太平記を歩く。 その24 「嶽山城(龍泉寺城)跡」 大阪府富田林市

烏帽子形城から北西に4kmほどのところにある嶽山城跡にやってきました。

ここは、富田林市にある標高278m嶽山山頂にあり、その中腹に龍泉寺があることから、龍泉寺城とも呼ばれています。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつに数えられます。


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嶽山山頂へは車で登れます。

現在、山頂には「かんぽの宿富田林」があり、城の遺構らしきものはほとんど残っていません。


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かんぽの宿の建物北側にテニスコートがあるのですが、その裏手に石碑があるというので、行ってみました。


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茂みのなかに入っていくと・・・。


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ありました。


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「楠公龍泉寺城」と刻まれた石柱です。

楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられたそうです。


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築城時の龍泉寺城は、正成の弟・楠木正季の居城だったと伝わり、正季は楠木龍泉とも呼ばれます。

正季は正成とともに湊川の合戦で命を落とします。


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『太平記』巻34によると、正成の三男・楠木正儀の時代にも戦場になったようです。

詳しくは上の説明板をお読みください。


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嶽山山頂から東を望むと、金剛山、葛城山が聳えます。

ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月6日、今にも雨が振りそうな空ですが、このあと、強烈なゲリラ豪雨に見舞われました。


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せっかくなので、中腹の龍泉寺にも立ち寄りました。


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寺伝によれば推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされます。


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天長5年(828年)淳和天皇により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜ったそうで、東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったといいます。


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しかし、山頂に楠木正成が城を築いたことで戦火に巻き込まれ、ほとんどが焼失しました。

龍泉庭園は、国指定の名勝となっています。


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南河内には楠木正成ゆかりの城はまだまだあります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-09 21:56 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その23 「烏帽子形城跡」 大阪府河内長野市

千早赤阪村の隣、河内長野市にある烏帽子形城跡にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)に楠木正成上赤坂城支城として築城したといわれ、楠木七城のひとつとされています。


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烏帽子形城跡は国の史跡に指定されており、城跡公園として整備されています。


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城跡は標高182m烏帽子形山の山頂にあり、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいます。

したがって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしています。
ここは京と堺と高野山を結ぶ東高野街道西高野街道高野街道に合流する地点で、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝でした。


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登城道は公園整備されているので歩きやすく、15分ほどで本丸跡までたどり着きます。

ただ、勾配は結構キツイです。


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見事に土塁跡が残ります。


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本丸跡です。

それほど広くはありません。


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本丸跡に設置された復元予想図です。


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築城時は、楠木正成の部将・高向氏が籠もって戦ったと伝わります。

その後、応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、たびたび戦場となります。

天正年間には橘長治が城主となり、大阪夏の陣後の元和3(1617年)に廃城となります。


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本丸跡から見た北側の眺望です。

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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二ノ丸跡です。

本丸跡はそれほど広くありませんでしたが、二の丸跡は結構な広さです。


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めちゃめちゃ立派な堀切跡です。


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とにかく、遺構の保存状態が良好で、THE城跡・・・といった感じです。


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城跡公園内には、烏帽子形古墳もあります。

6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられているそうです。


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烏帽子形山の東麓には、烏帽子形八幡神社があります。


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楠木一族の楠小二郎という人物が創祀したものと伝えられ、その後、しばらく荒廃していましたが、烏帽子形城が廃城となった元和3年(1617年)、楠木一族の後裔といわれる甲斐荘喜右衛門正保が改修したそうです。


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本殿は国の重要文化財に指定されています。


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本殿の向かいには「楠公武威松」と刻まれた石碑と、古い切株が祀られたがありました。


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説明板によると、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」がこの場所にあったそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の寿命を閉じたそうです。

その老木を輪切りにして祀ったのが、これだそうです。


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ガラスが反射して、写真ではよくわかりませんね。


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さて、次稿も楠木七城のひとつを訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-08 20:38 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村

千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。

そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。


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上の写真は「身方塚」です。


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総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。


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そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」

総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。


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「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。

また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。

これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。

ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。


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寄手塚・身方塚から望む景観です。

右が金剛山、左が葛城山です。

五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その21 「建水分神社・南木神社」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「奉建塔」のすぐ近くにある「建水分神社」を訪れました。

「たけみまくりじんじゃ」と読みます。

難しい読みですね。

ここは、楠木氏の氏神として崇拝された神社です。


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その社伝によると、建水分神社の始まりは崇神天皇(第10代天皇)の時代に遡り、2000年以上の歴史があるとされています。

祭神はその名のとおり水を司る神で、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池を作ることが勧められましたが、このとき、金剛葛城の山麓水分神が祀られたのに始まるそうです。


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かつては現在の場所から北に約100mの水越川のほとりにあったそうですが、楠木正成鎌倉幕府軍との戦火に巻き込まれ、荒廃してしまいます。

