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おんな城主 直虎 第3話「おとわ危機一髪」 ~井伊家の血を引く築山殿~

 小野和泉守政直の息子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦になることを拒んで出家しようとしたおとわ。これが駿府の今川義元の怒りを買うところとなり、おとわを人質に差し出すよう命じられます。ところが、南渓瑞門和尚機転とおとわの情熱によって、出家を条件に人質を免除されるというお話。今話は、すべて創作の回でした。井伊直虎が許嫁だった亀之丞(のちの井伊直親)の出奔後に出家したのは事実ですが、いつ、どのタイミングで出家したのかはわかっておらず、今川家に人質として送られそうになったという記録もありません。


 『井伊家伝記』
によると、直虎は直親出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されており、これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになります。直虎の生年は不明ですが、亀之丞と同年代と考えると、この時点ではまだ10歳前後。『井伊家伝記』の伝えるように自らの意志で出家したとすれば、『寛政重修諸家譜』の記述どおり、もう少し分別の付く年齢となった数年後に出家したと考えたほうが妥当かもしれませんね。


 劇中、南渓が一策を講じて手紙を送った佐名という女性。直虎の曽祖父、井伊直平の娘で、南渓の妹(姉)にあたりますが、実名はわかっていません。『寛政重修諸家譜』によれば、直平には息子5人と娘1人がいたとされ、嫡子・直宗(直虎の祖父)、長女(名は不明)、次男・直満、三男・南渓、四男・直義、五男・直元と伝えます。当時の系図に娘の名が記されることはほとんどなく、長女も「女子」とあるだけですが、そこに、「今川義元が養妹となり、関口刑部少輔親永に嫁す」と記されています。おそらくこの女性が、ドラマの佐名ですね(この養妹の説については諸説あるなかの一説です)。


 ドラマでは、人質として今川に差し出された佐名は、義元お手つきとなったあと、関口親永に嫁いだとされていましたが、当然ながらそのような記録は残っていません。ですが、主君のお手つきを家臣の妻に下げ渡すという話は珍しくなく、あるいは事実もそうだったかもしれませんね。かくして関口親永の妻となった直平の娘は、その後、を生みます。この娘が、瀬名姫ことのちの築山殿です。つまり、築山殿は直平のにあたり、直虎とは従姉妹違い、従叔母ということになります。


 「瀬名は龍王丸様(のちの今川氏真)の妻となり、今川を手に入れるのです。」


 初対面のおとわに対して瀬名姫が言った台詞です。なかなか強欲でしたたかな姫様のようですね。この築山殿の存在が、やがて徳川家康の登場で井伊家にとって大きな恩恵となるのですが、それはずっと後年の話です。


 寿桂尼太原雪斎など今川家の主要人物が顔を揃えましたね。今回はその顔見せの回といったところだったでしょうか。今回、子役の物語が4週という異例の長さで、おとわを演じる新井美羽ちゃんの迫真の縁起が評判になっているようですが、それも次週で見納めですね。次回、いよいよ次郎法師の誕生です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-23 18:45 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は石の柵が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町

前編の続きです。

笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。


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登山口です。

車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。


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古道の入口には、古い石碑があります。


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車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。

傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。


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笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。

木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場信仰の山として崇められてきました。


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笠置山全景です。

このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。


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向こうに見えるのは本堂の「正月堂」

その頭上に、巨大な岩が見えます。

笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。


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写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。


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日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は

磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。

日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。

山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。

笠置山は、そんな巨石信仰山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。


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文殊石笠置石です。

縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。

感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。

手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。

一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。


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本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。

高さ約16メートル、幅約15メートルあります。

かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。


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写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。


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本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。

こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。

高さ約12メートル、幅約7メートルあります。


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弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。


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岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

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その説明板。


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大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。


長くなっちゃったので、次回もう1回だけ笠置山を続けます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その1 「笠置山・前編」 京都府相楽郡笠置町

京都府、奈良県、三重県の3県が交わる県境ちかくにあるJR笠置駅を訪れました。

ここは1日の利用客はがわずか200人余りしかいない小さな山奥の単線の駅で、電車は1時間に1本しか発車しません。


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そんなひっそりとした山奥で、約700年前にわが国の歴史が大きく動きました。

それが、これ!


