太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく褪せてないのが凄い。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その146 「花矢倉展望台」 奈良県吉野郡吉野町

吉野山シリーズの最後は、吉野朝廷の舞台がほぼ見渡せる花矢倉展望台からの眺望です。

のシーズンは観光客でにぎわう絶景スポットですが、真夏のこの日はわたしひとりでした。

標高約600mで、ここまで上がってくるのは結構たいへんですからね。


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眼下に目を落とすと、吉野山の町並みが南北に馬の背のような格好で尾根伝いに浮かびます。


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尾根伝いのいちばん向こうにひときわ高くそびえ立つ大建築が、「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂です。

こうして見ると、吉野山は蔵王堂を中心に発達した門前町だということがよくわかります。


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蔵王堂にズームイン。

その左側の山中から覗いている塔のような建物が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷の皇居跡に経つ南朝妙法殿です。


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遠く西の方角に目を向けると、奈良県と大阪府の境にある金剛山系が望めます。

写真左のいちばん高い山が「その16」「その17」で紹介した金剛山、その右の山が葛城山、その右のラクダのふたつコブのような小さな山(小さいといっても標高517mあるのですが)が「その27」で紹介した二上山です。

金剛山系には、楠木正成が築いた千早城(その15)上赤坂城(その14)下赤坂城(その13)などがあります。

こうして見ると近いように思えますが、金剛山まで直線距離にして20km以上離れています。


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『太平記』では、この尾根伝いの吉野山全体を、「吉野城」としています。

吉野山の尾根は東西の深い谷にはさまれ、その尾根の落ちる北側には天然の堀ともいえる吉野川が流れ、さらに吉野山の背後は、大峯から熊野へ連なる急峻な山岳地帯であることを思えば、後醍醐天皇や大塔宮護良親王が、吉野山の僧兵の力を頼りながら、守りやすく攻められにくい自然の要塞ともいえるこの地に身を寄せた理由がよくわかる気がします。

まさに、ここは南朝方の城だったんだと。

それにしても、鷲峯山、笠置山、船上山、比叡山、そしてここ吉野山と、山の上を渡り歩いた後醍醐天皇の晩年でした。


さて、次稿から吉野山を離れます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-20 23:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。

この長い階段の上です。


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吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついにに伏します。


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自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳義良親王攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。


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『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。


「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」


現代文に読み下すと、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」


凄まじい限りの執念ですね。

そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。

御齢52歳。

右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。

辞世の句

「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」


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後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。

これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。


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後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その144 「如意輪寺」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した勝手神社から、中の千本の谷を隔てた山の中腹に、如意輪寺があります。

ここは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野に行宮を定めた際、勅願所となった寺院です。

本堂裏山には、後醍醐天皇陵があります。


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寺の歴史は古く、醍醐天皇(第60代天皇)の延喜年間(900~922年)に、日蔵上人により開かれたと伝わります。


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正平2年/貞和3年(1347年)12月27日、楠木正行、正時兄弟が、一族143人を引き連れ、まず吉野の皇居に参内して後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)に別れを告げたあと、ここ如意輪寺本堂の裏山に鎮まる後醍醐天皇陵に詣で、寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫りました。


「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」


天皇の勅願所でありながら、本堂には、楠木家の家紋・菊水の幕が張られていました。


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正行たちはそれぞれの名を過去帳にとどめて、髪を切って仏前に投げ入れ、四條畷の戦いに出陣しました。

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「正行公埋髻墳」と刻まれた石碑です。

ここに、143人の髻が埋められているそうです。


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こちらは、「楠左衛門尉髻塚碑」

慶応元年(1865年)、津田正臣によって建てられたものだそうです。


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こちらは「至情塚」

後村上天皇より正行の奥方にとの話があった弁内侍が、正行討死のあと、その菩提を弔うために尼僧となり、その黒髪を埋めたところです。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、宝物殿には、正行が記したと伝わる辞世の扉や、後醍醐天皇御物などの寺宝が数多く展示されていました。


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宝物殿の側の庭園には、向かい合うふたりの石像が。

おや?・・・これ、どこかで見覚えが・・・。


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そうです。

「その87」で紹介した櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)にあった、楠木正成・正行父子別れの像ですね。


