おんな城主 直虎 第27話「気賀を我が手に」 ~義信事件と瀬戸方久城主説~

武田義信、まだ死んでなかったんですね。幽閉の報せが届いたのがずいぶん前(たしか18話)だったので、てっきりもう死んじゃったとばかり思っていました。井伊直虎が城主になって以降、物語の進行がひじょうに緩やかなので、時代背景がわからなくなります。


 義信の幽閉、廃嫡からそのまでを簡単におさらいしておくと、永禄8年(1565年)、義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)曽根周防守らが武田信玄暗殺を企てるも、計画は事前に虎昌の実弟・飯富三郎兵衛によって露見し、同年10月、虎昌ら側近たちは謀反の首謀者として処刑されます。その後、義信は甲府の東光寺に幽閉され、義信の正室で今川義元の娘・嶺松院(実名は不明)と強制的に離縁させられ、嫡子としての地位も異母弟の武田勝頼に奪われます。そして2年後の永禄10年(1567年)10月19日、義信は幽閉先にて死去しました。享年30


 ドラマではその死を自害と伝えていましたが、病死という説もあって定かではありません。また、自害説のなかでも、絶望した義信が自らの意志で自害したという説と、信玄に命じられて切腹したという説があります。昭和最後の大河ドラマ『武田信玄』では、前者の設定でしたね。まあ、どんな感情のもつれがあろうと親子ですから、父親が息子を死に追いやったとは思いたくありませんが、一方で、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったともいわれ、対今川氏の方針をめぐって父子の間で対立を深めると、親今川派を一掃するために、信玄自身が自身の暗殺計画をでっち上げて粛清したという見方もあります。さすがは戦国時代、親子といえども血も涙もない話ですが、しかし、見方を変えると、飯富ら側近がすぐさま処刑されたにもかかわらず、義信は2年間生きながらえたことを思えば、やはり、そこには親心があったのかなぁ・・・とも。結局のところ、真相は藪の中です。


 ただ、いずれにせよ、この義信の死が今川氏真にとって大打撃だったことは間違いないでしょう。今川氏にとって武田義信夫妻は武田氏との唯一の架け橋であり、これを失うということは、武田氏との国交断絶、全面対決を意味します。義信の死の翌月には、嶺松院が駿河に送り返されています。ドラマの氏真、荒れてましたね。


 で、話は変わって気賀堀川城ですが、なんか色々あったすえに井伊家が治めることになりましたが、実際には、そのような説は存在しません(たぶん)。ただ、瀬戸方久城主を務めたという説は存在します。というのも、この時期、方久は今川氏真に取り入り、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得る代わりに、堀川城、刑部城などの築城の費用を請け負っていたといわれます。また、堀川城の城代として入った大沢基胤配下の新田友作という地元領主が、後年、出家して「法休喜斎」と名乗っていたそうで、これらの逸話から、新田友作と瀬戸方久が同一人物ではないか、というんですね。まあ、俗説ではありますが、ドラマでは、方久は井伊家の家臣という設定ですから、方久が城主(あるいは城代)になるのであれば、堀川城は井伊家のものということになるんでしょうね。


 もっとも、盗賊団が城の普請をするなんて話は、古今東西聞いたことがありません。まあ、城といってものようなものだったでしょうから、気賀の領民が工事を手伝ったということはあったかもしれませんが、設計を任すなんてことはありえません。盗賊に設計なんてさせるから、あんなヘンテコリンな城になっちゃうんですよ。満潮干潮を利用した画期的な設計だそうですが、湖といえども荒波もあれば高波もあります。あの城、波浪警報が出たら一巻の終わりだと思いますよ。


 「大したものだ」(政次)


どこが!!!(笑)



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-10 21:41 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その83 「三石城跡」 岡山県備前市

岡山県備前市にある三石城跡を訪れました。

ここは「その10」で紹介した船坂峠から西へ1kmほどの場所にある標高297mの山城で、備前国の東の玄関口を守る城でした。


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『太平記』によると、元弘3年(1333年)に三石保地頭の伊東大和二郎が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の挙兵に呼応して築いたと伝わる城で、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)白旗城にて新田義貞を50日間足止めにする戦いを演じた際には、足利尊氏の家臣・石橋和義がこの城を守備し、白旗城を援護したといいます。


