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真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第42話「大坂冬の陣」

 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家は決裂、同じ年の11月、大坂冬の陣が勃発する。豊臣秀頼と生母・淀殿は、福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に参じる大名はほとんどなく、集まったのは真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や、同じく主家が西軍に与して改易されていた浪人たちばかりだった。浪人たちは士気旺盛ではあったものの、寄せ集めだったため統制が取りにくく、しかも大野治長や淀殿との対立も激しく、所詮は烏合の衆だった。

 そんな烏合の衆ではあったが、籠城戦では大坂城の防御力にもあって徳川軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退され、特に真田幸村が城の平野口に構築した出城・真田丸の戦いでは、徳川方が手酷い損害を受ける。ドラマにあったように、幸村は敵を石垣ギリギリまで引きつけておいて、頭上から一斉に銃撃を浴びせかけるという作戦で、徳川方に数千人の被害を与えたという。徳川秀忠が真田丸を攻めると言ったのも逸話にあるとおり。しかし、幸村の奮闘ぶりをみた家康は和議を考えはじめており、秀忠の進言は実行されることはなかった。やがて徳川軍は、大坂城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加え、本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議を決心したのはこのためだとの説もある。

 慶長14年(1609年)に夫・京極高次と死別したお初は、剃髪・出家して常高院と号していた。京極家は関ヶ原の戦後、8万5千石の若狭小浜城主となっていたが、高次の死後に京極家を継いだ嫡男・京極忠高は、お初の子ではなく側室の産んだ子。そんな理由もあってか、高次の死後しばらくしてお初は、実姉・淀殿の居城・大坂城に移り住んでいたようである。そして、この大阪冬の陣の前後から、お初は豊臣方の使者として和睦交渉に当たっていた。

 いうまでもなく、合戦で戦うのは武士と武士男と男だが、合戦前後の降伏勧告、和睦交渉などの際には、武士以外の僧侶商人、あるいは武将の縁者侍女といった女性が駆り出されることも珍しくはなかった。おそらく、お初を使者に指名したのは徳川家康と淀殿の双方であったものと推測できるが、お初自身も相当乗り気だったのではないかと想像する。豊臣家の当主は豊臣秀頼だが、事実上実権を掌握していたのは淀殿だったともいわれ、徳川家と豊臣家の戦いは、いいかえれば家康と淀殿の戦いだった。その淀殿の実妹であり、徳川秀忠の正室・お江実姉であるというお初の立場は、「善意の第三者」として和睦交渉に当たるのにはもってこいの存在であり、きっと、お初自身もそのことを自覚していたに違いない。

 大阪冬の陣の火蓋が切って落とされてからほぼ1ヵ月が過ぎた慶長19年(1614年)12月18日と19日の二日間、徳川方に属していた京極忠高の陣所において和睦交渉が行われた。豊臣方の使者はお初、徳川方の使者は家康の側室・阿茶局(雲光院)だった。冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったに違いない。

 もっとも、家康は本気で豊臣方と和睦する気などは、さらさらなかった。豊臣方の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが予想以上に手強かったため、とりあえず和睦交渉で時間を稼ぎ、機を捉えて城の堀をすべて埋めてしまおう・・・そんなふうに考えていたのだろう。この間、家康は淀殿に江戸に来るように・・・いいかえれば、家康の側室になるように・・・と、豊臣方に求めたという話もある。むろん、家康はそんなことが実現するなどとは思っておらず、淀殿を動揺させるための揺さぶりだったのだろう。そんな心理作戦もあってか、交渉2日目で双方は和睦に達した。その講和内容は、豊臣方の条件として、
 一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。
 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、
 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。
 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立した。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法だが、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだった。しかし、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行する。和睦の条件として、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまった。このあたりの家康のやり口も、後世に“たぬき親父”の悪名を着せられる所以ともいえるだろう。方広寺鐘銘事件のときといい今回の和睦条件のことといい、まんまと家康の思惑にハマっていく豊臣秀頼と淀殿。所詮は海千山千の家康の敵ではなかった。

