太平記を歩く。 その15 「千早城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

上赤坂城跡から直線距離にして5kmほど南東にある、千早城跡を訪れました。

数ある楠木正成の築いた城のなかで、たぶん、ここがいちばん有名なんじゃないでしょうか?


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『太平記』によると、わずか1000人足らずで幕府軍100万と対峙した城として伝えられます。

その兵数の真偽は別にしても、大軍に攻められながらも落城しなかった城として、後世に伝説的な存在となります。

現在、日本100名城のひとつにも数えられています。


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現在、城跡は千早神社となっており、比高150mの急斜面に敷かれた約600段の石段を登ります。


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ここを訪れたのは初夏の7月3日。

600段の階段はめちゃめちゃハードでした。


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「四の丸跡」です。


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振り返ると、和泉国が見渡せます。


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ところどころで、兵の人形が迎えてくれます。

これは、楠木正成が用いた奇策のひとつ、藁人形作戦をイメージしたものだと思いますが、残念ながら藁人形ではなくブリキ人形でした。


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四の丸奥の鳥居をくぐると、長い参道が続きます。


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その奥が「三の丸跡」


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そして石段を上がったところが「二の丸跡」です。

二の丸跡には「千早城跡」と刻まれた石柱があります。


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「昭和十四年三月建設」とあります。

下赤坂城、上赤坂城に建てられていた石柱と同じときに造られたもののようですね。


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そして、石段を上ると「本丸跡」です。

現在、千早神社の本殿があります。


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元弘3年(1333年)2月27日、上赤坂城を落とした幕府軍は、楠正成の籠るここ千早城を包囲しました。

『太平記』によると、

「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」

とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。


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幕府軍は上赤坂城の戦いと同じく城方の水源を断とうとしますが、千早城には長期戦を睨んで水も食料も十分に蓄えられていました。

そして正成は、城に攻めあがる幕府軍に対して、石礫や大木の丸太糞尿などを浴びせかけて応戦し、敵兵を退けます。

また、長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、武装させた藁人形を夜のうちに城外のに並べて敵兵をおびき寄せ、大量の大石を投げ落として撃退したといいます。

この攻撃で、幕府兵300人が即死、500人が負傷しました。
また、幕府軍がむかい近くの山から100尺(約300m)のを架けて城に攻め入ろうとした際には、かねてより用意していた水鉄砲の中にを入れ橋に注ぎ、松明を投げ入れて敵兵もろとも橋を焼き落としました。

谷底には敵兵のが積み重なり、『太平記』では、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと伝えています。


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これらの伝承のどこまでが史実でどこからが虚構なのかはわかりませんが、実際に寡兵で大軍から城を守り切ったという話は事実で、まさに難攻不落の城として後世に名を遺すことになりました。


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本殿の裏山もおそらく城跡だと思われますが、山全体がご神体ということで、立入禁止となっていました。


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こちらは、千早赤阪村郷土資料館にある千早城の縄張り模型です。


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千早城の戦いは翌月の閏2月29日まで1か月以上続きます。

幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、隠岐国の配所を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、千早城を攻めていた武将が次々に帰国。

関東では手薄となった鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

千早城の戦いが終了した12日後のことでした。


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城跡近くには、楠木正成の三男・楠木正儀の墓(異説あり)があったのですが、時系列的にずいぶん先になるので、また稿を改めます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-17 18:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その14 「上赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

隠岐に流された後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、それでも意気消沈することなく、隠岐から全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばし、鎌倉幕府倒幕を呼びかけます。

そんななか、元弘2年(1332年)11月、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王吉野挙兵

それに呼応するかたちで12月、楠木正成も挙兵します。


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再挙兵した楠木正成下赤坂城を奪回しますが、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いた上赤坂城が楠木氏の本城となります。


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上赤坂城は足谷川城ノ谷で囲まれた自然の要害で、標高約350m、比高150mの山頂に築かれた山城です。

上の案内板にあるように、上赤坂城を中心として猫路山城、国見山城、枡形城などの出城が築かれており、この一帯を赤坂城塞群と呼びます。

この城塞群は、尾根伝いに南方の金剛山まで続きます。


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登山口に設置されていた上赤坂城の縄張り図です。


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登山口です。


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登山口を登るとすぐに、「一の木戸跡」があります。

「木戸」とは城門という意味で、「一ノ木戸」は、いわば大手門ですね。


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登山道はこんな感じで、それほど険しい道ではありません。


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一ノ木戸跡から約50m登ると、「二の木戸跡」があります。


