太平記を歩く。 その30 「赤松城跡(神戸大学キャンパス内)」 神戸市灘区

神戸市灘区の山の手にある国立神戸大学のキャンパスが、赤松則村(円心)の建てた「赤松城」だったという伝承があります。


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『太平記』によると、円心は大塔宮護良親王令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と伝えたといわれますが、その赤松城というのが、ここ神戸大学の敷地だったとの説です。


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明治41年(1908年)の発掘調査遺構石垣跡が発見され、ここが『太平記』に出てくる赤松城に違いないという郷土史家の意見から、神戸大学構内に「赤松城之址」という標柱も立てられ、昭和7年(1932年)9月には、このあたりの地名も赤松町と名づけられました。

ところが、その後の調査で、実際の赤松城は播磨国佐用郡の苔縄城とわかり、ここにあったのは一王山十善寺の跡であることが判明。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際に、円心はここ一王山十善寺をとして利用し、六波羅軍によって焼かれたようです。


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城跡(砦跡)は大学敷地内では最も高い場所にある経済学部付近だと知り、キャンパス内を歩いてみたのですが、「赤松城之址」の標柱は見当たりませんでした。

あるいは、もうないのかもしれませんね。


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神戸大学から見た摩耶山です。

この地を訪れてみて、なるほど、摩耶山合戦に際しては、東の砦として絶好の場所だと思いましたね。

西に摩耶山を見渡せ、このちょうど真南には、六波羅軍が陣を布いた八幡の森が一望できたはずです。


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標柱は見つかりませんでしたが、「赤松町」という地名はしっかり残っています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-24 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第11話「さらば愛しき人よ」 ~小野但馬守政次の讒言~

 松平元康(のちの徳川家康)が今川家に反旗を翻したことで、駿府に人質として残っていた瀬名姫(のちの築山殿)、嫡男の竹千代(のちの松平信康)、長女の亀姫は窮地に立たされますが、元康は鵜殿長照の籠る上ノ郷城を攻め落とした際、長照の子の鵜殿氏長・氏次を生け捕りにし、今川家に対して人質交換を求めます。長照の母は亡き今川義元の妹で、寿桂尼から見れば長照は孫、今川氏真から見れば従兄弟にあたります。桶狭間の戦い以降、配下の離反が後を絶たない今川家にとって、一族の命を守るのは是非に及ばず。家康の要求に応じます。見事な人質奪回工作でした。


 無事に救い出された瀬名でしたが、岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の外れにある惣持尼寺幽閉同然の生活を強いられることになります。その理由は、元康の生母・於大の方が瀬名のことを嫌っていたからとも言われますが、もともと今川義元の養女という立場での元康との結婚だったわけですから、反今川の立場となった今となっては、持て余していたというのが正しいかもしれません。こののちも、瀬名は元康から死ぬまで冷遇され続けます。


 ドラマでは、元康の見事な人質奪回工作に感銘を受け、元康に興味をいだいた井伊直親でしたが、もともと元康の妻・瀬名の母方の祖父は井伊直平で、直親にとって瀬名は従兄妹にあたるため、その夫である元康に親近感を持つのは当然のことだったと想像できます。そんな背景もあり、今川家衰退著しいなか、直親は次第に松平家に傾倒していったのではないでしょうか。


 元康から鷹狩の誘いを受けた直親は、その招きに応じて元康と対面、親交を深めることになりますが、これが、実は寿桂尼の仕掛けただった・・・というのがドラマの設定でしたね。そうとは知らない小野但馬守政次は、駿府で寿桂尼に事の真相を突きつけられ、やむなく寿桂尼の前にひれ伏すこととなります。この展開、なかなか上手い脚本だったんじゃないでしょうか。


 通説では、今川家の目付けであり、もともと直親と折り合いの悪かった政次が、今川家に松平家との内通讒言したとされています。『井伊家伝記』は伝えます。


 「小野但馬急に駿府へ罷り下り、今川氏真へ讒言申し候は、肥後守直親は家康公、信長両人へ内通、一味同心仕り候。」


 直親は元康と織田信長に内通し、陰謀を企てている・・・と、政次が今川氏真に讒言したというんですね。まさしく、政次の父・小野和泉守政直が直親の父・井伊直満を讒言して死に追いやったときと同じです。


