おんな城主 直虎 第14話「徳政令の行方」 ~徳政令と逃散~

 今話はそのタイトルどおり、「徳政令」のお話。前話の稿でも述べましたが、「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。その始まりは鎌倉時代の元寇の折、御家人の窮状を救うために永仁5年(1297年)に発令された「永仁の徳政令」からとされています。その後、室町時代から戦国時代にかけて、土一揆などの鎮静にたびたび徳政令を発布しています。


 徳政令の対象はその時々によって様々でしたが、井伊直虎のときの井伊谷における徳政は、度重なる戦で疲弊した農民が対象でした。戦によって田畑が荒らされ、凶作が続いた農民たちは、寺や商人たちから借金をして食いつないでいましが、今度はその借金の返済に苦しみ、生活が立ち行かなくなっていました。そんな農民たちを救うには、徳政令を施行して借金をチャラにしてあげることが最良ですが、そうすると、今度は貸した側が被害を受けます。場合によっては貸主が破産することも想定され、債権者にしてみれば、これほど理不尽な制度はないわけです。


 実はこのとき、井伊家は度重なる出陣策謀の被害などから、人的損傷もさることながら、経済的にも大いに疲弊していました。そのため、「銭主」と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保っていました。じゃあ、徳政令を発布すれば井伊家も借金返済を免れていいじゃないか・・・というのは短慮で、徳政令によって銭主が破産すると、井伊家はこののちお金を借りることができなくなり、井伊家の財政が立ち行かなくなります。だから、直虎としては、農民より銭主を守らなければならない事情があったわけです。


 徳政を願い出る場合、本来は在地領主の井伊家に訴え出るのが筋でしたが、このとき、百姓たちは井伊家を飛び越えて駿府の今川氏真に訴えました。これを手引したのが、本来は直虎をサポートすべき立場にあった小野但馬守政次でした。理由はわかりませんが、徳政令を利用して直虎の失脚を図り、井伊家を乗っ取ろうとしていたと考えられます。政次は蜂前神社の神職・祝田禰宜と結託して、氏真から徳政令を出させます。


 祝田禰宜は祝田の市場の特権井伊直盛のときに安堵されており、神職でありながら商人でもあって、井伊谷の経済の中核にいた人物でした。ところが、この頃、瀬戸方久をはじめとする新興勢力が現れ、商人としての祝田禰宜は圧迫を受けはじめていました。祝田禰宜にとっては、この徳政令を道具にして方久ら新興勢力にダメージを与えようとの狙いがあったんですね。


 それぞれの立場のそれぞれの思惑が込められた徳政令でしたが、直虎はこれを握りつぶします。というより、先送りにしたというほうが正しいかもしれません。新興勢力の商人に支えられていた井伊家としては、徳政令を施行するわけにはいかなかったんですね。直虎はできるだけ徳政令の施行を引き伸ばし、その間に、銭主の被害がなるべく少なくすむための対策を講じていきます。直虎が単なる虎松成人までのお飾りではなく、優れた行政能力を持った人物であったことが窺えるエピソードです。


 ドラマ中、「逃散」という言葉が出てきましたね。「逃散」とは、農民が集団で荘園から退去して一時的に他の土地へ逃げ込み、年貢の軽減などを訴える行為で、一揆のように武力に訴えることはないものの、いわばストライキのようなものでした。一応、合法なのでボイコットとは違います。ただ、合法と認められるには、訴えの対象になっていない年貢はちゃんと納めているなど、領民としての義務を果たしている必要があります。合法と認められない場合には、領主が妻子や家、田畑などを差し押さえることができました。いずれにせよ、領民に逃げられてしまっては、年貢が入らずに領国経営が立ち行かなくなります。領主というと、農民の血税の上にあぐらをかいているイメージがありますが、決してそんなことはなく、逃散や一揆などが起こらないようにする統治能力が求められていたんですね。前話のタイトルじゃないですが、まさに「領主はつらいよ」です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-04-10 18:00 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その37 「滝山城跡」 神戸市中央区

