伝わるそうですが、真偽はわかりません。


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公園内にある説明板です。


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ここを訪れのは桜の季節で、人で賑わっていました。


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続いて訪れたのは、御影北小学校。

写真右が小学校で、左が阪急電鉄です。

遺構らしきものは見当たりませんが、なんとなく、城を思わせる地形です。


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小学校裏の墓地から南を見下ろした眺望です。


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小学校から阪急電車の線路を挟んで南にある、「上ノ山公園」です。


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こちらにも、平野城に関する説明板が。


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平野城の築城時期はわかっていませんが、南北朝時代の初期には赤松則村(円心)が支配し、家臣の平野忠勝に城を守らせていたと伝わります。

円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。

その後、平野城を任されていた平野忠勝は、円心の遺志を継いで尊氏に付き従い、「打出浜の戦い」に敗れて帰農したと伝わります。

忠勝は隣の郡家村に家を建てて農民の指導者になり、その子孫もずっと郡家に住んだといいます。


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そんな忠勝を弔うためにつくられた中勝寺は、今も御影町にあります。


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中勝寺略縁起です。


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忠勝の墓碑です。


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説明板です。


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平野家と御影のまちはずっと関わっていきますが、平野城は歴史の記録から消え、いつなくなったかは定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-19 22:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その183 「高師直塚」 兵庫県伊丹市

西宮市から国道171号線を北東に進んで伊丹市に入ったあたりに、「師直冢」と刻まれた石碑があります。

師直とは言うまでもなく、足利尊氏の執事・高師直のことです。

「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」に破れた尊氏軍は、逃げ込んだ松岡城にて足利直義和議を結びますが、その条件として、師直を出家させるということになり、師直らが京都に護送される途上、養父を師直に殺された上杉能賢に襲われて殺害されます。


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『太平記』巻29「師直以下被誅事付仁義血気勇者事」によると、師直が殺されたのは「その181」で紹介した鷲林寺付近とされていますが、実際には、正確な位置はわかっていないようです。

この石碑は、鷲林寺からは随分離れているのですが、このあたりで殺害されたということでしょうか?


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伊丹市のHPによると、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれているそうです。

大正4年(1915年)になって村の人々が石碑を建てたそうですが、その後、場所が転々とかわって現在地に移ったそうです。


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国道171号線は、旧西国街道にあたります。

京への帰路で襲われたとありますから、山奥にある鷲林寺前よりも、街道沿いのこの辺りだったと考えるほうが、無理がないかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その182 「松岡城跡(勝福寺)」 神戸市須磨区

正平6年/観応2年(1351年)年2月17日に起きた「打出浜の戦い」に破れた足利尊氏軍は、西へ敗走して松岡城へ逃げ込みます。

その松岡城は、神戸市須磨区にある勝福寺付近だったといわれています。


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この辺りの住所は大手町といいますから、日本のあちこちにある大手という地名のほとんどがそうであるように、かつて城の正面にあたる場所だった名残だと考えられます。


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『太平記』巻29「松岡城周章事」によると、

「小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。」


とあります。

「小清水」とは、たぶん「越水」のことで、越水に陣を布いた足利直義軍のことでしょう。

「四方四町」というのがどのくらいの面積なのかわかりませんが、文面から見て、たいして大きな城ではなかったようですね。

『太平記』には、この時残った軍勢が「かれこれ五百騎に過ぎ候はじ」とありますから、城が狭くてほとんどの兵が閉め出されたということでしょうか。


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勝福寺の裏山に少しだけ登ってみましたが、登山道が整備されていて、遺構といえるかどうかはわかりませんでした。


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その裏山からの眺望です。

この日は天気が良くなかったので霞んでいますが、晴れていればが望めます。


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もはやこれまでと悟った尊氏は、ここ松岡城での切腹を決意したと伝わります。

その夜、別れの酒宴を開いていたところ、逃げたと思っていた尊氏の家臣・饗庭命鶴が駆け付け、直義との和議が成立したことを伝えました。

間一髪で切腹を取り止めた尊氏は、2月25日に松岡城を出発、山陽道を京へと引き返すのですが、その帰路、「その181」で紹介した鷲林寺の前で高師直が殺され、また、その翌年には足利直義が尊氏に殺害(異説あり)されたことで、「観応の擾乱」は一応の決着をみます。


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勝福寺の石段の上り口の左手に証楽上人の墓所があるのですが、このあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいるそうで、切腹しようとした尊氏に由来していると考えられています。


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ところでこの松岡城、もうひとつの説として、打出浜の戦いの舞台から見て東にあたる鳴尾方面にあったという説もあります。

寛政年間(18世紀末)に刊行されてベストセラーとなった江戸時代の観光ガイドブック『摂津名所図会』によると、

松岡古城 小松鳴尾の山手にあり、観応二年将軍尊氏公、轟師直と共に退きて、ここに拠れり。


と記されています(参照:摂津名所図会)。

下の写真は西宮市の廣田神社にある江戸中期の案内板


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右下のあたりに「松岡古城」と書かれているのがわかるでしょうか?