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元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いのジオラマモニュメント。

笠置駅前のいちばん目立つ場所にあります。

「元弘の乱」とは、鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と、鎌倉幕府北条氏の戦いのことで、ここ笠置山は、その決戦の場となりました。

『太平記』の3巻に出てくる最初のクライマックスです。


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なぜここを訪れたか・・・。

これからしばらく『太平記』に関連する史跡を、関西を中心にめぐってみたいと思い立ちました。

となると、まず最初に紹介すべきは、最初に歴史が大きく動いた、ここ笠置山の地からスタートすべきかと思い、神戸から車で約2時間かけてこの地を訪れました。


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『太平記』は、わが国中世の大乱を描いた戦記文学です。

乱世を描いて、なぜ『太平記』というのか不可解な作品で、その内容は『戦乱記』というに相応しいものです。

作者は宮方(後醍醐天皇方)に近い人物といわれますが、詳細はわかっていません。


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『太平記』の書き出しは、平安時代以来の院政を廃し、天皇親政の世を実現した後醍醐天皇の元亨元年ごろに始まり、北条氏鎌倉幕府の滅亡「建武の新政」の成立、朝廷の分裂南北朝の並立、その南北朝のいずれかに属した公家や武家の興亡、やがて足利尊氏室町幕府を開き、その後、幕府内の抗争「観応の擾乱」、そして二代将軍・足利義詮が死亡する後村上天皇の正平23年(1368年)に至る、46年間が描かれています。

現在伝えられている『太平記』は全40巻あり、日本の歴史文学の中では最長の作品とされています。

もちろん、600年以上前に書かれたものですから、あくまで伝承の域を出ない虚実取り混ぜた話もたくさんありますが、日本の中世を知るにおいて、外せない作品といえます。


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駅前の笠置町産業振興会館の外壁には、「笠置元弘の乱絵巻」と書かれた長い看板が設置されていました。


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絵の下の文末には、<笠置寺所蔵の「笠置寺縁起絵巻」より>とあり、どうやら笠置山上にある笠置寺が所蔵する絵巻を観光客用の看板に仕立てたもののようですね。

通常、絵巻物は右から左へ展開するものですが、駅から笠置山に向かう導線の左側に設置されていることから、左から右へ読んでいく構成になっています。

意図はわかるのですが、縦書きの文章を左から読むのは、けっこう難しい・・・。


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笠置町産業振興会館の館内には、後醍醐天皇楠木正成が初めて対面した場面のジオラマが展示されています。


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『太平記』の3巻によると、笠置山の笠置寺に行在所を設けた後醍醐天皇は、自身の周りに名のある武将が全くいないことに不安に感じていたところ、夢で「木に南」と書く者が自分を助けるとのお告げがあり、その後、河内国の金剛山に楠木正成という者がいると聞き及び、急遽、正成を笠置山に呼び寄せたといいます。

吉川英治『私本太平記』では、後醍醐天皇の呼びかけになかなか応じない正成の心の葛藤が描かれていましたね。

わたしにとっての『太平記』の知識は、ほとんど『吉川太平記』がメインです。

なので、楠木正成のイメージは、やはり武田鉄矢さん。

こんなイケメンではありません(笑)。


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さて、そんなこんなで、しばらく『太平記を歩く』シリーズにお付き合いください。

たぶん、かなり長いシリーズになります。

次稿は笠置山を登ります。





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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-18 22:19 | 太平記を歩く | Comments(0)  

阪神・淡路大震災から22年、いま思うこと。

本日1月17日は、わたしたち神戸市民にとって忘れることのできない阪神・淡路大震災の発生した日。

6,434人の方が亡くなられ、3人の方が行方不明になったあの震災から、今日で22年の年月が過ぎました。

そして、私事ながら今日はわたしの誕生日でもあります。

震災当日、28歳の誕生日だったわたしは、今日でとうとう50歳の大台を迎えました。

当時、バリバリの青年(?)だったわたしも、もう初老です。

あのとき生後4か月だったわが家の愚息も、この春、大学を卒業して社会人になります。

それだけ長い年月が流れたってことですね。


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上の写真は神戸市灘区に西灘公園内にある慰霊碑です。

神戸市内には、いたるところにこのような碑が建てられています。

その数、230を超すとか。

写真は今日の昼過ぎに撮影したものですが、震災記念日ということもあって、花が供えられていました。

普段、ここを通っても慰霊碑を気に留めることはありませんが、今日は別ですね。


さすがに20年以上も経つと、普段の生活のなかで震災のことを思い出すことはほとんどあまりありません。

まあ、それが年月の流れってやつでしょうから、無理に忘れないように努める必要は、わたしはないと思っているのですが、ただ、ひとつ節目として、今日1月17日だけは、当時を振り返る日であればいいと思います。

