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麒麟がくる 第18話「越前へ」 ~明智光秀の越前亡命と織田信勝殺害~

麒麟がくる 第18話「越前へ」 ~明智光秀の越前亡命と織田信勝殺害~_e0158128_19245426.jpg 美濃を逃れた明智光秀とその家族は、隣国の越前に亡命しました。今回から越前編の始まりのようです。光秀が一時、越前に住んでいたという説は、二つほどある史料から確かなようです。ただ、その時期については、詳しくはわかっていません。江戸時代中期に書かれた『明智軍記』によると、明智城を脱出した光秀は、越前の穴馬というところを通って諸国を武者修行したのち、また越前に帰ってきたとあります。しかし、そこに書かれている諸国の情報や日程などがデタラメだらけで、まったく信用できません。光秀の諸国遍歴というのは、たぶん、後世の創作でしょう。美濃と越前は隣国で、過去にも、美濃守護の土岐頼芸土岐頼純、土岐頼武らが、政争に敗れると越前に亡命して朝倉氏を頼り、力を盛り返して美濃に戻るということを繰り返していました。越前は美濃からの亡命先の定番だったようですね。その意味では、光秀が越前に向かったのも必然だったのかもしれません。


 ドラマでは、帰蝶が諸国の大名に顔が利く伊呂波太に光秀を助けるよう依頼し、その手引きで越前に亡命したというシナリオでしたね。でも、だったら、尾張に亡命させてやったらいいのに・・・と思ったのはわたしだけでしょうか?(笑) ドラマの設定では織田信長とも何度も面識があるし、信長は光秀をけっこう気に入っているようだったし・・・。誰も知り合いのいない越前に行くより、領主にも顔が利く尾張に行く方が手っ取り早くて安全なんじゃないでしょうか?(笑)


 実際には、信長と光秀に接点ができるのはまだまだずっと先のこと。この頃はまだ、信長は光秀の存在すら知らなかったでしょう。ドラマですから、創作はあっていいとは思いますが、上手くやらないと、こういう矛盾が生じちゃうんですよね。


 その尾張では、織田信長とその同母弟の織田信勝対立が表面化していました。破天荒な信長に対して優等生だったといわれる信勝。父・織田信秀葬儀のとき、兄の信長が異装のまま現れて抹香を仏前に向かって投げつけるという奇行を見せたのに対し、弟の信勝は、折り目正しいいでたちで礼儀に則った振舞いをしたという逸話は有名です。そんな優秀な若者だったためか、母の土田御前は信長より信勝に大きな期待を寄せたといい、また、母だけではなく、古参の家老たちも、信長に代わって信勝を家督に据えようとする動きが見え始めます。お隣の美濃もそうでしたが、この時代、兄弟といえども敵でした。


 信長と信勝が最初に衝突したのは弘治2年(1556年)8月、信勝が信長の直轄地の篠木三郷を押領したことに始まり、稲生の原で開戦します。このとき、信長軍700に対し、信勝軍は1700だったといいます。この数字だけを見ても、信勝がいかに家臣から期待されていたかがうかがえます。ところが、兵数では劣っていたものの、信長軍の勢いはすさまじく、結果は信長軍の勝利。『信長公記』によると、信長は自ら前線に立ち、大声で指揮したといいます。


麒麟がくる 第18話「越前へ」 ~明智光秀の越前亡命と織田信勝殺害~_e0158128_21004698.jpg 稲生の戦いに勝った信長でしたが、その戦後処理は非常に寛大で、母の土田御前の必死の懇願もあって、信勝を罰しませんでした。そればかりではなく、信勝の家老で信勝軍を指揮した柴田勝家に対しても、信長の筆頭家老でありながら信長に反抗した林秀貞に対しても、何のペナルティも与えませんでした。信長といえば、自身に背いた者には容赦しない独裁者のイメージがありますが、若いころの信長は、このように驚くほど寛大な一面があります。おそらく、勝家や秀貞に関しては、今後の利用価値と周囲の情勢から見た政治判断で赦免したのでしょう。ただ、信勝に関しては、本当は処罰したかったけど、母の面子を立てたに過ぎなかったでしょうね。


