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江~姫たちの戦国~ 第46話(最終回)「希望」

 元和2年(1616年)、徳川家康が死去したのちの徳川秀忠は、将軍親政を開始し、酒井忠世土井利勝安藤重信といった重臣に支えられ、幕府権力の強化に努めた。具体的には、法令違反などのあった大名を相次いで除封(おとり潰し)とする一方で、キリスト教禁教を一層徹底させた。秀忠に除封に追い込まれた大名は、福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などの有力な外様大名をはじめ、譜代で家康の側近中の側近だった本多正純や、秀忠の実弟の松平忠輝、秀忠・お江夫妻の三女・勝姫の娘婿で、秀忠から見れば甥にもあたる松平忠直にも及んだ。正純は諫言が過ぎたこと、忠直は不行跡を重ねたことが除封の表向きの理由だったが、正純の場合は同じく幕閣の大久保忠隣暗闘を重ねていたことが、除封につながったものとみられる。最終的に、秀忠が隠居して大御所となってからのものも含めると、除封された大名は外様23家、親藩・譜代16家にもおよび、これは徳川15代将軍の中でもトップの数。親藩・譜代であろうが外様であろうが容赦なく処分するという姿勢を示すことで、大名統制を行い、幕府権力を強固にしていった。

 元和6年(1620年)6月18日、秀忠・お江夫妻の五女である和子(まさこ)ことのちの東福門院は、京都御所の内裏に女御として入内し、元和9年(1623年)には第108代・後水尾天皇との間に興子内親王(第109代・明正天皇/女帝)をもうけた。これにより、徳川家は天皇家の外戚という地位を手に入れ、徳川家の権威は一層増すこととなった。しかし、明正天皇は女帝であったためその後の天皇にその血が繋がることはなく、徳川家が天皇の外戚となったのもこの明正天皇のときだけだった。

 秀忠が女中のお静の方を寵愛して産ませたという幸松丸。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。ドラマでは、隠し子の存在を知ったお江が幸松丸を呼び出して面会していたが、実際には、秀忠はお江の生前に公式の場で正之を実子と認めることはなかったという。秀忠が正之と面会したのはお江の死後で、正之が秀忠の子であることを公式に発表したのは、秀忠の死後、徳川家光の代になってからのことである。家光は正之を重用し、家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となり、幕政の安定に寄与していくこととなる。

 紆余曲折の末、秀忠の後継者には長男の家光が据えられ、元和9年(1623年)7月27日、秀忠が隠居し、将軍職徳川家当主の座を家光に譲り、同じ年の12月には公卿の鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えた。徳川三代将軍家光の時代が始まる。一方の弟・徳川忠長は、元和2年(1616年)あるいは元和4年(1618年)に甲府藩23万8千石を拝領し、甲府藩主となる(しかし、元服前で幼少の忠長が実際に入甲することはなく、多分に形式上の藩主だった。ただ、このことによって、秀忠の後継者争いが家光に決定したのがこの時期であったことを窺うことができる)。その後、家光の将軍宣下に際して駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し、将軍の弟として強い権力を有した。しかし、寛永3年(1626年)の母・お江の病没を境に、秀忠・家光父子の忠長に対する処遇が変わり始め、寛永8年(1631年)には不行跡を理由に蟄居を命じられ、翌寛永9年(1632年)の秀忠の死後、除封処分となり、最終的には切腹に追い込まれる。享年28歳。忠長を溺愛し、秀忠の後継者に忠長を推していたといわれるお江。まるで母に守られていたかの如く、彼女の生前と死後で立場が一変してしまった忠長。このあたりに、お江の実子は忠長だけで、家光の実母はお江ではなかった・・・という説が生まれた背景がある。事実はどうだったか・・・、今となっては憶測の域を出ない。