 「善意の第三者」として、この和睦交渉に尽力したお初は、その後のあまりの成り行きを見てきっと狼狽したことだろう。この出来事を契機として、淀殿とお初の信頼関係は一気に崩壊していったともいわれる。事実上、お江を敵にまわし、お初をも信頼できなくなった淀殿は、きっとどうしようもなく孤独だったに違いない。そして、このときから半年も経たない慶長20年(1615年)初夏、淀殿はその波乱の人生の幕を閉じることになる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-31 01:43 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第35話「幻の関ヶ原」

 「天下分け目の関が原」
 で知られる「関ヶ原の戦い」は、慶長5年(1600年)9月15日に、交通上の要衝であった美濃国不破郡関ヶ原で東西両軍約20万以上ともいわれる大軍が雌雄を決した戦いのことを指すが、その本戦を前後して他にも日本各地で東西両陣営による戦いが行われており、その局地戦の中でもとりわけ激しかったといわれるのが、お初の夫・京極高次が大津城に籠城した「大津城の戦い」である。

 会津の上杉討伐を掲げて大阪を発った徳川家康が、その道中で大津城に立ち寄ったのは史実のとおり。その時点で関ヶ原を想定した会談があったかどうかはわからないが、何らかの布石を打つために立ち寄ったことは間違いないだろう。大津は、京都から近江国、更には北陸道や東海道に出る交通上の要地であり、この時点で家康が石田三成との決戦を想定していたならば、何としても抑えておきたいだった。しかし、それは三成とて同じで、その後、挙兵した三成は、氏家行広朽木元綱を介して西軍に与するよう高次に要請する。家康と三成の戦いといっても、実質は徳川と豊臣の戦い。高次は迷ったであろう。彼にしてみれば、義妹・お江の夫である徳川秀忠は義弟となり、義姉・淀殿の子である豊臣秀頼は、義甥となる。高次は、徳川方に実弟の京極高知を同行させ、一方で石田方に味方する証として、嫡子の熊麿(のちの京極忠高)を人質として送った。似たようなかたちで、父子または兄弟が東西に別れて、どちらが勝利しても家名が存続できるように図った諸大名は他にも数多くいたが、京極家においては上記のとおり一層難しい立場にいたわけである。おそらく妻・お初共々、ギリギリまで迷っていたことだろう。

 そんな迷いからきた行動かどうかはわからないが、一旦は西軍に味方することを表明し、9月1日には西軍に従軍して大津城を発った高次だったが、9月3日に突如として兵を返して大津城に舞い戻り籠城、家康率いる東軍に寝返った。この高次の寝返りに驚いた義姉・淀殿は、西軍に味方するよう説得の使者を大津に送るが、高次の決意は固く、再び寝返ることはなかった。この行動を見過ごすわけにはいかない三成は、毛利元康立花宗茂らに命じて大津城を包囲。その数、1万5千とも、3万7千とも、4万ともいわれる。対する京極軍は僅か3千ほどだったとか。高次はその僅かな兵で、約1週間の籠城戦を戦うことになる。

 この高次の行動は、当初からの予定行動だったのか、はたまた、寸前まで迷っていた故の行動だったのか・・・。もし、家康との何らかの約束があっての寝返りだとすれば、あまりにも無計画すぎるようにも思える。具体的にいえば、東軍に寝返るにしても、徳川方の諸将との連携を何ら行わずに大津城に籠城したため、僅かな兵で大軍を迎え撃つはめになり、結果、猛攻を受けるはめになった。そう考えれば、計画的な行動だったとは考え難く、おそらく、迷いに迷った末のギリギリの決断だったのではないかと私は思う。

 ドラマのとおり、お初も懸命に高次の籠城戦を支え、奮闘したと伝わる。彼女にとっては、夫が東西どちらに与しようとも、実姉、実妹のどちらかを敵としなければならない。彼女にしてみればドラマでの台詞のとおり、両方に味方したい気持ちだったであろう。しかし、そんなことが出来るはずもなく、結局は高次の判断に従うしかない。おそらくお初は、高次と運命を共にする覚悟を決めていたことだろう。

 西軍の猛攻は凄まじく、わけても大砲を駆使した攻撃は、城内にいたお初や松の丸殿(京極龍子)の身辺に砲弾が降り注ぐという熾烈なものだったようである。天守に撃ち込まれた砲弾で侍女二人の首が吹き飛び、それを目の当たりにした松の丸殿が失神したという伝承も残っている(ドラマでは、さすがに首が吹っ飛ぶシーンはなかったが)。高次自身も傷を負っていたようで、籠城戦も限界と感じ始めた折り、再び、淀殿と京都の高台寺に隠棲していた高台院(北政所)からの和睦を勧める使者が訪れ、やむなく高次は降伏開城を決し、その日のうちに剃髪して高野山に登る。奇しくもこの日は慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い当日の朝だった。あと1日頑張っていれば・・・歴史の悪戯である。

