太平記を歩く。 その114 「杣山城跡」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から直線距離にして20kmほど北西にある杣山城跡を訪れました。

ここは、金ヶ崎城の戦い新田義貞軍に加担した瓜生氏の居城でした。


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杣山城は標高492m比高402mの山頂にあり、登山道は険峻ガッツリ登山系の城跡です。


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この日は早朝に神戸を出て、車で2時間半かけて敦賀市に入り、午前中に金ヶ崎城跡をめぐり、午後から約30分かけてここに来ました。

結構つかれていたのでどうしようか迷ったのですが、せっかく来たので登ることに。


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登山コースはいくつかありましたが、この日は、いちばんポピュラーだという第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコースを選びました。


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麓の谷間の居館跡です。

幅約100m奥行き約300mの広大な面積です。


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谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100m、高さ3m土塁が残されています。


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居館跡を抜けると、登山道が始まります。

最初は階段がつくられていて登りやすいのですが・・・。


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しばらく登ると、なにかの石垣跡があります。

これはたぶん城跡のものじゃないでしょうね。


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西御殿跡経由のコースを選びます。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日、金ヶ崎城に入った新田義貞は、ここ杣山城の瓜生保とその兄弟に援軍を要請します。

これを受けた瓜生保は、いったんは義貞に味方したかと思えば、足利尊氏からの偽の綸旨に踊らされて義貞に敵対したりと右往左往するのですが、最終的には新田軍に与し、年が明けた正月11日、瓜生保は金ヶ崎城に食糧を運ぶべくここ杣山城を出兵し、その道中、戦死したと伝えられます。

その後、金ヶ崎城の落城直前に城を脱出した義貞は、ここ杣山城に入ります。


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中腹を過ぎたあたりに、ハート型をした洞窟が見えます。


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この洞窟は「姫穴」と呼ばれ、新田義貞の妻・匂当内待が、この穴に一時隠れていたという伝承があるそうです。


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それほど深くないので、隠れていてもすぐに見つかりそうですが。


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姫穴を過ぎると、登山道はいっそう険峻になります。


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標高400m附近にある「殿池」です。


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ここは、山城の唯一の水源だったようです。


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殿池のすぐ上に「西御殿跡」があります。

西御殿跡の周りの西尾根には、殿池の場所も含めて大小17の削平地があります。

そのなかには礎石が見つかった削平地もあるそうで、何らかの建物が建っていた可能性も考えられているそうです。


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西御殿跡に設置された案内板です。


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西御殿跡から本丸跡までは、緩やかな尾根道になります。

ただ、道の周りは大きな岩がゴロゴロあって、決して歩きやすくはありません。


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「袿掛岩」と呼ばれる断崖絶壁に面した岩場です。


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ここは、瓜生保が戦死したと聞いた奥方侍女たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという伝承がある岩だそうです。


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試しに覗き込んでみましたが、高いところが苦手なわたしは、気分が悪くなって吐きそうになりました。


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袿掛岩を過ぎると、大きな「堀切跡」が現れます。

もうすぐ本丸跡ということですね。


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そして「本丸跡」入口。


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本丸は標高492mの頂上にあり、円形状の削平地が中央にあり、その一段下にも削平地があります。


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城下の様子が一望でき、なるほど、籠城するには最高のロケーションです。


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金ヶ崎城からここ杣山城に移った新田義貞は、その後、約1年近くここを拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗しました。


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一説には、金ヶ崎城が落城するずいぶん前から義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見方もあるようです。


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下山道は東御殿跡コースを選びます。


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本丸から東御殿跡に向かう道中にも、無数の削平地が見られました。

これらも、おそらく何らかの曲輪跡なんでしょうね。


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そして「東御殿跡」

東御殿跡は南北に長い約600㎡の削平地で、礎石建物跡が残っています。


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説明板によると、足利軍との戦いの際に麓の居館を捨てた瓜生保が立て籠もったのが、ここ東御殿だったそうです。


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枯れてしまっていますが、かなりの樹齢と思われる巨木が。

あるいは往時を知っているかもしれません。


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東御殿を過ぎた下山コースがまた過酷で、ほとんど道なき道を進む感じでした。


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下山道を覆う断崖絶壁の岩場

写真じゃこの迫力は伝わりづらいですね。


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下山して再び居館跡から城跡を見上げます。


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よく見ると、杣山が岩によって出来た山だということがわかります。


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西御殿から本丸までの尾根伝いも、こうして見るとよくわかりますね。


