太平記を歩く。 その131 「高城山」 奈良県吉野郡吉野町

吉野山の南にある標高702m高城山にやってきました。

古くは万葉集にも歌われるこの山は、大塔宮護良親王が吉野で挙兵した際、奥の詰城となった場所です。


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現在は展望公園となっています。


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誘導看板の脇に整備された登り口があり、5分ほど登ると山頂に着きます。

もっとも、金峯山寺などのある吉野山中心部からここまで、30分以上の登山でしたが。


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山頂には往時の山城のを思わせるような休憩所が設置されています。


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別名「ツツジヶ城」とも呼ばれるここ高城山は、寛文11年(1671年)に刊行された『吉野山独案内』にも、「牛頭天王のほこら左に大塔宮こもらせ給ひし城あり、ここを高城とも、またつつじヶ岡ともいふ。」と紹介されています。


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元弘3年(1333年)閏2月1日、攻め寄せた北条幕府二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に吉野城の間道の機密がもれ、奥の詰城として親王が最も頼りにしていたこの城が、真っ先に落ちてしまいます。

この高城山が落ちたことで、親王はもはやこれまでと観念し、蔵王堂前庭での酒宴を開くんですね。


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高城山展望台から望む北西の眺望です。

中央左のいちばん高い山が「その16」「その17」で紹介した金剛山、その右隣が葛城山、さらにその右の2つこぶの山が、「その27」で紹介した二上山城のある二上山です。

吉野山での戦いに敗れた大塔宮護良親王は、あの金剛山中腹にある千早城(参照:その15に落ち延び、楠木正成と合流することになります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-26 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第38話「井伊を共に去りぬ」 ~武田信玄死去~

 三方ヶ原の戦い徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。


 ドラマでは突然死のように描かれていましたが、通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。


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 信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。

 ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。ドラマの信玄が吐いた血は真っ赤でしたね。ということは、結核でしょうか? でも、だったらあんなに寸前まで元気なはずがないですし、少なくとも遊び女を抱くような体力はないような・・・。やっぱ、寿桂尼の呪いだったのでしょうか。あの局面で寿桂尼が床に入ってきたら、誰でも卒倒して血を吐くかもしれません(笑)。おお、コワっ!


 信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、ドラマではすぐに情報が飛び交っていましたね。実際、当時も信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康上杉謙信織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、ドラマで言う高瀬のような間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。


 信玄が病没する前後の井伊谷については、詳しいことはわかっていません。家康は信玄の死の翌月には早くも駿河侵攻久能、駿府などを侵していますから、おそらく井伊谷も徳川領となったことでしょう。この間の井伊直虎の動向も定かではありません。井伊家が歴史の表舞台に復活するには、いま少し時間を要します。その最初の記録が、天正2年(1574年)に行われた井伊直親十三回忌でした。その話は次回の稿で。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-25 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その130 「銅の鳥居」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の北側の参道に、で造られた鳥居があります。

この鳥居を「銅(かね)の鳥居」といい、安芸の宮島の朱塗りの鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居のひとつといわれています。


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創立年代はわかっていませんが、一説には、聖武天皇(第45代天皇)が東大寺大仏を建立したとき、その余った銅を使って作られたといわれるそうです。


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地面から笠木の天まで8.23m、柱の周囲が3.2mあります。


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『太平記』巻26「吉野炎上事」によると、正平3年(1348年)1月28日に足利軍の高師直が起こした焼き討ちによって、この鳥居も焼失したとあります。

その後の再建は記録されていませんが、同じ日に焼け落ちた金峯山寺の蔵王堂再建供養会が、それから62年後の応永17年(1410年)に行われていることからみて、この銅の鳥居も同じ頃に再建されたものだろうと考えられています。


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その後、宝永3年(1706年)の火災、明治26年(1893年)の台風によって破損しましたが、その都度修理されて、いまは重要文化財に指定されています。

扁額の文字は「発心門」と読み、大峯修験の入峰のとき、この門で修行の心を新たにし、俗界と離れるわけです。

吉野山から山上が岳までの間に、発心、修行、等覚、妙覚4つの門があり、それぞれの門をくぐるごとに修行の心を強めていったそうですが、ここ銅の鳥居は、その最初の門にあたります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-24 08:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その129 「後醍醐天皇導之稲荷」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の南側入口の脇に小さなお稲荷さんがあります。


