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真田丸 総評

2016年大河ドラマ『真田丸』の全50話が終わりました。今年もなんとか完走できて安堵しています。秋以降、仕事が忙しくなって起稿も遅れがちになり、ホントはもっと掘り下げたかった回もあったのですが、上辺だけ流して簡単に済ませたりしました。まあ、そこは素人の趣味でやってるブログということで、ご容赦ください。で、最後に、例年どおり今年の作品についてわたしなりに総括します。


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 主人公の真田信繁は、戦国武将のなかでもとりわけ人気の高い人物で、これまでも小説や映画、漫画などで何度もフィーチャーされ、昨今では『戦国無双』などのゲームの影響から、歴女人気ナンバーワン武将とも言われていましたが、その人気はいまに始まったものではなく、江戸時代の初期以降、つまり、大坂夏の陣で討死して以降、信繁の生涯は講談などを通してさまざまに語り継がれ、多くの伝説を生んできました。その結実が「真田幸村」です。これまで、わたしたちが知っていると思っていた信繁像は、実は、虚実とりまぜた「幸村像」なんですね。


 今回、その有名な「幸村」という名をあえて使わず、「信繁」でいくと知ったとき、これまでの幸村像を脱却した信繁の実像に迫ろうという制作サイドの意気込みだと感じました。虚像に塗り固められた幸村ではなく、本当の信繁は、きっとこんな人物だったんじゃないかと。


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 ただ、信繁という人物は、その生涯の最後の最期に大きな花火を打ち上げ、華々しく散華していっただけで、それ以前の信繁の生涯は、信用に足る史料に乏しく、ほとんど謎の人物なんですね。だから、池波正太郎『真田太平記』でも、火坂雅志『真田三代』でも、さらには、江戸時代に刊行された『真田三代
でも、そのクライマックスで幸村は活躍しますが、物語を通しての題材は真田一族です。今回も『真田丸』というタイトルは、大坂冬の陣における出城「真田丸」と、真田一族が戦国の荒波を航海する船「真田丸」をかけたものだそうですが、あくまで主人公は信繁。はたして1年間もつのだろうか・・・と、注目していました。


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 で、1年間見終えて思ったのは、やはり、信繁の物語ではなく、真田一族の物語でしたね。特に前半は父の真田昌幸が主人公といってもよく、中盤あたりも、信繁の目線で描かれた豊臣一族の物語だったり、戦国史だったりしただけで、主人公である信繁の人物像は、昌幸のような強烈な存在感はなく、どちらかといえば無味無臭な存在でした。そして物語の終盤、いよいよ信繁活躍の舞台が整ったところで、名を「幸村」と改名。ようやく主人公となったその人物像は、やはり、既成の「幸村像」だったように思います。たいへんカッコよく見ごたえがありましたが、残念ながら、真の「信繁像」とはいかなかったですね。でも、これは仕方がないことなんでしょう。もともと一次史料に乏しく、伝承レベルの逸話に頼らざるをえないでしょうから、幸村と違う真の信繁像なんて、描きようがないのでしょう。むしろ、その少ない史料と伝承を、三谷幸喜さんなりに上手く料理していたなあと思うところが多々ありました。無理やり主人公を活躍させて賛美するようなこともなく、あれだけ無味無臭なキャラに設定したことは、逆に斬新だったかもしれませんね。


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 その観点でいえば、今回、真田家の関わっていない出来事はことごとく省かれていましたね。だから、本能寺の変関ヶ原の本戦石田三成の最期も、そして、信繁落命後の大坂夏の陣の結末も描きませんでした。これも、この物語はあくまで真田家の物語だという三谷さんのこだわりだったのでしょう。これもよかったんじゃないでしょうか。これまでの作品内では、直接関係ない出来事に無理やり主人公を絡めて、ありえない活躍をさせたりすることがよくありましたが、あれって、すっごくシラケちゃうんですよね。もちろん、ドラマですからフィクションはあって当然なんですが、明らかな主人公ご都合主義の設定は、逆に物語を壊すだけだとわたしは思います。事実は小説よりも奇なりですから。その意味では、今回はそんな場面がほとんどなかった。その分、観る人によっては消化不良なところもあったかもしれませんが、わたしは、そのこだわりを評価したいと思います。