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で、普通ならこれで終わりなんですが、杣山城の遺構はまだあります。

居館跡から約1km西に、「二の城戸外濠跡」と書かれた説明板と、土塁と堀の跡と思しき遺構が残っています。


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南越前町のHPによると、このあたりには武家屋敷があったとされているそうです。


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二の城戸外濠跡の側には、「史蹟 杣山城趾」と刻まれた石碑と、小さながあります。


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杣山城はその後、幾多も城主を変えながら戦国時代まで存在したようですが、天正元年(1573年)、織田信長北陸攻めにより廃城となりました。

その後、天正2年(1574年)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-31 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その113 「下長谷の洞窟」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から敦賀湾沿いに海岸線を25kmほど北上した国道305号線沿いの崖に、「下長谷の洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があるのですが、ここは、かつて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・恒良親王が身を隠したという伝承があります。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日より約半年間続いた新田義貞軍と足利方・斯波高経軍の攻防戦は、翌年の3月6日、義貞の息子・新田義顕と後醍醐天皇の皇子・尊良親王の自刃によって幕を閉じますが、尊良親王の弟でまだ13歳だった恒良親王は、金ケ崎城落城の際に気比神宮の神官が保護し、小舟に乗せてこの地に逃れ、洞窟の中にかくまったと伝えられています。


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この洞窟は、長い年月をかけて少しずつ波が岩を削りできた海食洞だそうで、入り口は広く奥は狭くなっています。


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入口の高さは約7m、間口はいちばん広い部分で約5m、奥行きは20mほどしかありません。

こんな浅い洞窟に身を隠しても、すぐに見つかりそうな気も・・・。


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洞窟の最奥部の岩壁には、矢じりで彫った「延元二年・・・・恒良云々」の文字があると言われていますが、今はほとんど判読できないと知り、しかも、奥は子どもでも身を屈めないと進めない狭さで、わたしはこのあたりまで来て引き返しました。


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ところが、帰宅してPCで洞窟のことを調べていると、文字を判読して解明されている方のブログを発見。

    ↓↓↓

下長谷洞窟の文字を解読しよう


今は判読できないなんて嘘じゃないですか!

こんなことなら、わたしももっと深く掘り下げるべきだった・・・と、後悔先に立たず。


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洞窟内部から外を眺めます。


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洞窟外に設置された説明板。


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洞窟の正面は道路を挟んですぐ海で、いまは漁港になっています。


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南西には敦賀湾と、原発のある敦賀半島が望めます。

そして西の海は広い若狭湾


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その後、恒良親王は足利方に捕らえられ、京都に護送されました。

『太平記』では、弟の成良親王らとともに花山院第幽閉され、その後、共に毒殺されたと伝えられ、その墓所も不明です。

また、同じく『太平記』によると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、新田義貞らと共に北陸に向かわせたとも伝えられます。

これは『太平記』にしか見られない逸話ですが、恒良親王は金ヶ崎城から各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことは事実のようです。

でも、だったら、なんで年長の尊良親王に譲位せず、年若の恒良親王に譲位したんでしょうね。

結局、後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いたことにより、恒良親王の皇位は無効となり、歴代天皇には数えられていません。

たぶん、北朝の天皇と同じく、偽の三種の神器を持たされていたんでしょうね。

自身の野望のためなら皇子も謀る。

さすがは後醍醐天皇です。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-30 21:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その112 「金崎宮」 福井県敦賀市

前稿前々稿で紹介した金ヶ崎城の麓には、恒良親王尊良親王を祭神とする金崎宮があります。

ここは全国にある「建武中興十五社」のなかの一社で、旧社格は官幣中社です。


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神社の歴史はそれほど古くなく、明治23年(1890年)に始まります。


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ホームページにあるその由緒によると、敦賀の人々の熱烈なる請願により創立されたとありますが、他の「建武中興十五社」がそうであるように、南朝正統論を国民に浸透させようという当時の国策が背景に見える、多分に政治的意図が含まれた神社といえるでしょう。


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境内にある由緒書きです。


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こちらが案内図。

金ヶ崎城跡と一体化した神社ということがわかります。


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鳥居の向こうに社殿が見えます。


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まず手前にあるのが、舞殿


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そしてこちらが拝殿です。


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当然のことながら、紋章はすべて菊の御紋です。


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創立した明治23年(1890年)9月当初、祭神はこの地で命を落とした尊良親王だけでしたが、2年後の明治25年(1892年)11月、弟の恒良親王も祭神に合祀されたそうです。