 高次は降伏開城したものの、結局は西軍勢を大津で釘付けにして関ヶ原へ向かわせなかったことになり、徳川家康は関ヶ原の戦後、この功績を高く評価した。当初、高次は開城したことを恥じて下山することを拒んでいたが、弟の高知に説得され若狭小浜8万5千石に加封され、翌年には更に7千石を加増されたという。以前は、姉や妻の威光を借りて出世したことから“蛍大名”と揶揄された高次だったが(参照:第19話「初の縁談」)、今回はまぎれもなく自力で手にした地位だった。それは、妻であるお初にとっても、きっと喜ばしいことだったであろう。ただ、一歩間違えれば夫婦共々砲弾の餌食になるところではあったが・・・。

 徳川秀忠と真田昌幸・信繁(幸村)父子との「上田城の戦い」についてもふれようと思っていましたが、すでに多くの行数を費やしてしまっため、またの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-13 23:59 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第30話「愛しき人よ」

 「夫婦になることを望んだほうが負け」
 という、よくわからない意地の張り合いで始まったお江徳川秀忠の新婚生活。その我慢比べは、結局1年近くにも及んだそうな。二人が結婚したのは文禄4年(1595年)9月のことで、こののち二人の間に最初の子・千姫が生まれるのが、慶長2年(1597年)4月のことだから、設定としてはギリギリない話ではない。いうまでもなく二人の結婚は、豊臣家徳川家の関係をより強固にするための縁組だっただろうが、当の本人たちは本意であったかといえば、ドラマのとおり二人とも乗り気ではなかったかもしれない。前夫・豊臣秀勝との死別から3年しか経っておらず、しかも愛娘・完子を豊臣に残してまで嫁いできたお江にしてみれば、6歳年下の秀忠は頼りなく思えただろうし、秀忠にしてみれば、初婚の相手がバツ2子持ち年増(23歳だが)となれば、妻として素直に受け入れ難い思いもあっただろう。そんな二人がお互いを理解しあって本当の意味での夫婦になるまでには、1年近くの月日を要した・・・ということが描きたかった今話だったのだろうと、鷹揚に受け止めることにしよう(笑)。

 夫である京極高次側室の間に子供が生まれていたことを知り、嘆くお初。高次とお初が結婚したのは天正15年(1587年)で、側室が世継ぎ(のちの京極忠高)を産んだのは文禄2年(1593年)のこと。6年間も子宝に恵まれなければ、側室に向かうのは当然のことで、むしろ妻の側から側室を推めるべきことであった。しかし、そうはいっても、その側室がスンナリと懐妊したと聞けば、子を授からない原因が妻にあることが立証されることになり、正室の立場としては心穏やかではなかっただろう。このときお初24歳。まだまだ出産を諦める年齢ではなく、お茶々の懐妊を知ったときの北政所のようにはいかなかっただろう。しかし、こののちもお初と高次の間に子が出来ることはなかった。

 「どんどん子を産んでひとり私にくれ!」
 お初がお江に言ったメチャメチャ単刀直入な台詞だが、実際にこの言葉は現実のものとなる。お江はこののち秀忠との間に二男五女の子宝を授かることになるが、この時期より7年後の慶長7年(1602年)に生まれたお江の四女・初姫を、お初の養女として京極家に迎え入れ、側室の産んだ継嗣・忠高と娶せた。一説には、お江が伏見で女児を出産すると、祝いに訪れたお初がその場でこの女児を養女に欲しいと懇願し、お江が同意するとお初はそのままこの子を連れて帰ってしまったとも伝えられる。初姫という名前からみても、生まれた子が女児ならお初の養女として譲ることが、出産前からの約束だったのかもしれない。お初にしてみれば、京極家での自身の立場を守るためにも、姪にあたるお江の娘がどうしても欲しかったのだろう。出産というのは、女性にとってはであった。