 さて、晩年のお江について。ドラマでは、大奥制度の計画を秀忠から任されていたお江だったが、実際にはお江が関わっていたという記録は残っていない。大奥制度を作ったのは、ほかならぬ秀忠であった。秀忠は元和4年(1618年)、女中以外の出入りを原則として禁止するなど、6カ条法度を大奥に発し、さらに元和9年(1623年)には8カ条からなる「大奥法度」を定めた。そこに、正室であるお江の意向が取り入れられていたとしても何ら不自然ではないが、その翌年の寛永元年(1624年)には、秀忠の隠居に伴いお江も西の丸に移っていたと思われ、これと入れ違いに三代将軍となっていた家光が本丸に移り、このとき春日局も本丸の大奥に入ったと思われるため、よくドラマの「大奥シリーズ」などで描かれているような、大奥の運営方法をめぐってお江と春日局との間で熾烈な女の闘いがあったといったエピソードは、実際には存在しなかった可能性が高い。やがて、本丸の大奥のすべての女中を指揮下に置いた春日局は、「大奥法度」に基づいて大奥を運営した。大奥制度は、秀忠が立ち上げて春日局が軌道に乗せたもので、お江は、直接的には深く関わっていないようである。

 お江がその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのは、寛永3年(1626年)9月15日、秀忠・家光ともに上洛中で、江戸城を不在にしていたときだった。徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、このときの上洛行列の規模や上洛中の行動はこと細かく記されているものの、大御所や将軍が不在の江戸城内の出来事については、極めて簡単な記述しか見出せないため、お江の病臥についても記載されておらず、死因についても詳しくはわかっていない。上洛中の秀忠たちのもとに、お江危篤の知らせが届いたのは9月11日。しかし、秀忠・家光父子は動くことなく上洛の日程をこなし、忠長だけが江戸城に向かった。忠長は側近が落伍するほどの猛スピードで江戸城を目指したが、結局は臨終に立ち会うことはできなかった。享年54歳。

 お江は、徳川家の歴代将軍と御台所の中では、唯一例外的に荼毘(火葬)に付されている。この時代、疫病などで死んだ場合をのぞいて土葬が主流で、とくに身分の高い人は土葬が常識だった。お江が荼毘(火葬)に付された理由は今もってで、それに加えて、その死が突然だったこと、死去の際、秀忠・家光が不在中だったこと、危篤の報に接して駆けつけたのが忠長だけだったことなどから、毒殺説などの諸説を生む要因となっている。しかし、そのどれもが憶測の域を出ず、いずれも「歴史ミステリー」的な発想に過ぎない。晩年のお江が、殺されるほどの重要な存在であったかどうかを考えれば、答えは簡単な気がする。

 浅井三姉妹の三女・お江という女性を中心とした、姫たちの戦国物語が終わった。実父叔父に殺され、実母をのちの養父に殺され、実姉に殺されるという、それが戦国の慣らいとはいえ大変な運命に翻弄されたお江。その波乱に満ちた生涯を強いられた浅井三姉妹の中で、末妹の彼女だけが、後世にその血脈を残した。徳川将軍家に引き継がれたお江の血筋は、残念ながら第7代将軍・徳川家継がわずか6歳で夭逝したため途絶えてしまったが、お江の二度目の夫・豊臣秀勝との間に生まれた完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。貞明皇后は言うまでもなく昭和天皇の母君であり、つまり、今上天皇ならびに親王・内親王など現在の皇室の方々はすべて、お江の子孫ということになる。織田家浅井家の血を引き、徳川家豊臣家の子を産み、現在の天皇にも繋がるお江。彼女の物語を観終えて、あらためてお江という女性の歴史上の存在感の大きさを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-28 23:44 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第40話「親の心」

 徳川秀忠・お江夫妻の長男である竹千代こと徳川家光は慶長9年(1604年)生まれ、次男の国松こと徳川忠長は、慶長11年(1606年)生まれの2歳違いの兄弟で、お江にとっては32歳、34歳での出産だった。文禄4年(1595年)に秀忠のもとへ輿入れしてから、長女・千姫、次女・珠姫、三女・勝姫、に四女・初姫と、なかなか男子に恵まれなかったお江にとっては、家光は9年目にして授かった待望の男子だったはずであり、大切な後継ぎとなるはずであった。