 ところが、その2年後の永禄元年(1558年)、信勝は再び信長に反旗を翻して篠木三郷を押領しました。しかし、このときは柴田勝家が信勝を裏切って信長に密告。これがドラマのシーンです。『信長公記』によると、信勝が若い家老の津々木蔵人を重用したため、勝家から恨みを買ったとありますが、2年前の信長の寛大な処置が功を奏したのかもしれません。あるいは、これを見越して勝家を罰しなかったのかもしれません。信長の政治判断が正しかったということですね。この密告を受けた信長は、今度は容赦せず、信勝を清州城に招いて殺害します。ドラマでは、美濃の斎藤義龍と同じく仮病を装い、見舞いに訪れた信勝を毒殺という設定でしたが、『信長公記』には毒殺とは書かれておらず、家臣の河尻秀隆青貝某が斬り殺したとあります。


 今回もまた、帰蝶プロデュース信勝殺害でしたね。いや、まあ、いいんですけどね。ドラマだから。どういうシナリオがあっても。でも、この分じゃ、桶狭間の戦い天下布武も、あるいは本能寺の変までも帰蝶プロデュースになりそうで・・・。斎藤道三はその死に際に、「あの信長という男は見込みがある」と言っていましたが、今のところ、信長の活躍は全部裏で帰蝶が操っているようですが・・・? ぜんぜん見込み違いのようですよ? 帰蝶がいないと何も決断できないダメ夫ですよ? そんなに女性を活躍させないとだめですかね? 今後の展開がちょっと心配になってきました。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-05-18 20:45 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(10)  

明智光秀が「丹波攻め」のために築いた丹波金山城。 その1 <登山道>

1週前に登城した八上城跡から北西へ約15km、その2週前に登城した黒井城跡から7kmほど南にある金山の頂上に、丹波金山城跡があります。


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国道176号線の南側から見た金山です。

中央のいちばん高い山で、標高540mあります。


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頂上をズーム。

あの山頂にかつて金山城主郭がありました。

いまからあそこに登ります。


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登山口は麓の追入神社の側にあります。


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登山口にある説明板。

「かなやまじょう」ではなく「きんざんじょう」と読むんですね。


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わたしがここを訪れたのは、元号が「令和」に変わって4日目の令和元年(2019年)5月4日。

わたしにとっては、令和最初の城攻めです。

いざ、攻城開始!


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登り初めてすぐにある観音堂です。

由緒書などがなかったので、縁起等はわかりません。


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観音堂脇から、さらに登山道を進みます。


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いきなりからガッツリ山道です。


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登り始めて10分ほどのところに、古い石鳥居があります。


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真ん中のが無くなっており、額束もありません。

上の笠木島木も中央で折れかけています。

どこの神社の鳥居でしょう?


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脇を見ると、山頂までまだ1000mあるようです。

まだまだです。


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鳥居をくぐって防獣ネットを開けて進みます。


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残り800m


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残り700m

こういう標識は励みになるのでありがたいです。


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天正3年(1575年)、天下統一を目指す織田信長明智光秀を総大将として「丹波攻め」を開始します。

光秀は八上城主の波多野秀治ら丹波国の国人衆の過半を服従させ、当時、丹波国でいちばん勢力を誇っていた赤井直正が守る黒井城を攻撃します。

交戦は2ヶ月のすえ黒井城は落城寸前となりますが、天正4年(1576年)1月15日、突如、波多野軍が寝返って明智軍を急襲し、挟み撃ちとなった明智軍は総崩れとなり、壊滅的打撃を受けて命からがら亀山城に退陣しました。

直正は波多野氏と密かに手を結んでいたといわれ、この戦いは後世に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれています。


明智光秀が「丹波攻め」のために築いた丹波金山城。 その1 <登山道>_e0158128_14593117.jpg


その翌々年の天正5年(1577年)、光秀は再び丹波攻めを開始しますが、その際、前回の失敗を受けて、黒井城と八上城の連携を分断するため、その両者の中央に位置する金山に光秀が築いた城が、ここ金山城です。


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道中いろいろ分かれ道がありますが、とにかく目をくれずに山頂を目指します。