「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 まさに、親子二代の因縁です。


 このドラマのとなる部分が、直親と政次、そして次郎法師(おとわ)友情物語にありますから、この設定はうなずけます。結果的に直親を裏切ることになった政次ですが、その裏には、今川家目付けという立場から井伊家を守るための苦渋の決断があった・・・と。ただ、その代償はあまりにも大きいものとなってしまうんですね。その結末は次週。


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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-22 19:17 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その29 「摩耶山城跡」 神戸市北区

神戸市に横たわる六甲山脈のなかで、六甲山の次に標高の高い摩耶山上に、かつて摩耶山城がありました。

ここは、元弘3年(1333年)に播磨国の守護大名、赤松則村(円心)によって築かれた城です。


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城跡には徒歩でも登れますが、登山に慣れないわたしは摩耶ケーブルで登ります。


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摩耶ケーブルの終点「虹の駅」のある一帯が東の曲輪群だそうです。


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虹の駅からの眺望。

神戸港から大阪湾が一望できます。

空気が澄んでいたら、 「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山まで見えるのですが、この日は残念ながら霞んで見えません。

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元弘2年(1332年)11月に大塔宮護良親王が吉野で挙兵、続いて12月に楠木正成が河内千早城にて挙兵。

こうした倒幕の動きを受け、元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)はこの地に摩耶山城を築き、幕府の六波羅勢を迎え撃ちます。

これが、『太平記』にある「摩耶山合戦」です。


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『太平記』によれば、大塔宮に従っていた則村の三男赤松則祐が、親王の令旨を携え、父・則村に挙兵をすすめたとされています。

これを受けて則村は播磨から摂津に進軍。

『太平記』には、「兵庫の北に当たって摩耶という山寺ありけるに、まず城郭を構えて」とあり、このとき摩耶山城が築かれたと伝えます。


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幕府六波羅軍は5000の兵で摩耶山城を囲みますが、赤松軍は大塔宮によってもたらされた援軍を受けて7000の兵を従え、これを撃破。

幕府軍は敗走します。


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この摩耶山合戦の戦勝で勢いに乗った反幕府軍は、同年5月7日に足利尊氏、赤松則村(円心)らによって六波羅に攻め込み、同月20日には新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府はその幕を閉じることになります。

遠く関東の鎌倉幕府の瓦解は、ここ神戸の山中から始まったんですね。


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摩耶山城の北側にあった摩耶山天上寺跡は、現在摩耶山史跡公園となっています。

摩耶山天上寺は40年前までこの地にありましたが、昭和51年(1976年)に火災で消失し、より山頂に近い北側に移設されました。

かつては、この地に赤松則村(円心)・則祐親子の五輪塔が建っていたのだとか。


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史跡公園内には、建物跡の礎石だけが残されています。


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公園内の説明板には、在りし日の摩耶山天上寺の空撮写真が紹介されています。


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奇跡的に消失を免れた仁王門です。


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摩耶山史跡公園のすぐ西側には、「摩耶の大杉」と呼ばれる六甲山随一の巨木がそびえます。

幹周りは約8mあり、樹齢1000年と言われています。

一緒に写っている身長150cmのわたしの娘と比べれば、その大きさが伝わるでしょうか?

現地の説明看板によれば、約200年前に摩耶山一帯で起きた大水害のときにもビクともしなかったため、その生命力に驚いた人々は神霊が宿っているに違いないと、「大杉大明神」として崇めるようになったのだとか。


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残念ながらこの大杉は、昭和51年(1976年)の旧摩耶天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え、現在は枯死してしまいました。

樹齢1000年ということは、「摩耶山合戦」のときにも、すでに樹齢300年の大樹だったんですね。

移り変わる歴史の変遷を見続けてきたこの大杉の姿は、枯死してもなおその存在感を人々に印象づけています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-19 09:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その28 「陶器城跡」 大阪府南河内郡河南町