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あちらは近年作り変えられたものでしたが、こちらの像は古そうです。


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正行、なんかみたいですね(笑)。


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境内の最も高い場所にある多宝塔です。

いつの時代に建てられたものかは、わかりませんでした。


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そして最後に、後醍醐天皇御霊殿です。

この中に、後醍醐天皇自作の木像が安置されているそうですが、この日は公開されておらず、観ることができませんでした。


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細かい彫刻に目を奪われます。


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かつては色鮮やかだったことがうかがえますね。


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さて、次稿は本堂裏山にある、後醍醐天皇陵を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-18 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第41話「この玄関の片隅で」 ~鷹匠・本多正信~

 やはり鷹匠ノブ本多正信でしたね。本多正信といえば、常に徳川家康の側にいて智謀をめぐらす側近中の側近といったイメージがありますが、実は、正信が家康から重用されるようになるのは天正10年(1582年)の本能寺の変以後のことで、天正3年(1575年)頃かと思われるドラマのこの時期は、まだ歴史の表舞台には出てきていません。

 家康より5歳上の正信は、はじめは鷹匠として家康に仕えますが、身分は低く、大久保忠世らからの援助を受けて過ごしていたといいます。そんな暮らしに嫌気がさしたのかどうか、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、弟の本多正重と共に一揆衆につき、家康に敵対します。この一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事で、三河家臣団の半数が一揆衆に与したと言われています。家康の家臣団といえば「忠実」というイメージが強いですが、最初からそうだったわけじゃないんですね。


 一揆の鎮圧後、一揆に与した武士の多くは徳川(当時は松平)家への帰参を望みますが、正信は出奔して浪人します。このあたり、若き日の正信はなかなかの気骨ある男だったようですね。やがて正信は大和国の松永久秀に仕えたといい、久秀をして「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と称されたといいますが、永禄8年(1565年)、久秀が三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害すると(永禄の変)、再び出奔して諸国を流浪したとされ、その間の行動は詳しくわかっていません。一説には、加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともいわれます。後年の策謀家のイメージとは違って、反骨心旺盛で血気盛んな人物だったようです。


 諸国を流浪したすえ、正信は再び家康に仕えることになるのですが、帰参した時期ははっきりしません。『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃と伝え、『藩翰譜』によると、天正10年(1582年)の本能寺の変後と伝えます。どちらが事実かはわかりませんが、確実な史料に正信が現れるのは本能寺の変以後のことで、それ以前は、帰参していたとしても、それほど重要なポストを与えられてはいなかったのでしょう。まあ、一度裏切った身ですからね。当然といえば当然のことで、むしろ、かつての裏切り者を再び召し抱えた家康の度量の広さがうかがえます。あるいは、人材としての正信が、それほど有能だったということかもしれません。


 話をドラマに移して、草履番から小姓に上がるためにあれこれ知恵をめぐらせる万千代(のちの井伊直政)ですが、どれも稚拙浅知恵、家康はすべてお見通し空回り感ありありです。まあ、数えで15歳といえば、いまの中学1、2年生。まだ子供ですからね。伝承では、直政は家康に仕えてから破竹の勢いで出世していったとされていますが、実際には、多少の挫折失敗はあったことでしょう。歴史の結果を知っている後世のわれわれから見れば、そんなに焦らなくとも君はやがて徳川四天王のひとりとなるのだから、と言いたくなりますが、15歳の当の本人はそんなこと知るはずもなく、ドラマのように、必死にアピールしていたかもしれません。もうちょっとの辛抱です。


 ちなみに、織田信長から3000本用意しろと言われた材木。これ、おそらく長篠の戦いで立てる馬防柵に使用する材木でしょうね。今話はすべてフィクションの回でしたが、ちゃんと史実に繋がるアイテムを題材に描いた創作で、秀逸でした。長篠の戦いでは初陣を飾れず、留守居を命じられた万千代でしたが、どんな活躍を見せてくれるのか楽しみです。・・・って、完全に直政のドラマになっちゃってますが。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-16 02:14 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その142 「後醍醐天皇御幸の芝・慰霊歌碑」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水院宗信法印の墓から南へ急坂を登ると、右側の桜が茂る小さは平地に、「後醍醐天皇御幸の芝」があります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野山皇居にいた延元4年/暦応2年(1339年)5月のある日、大勢のお供を連れてこのあたりまで御幸した際、空模様が怪しくなり、雨が降り始めたそうです。