 お号と秀忠の結婚から1年近くが過ぎた頃、二人の居所・伏見徳川屋敷火事が起こり、そのことをきっかけにお江は秀忠の心根を知ることとなり、二人の意地の張り合いは終わったという今話。先週の予告編を観たとき、この火事はおそらく、慶長元年閏7月13日に近畿地方で起きた、「慶長伏見地震」と呼ばれるマグニチュード7以上の大地震が原因だと思っていた。この地震で指月伏見城は天守閣が倒壊し、城内だけで500人もの死者が出たという。2006年の大河ドラマ『功名が辻』山内一豊千代の娘が死んだ、あの地震である。震源は淡路島断層地帯といわれ、1995年に起きたあの「阪神・淡路大震災」に非常によく似た地震だったとか。この地震がちょうどドラマのこの時期であり、おそらくそれが原因の火事だろうと思った視聴者は、私だけではなかったのではないだろうか。

 ところが、設定では「単なる不始末による火事」だったようである。なんともシックリ来ない設定だが、私が思うに、元々は「慶長伏見地震」を絡ませる設定だったところが、今年3月11日に「東日本大震災」が起きたため、被災地の視聴者への配慮から、このような設定に変えたのではないだろうか(私は原作小説を読んでいないので、間違っていたらゴメンナサイ)。だとすれば、この唐突な火事騒動の設定も納得できなくもないが、しかし残念でもある。ドラマで歴史的事実である地震を描かないことが、被災者のためになるとも思えないし、描くことが不謹慎だとも思えない。むしろ、戦国時代にもこのような大地震があって、その苦境を乗り越えてきた人たちを描くほうが、逆に今必要な気がする。ドラマに限らず、どうも震災以降、的外れな“自粛”が蔓延しているように思えてならない。

 さて、次週はいよいよ豊臣秀吉の死が描かれる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-08 20:43 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第19話「初の縁談」

 豊臣秀吉九州征伐から帰った天正15年(1587年)、浅井三姉妹の次女・お初は、のちに近江大津城主となる京極高次にもとに嫁いだ。高次は、秀吉の側室である松の丸殿(京極龍子)の弟(もしくは兄)で、二人の母、京極マリアはお初たち三姉妹の父、浅井長政の姉(もしくは妹、一説には叔母とも)であるため、お初と高次は従兄妹関係にあたる。お江の一度目の結婚相手、佐治一成も従兄妹関係だったが、一成の母、お犬の方は、お江たちの母、お市の方の妹で、つまり、お江は母方の従兄妹と、お初は父方の従兄妹と結婚した、というわけである。

 京極家は、鎌倉時代、室町時代を通して近江など数カ国の守護を世襲してきた名族で、かつては浅井家も京極家に仕える立場だった。しかし、これより半世紀ほど前、京極家に内紛が起こり、その機に乗じて家臣であった浅井家に実権を奪われ、零落してしまっていた。高次の父、京極高吉の時代に織田信長から近江奥島5000石を与えられていた京極家だったが、「本能寺の変」で信長が討たれると、高次は戦況を見誤り、姉、龍子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に明智光秀に味方し、当時の秀吉の居城・近江長浜城を攻撃してしまう。しかし、周知のとおり光秀軍は「山崎の戦い」で秀吉軍に惨敗。龍子の夫、元明は自害する。敗走した高次は初め美濃、そして若狭の武田領へと逃れ、一時はお初たちの義父、柴田勝家に匿われていたようで、ひょっとしたらそのとき、お初たち三姉妹とも何らかの接触があったかもしれない。

 しかし、その勝家までもが秀吉に敗れてしまい、高次はいよいよ身体窮まってしまう。この窮地を助けたのが、姉の龍子だった。龍子は夫の元明の死後、秀吉の側室となっており、その姉の嘆願によって高次は赦免され、秀吉に仕えることとなる。天正12年(1584年)には近江国高島郡で2500石を与えられ、その翌々年に5000石へと加増され、さらに同年の九州攻めでは敵方の城を攻め落とすという戦功を上げ、一躍、江高島郡で大溝1万石の大名に取り立てられ、大溝城の城主となった。九州攻めでの功は高次の武将としての能力ともいえるが、そもそもは秀吉に二度までも楯突いた身。本来ならその時点でお取りつぶしになっていてもおかしくはなく、高次が大名になれたのは姉のおかげといっても言い過ぎではない。そして大名となった高次は、今度は信長の姪であるお初と結婚。姉や妻の七光りで出世したとされたことから、「蛍大名」と揶揄された。