「その8」で紹介した布引の滝の西側にある滝山城に来ました。

場所は、JR山陽新幹線・新神戸駅の裏山です。


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滝山城の築城年代は定かではありませんが、京都東福寺良覚が記した『正慶乱離志』によると、摩耶山合戦から1ヶ月余りあとの元弘3年(1333年)4月、赤松則村(円心)の陣として、ここ滝山城が使われたと記されています。


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城跡への登山道は2とおりありますが、この日は先に「布引の滝」を訪れたので、東から攻めます。

標高は316.5m、比高は約250mの山頂にある滝山城への登山道は、ハイキングコースとして整備されているので、藪をかき分けて進むような場所はありません。

ただ、斜面はかなり急で、結構ハードです。


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道中から望む神戸市内の眺望です。

目の前に広がるのは三宮の町並み

神戸市のド中心部です。

このような大都会のすぐ近くに中世の山城跡が残っているというのが、山と海が接近する神戸ならではという気がします。


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しばらく登ると、いかにも曲輪跡と見られる削平地が次々に表れます。


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ここ滝山城跡の遺構の保存状態は良好で、30以上の曲輪跡が確認されています。


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たいぶん上まで進むと、ところどころに石垣跡と見られる大きな岩が見られます。


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これなんて、間違いなく石垣跡でしょう。


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傾斜がゆるやかになって、尾根伝いになると、いよいよ土塁堀切などの遺構の宝庫となります。


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三の丸下に設置された説明板です。


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縄張り図です。


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大きな堀切跡です。


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立派な土塁跡です。

写真じゃ、なかなか伝わりづらいですね。


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三の丸跡と思われます。


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そして二の丸跡

ハイキング客用のあずまやが設置されています。


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そして頂上の本丸

昭和13年(1938年)に建てられた石碑があります。


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摩耶山合戦に勝利した赤松軍は、これを好機と捉え、京都近くまで攻め上りますが、そこで今度は逆に幕府六波羅軍に反撃されて後退し、ここ滝山城に立て籠もったそうです。

赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃し、ふたたび六波羅軍を攻撃しますが、またしても敗退。

その後、赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六波羅軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たし、六波羅を攻略するに至ります。

その拠点となったのが、ここ滝山城だったんですね。


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その後、滝山城の城主は則村の息子・赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子・赤松光範に戻ったりしたそうですが、やがて歴史の記録からその名が消え、再び滝山城が記録に登場するのは戦国時代、三好長慶の西の拠点として松永久秀が改修したことで登場します。

その後も幾度となく戦いの舞台となり、最期は、織田信長に反旗を翻した荒木村重花隈城籠城戦のとき、落城したと考えられているそうです。


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本丸からは、木が茂って景色が見えません。

たぶん、木樹が枯れただったら、神戸の町を望めたのでしょうね。

ここを訪れたのは5月14日。

森林浴には最適な季節でしたが、景色や遺構の縄張りを見るには、冬のほうが良かったかも。

山城を訪れるのは、真冬がいいですね。


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下山して新神戸駅南側から撮影。

写真左側の山が、滝山城です。

700年経った今も、神戸の中心部を見下ろしています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-04-08 11:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その36 「太山寺・太山寺城跡」 神戸市西区

神戸市西区にある太山寺を訪れました。

ここは、霊亀2年(716年)、元正天皇(第44代天皇)の勅願寺として藤原鎌足の子・藤原定恵が開山し、孫の藤原宇合が建立したと伝わる寺で、南北朝時代に建てられたとされる本堂国宝に指定されており、神戸市内ではもっとも由緒あるお寺です。


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この太山寺が、「その29」で紹介した「摩耶山合戦」と、深く関わっていたといいます。


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元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)の挙兵を知った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王は、ここ太山寺の衆徒に赤松応援を命ずる令旨を出しました。

令旨とは皇太子、皇后、親王などが発する文書のことです。


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この令旨は現存するそうで、現在、太山寺に保管されているそうです。

それによれば、「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と記されており、これを受けた同寺の衆徒は、さっそく摩耶山城に陣を布く赤松軍に加勢します。


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現存する太山寺衆徒の軍忠状によれば、赤松軍に加わった太山寺衆徒は、多くの死傷者を出しながらも、摩耶山の合戦、尼崎の合戦、坂部村の合戦を戦い、さらに京都まで攻め上ります。


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この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


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寺の東の背後の山上には、太山寺城跡があります。


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城跡への登山道には、古い石仏が連なるように並んでいます。


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堀切跡でしょうか?