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登り始めて約25分、見晴らしのいい場所に出ました。

立て札に「大山荘園を望む」とあります。


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大山とはこのあたりの地名ですが、篠山市のホームページによると、「大山」という地名はずいぶん古くからあったようで、京都市の東寺にある承和12年(845年)の古文書に、丹波国多紀郡河内郷の土地を取得し、東寺領の荘園として「大山荘」が記録されているそうです。


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遠くに八上城のある高城山が見えます。


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登り始めて約30分、あと500m

ようやく半分です。

つづきは「その2」にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-05-16 23:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波澤田城攻城記。

丹波八上城から北西約3km篠山城から北東約1kmのところに、かつて澤田城がありました。

澤田城は八上城主・波多野秀治の配下の武将・小林近江守長任によって築かれたと伝わる城です。


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澤田城は田園地帯の中にある比高60mほどの丘陵上にあります。


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城跡南側には、澤田城主・小林氏の菩提寺でもある小林寺があります。

城跡への登城口は、小林寺境内を通り抜けます。


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小林寺本堂

その手前に城跡への誘導板があります。


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この階段を上るようです。


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何か供養塔が見えてきました。


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玄奘三蔵法師聖骨塔です。

玄奘三蔵法師とは、あの『西遊記』で有名な三蔵法師だそうです。

なんで中国の三蔵法師の墓がこんなところに?


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その説明板です。

なんでも、昭和17年(1942年)に中国の南京郊外で石棺に収められた聖骨が発掘され、その分骨がここに埋葬されているのだとか。

ふ~ん、ですね。


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寄り道をしましたが、城跡とは無関係なので、先を急ぎます。


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比高60mほどなので、一気に駆け上がれます。


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頂上付近にやってきました。

石碑説明板が見えます。


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頂上、本丸跡です。


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石碑は昭和48年(1973年)に小林近江守長任400回忌にあたって建立されたそうです。


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説明板です。

歴代城主のところに4人の名前が連なっており、その4代目の小林平左衛門重乾の欄に、「天正七年柏原八幡山で戦死、澤田城落城」と記されています。

柏原八幡山とは、明智光秀の天正7年(1579年)の丹波攻めの際、元は波多野軍が陣を布き、のちに明智軍に攻め落とされて明智軍の陣となった場所です。

おそらく、そのときの攻防戦討死したのでしょう。


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縄張り図には、このあたり一帯が本丸となっています。


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たしかに広い削平地ではあるようですが、雑草が生い茂っている上に竹林になっていて、よくわかりません。


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篠山市のホームページによれば、土塁跡などが残っているらしいのですが、草木が邪魔してよくわからないですね。


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石碑の周りだけが整備されていただけでした。

せっかくの史跡なんだから、もうちょっと遺構がわかるように手を入れてほしいです。


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縄張り図によると、さっきの玄奘三蔵法師聖骨塔の西側に出羽丸跡があるようです。

行ってみましょう。


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出羽丸跡は小林寺の墓地になっていました。


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下山して、南東の八上城を望みます。


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天正10年(1582年)の山崎の戦い後、八上城には羽柴秀勝の配下の並河飛騨守が城代として入りますが、このころ、澤田城主に渡部大膳綱定という武将がおり、反乱を起こし、攻略されたといいます。

その後、澤田城は歴史の記録には見られなくなります。

おそらく、江戸時代に入り、篠山城築城に際して廃城となったのでしょう。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-05-14 18:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波八上城跡攻城のために築かれた付城、般若寺城跡。

丹波八上城跡から篠山川を挟んで対岸にある井根山の山頂に、般若寺城跡があります。

天正6年(1578年)、丹波攻略中の明智光秀が八上城を包囲攻撃するために築いた陣城です。

陣城、付城、向城など名称はいろいろありますが、要は攻城戦のための仮の城、いわば前線基地のようなものです。


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般若寺城跡への登城口は、山麓南の正覚寺境内からです。

上の写真の山が、般若寺城跡のある井根山。

標高263m、比高60mほどです。


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南を振り返ると、頂上に八上城跡のある標高462m高城山が見えます。