大阪府堺市にある陶器城跡を訪れました。

ここは現在、「東陶器公園」という児童公園になっています。


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公園奥にフォンスに囲まれた森のような一角があります。

ここに案内板が設置され、高さ2mほどの土塁跡が保存されています。


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フェンス越しの写真じゃわかりづらいですね。

直に見ると、結構立派な土塁です。


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案内板です。

その説明によると、陶器城は鎌倉時代の終わり頃、北条氏の家臣・陶器左衛門尉の居城だったそうですが、元弘3年(1333年)1月15日、楠木正成一族による河内国・和泉国の北条氏掃討作戦の一環として、攻め滅ぼされました。

このとき陶器氏も滅亡したとされます。

また、正平6年・観応2年(1351年)には南朝方の和田助氏淡輪助重が、北朝方の籠もる陶器城を攻めています。

その後の陶器城の歴史はよくわかっていないようです。


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フェンス内には、堺市指定保存樹となっているクスノキの巨木が聳えます。


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樹齢がどのくらいかわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれませんね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-17 19:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その27 「二上山城跡」 大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市の境界

奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる二上山の山頂にあったと伝わる二上山城跡を訪れました。

旧令制国名でいえば大和国と河内国の国境にあたり、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつとする説がありますが、確証はありません。

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金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がラクダのコブのように並ぶ山で、現在は金剛生駒紀泉国定公園の区域に指定されています。


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二上山への登山ルートは複数ありますが、神戸から来たわたしは、山の西側、つまり大阪側から登ります。


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このあたり一帯は「万葉の森」と名付けられて公園整備されています。

河内郡太子町といえば聖徳太子ゆかりの地として、8世紀頃の古代遺跡が数多くあります。


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登山道は険峻なコースと整備されたハイキングコースがありますが、この日の往路はハイキングコースで。


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登山道途中にある石切場跡

奈良県明日香村にある有名な高松塚古墳の石山は、ここで採れた二上山凝灰岩が使用されているそうです。


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ここから、岩屋史跡を経由するコースを選びます。


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ここが、その岩屋遺跡

この遺跡は奈良時代の石窟寺院跡で、間口7m、奥行き5m、高さ6mの石窟です。

中央に建つ蔦が絡んだ石造りのものは、三重の塔です。

ここは、奈良時代に藤原豊成の娘・中将姫にまつわる逸話が残る場所ですが、長くなるのでまた別の機会に。


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岩屋跡に設置された年表看板では、「楠木正成が河内七城のひとつ二上山城を創る(弘安九)」と断定しています。


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岩屋跡の向かいには、樹齢約600年と言われる杉の巨木が横たわっています。

根回り約8mのこの杉は、最近までその樹勢を保っていたそうですが、平成10年(1998年)の台風で倒れてしまったのだとか。


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こちらの看板には、樹齢千年と書かれています。

あるいは、二上山城が築かれた当時を知っていたかもしれません。


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岩屋を後にすると、さらに山頂を目指して登ります。


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途中、ふり返ると、西に「その24」で紹介した嶽山城(龍泉寺城)跡が見えます。


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拡大します。


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登山を初めて約40分、標高474mに雌岳山頂につきました。

この日は10月30日の小春日和で、山頂は多くのハイカーさんで賑わっていました。


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山頂にある万葉の句碑


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山頂から見た北西の眺望です。

空気の澄んだ日は神戸の六甲山系まで見えるそうですが、この日は霞んで見えませんでした。


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拡大すると、あべのハルカスが見えます。


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南側には金剛山系が連なります。


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西側には奈良県飛鳥地方が一望できます。

なるほど、河内国から大和国をほぼ360度近く見渡せるわけですね。

正成でなくとも、ここは拠点として抑えておきたい場所です。


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しかし、二上山城があったとされるのは雄岳の山頂。

そのまま北側尾根伝いに雄岳を目指します。


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雄岳山頂近くまで登ると、土塁跡らしき遺構と思われる地形が見られ始めます。


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標高517mの雄岳山頂につきました。


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本丸跡と思われる山頂は、東西に細長い削平地となっています。