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 主人公の信繁は無味無臭なキャラでしたが、その脇を固める登場人物は、皆、かなり個性的でしたね。その最たる存在が真田昌幸で、まさに「食えない男」という比喩がぴったりなキャラでした。「表裏比興の者」と呼ばれた昌幸ですが、ドラマではそのペテン師ぶりも愛すべき存在で、今年の大河は、昌幸なくしは語れないのではないでしょうか。演じた草刈正雄さんといえば、約30年前、『真田太平記』で幸村を演じられていたことが思いだされます。あのときの幸村が、今回は昌幸を演じる。これも、古い時代劇ファンを唸らせる三谷さんの狙いだったのでしょうね。そして、それが見事にハマっていました。30年前の昌幸は丹波哲郎さんでしたが、今回、草刈さんは当時の丹波さんをかなり意識していたんじゃないでしょうか。随所でそう感じる場面がありました。いつの日か、今度は堺雅人さんが昌幸を演じる日が来たら、面白いですね。


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 その堺さんは、民放ドラマでは個性的な役が多いのに対し(過去の大河ドラマでも、『篤姫』ではかなり強烈な役でしたよね)、今回は主役でありながら個性を殺した地味な役どころで、周りの個性的な脇役を引き立てる珍しいタイプの主役でした。主役でありながら抑えた演技をするというのは、結構むずかしいんじゃないでしょうか。でも、今回はその堺さんの演技があったから、昌幸や秀吉、家康、そして淀殿といった強烈なキャラが生きたんじゃないかと思います。ド素人のわたしがプロの役者さんを評するなど、当事者の方々からすれば片腹痛いかもしれませんが、さすがは一流の役者さんですね。


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 信繁とともに全50話通して出ていたのが、兄の真田信之徳川家康、そして高梨内記の娘・きりでしたが、真田信之(信幸)役の大泉洋さんも、普段、派手な役ばかり演じてこられた役者さんですが、今回は真面目で、誠実で、いたって堅実役どころ。大泉さんのこんな役は初めて観ました。信之という人は、弟の華々しい人気の影に埋もれがちながら、実は、真田家存続に最も尽力した人で、この人がいたから真田家が生き残ったといっていいでしょう。しかし、派手な父や弟と比べて、どうしても地味な存在です。ただ、そんな兄を、弟の信繁は誰よりも尊敬し、慕っている。そして信之は、無鉄砲な弟をいつも思い、影で支援する。まさに、典型的な長男次男ですよね。今回、その信之がエピローグのラストだったのは、粋な演出でしたね。結局、真田家の未来は信之が背負ったということが描きたかったのでしょうね。


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 内野聖陽さん演じる徳川家康もよかったですね。真田昌幸・信繁の視点で描けば、家康はヒール役となるところですが、今回、三谷さんはそう描かなかった。臆病で、優柔不断で、昌幸同様、どこか憎めない愛すべきキャラでした。歴史の答えを知っている後世のわたしたちからすれば、家康=強かなタヌキ親父といったイメージになりがちですが、家康とて、迷ったり怯えたりしながら生きていたんだ、と。人間家康でした。


 そして、きりちゃん。ドラマが始まった当初、コアな大河ファンから「ウザい」とか「いらない」とか、散々な批判を浴びていたきりでしたが、物語が進むに連れてだんだんと批判の声が少なくなり、信繁が大坂城入りを迷っていたとき、「真田源次郎がこの世に生きたという証を、何かひとつでも残してきた?」と、物語の核ともいうべき台詞を吐いたことから、視聴者のきりに対する評価も一気に肯定的に変わりました。といっても、きりは最初から何も変わってなく、常に正直に思ったことを口にしていただけなんですけどね。観る側の評価が、いつのまにか変わっていった。これも、三谷さんの狙いですかね? きりの役どころは、いわば「狂言回し」で、特に時代劇においては常套手段。『真田太平記』のお江や、『竜馬がゆく』寝待ノ藤兵衛がそうですね。『真田丸』におけるきりは、信繁の幼馴染で、信繁の最初の妻であるとも親しく、おばばさまと一緒に人質になったり、豊臣家では北政所侍女となり、細川ガラシャと交流があったり、更には淀殿に付き従い、最後は千姫を徳川陣に送り届けるという、まさに脚本家にとっては便利屋ですね。でも、ただの狂言回しではなく、先述したような重要な台詞を吐く大事な役どころでもありました。長澤まさみさんも、最初の批判の嵐はきっと辛かったでしょう。お疲れさまでした。


