太平記を歩く。 その122 「新田義貞首塚(滝口寺)」 京都市右京区

新田義貞の墓所は「その120」で紹介した福井県坂井市の称念寺にありますが、あちらの墓は胴塚で、京都嵯峨野にある小さな山寺・滝口寺の境内に、義貞首塚と伝わる墓石があります。


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境内入口です。

中央にNO PHOTOと書かれた立て札がありますが、これは、参拝料を払わない人は撮影禁止という意味で、ちゃんとお金を払ったわたしは撮影オッケーです。


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この苔むした墓碑が、新田義貞の首塚だそうです。


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燈明寺畷自刃した義貞の首は、越前国守護の斯波高経によって検められたあと、すぐさま京に運ばれ、都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

それを見た義貞の最後の妻・勾当内侍は泣き崩れ、その日のうちに髪を剃り落して尼となり、かつてこの地にあった往生院で余生を義貞の菩提を弔うことに費やしたといいます。


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『太平記』が伝えるのはそこまでで、その後、晒された義貞の首がどうなったかは伝えられていません。

ここ滝口寺に伝わる伝承によれば、晒された義貞の首を妻の勾当内侍が盗み出し、秘かにこの場所に葬ったといいます。


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たしかに、この説は真実味がありますよね。

足利尊氏は信心深い人で、一旦は晒した楠木正成の首を河内の親族の元に丁重に送り返したり、あれだけ確執があった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の死後、その菩提を弔うために天龍寺を建立したりしています。

そんな尊氏が、最大のライバルだった義貞の首を、そのまま捨て置くとは思えないですよね。

もし、その妻が盗み出して葬ったとあらば、それが発覚したとしても、尊氏は見て見ぬふりをしていたんじゃないかと。


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義貞の墓所の側には、その妻の勾当内侍の供養塔があります。

勾当内侍は公家の出で、後醍醐天皇によって義貞のもとに降嫁されたと伝わります。


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『太平記』では、義貞の最期をこう評します。


「此の人、君の股肱として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」


「うたてかりし」とは「情けない」といった意味だそうで、要訳すると、

「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした。運が悪いというより、軽率である」

といった感じでしょうか?

つまり、「犬死」だとい言っています。

かなりの酷評ですね。


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新田義貞も足利尊氏も、源氏の中興の祖である源義家を祖先にもつ家系で、いわば同族でした。

共に鎌倉幕府瓦解の立役者であり、ライバル関係だった義貞と尊氏でしたが、建武の新政以後、朝廷に対して反旗を翻した尊氏を討伐する目的で官軍を率いたはずの義貞が、最期は足利氏から朝廷に抗う反乱軍というレッテルを貼られてしまい、無念の死を遂げてしまいます。

そんな義貞に対する後世の評価は微妙で、戦には強かったものの、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりしたことから、時代の趨勢が読めなかった武将とか、機を見るに敏という能力が足りなかったなど、その器量、能力に対しては酷評気味です。

同じく一貫して後醍醐天皇方に与して討死した楠木正成英雄扱いを受けているのに対し、なぜ義貞は微妙な評価になっちゃったんでしょうね。

客観的に見て、鎌倉幕府滅亡にもっとも尽力したのは義貞だったと思いますし、建武の新政以後、尊氏が反旗を翻したあとも、最も長く、足利方と互角に戦ったのは義貞でした。

後世の評価は、ちょっと、気の毒な気がしないでもないですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-13 23:37 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第36話「井伊家最後の日」 ~虎松の養子入り~

 三河国の鳳来寺に入っていた虎松(のちの井伊直政)が、生母の再婚先である松下清景養子となったのは史実です。ただ、どのタイミングで養子となったかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、母の再婚とともに虎松も松下家の養子になったと記されていますが、『井伊家伝記』では、井伊家一族が集まって虎松を徳川家康に出仕させる計画を立て、鳳来寺には黙って家康の臣下である松下家の養子になったと伝えます。鳳来寺からは事情を尋ねるべく使者が何度も訪れますが、南渓瑞聞和尚が、その都度、言いくるめていたとあります。