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さらに200mほど登ったところにある「三の木戸跡」です。


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「そろばん橋跡」です。

この両側に2重の堀切跡があったそうですが、草深くてよくわかりません。

やっぱ、城跡の遺構を見るには、雑草の枯れたに来ないとだめですね。


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二ノ丸本丸の分岐点です。

この辺りを「茶碗原」と呼びます。


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「二ノ丸跡」です。

結構な面積の削平地でしたが、人の胸ぐらいの高さの雑草が覆い茂っており、季節がらマムシが怖くて中には踏み込めませんでした。

やっぱ、城跡は冬に来るべきです。


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そして「四の木戸跡」を経て本丸に向かいます。


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「本丸跡」です。


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「史蹟 楠木城趾」と刻まれた石柱は、「昭和十四年三月建設」とありますが、その土台部分は、「昭和五十八年建立」と刻まれています。

40年以上、どこか他の場所にあったのでしょうか?


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「上赤坂城趾」と刻まれた石柱の方は、「昭和十一年四月二十五日」に建てられたもののようです。


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本丸跡からは、大阪平野が一望できます。


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上の写真の左に見える塔は、某教団の平和の塔です。

下の写真は、千早赤阪村郷土資料館にある上赤坂城の縄張り模型


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元弘3年(1333年)2月22日、大手筋から押し寄せた幕府軍は四の木戸まで迫り、激しい攻防戦が展開されますが、やがて幕府軍によって水路が断たれると、楠木軍の大将・平野将監(重吉)ら約300の城兵は堪えきれず、10日間の攻防戦の末、降伏

ときを同じくして、大塔宮護良親王の吉野山も陥落し、鎌倉北条幕府の大軍は楠木正成の千早城に殺到することになります。


次回は、その千早城跡をめぐります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-16 18:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その13 「下赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

大阪府は南河内郡の千早赤阪村にある、下赤坂城跡にやってきました。

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が逃亡先の笠置山で挙兵した際、楠木正成がこれに呼応してこの地で挙兵したと伝えられます。


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別名「赤阪城」とも呼ばれる下赤坂城は(の違いに注意)、城跡としての遺構は残っていませんが、現在、想定される千早赤坂村立中学校の丘の上に、石柱が建てられています。


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石柱には、「昭和十四年三月建設」と刻まれています。


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『太平記』によると、正成は笠置山が危なくなったときにはここに天皇を迎えようと考え、急いでこの地に城を築いたと伝えられます。


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9月27日に笠置山を追われた後醍醐天皇は、この地に落ちる途中に捕らえられてしまいますが、大塔宮護良親王はこの地に落ち延びることができました。

このため、下赤坂城は10月中旬から鎌倉幕府軍大攻撃の的となりますが、正成は熱湯二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて幕府軍を翻弄したと伝えられます。


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しかし、所詮はにわか造りの城であったための、しだいに大軍の攻撃に耐え切れなくなり、10月21日に落城

正成は城に火を放って金剛山に逃げました。

このとき、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体が20体以上見つかり、これを楠木正成とその一族と思い込んだ幕府軍は、11月に鎌倉に帰陣したといいます。

翌年12月、再挙兵した正成は夜襲をかけてこの城を奪回しますが、間もなく落城。

しかし、その後、千早城の戦いの最中に、鎌倉幕府滅亡します。


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下赤坂城跡は石碑が建てられているのみで、城跡としての魅力はさほどありませんが、わたしはかねてから一度ここを訪れてみたいと思っていました。

というのが、これ。


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石碑の建つ丘から見下ろす、広大な棚田です。

どうです、実に美しい光景でしょ。


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この日は梅雨真っ只中の7月3日。

でも、どうしてもこの景色が見たくて、田植えが終わって稲穂が育ち始めるこの季節で、天気の良い日をずっと狙っていました。

やっと、来ることが出来ました。


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この美しい景色を見ると、ここで幾度と無く戦が行われたなどとは、想像もつかないですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-15 17:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第6話「初恋の別れ道」 ~井伊直親の元服・結婚~