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城跡に登るルートは、城山南側の大手から攻めるコースと、北側の搦手から攻めるコースがありますが、この日は駐車スペースがある搦手側から登ります。


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車道といってもは終始こんな感じの狭い道で、ガードレールもなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながら進みます。


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ここに車を停めて、ここからは徒歩で登山です。


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説明板です。


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北側から望む城山です。


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登山道はこんな感じで整備されていて、歩きにくいといったことはありません。

ですが、傾斜は結構キツイです。


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登山途中に設置された東側を望む第一展望所


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こちらは、南西を望む第二展望所


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30分ほど歩くと、城跡に到着。

まず着いた場所は、本丸北側の鶯丸跡です。


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こちらは、鶯丸跡と本丸跡の間を通る大きな堀切跡です。


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そして、いきなり本丸跡です。

搦手から登城したので、本丸から順番に下っていきます。


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約500坪あるそうです。


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居館跡には、説明板が設置されています。


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足利尊氏は九州に落ち延びてから再挙東上するまでの間、備前国には足利一族の石橋和義を大将に据え、守護の松田盛朝ら国人衆を組織して軍備を固めました。

そして建武3年(1336年)、白旗城の赤松則村(円心)、感状山城赤松則祐とともに新田軍約6万を迎え討ち、足止めにします。

その間、態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて進軍し、勝利します。


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本丸跡には、軍用石の残骸が残っています。

攻め寄せる敵に対して本丸からこの石を投じていたわけです。


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木々が邪魔でわかりづらいですが、本丸跡から見下ろした南側の集落です。


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本丸から南西に下った二の丸跡です。


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こちらは三の丸跡

長細い敷地です。


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三の丸南側には、立派な石垣跡が残っています。


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こちらは、三の丸東側の馬場跡


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そして、こちらが三石城最大の見どころ、大手門です。

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見事に残った野面積の石垣の遺構。

感動ものです。


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足利幕府が誕生し、赤松則祐が備前守護職となると、その重臣の浦上宗隆が守護代となって三石城に入り、その後、室町時代から戦国時代にかけて浦上氏の歴代の居城となります。


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これだけ立派な遺構を残した城跡ですが、この日、登山の道中ひとりも人に出会いませんでした。

あまり知られていないようですね。

城めぐり好きな方は、必見の史跡ではないでしょうか。


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おまけ。

城山下山途中にある、深谷の滝です。

たぶん、『太平記』の時代にもあったのでしょうね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-08 00:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その82 「大嶋城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から南東7kmほど下った相生湾の入江にある大嶋城跡を訪れました。

ここも、赤松則村(円心)に関係する城です。


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写真に写るおわん型の山が、大嶋城跡と伝わる大島山です。

かつて大島山は蝦江(相生湾)に浮かぶ離れ島だったそうで、長治元年(1104年)、播磨国の海老名家季がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。

海老名氏は、代々矢野荘別名の下司職、矢野荘例名の地頭職等に任ぜられた豪族です。


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ここを訪れたのは4月、桜が満開の日でした。


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登山口には、「大嶋城址」と刻まれた石碑が建てられています。


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側面には説明書きが。

建武3年(1336年)5月19日、児島高徳の父・和田範によって火を放たれ、灰燼に帰したとあります。


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大島山の由来です。

この説明書きによれば、保元2年(1157年)に小千通清が架僑し、次に赤松氏が船橋をかけて、赤松則村(円心)のときに、ここに城を築いたとあります。

その後、赤松氏の家臣・宇野弥三郎重氏速弥太の兄弟が城主となったとあります。

そして、焼失したのは嘉吉の乱のときと伝えています。

石碑の説明と少し違いますね。


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山頂にも、説明板が設置されていました。

こちらの説明では、石碑と同じく海老名家季が築城主としています。

建武3年(1336年)の白旗城の戦いのとき、7代目海老名景知は赤松方に属し、弟の詮季や同族の泰知と共に白旗城にたてこもって戦功をあげましたが、留守にしていたここ大嶋城は、新田義貞軍によって焼き落とされたといわれています、とあります。