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そこで、かたわらの観音堂に入ってしばらく休まれるうち、


ここはなほ 丹生の社にほど近し 祈らば晴れよ 五月雨の空


と詠まれると、急に空が晴れ渡り、うららかな日和になったそうです。


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この話は、『吉野拾遺』という説話集に記された逸話で、それ以来、その観音堂を「雨師観音」と呼ぶようになったのだそうです。

他にも、「夢違い観音」とも呼ばれていたそうですが、明治8年(1876年)、神仏分離によって廃されたそうです。


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現在、雨師観音があった場所には、小さな社があります。


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後醍醐天皇御幸の芝から北を見下ろすと、金峯山寺蔵王堂が見えます。


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雨師観音の伝承、信じるか信じないかは別にして、後醍醐天皇の波乱万丈の人生のなかの和みのひとときにふれた気がしますね。

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近くには、「後醍醐天皇御慰霊詩碑」と刻まれた大きな石碑があり、後醍醐天皇の御製が刻まれています。


「ここにても 雲居の桜 咲きにけり たくかりそめの 宿を思ふに」


同じく石碑には「松の下露」と題したが刻まれています。

この詩が誰のものかは調べがつきませんでしたが、「松の下露」とは、元弘の乱に敗れて笠置山から逃れる途中の後醍醐天皇が、大きな松の下で休息をとり、そのときにお供の藤原藤房と交わした歌に由来します。


「さしていく笠置の山をいでしより 天が下にはかくれがもなし」


吉野山に南朝を起こした後醍醐天皇でしたが、「こんなところに来たくはなかった」という思いが伝わってきますね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-15 00:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その141 「吉永院宗信法印の墓」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水神社から南へ1kmほどの登山道の木立のなかに、吉水院宗信法印の墓がひっそりとあります。


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「吉水院宗信法印御墓」と刻まれた石碑の建つ階段を登ると、「忠誠義烈」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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その奥にある苔むした墓が、宗信法印の墓所です。


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吉水院の僧、宗信は金峯山寺執行でしたが、延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京を逃れて吉野山潜行されたとき、天皇を迎えた人です。


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京都に対抗するには旗色の悪い後醍醐天皇を吉野山に迎えるに際しては、吉野山内でも賛否両論、さまざまな意見対立があったようですが、宗信法印は金峯山寺蔵王堂に大衆を集めて後醍醐天皇に味方する義を説き、衆議一決して、若い大衆300人が甲冑に身を固めて迎え出たと伝えられます。

『太平記』では、そのときの様子を伝えて余すことありません。


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時代が変わるとともに、宗信法印の評価も変転しましたが、後醍醐天皇の南朝設立に重要な役割を果たした人物であることは、間違いありません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-14 00:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その140 「吉水神社」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から南東に300mほど下ったところに、吉水神社という由緒ある神社があるのですが、ここはかつて吉水院といわれ、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山に入ると、吉水院の住僧であり金峯山寺の執行でもあった宗信法印らに迎えられ、ひとまず、ここ吉水院を仮の皇居としました。


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天皇は、楠木正行、真木定観、三輪西阿ら率いる兵に守られ、ここ吉水院に入ったと伝えられます。


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吉水神社の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されています。


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が、残念ながら、わたしが訪れたこの時期は、書院改修工事中のためその外観を見ることができませんでした。


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由緒書きです。


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外観は見られませんでしたが、書院内は見学できました。


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書院内には、後醍醐天皇玉座が残されています。


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南朝4代57年の歴史は、ここから始まったんですね。


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この部屋は上段の間五畳下段十畳敷で構成されています。


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「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」

この有名な後醍醐天皇の御製は、この部屋で生まれたそうです。


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こちらも御製。


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時代は下って文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際、ここ吉水院を本陣として数日間滞在したと伝えられますが、その際、この部屋も修繕されたと伝わります。


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正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品だそうです。