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 あと、三谷脚本ならではのコミカルな演出ですが、これは、好きか嫌いかで分かれて仕方ないんじゃないでしょうか? 大河ドラマの重厚感が削がれるといった批判もあって然りですし、その批判を理解できなくもないです。でも、わたしは、けっこう好きでした。まあ、なかには、ここでは笑いを入れないでほしかったという場面もありましたが、概ね物語を壊すような場面での笑いはなく、箸休め的な笑いで、よかったと思いますけどね。何より、伝承レベルの俗説から昨今の新説まで、よく勉強されているなあと唸らされる場面が多々ありました。荒唐無稽な作話ではなく、綿密に調べ上げた上での設定がベースにあって、そこに味付けとして盛り込まれた笑いですから、まったく不快ではありませんでした。むしろ、三谷さんの歴史に対する敬意が伝わってきました。わたしは評価したいですね。


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 さて、そんなこんなで長々と綴ってまいりましたが、今年の大河ドラマ『真田丸』を一言で評価すれば、名作、傑作だったと思います。今世紀に入ってからの作品で言えば、わたしのなかでは、『風林火山』『軍師官兵衛』と並んで3本の指に入る作品になりました。何より良かったのは、信繁にしても昌幸にしても家康にしても、その戦う理由が自分のためだったこと。昨今の作品に共通していたのは、その戦う理由として、「乱世を終わらせるため」とか「戦のない世を作るため」といったスローガンを語らせることがほとんどで、あの台詞を聞くたびに、安っぽく感じてシラケちゃうんですよね。乱世に生きた彼らは皆、自分たちの野望を満たすため、あるいは、自家の存続と繁栄のために戦っていたわけで、決して世のため人のために戦っていたわけではありません。言うなれば、現代の企業戦士たちと同じで、自社の利益のため、家庭を守るため、自身の出世のために血眼になって働いているわけで、世の中のために働いている人なんて、ほとんどいないはずです。皆、自分たちのために働いて、その結果、世の中の繁栄に繋がっているわけで、戦国時代も現代社会も同じですよ。その意味では、今回のドラマでは、昌幸、信之は真田家の生き残りのために、そして信繁は、自身がこの世に生きた証を残すために、それぞれが自分のために生きていた。これですよ!これ! これこそが真の武士、真の男の生き様で、そこに共感し、温故知新を見ることができるんですよ。まさに、我が意を得たりでした。これ、わたし、毎年言ってきてたことですが、やっとNHKに届いたって感じです(笑)。


 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『真田丸』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『大いなる謎 真田一族』 平山優

『真田幸村と大坂の陣』 渡邊大門

『真田幸村と大坂の陣』 三池純正

『真田信繁』 三池純正

『真田丸と真田一族99の謎』 戦国武将研究会

『新装版・真田三代記』 土橋治重

『真田三代』 火坂雅志

『真田太平記』 池波正太郎

『日本の歴史12・天下一統』 林屋辰三郎

『日本の歴史13・江開府』 辻達也


●参考にしたサイト

時代考証担当 駿河台大学法学部教授黒田基樹先生の解説

時代考証担当 丸島和洋先生のツイッター



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-24 03:49 | 真田丸 | Comments(4)  

真田丸 第50話「最終回」 ~日本一の兵(ひのもといちのつわもの)~

 慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最後の決戦が行われました。真田信繁(幸村)が布陣したのは、大坂冬の陣のときに徳川家康の本陣が敷かれていた天王寺口茶臼山でした。豊臣方は前日の激戦で後藤又兵衛基次隊や木村重成隊が壊滅し、残った兵たちも疲労困憊の状態でしたが、信繁は兵たちの士気を高めるべく自ら陣頭に立ち、起死回生の戦いに挑みます。


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 このときの真田隊の様子については、軍記物等で様々に語り継がれています。『大坂御陣山口休庵咄』では、信繁は「茶臼山に真っ赤な幟を立てて、赤一色の鎧兜に身を固めて布陣していた。その東には息子の真田大助が控えていた」とあり、また、『武徳編年集成』には、「茶磨山(茶臼山)には真田が赤備、躑躅の花咲たるが如く、堂々の陣を張る」と、そのきらびやかな武者ぶりを描写しています。信繁にとってこの日は、一世一代の晴れ舞台だったのかもしれません。