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近づいてみると、「後醍醐天皇導之稲荷」と刻まれた石柱が建てられています。

「導之稲荷」とはどういう意味か・・・。


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説明板によると、延元元年(1336年)12月21日、足利尊氏によって幽閉されていた京の花山院を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、12月28日、ここ吉野山行宮(仮の宮)に入りますが、その道中、夜道に迷ったとき、とある稲荷社の前で、


「むば玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともしび」


と詠んだところ、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らして天皇を導くと、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)

その稲荷を勧請したのがこの「導き稲荷」だそうです。


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歌のなかに出て来る「三つのともしび」とは、京都の伏見稲荷大社の神体山・稲荷山三つの峰に祀られている神をさすそうです。

夜道に迷って困っていると、稲荷山の御神体がわたしに重なった・・・といった意味でしょうか?


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心に迷いが生じたとき、ここ「導き稲荷」の神にお祈りすると、自ずから道が開けるという伝承があるそうです。

わたしのように常に迷って生きている者には、ご利益はあまり期待できないかもしれませんが。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-22 23:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その128 「金峯山寺・大塔宮御陣地」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した蔵王堂の正面、玉垣に囲まれたなかに桜の木が4本植えられている空間があります。


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時代は遡って元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府の二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に責められた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第二皇子・大塔宮護良親王は、ここに本陣を布いて戦ったと伝えられます。


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隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建てられています。


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『太平記』巻7「吉野城軍の事」によると、圧倒的な兵力で攻める幕府軍でしたが、天然の要害を持つ吉野城を攻めあぐみ、戦いは一進一退の攻防を繰り返します。

しかし、結局は衆寡敵せず、死を覚悟した大塔宮は、ここ蔵王堂前で最後の酒宴を開いたといいます。


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『太平記』の記述によると、このとき、大塔宮親王の鎧には7本の矢が刺さり、二の腕の2ヵ所に傷を負い、血が滝のように流れていましたが、宮は突き刺さった矢を抜こうともせず、流れる血を拭おうともせずに、毛皮の敷物の上に立って、大盃で3杯空けたといいます。

なんとも豪傑な親王ですね。


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雲が近いです。


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蔵王堂前庭の南側には、「村上義光忠死之所」と刻まれた石柱が建てられています。

村上義光は大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

吉野城落城の際、前庭での酒宴も終わり、いよいよ死を決した大塔宮護良親王に対して、「ここで宮に死なれるのは犬死というもの、恐れながら今お召しの鎧直垂と甲冑を賜り、それを某が身に着けて敵を欺きましょう。その隙に宮は落ち延びてください。」と涙ながらに説き、身代わりとなって二天門に駆け上がり、「われこそは大塔宮護良親王である。」と叫んだのちに見事に腹をかき切り、壮絶な最期を遂げたといいます。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせになって絶命したといいます。

この間に大塔宮は高野山に落ち延びます。

歌書よりも軍書に悲し吉野山

松尾芭蕉の門弟・各務支考が詠んだ有名な句ですが、まさに、そんな歴史が感じられる場所です。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-21 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その127 「金峯山寺・蔵王堂」 奈良県吉野郡吉野町

世界遺産に登録されている吉野山のなかで、シンボル的存在がここ金峯山寺です。

創建は7世紀、開基は伝説の呪術者・役小角と伝わります。


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なかでも、本堂の蔵王堂はその象徴的建築物で、天武天皇(第40代天皇)の勅願によって建てられたともいわれます。


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蔵王堂は入「母屋造り」という建築様式で、正面5間(約9m)、側面6間(約11m)、高さ約34mと、日本の木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇ります。


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さすがの大迫力です。


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現在でも修験道の根本道場として多くのひとびとの崇敬を集めている蔵王堂ですが、特に平安時代から鎌倉時代には隆盛をきわめ、多数の堂塔が並び建ち、吉野大衆と称せられる大勢の僧兵が集まっていたといいます。


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長い歴史のあいだには何度も火災に遭い、寛治7年(1093年)、嘉禄元年(1225年)、文永元年(1264年)に焼失した記録があります。

その都度、強い信仰の力によって復興されてきましたが、正平3年(1348年)1月28日、足利軍の高師直による焼き討ちによって兵火にかかったときには、その再建に実に60年余りも要しました。


