太平記を歩く。 その65 「一乗寺下り松」 京都市左京区

京都市左京区にある「一乗寺下り松」を訪れました。

ここに、「大楠公戦陣蹟」と刻まれた、大きな石碑があります。


e0158128_20255630.jpg

「建武の新政」に不満を募らせた武士たちによって混乱が生じはじめた建武2年(1335年)7月、滅亡した鎌倉幕府執権だった北条高時の遺児・北条時行が、幕府再興を掲げて信濃で挙兵し、進軍して鎌倉を占拠する「中先代の乱」が起きます。

これを鎮圧に向かった足利尊氏は、乱を平定したのちも鎌倉に留まり、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の帰京を促す呼びかけにも応じず、やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権の樹立を求める声に呼応するかたちで立ち上がります。


e0158128_20260012.jpg

後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は、12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破(竹ノ下の戦い)。

その勢いで、尊氏は翌年1月に京都へ乱入します。

これを迎え撃つ天皇方は、各地で諸将が守備します。

その一人、楠木正成が陣を布いたのが、ここ一乗寺下り松でした。


e0158128_20271275.jpg

石碑の裏には、「昭和二十年五月二十五日建立」とあります。

第二次世界大戦終戦の約3ヶ月前ですね。

この時期といえば、各地が空襲に見舞われ、日本全土が焦土と化していた頃で、よくこんなものを建てる余裕があったなと思うのですが、そんな時期だからこそ、皇国の忠臣の象徴である楠木正成の碑が必要だったのかもしれません。

そう思えば、これは史跡というより、負の遺産ですね。


e0158128_20282210.jpg

傍らにある小さな石碑には、そんな正成を頌える文が刻まれています。


碑文

「建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す 官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす 乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し 明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬ これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せり しかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせず しかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り かゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし 即ち新に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」


強烈ですね。

碑文の後半を要訳すると、「楠公の貴いところは、その智をもって常に天皇のために尽くしたところにあり、この楠公の精神こそ、これからの日本の産業の指針とすべきで、日本の平和の標識とすべきだ」といったところでしょうか。

ほとんど敗色濃厚だったこの時期にこのようなことを言っているのですから、当時のわが国の指導者たちが、いかに狂っていたかがわかります。

正成自身、後世にこのような扱いを受けようとは、夢にも思っていなかったでしょう。


e0158128_20303637.jpg

ちなみに、ここ一乗寺下り松は、江戸時代初期に剣豪・宮本武蔵吉岡一門数十人決闘を行った場所としても有名で、「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた石碑があります。

ていうか、観光客用の看板などは、ほとんどが「武蔵ゆかりの地」を謳っており、「大楠公戦陣蹟」は知る人ぞ知るって感じでしたけどね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-06-07 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」 大阪府岸和田市

だんじり祭で有名な大阪府岸和田市にある「岸和田古城跡」を訪れました。

ここは、現在の岸和田城から東へ500mほどのところで、住宅街のなかに石碑と説明版だけが設置されています。


e0158128_20150764.jpg

建武元年(1334年)1月より行われた「建武の新政」摂津国、河内国、和泉国3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成は、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に居を構えさせました。

それが、ここ岸和田古城跡と伝わります。


e0158128_20185905.jpg

ただし、城跡推定地は特定されておらず、諸説があるようです。


e0158128_20190319.jpg

石碑は大正10年(1921年)に建てられたもののようです。


e0158128_20152249.jpg

周辺は完全に住宅街として整備されており、遺構はもちろん、城跡を思わせる地形も残っていません。


e0158128_20190820.jpg

このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

あくまで一説ですけどね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-06-06 22:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第23話「虎と龍」 ~移民政策と雇用政策~

 外交、経済、教育、軍事、司法と、ここまで稚拙ながらも試行錯誤しながら領主として成長していく井伊直虎国づくりを描いてきましたが、今話は、材木事業を立ち上げるために雇った龍雲丸率いる盗賊団と、元来の井伊谷領民たちがどう折り合いをつけながら共存共栄していくかというお話。つまり、移民政策雇用政策の回ですね。これは、領国経営においては重要な問題で、現代にも通ずる普遍のテーマといえます。


人口減少、少子高齢化が進むこれからの日本で、世界第3位という現在の経済規模を維持するには、毎年、外国からの移民約20万人受け入れる必要があると言われていますよね。経済力=国力と言っていいでしょうから、これはやむを得ないことなんでしょうが、一方で懸念されるのは、移民の大量受け入れによる文化摩擦治安の悪化。偏見かもしれませんが、外国人による犯罪の報道を耳にすることは決して少なくありません。報道される程ではない軽犯罪(スリや空き巣)などは、毎年増え続けているとも聞きます(これも、正確なソースのある情報ではありませんが)。