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こちらは、山頂に鎮座する二上神社


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二上山城は楠木正成が築いたと言われる説の他に、室町時代初期に河内国守護となった畠山氏高屋城の支城として築いたという説もあるそうです。


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本丸跡の東側の一段下がった二ノ丸跡と思われる場所には、大津皇子があすます(異説あり)。


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大津皇子は天武天皇(第40代天皇)の第3皇子で、天武天皇の死後、皇位継承争いのなかで謀反の疑いをかけられ、24歳の若さで自刃に追い込まれた悲劇の皇子です。


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現在は宮内庁の管理下にあり、中に入ることはできません。


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下山は険峻なコースを選びました。


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道中にある鹿谷寺跡

鹿谷寺は8世紀に造られたとされる凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。


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中国大陸には敦煌龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られるそうですがが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、日本ではここ以外には知られていないそうです。


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写真は寺跡の中心にある十三重の石塔


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その奥の岩窟の壁には、線刻の三尊仏坐像がかすかに浮かんでいます。


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さて、今回は太平記と直接関わりのない稿でしたが、ずいぶん長くなっちゃいました。

これで、金剛山系の正成に関連する城跡は、全て制覇したと思います。

が、シリーズはまだまだ続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-15 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第10話「走れ竜宮小僧」  ~奥山朝利殺害事件~

 桶狭間の戦いが起きた同じ年の暮れ、井伊家一族の奥山因幡守朝利殺害されるという事件が起きます。その加害者は小野但馬守政次でした。ドラマでは、先に刀を抜いたのは朝利の方で、政次はやむなく返り討ちにした正当防衛とされていましたが、実際にはどうだったのでしょう? Wikipediaでは、「小野道好(政次)に暗殺された」とあります。「暗殺」「正当防衛」では、ずいぶん違いますよね。


 龍潭寺古文書によると、「永禄三年十二月二十二日、奥山朝利、小野但馬により傷害される」と記されているのみで、詳細はわかりません。奥山家は井伊家の分家で、朝利は一族の実力者でした。その妹は新野左馬助親矩の妻で、朝利の8人の娘のうち、長女は井伊直親と結婚し、次女は、同じく井伊分家の中野越後守直由の妻となり、五女はのちに井伊家三人衆のひとりとなる鈴木三郎大夫重時の妻、そして、実は三女は、小野但馬守政次の弟、小野玄蕃朝直に嫁いでいました。つまり、朝利は政次から見れば、弟の舅ということになるわけです。


 そんな親戚関係にありながら、政次はなぜ凶行に及んだのか・・・。歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、井伊家分家の最大の実力者が奥山氏で、その当主・朝利が一族内の婚姻関係によってさらに権力を掌握し、桶狭間の戦いで討死した宗家の井伊直盛に代わって、井伊家を支配しつつあったとし、それを恐れた政次が、駿府の今川氏真に何らかの讒言をし、氏真了解のもとに殺害したため、周囲は手が出せなかったのではないか・・・と、推察しています。かつて政次の父・小野和泉守政直は、井伊直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)と次郎法師(ドラマではおとわ)が結婚することで、直満が大きな権力を握ることを恐れて殺害しました。今度も同じ動機だったのではないかと・・・。あくまでも、井伊家の補佐役の筆頭小野家でなければならないということですね。


 「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 第5話で死に際の政直が息子の政次に言った台詞ですが、ドラマでは、まだその兆候は見られません。でも、あるいは、この奥山朝利殺害事件が、父と同じ道をたどりはじめたキッカケだったのかもしれませんね。ドラマでも、そんな風に描いてほしかったなぁ・・・。