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『太平記』巻26「吉野炎上の事」では、

「さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。」

と、その惨状を嘆いています。


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ちなみに、その後も天正14年(1586年)にも失火によって焼失し、現在の蔵王堂は天正20年(1592年)に再建されたものです。

そして平成16年(2004年)7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-20 22:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その126 「吉野神宮」 奈良県吉野郡吉野町

桜の名所で有名な奈良県の吉野山にやってきました。

といっても、訪れたのは真夏の7月のことで、桜はまったくありまぜん。

桜の季節は観光客でいっぱいですからね。


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『太平記』における吉野山は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が足利尊氏の擁立する京の北朝に対して南朝を樹立したところとして重要な場所ですが、『太平記』の描く吉野山はそれだけではなく、巻7「吉野城軍の事」、巻18「先帝吉野潜幸の事」、巻26「正行吉野に参る事」、「吉野炎上の事」、巻34「吉野御廟神霊の事」と、多岐にわたって登場しますので、時系列でめぐっていくのはたいへん難しい。

そこで、ここからしばらくは、時系列から外れて吉野山特集でいこうと思います。


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最初に紹介するのは、吉野山の北西麓付近に鎮座する「吉野神宮」

ここは後醍醐天皇を祭神とする神社で、明治22年(1889年)に明治天皇(第122代天皇)の意向によって創建されました。


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もともとは、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の勅命により後醍醐天皇の御尊像を吉水院に奉安し、以後、550年間、代々供養が続けられていきましたが、明治になり、吉水院は後醍醐天皇社と改称し、その後、吉水神社と改称されました。


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しかし、明治政府の打ち立てた神仏分離の目的で、別に社地を定めて後醍醐天皇を祭るように指示が出され、ここ吉野神宮の創建に至ったそうです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「官幣大社」でした。


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拝殿です。


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本殿です。

拝殿の横に並ぶ摂社には、後醍醐天皇の「建武の新政」に功績のあった、日野資朝、日野俊基、児島高徳、桜山茲俊、土居通益、得能通綱などが祀られています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-19 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第37話「武田が来たりて火を放つ」 ~三方ヶ原の戦い~

若き日の徳川家康が無謀にも武田信玄に戦いを挑み、大敗北を喫したことで知られる「三方ヶ原の戦い」の回です。


元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。


 武田軍は南進して家康の居城・浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出ました。


 信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨の51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。


 劇中の家康は、織田を見限って武田に下る決断をするも、そこへ織田からの援軍が訪れ、やむなく武田軍と戦うことに。援軍を得てガッカリする武将というもの珍しい(笑)。今回のドラマの家康は、いつも受け身の行動ですね。ここまではその受け身が功を奏してきましたが、今回はそうはいきません。


e0158128_21470434.jpg 三方ヶ原を通過する武田軍を背後から突こうと出撃した徳川軍でしたが、武田軍はその心を読み、三方ヶ原を通過せずに待ち構えていました。およそ2万5千と伝わる武田軍に対して、徳川軍は半分以下の約1万(諸説あり)。しかも、野戦を得意中の得意とする信玄ですから、若い家康が太刀打ち出来るはずがありません。徳川軍はわずか2時間あまりで大敗北を喫します。敗走する徳川軍を武田軍は執拗に追撃し、夏目吉信、鈴木久三郎ら三河譜代の家臣たちが、家康の身代わりになって討死しました。家康は恐怖のあまり鞍の上に脱糞したといわれ、それを部下に指摘されると、「これは味噌だ!」と反論したなんて逸話もあります。これ、劇中にもありましたね。家康はこのときの大失策を今後の戒めにするため、「しかみ像」と呼ばれる肖像画を書かせたとも言われます(異説あり)。劇中の家康は、帰陣するなりしがみポーズをとってましたね。


 武田軍の徳川領侵攻の影響は、井伊直虎たちの住む井伊谷にも及びました。井伊谷には信玄率いる本隊とは別の山県昌景が侵攻し、ことごとく焼き払われたと伝えられます。ところが、ドラマでは武田に帰順することを良しとしない近藤康用が、せめてもの抵抗で城に火を放って逃げるという設定でしたね。まあ、武田軍が井伊谷を焼き払ったという説は確かな史料は存在せず、伝承レベルの逸話なので、ドラマのような設定でも何ら問題はないかと思いますが、でも、だったら、今話のタイトルは「武田が来たりて近藤が火を放つ」なんじゃないかと(笑)。字余りですが。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-18 21:52 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その125 「内山永久寺跡(萱御所跡)」 奈良県天理市