そのため、建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在の場所に本殿、拝殿、鐘楼などを再建したそうです。


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鳥居の扁額は、もともとは楠木正行によって奉納された後醍醐天皇宸筆といわれる木額ものがあったそうですが、表面の文字が摩滅したため、宝永2年(1705年)に金銅製にて模造されたものだそうです。

揮毫は、時の前大納言・葉室頼孝によるものだとか。


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急な階段の上に社殿が見えます。


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本殿は重要文化財に指定されているそうですが、一般に参拝できるのは、ここ拝殿前まで。


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また、同じ境内には、摂社の南木神社(なぎじんじゃ)があります。

祭神は楠木正成。

「南木」は、「楠」の偏と旁をバラしたものですね。


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建武3年(1336年)5月25日、正成が湊川の戦いで討死すると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)自ら正成の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりと伝わります。

楠木正成を祀る神社は各地にありますが、ここ南木神社が最古だそうです。


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その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)より「南木明神」の神号を賜ったそうです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-02 20:50 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その20 「奉建塔」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「楠公生誕地」碑から南へ徒歩3分ほどのところに、楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられた「奉建塔」があると聞き、訪れてみました。


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丘の上の森の上に、白い雲に突き出るように塔の頭がのぞいているのがわかるでしょうか?


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青空が美しいですね。


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ここは、1~2月には約5万本のニホンスイセンが咲く「スイセンの丘」になるそうで、春には、桜の名所としても知られているそうですが、わたしが訪れたこの日は初夏の7月3日。

かろうじてアジサイが綺麗でした。


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で、丘の上に建つ「奉建塔」です。

ど、ドでかい!!


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奉建塔は徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集めて建設したそうです。

塔の高さは43尺(約13m)あり、これは、楠木正成戦死した年齢に因んでいるそうです。

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塔柱および基礎は鉄筋コンクリートで、その表面には花崗石を積み、その重さは最大1300貫(4876kg)あり、当時の技術では相当の難工事だったようです。

工事着手は昭和11年(1936年)1月、竣工は昭和15年(1940年)5月15日でした。


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上部の「菊水」は楠木家の家紋。

その下に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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塔の下段には、頼山陽『日本外史』による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれています。


「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」(大楠公笠置に於いて後醍醐天皇に奉答するの辞)


時代は折しも第二次世界大戦に向けて緊張しはじめていた時期、皇国の忠臣として崇め奉られていた楠木正成の没後600年祭は、国民の精神高揚のために大いに政治利用されたであろうことは想像に難しくありません。

この塔が教育者たちの寄付でできたという事実も、当時の教育機関の事情を知ることができます。

戦後、日教組が頑なに左翼的思想に傾倒していくのも、こういった歴史があったからなんですね。

この「奉建塔」は、楠公関連史跡というより、昭和の皇国史観の史跡といえるでしょうか。


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「奉建塔」の建つ丘の上から南を望みます。

青空と緑が美しいですね。

左に見える山が、山頂に上赤坂城跡のある山です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-01 19:50 | 太平記を歩く | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

太平記を歩く。 その19 「楠公産湯の井戸」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「楠公生誕地」碑のすぐ近くに、「楠公産湯の井戸」と呼ばれる古い井戸跡があります。

その伝承によれば、楠木正成がこの地で生まれたとき、この井戸の水を産湯に使ったのだとか。


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青々とした稲の絨毯のなかに、「楠公産湯井北エ一丁」と刻まれた石柱があります。

石柱はかなり古いもののようで、この伝承が昔から存在したことを物語ってくれています。


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こちらには、千早城跡にあったものと同じ藁人形を模したブリキの人形が。


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田畑の間の谷底に井戸があるようで、観光客用にヒノキで作られた階段が設置されています。


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井戸には屋根が作られています。


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で、これがその伝承の井戸です。

いまも水が湧き出ています。

何の変哲もない、ただの古い井戸です。

石垣はきっと、当時のものではないでしょう。


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当時、井戸は集落ごとに共同で使われていたでしょうから、正成の産湯というよりも、この一帯で生まれた赤子の産湯は、おおかたこの井戸の水を使っていたのでしょう。

だから、正成がこの地に生まれたのであれば、ここが産湯だった可能性は十分にあるでしょうね。

『太平記』では、楠木正成は河内国金剛山の西、赤阪村水分(みくまり)山の井で生まれたと伝えており、楠木氏は橘諸兄の後裔としています。

吉川英治『私本太平記』でも、正成の生まれは水分としていますね。


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ただ、前稿でも述べたとおり、そもそも正成の生誕地は諸説あって、ここ水分の地に生まれたことを立証する史料はなにもありません。