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正覚寺山門です。


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その横にある正覚寺と般若寺城跡の説明板。

往時はここに八上城主の波多野秀治が建立した般若寺があったとあります。

明智光秀の八上城攻めの際に戦火に巻き込まれて焼失し、その後、正覚寺が建立されたとあります。


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境内です。


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境内には、保育園が併設されています。

この保育園の裏手から般若寺城跡に登ります。


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登城開始。


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正覚寺北側の高台から見た八上城です。


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登山道には誘導板などは設置されておらず、少し迷いそうになりましたが、比高60mほどの小山なので、迷ったら引き返せばいいかと思い、とにかくで進みました。


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しばらく進むと、丸太で整備された登山道が出てきました。

どうやら道は間違えてなかったようです。


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登りはじめて10分ほど、頂上らしき場所の茂みのなかに、なにか看板らしきものが見えます。


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どうやら説明看板のようです。


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説明板によると、山頂には350㎡ほどの東西に長い平坦地があり、中央に主郭(本丸)が配置され、周囲には山の地形を活かした5つの曲輪群(土塁)階段状に設けられていた、とあります。

ただ、ここが主郭なのか、あるいは5つの曲輪のうちの1つかのかが書かれていません。


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天正7年(1579年)6月、八上城主・波多野秀治明智光秀兵糧攻めによって降伏しますが、説明板によると、一年に及ぶ明智軍との攻防戦のすえ、秀治が光秀と和談のために会見したのも、この般若寺城だったと伝えられるそうです。

ただ、八上城跡の稿でも述べましたが、波多野氏降伏の和談の際、光秀は秀治に対して命の保証を約束しますが、降伏後、秀治ら三兄弟は捕らえられ、織田信長の命によって安土城下の慈恩寺にてのうえ処刑されます。

一説には、光秀は助命の約束の証として実母のお牧を人質に差し出したといい、ところが信長が秀治を処刑してしまったため、激怒した秀治の家臣たちによってお牧は殺害され、このことで光秀は信長を恨み、のちの本能寺の変一因となった、ともいわれます。

真偽は定かではありませんが。


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ここが主郭かどうかはわかりませんが、草木が生え放題でこれ以上奥へは進めそうになかったので、時間的制限もあって般若寺城攻めはここで切り上げることにしました。


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樹木の隙間から、かろうじて八上城跡が見えます。


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430年前、光秀もこうしてここから八上城睨みをきかせていたんでしょうね。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-05-13 17:01 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第17話「長良川の対決」 ~斎藤道三の死~

 弘治2年(1556)4月20日、美濃国長良川のほとりにおいて斎藤道三、斎藤高政(義龍)の両軍が激突します。世にいう「長良川の戦い」です。両軍の兵力差については、『信長公記』には記述されていないものの、『翁草』によると、義龍方に1万余、道三方が約2000とあり、『土岐累代記』『美濃国諸旧記』には、道三方についたのは義龍方の10分の1にも満たなかったと記されています。これらの史料を見る限り、義龍方が圧倒的に優勢だったことは間違いなさそうです。


麒麟がくる 第17話「長良川の対決」 ~斎藤道三の死~_e0158128_19245940.jpg 合戦の模様は『信長公記』に詳しく描かれており、それによると、緒戦は義龍軍の竹腰道塵の軍勢が道三方の旗本勢に攻めかかるも、逆に道三方に竹腰道塵は討ち取られます。『信長公記』には、「山城道三、竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足候」とありますが、しかし、道三方が奮戦したのはここまで。兵力の差はいかんともしがたく、ドラマで描かれていたとおり、義龍軍は川を渡り、道三の本陣まで攻めかかりました。


 道三と義龍の一騎討ちはドラマのオリジナルです。『信長公記』によると、義龍方の小牧源太長井忠左衛門の二人が道三に迫り、長井忠左衛門が道三を生け捕ろうとしたところ、小牧源太が道三の斬り、組み伏せてその首を取ったとあります。小牧に首を取られた長井は、先に自分が仕掛けたことを示す証拠として、道三の鼻を削いで持ち去ったといい、そのため、義龍が道三の首実検をした際には、鼻がない状態だったといいます。その後、道三の首は、長良川に晒されました。