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 冬の陣の際の真田丸附近には毛利勝永隊、大野治長隊が布陣し、岡山口は大野治房隊が固めます。この日、信繁たちは、初めから家康の本陣を突くことのみに狙いを定めていました。大坂城は裸城となり、兵力差も歴然としていたなか、ダラダラと戦を長引かせたところで万にひとつの勝ちも見込めない。であれば、狙いは家康の首ただひとつ。家康を殺すことで徳川方の戦意をくじき、一気に戦いを収束させて談判に持ち込もうという作戦ですね。たしかに、この時点で豊臣方にわずかでも勝算があるとすれば、その一手しかなかったでしょう。まさに、乾坤一擲の戦いでした。


 この戦いで真田隊は、捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。『幸村君伝記』には、「左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成」とあります。家康本陣を守っていた旗本たちは、まさかそこまで敵の兵が攻めてくるとは思っておらず、恐怖のあまり本陣を捨てて我先にと逃げ惑う有様だった・・・と。


 薩摩藩島津家の家臣の記録『後編薩藩旧記雑録』には、「五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門佐かかり候て、御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度目にさなだもうつ死にて候」と記されています。また、『本多家記録』には、「幸村は十文字の槍を持って家康様を目掛けて戦わんと心掛けていた。家康様はとても敵わないと思い、植松の方に退いていった」とあります。さらに、『三河物語』には、「家康の馬印が倒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来のことだった」と伝えています。実際に信繁自身がどこまで肉薄したかはわかりませんが、宣教師らの証言によると、家康は切腹を口にしたといいますから、真田隊の猛攻によって、家康本陣は大混乱に陥ったことは間違いなさそうです。


 劇中でも、半泣きになって逃げ惑っていた家康でしたが、肉薄する信繁と向き合い観念すると、目が変わり、「手を出すなー!」と叫んで護衛を下がらせます。


家康「殺したいなら、殺せばよい。されどわしを殺したところで何も変わらぬ。徳川の世はすでに盤石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような戦でしか己の生きた証を示せるような手合は、生きていくところなどどこにもないわ!」

幸村「そのようなこと百も承知! されど、わたしはお前を討ち果たさねばならぬのだ! わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者のために」


 このときの家康は、まるで、この男になら殺されてやってもいい、といった目をしていましたね。家康はこの日の戦いに臨むにあたって、激戦が予想される天王寺口の総大将を自ら望んで務めました。息子の徳川秀忠は軍議の席で、老齢の家康をそんな危険な戦場に送り出すことはできないとして、天王寺口を自分に任せてくれと懇願しますが、家康は頑なに譲らなかったといいます。そうすることで、秀忠の命を守ったともとれますが、戦経験の浅い秀忠には任せられなかったともとれます。実際、徳川軍の旗本のほとんどが戦経験のない若者たちで、その腰抜けぶりを家康は嘆いていたといいます。数回前の劇中にも、そんなシーンがありましたよね。元亀・天正からの生き残りである家康は、たとえ自分を殺しに来た敵将であれ、信繁のような武辺者は、決して嫌いではなかったはず。そんな思いが、あの目だったんじゃないかなあ・・・と。


 『後編薩藩旧記雑録』では、信繁の戦いぶりについて、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」と絶賛しています。これを、ドラマでは信繁の理解者であった上杉景勝に言わせていましたね。また、『細川家記』にも、「古今これなき大手柄」と称賛しています。

「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」

劇中の景勝の台詞ですが、信繁の戦いぶりを見た当時の武士たちは、敵味方に限らず、きっと、遠からずの感情を抱いていたんじゃないでしょうか。だから、徳川家の敵将でありながら、後世に語り継がれていったんじゃないかと・・・。


 豊臣秀頼馬印が後退したことで豊臣軍の士気が下がり、形勢は一気に徳川軍に向き始めたという話は史実です。これは、完全に大野治長のミスですね。末端の兵卒は、馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と判断します。戦場において御旗がいかに大事であるか、治長もまた、戦経験不足だったと言わざるをえません。


 秀頼がなぜ出陣しなかったかについては、様々な見方があります。出陣の準備をしていたところ、家康からの講和の使者が来たため中止になったという説や、淀殿が出陣をとめたという説、そしてドラマにあったように、信繁の徳川方内通の流言が出回っていたため、という話もあります。ドラマでは、最後まで信繁に対する疑いをぬぐい切れない大蔵卿の局が腹立たしかったですが、実際、このときの大坂城内では、戦意かく乱のために流されたデマが飛び交っており、信繁を疑う空気も広がっていたといいます。信繁も、徳川方に「浅野が寝返った」というデマを流していますしね。いずれにせよ、このときの大坂城内は、何を信じていいかわからない状態だったことが想像できます。