今日だけは、6,434人を追悼し、あの日幸運にも命を落とさずに今に至ることを感謝し、当時のことを語るべき日なのかなあと。

そう思いながら、毎年1月17日はブログを立ち上げています。


6,000人の以上の方の命日と同じ日になってしまったわたしの誕生日ですが、そのおかげで、いつまでも震災のことを忘れることが出来なくなりました。

わたしの誕生日は、立ち止まって思いを馳せる日です。


過去8年間の1月17日の拙稿です。

よければ一読ください。

    ↓↓↓

阪神・淡路大震災から21年、震災記念日の備忘録。

阪神・淡路大震災から20年の節目に思う。

阪神・淡路大震災から19年、いま思うこと。

阪神・淡路大震災から18年、いま思うこと。

阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。

誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。

今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。

震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。


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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-17 21:37 | 日常 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第2話「崖っぷちの姫」 ~井伊家と家老・小野家~

 井伊直満を陥れて死に追いやった小野和泉守政直は、駿府から井伊谷に帰国すると、次は、直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)の行方を探しました。『井伊家伝記』によると、「直満実子亀之丞を、失い申す可き旨、今川義元より下辞の旨申し候」とあります。つまり、政直は今川義元から亀之丞を殺すよう申しつかっていたわけです。しかし、これを事前に予想していた井伊家では、なんとしても亀之丞だけは殺させまいとして、家老の今村正實に託して逃亡させます。


 『井伊家伝記』によると、正實は亀之丞を叺(かます)に入れて背負い、追手の目をくらませて逃亡。いったんは井伊谷の山中、黒田郷に潜みますが、そこもすぐざま政直の知るところとなったため、やむなくさらに北に逃れて渋川の東光院へと逃げ込みます。東光院の住持・能仲は、龍潭寺の住持・南渓瑞門の弟子でした。南渓は井伊直平の次男で、おとわ(のちの井伊直虎)の父・井伊直盛の叔父にあたり、殺された直満とは兄弟になります。東光院に逃れた正實は能仲を通じて南渓と接触し、この先のことを相談したところ、信濃国松源寺へ逃れるようじ助言されました。こうした僧門ネットワークを使って、亀之丞は追手の目をからくもすり抜けます。


 ドラマでは、直満の謀反を見抜けなかったこと、亀之丞を逃したことに対する今川義元からの下知として、小野和泉守政直を目付けとし、その子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦にせよ、とのことでした。つまり、鶴丸がのちの井伊家の当主となるわけですね。家老が主家を乗っ取るかたちで、小野家にしてみれば、なんとも都合のいい話です。実際にこのような話があったのかはわかりませんが、作家・高殿円さんの小説『剣と紅』でも、同じ設定が採られています。この小説では、もともと政直は自身の息子と直虎を夫婦にして井伊家を乗っ取ろうと企んでおり、そのため、直満を陥れて死に追いやり、亀之丞との婚約を破談にさせるという展開でした。


 それにしても、いくら戦国の世といえども、家臣の身でありながら、なぜ政直はここまで主家を苦しめたのでしょう。歴史家の楠戸義昭氏は、その著書のなかで、井伊家の代々家老を務めてきた小野家は、今川家のスパイであったとみて間違いない、と述べられています。小野氏といえば、古代から八色の姓朝臣に列せられた由緒ある家柄で、遣隋使になった小野妹子『令義解』を編纂した小野篁世界三大美人で名高い歌人・小野小町など、錚々たる顔ぶれが思い出されます。『井伊氏と家老小野一族』によれば、小野和泉守政直は小野篁から数えて21代目だといわれているそうですが、この時代の系図はあてにならないものが多く、事実どうかは定かではありません。小野家は政直の父が井伊直平に取り立てられて以降、代々家老職を世襲する家柄になったといいます。ところが、先述したとおり、小野家は井伊家の様子を逐一内偵して、今川家に報告していた形跡があるようで・・・。むしろ、直平の時代に井伊家が今川家の配下に入ったとき、公認の目付役として小野氏が今川家から送り込まれたのかもしれませんね。井伊家にしてみれば、形式上は家臣でも、実際には腫れ物扱いだったのかもしれません。


 「答えはひとつとは限らぬからの。」


 南渓和尚がおとわに言った台詞ですが、どうやら、この言葉が物語のテーマになりそうですね。既成概念にとらわれない発想が、思いもよらぬ答えを導き出すことがある。それが、「おんな城主・直虎」につながっていくわけですね。物語は始まったばかりです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-16 22:51 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第1話「井伊谷の少女」 ~井伊家のルーツと小野和泉守政直の讒言~

