太平記を歩く。 その155 「石峯寺・石峯寺城跡」 神戸市北区

神戸の北のはずれに、石峯寺(しゃくぶじ)という寺院があります。

ここは重要文化財三重の塔薬師堂で有名ですが、かつてこの石峯寺の裏山にがあったということは、あまり知られていません。


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参道を上って重要文化財の仁王門を潜ります。

両脇に金剛力士像の造像年代はわかりませんが、かなり古いもののようです。

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こちらは向かって右側の阿形仁王

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そし、こちらが左側の吽形仁王です。

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「建武の新政」が始まって間もないころの石峯寺は、47の坊があり、さらに付近の百姓を加えると200人あまりの僧兵を擁していたといい、南朝方に味方していました。

ところが、はじめは石峯寺の衆徒たちと一緒に南朝方について兵を挙げた赤松則村(円心)は、建武の新政ののち足利尊氏に味方して北朝方についたため、寺の衆徒たちとは激しい対立関係となります。


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延元4年/暦応2年(1339年)8月29日、円心は三男の赤松則祐に命じ、東播州一帯の南朝軍を攻めさせました。

このとき、ここ石峯寺城も包囲されますが、同時に近くの淡河城も攻め落とされ、もはや援軍は見込めないと考えた僧兵たちは、何よりも本堂三重の塔などを兵火から守るため、200人挙って城外に駆け出し、赤松軍の包囲を突破し、寺から遠くはなれた場所まで移動して戦ったといいます。

そのおかげで、建物は兵火に遭うことなく、重要文化財となった現在に至ると。


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山門には「孝徳天皇勅願所」と刻まれた石碑があります。

寺伝によれば白雉2年(651年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願により、法道が開山したとされます。


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本堂です。


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こちらは中堂の薬師堂

聖武天皇(第45代天皇)の開山で天平19年(747年)に行基が建立したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。


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本堂東にある三重塔です。

弘仁14年(823年)に嵯峨天皇(第52代天皇)の勅願により建立したと伝わりますが、ちょうど『太平記』の時代あたりに、建てられたとの説もあります。

この三重塔も、国の重要文化財に指定されています。

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敷地内には、暦王4年(1341年)4月に造られたことが確認できる石造五輪塔があります。

時期的にみて、あるいは赤松氏との戦いに関係があるかもしれません。


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城があったとされる裏山に入ってみました。


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岩肌を削った穴のなかには、観音石像が祀られています。

裏山の空間は人工的に作られた遺構のようにも見えますが、自然にできたようにも思えて素人の私には判断がつきません。


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でも、明らかに何らかの建造物があったと見られる削平地もあります。

まあ、城といっても、この時代の多くの大寺院がそうであったように、寺院と砦が一体化して要塞化したものだったのでしょうね。


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寺院内の一角には、どういう理由か、歴代の徳川将軍尊霊碑が祀られていました。


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写真右から、徳川吉宗、家光、家重、家定、綱吉、家綱

あと、写真には映ってませんが、家慶、家斉、家治、家宣の碑もあります。

なぜか、家康、秀忠、家継、家茂、慶喜の5人はありません。

あと、明石城主・小笠原忠眞碑と、淡河城主有馬公(たぶん有馬則頼)碑もあります。

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次回は、この近くの淡河城を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-11-04 01:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その154 「東条城(豊地城)跡」 兵庫県小野市

兵庫県小野市と加東市の市境あたりに、「豊地城跡」と紹介された史跡があるのですが、ここに南北朝時代、東条城があったと考えられています。


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前稿で紹介した丹生山城を拠点に足利軍と戦っていた金谷兵庫助経氏は、同時に東条城もその拠点とし、両城をさせて戦ったと伝わります。


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しかし、延元元年・<北朝:建武3年>(1336年)に東条城は北朝方の手によって焼き払われてしまいます。

『日本城郭大系』によると「東条城はおそらく豊地城の前身であろう」としています。


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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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ただ、これらはすべてのちに築かれた豊地城のもので、東条城の遺構ではありません。


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時代は進んで16世紀末、豊地城は羽柴秀吉別所長治の間で行われた三木合戦に加わり、その後、破城となりました。

その件については、「三木合戦ゆかりの地」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-11-03 10:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その153 「丹生山城跡・明要寺跡」 神戸市北区

「湊川の戦い」新田義貞が京都へ敗走した後も、神戸北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏が足利軍と奮戦していました。

その兵庫助が本陣を布いた場所が、神戸市北区の丹生山山上にあった明要寺でした。

明治に入って寺が廃され、丹生神社と改称しました。


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6世紀創建といわれる明要寺には、この当時、多くの僧兵がいました。

兵庫助はそれらの僧兵を引き連れ、付近の足利方に屈しない近江寺性海寺、さらには「その36」で紹介した太山寺の衆徒をもその配下に置き、赤松則村(円心)軍の攻略を開始します。