 信繁の最期についてですが、ドラマでは切腹によって果てたように描かれていましたが、通説では、家康本陣を3度襲撃したあと、茶臼山の北方にある安居神社の境内で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られたと伝わります。その最期は、激闘のすえ討ち取られたともいわれますし、信繁自ら首を差し出したという逸話もあります。その真偽はわかりませんが、「大切なのは、どんな死に際だったかではなく、どう生きたか」というドラマのテーマからいえば、どんな最期だったかは、どうでもいいことだったのでしょうね。


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信繁「わたしは、わたしという男がこの世にいた証しを何か残せたのか・・・」

内記「人のまことの値打ちというものは、己が決めることではございません」

信繁「誰が決める?」

内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村の名は、日の本一の兵として語り継がれるに相違ございません」

信繁「どんな終わりを迎えてもか?」

内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」


 真田信繁という人物は、人生の最期の最後にほんの一瞬だけ輝き、そしてむなしく散っていった武将に過ぎず、徳川家康豊臣秀吉織田信長のように、何か特別なものを世に残した偉人ではありません。しかし、後世はそんな信繁に魅せられ、古今比類なき英雄として語り継いできました。徳川幕府時代にあって敵将である信繁を英雄視するというのは、よほどのことだったに違いありません。まさしく、が信繁の値打ちを決めたんですね。

 日本一の兵・・・・と。


 最終回はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『真田丸』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-21 00:23 | 真田丸 | Comments(2)  

大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


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今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


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「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


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ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


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傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


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一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


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上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




「大坂夏の陣ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。

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大坂夏の陣ゆかりの地



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(2)  

真田丸 第49話「前夜」 その2 ~男は一人もなく候~

昨日の続きです。

 ドラマではなぜか臆病者キャラに描かれている長宗我部盛親ですが、このとき八尾方面に布陣していた盛親は大活躍します。同じく八尾方面を進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑隊、桑名吉成隊とバッタリ出くわした長宗我部隊は、霧を隠れ蓑に猛攻撃を仕掛けます。このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、やむなく大坂城に撤退しました。

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 たぶん、そこまでドラマでやらないだろうと思うので、盛親のその後も記します。盛親は翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。享年41。

 舞台を大和口に戻します。後藤隊の敗走後にようやく到着した真田信繁隊は、遅参の穴を埋めるべく奮闘し、伊達政宗軍を押し返す戦いを見せます。しかし、八尾・若江方面での木村・長宗我部隊の敗報が届くと、このままでは徳川軍に包囲されると判断し、退却を決断します。その際、真田隊は殿を買ってでました。このとき、徳川軍は撤退する豊臣方を追撃しようとしますが、伊達政宗は「わが隊は昨夜からの激闘により将兵はみな疲れている」と追撃を断固として拒否し、そのため、徳川軍の追撃はありませんでした。その様子を見た信繫は、

「関東軍百万も候へ、男は一人もなく候」

と、徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。

 「徳川兵に真の武士はひとりもおらんのか~!」

と叫んだあのシーンは、この逸話からきたものですね。

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 ドラマでは、その伊達政宗に信繁の家族が預けられるという設定でしたが、実際には、半分正しくて半分は創作です。伊達政宗の家臣・片倉重長の元に庇護されたのは、三女・阿梅、五女・なほ、七女・おかね、そして次男の大八らだったようで、正室の竹林院(ドラマでは)は四女・あくり、五女・おしょうぶらとともに大坂落城後に城から落ち延びるものの、5月19日に紀伊浅野家に捕縛されています。翌日、家康に引き渡されますが、赦免されて剃髪し、その後は京都で暮らしたといいます。

 阿梅らが伊達家の片倉家に庇護された経緯については、落城の混乱時に拉致されたとする説と、信繁の生前に託されたという説の2説ありますが、史料的に信ぴょう性が高いのは、拉致説のようですね。でも、物語的には託されたという話のほうがドラマチックですから、そこに家族全員ひっくるめちゃったのでしょう。阿梅はのちに片倉重長の後妻となり、当時赤ん坊だった大八は素性をかくして片倉家に匿われ、やがて片倉久米之介守信と改名して仙台藩士となります。その後、守信より8代後の幕末期に真田姓に戻し、仙台真田家として現在も続いています。