 ドラマでは、清景の弟・松下常慶が持ち込んだ養子の申し出に対して、「虎松を松下によこせということか?」と困惑する井伊直虎に、「虎松君に松下をさしあげたいということでございます」と常慶が答えていましたが、それは詭弁ですよね。ドラマでも言っていたとおり、清景には継嗣がおらず、養子に迎えるということは、即ちあととりです。松下姓を名乗るということは、松下の家に入るということ。実子のいなかった清景にしてみれば、再婚相手の生んだ子で、しかも筋目的にも申し分ないですから、虎松を松下家のあととりにすべく養子に迎えたのでしょう。『井伊家伝記』でも、松下家の養子になったのは徳川家に士官するための隠れ蓑のようなニュアンスで伝えますが、これも、後世に都合よく脚色された話かと思われます。


 つまり、井伊家は、この時点でいったん潰れたと考えていいでしょう。井伊谷城を追われ、井伊家の血を引く唯一の男子である虎松が養子に行ったわけですからね。その虎松が生きている以上、井伊家再興の可能性はゼロではなかったでしょうが、それは極めて薄い希望だったと思われます。ドラマのとおり、この時点の直虎たちは、井伊家再興をいったん諦めたのかもしれませんね。


 井伊谷城を追われたあとの直虎や家臣たちがどうしていたかについては、史料が乏しく定かではないようです。ただ、のちに井伊家が井伊谷に戻ってきたときには、旧臣たちも戻ってきていますから、おそらく、ドラマのように近藤康用井伊谷三人衆などに士官し、井伊谷周辺にいたんでしょうね。直虎はおそらく龍潭寺尼僧として過ごしていたことでしょう。少なくとも、盗賊からプロポーズされることはなかったかと思います。たぶん。


 ネタバレになりますが、後年、虎松は松下家に入ったことで家康の知遇を得ることとなり、やがて井伊氏に復することを許され、名を井伊万千代と改めて井伊谷に戻ってきます。井伊家再興を諦めて養子に行ったことが、結局はのちの井伊家再興に繋がったわけです。歴史って面白いですね。家康にあととりを取られてしまった清景は、中野直之の次男の松下一定を養子として跡を継がせます。虎松を家康に引き合わせた清景にしてみれば、「そんな~!」だったんじゃないでしょうか。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-12 23:08 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その121 「藤島神社」 福井県福井市

福井県福井市の足羽山にある藤島神社を訪れました。

ここの主祭神は新田義貞で、副祭神は弟の脇屋義助、息子の新田義顕・新田義興・新田義宗

「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「別格官幣社」でした。


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「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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朱塗りの大鳥居をくぐると、長い石段が続きます。


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境内には車でも行けるのですが、ここはあえて石段を登ります。


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藤島神社の創建は明治時代に入ってからだそうで、それほど古い神社ではありません。

「その119」で紹介した「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」に初代福井県知事が明治3年(1870年)に祠堂を作ったのが始まりで、明治9年(1876年)に「藤島神社」と名付けられ、その後、明治34年(1901年)にこの地に移り、現在に至ります。


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拝殿です。


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明暦2年(1656年)、義貞が自刃したと伝わる燈明寺畷を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定します。

その冑が、ここの神社に祀られいるというのですが・・・。


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ああ、あった!・・・たぶんこれかな?

ただ、無粋なことをいえば、この冑、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。


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新田氏家紋入り旗印


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この甲冑も、なんか新田氏と関係あるのでしょうか?

説明板がないので、わかりません。


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藤島神社は足羽山の北東麓にあるため福井市街が一望に出来ます。

気持ちのいい朝の景色でした。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-11 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その120 「新田義貞墓所(称念寺)」 福井県坂井市

前稿で紹介した燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地から8kmほど北上した坂井市にある称念寺に、新田義貞の墓があります。


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山門の横には、「新田義貞公墓所」と刻まれた大きな石碑が。


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広い境内です。


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境内には、かつて「近衛中将新田義貞公贈位碑」と刻まれていた大きな石碑があるのですが、上の方の「近衛」の部分が欠けてしまっています。


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これは、昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際に折れてしまった跡だそうで、その後も修理されることなくそのままになっているそうです。


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石碑の建つ場所から左(北)に目を向けると、境内の一画に森のような場所があり、そこに廟所と思われる唐門が見えます。