太山寺の衆徒といえば、かつては赤松軍とともに鎌倉幕府軍と戦った仲。

その後、円心は足利尊氏とともに後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻しますが、太山寺の衆徒たちは、南朝方に付いていたようです。


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その後、金谷軍と赤松軍の戦いは長引き、延元3年(1338年)9月、ここ丹生山城を守っていた金谷軍の吉川経清が赤松軍の攻撃によって討死すると、その後も、赤松軍の赤松範資赤松則祐が金谷軍の拠点を次々と攻め、翌年の9月8日、赤松則祐が端谷城を攻略したことにより、赤松軍の勝利に終わります。


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丹生山城は、天正7年(1579年)の羽柴秀吉別所長治のあいだで行われた三木合戦の際にも舞台となっているのですが、その話は、「三木合戦ゆかりの地めぐり」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。


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現在、丹生山城跡には石碑だけが残されており、その山頂には丹生神社があります。

かつて戦場となったシブレ山、丹生山、帝釈山、稚児ヶ墓山と連なる丹生山系の山々は、現在はハイキングコースとして登山客が多く訪れています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-11-02 08:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 ~戦の論功行賞~

 長篠の戦い手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。


 劇中の家康は、岡崎城浜松城の恩賞のバランスに苦慮します。武功だけみれば、浜松の武将たちの活躍が目立ち、岡崎城を守備していた家康の嫡男・徳川信康の配下には、目立った活躍が見られません。しかし家康は、岡崎城の日頃のはたらきがあったから、織田の援軍を得ることができた、というところを思案の材料とします。岡崎城は織田領との国境に近く、信康の正室は織田信長の娘・徳姫です。織田氏との関係を良好に保つために、岡崎城は重要な役割を果たしていました。長篠の戦いの兵力を見ても、徳川勢8千に対して、織田の援軍が3万。本体より援軍の方がはるかに多かったわけで、織田の援軍なくしては、長篠の大勝はなかったでしょう。その意味では、岡崎城の戦功は、決して軽視はできないものでした。しかし、榊原康政は言います。


 「武功は命がけでございます。」


 たしかにそのとおりで、命がけで槍働きをした武将を蔑ろにすると、のちのちの士気に影響しかねません。武士は戦場で活躍してなんぼの時代ですからね。しかし、戦場で武勇を奮うだけがいくさではありません。このあたりのバランスは難しかったでしょうね。


 通常は、榊原康政のいうとおり武功第一でした。しかし、その常識を覆した論功行賞が行われた例があります。天才・織田信長でした。その舞台は、このときより遡ること15年前の永禄3年(1560年)5月19日に起きた桶狭間の戦い。織田方の奇襲によって大軍の今川軍を壊滅させたことで知られるこの戦いですが、このとき、敵将の今川義元に最初に槍をつけたのが服部小平太で、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元のをあげました。当然ながら、このとき、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかと誰もが予想しましたが、翌日の論功行賞の場で信長が最初に名をあげたのは、簗田政綱という武将でした。簗田は戦場で目立った活躍はなく、誰もが驚いたのは言うまでもありませんが、このときの簗田の戦功は、隠密行動によって今川義元の本陣の場所をつきとめ、信長に伝えたことでした。これによって織田軍の奇襲が可能になったわけで、信長は、義元の首を挙げた武功よりも、簗田の功績が大きいと判断したわけです。信長は、武功よりも情報が重要と考えたんですね。これは当時としては画期的な判断で、下手をすれば、家臣から不信を買って士気を下げかねません。信長だから出来た仕置だったといえるでしょうか。


 恩賞の与え方というのは、国を預かる領主にとっては重大な政治でした。その意味では、家康にしても信長にしても豊臣秀吉にしても、ときには手厚く、ときには冷酷に、上手く論功行賞を捌いたからこそ天下人たり得たといえるかもしれません。特に家康は、晩年の関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、その論功行賞の巧みさで力を拡大していきました。その政治感覚は、この頃に磨かれたものだったかもしれませんね。


 さて、次回は井伊万千代にも、大きな恩賞が与えられるようです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-30 19:10 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その152 「丹下城跡(河内大塚山古墳)」 大阪府松原市

大阪府南部には、日本一大きな大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする大規模な古墳が数多くありますが、その中のひとつ、松原市にある河内大塚山古墳は、南北朝時代、北朝方に属する丹下氏が城を築いていました。

それが丹下城です。


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丹下氏は伊予橘氏の流れを汲む土豪武士で、河内国丹下を支配していました。

伊予橘氏の流れというと、楠木正成の楠木氏も同じで、おそらく遠縁にあたる一族だと思われますが、楠木氏は南朝方、丹下氏は北朝方に属していたんですね。


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延元2年/建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市に陣を張っていた南朝軍を攻めました。

