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太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境

兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。

ここは、旧令制国における播磨国美作国国境にあった関所跡です。


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元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。

しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。

つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。


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峠付近にある説明板です。

記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。


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看板の横の苔生した坂を上ります。


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この道が、旧峠越えの道のようですね。


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しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。


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『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂にを築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。


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石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。


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石碑の裏面です。


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石碑の横にある歌碑です。

昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。


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現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。

この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。

道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。


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奪回作戦
に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。

次稿は、その院庄館跡に向かいます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その10 「船坂峠」 兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原と岡山県備前市三石の境

前稿の「善通寺」は、現在の住所でいえば兵庫県の東端ですが、今度はそこから100km以上西に行った兵庫県の西端、兵庫県と岡山県の県境にある「船坂峠」にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。


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現在、船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。

そのため、かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。


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車を空き地に停めて、旧道を歩きます。


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道は苔生していますが、ちゃんと舗装されていました。

トンネルが開通したのは昭和30年(1955年)といいますから、60年前まではここが国道でした。


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峠の頂上が見えてきました。


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頂上には、県境を示す石柱が設置されています。

道路側に面して「縣界」と刻まれ、西面には「兵庫縣赤穂郡船坂村」と、そして東面には「岡山縣和氣郡三石町」と刻まれています。

西から歩いてきたわたしは、ここを超えると岡山県に入ります。


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峠の頂上から西へ2、3分歩いたところ(即ち岡山県)に、「船坂山義挙の碑について」と記された石碑がありました。


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その北側の山道を登っていくと・・・。


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「船坂山義挙之城趾」と刻まれたバカでかい石碑がありました。

揮毫は平沼騏一郎男爵とあります。


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後醍醐天皇の奪回を企てた児島高徳は、一族郎党200余騎でこの地に潜みますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂峠まで追いますが、既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。


次稿では、その杉坂峠を訪れます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-08 16:59 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第5話「亀之丞帰る」 ~小野和泉守政直の死と井伊直親の帰還~

 信濃国で家臣の今村正實とともに潜伏生活を送っていた亀之丞(のちの井伊直親)が、約10年ぶりに井伊谷に帰ってきます。というのも、父の井伊直満讒言によって死に追いやり、亀之丞自身も逃亡生活を送らざるを得ない境地に追いやった元凶といっていい、小野和泉守政直が死んだからでした。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項では、このときのことを次のように伝えています。


「伊那郡市田郷の松源寺にありて数年のあひだ、謀をめぐらし、奥山因幡守親朝をたのみ、舊地にかへらむとす。和泉死して後、直盛、直親を領内にまねき、ひたすら駿府に愁訴し、義元も許容ありしかば、弘治元年、ふたたび、井伊谷にかへりて直盛が養子になる。」


 文中に出てくる奥山因幡守親朝は、おそらくその息子・奥山朝利の誤りかと思われます。政直が死んだのち、井伊直盛が駿府の今川義元にひたすら助命嘆願して許された亀之丞は、弘治元年(1555年)、井伊谷に入ったとあります。亀之丞の帰還は、井伊家にとって待望の出来事だったことがわかります。


 政直の没年は詳しくはわかっていませんが、後世に編纂された『小野氏系図』によると、天文23年(1554年)8月27日と記されているそうで、これが正しければ、政直の死から亀之丞の帰還まで数ヶ月以上を要したことになります。その間、直盛は何度も今川家に懇願したのでしょうね。それが出来たのも、政直がこの世を去ったからでした。つまり、亀之丞を潜伏させていたのは、今川家への憚りというより、小野和泉守政直の存在によるものだったことがわかります。家臣の目を気にして主家の継嗣を潜伏させねばならないという、後世の目からみればなんとも不思議な関係ですが、当時の井伊家と小野家の関係は、そんなパワーバランスだったようです。


政直「お前はわしを卑しいと思うておるじゃろう。なりふり構わぬうそつきの裏切り者・・・。己はこうはならぬとわしをずっと蔑んでおるじゃろう。・・・じゃがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」

政次「和尚様のお心遣いで、私には次郎法師様や亀之丞様との間に育んだ幼い頃からの絆がございます。井伊の縁戚となりますからには、井伊のお家を第一に考えていきたいと思うております。そのなかでも、小野はさすがに頼りになると言われることこそ、まことの勝利かと存じます。」

政直「お前は、めでたいやつじゃのう・・・。」


 陰謀家の父と誠実な息子の会話。しかし、奇しくも後年、父の予言どおりになっちゃうんですよね。なぜ、そうなるのか・・・。なぜ、父・政直にそれがわかるのか・・・。誠実な政次が、この先どう変わっていくのか・・・。今後の展開が楽しみです。