 最後に、ようやく信繁と結ばれたきりちゃんですが、ナレーションにもあったとおり、史料では高梨内記の娘とあるだけで、その人物像は詳らかではありません。一説には、四女・あくりの生母ともいわれますが、それも確かではなく、いつ死んだかも定かではありません。ほとんど謎の人物といえますが、そんなきりに、三谷幸喜さんは本ドラマにおける狂言回しの役目を与えていたんですね。前半は視聴者からウザいだの不要だのと散々な批判を受けていましたが、最後はうまく落とし前を付けたんじゃないでしょうか。

 さて、次週はいよいよ最終回。副題は「無題」だそうですね。どんな結末に描かれるのか、楽しみです。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-14 01:30 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第49話「前夜」 その1 ~大坂夏の陣開戦~

 さて、いよいよ大坂夏の陣の開戦です。


 ドラマでは、慶長20年(1615年)4月29日に起きた「樫井の戦い」によって戦端が開かれたとされていましたが、史実では、その2日前の4月26日、豊臣方・大野治房隊2千が徳川方・筒井定慶の守備する大和郡山城を落としたことに始まります。徳川軍が大坂城南側の河内平野から進軍してくるであろうと睨んだ豊臣方は、その玄関口である大和口を押さえておきたかったのでしょうね。しかし、ほどなく徳川方・水野勝成隊が大軍で攻め寄せるとの報が届くと、大野隊は大坂城に引き上げます。

 そして大野治房はその2日後、今度は2万(一説には4万)の兵を率いて和泉路を南下。紀伊国から攻め寄せる和歌山城主・浅野長晟軍と和泉国樫井川付近で激突します。浅野軍の兵は約5千。数の上では豊臣方有利でしたが、ここで豊臣方は、取り返しのつかない失態を演じます。先鋒の塙団右衛門直之岡部則綱の軍勢が戦功争いをして飛び出してしまい、その結果、小勢で浅野軍の待つ樫井に飛び込むかたちとなり、浅野軍・亀田高綱隊の鉄砲隊に囲まれた豊臣方先陣は、袋のネズミ状態となってしまいます。やがて岡部隊は敗走し、団右衛門は孤立無援のまま奮闘しますが、遂に矢を股に受け、討ち取られます。大軍といえども、所詮は寄せ集めの烏合の衆、指揮系統が整っていないバラバラの集団だったわけで、一丸となって戦う浅野軍の敵ではありませんでした。結局、豊臣軍は堺の町を焼き払ったのみで、むなしく大坂城に撤退します。


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 その後も大坂城内はなかなか作成計画がまとまりません。真田信繫(幸村)は四天王寺あたりで徳川軍を迎え撃つか、宇治・瀬田方面に出陣する策を唱えますが、結局は後藤又兵衛基次の主張する道明寺方面に陣を布くことに決定。道明寺は大和路から河内平野への入口にあたり、道が狭いため大軍での行軍が難しく、ここを押さえて徳川軍を小隊ごとに撃破するという思惑でした。


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 5月5日夜、大坂方は後藤隊を先陣として大坂城を出陣し、真田信繁(幸村)、毛利勝永約1万2000は第二陣として出陣します。ところが、後藤隊が道明寺付近まで行軍すると、すでに内通者によって情報を得ていた徳川方に押さえられていました。やむなく後藤隊は誉田陵(応神天皇陵)に陣を布き、ここで真田隊ら第二陣との合流を待ちます。しかし、真田隊らの到着が遅れ、業を煮やした後藤隊は単独で行軍しちゃうんですね。この日は濃霧が激しく、第二陣は道に迷っていたとか。ドラマでは又兵衛が功を焦って行軍したことになっていましたが、通説では、信繁たちの遅参が原因だったといわれます。

 6日午前4時頃、後藤2千800小松山に陣を布き、徳川方の伊達政宗3万8千の軍と激突します。この兵力差のなかで後藤隊はよく踏ん張るのですが、結局は多勢に無勢。約8時間の激戦のすえ、正午頃に又兵衛は戦死しました。享年56。