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この地図は、『摂津名所図会』を元に作られたものだそうです。

現在では、先述した須磨区の勝福寺付近が通説とされていますが、だとしたら、『摂津名所図会』が刊行された当時、このあたりに城跡とみられる何らかの史跡が存在したのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-17 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第2話「立派なお侍」 ~郡方書役としての西郷吉之助~

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 弘化元年(1844年)、西郷吉之助(隆盛)は数えの18歳で郡方書役助に任じられ、藩の役人の末席に名を連ねます。この役職は、農政を担当する郡奉行の配下で、役人としては最下級でした。そのお役目の具体的な内容は、藩内のあちこちを常に巡回して、道路などの普請の必要性を調べたり、農家のの出来具合を管理し、年貢徴収の監督にあたるというものでした。西郷はこのポスト(やがて書役に昇進)を約10年間務めることとなり、そのため困窮している農民の実態を熟知し、農政に精通するようになります。西郷の官吏としての実務能力は優れていたようで、そのことは、これより十数年後の安政3年(1856年)に島津斉彬に直接提出したとされる農政に関する上書からも窺えます。

 また、西郷はこの職務を長く務めたことで、農民に対する深い愛情の心を持つようになったといわれます。もちろん、西郷もこの時代の武士階級一般と同じく、「愚民観」の持ち主でしたが、だからこそ、支配階級である武士として農民を助けなければならないという信念を持っていたようです。ドラマでは、借金のかたに売られそうになっていた少女を助けるために力を尽くしていましたが、似たようなエピソードが伝えられています。


 若き日の西郷が年貢の徴収作業にあたっていたとき、年貢を払えずに農耕馬を泣く泣く手放そうとしていた農夫が、夜中に愛馬と別れを惜しんでいる姿をたまたま目撃します。翌日、西郷は役所に掛け合って年貢の徴収を延期してもらったといいます。このエピソードは西郷伝には欠かせない話で、西郷の農民に対する深い愛情と、弱い者や貧しく不幸な人に対する生来の情の厚さが窺えます。


 ドラマには出てきていませんが、西郷がこの職に就いた当初の上司(郡奉行)は、名奉行として知られた迫田太次右衛門利済という人物でした。迫田は見識が高く気骨がある人物だったといい、農民への同情心に厚く、困窮した農民の生活を守るため、年貢の減額の嘆願書を藩に提出し、それが聞き入れられないと、激しく義憤して奉行を辞職してしまいました。迫田の辞職は西郷が書役助に就いて間もないころのことで、その後の西郷の人格形成に、大きな影響を与えたといわれます。

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 西郷が郡方書役助の役職に就いた2年後の弘化3年(1846年)、西郷より3つ年下の大久保正助(利通)は、記録所書役助に任じられます。書役の主な職務は、古い文書を管理し、藩内の様々な記録を整理するというお役目。いわば事務官ですね。沈着冷静な実務家の大久保には、うってつけのお役目だったといえるでしょうか。それにしても、西郷と大久保、この2人の役人としての出発点の対比は、実におもしろいですね。西郷は農村を歩き回って実態を調べる外回りの役目で、大久保は役所に詰める事務職。まるで、将来の2人の関係を暗示しているかのようです。庶民の声望高き革命家・西郷隆盛と、官僚を統率する政治家・大久保利通の原点は、ここにあったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-16 16:41 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その181 「鷲林寺」 西宮市

西宮市にある鷲林寺を訪れました。

ここは、正平6年/観応2年(1351年)2月17日に起きた「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」において、足利直義が陣を布いたとされる場所です。


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「光明寺合戦」で勝負を決することができなかった足利尊氏軍は、軍勢を兵庫に移し、摂津の赤松範資と合流して大軍を形成します。


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同年2月17日、ここ鷲林寺や越水に陣を布く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を現在の神戸市東灘区の御影の浜に進めますが、あまりにも兵の数が多すぎて逆に統制がとれず、敗北を喫します。