 約10年ぶりに帰還した亀之丞。ドラマでは、爽やかな笑顔で何の屈託もなくおとわ次郎法師・のちの井伊直虎)に接し、幼い日の約束を忘れずいきなりプロポーズしていた亀之丞ですが、通説では、潜伏先の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたと伝えられています。まあ、通説であっても史実としての確証があるわけではないのですが、この話、描かないのですかね。女性脚本家さんは、やはりこの手の話はお嫌いなのかな? でも、であれば、おとわが亀之丞のプロポーズを断る理由がなくなるのでは・・・。とにもかくにも、今後の展開に注目しましょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-06 17:31 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その9 「善通寺・秦武文の碑」 兵庫県尼崎市

尼崎市にある善通寺を訪れました。

ここは、阪神電鉄尼崎駅の南側にある街中の寺ですが、その境内に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の忠臣・秦武文の碑が建てられています。


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元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、このとき、皇子の尊良親王も、土佐国に配流となります。

このとき親王の共をしたのが秦武文でした。


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武文は親王のを土佐に迎えるため、尼崎から船を出しますが、その途中、海賊松浦五郎に襲われ、后を奪われてしまいます。

松浦の船を小舟で追った武文は、戦場で腹を切り、そのまま海へ飛び込むと、武文の怨霊渦潮となって松浦の船を襲い、后は助けだされたといいます。


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怨霊話はにわかに信じられるものではありませんが、武文が后を奪われた責任をとって自刃したのは本当かもしれません。


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『太平記』「金ヶ崎恋物語」に記されたこの物語は、謡曲舞曲などで人々に広く知られ、尼崎の地に永く伝えられることになったそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-03 18:48 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その8 「布引の滝」 神戸市中央区

神戸市中央区にある「布引の滝」を訪れました。

ここは元弘元年(1331年)に隠岐島に配流となった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、その道中に立ち寄ったとされます。

場所は、JR新幹線の新神戸駅の北側の山中にあります。


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布引の滝は、日光の華厳の滝、那智勝浦の那智の滝と並んで、日本三大神滝のひとつに数えられていますが、他のふたつの滝と違って、現在は人工的に水量をコントロールされています。


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布引の滝は雄滝(おんたき)・雌滝(めんたき)・夫婦滝(めおとだき)・鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝の総称で、生田川の布引渓流にあります。

南からハイキングコースを登っていくと、最初に目にするのは「雌滝」です。


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一番下流にある約19mの雌滝は、その名のとおり細くしなやかに流れる女性的な印象です。


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たしかに、その名のとおり白い布を引いているように見えます。


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続いて渓谷沿いに登っていくと、「鼓ヶ滝」という石碑があるのですが、滝が見えません。


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実は、鼓ヶ滝を見られるのは、覆っている木々の葉が枯れる冬だけだそうです。

ここを訪れたのは5月14日。

滝の姿は見えず、かろうじて滝壺が覗けるのと、あとは音を聞くだけです。

「鼓ヶ滝」という名称の由来は、その滝音が鼓のような響きだからだそうです。


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そして、いちばん上流にあるのが「雄滝」、その下にあるのが「夫婦滝」す。


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「雄滝」は高さ43m、滝壺は面積430㎡、深さ6.6mあります。

下流の「雌滝」とは対照的に、5段に折れながらダイナミックに落下する迫力の名瀑です。


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滝の横には5箇所の甌穴があり、竜宮城に続いているという伝説もあるのだとか。


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マイナスイオンが出まくりです。


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「雄滝」の滝壺から更に下の段に落ちる高さ9mの滝が、「夫婦滝」です。

2本に分かれた滝がひとつになっている様子が、まるで夫婦のようだということから、「夫婦滝」と呼ばれるようになったのだとか。


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山道を登っていくと、滝を横から見下ろすこともできます。


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ここ「布引の滝」の景観は、古くは平安時代の歌集『伊勢物語』『栄花物語』など、多くの和歌紀行文、詩歌などに登場する場所で、古来、景勝地として知られています。

5つの滝の散策道には、各所に平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」が建てられています。

後醍醐天皇のものはありませんでしたが。


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「松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 紀貫之


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「布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ」 後鳥羽院


当時としても全国的に知られた景勝地だった布引の滝。

島流しの道中に観光するなんて、さすがは後醍醐天皇、肝が据わっていますね。

この水しぶきを見ながら、きっと再起を誓っていたのでしょう。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-02 20:40 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その7 「雀の松原」 神戸市東灘区

元弘元年(1331年)の笠置山の戦いに敗れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年、隠岐島に配流となります。

その道中、後醍醐天皇は現在の神戸を通過するのですが、そのとき、ここ「雀の松原」を通ったと伝えられます。


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現在は住宅街のなかにある小さな公園に石碑のみが建てられていますが、かつてこのあたりは海岸線で、松林があったそうです。