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ここが、新田義貞の墓所。

まるで天皇陵のような厳かさです。


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廟所のなかにある墓です。


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燈明寺畷で自刃した義貞の首は、すぐさま小黒丸城の斯波高経のもとに届けられますが、討ち取った敵兵は、その首が誰のものであるのがわからなかったといいます。

ところが、高経が首実検をしたところ、所持していた刀などから義貞の首と判明し、すぐさま時宗の僧8人を戦地に派遣して首なしの遺骸を収容し、ここ称念寺に運ばれて葬儀が行われたそうです。


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その後、義貞の首は朱の唐櫃に納められ、京の足利尊氏のもとに送られます。

そして都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

ということは、つまり、ここ称念寺の墓は首なしの胴塚ってことですね。


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時代は下って江戸時代になると、徳川将軍家の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。

元文2年(1737年)には義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したと『徳川実記』に記されているそうです。

現在の墓石は、天保8年(1837年)の義貞500回忌の際に、福井藩主・松平宗矩が建立した高さ五輪石塔で、高さ約2.6mあります。


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墓石の裏手にある顕彰碑(?)です。

古くてところどころしか読解できませんが、最後に「天保十年」という文字が確認できます。

五輪石塔が建てられた2年後ですね。


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墓所とは別に、境内には義貞を慰霊する宝篋印塔もあります。


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詳しくはわかりませんが、「昭和十年七月」と刻まれており、おそらく昭和10年(1935年)に日本全国で行われた建武の中興600年祭に際して建てられた供養塔でしょう。


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あと、ここ称念寺は若き日の明智光秀ゆかりの地としても知られ、その伝承にまつわる松尾芭蕉の歌碑があるのですが、『太平記』とは関係ないので、また別の機会に。


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義貞の死は、南朝方にとっては決定的な打撃となり、その死後、義貞の息子らも戦乱に斃れ、時世は徐々に南朝方の劣勢へと傾いていくことになります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-09 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


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敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


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門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


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前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


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ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


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『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


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致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


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また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


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時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


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ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


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大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その118 「藤島城跡(超勝寺)」 福井県福井市

前稿で紹介した小黒丸城跡から7kmほど東にある藤島城跡を訪れました。

現在は超勝寺という寺院が立ちます。


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ここも、越前国守護の斯波高経が築いたといわれる足羽7城のひとつと伝わります。


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山門の横には「藤島城址」と刻まれた石碑と、説明板が設置されています。


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『太平記』巻20にある「足羽七城の戦い」の中心となったのが、小黒丸城とここ藤島城でした。

小黒丸城には足利方の大将・斯波高経が籠って全軍の指揮を執り、ここ藤島城には、一度は新田軍に味方しながら足利方に寝返った平泉寺衆徒籠っていました。

新田義貞は軍勢を分けて足羽7城を攻めますが、7城の巧妙な連携体制の前に攻めあぐね、戦いは長期化します。


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新田軍の出陣から3ヵ月が過ぎた延元3年/建武5年(1338年)7月2日、小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていたここ藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

ところが、その道中、同じく藤島城に加勢するために出動した足利方の軍勢300騎と出くわし、行き当り遭遇戦の末、討死します。


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超勝寺境内には、藤島城の遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-07 13:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その117 「小黒丸城跡」 福井県福井市

日野川の戦いに勝利した新田義貞軍は、越前国府を占領します。

『太平記』では、この報が越前国中に伝わると、足利方の73の出城が降伏を申し出たと伝えます。

気運に乗った義貞は、越前国を完全掌握するため北上。

足利方で越前国守護の斯波高経の籠る小黒丸城を包囲します。


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現在、小黒丸城は住宅地田園のなかに石碑が立つのみで、遺構などは残っていません。


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小黒丸城は黒丸城ともいい、足利方の足羽7城のなかの本城とされています。

足羽7城は諸説ありますが、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城、そしてここ小黒丸城のことをいいます。


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『太平記』巻20によると、延元3年/建武5年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら6千余の兵を率いて府中に出陣し、足羽7城への攻撃を開始しました。

しかし、小黒丸城は容易には落ちません。


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高経の築いた足羽7城は実に巧妙な連携体制が整えられていたといわれ、ひとつの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う陣形になっており、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化します。