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郭跡らしき山頂の削平地には、大きな石仏が建てられていました。

ここが本丸跡だとしたら、比較的小さな規模の城だっただろうと思われます。


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鎌倉幕府の滅亡に一役買った太山寺は、その後、多くの末寺をかかえ、寺内には、41もの支院や僧坊を数えましたが、やがて時代とともにその力を失っていき、現在は五つの支院を残すだけとなっています。


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現在の太山寺は、そんな往時を偲ぶものものしさは少しもなく、桜や紅葉の名所として、市民に広く親しまれています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-04-06 19:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その35 「山王神社」 神戸市北区

専念寺から南西に300mほどのところにある「山王神社」を訪れました。


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ここは何の予備知識もなく、専念寺を訪れたついでに、同じ集落で目に入ったので立ち寄ってみたのですが、偶然にも、ここも赤松則村(円心)・則祐父子ゆかりの神社だったようです。


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拝殿です。


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拝殿横に設置された説明板です。

「建武動乱の折り、戦勝を祈願して円心・則祐が金幣などを奉納した」とありますね。

でも、前稿の専念寺と同じく、その立地から考えると、建武年間(1334~1338年)ではなく、元弘3年(1333年)2月の摩耶山合戦の戦勝祈願ではなかったかと想像します。
赤松氏といえば播磨国の印象が強いのですが、神戸市内にもゆかりの史跡が多くあるんですね。

このたびの史跡巡りで、はじめて知りました。


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説明板では、源義経一の谷の戦いの戦勝を祈願して、弓矢を奉納したとも書かれています。

有名な「ひよどり越え」の場所は諸説ありますが、六甲山脈の北側(通称:裏六甲)は義経の進軍路と考えられていますから、この辺りでは義経の伝承も多くあります。

また、別の機会に紹介します。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-04-05 18:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第13話「城主はつらいよ」 ~地頭・井伊直虎~

 かくして井伊家の家督を相続し、幼い虎松(のちの井伊直政)が成長するまでのあいだ、執務をとることとなった次郎法師あらため井伊直虎ですが、具体的にいつ家督を継承したかはわかっていません。その目安となる史料としては、地頭として直虎が龍潭寺南渓瑞聞和尚に宛てた寄進状が残されており、永禄8年(1565年)9月15日付けとなっていることから、おそらくその数ヶ月前と考えられています。


 直虎が地頭になった経緯を、『井伊家伝記』はこう伝えます。


 「中野信濃守井伊保を預り仕置成され候跡に、討死の後は地頭職も之れ無く候。之に依り、直盛公後室と南渓和尚相談にて次郎法師を地頭と相定め、直政公の後見を成され、御家を相続成さる可き旨ご相談にて、次郎法師を地頭と定め申し候。(瀬戸保久に下され候家康公の御判物に、地頭次郎法師とこれ有り)其節井伊家御一族、御家門方々にて戦死、直政公御一人殊に御幼年故、井伊家御相続御大切に思召され候也。」


 上記()内注釈で、そこには、井伊家を支えた瀬戸保久(方久)に、のちに徳川家康が与えた判物「地頭次郎法師」とあったので、この判物が、直虎が地頭職に就いたことを証明している、と伝えています。つまり、それくらい直虎の地頭職就任に関する史料は少ないんですね。


 また、井伊家に関する一次史料には、次郎法師が還俗して「直虎」と名乗ったとするものは存在しません。『井伊家伝記』によると、「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあるのみで、「直虎」という名は出てこないんですね。では、「直虎」という名はどこから来たかというと、唯一、蜂前神社に伝わる徳政令に関する文書に「次郎直虎」との署名があるそうで、花押が押されているそうです。花押とは、現代でいうところのサインみたいなもんですね。