「井伊の者たちは、こういったことに慣れておらぬのじゃ。」


 移民たちの開いた博打場にのめり込む百姓たちに困りはてた直虎が龍雲丸に言った台詞ですが、たしかに、移民たちが持ち込む異文化というのは、決して良いものばかりではなく、ときに中毒性をおびた危険きわまりないものもあります。そこを、どう上手く選り分けて付き合っていくかなんでしょうが、元来、単一民族国家の日本人は井伊谷の百姓たちと同じで、移民との付き合いに「慣れておらぬ」のですよね。移民の大量受け入れの賛否を問うたアンケート調査によると、反対意見が7割近くを占めています。人口減少がゆゆしき問題だとはわかっていても、移民を増やして人口を維持するというのは、何か、日本が日本じゃなくなっていくような気がして、受け入れがたい気持ちになるのでしょう。グローバルVSナショナリズム・・・難しい問題ですね。


わたしも、治安維持の観点でいえば、少なくとも犯罪歴のある移民受け入れには賛成しかねます。ましてや、直虎の盗賊団の集団雇用など、言語道断ですね。領国内に摩擦が起きて当然です。中野直之、奥山六左衛門ら側近に同情します(笑)。


 移民政策雇用政策。どちらも重要なテーマですが、とにもかくにも今話は終始創作の回で、史実パートはありません。これくらいで勘弁してください(笑)。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-06-05 23:15 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その63 「二条富小路内裏址」 京都市中央区

京に戻った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年の建武元年(1334年)1月より「建武の新政」を開始します。

その政令が発せられたのが、京都御所の少し南にある「二条富小路内裏址」です。

現在は御所南小学校第二運動場前に、石碑のみが建てられています。


e0158128_19045255.jpg

「建武の新政」「建武の中興」とも呼ばれ、武家政権から朝廷に政権を移し、関白摂政院政も排除し、天皇自らが政治を行うというもの。

「大化の改新」「明治維新」とともに、天皇親政における日本史上の三大革命のひとつとされます。

後醍醐天皇の掲げた「建武の新政」のテーゼは、「延喜・天暦の治にかえる」いうもの。

延喜・天暦の治とは、延喜が醍醐天皇(第60代天皇)時代、天暦は村上天皇(第62代天皇)時代の元号で、この時代は摂政・関白を置かず、天皇自らが政治を行い、文化も繁栄して後世に「理想の聖代」と言われていました。

だから、南朝の天皇は“後”醍醐天皇、“後”村上天皇だったわけですね。

後醍醐天皇は、その「理想の聖代」を復活させようとしていたわけです。


e0158128_19045681.jpg

しかし、前例を無視した後醍醐天皇の独裁は、権力を奪われた貴族の不満を買い、皇居造営などによる重税農民たちの不満はつのり、倒幕に尽力した武士たちも満足いく恩賞を得られず、天皇に失望します。

やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権を望む声が広がり始めます。

『太平記』巻12は、次のように嘆きます。

「世の盛衰、時の転変、嘆くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭、御家人は皆奴婢雑人の如くにてあるべし。哀はれ、いかなる不思儀も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人のみ多かりけり」


結局、「建武の新政」は約2年しか続きませんでした。

天皇の政治が稚拙だったのか、しかし、急激な改革というのは抵抗勢力を生むもの。

明治維新でも、約10年に渡って内乱が続きましたからね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-06-03 22:03 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その62 「澤の井」 神戸市東灘区

神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅側の高架下に、「澤の井」と呼ばれる池があります。


e0158128_18375144.jpg

説明板によると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に対して、この泉の水で美酒を醸しこれを献上したところ、天皇深くご嘉納あらせられたため、これを無上の栄誉とし、嘉納をもって氏族の名としたと伝えられているそうです。


e0158128_18400360.jpg

説明板には「後醍醐天皇御時」とだけあって、具体的な年号が記されていませんでしたが、もし、この話が実話だとすると、配流先の隠岐島へ向かう途上か、あるいは隠岐島を脱出して京に還幸の途中のことだろうと想像し、このシリーズの仲間に入れました。

ちなみにこの伝承にある氏族・嘉納氏の末裔が、のちに嘉納財閥となり、現在、灘五郷の本家・本嘉納家は菊正宗酒造、分家・白嘉納家は白鶴酒造の経営者です。

ちなみにちなみに、その嘉納家からは、伝説の柔道家・嘉納治五郎が生まれています。

『太平記』とはぜんぜん関係ない話ですね。


e0158128_18415891.jpg

ここ神戸市東灘区の御影地区は、花崗岩の別名「御影石」の語源となった場所として知られますが、『日本書紀』によると、神功皇后「三韓征伐」よりの帰途の折、本住吉大神を参拝する際、この地の泉(澤の井)で化粧しようとして御姿を写されたことで、当地を「御影」と呼ぶようになったといいます。


e0158128_18420135.jpg

この泉は、今もなお絶えることなく水が湧き出ています。

泉の水は透き通っていて、が泳いでいます。

この水が、灘の銘酒の源になっているんですね。

太古の昔からの贈り物です。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-06-02 20:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


e0158128_16302368.jpg

現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


e0158128_16323125.jpg

その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


e0158128_16334803.jpg

井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


e0158128_16352066.jpg

こちらの石碑はかなり古そう。


e0158128_18312875.jpg

説明板です。


e0158128_18321242.jpg

まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


e0158128_18341231.jpg

また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


e0158128_18341536.jpg

後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その60 「福厳寺(後醍醐天皇御駐蹕之處)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある福厳寺の入口には、「後醍醐天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があります。