 ところが、どういうわけかお江夫妻は、長男の家光よりも次男の忠長を可愛がったという逸話が残っている。江戸幕府の正史である『徳川実紀』の付録巻一には、
「御弟国千代の方は御幼稚並にこえて、聡敏にわたらせ給へば、御母君、崇源院殿にはこと更御錘愈ありて・・・」
などと記されている。国千代とは国松のことで、崇源院とはお江の法名、これによれば、お江は次男の忠長が幼少時から聡明であったため、ことさら溺愛したというのである。一方で、上記の分の少し後には、幼少時代の家光に関して、
「公御幼稚の頃はいと小心におはして、温和のみ見え給ひしが・・・」
と記されている。家光は幼少の頃は小心で温和だけが取り柄であったため、秀忠・お江夫妻は家光に期待しなかったのだろうか。とくに、二度の落城と三度の結婚を経験し、戦国の動乱期を生き抜いてきたお江にとっては、後継者の大切さは秀忠以上に知り抜いていたかもしれず、幼少時から聡明であった忠長に期待したのは当然のことだったのかもしれない。

 また、上記引用文の少し前には、秀忠の父、家光の内祖父である徳川家康が家光を可愛がり、家光も家康に懐いていたという意味の記述がある。あるいは、お江、さらに秀忠は、家康への対抗心から家光ではなく、忠長を溺愛したのかもしれない。やがて、その空気を察した大名・旗本たちが、相次いで忠長に接近するようになったという。竹千代こと幼い家光は、弟が父母の愛情を一身に受けていることに、心を打ちひしがれたに違いない。そんなこともあってか、乳母であるお福こと春日局を、父母以上に慕った。

 ドラマで、春日局が家光を後継ぎに裁定するよう家康に直訴するシーンがあったが、この話は家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』に記されている逸話である。これによれば、秀忠・お江夫妻が忠長を後継者に考えていると察した大名、旗本がこぞって忠長に接近しようとしていた中、幕閣・永井直清だけは家光に忠勤を励んでおり、まずはその父・永井直勝に相談して事態の打開を図ろうとした。ところが、直勝に事態の静観を主張され、思い余った春日局は、すぐさま伊勢神宮へ参詣すると称して西へ向かい、駿河駿府城にいた家康のもとへ駆け込み、秀忠・お江夫妻の動向を伝えて家光の世子としての地位を確認して欲しいと訴えた、と伝わる。

 この春日局の直訴が効いたのかどうか、その後しばらくして、家康の裁定によって世継ぎは家光に確定する。理由は、「嫡子である竹千代を廃し、次男の国松を立てるのは、天下の乱れの原因となる」とのこと。この時代の後継ぎは、必ずしも長男が継ぐとは決まっておらず、ましてや戦国動乱の最中は、有能な主君でなければ家臣が着いてこず、実力で後継者を決めるのが当然であった。ところが家康は、竹千代と国松の後継者争いを長幼の序という形でけりをつけた。これは、戦国動乱の時代の終わりを告げると共に、こののちお家騒動が生じないための策だったとも言われる。ただ、それもこれも、家光より忠長のほうが聡明だったという伝承が正しかったとしてのことではあるが・・・。

 家光を後継ぎに決めるに際して、家康はわざわざお江に書状を送って諭している。この書状は、家光の忠長に対する嫡男としての優位性は絶対であることを、きつく戒めるものだったという。興味深いのは、この訓戒状が秀忠宛てではなくお江宛てであったこと。このことから想像するに、忠長に固執していたのはお江のほうで、秀忠は姉さん女房のお江に追従するかたちで忠長に期待していたのだろう。こんな逸話が残っていることからも、お江はかなり豪胆な一面を持った女性であったことがわかり、秀忠が尻に敷かれていたという説が伝わるのも、無理からぬことである。

病に倒れた大姥局と、見舞いに来た家康とお会話。
大姥局 「若様と一度ゆっくりと話し合われて下さいませ。」
家康  「あやつは、わしに心を開かぬでな・・・。」
大姥局 「それは若様おひとりのせいだと・・・? 大殿様の御心が引いているゆえ、若様がお心を開かれぬのです。親に打ち消されるとわかっていて尚、心を開いて話す子がおりましょうや・・・。」
 この大姥局の台詞は、息子を持つ父親としては身につまされた。たしかにその通りである。親は、当然ながら息子より長く生きており、その分経験も豊富で、答えを知っている。だから、ついつい答え合わせの計算式を息子に求めようとし、違う方法で答えを探そうとする息子に、自分の知っている計算式を教えようとしてしまう。しかし、それは息子の思考を打ち消している行為であり、親の意見が正しければ正しいほど、息子は自分の考えを話さなくなり、自分の思考を持たなくなるかもしれない。そんなことを考えさせられた台詞だった。どんなに愚論であっても、まずは耳を傾ける。そして、決して否定はしない。これ、父子関係のみならず、上司と部下の関係にも言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-17 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第36話「男の覚悟」