築城、落城共に、諸説あるようですね。


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現在、山頂には住吉神社善光寺が並んで鎮座しています。

大嶋城は別名・浜御殿と呼ばわれるほど、美しい城だったといいます。

かつては離れ島だったことから、洋上の要塞といった感じだったのでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-06 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その81 「感状山城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から東へ7kmほどの場所にある感状山城跡を訪れました。

ここは、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)が白旗城にて新田義貞軍を50日間足止めにする戦いを演じた際、円心の三男・赤松則祐が、父に呼応してこの城に籠城し、白旗城を援護したと伝わる城です。


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もとはこの城は瓜生城と呼ばれ、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられますが、「白旗山合戦」の戦功により、足利尊氏から感状を与えられて「感状山城」と呼ばれるようになったと伝えられています。


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標高305m、比高220m感状山ですが、中腹に「羅漢の里」というキャンプ場公園があり、そこから約650mの道のり。

登山道も整備されていて、2.5kmの険峻な登山だった白旗城跡に比べれば、楽に登れます。


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整備された登山道を15分ほど登ると、大手門跡にたどり着きます。

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その横には、物見岩跡があります。


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そのすぐ北側に曲輪跡」があります。

いわゆる「三の丸」のことですね。


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かなり広い面積です。


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ここから急な岩場を登ります。

おそらく、石垣が崩れた跡でしょう。


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岩場を登ると、みごとな石垣の遺構が目に入ります。


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標識には、「南曲輪群」とあります。


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綺麗に残っていますね。

中世の山城では、これほどみごとな石垣跡はなかなか見られないのではないでしょうか。

ただ、この石垣が南北朝時代のものかどうかはわかりませんが。


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南曲輪群から見た南側の眺望です。


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そしてその北側が曲輪跡」です。


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そして更に北へ進むと、曲輪跡」に到着します。

つまり「本丸」ですね。


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曲輪は広大でしたが、曲輪、曲輪は、それほど広い面積ではありません。

白旗城の支城ですから、本城よりは規模の小さなものだったのでしょう。


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本丸からの東側の眺望です。


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その後の感状山城については詳しくはわかっていませんが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉上月城攻めの際に落城したとの説があります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-05 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その80 「高田城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

「その72」で紹介した白旗城から直線距離にして南へ約5km駒山城から東へ約5km苔縄城から南東に6kmほどのところに、高田城跡があります。

写真中央にそびえる標高359mの山頂が、高田城だったとされています。


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時系列から少し逆戻りしますが、ここは元弘3年(1333年)に苔縄城にて赤松則村(円心)幕府打倒の兵を挙げたとき、東進する赤松軍によって攻め落とされたと伝えられます。


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『太平記』によると、挙兵した赤松軍は苔縄城からまず山陽道を西へ下り、「その10」で紹介した国境の船坂山六波羅探題の軍勢を破り、転じて東の高田兵庫助の城を攻め落とした勢いで、京へ向かって攻め上ったとあります。

その高田兵庫助の城というのが、ここ高田城と考えられています。


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山の麓にある奥甲八幡神社は、高田城主の居館跡と見られています。


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拝殿はかなり古いように思いますが、由緒書きや説明書きがないため、詳細はわかりません。


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こちらの建物には、絵馬や由緒書きが掲げられているのですが・・・。


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由緒書きは文字が消えてて一切読めません。


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絵馬も、ほとんどが色褪せていて、説明書きもないためほとんどわかりません。


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唯一分かったのがこれ。


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「南朝忠臣村上彦四郎義光」とあります。

村上義光後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

その後、元弘3年(1333年)の吉野山の戦いで、親王の鎧を着て身代わりとなり、切腹して果てました。

このとき、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る人物です。


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これだけ多くの絵馬がありながら、何の説明書きもないとは残念ですね。