 弘治元年(1555年)3月、井伊谷に帰還した亀之丞は、早速、井伊直盛の養子となり、元服して井伊肥後守直親と名乗ります。このとき、直親21歳。遅すぎる元服ですが、逃亡、潜伏生活を強いられていたわけですから、やむを得なかったのでしょうね。晴れて井伊家の後継ぎとなった直親は、10年前の約束どおり、出家した次郎法師還俗させて結婚・・・というのが直盛の希望だったでしょうが、残念ながらそうはいきませんでした。


 第4話の稿でも述べましたが、出家した井伊直虎が尼の名前を名乗らず、「次郎法師」という僧名を名乗ったのは、再び還俗しやすいように、との直盛の願いだったといいます。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、後継ぎの男子がいなくなった場合、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。そこに目をつけた南渓瑞門和尚が、直虎に僧名をつけ、いつでも俗世に帰れるようにしたと伝えられます。次郎法師の還俗は両親の切実な願いだったんですね。


 ドラマでは、井伊家の本領安堵と引き換えに出家させられた次郎法師でしたが、史実では、そのような記録はありません。即ち、還俗しようと思えばいつでも出来たわけで、直親が帰還したこのタイミングが、まさに直盛の望みを叶えるチャンスだったといえます。しかし、実際には次郎法師の還俗は行われず、直親は一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。なぜ、次郎法師と結婚しなかったのか・・・。


 これについては、様々な推理があるだけで、実際の理由はわかりません。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項によると、直親の信濃国逃亡の際、朝利(その父の親朝とも)が直親を匿うべく尽力したと伝えています。つまり、奥山家は直親の命の恩人であり、無下にはできない間柄だったわけです。そんな事情から、直盛は出家した実の娘ではなく、奥山家から直親の嫁を選んだのではないか、と、推測されます。


 また、別の説では、直親は潜伏先の信濃国で代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたといわれ、井伊谷にはその娘を伴っての帰還だったため、次郎法師がこれを嫌った、とも言われます。元服していなかったとはいえ、帰還時の直親は21歳。当時の習慣からいえば、子どもがいても何ら不思議ではありません。ただ、それを理由に次郎法師が還俗、結婚を拒んだというのは、いささか現代チックな見方かもしれませんね。この時代、正妻より先に側女を持つなどよくあることで、その程度のことで目くじらを立てる次郎法師ではなかったでしょう。おそらく、ふたりが添えない何らかの事情があったのでしょうね。


次郎法師「直親とわれは、それぞれ1つの饅頭なのじゃ。2つの饅頭を一時に食べたり与えてしまっては、のうなってしまう。なれど、1つを取り置けば、まことに困ったときに、もう1度食べたり与えたりできる。」

直親「おとわが還俗するのは俺と一緒になるときではなく、俺に何かがあったときでありたいということか?」

次郎法師「井伊のためには、死んでしまったことにするわけにはいかぬ。次郎の名を捨てるわけにはいかぬ。」

直親が「おとわはそれでよいのか? 一度きりの今生と言うたではないか。一生、日の目を見ることなどないのかもしれぬのだぞ!」

次郎法師「それこそ上々であろ? われがかびた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証しであろ?」


 これが、ドラマにおける理由でした。つまり、次郎法師はリザーブになる・・・と。実際には、この時点での次郎法師を井伊家の後継ぎ候補と考えるようなことはなかったとは思いますが、そこはドラマですから、多少の千里眼的設定はいいんじゃないでしょうか? 実際、次郎法師はかびた饅頭になれなかったわけですから。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-13 21:43 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


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ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


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前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


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鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


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敷地内には、児島高徳のがあります。


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杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


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そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


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像の土台には、その漢詩が刻まれています。


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こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


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江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


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その説明書き。


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こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


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こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


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そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


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こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


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作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


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とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


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児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


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実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境

兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。

ここは、旧令制国における播磨国美作国国境にあった関所跡です。


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元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。

しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。

つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。


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峠付近にある説明板です。

記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。


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看板の横の苔生した坂を上ります。


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この道が、旧峠越えの道のようですね。


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しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。


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『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂にを築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。


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石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。


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石碑の裏面です。


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石碑の横にある歌碑です。

昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。


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現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。

この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。

道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。


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奪回作戦
に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。

次稿は、その院庄館跡に向かいます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その10 「船坂峠」 兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原と岡山県備前市三石の境