 徳川秀忠の生涯最大の大失態といえば、何と言っても慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおける大遅参であろう。秀忠にとってこの戦は初陣であった。このとき、父の徳川家康は3万3000の兵とともに東海道を進撃し、9月初めまでに美濃赤坂に到達。一方、約3万8000の大軍を率いた秀忠は、関東から中山道を経由して西方へ進撃する手筈であった。上野から信濃へ進軍した秀忠は、9月2日に信濃上田城主の真田昌幸に対して降伏勧告を行う。この昌幸の次男である真田信繁(幸村)の正室・竹林院は、西軍主将の石田三成の盟友である大谷吉継の娘で、信繁の兄である長男の真田信之の正室・大蓮院(小松姫)は、家康の重臣である本多忠勝の娘であった。そんな関係もあって、昌幸・信繁父子は石田方に与し、信之は徳川方に属していた。

 ところが、昌幸・信繁父子が降伏勧告に応じなかったため、憤った秀忠は、上田城や伊勢崎砦への攻撃を本格化させた。すぐさま、軍師格として従軍していた本田正信が、「上田城攻めは信濃の諸将に委ね、秀忠様は本隊との合流を急ぐべきです。」などと進言した。ところが、同じく従軍していた戸田一西牧野康成らは城攻めに固執し、軍議は紛糾してしまった。この間、籠城している真田軍は、徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍では、康成の麾下の将兵が真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けた。

 以後も、正信が康成を軍令違反などと罵ったり、城攻め続行の是非や、西方への進軍の時期をめぐって榊原康政と正信が対立したりもした。やがて、時間の無駄を痛感した秀忠は上田城を捨て置くことを決意、本隊との合流を目指し、上田を後にする。しかし、山間を縫うように走る中山道を約3万8000もの大軍が進撃するのは容易ではなく、加えて豪雨による川の氾濫などの悪条件も重なって、結局は9月15日の美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。家康はこの遅参に相当立腹したようで、ようやくたどり着いた秀忠が再三面会を懇願しても、家康はこれに応じなかったという。

 この関ヶ原大遅参という、たった一度の失態によって、徳川秀忠という人物の武将としての評価は低い。しかし、上田城の件に関していえば諸説あって、秀忠の能力とばかりは言えないようである。そもそも、家康は実際には中山道方面軍の総大将である秀忠に、的確な軍事上の指示を出していなかったようである。あるいは、中山道一帯の豊臣方を掃討した上で家康率いる本隊と美濃方面で合流するという、物理的に不可能な指令を秀忠に発していた可能性もある。一説には、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。その真意はわからないが、結果、秀忠が遅参したことによって、家康は後継者を失うことなく戦に勝つことができたのは事実。
 「この世で最も険しき戦とは、息子を死なせず独り立ちさせることよ。」
 ドラマ中、家康が言った台詞だが、あながち的外れではなかったのかもしれない。

 生涯、お江ひとりを愛したといわれる徳川秀忠。その理由は、お江は夫が側室を置くことを極端に嫌ったからという話も残っており、恐妻家であったともいわれる。この時代の武家では側室を置くのが当たり前であったが、自分ひとりを愛するように夫に迫った正室もいたであろう。

 しかし、秀忠にひとりも側室がいなかったというわけではなかった。実は、慶長6年(1601年)頃、秀忠の長男と思われる長丸という男児が生まれている。長丸の生年には諸説あるが、慶長6年という説にしたがえば、生母はお江でない可能性が高くなる。お江はこの同じ年、三女・勝姫(天崇院)を出産していた。この長丸は、惜しくもわずか二歳で夭折してしまうのだが、徳川将軍家の系譜集である『徳川幕府家譜』にはその生母に関して、「御母公ハ家女」という注記がある。「家女」とは側室のことで、なぜ注記であるかは不明だが、長丸の生母はお江ではなく、側室とみて間違いなさそうである。