恒良親王は金ヶ崎城が落城した際に脱出しましたが、足利軍に捕らえられて京都に拘禁され、翌年に毒殺されたと伝わります。


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こちらは境内・拝殿横にある摂社・絹掛神社です。


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絹掛神社は、尊良親王に殉じて自刃した新田義顕以下321名を祭神とします。


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ここ金崎宮の境内も、かつては金ヶ崎城の一部だったのでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-29 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第34話「隠し港の龍雲丸」 ~堀川城の戦い~

 前回、あまりにも衝撃的な結末に、歴史の話をまったくしなかった(する気にならなかった)ので、今回は史実解説を中心にいきます。


 永禄11年(1568年)12月、井伊谷城を攻略した徳川家康は、駿河国今川領を侵攻する武田信玄に加勢すべく遠江国の今川領へ侵攻し、年内に引間城を攻略。その後も家康は今川氏真の籠る掛川城を包囲すべく、侵攻を続けます。しかし、今川方も粘りを見せ、久野城久野宗能高天神城小笠原氏助らは徳川方に帰順しましたが、堀江城大沢基胤と同一族の中安種豊は、反徳川を鮮明にしていました。家康は思った以上に苦戦を強いられることとなります。


 そんな状況下、永禄12年(1569年)3月、気賀の地侍や農民が一揆を起こし、湖岸にある堀川城に女も含めた2,000人が立て籠もるという事態が起きます。この一揆は、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らをはじめとする武装蜂起した民たちが中心で、徳川氏の遠江国支配を嫌う親今川氏の最大級の反乱でした。3月27日、家康は3,000の兵をもって堀川城攻めを開始。ドラマでもありましたが、堀川城は干潮時陸続きですが、満潮時には城に行くのに船が必要だったといいます。徳川軍は最初の攻撃は満潮時だったため上手く攻められずに兵を引きますが、2回目の攻撃は干潮時だったため、凄まじい攻撃でたちまち城を落としました。


 『改正三河後風土記』によると、堀川城に籠っていた兵108人が首を討たれたが、烏合の一揆衆寛仁の沙汰によって赦された、とあります。しかし、徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』では、約1,000人なで斬りにされたと伝えています。徳川びいきの記述が目立つ『三河物語』が伝えることですから、ほぼ事実と見ていいのでしょう。同じく『三河物語』によると、700人の村人が捕虜となり、9月9日に首をはねられたとあります。そしてその首を小川に沿った道に晒したといわれ、その場所は「獄門畷」と呼ばれるようになり、現在に至るそうです。


ドラマでは、家康は直接関わっておらず、すべて重臣の酒井忠次が計画したことになっていましたが、皆殺しにするか情けをかけて恩を売るか、といった重要な政治的判断を家臣に任せるなどは考えづらく、たぶん、家康の命令で行われたと考えられます。家康はよほど虫の居所が悪かったのか、それとも、見せしめを必要とするほど何かを恐れていたのか、いずれにせよ、当時の気賀の住民の半数以上が犠牲となったといいますから、まさに「大虐殺」といっていいでしょう。家康の黒歴史です。


 さて、少しだけドラマに戻って、巷では「政次ロス」という言葉が飛び交っていますが、もっとも「政次ロス」に罹っていたのは、どうやら井伊直虎本人だったようです。あの状態を記憶喪失というのか現実逃避というべきか、いずれにせよ、政次の死をなかったことにしたいという強烈な思いが、直虎の心を支配している状態なんでしょう。最も大切な人を自分の手で殺した経験がないので、どうにもわかりかねますが・・・。印象的なのは、前話の政次処刑の前も後も、直虎は一度も涙を流してないんですよね。それが、辞世の句を読んで、はじめて涙がこぼれた。やはり、直虎は何かに取り憑かれていたというか、自分の心とは真逆の行動を自らに強いたとき、人は心を失ってしまうのかもしれません。それが、辞世を読んで心を取り戻し、自然、涙が出た。細かい心理描写ですね。あの壮絶な処刑シーンで涙を流さない柴咲コウさんの迫真の演技感服です。


 あれっ? また前回の話になっちゃいました。やっぱ、わたしも「政次ロス」のようです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-28 19:42 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その111 「尊良親王御墓所見込地」 福井県敦賀市