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書院内には、後醍醐天皇に関する様々な宝物が展示されています。

撮影禁止じゃないのがありがたい。


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こちらの掛け軸は、若き後醍醐天皇御宸影


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こちらは、教科書などでよく知られている後醍醐天皇御潅頂宸影です。


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こちらは後醍醐天皇御宸翰

天皇自筆の書ということですね。


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他にも、石硯や茶入れなど、後醍醐天皇御物が数多く展示されています。


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『太平記』とは関係ありませんが、先述したように安土桃山時代、豊臣秀吉がここで盛大な花見を催しており、そのときの寄贈物も多く残されています。

上の写真は秀吉愛用の金屏風


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こちらは豊太閤吉野之花見図の複製。


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こちらは秀吉寄贈の壺と花瓶


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また、時代は遡って、文治元年(1185年)、兄・源頼朝の追手を逃れた源義経静御前は、弁慶と共に吉野に入り、ここ吉水院に潜伏していたとの伝承もあります。

そして、ここが義経と静御前の別れの地となったそうです。

上の写真は、義経らが数日間を過ごした潜居の間


「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前

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書院を出て庭の北側に行くと、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋できる日を祈ったとい北闕門(ほっけつもん)があります。


「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」後醍醐天皇御製


上の御製は後醍醐天皇の辞世と言われていますが、この歌にある「北闕の天」とは、この門から見た京都の空のことでしょう。


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北闕門に掲げられた後醍醐天皇御製です。


「みよし野の 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん」後醍醐天皇御製


ある日、この門の前で後醍醐天皇がこの歌を詠まれると、側にいた宗信法印が次の歌を返したといいます。


「花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよし野の山」宗信法印


後醍醐天皇は京に戻る日をにたとえ、「花はいつ咲くのだろか?」と宗信法印に問うたところ、「花の咲く時期はわかりませんが、かならずすばらしい花が咲きますよ」と、宗信法印は返したんですね。

しかし、後醍醐天皇が生きているあいだにその花が咲くことはありませんでした。

後醍醐天皇崩御に際して、その忠臣たちがここで号泣したと伝えられます。

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様々な歴史の舞台となった吉水院は、明治8年(1875年)、吉水神社に改められました。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-13 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その139 「吉野朝宮跡」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から西側を望む台地に、南朝妙法殿というのような建物が見えるのですが、このあたりが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷、いわゆる南朝が営まれた皇居跡と伝えられるところです。


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皇居跡の台地には、「吉野朝宮址」と刻まれた大きな石碑があります。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山の吉水院に身を寄せて仮の皇居としました。

しかし、吉水院では手ぜまだというので、蔵王堂近くの広い寺をということになり、この地にあった実城寺を皇居と定めて、寺号を金輪王寺と改めました。

以後、南北朝が合体する元中9年(1392年)閏10月までの57年間を、南北朝時代と呼ぶようになります。


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後醍醐天皇はこの皇居で、京都回復の方策をいろいろめぐらしますが、天下の形勢は南朝に厳しく、また、身近に仕える公卿たちも次々と死んでいき、延元4年(1339年)8月15日、第7皇子義良親王に皇位を譲って後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)をたてます。

以降、吉野の南朝は3代続き、最後の後亀山天皇(第99代天皇・南朝4代天皇)が、北朝を擁護する将軍足利義満講和を受け入れて、57年間続いた皇室の分裂は1つに戻り、吉野朝は幕を閉じます。


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皇居跡には、南朝4代天皇の歌碑があります。

まずは後醍醐天皇御製

袖かへす 天津乙女も思ひ出ずや 吉野の宮の昔語りを


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続いて後村上天皇御製

吉野山花も時えて咲きにけり 都のつとに今やかざさん


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そして長慶天皇(第98代天皇・南朝3代天皇)御製

わが宿と頼まずながら吉野山 花になれぬる春もいくとせ


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その横が、後亀山天皇御製

見しままに花も咲きぬと都にて いつか吉野の春を聞かまし


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時代は下って江戸時代、金輪王寺は徳川幕府によってもとの実城寺の名称に戻され、明治時代に廃寺となりました。

現在は皇居跡公園とされ、南朝妙法殿が建てられています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-12 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)