ここも、配流先の隠岐島を脱出して京に帰る帰路の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったとされます。


e0158128_11000001.jpg

後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)5月31日から6月2日までの間滞在し、この地で楠木正成の参向を受け、また、東国で挙兵した新田義貞によって鎌倉幕府壊滅したという報せを受けたといいます。

『太平記』は、「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えています。


e0158128_11000316.jpg

石碑の横には、説明看板があるのですが、色あせてしまって読めません(笑)。

ご関係者さまは、ぜひ作り直してください。


e0158128_11000601.jpg

本堂です。

もっとも、当時の福厳寺は、ここよりもっと北東の会下山にあったそうですけどね。


e0158128_11000967.jpg

その後、京に戻った後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う建武の新政を開始するんですね。

ところが、元弘の乱の論功行賞において赤松則村(円心)足利尊氏を怒らせてしまい、やがてそれが、南北朝の分裂に繋がっていきます。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-05-30 23:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(5)  

太平記を歩く。 その59 「法華山一乗寺」 兵庫県加西市

兵庫県加西市に「一乗寺」という大きな寺院があるのですが、ここも、配流先の隠岐島から帰京中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったと伝わる寺です。


e0158128_16592931.jpg

後醍醐天皇の護持僧・文観は、東寺長者・醍醐寺座主をつとめた真言律宗の高僧ですが、もともとは、ここ一乗寺の僧だったそうです。


e0158128_17010141.jpg

南北朝時代の播磨国の地誌『峰相記』によると、建武2年(1335年)に後醍醐天皇のを受けた文観が一乗寺を訪れ、西国第一の大堂と称された講堂落慶法要が行われたと記されているそうです。


e0158128_17053358.jpg

大非閣(金堂)と呼ばれる本堂です。


e0158128_17073194.jpg

残念ながら後醍醐天皇が建てた大堂は火災で消失してしまい、現在の本堂は寛永5年(1628年)に姫路藩主・本多忠政の援助で再建されたものだそうです。


e0158128_17085048.jpg

一乗寺の創建は白雉元年(650年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願で法道仙人が開いたとされています。


e0158128_17103236.jpg

安元年(1171年)に建てられた三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔として国宝に指定されています。


e0158128_17113036.jpg

三重塔は本堂から見下ろすことができます。


e0158128_17125409.jpg

他にも、数多くの国指定重要文化財兵庫県指定文化財を所有しています。

下の写真は室町時代に建てられたと言われる弁天堂妙見堂


e0158128_17150947.jpg

続いて鎌倉時代に建てられたと言われる護法堂


e0158128_17151306.jpg

こちらは、正和5年(1316年)と刻印された石造笠塔婆です。


e0158128_17171071.jpg

ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

でも、ケイタイも圏外になるほどの山奥にあるため参拝客もそれほど多くなく、うぐいすの声を聴きながら悠久の歴史にふれ、ゆったりとした時間を過ごしました。

ここ一乗寺は、西国三十三所二十六番札所となっています。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-05-27 18:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その58 「書寫山圓教寺」 兵庫県姫路市

兵庫県姫路にある、西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


e0158128_19040523.jpg

大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵します。

やがて六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)5月23日に船上山を出発し、京へと向かいます。


e0158128_19040851.jpg

その帰路、後醍醐天皇はここ書寫山圓教寺に立ち寄り、一泊したといいます。

ここで、天皇方として摂津と山崎を何度も往復して幕府軍と戦っていた円心に会いました。

このとき後醍醐天皇は、円心を「天下草創之功」と称えたといいます。


e0158128_19041187.jpg

有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


e0158128_19041550.jpg

圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


e0158128_19272610.jpg

こちらが有名な三之堂

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財ですが、後醍醐天皇の行幸以降に再建されたものです。


e0158128_19273299.jpg

ここは、天正6年(1578年)に起きた羽柴秀吉別所長治三木合戦において、一時秀吉が本陣を置いた場所でもあります。


e0158128_19273628.jpg

ここ三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、同じく平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』、そして、あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなっています。


e0158128_16375535.jpg

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺~後編~」

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~


「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-05-26 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)