前稿で紹介した金ヶ崎城跡の一角に、尊良親王自害したと場所が伝えられています。


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その場所は、本丸跡に登る途中の脇道に設置された階段を上った、小高い丘の上にあります。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、幼いころより聡明容姿も端麗だったといい、次期皇太子として期待されていたそうですが、鎌倉幕府の介入によって後二条上皇(第94代天皇)の長子・邦良親王が皇太子となります。

その後、元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

そのときの逸話は、「その9」で紹介しています。


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その後、京に戻って新田義貞と共に足利軍と戦いますが、父帝の降伏に伴い義貞と共に越前国に逃れ、ここ金ヶ崎城にて半年間の攻防戦の末、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、この地で自害したと伝わります。


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石碑には「見込地」と刻まれています。

たぶん、このあたりだったんじゃないか、ということでしょうね。


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石碑の裏には、「明治九年十月」とあります。

これまで見てきた『太平記』関連の石碑のなかでは、いちばん古いかも。


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一説には、新田義顕は尊良親王に落ち延びるよう勧めたといいますが、親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶し、強く自刃を希望したため、義顕は応じたと言われます。

『太平記』によると、親王は義顕に「自害の方法とはどのようなものか?」と問い、義顕は涙ながらに「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。

それを見た親王も、直ちにを手にして腹を切り、義顕の上に折り重なるように倒れ、続いて付き従っていた300人も同じく親王に殉じたと記しています。

このとき、尊良親王27歳、新田義顕は18歳でした。


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この半年間の戦いの最中、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝(南朝)を開きました。

たぶん、そのことは尊良親王も聞き及んでいたでしょう。

あるいは、父に付き従っていれば、南朝第2代天皇は尊良親王だったかもしれません。

無念だったでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-25 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その110 「金ヶ崎城跡」 福井県敦賀市

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡までやってきました。

これまで関西を中心にめぐってきたため(山陰も行きましたが)、ここはちょっと遠いのでどうしようか迷ったのですが、やはり、『太平記』には福井県は欠かせないと思い至りました。

というわけで、しばらく越前国シリーズが続きます。


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足利尊氏が京の都を占領し、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)との講和が始まると、徹底抗戦を主張していた新田義貞恒良親王、尊良親王を奉じて京を脱出。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、当時、気比氏治の居城だった、ここ越前国金ヶ崎城に入り、約半年間、この地で足利勢と激戦を交えます。


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金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)を利用して築かれた城で、敦賀津を眼下にみおろす絶好の立地にあります。

前は海、背後は険しい山岳で、天然の要害をなした難攻不落の城でした。


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現在、城跡は公園整備されており、気軽に散策できます。

遊歩道からは敦賀市街地が見渡せます。


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しばらく歩くと、「絹掛松」を書かれた案内板があります。


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その説明書きによると、金ヶ崎城の落城直前、恒良親王(当時15歳)は蕪木浦(現在の越前町)に避難しますが、その際、衣を脱いで岩の松の枝に掛けて小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を「絹掛松」と呼び、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいるそうです。


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そのすぐ側にある鴎ヶ崎

大正天皇(第123代天皇)、昭和天皇(第124代天皇)もこの地を訪れ、ここで小休止されたそうです。


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本丸跡に登る途中に、「金ヶ崎古戦場碑」が建てられています。


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義貞らが金ヶ崎城に入ると、足利方は越前国守護の斯波高経新田軍討伐を命じます。

しかし、守りの固い金ヶ崎城を攻めあぐねた高経は、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。

迎え討つ義貞は、20kmほど北の杣山城を拠点とする瓜生保らに援軍を要請し、紆余曲折のあと協力を得ます。


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年が明けた1月18日、金ヶ崎城の兵糧が尽き始めたことを知った瓜生保らは、杣山城を出て食糧救援に出撃しますが、あえなく失敗。

その後、義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と義貞の息子・新田義顕らを残して兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出しますが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできませんでした。

3月3日、斯波軍が金ヶ崎城に総攻撃を開始します。

兵糧攻めによる飢餓疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日落城。

尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は斯波軍に捕縛されました。


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本丸跡と伝わる月見御殿跡です。


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片隅に小さな石碑が。


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月見御殿跡からの敦賀湾の眺望です。


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下山は別ルートを進みます。

しばらく下ると、三の木戸跡があります。


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そのすぐ近くに、「焼米石出土跡」と書かれた看板が。


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ここ金ヶ崎城にはもうひとつの戦史があります。

戦国時代の織田信長朝倉義景の戦いがそれで、浅井長政裏切りによって危うく挟撃の危機に瀕したものの、信長の妹で長政の妻だったお市が、袋の両端を縛った「小豆の袋」陣中見舞いに送り、その危機を報せたという、あの戦いです。