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 同じ頃、河内口の八尾・若江方面では、豊臣方・木村重成6千と、宗我部盛親5千300が布陣し、徳川軍本体12万と激突します。若江方面に布陣していた木村重成は、一時は徳川方、藤堂高虎軍の右翼を撃破する勢いを見せますが、その後、井伊直孝軍との激戦のすえ、討死します。ドラマで、万一首を取られても恥をかかないように兜に香を焚きこめたという話がありましたが、夏の陣の戦後、徳川家康が討ち取られた重成の首を検分したところ、頭髪に香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を大いに称えたという逸話が残っています。重成は豊臣秀頼とほぼ同世代で、重成の母が秀頼の乳母を務めたことから、幼馴染のように育ったといいます。重成の討死を知った秀頼は、大いに悲しんだことでしょう。自身もその2日後に後を追うことになるのですが・・・。


 さすがに今回は長くなりそうなので、明日の稿に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-12 21:19 | 真田丸 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

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夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その44 ~西脇城跡~

兵庫県西脇市にあったとされる「西脇城跡」を訪れました。

ここは、三木城から直線距離にして20km以上北上した場所にある城ですが、ここも、三木合戦時に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わる城です。


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西脇城跡のある西脇市は、東経135度・北緯35度が交わる地点で、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとPRしています。

北は北海道から南は沖縄まで、日本列島すべての時刻はここ東経135度線(子午線)に合わせていますから、日本で最も正確な時刻を刻むまちでもあります。

もっとも、西脇城があった時代には、そんなこと知る由もなかったでしょうが。


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西脇城の遺構は市街地に埋没して全く残されておらず、パチンコ屋駐車場脇の一角に、石柱のみが建てられています。


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石柱横の階段を上ると、大きな石碑五輪塔、石地蔵が建てられた廟所になっています。


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高さ3mほどの石碑には「西脇城主高瀬氏政所之址」と刻まれています。

高瀬氏播磨守護職赤松氏の一族で、三木合戦時は三木城主の別所長治方に与していました。


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こちらは五輪塔

「高瀬家」とありますから、おそらく高瀬家の誰かの墓石でしょう。


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こちらの石仏にも、「高瀬家」とあります。


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西脇城は、古地図の復元から約100m四方を堀と土塁で囲った方形居館と呼ばれる城だったことがわかっていて、現在、廟所がある場所より西にあったと伝えられていますが、現在はその痕跡を見ることはできません。

また、城主についても、高瀬土佐守円山兵庫頭祐則が伝えられ、最近では這田荘と呼ばれていたこの地域の政所であったとの研究もあるそうです。

三木合戦時の城主と伝わる高瀬氏は、合戦を境に滅亡したと伝えられます。


次回も西脇市内の史跡を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-07 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~

山下城跡から3kmほど北西にある飯盛山山頂に、春日山城跡があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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春日山城は兵庫県神崎郡福崎町の最南端ある標高198mの飯盛山山頂にあります。

写真は西側から撮影した飯盛山。

この少し南は、姫路市になります。


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山頂にズームイン!


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登山口は2ヶ所ありますが、この日は南側山麓にある春日山キャンプ場からの登城。


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キャンプ場内にある登山口です。


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登山道は写真のように整備されていて、登りづらいといったことはありませんでした。

ただ、勾配は急なので、決して楽ではありません。


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道標です。


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頂上近くになると、登山道脇には曲輪跡と見られる削平地が目につき始めます。


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頂上らしき空が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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結構広い面積の山頂です。


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三木合戦のときの春日山城主は、後藤基信

基信はあの後藤又兵衛基次の父・後藤基国の兄で、又兵衛の叔父にあたる武将です。

天正5年(1577年)の加古川評定を機に後藤家は別所方に与し、三木合戦が始まって間もない5月、羽柴軍によって城は落とされ、基信は討死したと伝わります。

春日山城の築城時期は南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨の守護赤松氏の幕下としてこのあたりを統治していた後藤三郎左衛門尉基明が築城したと言われます。

その後、応仁の乱では赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てたと伝わります。

三木合戦時の城主・基信は、初代・基明から数えて9代目にあたります。


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説明板です。


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食料貯蔵庫跡だそうです。


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北側の眺望です。


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こちらは西側の眺望。

撮影は夏至近い6月18日の夕方4:00頃です。


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こちらは南側の眺望。

3kmほど南下したところには、甥の後藤又兵衛基次が生まれたとされる南山田城跡があります。

三木合戦時、又兵衛は姫路城主の黒田官兵衛孝高の元にいましたが、黒田家は羽柴方に、後藤家は別所方についたことから、黒田家を去ることになるんですね。

又兵衛18歳のときでした。


次回に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-01 20:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)