 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、今川軍が放棄した岡崎城に帰還した松平元康(のちの徳川家康)は、今川を見限って織田信長に急接近します。そして永禄4年(1561年)、三河の牛久保城を攻撃したことで、反今川の姿勢を明確にしました。しかし、そうなると、窮地に陥ったのが今川の人質となっていた、瀬名姫(築山殿)でした。ドラマでは、その命乞いにのために次郎法師が寿桂尼のもとを訪れていましたが、もちろん、ドラマの創作です。そこへ、元康が上ノ郷城を落とし、その城主で寿桂尼の孫にあたる鵜殿長照が自害したとの報せが届き、万事休す。瀬名の処刑が確定します。さてさて、このピンチをどう切り抜けるのか・・・。続きは次回ということで。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-13 20:25 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その26 「平石城跡」 大阪府南河内郡河南町

前稿で紹介した持尾城跡から直線距離にして1.5kmほど北上したところに、平石城があります。

平石と書いて「ひらいわ」と読みます。

ここも、楠木家ゆかりの城跡です。


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写真中央に見える小高い山の頂きに城跡があります。

稲穂がきれいですね。


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集落のいたるところに案内板が設置されていますので、迷うことはありません。


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民家の間を抜けて入山します。


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山頂に近づくにつれ、土塁跡堀切跡などの遺構に目を奪われます。


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山頂へは入山してから15分ほどで登れます。


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二の丸跡から本丸跡への登り口です。


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本丸跡です。

細長い構造になっています。


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石柱と案内板が設置されています。


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案内板の説明によると、平石城は、この地の豪族・平岩茂直が、楠木正成赤阪挙兵に応じて築いた城だそうです。

元弘元年(1331年)赤阪城攻略にむかう北条幕府軍は、平石峠を越えて大和国から河内国に進入しますが、茂直はこの城にたてこもって防戦したそうです。

前稿の持尾城と同じく平岩氏の城だったようですが、持尾城は楠木正成が築いた城で、平石城は平岩茂直が築いた城と説明されていますね。

両城は目と鼻の先ですから、同時進行で築いたのでしょうか。


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また、『太平記』巻34によると、時代は下って正平14年(1359年)、足利勢が河内国に攻め入ったときには、正成の三男・楠木正儀17ヶ所の城を整備してこれを防いだと伝わりますが、この城も17支城のひとつとして修築され、平岩茂直の子・平岩茂幸が防戦したそうです。


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本丸跡には、その平岩茂直の墓碑があります。


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他にも、平岩氏一族のものと見られる墓碑が複数立ち並んでいます。


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ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月7日。

本丸は木が生い茂って景色は見えませんでした。


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下山して集落の奥から似た西側の景色です。

向こうに見えるのが嶽山城(龍泉寺城)

稲穂がきれいです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-11 21:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その25 「持尾城跡」 大阪府南河内郡河南町

前稿で紹介した嶽山城(龍泉寺城)から千早赤阪村を挟んで6kmほど北西にある、持尾城跡を訪れました。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたと伝えられる城です。


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持尾地区は道が狭く車を停める場所がないと聞いたので、途中で車を置いて歩きます。


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こんな誘導サインがあるので、すぐにわかります。


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ここから西側の眺望です。

右に見えるのが某教団の平和の塔、左に見えるのが嶽山城(龍泉寺城)のある嶽山です。


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嶽山の拡大です。

山頂に見えるのが「かんぽの宿」です。


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前方に見えるのが、持尾城跡のある山(丘?)です。

標高336mあります。


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集落全体が坂道しかありません。


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二ノ丸跡らしき削平地に、眞念寺という小さなお寺があります。


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同じく二ノ丸跡には、磐船神社という古い神社が鎮座します。


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その向かい側に、本丸跡に登る登城口があります。


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その側に設置された説明板。


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本丸跡です。

小さな石碑と説明板が設置されています。


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説明板によると、持尾城は元弘2年(1332年)に楠木正成が築いた城のひとつで、平岩氏がたてこもって戦ったといわれるそうです。

大和国から河内国へ進入する北条幕府軍の様子がよく見えるため、のろし台の役割を果したのではないかと思われるそうです。


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本丸跡はそれほど広くなく、小さな砦のような城だったのではないでしょうか?