しかし、野中寺前で合戦となり、南朝軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われたそうです。


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古墳がに利用されることは多く、河内にある古墳群のほとんどが、中世や戦国期に戦火に巻き込まれています。

丹下城が築かれた河内大塚山古墳は、日本で5番目に大きな古墳で、全長は335m、後円部直径は185m、後円部の高さは20mあり、周囲に広い堀をめぐらせ、陣を張るにはもってこいの環境ですからね。


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その後、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側に松原城をつくったと伝わりますが、松原城の正確な位置はわかっていません。

延元3年/建武4年(1338年)、南朝側の和田正興橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。

このとき、和田正興軍の高木遠盛によって丹下八郎太郎の子である能登房が討ち取られます。

まもなく松原城は落城したと伝えられますが、丹下城はその後、戦国期まで存在したようで、天正3年(1575年)の織田信長による河内国城郭破却令によって廃城となり、丹下氏は城を退去して帰農したと伝わります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-29 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区

北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。

現在は北畠公園として整備されています。


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公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。


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由緒書です。


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墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。


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墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。


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こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文要訳が記載されています。その内容は、


一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。

一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること

一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること

一、臨時の行幸や酒宴は控えること

一、法令に尊厳をもたせること

一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり  益のないものは退けること

延元三年(1338)5月15日

従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上


この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。


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柵の隙間から墓石を撮影。


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碑文は、手前の看板で紹介されていました。

「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」


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顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。


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公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。

その窓を覗いてみると・・・。


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中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。


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さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。

ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家二柱を祭神として祀る神社です。

全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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神社への参拝入口は複数あるのですが、この日は南側から入ります。


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境内に入ると、すぐに顕家の像が目に入ります。


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親房のことは前稿で紹介したので、本稿では顕家のみ紹介します。


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元弘3年/正慶2年(1333年)8月、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開始した建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じらた顕家は、同年10月、父と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めます。

延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功。

この功績により、顕家は鎮守府大将軍に任じられます。

しかし、その後、湊川の戦い楠木正成新田義貞軍が敗北すると形勢は逆転。

やがて後醍醐天皇が吉野に落ちると、延元3年/建武5年(1338年)、京都回復のために兵を挙げて各地で転戦。

一時は北朝方を圧倒する戦いを見せますが、同年3月16日、摂津での戦いに敗れると、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠ります。

その後も顕家軍は和泉で奮戦しますが、やがて5月16日、足利方の高師直軍が堺の浦に出撃を開始し、5月22日、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げます。

享年21。


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「花将軍 北畠顕家」という歌の歌詞だそうです。

聴いたことないですが(笑)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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拝殿です。


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いたるところに北畠家の家紋菊の紋章が。

北畠家が天皇家直属の公卿だったことを意味しているのでしょうか。


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拝殿の周りには、「建武の中興六百五十年祭を迎へて」と題した木製のなが~い看板が設置されています。


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すべて楷書手書きです。

これ、凄いですね。


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そして、こちらは西側の参拝口。


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なぜ、この地に北畠父子を祀る神社が創建されたかというと、このあたりが顕家と足利軍が戦った古戦場跡と伝わり(異説あり)、この近くに顕家の墓があったからだそうです。

次回は、その顕家の墓を訪れます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-25 22:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その148 「北畠親房の墓」 奈良県五條市

前稿で紹介した賀名生の里の裏山に、南朝方の公卿・北畠親房の墓と伝わる古い墓石があります。


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北畠親房は、当時、学識の高い万里小路宣房吉田定房とともに「後三房」と称された公卿で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の信頼厚く、その第二皇子である世良親王の養育を任されるほどでした。

また、大塔宮護良親王は親房の娘で、親王から見れば親房は義父にあたります。

北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」で始まる『神皇正統記』の著者として有名ですね。


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建武の新政下では、鎮守府将軍となった嫡子の北畠顕家と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めますが、足利尊氏謀叛によって後醍醐天皇が吉野に落ちると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力します。

後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論のひとつである『神皇正統記』を著し、それ以外にも、後世に伝わる『職原抄』・『二十一社記』などを著しています。


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正平3年/貞和4年(1348年)に「四條畷の戦い」楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は賀名生行宮に落ち延びます。

その後、観応の擾乱による混乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功しました。

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しかし、その後、親房の動静を記す史料はなく、2年後の正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去したと伝えられます。

享年62。


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墓所の隅には、「南朝三帝賀名生皇居之地」と刻まれた石碑があります。

その横には見える石碑は「五条高校賀名生分校跡」と刻まれていました。

墓所のある丘の上は、かつて五条高校賀名生分校があったそうです。


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親房の死後、南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていくことになります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-24 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)