もっとも、そう言ってしまえば身もふたもないんですけどね。

この地が楠公さんの生誕地とうたっている以上、ここは楠公産湯の井戸と言っていいでしょう。

まあ、話のネタですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-25 00:09 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その18 「楠公生誕地」 大阪府南河内郡千早赤阪村

ここで少し時系列を離れて、楠木正成に関連した千早赤阪村の史跡を巡っていきます。

まずは、「楠木正成生誕地」の伝承地を訪れました。


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その伝承によると、楠木正成は永仁2年(1294年)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分(みくまり)に生まれたといいます。


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しかし、正成の出自については様々な説があり、詳しくはわかっていません。

『太平記』では、楠木氏は橘氏の後裔と伝えていますが、これも、その真偽は定かではありません。

つまり、正成以前の楠木氏のことは、ほとんどといっていいようです。


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現地説明板によると、このすぐ横にある「くすのきホール」の建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が発見され、14世紀のものとみられる出土品も見つかったことから、周囲の中世山城群と合わせて考え、楠木氏関連の建物であったと推定したそうです。


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文禄年間には増田長盛豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以降、楠邸にあった百日紅を移植したという記録が残っているそうです。

また、元禄年間には、領主の石川総茂が保護を加えました。


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現在残る石碑は、明治8年(1875年)、大久保利通によって建立されたそうで、碑文の「楠公生誕地」は、幕末三剣豪のひとりで、明治8年当時、誉田八幡宮の祠官だった桃井春蔵直正の揮毫だそうです。


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幕末には尊皇派の精神的支柱となり、第二次世界大戦前は忠臣の象徴的存在に祀り上げられた正成ですが、戦後は価値観の転換とともにその評価も変わりました。

吉川英治『私本太平記』では、戦前までのイメージとはまったく違う正成像を描いています。

その時代背景によって政治利用されてきた楠木正成。

本人が知ったら、決して気分のいいものじゃないでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-24 02:22 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その17 「金剛山(國見城跡)・後編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

金剛山後編です。

葛木神社境内の西側の参道に、「宝剣塔」という名称の宝篋印塔があります。


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これは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)とその第2皇子・大塔宮護良親王追善供養のために建てられたもので、足利時代のものだそうです。


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足利の誰の時代でしょうね?


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後醍醐天皇も大塔宮も、最期は足利尊氏と敵対する立場で死んでいきますから、政敵からの追善供養ということですね。

まあ、尊氏はほかにも京の嵐山に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺を建立していますから、この宝篋印塔も、尊氏が建てたものかもしれませんね。

天皇の敵となった自責の念があったのでしょう。


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そして、葛木神社の西側にある転法輪寺です。

真言宗醍醐派大本山である金剛山転法輪寺は、今から約1300年前、山岳での修験道の開祖とされる役小角が建立したといわれ、奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山のひとつに数えられ、全国にその名が轟いていたと言われます。

あの行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録されているそうです。


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本堂です。


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境内には、豊臣秀吉がこの地を訪れたときに掘ったと伝わる瓢箪形の池「ひさご池」があります。


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で、転法輪寺の西側、山頂尾根伝いの最西端にある削平地に、「金剛山國見城址」と書かれた看板があります。


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ここは見晴らしがよく、登山客の憩いのスポットとなっています。


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大阪府が一望できます。

この日は霞がかっていたので遠くまで見えませんでしたが、空気の澄んだ日は、大阪湾を経て遠く神戸の六甲山系から淡路島まで見渡せるそうです。

たしかに、わが町神戸からも空気が澄んだ日は、金剛山が見えます。

直線距離で言うと60km以上離れているんですけどね。


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ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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その伝承によると、元弘2年(1332年)12月に再挙兵した楠木正成は、自身は上赤坂城に入り、金剛山の正面に國見城を設け、まだ少年だった息子の楠木正行とその傅役の湯浅孫六を配置し、転法輪寺の僧兵との連携をとらせたといいます。

城といっても、たぶん突貫の砦のようなものだったのでしょうね。


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その後、正成は千早城に移り、寡兵で大軍を寄せ付けなかったのですが、その理由のひとつに、背後の金剛山の僧兵の援助が大きかったといいます。


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城址公園の一段下にも、削平地があります。

二ノ丸跡?・・・即席で作った城にそんなもんないかな?


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余談ですが、太平洋戦争時に活躍した戦艦「金剛」は、ここ金剛山に因んでいます。

「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」など、当時の戦艦の名称は旧国名が多かったと思いますが、「金剛」という山の名がつけられたのはなんででしょうね?

当時、楠木正成が忠臣の象徴的存在だったこともあり、大軍相手に落ちなかった城に因んで付けられたのでしょうか?

でも、沈没しちゃいましたけどね。

現在は、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に、その名は引き継がれています。


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この日の山頂は気温17度。

快適な秋のハイキングでした。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-23 01:33 | 太平記を歩く | Comments(2)