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石碑の横にはあずまやが建てられています。


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本丸跡から見る西の眺望です。

樹が邪魔だなあ。


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ここからも、嶽山城(龍泉寺城)が見えます。


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遠く北西には、大坂市街地が見えます。

高く聳えているのはあべのハルカス


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こっちは南西の眺望。

千早赤阪村方面です。


さて、次回も楠木ゆかりの城跡です。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-10 18:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その24 「嶽山城(龍泉寺城)跡」 大阪府富田林市

烏帽子形城から北西に4kmほどのところにある嶽山城跡にやってきました。

ここは、富田林市にある標高278m嶽山山頂にあり、その中腹に龍泉寺があることから、龍泉寺城とも呼ばれています。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつに数えられます。


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嶽山山頂へは車で登れます。

現在、山頂には「かんぽの宿富田林」があり、城の遺構らしきものはほとんど残っていません。


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かんぽの宿の建物北側にテニスコートがあるのですが、その裏手に石碑があるというので、行ってみました。


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茂みのなかに入っていくと・・・。


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ありました。


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「楠公龍泉寺城」と刻まれた石柱です。

楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられたそうです。


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築城時の龍泉寺城は、正成の弟・楠木正季の居城だったと伝わり、正季は楠木龍泉とも呼ばれます。

正季は正成とともに湊川の合戦で命を落とします。


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『太平記』巻34によると、正成の三男・楠木正儀の時代にも戦場になったようです。

詳しくは上の説明板をお読みください。


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嶽山山頂から東を望むと、金剛山、葛城山が聳えます。

ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月6日、今にも雨が振りそうな空ですが、このあと、強烈なゲリラ豪雨に見舞われました。


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せっかくなので、中腹の龍泉寺にも立ち寄りました。


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寺伝によれば推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされます。


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天長5年(828年)淳和天皇により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜ったそうで、東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったといいます。


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しかし、山頂に楠木正成が城を築いたことで戦火に巻き込まれ、ほとんどが焼失しました。

龍泉庭園は、国指定の名勝となっています。


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南河内には楠木正成ゆかりの城はまだまだあります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-09 21:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その23 「烏帽子形城跡」 大阪府河内長野市

千早赤阪村の隣、河内長野市にある烏帽子形城跡にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)に楠木正成上赤坂城支城として築城したといわれ、楠木七城のひとつとされています。


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烏帽子形城跡は国の史跡に指定されており、城跡公園として整備されています。


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城跡は標高182m烏帽子形山の山頂にあり、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいます。

したがって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしています。
ここは京と堺と高野山を結ぶ東高野街道西高野街道高野街道に合流する地点で、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝でした。


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登城道は公園整備されているので歩きやすく、15分ほどで本丸跡までたどり着きます。

ただ、勾配は結構キツイです。


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見事に土塁跡が残ります。


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本丸跡です。

それほど広くはありません。


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本丸跡に設置された復元予想図です。


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築城時は、楠木正成の部将・高向氏が籠もって戦ったと伝わります。

その後、応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、たびたび戦場となります。

天正年間には橘長治が城主となり、大阪夏の陣後の元和3(1617年)に廃城となります。


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本丸跡から見た北側の眺望です。

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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二ノ丸跡です。

本丸跡はそれほど広くありませんでしたが、二の丸跡は結構な広さです。


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めちゃめちゃ立派な堀切跡です。


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とにかく、遺構の保存状態が良好で、THE城跡・・・といった感じです。


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城跡公園内には、烏帽子形古墳もあります。

6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられているそうです。


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烏帽子形山の東麓には、烏帽子形八幡神社があります。


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楠木一族の楠小二郎という人物が創祀したものと伝えられ、その後、しばらく荒廃していましたが、烏帽子形城が廃城となった元和3年(1617年)、楠木一族の後裔といわれる甲斐荘喜右衛門正保が改修したそうです。


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本殿は国の重要文化財に指定されています。


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本殿の向かいには「楠公武威松」と刻まれた石碑と、古い切株が祀られたがありました。


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説明板によると、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」がこの場所にあったそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の寿命を閉じたそうです。

その老木を輪切りにして祀ったのが、これだそうです。


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ガラスが反射して、写真ではよくわかりませんね。


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さて、次稿も楠木七城のひとつを訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-03-08 20:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)