前稿の「善通寺」は、現在の住所でいえば兵庫県の東端ですが、今度はそこから100km以上西に行った兵庫県の西端、兵庫県と岡山県の県境にある「船坂峠」にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。


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現在、船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。

そのため、かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。


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車を空き地に停めて、旧道を歩きます。


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道は苔生していますが、ちゃんと舗装されていました。

トンネルが開通したのは昭和30年(1955年)といいますから、60年前まではここが国道でした。


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峠の頂上が見えてきました。


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頂上には、県境を示す石柱が設置されています。

道路側に面して「縣界」と刻まれ、西面には「兵庫縣赤穂郡船坂村」と、そして東面には「岡山縣和氣郡三石町」と刻まれています。

西から歩いてきたわたしは、ここを超えると岡山県に入ります。


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峠の頂上から西へ2、3分歩いたところ(即ち岡山県)に、「船坂山義挙の碑について」と記された石碑がありました。


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その北側の山道を登っていくと・・・。


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「船坂山義挙之城趾」と刻まれたバカでかい石碑がありました。

揮毫は平沼騏一郎男爵とあります。


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後醍醐天皇の奪回を企てた児島高徳は、一族郎党200余騎でこの地に潜みますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂峠まで追いますが、既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。


次稿では、その杉坂峠を訪れます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-08 16:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第5話「亀之丞帰る」 ~小野和泉守政直の死と井伊直親の帰還~

 信濃国で家臣の今村正實とともに潜伏生活を送っていた亀之丞(のちの井伊直親)が、約10年ぶりに井伊谷に帰ってきます。というのも、父の井伊直満讒言によって死に追いやり、亀之丞自身も逃亡生活を送らざるを得ない境地に追いやった元凶といっていい、小野和泉守政直が死んだからでした。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項では、このときのことを次のように伝えています。


「伊那郡市田郷の松源寺にありて数年のあひだ、謀をめぐらし、奥山因幡守親朝をたのみ、舊地にかへらむとす。和泉死して後、直盛、直親を領内にまねき、ひたすら駿府に愁訴し、義元も許容ありしかば、弘治元年、ふたたび、井伊谷にかへりて直盛が養子になる。」


 文中に出てくる奥山因幡守親朝は、おそらくその息子・奥山朝利の誤りかと思われます。政直が死んだのち、井伊直盛が駿府の今川義元にひたすら助命嘆願して許された亀之丞は、弘治元年(1555年)、井伊谷に入ったとあります。亀之丞の帰還は、井伊家にとって待望の出来事だったことがわかります。


 政直の没年は詳しくはわかっていませんが、後世に編纂された『小野氏系図』によると、天文23年(1554年)8月27日と記されているそうで、これが正しければ、政直の死から亀之丞の帰還まで数ヶ月以上を要したことになります。その間、直盛は何度も今川家に懇願したのでしょうね。それが出来たのも、政直がこの世を去ったからでした。つまり、亀之丞を潜伏させていたのは、今川家への憚りというより、小野和泉守政直の存在によるものだったことがわかります。家臣の目を気にして主家の継嗣を潜伏させねばならないという、後世の目からみればなんとも不思議な関係ですが、当時の井伊家と小野家の関係は、そんなパワーバランスだったようです。


政直「お前はわしを卑しいと思うておるじゃろう。なりふり構わぬうそつきの裏切り者・・・。己はこうはならぬとわしをずっと蔑んでおるじゃろう。・・・じゃがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」

政次「和尚様のお心遣いで、私には次郎法師様や亀之丞様との間に育んだ幼い頃からの絆がございます。井伊の縁戚となりますからには、井伊のお家を第一に考えていきたいと思うております。そのなかでも、小野はさすがに頼りになると言われることこそ、まことの勝利かと存じます。」

政直「お前は、めでたいやつじゃのう・・・。」


 陰謀家の父と誠実な息子の会話。しかし、奇しくも後年、父の予言どおりになっちゃうんですよね。なぜ、そうなるのか・・・。なぜ、父・政直にそれがわかるのか・・・。誠実な政次が、この先どう変わっていくのか・・・。今後の展開が楽しみです。