帰宅してググってみても、ここ奥甲八幡神社の情報は皆目見つかりません。

あまり知られていないようですね。


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神社の裏山へ向かい、登山口を探しました。


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神社の西から北へ谷間を入る林道を行くと、防獣ネットで囲われた登山口が。


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少し登ってみたのですが、ほとんど登山道らしき道がなく、かなり険しそう。

午前中に駒山城を登った疲れもあり、季節がらマムシも怖かったので、登城は断念することにしました。


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ここを訪れたのは6月18日。

田植えが終わった美しい田園の景色を堪能しました。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-04 23:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第26回「誰がために城はある」 ~領民ファーストの当主~

 「おんな知事 百合子」の圧勝ドラマと藤井聡太四段の初黒星の話題でもちきりの週明けですが、当ブログの月曜日はあくまで井伊直虎です。


前話で一段落したかに思えた材木騒動ですが、まだ引っ張るとは(苦笑)。三河の徳川氏に流れかけていた材木を間一髪取り戻し、駿府に持ち込んで忠義を示した井伊家でしたが、今川氏真はその忠義を認め、材木をそのまま駿府に留め置くよう命じます。安堵する直虎と家臣たち・・・って、材木の代金は? あれだけ苦労して伐採した井伊家の財産なのに、今川家に進呈しちゃうの?・・・なんとも理不尽な話です。


 で、その材木を使って気賀に今川氏配下のを築くということになり、商人たちは憤怒。その話を聞いた龍雲丸は、井伊家に怒鳴り込んできます。


「文句があるなら駿府に言うことだ!」(小野但馬守政次)


 まったくもって政次の言うとおりです。そもそも、材木が手に入ったから築城の計画が出たなんてことはあるはずもなく、もともとあった築城の計画にこの材木を利用しようという話しで、材木を供給した井伊家がその使いみちを指示したわけでもありません。ましてや、あれしきの材木量で城が建つはずもなく、せいぜい門ひとつぐらいでしょう。


「恩を仇で返すのが井伊のやり方か!」(龍雲丸)


 お門違いも甚だしいですね。しかし、そんな的外れな苦情を真剣に受け止め、気賀や龍雲党を気に病む直虎。


 「お前は一体どこの当主なのだ!」(政次)


 これももっともです。当主たる者、自家、自領のことを一番に考えてもらわねば。
領民ファーストです。


 少しだけ歴史の話しをすると、気賀に築こうとしている城は後世にいう堀川城で、ドラマのとおり、ちょうどこの時代に今川氏が徳川家康遠江侵攻に備えて築城したと伝えられます。そして、その統治を隣国の堀江城主で今川氏に忠実な国衆である大沢基胤に任せたというのも、通説どおりです。大沢基胤は離反が相次ぐ今川氏配下の国衆のなかで、最後まで今川氏のために奮戦した忠義と武勇の人物です。


 この堀川城を井伊家で治めては?・・・と提案する瀬戸方久。少しネタバレになりますが、この設定は、今川氏真かが瀬戸方久に出した安堵状のなかに、堀川城の備蓄を賄うよう指示したものがあり、おそらくその話に直虎をからめてくるのでしょう。そのあたりは次週に描かれるかと思うので、ここでは控えます。


ところで、桜の夫・庵原助右衛門朝昌「変なクセ」って何だったんでしょう? 今話でもっとも気になったのは、そこでした(笑)。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-03 18:54 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その79 「宝林寺(円心館)」 兵庫県赤穂郡上郡町

松雲寺赤松居館跡がある赤松から千種川を挟んだ西側の河野原に、宝林寺という寺院があるのですが、ここは、赤松則村(円心)の三男・赤松則祐が、円心の死後、播磨国守護・惣領家を継いだときに建てたといわれています。


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もともと宝林寺は円心の生前から、則祐の自領だった備前国新田荘中山に創建されていましたが、惣領を継いだ後の文和4年(1355年)にこの地へ移されたとつたわります。

その後、赤松惣領家の氏寺として、代々手厚く保護されました。


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かつては河野原集落の全域が境内地であったとみられているそうですが、戦国時代には赤松氏とともに衰微したとみられています。