歴史上、この直虎の花押以外で女性が花押を使用した例はなく、そのことから、直虎は実は男なんじゃないかという説も根強くあります。最近でも、直虎が男だったのではないかと取れる史料が見つかって話題になっていましたね。ただ、これらの説は井伊家の女性地頭の存在をも否定しているわけではありません。井伊直盛が出家して次郎法師と名乗り、のちに虎松を後見したという記録は複数の史料に記されていることです。つまり、いま疑問符が打たれているのは、次郎法師と直虎は別人なんじゃないか?・・・ということで、次郎法師が女性だったという通説は、いまのところ覆っていません。


 ちなみに、「地頭」とは、中学校の日本史でも習ったと思いますが、年貢の徴収権、警察権、裁判権をもった在地領主のことで、戦国時代は、守護の被官となっていました。つまり、井伊家は井伊谷の領主でありながら、地頭として駿河国守護の今川家の被官だったわけです。


 さて、今話は地頭となった直虎が領民からの徳政令の願い出を安請け合いしてしまい、右往左往するといった話。「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。歴史的には鎌倉時代からある制度で、災害借金に苦しむ人々を救済する制度です。競馬やパチンコで借金まみれになった人は救ってくれません。ただ、借主がいれば貸主もいるわけで、扱いが難しい制度でもありました。領主となった直虎の領国経営の業績で、最も知られているのがこの徳政令です。ただ、今話のストーリーはすべてドラマの創作。実際には、今川氏真が井伊家の領内に徳政令を発布するものの、直虎は2年間それを抵抗しつづけたという話で、今話はそれにつなげるための伏線と、今後、直虎と深く関わってくるであろう瀬戸方久の顔見せの回ですね。というわけで、徳政令の話は次回に。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-04-03 18:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その34 「唐櫃城跡(専念寺)」 神戸市北区

神戸市北区の有馬温泉の近くにある「専念寺」というお寺の地が、かつて唐櫃城があったとされる場所で、赤松則村(円心)が一時滞在していたといわれているそうで、訪れました。


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専念寺は、「その33」で紹介した五社八幡神社から直線距離にして約2km南にあり、摩耶山城からは六甲山脈を超えた北側になります(神戸では、六甲山北側のことを「裏六甲」といいます)。


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現地説明板によると、円心が滞在していたのは「建武の頃」とありますが、その立地から考えると、円心がこの地に居たのは、摩耶山合戦の頃、すなわち元弘3年(1333年)2月前後ではなかったかと想像します。


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説明板によると、境内には円心とその三男・赤松則祐供養塔があると紹介されているのですが、肝心の供養塔を示す標示がなかったので、どれかわかりませんでした。

ご住職に訪ねようと思ったのですが、どなたかの法事が行われていて、聞くこともできず・・・。

とりあえず、それっぽい古い石碑を片っ端に撮影しました(笑)。


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これなんて、円心と則祐が二つ並んでるっぽくないですか?


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たぶん、この中のどれかです(笑)。


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唐櫃城の遺構らしきものは確認できませんでした。

たぶん、この裏山なんでしょうが、柵があって入れませんでした。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-31 17:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その33 「五社八幡神社」 神戸市北区

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。


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その甲斐あって赤松軍は幕府六波羅軍に大勝し、倒幕の勢いにのります。

鎌倉幕府の瓦解は、遠く離れた神戸のまちから始まっていました。


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時代は下って戦国時代、三木城主別所長治の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうですが、羽柴秀吉軍の三木攻めの際、兵火により社殿を焼失したと伝わります。

その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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しかし、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものと判明。

そこで、国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。


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現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-30 20:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その32 「五鬼城展望公園」 神戸市灘区

摩耶山の麓にある、「五鬼城展望公園」を訪れました。

かつてここは摩耶山城のひとつだったと考えられています。

摩耶山の登山口に位置し、「摩耶山合戦」に関わっていないはずはないと思い、シリーズに加えました。


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「五鬼城展望公園」へのルートは、摩耶山登山道と同じです。