 約10年ぶりに帰還した亀之丞。ドラマでは、爽やかな笑顔で何の屈託もなくおとわ次郎法師・のちの井伊直虎)に接し、幼い日の約束を忘れずいきなりプロポーズしていた亀之丞ですが、通説では、潜伏先の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたと伝えられています。まあ、通説であっても史実としての確証があるわけではないのですが、この話、描かないのですかね。女性脚本家さんは、やはりこの手の話はお嫌いなのかな? でも、であれば、おとわが亀之丞のプロポーズを断る理由がなくなるのでは・・・。とにもかくにも、今後の展開に注目しましょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-06 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その9 「善通寺・秦武文の碑」 兵庫県尼崎市

尼崎市にある善通寺を訪れました。

ここは、阪神電鉄尼崎駅の南側にある街中の寺ですが、その境内に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の忠臣・秦武文の碑が建てられています。


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元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、このとき、皇子の尊良親王も、土佐国に配流となります。

このとき親王の共をしたのが秦武文でした。


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武文は親王のを土佐に迎えるため、尼崎から船を出しますが、その途中、海賊松浦五郎に襲われ、后を奪われてしまいます。

松浦の船を小舟で追った武文は、戦場で腹を切り、そのまま海へ飛び込むと、武文の怨霊渦潮となって松浦の船を襲い、后は助けだされたといいます。


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怨霊話はにわかに信じられるものではありませんが、武文が后を奪われた責任をとって自刃したのは本当かもしれません。


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『太平記』「金ヶ崎恋物語」に記されたこの物語は、謡曲舞曲などで人々に広く知られ、尼崎の地に永く伝えられることになったそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-03 18:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その8 「布引の滝」 神戸市中央区

神戸市中央区にある「布引の滝」を訪れました。

ここは元弘元年(1331年)に隠岐島に配流となった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、その道中に立ち寄ったとされます。

場所は、JR新幹線の新神戸駅の北側の山中にあります。


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布引の滝は、日光の華厳の滝、那智勝浦の那智の滝と並んで、日本三大神滝のひとつに数えられていますが、他のふたつの滝と違って、現在は人工的に水量をコントロールされています。


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布引の滝は雄滝(おんたき)・雌滝(めんたき)・夫婦滝(めおとだき)・鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝の総称で、生田川の布引渓流にあります。

南からハイキングコースを登っていくと、最初に目にするのは「雌滝」です。


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一番下流にある約19mの雌滝は、その名のとおり細くしなやかに流れる女性的な印象です。


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たしかに、その名のとおり白い布を引いているように見えます。


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続いて渓谷沿いに登っていくと、「鼓ヶ滝」という石碑があるのですが、滝が見えません。


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実は、鼓ヶ滝を見られるのは、覆っている木々の葉が枯れる冬だけだそうです。

ここを訪れたのは5月14日。

滝の姿は見えず、かろうじて滝壺が覗けるのと、あとは音を聞くだけです。

「鼓ヶ滝」という名称の由来は、その滝音が鼓のような響きだからだそうです。


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そして、いちばん上流にあるのが「雄滝」、その下にあるのが「夫婦滝」す。


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「雄滝」は高さ43m、滝壺は面積430㎡、深さ6.6mあります。

下流の「雌滝」とは対照的に、5段に折れながらダイナミックに落下する迫力の名瀑です。


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滝の横には5箇所の甌穴があり、竜宮城に続いているという伝説もあるのだとか。


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マイナスイオンが出まくりです。


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「雄滝」の滝壺から更に下の段に落ちる高さ9mの滝が、「夫婦滝」です。

2本に分かれた滝がひとつになっている様子が、まるで夫婦のようだということから、「夫婦滝」と呼ばれるようになったのだとか。


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山道を登っていくと、滝を横から見下ろすこともできます。


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ここ「布引の滝」の景観は、古くは平安時代の歌集『伊勢物語』『栄花物語』など、多くの和歌紀行文、詩歌などに登場する場所で、古来、景勝地として知られています。

5つの滝の散策道には、各所に平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」が建てられています。

後醍醐天皇のものはありませんでしたが。


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「松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 紀貫之


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「布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ」 後鳥羽院


当時としても全国的に知られた景勝地だった布引の滝。

島流しの道中に観光するなんて、さすがは後醍醐天皇、肝が据わっていますね。

この水しぶきを見ながら、きっと再起を誓っていたのでしょう。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-02-02 20:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)