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『太平記』より更に古い『源平盛衰記』『平家物語』にもその名称は見られ、後醍醐天皇のことが書かれた『増鏡』では、「(後醍醐天皇は)雀の松原、布引の滝など御覧じやらるるも、……生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり。湊川の宿に著かせ給へる」とあり、後醍醐天皇がここ雀の松原や布引の滝を見ながら隠岐へと流されていったことがわかります。


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碑文

「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の跡」


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側面には「中納言公尹卿」とあります。

鎌倉時代の公卿、洞院公尹のことです。


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右側の小石碑表面には

「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原 平安山田寿房」

とあります。

調べてみましたが、山田寿房という人のことはよくわかりません。


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この石碑は阪神電鉄開通工事の際、軌道敷内にあって取り壊された真の旧蹟を惜しんで、地主が所有地を地盛りして若松を植え、移設したものだそうです。


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また、これより20年後の正平6年(1351年)に、足利尊氏足利直義兄弟が互いに戦った場所でもあります。(観応の擾乱)

打出の鷲林寺に陣を置く直義に対し、尊氏はこれを討つべく2万の軍勢を進めますが、兵が多すぎて逆に身動きが取れないと察知した尊氏の部下・薬師寺次郎左衛門公義が自らの手勢をここ雀の松原に待機させた場面が『太平記』に描かれており、そこには「一族の手勢二百余騎、雀ノ松原の木陰にひかえて」とあります。

結局、この打出・御影浜の戦いでは、大軍で統制がとれなかった尊氏方は敗れ、総崩れとなって西へ敗走します。


さて、次稿では、同じく後醍醐天皇が通ったという「布引の滝」を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-01 17:33 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第4話「女子にこそあれ次郎法師」 ~直虎の出家~

 今回は出家したおとわの話がメインでしたね。ドラマでは、今川家から本領安堵の条件として、おとわの出家を命じられるといった設定でしたが、実際には、井伊直虎がいつ、どのような理由で出家するに至ったかはわかっていません。前話の稿でも紹介しましたが、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞(のちの井伊直親)出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓瑞門和尚の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されています。これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになり、もう少し大人になってからということになります。


 また、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞との婚約が破談になったことで、自らの意志で出家したとあります。この時代、夫に先立たれた妻は出家するのが慣わしで、直虎も、その慣例に則って操を通したのかもしれません。しかし、直虎の両親である井伊直盛夫妻は、そもそも結婚はしておらず婚約が破棄になっただけなので、出家する必要はないと猛反対したといいます。ドラマとはずいぶん話が違いますよね。


 結局、直虎の出家への決意は固いものでした。そこで、両親がせめてもの妥協案として、尼の名前は付けないでほしい、と要望したといいます。通常、尼の名とは法名のことで、俗世間との関係を断ち切ったことになります。そうなると、二度と還俗できません。直虎の両親には男子がいなかったので、家督を継がす養子を迎えなければなりません。もちろん、単に養子を迎えることも出来たのですが、できれば、実の娘と結婚させて婿養子として迎えたいという望みを捨てきれなかったのでしょう。そのためには直虎が出家していては望みが断たれるため、なんとしても法名は避けたかったのでしょうね。


 そこで、南渓和尚がひとつのアイデアを提示します。というのは、尼名ではなく、僧名を与えてはどうか、というものでした。尼名と僧名ではどう違うのか・・・。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、跡継ぎの男子がいなくなった場合、一度僧になった弟が呼び戻されるといった例は少なくありませんでした。その最も有名なところでは上杉謙信がそうで、井伊家の主家である今川義元もまた、仏門から還俗したひとりです。南渓の案は、直虎が変心して還俗できるよう含みをもたせたものだったわけです。


 そこで、直虎につけられた名が「次郎法師」でした。代々、井伊家惣領は「備中法師」と名乗っていたと伝えられ、また、井伊家の歴代当主の仮名が「次郎」だったことから、この2つをつなぎ合わせて「次郎法師」としたとされています。「法師」とは、法名ではなく、僧侶や俗人で僧形をした男子のことを言い、純粋な僧侶ではありません。つまり、井伊家の当主の証である「次郎」を名乗り、尚且つ純粋な僧侶の意味を持たない「法師」をつけることで、いつでも俗世に帰れるようにしたというんですね。両親の切実な願い込められた名だったといえるでしょうか。


 というのが、『井伊家伝記』による直虎出家のくだりです。ところが、ドラマではまったく違うストーリー展開で描かれていましたね。なんで変えちゃったのでしょうね。まあ、『井伊家伝記』にしても『寛政重修諸家譜』にしても江戸時代中期に記されたものですから、そこに書かれた話にどれほど信憑性があるかはわからないので、オリジナルの解釈で創作してもいいところだとは思いますが、『井伊家伝記』の伝承そのままのほうがドラマチックだったような・・・。でも、伝承そのままで描くには、おとわが少々幼すぎたのかもしれませんね。いよいよ、次回からは柴咲直虎の登場です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-30 16:49 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Comments(0)