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五鬼城の名称の由来は、昔この地を支配していた豪族・五鬼氏からきたものだそうです。

以下、説明板より引用。


五鬼城之由来


昔この地に五鬼氏と云う豪族が住んでいた。祖頃この辺りは昼尚鬱蒼たる大森林に覆われていた。この自然の要塞を砦として外敵のしばしばの襲来にも一度として敗れた事なく、従って一族は益々隆盛を極めて繁栄したものである。当時この付近に住む土着民達の暮しは大変貧しく「病気貧乏ふしあわせ」等で苦しむ人々が多く実に憐れな生活であった、此の姿を見た五鬼氏は五情の戒めを説いて幸せの道として多くの人々の救済に尽くされた。この素晴らしい威徳を讃えて永くこの地の守護神とされたが、今日では僅かに五鬼城の名称のみ残されているにすぎない。


五鬼城講


調べてみましたが、五鬼氏という豪族がいつの時代にいたのか、よくわかりません。

そもそも、この伝承が事実かどうかも定かではありません。


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南北朝時代から戦国時代にかけて、志摩国の海を支配した水軍で有名な九鬼氏がいますよね。

「九鬼氏」「五鬼氏」・・・なんか関連があるのかな?

ここ摩耶山周辺も海に近い海運の要地

あるいは、五鬼氏も兵庫津を支配する水軍だったのでは・・・なんて、これ、すべて私の想像で、根拠はありません。


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公園は標高270m付近にあり、神戸市東部から大阪湾にかけて一望できる展望台になっています。


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西南の三宮方面の眺望です。


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ビルの間に港神戸の象徴ポートタワーが埋もれています。

わたしが子どもの頃は、ポートタワーが神戸でいちばん高かったんですけどね。


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真南の眺望です。

遥か彼方に見えるのは、大阪泉南から和歌山にかけてです。


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そして西側の眺望、大阪湾が一望でき、その彼方に見える山は、右から「その14」「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山、その左が葛城山、そして「その27」で紹介した二上山です


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拡大です。


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ちなみに写真左端に見えるのが、「その30」で紹介した神戸大学キャンパス、その少し右に見える森が、「その31」で紹介した六甲八幡神社です。

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神戸大学にズームイン。

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六甲八幡神社にズームイン

こうして見ると、戦場となった位置関係がわかりますね。

赤松則村(円心)・則祐親子はこの地に立って一王山十善寺の配下と連携を取りつつ、八幡の森に陣を布いていた六波羅軍を撃破したわけです。

たしかに、この位置関係を見れば、赤松軍の圧勝の理由がわかるような気がしますね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-29 18:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第12話「おんな城主直虎」 ~井伊直親の最期と井伊直虎の誕生~

 井伊直親の最期の回でしたね。その伝承によると、直親が松平元康内通しているという小野但馬守政次の讒言によって、今川氏真は大いに驚き、ただちに井伊谷に軍勢を差し向けようとしますが、今川氏の一族でありながら井伊家寄りだった新野左馬助親矩が、氏真に思いとどまるよう説得し、出撃は中止されます。親矩の妹は亡き井伊直盛の妻で、つまり、次郎法師の母でした。さらに、親矩の妻は井伊家一族の奥山因幡守朝利の妹でもあり、親矩は今川氏の一族として井伊家の目付家老でありながら、井伊家と深い絆で結ばれていたんですね。


 そんな背景もあって、氏真は親矩の説得を心から納得していなかったのかもしれません。あるいは、零落著しい今川氏にあって、氏真は疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね。氏真は直親を許すつもりはありませんでした。


 親矩から報せを受けた直親は、逆心がないことを弁明しようとただちに駿府城に向かいます。「行けば殺される」と止める家臣も多かったと思われますが、直親は強行したんですね。あるいは殺されるかもしれなくても、この時点では、そうするしかなかったのでしょう。永禄5年(1562年)12月、直親は家臣18人を従えて、井伊谷を発ちます。