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そして3ヵ月が過ぎた閏7月2日、ここ小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

その道中、足利方の軍勢に出くわし、討死するんですね。


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小黒丸城跡と夕日です。


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義貞の死の翌年、弟の脇屋義助が再び挙兵して小黒丸城を攻めると、斯波高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れたといい、その後、小黒丸城は廃城となります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-06 13:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第35話「蘇えりし者たち」 ~戦国大名・今川氏の滅亡~

 徳川家康堀川城で起きた気賀の農民たちの一揆大虐殺でもって鎮圧したちょうど同じ頃、駿府を逃れた今川氏真が籠る掛川城を徳川方の本多忠勝らが攻撃していました。しかし、こちらも今川方が執拗な粘りを見せ、戦いは五分五分といったところで双方に多数の犠牲者を出します。また、今川方の大沢基胤も浜名湖の東岸のある堀江城に籠って徳川軍の攻撃に抵抗しつづけ、家康を悩ませていました(ドラマでは、堀川城の大虐殺が見せしめとなって大沢基胤が降伏したかのように描かれていましたが、実際には、基胤はその後、約1か月間持ちこたえています)。


 徳川軍の掛川城包囲戦が長期化の様相となるなかで、駿府に侵攻していた武田信玄が、家康との約定を反故にして遠江への圧迫を強めます。信玄は信玄で、駿府へ侵攻したまではよかったものの、今川氏から援軍要請を受けた北条氏によって逆に包囲され、窮地に立たされていました。これにより徳川と武田は手切れとなり、家康は氏真との和睦を模索しはじめます。


 家康は今川配下の小倉勝久和睦交渉の話を持ち掛けます。その条件は、武田軍を一掃し、氏真を再び駿河に戻すというものでした(この約束が果たされなかったことは歴史の示すとおりです)。一方で家康は、今川配下の諸将への調略も同時進行で進めており、そのなかには堀江城に籠る大沢基胤もいました。基胤は家康からの懐柔策に対して、苦慮のすえ、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っています。これに対して氏康は、今川家の逼迫した情勢を考えて基胤の申し出を受け入れ、徳川の軍門に下ることを許可したうえで、これまでの働きをねぎらったといいます。離反者があとを絶たなかった今川家において、基胤は最後まで今川家のために力を尽くした忠義の武将でした。その功あってか、大沢氏はその後徳川家の高家旗本として、幕末まで続きます。


 話を和睦交渉に戻すと、その後、家康と氏康の和睦交渉はスムーズに進み、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は掛川城を開城します。「蹴鞠で雌雄を決したい」とはおそらく言っていません。一国の主らしく、家臣の助命と引き換えに堂々と城をあとにします。このとき、家康は警護の兵を派遣しています。家康としても、かつての主君に対する精一杯の礼儀だったのでしょうね。戦国大名としての今川氏は、このときをもって滅亡しました。


 その後、氏真自身は江戸時代まで生き長らえます。その後半生は、得意な蹴鞠和歌に明け暮れた日々となります。ある意味、ようやく身の丈に合った人生を手に入れたといえるかもしれません。そう考えると、勝負に負けることが必ずしも人生の負けとはいえないかもしれませんね。そして、その氏真の後半生に、妻の早川殿はずっと寄り添い続けました。甲相駿三国同盟で生まれた3組の夫婦のなかで、最後まで添い遂げたのはこの夫婦だけです。ある意味、幸せな人生だったかもしれません。


 井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時が大沢基胤の籠る堀江城攻めで戦死したのは史実ですが、近藤康用は出陣しておらず、厳密には康用の子・近藤秀用が父の代わりに従軍していました。康用はこのとき既に長年の戦働きによる負傷で歩行困難になっていたとのことですが、ドラマでは、それをこの戦いでの負傷にしたようです。まあ、康用はこのドラマでは主要人物ですからね。このぐらいの設定変更はいいんじゃないでしょうか。