 『信長公記』の作者として知られる太田牛一が記した『太閤さま軍記のうち』によると、義龍の見事な采配ぶりを見た道三は、その死に臨んで、「さすが道三の子にて候。美濃の国治むべきものなり。とかく、われわれあやまりたるよ」とたたえたといいます。これが実話かどうかはわかりませんが、たしかに、道三は義龍を少々侮っていた見誤っていたかもしれません。


 長良川の戦いがあった弘治2年(1556)4月20日というのは、今の暦でいえば5月28日。梅雨入りの少し前の季節だったのですが、揚げ足取りのようなことを言って申し訳ないですが、ドラマのロケーションは、どう見ても枯れ草と裸木ばかりの真冬の景色でしたね。まあ、そのあたりは撮影スケジュールの都合もあって仕方がなかったのでしょうが、気になったのは、あの砂埃の多さ。たしか、コーンスターチというとうもろこしの粉を使った演出だったと思いますが、あれ、どう見ても多すぎでしょう。この砂埃の演出については、過去の大河作品のときにも度々発言してきましたが、空気が乾燥した大陸の西部劇ならともかく、日本の湿潤な気候では、あんなにホコリは立たないのではないでしょうか? 道三と義龍の一騎討ちのシーンに集中したいのに、あの砂埃で気が散って二人の会話が入ってこなかった。あれ、明らかにやりすぎだったと思います。


麒麟がくる 第17話「長良川の対決」 ~斎藤道三の死~_e0158128_21004698.jpg 『信長公記』のによると、道三の首実検を終えた義龍は、その足で、道三を援護するために大良口まで出陣していた織田信長の陣を攻めかけました。勢いに乗っていた義龍軍の攻めに信長方は劣勢に立たされ、そこに道三討死の報せが入ると、ますます士気は振るわなくなり、また、岩倉の織田伊勢守が義龍に呼応して清州城近くまで進軍してきたという報せも入り、やむなく信長は撤退を決意します。このとき、信長は自ら殿(しんがり)を引き受けたといい、全ての兵が川を渡って退くと、信長自身は舟一艘で川に残り、義龍軍の騎馬が川端まで駆けて来ると、信長は鉄砲を撃ち、敵が怯んだところで信長も退却したと伝わります。


 麒麟がくる 第17話「長良川の対決」 ~斎藤道三の死~_e0158128_19245426.jpgこのとき、明智光秀がどちらの陣営についたかは定かではありません。『美濃国諸旧記』によると、光秀の叔父の明智光安はこれまでの恩義から負けを承知で道三のもとに馳せ参じ、しかし、明智家存続のため、光秀を義龍のもとに向かわせた、とあります。しかし、同史料は作者不明の軍記物で、にわかに信用はできません。また、同書によると、同年9月、叔父の明智光安が籠もる明智城に義龍の兵3000が攻めかかったと記されており、これが本当なら、光安が道三方に与したのは事実かもしれません。さらに同書では、このとき、光安は甥の光秀に城から逃げるよう命じ、そのとき自身の子どもたちも同行させたといいます。この子供たちの中のひとりが、こののち光秀の片腕として活躍する左馬助、のちの明智光満でした。ドラマの設定は、ほぼこの伝承に沿った展開でしたね。


 ただ、このあたりの明智家の動向については、全て後世に書かれた軍記物が出典であるため、どこまで信用できるかはわかりません。そもそも、明智光秀の出自が美濃の明智一族かどうかも定かではなく、したがって、光秀と光安が甥と叔父の関係だったかどうかも定かではありません。つまり、ここまでの『麒麟がくる』における明智光秀の存在は、すべて史料に基づかない想像の話でした。ここまでは、光秀伝というより道三伝だったといえるでしょう。今回で美濃編は終わり、次回は越前に向かうようですね。このあたりから、少しずつ光秀の名前が史料に見られ始めます。その意味では、これからが本当の光秀伝の始まりといえるでしょうか。新型コロナウイルスの影響で撮影が止まっているそうで、放送中断が避けられそうにないとの報道も耳にしますが、できれば年を越してでも全話放送してほしいですね。だって、何度もいいますが、これからが本当の光秀伝ですから。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-05-11 14:39 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)