 通説に従えば、12月14日、井伊谷から東南東に35kmほどのところで、遠江国掛川城主朝比奈泰朝の兵に囲まれます。このときのことを『井伊家伝記』は、「掛川通りの節朝比奈備中守取り囲み一戦に及び、直親主従共粉骨を尽すと雖も、無勢故終には傷害成され候」と記します。


また、『寛政重修諸家譜』には「十二月十四日遠江国掛川をすぐるところ、城主朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)その意しらず。氏真をせめむがために、行くならむとおもひ、俄に兵を出して囲みうつ。直親やむ事を得ずしてこれとたゝかひ、終に討死す。年二十七」とあります。つまり、泰朝は直親が申し開きのために駿府に向かっていると知らず、駿府を攻めるためだと勘違いし、兵を出して襲撃した・・・と。まあ、このあたりの理由は、後からどうとでもいえますよね。おそらく、氏真は最初から直親の抗弁など聞くつもりはなく、泰朝に命令して殺させたのではないかと・・・。


 かつて直親の父・井伊直満は、政次の父・小野和泉守政直讒言によって今川義元殺害されました。そしてまた、直満の子・直親は、政直の子・政次の讒言によって、義元の子・氏真に殺されたわけです。なんという因縁でしょう。安物の脚本家でも、こんな出来すぎた設定は考えないのではないでしょうか。まさに事実は小説より奇なり。ドラマでも、この親子二代の因縁を、もうちょっとクローズアップしてほしかった気がします。


 直親の死後、ドラマでは一族最長老の井伊直平中野直由新野親矩が瞬く間に死んでしまいましたが、実は直平らが死んだのは直親の死から9ヵ月後のことでした。しかも、直平の死は毒殺だったという説もあり、十分にドラマになったと思うのですが、ナレーションだけでこの世を去っちゃいましたね。早くおんな城主を誕生させたかったのかもしれませんが、直親の死からあとの井伊家の窮地がもっとも面白いところだと思っていたので、そこをもっとじっくり描いてほしかった気がします。その井伊家存続の危機があったから、おんな城主が誕生したわけで・・・。


直平が死んだことで、ついに井伊家を継ぐ男子は直親の忘れ形見・虎松だけとなりました。しかし、虎松はまだ幼く、後見が必要です。そこで白羽の矢が立ったのが、次郎法師だったんですね。ドラマのとおり、次郎法師を後見に推したのは、南渓瑞聞和尚だったといいます。かくして、おんな城主・井伊直虎の誕生です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-27 17:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その31 「六甲八幡神社」 神戸市灘区

阪急六甲駅のすぐ南にある森が、六甲八幡神社です。

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『太平記』によると、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」において、摩耶山城に籠る赤松則村(円心)に対し、幕府六波羅の軍勢が「八幡林よりぞ寄たりける」とあるのですが、その「八幡林」が、ここ八幡神社の森と考えられています。

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いまは街なかにありながらも、境内は広い森となっています。

このあたりの住所は現在も八幡町といい、たぶん、当時はこの辺り一体が森だったのでしょう。

5000の大軍が身を隠すには、もってこいのロケーションだったのでしょうね。

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六甲八幡神社の創祀は、万寿3年(1026年)、この地に水原氏が八幡神を祀っていたものを、治承4年(1180年)の福原遷都に伴い、平清盛石清水八幡宮を勧請したものといわれています。

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その後、戦国時代の戦乱によって荒廃していましたが、天正年間(1573~92年)に林播磨という人によって修築され、寛政7年(1795年)には、その孫の林清兵衛が社殿等を改築。

さらに、領主の石河氏春日大社旧社殿移築したのが、現在の本殿だそうです。

このあたり一帯は、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた地域であり、本殿も全壊してしまいましたが、現在は彩色も鮮やかに復興されています。

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ここはわたしの会社から近く、よく通る場所だったのですが、このたび太平記のことを調べていて、ここが関連史跡だと知りました。

いにしえの先人たちの足跡は、けっこう身近にあるものですね。




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太平記を歩く。


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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-26 01:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)