 お初がどういう経緯で高次に嫁ぐことになったかはわからないが、ドラマのようなラブストーリーではなかっただろう。おそらく姉の松の丸殿(京極龍子)のとりなしがあっての結婚だとは想像できるが、ドラマでの松の丸殿の台詞にもあったように、亡き信長公の姪であるお初には、もっと政治的利用価値があったはず。実際に、お江がのちに徳川家康の三男・徳川秀忠に嫁いでいることを思えば、いくら鎌倉時代から続く名家とはいえ、このときの京極家は秀吉からみれば格下の格下で、お初を嫁がせてまで深い関係を築くべき相手ではない。いってみれば、側室である松の丸殿と高次が姉弟という関係があれば、京極家が秀吉に楯突くことはまず考えられず、それだけで十分なわけである(秀吉の死後、高次は豊臣家に弓引くことになるのだが)。であれば、なぜ秀吉は格下の高次にお初を嫁がせたのか・・・。想像するに、松の丸殿の熱心な介在(いわゆる、おねだり)があったと思われ、そう考えれば、高次がお初を熱烈に見初めた・・・なんて話も、案外あったかもしれない。

 お江が三度の結婚をしたのに対し、お初と高次は生涯添い遂げた。しかし、二人の間に子どもはできず、のちに側室との間に長男、忠高が生まれてからは、夫婦仲はあまり良くなかったといわれる(のちにこの忠高に、お江と徳川秀忠の娘、初姫を妻合わせるが、ここにも子どもができなかった)。しかし、のちに二人してキリシタンになったことを思えば、夫婦仲はそれほど悪くはなかったのかもしれない。

 お初が嫁いでしまったので、ドラマではしばらくお菓子を頬張る彼女の姿は観られなくなりそう。後年、お初は、豊臣と徳川に分かれた姉・妹の間に挟まれ、「大坂の陣」の際には両家の和睦交渉の使者に駆り立てられることになるのだが、それはこの物語のずっと後の話である。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-23 16:22 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ キャスト

 さて、1月9日より2011年NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が始まります。主役のお江(ごう)は、あの織田信長の妹・お市の娘であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の妹でもあり、さらにはその秀吉と淀殿の間に生まれた嫡男・豊臣秀頼の正室・千姫の実母でもあるという、ミス戦国のような女性。母も姉も娘も波乱の生涯を送っており、彼女も当然例外ではありませんでした。二度の落城により父と母を失った江は、時の権力者たちに人生を翻弄され、三度の結婚を重ねることになります。その三度目で徳川二代将軍・徳川秀忠の正室となった江は、やがて姉・淀と敵味方に分かれて天下を争うことになってしまいます。

 今年もまた毎週、感想やらうんちくを起稿していきたいと思っていますが、昨年の「龍馬伝」ほどの知識はないので、その辺はご了承願います。放送開始に先立って、まずはキャストの紹介から。

***********************************************************************
三姉妹
(江→崇源院)・・・・・・・・・・・上野樹里
(茶々→淀殿)・・・・・・・・・・・宮沢りえ(幼少期:芦田愛菜)
(初→常高院)・・・・・・・・・・・水川あさみ(幼少期:奥田いろは)

浅井家
浅井長政・・・・・・・・・・・・・・・・・時任三郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木保奈美
浅井久政・・・・・・・・・・・・・・・・・寺田農
赤尾清綱・・・・・・・・・・・・・・・・・油井昌由樹
侍女たち
須磨(市の乳母)・・・・・・・・・・・左時枝
ヨシ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮地雅子
サキ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊佐山ひろ子
ウメ(初の乳母)・・・・・・・・・・・・和泉ちぬ