 少しだけドラマの話をすると、ようやく政次ロスから立ち直りはじめた直虎の姿が描かれた今話でしたね。隠し里で暮らす井伊家の人々も、日常を取り戻しつつあるようです。もし、あのとき南渓和尚のプラン通り、政次と直虎を気賀に逃していたら・・・結局は堀川城の一揆に巻き込まれて政次と直虎も命を落としていたかもしれませんし、そうなると、井伊家はもっと窮地に立たされていたでしょう。「俺ひとりの首で済ますのが最も血が流れぬ」と言った政次のプランが、やはり正解だったんですね。さすが、死して尚、存在感を示す但馬守です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-04 16:47 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その116 「新善光寺城跡(正覚寺)」 福井県越前市

「その114」で紹介した杣山城跡から6kmほど北上した場所にある新善光寺城跡を訪れました。

ここは現在、正覚寺という寺院になっています。


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山門の手前にある「正覚寺」の寺号碑には、「新善光寺城跡」という文字も刻まれています。


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山門には、「旧府中城表門」という立札があります。

府中城とは、戦国時代に前田利家が築いた城で、新善光寺城とは別のものです。


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山門の横には「新善光寺城址」の石碑が。


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新善光寺城の築城主は越前国守護の斯波高経です。

つまり、足利方の拠点だったわけですね。

延元元年/建武3年(1336年)には杣山城主の瓜生保の軍勢によって一度落とされていますが、すぐに足利方が奪回しています。


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金ヶ崎城の落城後に杣山城に逃れていた新田義貞は、その後、四散していた軍を糾合して勢力を盛り返し、延元3年/建武5年(1338年)2月、再び打って出て足利方の斯波高経軍と日野川で激戦を交えます。


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この戦で府中(武生)の町は焦土と化し、高経は敗走して新善光寺城は義貞の手に落ちました。


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現在、境内の北側にある総社大神宮との境界に、わずかに土塁跡が残されています。


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その説明版です。


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新田方の手に渡った新善光寺城には、その後、義貞の弟・脇屋義助が入りますが、やがて義貞が戦死すると、義助は美濃へと敗走します。


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その後、正平21年/貞治5年(1366年)には廃城となり、良如上人によって正覚寺が建立され、現在に至ります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-03 09:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その115 「瓜生保戦死の地・墓所」 福井県敦賀市

前稿で紹介した杣山城の城主・瓜生保戦死したと伝わる地を訪れました。

ここは、杣山城跡から20kmほど南下した場所で、すぐ近くに「その110」で紹介した金ヶ崎城跡があります。


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戦死の地と伝わる場所には、贈正四位瓜生判官保公戦死之地」と刻まれた石碑と説明板が。


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瓜生保が戦死したのは延元2年/建武4年(1337年)正月12日、金ヶ崎城に籠る新田義貞軍を援護すべく5千の兵を率いて杣山城を出た瓜生保は、あともう少しで金ヶ崎城にたどり着くという樫曲地区で、足利方の今川頼貞2万と対峙することとなり、激戦のすえ弟の義鑑と共に討死したと伝わります。


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その説明板です。


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横にはお決まりの忠魂碑が。


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戦死の地の裏山には、瓜生保のがあると知り、登ってみることに。


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山道を登ることに約10分。

墓碑らしき石柱が見えます。


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山道の少しだけ開けた場所に墓碑が一基だけあり、「瓜生判官保之墓」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)10月、金ヶ崎城に入った新田義貞から援軍要請を受けた瓜生保は、一旦はこれに応じますが、その直後に義貞討伐命令の綸旨が保のもとに届くと、身を転じて足利方に味方し、斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻めます。

しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈します。

ところが11月になって、その綸旨は足利尊氏が送った偽物だと発覚。

すると保は、またまた身を転じ、新田軍に与することを決めます。

このあたり、優柔不断な人物のようにも思えますが、都から遠く離れた田舎武将ですから、中央での政情など疎かったでしょうし、綸旨が届くなんてことなど経験がなかったでしょうから、右往左往するのは無理もなかったでしょうね。


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以後は新田軍に味方してたびたび足利方の軍勢を蹴散らしますが、冒頭で述べたとおり、年が明けた延元2年/建武4年(1337年)正月12日、この地で落命します。


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この墓は明治44年(1911年)に瓜生家の末裔の方が建てたものだそうです。

新田義貞の北陸落ちに巻き込まれなければ命を落とすことはなかったでしょうが、歴史の名を残すこともなかったでしょう。

瓜生保にとっては、どっちが本望だったのでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-01 22:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)