 2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まりましたね。今年も1年間よろしくお願いいたします・・・と言いたいところですが、昨年末の「おんな城主直虎 キャスト&プロローグ」の稿でもお話しましたが、わたしは今年の主人公・井伊直虎のことも井伊家の歴史のこともよく知りません。なので、例年よりもゆる~いブログになるかと思いますが、よければ今年もお付き合いください。


 物語は天文13年(1544年)、直虎の少女時代から始まります。といっても、直虎の生年は不明なので、年齢はわかりません。許嫁となった亀之丞(のちの井伊直親)が天文4年(1535年)生まれとされているので、おそらく、同年代だったのではないでしょうか。となれば、ドラマのこの時期は、満9歳前後ということになります。ドラマでは、おとわと名乗っていましたが、実名もわかっていません。つまり、ほとんど謎の人物なんですね。


 直虎の生まれた井伊家のルーツは古く、平安時代にまで遡ります。その伝承によると、寛弘7年(1010年)1月、井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、御手洗の井戸のなかに生まれたばかりの男の赤ん坊を発見します。その容貌はたいそう美しく、瞳が輝いていたといい、神主はその赤子を養育することにしました。その後、7歳になった赤子は、公家の藤原共資の養子となり、共保と名付けられます。


やがて壮年になった共保は、自身の生誕の地である井伊谷に城をかまえて移り住みました。このとき、家名を藤原から井伊に改めたといいます。この井伊共保を祖とし、井伊家の系図ははじまっています。ドラマでおとわたちが訪れていた井戸がその伝承の地で、「ご初代様」と呼んでいたのが共保のことですね。つまり、井伊家の始祖は井戸から生まれた・・・と。まあ、にわかに信じられる話ではありませんが、それだけ歴史のある家柄ということは間違いありません。


その後、鎌倉時代には井伊谷を支配していたようですが、南北朝時代には南朝方に与したため、北朝方に攻められて井伊城は落城。遠江国の守護となった今川家の配下となります。しかし、戦国期を通して今川家とは微妙な関係だったようで、たびたび摩擦があったようです。直虎が生まれた頃の井伊家は、そんな不遇の時代でした。


 直虎の父・井伊直盛は男子に恵まれなかったため、直盛の叔父にあたる井伊直満の子息・亀之丞を養子に迎え、直虎と結婚させて後継者にしようとしました。ところが、その養子縁組が順調にすすむなか、井伊家筆頭家老の小野和泉守政直が、駿府の今川義元に対して、直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言します。この頃、井伊家では甲斐国の武田家が遠江国への圧力を強めたため、対武田軍に備える軍備を進めていました。これを、謀反の意としたわけです。なぜ、政直は自身の主君を売るような讒言をしたのか定かではありませんが、『寛永諸家系図伝』などの記録によると、もともと政直は直満と関係が悪かったらしく、その直満の子・亀之丞が井伊家の後継者となることを嫌って、直満を陥れたのだと伝わります。


 なんで家臣にそんなことが出来るのか・・・と思ってしまいますが、戦国時代においては家老の力は大きなもので、家の後継者を決めるのも、当主が勝手に決められず、当主を支える家臣の意向を無視できませんでした。同族会社といえども社長が変わるには、重役会議にかけて幹部の賛意を得なければならなかったわけです。となれば、筆頭家老である政直としては、不仲である直満の子息が当主になることに賛成するはずがありません。あるいは、直接反対の意を表したものの受け入れられなかった経緯があったのかもしれませんね。どうしてもこの養子縁組を破談させたいと考えた政直は、直満を陥れる策にでたわけです。


 天文13年(1544年)12月、直満・直義兄弟は駿府に召喚され、同月23日、処刑されました。みごと政直の思惑通りとなったわけですね。家臣の策略によって一族が殺されたわけですから、井伊家当主である直盛としては政直に報復すべきところだったでしょうが、今川家が絡んでいるとなれば、そうもいかなかったわけですね。きっと政直を八つ裂きにしたいほどの怒りだったでしょうが、その怒りをしずめて泣き寝入りするしかなかったわけです。ただ、亀之丞の命だけはなんとしても守りたい。直盛は家老の今村正らに亀之丞を託し、逃亡させます。当然ながら、直虎と亀之丞の婚約は、いったん白紙にせざるを得なくなりました。こうして、直虎の波乱の生涯がはじまります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-13 22:42 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その5 「天守台」

津山城シリーズ最終稿です。

本丸西側には、天守台石垣がそのままのかたちで残っています。

残念ながら明治初期の廃城令によって天守は取り壊されていますが、かつてここに五層の立派な天守がありました。


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津山城の天守は地上5階建で、破風を持たない質実な造りだったそうです。