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現在、境内には赤松氏の資料館「円心館」が設けられ、館内には、赤松則村(円心)、赤松則祐、雪村友梅別法和尚説も)、覚安尼(千種姫)木坐像が安置されています。


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本来は撮影禁止ですが、館を管理する松雲寺の住職さんに、フラッシュをたかないという条件で特別に撮影の許可をいただきました。


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まずは赤松則村(円心)坐像

右手に、左手にを携えた法体姿で、禅僧の九条袈裟と異なる五条袈裟を掛けているは、円心が半僧半俗の沙弥(しゃみ)であったことを示すそうです。


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アップです。

眼球は水晶球だそうですが、眼光鋭く、圧倒されます。


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こちらは、円心の三男・赤松則祐坐像

ここ宝林寺の建立者ですね。

こちらも右手に扇を持っていますが、刀は携えていません。

則祐坐像は、元は京の建仁寺にあったのが、後に宝林寺に移されたといわれているそうです。

禅僧の九条袈裟を掛けた姿は、若くから出家して僧侶のまま武将として活躍した則祐の人生を物語ります。


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アップです。

円心に比べると、顔が小さく首も細いようです。


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こちらは雪村友梅坐像

宝林寺の開山「別法和尚」坐像と伝えられていますが、実際の開山・雪村友梅の像とみられるそうです。

雪村友梅は、「その74」で紹介した法雲寺の開山でもあります。

その隣の坐像は、覚安尼坐像

覚安尼は、円心もしくは則祐の娘千種姫が出家剃髪した姿と伝えられます。


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友梅のアップです。


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この際なので、いろんな角度から。


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ご住職の話によれば、坐像を調査したところ、のちの時代に手を加えた修理銘が見られるため、「国宝」扱いににはならなかったそうです。


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でも、鎌倉彫刻の名残をとどめる価値を認められ、「赤松三尊像」として兵庫県の指定文化財となっています。


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館内には、他にも甲冑太刀書簡など、赤松氏関連の史料が展示されています。

見学料300円は安いです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-06-30 21:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その78 「松雲寺」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した五社八幡神社のすぐ西隣にある「松雲寺」を訪れました。

ここは、元は白旗城の麓にあった栖雲寺(参照:その72)を継承する寺院として、江戸時代に創建されたと伝わります。


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元の栖雲寺は、赤松則村(円心)の次男・赤松貞範が建立したといわれ、禅宗寺院でしたが、この地に移って松雲寺と名を改めたとき、真言宗に改宗したそうです。


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貞範は『太平記』の中で、勇猛果敢な戦いぶりや情け深く敵と交わり味方に引き入れるなど魅力的な人物として描かれ、白旗城の籠城戦でも大きな戦果をあげたことから、その軍功として丹波春日部荘足利尊氏より与えられ、以後、春日部家として足利将軍家に仕え、播磨守護職の赤松惣領家同格の存在となります。


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ちなみに赤松惣領家は、円心の長男・赤松範資が病死したため、三男の赤松則祐が継ぎました。


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境内には、推定樹齢700年から800年といわれるカヤの大樹が聳えます。

説明板の解説によると、樹高は約24.8m、目通り直径約1.6m、根周り約8.3m、枝の広がりは東西約19m、南北16mあるそうです。


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樹齢700年以上といえば、ここ松雲寺はもちろん、赤松居館が作られる以前からこの地にあったかもしれない木です。

「その74」で紹介した法雲寺ビャクシンの大樹は、円心手植えの木という伝説があります。

あるいは、このカヤの大樹も、円心もしくは貞範、則祐らと関わりがあるのかもしれませんね。


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赤松の集落にそびえるその大樹は、今なお樹勢は衰えていません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-06-29 21:10 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その77 「赤松五社八幡神社」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した赤松居館跡のすぐ西隣にある「五社八幡神社」を訪れました。

「五社八幡神社」という名の神社は「その33」で紹介したように神戸市北区にもありますので、ここでは便宜上、「赤松五社八幡神社」と呼ぶことにします(このあたりの住所は、上郡町赤松といいます)。