延元元年/建武3年(1336年)12月21日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は足利尊氏によって幽閉されていた花山院を抜け出し、吉野山新たな朝廷を樹立するに至るのですが、吉野山に向かう道中、大和路の内山永久寺に一時身を隠していたと伝えられます。


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内山永久寺は平安時代後期の永久2年(1114年)に鳥羽天皇(第74代天皇)の勅願により興福寺の僧・頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれますが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまはその敷地のほとんどが農地となっています。


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唯一痕跡として残るのが、境内のほぼ中央にあったされる本堂池


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長閑な風景です。


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池の畔にある「内山永久寺記念碑」

裏には「明治廿二年四月建立」とあります。


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その石碑の建つ場所から、説明板のようなものが見えます。


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こちらがその説明板と、江戸時代末期に刊行された「名所図会」の絵図。


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絵図中央に赤く「現在地」の標示があり、その横に大きな池がありますね。


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絵図の池の左隣には、「後醍醐帝萱御所旧跡」と記された一角が確認できます。

ここが、後醍醐天皇が一時身を潜めていたとされる場所ですね。


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現在その跡地には、「萱御所」と刻まれた石碑が建てられています。


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『太平記』巻18「先帝潜幸芳野事」によると、12月21日の夜に花山院を抜け出した後醍醐天皇は、翌22日の夜が明ける前に梨間の宿(城陽市)に入り、そこから張り輿(全体を畳表で張った略式の輿)に乗って白昼の大和路を南下し、夕暮れどきにここ内山永久寺にたどり着きます。

その翌日の23日夜には賀名生(西吉野)に移っていますから、ここ内山永久寺に身を潜めていたのは、わずか一晩、それも、数時間のことだったかと思われます。


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わずか数時間滞在しただけで後世に「萱御所」と称されて石碑まで建っちゃうんですね。

まあ、古代神話時代の天皇明治天皇(第122代天皇)以降の近代の天皇は別として、ほとんどの天皇は一生京の都を離れることなくその生涯を終えられたわけですから、天皇が訪れた地というだけでも、たいへんな事だったのでしょうね。

そう考えれば、後醍醐天皇は比類なきアクティブ天皇だったといえるでしょうか。


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集落の高台に展望台が設置されていたので、上ってみることに。


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文禄4年(1595年)には豊臣秀吉から971石の寺領が与えられ、大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺となり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされたそうですが、今はその痕跡はまったく見られず、見渡す限りの農地です。


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池の北側の畔には、松尾芭蕉の句碑があります。

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「うち山やとざましらずの花ざかり」宗房

「宗房」とは、芭蕉の若き日の号だそうで、まだ出生地の伊賀上野に暮らしていた頃の作品だそうです。

この句意にあるように、現在でも春になるとこの池は桜で埋め尽くされるそうです。

今度は桜の季節に訪れてみることにします。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-17 00:28 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(1)  

太平記を歩く。 その124 「花山院邸跡(宗像神社)」 京都市上京区

京都御苑内にある宗像神社を訪れました。

ここは、かつて花山院邸があった場所で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、一時幽閉されていた場所です。


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建武の新政が崩壊し、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、ここ花山院に幽閉されることになります。

ここで天皇は厳しく監視され、これまで従っていた側近たちは引き離され、接触できるのは女房達だけだったといいます。


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11月1日、ここで後醍醐天皇と足利尊氏の会見が行われます。

尊氏の要求は、三種の神器の引き渡しでした。

尊氏は8月に持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を即位させており、その正当性を得るためにも、三種の神器が必要だったわけです。


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そこで、尊氏は次の天皇には後醍醐天皇の皇子の成良親王を即位させることを約束します。

この条件を後醍醐天皇は受け入れ、三種の神器を光明天皇に引き渡しました。

しかし、実はこの三種の神器は偽物でした。

天皇は尊氏を信用していなかったんですね。


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12月21日、後醍醐天皇はわずかな供を従えて花山院を抜け出し、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野へと向かいました。

吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、その地で新たな朝廷を樹立します。

これが吉野朝廷、いわゆる南朝ですね。

これにより、尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝となります。

かくして南北朝の争乱がはじまったわけです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-09-16 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)