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総崩れとなった尊氏は松岡城へ逃げ込み、そこで高師直を出家させるという条件で直義と和睦するのですが、師直らが京都に護送される途中、ここ鷲林寺前で養父を師直に殺された上杉能賢に襲われ、師直以下一族の多くが殺害されました。


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多宝塔です。


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ここを訪れたのは3月で、写真は裸木が目立ちますが、春は、秋には紅葉が綺麗なところです。


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敷地内にある石塔群です。

説明看板によると、これらの塔が作られたのは13世紀後半から14世紀初めと考えられているそうです。

あるいは、「打出浜の戦い」に関係してるかも・・・。


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七重塔に「信玄公墓」と書かれた木札が置かれていますが、そんな伝承があるそうです。

ただ、時代的に合わないようで、あくまで伝承の域をでません。


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この時代、大寺と城はセットだった場合が多く、かつてここにも鷲林寺(十林寺)城があったという説もあります。

そこで、寺の裏山を登ってみました。


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城跡らしき遺構は確認できませんが、登山道は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、城の名残といえなくもない気がしましした。


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かなり急勾配な登山道で、しかも大きな岩が多いため、結構キツイ登山でした。


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15分ほど登ったところにある岩場からの眺望です。

北は宝塚方面から川西池田まで、東は広大な大阪平野、南は西宮から大阪湾を望む大パノラマです。


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正面に見下ろすのは、標高309.2mの甲山です。


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このロケーションですから、として利用しないはずがありません。


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かつて鷲林寺は寺領70町歩・塔頭76坊を誇る大寺院だったそうですが、見てのとおり、陣を布くのに絶好の場所にあったため、その後も幾度となく戦火に巻き込まれ、最後は、天正7年(1579年)の荒木村重討伐の織田軍により、鷲林寺は兵火にかかり、衰退していったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-14 08:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その180 「山下城跡」 加西市

兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは、赤松則祐の幕下にあった浦上七郎兵衛行景の居城と伝わります。


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写真は南西から見た山下城跡です。

山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。


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正平6年/観応2年(1351年)年2月4日、足利尊氏足利直義方の石塔頼房が激突した「光明寺合戦」が起きると、浦上七郎兵衛行景も赤松則祐に従って尊氏方に与し、活躍したと伝えられます。


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この城自体が戦下に晒されたかどうかは、定かではありません。


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二ノ丸跡です。


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そして本丸跡です。


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本丸跡には、詳細な想定縄張り図が設置されています。


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本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます(参照:三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~)。


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城跡東側にある常行院には、案内板が設置されています。


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常行院は、かつてあった田富山田福寺の塔頭のひとつで、案内板の横には田福寺の由来記があります。

それによると、(西暦1320年頃)とありますから元号に直すと元応2年頃、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)御代、当地の武士浦上太郎左衛門が寺を焼き払って城郭を構えたとあります。

つまり、ここも城郭の一部だったってことですね。


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時代は下って織豊時代、織田方の羽柴秀吉軍と三木城主の別所長治の間で行われた三木合戦に際して、当時の山下城主だった浦上久松が、三木城籠城戦に加わって戦死したと伝わります。

このときのことは、「三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-12 21:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その179 「光明寺城(滝野城)跡」 加東市

兵庫県加東市にある光明寺にやってきました。

この裏山にかつて光明寺城(別名:滝野城)があり、「観応の擾乱」における「光明寺合戦」の舞台になりました。


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足利直義によって派遣された石塔頼房が、中国筋平定のため書写山にいた足利尊氏を討つべく、ここ光明寺に陣を布いて京にいた直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は援軍の来る前にうち破ろうと、1万の兵で光明寺を囲みます。

正平6年/観応2年(1350年)年2月4日のことでした。


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尊氏は引尾山高師直鳴尾山赤松則祐八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦いますが、10日間に及ぶ戦闘にも決着がつかず、やがて援軍が迫ると、尊氏は光明寺の包囲を解いて摂津へと軍勢を移し、そして、「その66」で紹介した打出浜の戦いにつながります。


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標高230m、比高150mの場所に本堂がある光明寺ですが、かなり上まで車で登っていけますので、訪れるにそう難しくはありません。


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駐車場から見た東の眺望です。


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南は遥かに東播磨平野が広がります。


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入口には五峰山光明寺と刻まれた石碑があります。


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光明寺は推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられ、文明年間(1469年~1487年)頃には25の塔頭寺院が山頂に建つ並ぶ壮大な寺院だったそうですが、現在ではわずかに4つの院坊が残るのみとなっています。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日でしたが、紅葉の季節に来れば、きっとメチャメチャ綺麗だと思います。