「袋のネズミ」は、まさにこの城だったわけですね。

そのとき焼け落ちた米蔵の焼米と思われる遺蹟が、この場所で出土されたそうです。


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二の木戸跡です。


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説明板によると、新田軍と斯波軍の戦いで、このあたりで激戦が行われたといわれるそうです。


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二の木戸と一の木戸の間にある大きな堀切跡です。


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一ノ木戸跡です。


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『太平記』によれば、飢餓に耐えかねた城兵らは、まずを殺して食し、最後は死者の肉すら食らったと伝えます。

援軍を得て体勢を立て直すためだったとはいえ、結果的に義貞は2人の皇子と息子、そして餓えに苦しむ城兵を見捨てたことになり、南朝よりに書かれた『太平記』が、楠木正成ら他の南朝方の武将に比べて義貞の評価が低いのも、この戦いに起因するところが大きいといえるでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-24 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その109 「東寺」 京都市南区

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が比叡山に入ると、京を占拠した足利尊氏は、はじめ男山八幡に陣を布いて比叡山に総攻撃を仕掛け、その後、延元元年/建武3年6月14日に、ここ東寺に布陣しました。

東寺は、世界文化遺産に登録されている京都の顔です。


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九条通りに面した正門・南大門です。


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そして南大門を潜ると、国宝・金堂が正面に見えます。


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金堂は1200年以上前からあったとされますが、現在のものは慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進によって再建したものだそうです。


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こちらは重要文化財の講堂


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そして、こちらが有名な五重塔

国宝です。


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東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8mは、木造塔としては日本一の高さを誇ります。


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尊氏が東寺に入ると、名和長年四条隆資など後醍醐天皇方の武将が次々に東寺に攻め込みますが、名和長年は討死し、四条隆資は足利方の土岐頼直に阻まれ、上手く進軍できません。

そんななかの延元元年/建武3年6月30日、新田義貞率いる2万の軍勢が猛然と大宮通りを東寺に向かって進軍し、六条大宮付近で足利軍の激しく激突。

苦戦した足利軍は東寺の東大門から境内になだれ込み、最後の一人が境内に入ると同時に東大門は閉ざされました。


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ここが、外側から見た東大門ですが、平成29年(2017年)5月現在、修築工事中とのことで、養生柵に囲われています。


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柵の上に腕を伸ばして撮影。


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こちらは、境内から見た東大門

工事関係者の車両が停まっています。

邪魔だなあ・・・。


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その説明板。

通称「不開門(あかずのもん)」と呼ばれているそうです。


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足利方によって東大門が閉ざされると、新田軍はその門めがけて無数の矢を放ったといいます。

義貞が門外より尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、尊氏はその挑発にのることなく、その後も東大門が開くことはありませんでした。

そんな由来で、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれるようになったのだとか。


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門扉には新田軍が放った矢の跡があると聞いてきたのですが、残念ながら工事が終わるまで見ることはできなさそうです。


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こちらは、この戦いより半年間、尊氏が居館としていたと伝わる食堂です。


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そして、こちらはその間、光厳上皇(北朝初代天皇)の行宮となった小子坊。


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正門の門扉は菊の御紋です。


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この新田軍の総攻撃が失敗に終わったことで、その後、後醍醐天皇方の形勢は厳しくなり、やがて後醍醐天皇は足利方の和平工作に応じ始めます。

しかし、義貞にはこの事実は知らされておらず、義貞がこのことを知ったのは、和議を結ぶ当日でした。

これを知った義貞の家臣・堀口貞満が涙ながらに後醍醐天皇の無節操を非難して訴えるシーンが『太平記』に描かれます。

しかし、結果的に後醍醐天皇は、義貞を切り捨てるかたちをとりました。

一方で、天皇はこの和議は一時的な「計略」であるとの旨を義貞に伝え、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐためだったと取り繕います。

これを聞いた義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて北国へと下向させてほしいと提言し、後醍醐天皇もこれを受け入れます。


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後醍醐天皇による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いも拭いきれません。

しかし、この日を機に後醍醐天皇方が2つに分裂したのは確かで、何らかの行き違いがあったのは間違いないでしょう。

義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸入りしたのは、自身が逆賊扱いされないための人質だったのかもしれません。

というわけで、次回から北陸の新田義貞らの足跡を追います。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-23 22:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


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千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


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そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


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建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


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『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


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石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


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ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


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また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


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「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)