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参道には、「赤松圓心廟影堂」と刻まれた石碑がありましたが、これは近くの「宝林寺」のもののようです。


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赤松五社八幡神社は、赤松則村(円心)の三男で領家を継いだ赤松則祐が建立したといわれ、明治32年(1899年)には、白旗城麓にあった白旗神社を合祀したそうです(参照:その57)。


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拝殿です。

拝殿内には、中世から戦国時代にかけての武将が描かれた絵馬が、数多く奉納されていましたので、紹介ます。

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まずは、左から北畠親房、源頼朝、源義経


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左から毛利元就、源為朝


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左から吉川元長、小早川隆景、山名宗全


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左から平知盛、細川幽斎(藤孝)


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左から太田持資(道灌)、鈴木重幸、児島高徳


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左から足利義詮、大内義弘


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左から北条時宗、源義朝、北条時頼


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右が加藤清正


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左から源義家、平忠度


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左から斯波義将、武田信玄、楠木正行


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左から柴田勝家、豊臣秀吉


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左から伊達政宗、北条氏政


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左から織田信長、北畠信雄、名和長年


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左から平重盛、上杉謙信


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左から新田義貞、源頼政、新羅三郎義光(源義光)


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左は佐々木高綱、右は・・・明記されていません。だれでしょう?


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そして最後に細川勝元


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というわけで、人選配列も何を基準にしているのかよくわかりませんが、時代が違った英雄たちの絵馬がずらりと掲げられていました。

『太平記』関連でいえば、南朝方の児島高徳、楠木正行、新田義貞、北畠親房、名和長年の絵馬があるのに、なんで楠木正成がいないんでしょうね?

それに、どういう理由か、郷土の英雄である赤松氏からの人選がありません。

ただ、こんなのがあります。


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左は長山遠江守、右が赤松弾正と明記されています。

長山遠江守がよくわからないのですが、名門・土岐氏の人物のようで、赤松弾正というのは、円心の四男で則祐の弟にあたる赤松氏範のことだそうです。

氏範は3人の兄と仲が悪く、円心の死後はひとり南朝方に与し、幾度となく兄弟対決を繰り返しながら、最後は京都の清水寺自害した人物です。

絵馬には、明治11年と記されています。

明治以降の天皇家の歴史認識では南朝が正統とされていますから、赤松氏では唯一南朝方に与した氏範だけが、絵馬としてここに祀られたのかもしれませんね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-06-28 22:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その76 「赤松居館跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

少し北に戻って、「その72」で紹介した白旗城跡のある白旗山の西麓にある「赤松居館跡」を訪れました。

国道373号線沿いにある駐車場には、「赤松円心の郷」と書かれた大きな観光用看板があります。


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駐車場内には、赤松則村(円心)を紹介する大きな陶板があります。

とにかく、町全体で円心推しですね。


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居館跡です。


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何もないただの広場です。


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説明板です。


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説明板によると、東西105m、南北約55mのほぼ方半町に削平された台地上の字「御屋敷」にあり、ここが「赤松居館跡」と伝えられているそうです。

史料によると、円心の三男・赤松則祐により建てられ、のちにその子・赤松義則によって修理されているそうです。

また、その子孫で赤松氏を再興した赤松政則も、一時ここに住んでいたとか。


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東側の幼稚園(現在は廃園となり、「赤松の郷昆虫文化館」となっている)の建設前に行われた調査では、土師器皿などの中世の遺物が出土したそうで、ここが赤松氏代々の居館跡と考えて間違いなさそうです。


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居館跡の一角には、なぜか「苔縄城址」と刻まれた石碑があります。

ここは「その73」で紹介した苔縄城跡からは、3km以上離れています。

どういう意味でしょう?


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居館跡から望む白旗城跡です。

この時代の山城というのは居住スペースではなく、臨戦態勢に入ったときに籠るためのであって、平時は麓の居館に住むのが一般的でした。

いつもあんな山の上に居たんじゃ、領民に目を配れないですからね。


さて、次稿では、居館跡のすぐ隣りにある寺社をめぐります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-06-27 23:57 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)