織田家
織田一門
織田信長・・・・・・・・・・・・・・・・・豊川悦司
織田信忠・・・・・・・・・・・・・・・・・谷田歩
織田信雄・・・・・・・・・・・・・・・・・山崎裕太
織田信孝・・・・・・・・・・・・・・・・・金井勇太
織田信包・・・・・・・・・・・・・・・・・小林隆
織田家家臣
佐治一成・・・・・・・・・・・・・・・・・平岳大
柴田勝家・・・・・・・・・・・・・・・・・大地康雄
丹羽長秀・・・・・・・・・・・・・・・・・江達健司
池田恒興・・・・・・・・・・・・・・・・・武田義晴
佐久間盛政・・・・・・・・・・・・・・・山田純大
森蘭丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瀬戸康史
森坊丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・染谷将太
森力丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪本奨悟
佐々成政・・・・・・・・・・・・・・・・・中原裕也
前田利家・・・・・・・・・・・・・・・・・和田啓作

明智家
明智光秀・・・・・・・・・・・・・・・・・市村正親
細川ガラシャ(たま→ガラシャ)・ミムラ
斎藤利三・・・・・・・・・・・・・・・・・神尾佑

細川家
細川忠興・・・・・・・・・・・・・・・・・内倉憲ニ
細川幽斎・・・・・・・・・・・・・・・・・小田豊
清原いと・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田羊

豊臣家
豊臣一門
豊臣秀吉・・・・・・・・・・・・・・・・・岸谷五朗
おね(おね→北政所)・・・・・・・・大竹しのぶ
なか(なか→大政所)・・・・・・・・奈良岡朋子
豊臣秀次・・・・・・・・・・・・・・・・・北村有起哉
豊臣秀長・・・・・・・・・・・・・・・・・袴田吉彦
豊臣家家臣
石田三成・・・・・・・・・・・・・・・・・萩原聖人
黒田官兵衛・・・・・・・・・・・・・・・柴俊夫

京極家
京極高次・・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤工
京極龍子(京極龍子→松の丸殿)・・鈴木砂羽

徳川家
徳川一門
徳川秀忠・・・・・・・・・・・・・・・・・向井理(幼少期:嘉数一星)
徳川家康・・・・・・・・・・・・・・・・・北大路欣也
築山殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麻乃佳世
徳川信康・・・・・・・・・・・・・・・・・木村彰吾
結城秀康・・・・・・・・・・・・・・・・・前田健
徳川家家臣
本多正信・・・・・・・・・・・・・・・・・草刈正雄
本多忠勝・・・・・・・・・・・・・・・・・苅谷俊介
酒井忠次・・・・・・・・・・・・・・・・・桜木健一

その他の武家
足利義昭・・・・・・・・・・・・・・・・・和泉元彌
朝倉義景・・・・・・・・・・・・・・・・・中山仁
武田勝頼・・・・・・・・・・・・・・・・・久松信美

その他
千利休・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石坂浩二
与助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大竹浩一
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 大河以外のドラマをあまり観ることのない私なので、江役の上野樹里さんのことをあまり知らないのですが、演技力には定評のある女優さんと聞きますから、今から楽しみにしています。姉・淀役は宮沢りえさんですね。淀という女性は、今までたくさんの方が演じてこられた難しい役です。可憐な悲劇のヒロインとして描かれたり、強かな悪女として描かれたり、傲慢でヒステリックな女性に描かれたりと、作品によって様々な姿があります。この度はどのような人物像に描かれるのか楽しみですね。宮沢さんの演技にも期待です。

 織田信長役は豊川悦司さん、豊臣秀吉役は岸谷五朗さん、徳川家康役は北大路欣也さんと、いずれも演技派ぞろいでイメージも申し分ありませんが、北大路さんだけずいぶん年上ですね。実際には三人の中で家康が一番年下なんですが・・・。おそらく家康が一番長く物語に登場するでしょうから、晩年を想定してのキャスティングだと思いますが、若き日の姿を想像すると、信長も秀吉も家康の貫禄に圧倒されそうですね。

 江の三番目の夫、徳川秀忠役は向井理さん。昨年、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」でヒロインの夫・水木しげる役を演じたのは記憶に新しいところですが、今度は大河ドラマのヒロインの夫役となります。偉大な父・家康とは違い、武勇や知略での評価は低く、温厚な人物だったと言われる秀忠。一説には、恐妻家だったともいわれますが、このドラマではどうでしょうね。

 第1話は75分の拡大版だそうです。当日私は新年会で、その次の週も新年会の予定があり、いきなり2週続けてリアルタイムでは観れそうにありませんが、遅れてでも毎週起稿していきますので、今年も宜しくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-06 22:20 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(8)