城の造りはその築城主の人間性を表しているようにも思いますので、森忠政という人は、きっと生真面目な人物だったのでしょうね。

高さは天守台石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模のものだったようです。

壁は漆喰塗りの白壁とし、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものでした。


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現存している天守台には、自由に登ることができます。


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上から見ると、こんな感じ。


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天守台から見た本丸跡です。


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天守台から見た津山城西側の眺望です。


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こちらは南側の眺望


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こちらは、天守台から見た「備中櫓」です。

天守の南西側、西側、北西側を取り囲むように、「多門櫓跡」があります。


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こんな感じの細長い空間で、天守を西側から守っていた櫓です。


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多門櫓跡から見た天守台です。


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多門櫓北面は「七番門」に接続されています。

そして、下の写真は、本丸北側の「長屋櫓」から見た天守台。

なんか、但馬の竹田城みたいですね。


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森氏は初代の忠政から4代続きましたが、元禄10年(1697年)、4代藩主・森長成の跡継ぎを立てられずに改易となり、翌年に松平宣富が美作10万石を領して津山城に入城します。

その後、松平氏は慶倫まで9代続き、明治維新を迎えます。

江戸時代の終焉とともにその役目を終えた津山城は明治7年(1874年)から取り壊されますが、石垣はそのまま残され、明治32年(1899年)から公園化が進められ、現在に至ります。

この豪壮な石垣群を、よく残してくれていたものですね。

天守台の脇には、「森侯入封三百年記念碑」と刻まれた石碑が建てられています。


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最後に、三の丸に建つ松尾芭蕉の句碑を紹介します。


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鐘つかぬ里は何をか 春のくれ


今度は、名物の桜の季節に訪れてみたいものです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-11 22:40 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その4 「備中櫓」

60棟以上あったとされる津山城の櫓のなかで、現在ひとつだけ復元されているのが、本丸から南へ張り出した石垣上に建てられた「備中櫓」です。


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高さ約13m、幅約24m、奥行き約8mで、延べ面積は約288㎡という津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物だったと考えられます。


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津山城は美作国の城なのに、なんで“備中”櫓なんだ?・・・という疑問が浮かびますが、『森家先代実録』という史料によると、当時の鳥取藩主で、のちに備中国松山城主となる池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓だからだとか。

長幸と津山藩の関係は、初代津山藩主・森忠政の娘が池田家に二人嫁いでおり、忠政にとって長幸は娘婿にあたる人物です。


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奥向御殿のさらに奥という立地を考えると、備中櫓は藩主もしくはその家族という限られた者だけのスペースだったと推定されているそうです。


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そのため、通常の櫓ではまれな全室畳敷き、天井張りという構造で、絵図によると、「御座之間」「御茶席」「御上段」などが存在しており、それらも復元されています。


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御座之間です。


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御茶席です。


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御上段の間です。


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そしてです(笑)。


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この備中櫓は、森忠政が津山城の築城を開始してから400年の節目にあたる平成16年(2004年)に復元整備されたそうです。


次回、最終稿




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-10 23:12 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その3 「本丸」

ようやく本丸まで登ってきました。

3,496坪の本丸跡にも、多くの櫓跡が現存しています。

そのいくつかを追っていきます。


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まずは本丸東側の「矢切櫓跡」です。

石垣がみごとですね。


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その南側にある「包櫓跡」

「鐘撞堂」があります。


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矢切櫓跡北側にある「月見櫓跡」


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さらにその北側にある「栗積櫓跡」です。


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栗積櫓跡からみる津山城北面の眺望です。

遠方の山の頂には、「神楽尾城跡」が見えます。


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栗積櫓跡の西側にある「大戸櫓跡」


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その南側に位置する「長屋櫓跡」です。


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さらに、そこから裏鉄門跡を挟んで南にある「腰巻櫓跡」


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そして、そこから西側に向かった天守台北にある「長櫓跡」

そして、本丸南西に復元された「備中櫓」があります。


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津山城の建造物は、本丸に31棟、二の丸に12棟、三の丸に17棟が建てられ、門は本丸に15、二の丸に、三の丸に11あったそうです。

これは広島城姫路城よりも多い数だそうで、両城に比べて比較的コンパクトな面積の中に、これだけの建物がひしめき合っている様は、実に壮観だったでしょうね。

もともと、この地には嘉吉年間(1441~44年)に山名忠政鶴山城を構えていましたが、慶長9年(1604年)に森忠政が鶴山を「津山」と改め、12年間の年月をかけて築城したのが津山城です。

当時は築上の最盛期であり、おそらく、当時の技術の粋を集めた城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-06 13:12 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)