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仁王門です。


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ここもの木だらけです。


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本堂です。


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本堂脇を抜けて裏山に入ると、すぐに「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた石碑があります。

ここが、石塔頼房が5000余りの兵で陣を布いた場所と推定されているそうです。


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本陣跡には、観光客用に足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ、本陣っぽく演出されていたようですが、随分以前のものらしく、ほとんど朽ち果てています。


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あるいは、大河ドラマ『太平記』のときに作られたものかもしれませんね。

だとしたら、25年前のことです。

そろそろ作りなおしてはどうでしょう?


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本陣跡の説明板です。


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本陣跡の近くには、『太平記』に記された「山鳩の悪夢」「高家無文の白旗」といった逸話を紹介した案内板がありました。


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本堂から少し下ったところに、物見台があります。

そこからの眺望です。


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ズームすると、遥か南に神戸市西区の雌岡山(めっこうさん)と雄岡山(おっこうさん)が見えます。


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参道脇には、滝野城主・阿閇重氏の墓があります。


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阿閇重氏という人物のことはよく知らないのですが、墓石には、「大永六丙戌年歿」と刻まれていますので、西暦1526年、現在より490年前に没した人物のようです。

その後、光明寺は現在まで続きますが、光明寺城(滝野城)がいつまで存在していたのかは、定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-11 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その178 「石龕寺」 兵庫県丹波市

兵庫県丹波市にある石龕寺までやってきました。

難しい漢字ですが、石龕寺(せきがんじ)と読みます。

ここは、「観応の擾乱」にて敗れた足利尊氏とその嫡子・足利義詮が、一時この地に身を寄せたと伝わる寺です。


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「観応の擾乱」とは、南朝、北朝の争いが続くなかで起きた、足利氏内部での内紛のことをいいます。

征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていました。

しかし、尊氏の弟・足利直義は、こうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざします。

こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまうんですね。

これが正平5年/観応元年(1350年)からの「観応の擾乱」です。


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まず、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまいます。

それを知った尊氏は、年が明けた正平6年/観応2年(1350年)年1月、京へ引き返して直義と戦うも負けてしまい、兵庫へ落ちのびます。

その際、一時身を潜めていたのが、ここ石龕寺だったと伝わります。


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『太平記』巻29「将軍親子御退失事付井原石窟事」によれば、尊氏は嫡子の義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めたといいます。

このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上したそうで、それを受けた義詮は、そのひとつに爪痕を付け、「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)という歌を添え、栗を植え立ち去りました。

その後、首尾よくそのとおりとなったため、「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられるそうです。


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仁王門の金剛力士像(仁王像)は仁治3年(1242年)に作られたもので、国の重要文化財に指定されています。

ということは、尊氏、義詮も同じものを目にしたんですね。


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携帯電話も圏外になるほど人里離れた山奥にある石龕寺は、その名称のどおり、城郭のごとく各所に石垣が積まれています。


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本堂です。

方三間、宝形造り、銅板葺、唐破風向拝付です。


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本堂前にある巨木「コウヨウザン」です。

推定樹齢300年だそうですから、さすがに、『太平記』の時代は知りません。


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とにかく石垣が見事です。


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本堂横には、奥の院に向かう参道入口があります。

ここから奥の院まで約30分の登山です。


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登山口を登るとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて進むと、道はいきなりハードになります。


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道中、明らかに石垣跡と思われる遺構が所々に点在していました。


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ここも、この時代の他の大寺院がそうであるように、寺と城が一体となって要塞化した武装寺院だったのでしょうか?


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急斜面を約30分登ると、建物が見えてきました。


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どうやら鐘楼のようです。


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奥の院鐘楼からの眺望です。


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石灯籠群の道を更に奥に進みます。


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奥の院拝殿です。


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さらに奥に進むと、休憩小屋が建てられた平坦地に、「足利将軍屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

どうやら、尊氏、義詮がしばらく逗留していたというのは、この場所のようです。


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でも、すいぶん狭小な敷地で、どう考えても、ここに2000の兵を留め置いたとは思えません。

たぶん、ここには将軍と側近の仁木兄弟と、身の回りの世話をする小姓が少数いたのみで、あとは、ここに登ってくる途中にあった石垣跡などにあったと思われる曲輪などにいたんでしょうね。


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ここ石龕寺は紅葉が美しいことで有名で、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-10 23:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)