 「竹千代という名は、そなたが産んだ子にしか与えぬ。」というお江との約束は後に果たした秀忠であったが、「私は生涯、側室は持たぬ。」という誓いは守っていない。これより10年ほどのち、将軍に就任していた秀忠は、大奥の女中であるお静の方(浄光院)を寵愛し、慶長16年(1611年)に男児・幸松丸を産ませた。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。正式な側室となっていない以上、「生涯、側室は持たぬ。」という誓いを守ったことになるのだろうか(笑)。

 実際にそのような約束を交わしていたかどうかはわからないが、お静の方と幸松丸を江戸城から追い出したかたちになったのは事実。ドラマでは、おなつという架空の女性の設定になっていたが、長丸の生母の存在も正確にはわかっておらず、どちらも正室であるお江に気を使った配慮と考えて無理はない。やはり、恐妻家であったという伝承は正しいのだろうか・・・。秀忠も、大変な女性を正室に迎えたものである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-19 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第30話「愛しき人よ」

 「夫婦になることを望んだほうが負け」
 という、よくわからない意地の張り合いで始まったお江徳川秀忠の新婚生活。その我慢比べは、結局1年近くにも及んだそうな。二人が結婚したのは文禄4年(1595年)9月のことで、こののち二人の間に最初の子・千姫が生まれるのが、慶長2年(1597年)4月のことだから、設定としてはギリギリない話ではない。いうまでもなく二人の結婚は、豊臣家徳川家の関係をより強固にするための縁組だっただろうが、当の本人たちは本意であったかといえば、ドラマのとおり二人とも乗り気ではなかったかもしれない。前夫・豊臣秀勝との死別から3年しか経っておらず、しかも愛娘・完子を豊臣に残してまで嫁いできたお江にしてみれば、6歳年下の秀忠は頼りなく思えただろうし、秀忠にしてみれば、初婚の相手がバツ2子持ち年増(23歳だが)となれば、妻として素直に受け入れ難い思いもあっただろう。そんな二人がお互いを理解しあって本当の意味での夫婦になるまでには、1年近くの月日を要した・・・ということが描きたかった今話だったのだろうと、鷹揚に受け止めることにしよう(笑)。

 夫である京極高次側室の間に子供が生まれていたことを知り、嘆くお初。高次とお初が結婚したのは天正15年(1587年)で、側室が世継ぎ(のちの京極忠高)を産んだのは文禄2年(1593年)のこと。6年間も子宝に恵まれなければ、側室に向かうのは当然のことで、むしろ妻の側から側室を推めるべきことであった。しかし、そうはいっても、その側室がスンナリと懐妊したと聞けば、子を授からない原因が妻にあることが立証されることになり、正室の立場としては心穏やかではなかっただろう。このときお初24歳。まだまだ出産を諦める年齢ではなく、お茶々の懐妊を知ったときの北政所のようにはいかなかっただろう。しかし、こののちもお初と高次の間に子が出来ることはなかった。

 「どんどん子を産んでひとり私にくれ!」
 お初がお江に言ったメチャメチャ単刀直入な台詞だが、実際にこの言葉は現実のものとなる。お江はこののち秀忠との間に二男五女の子宝を授かることになるが、この時期より7年後の慶長7年(1602年)に生まれたお江の四女・初姫を、お初の養女として京極家に迎え入れ、側室の産んだ継嗣・忠高と娶せた。一説には、お江が伏見で女児を出産すると、祝いに訪れたお初がその場でこの女児を養女に欲しいと懇願し、お江が同意するとお初はそのままこの子を連れて帰ってしまったとも伝えられる。初姫という名前からみても、生まれた子が女児ならお初の養女として譲ることが、出産前からの約束だったのかもしれない。お初にしてみれば、京極家での自身の立場を守るためにも、姪にあたるお江の娘がどうしても欲しかったのだろう。出産というのは、女性にとってはであった。

 お号と秀忠の結婚から1年近くが過ぎた頃、二人の居所・伏見徳川屋敷火事が起こり、そのことをきっかけにお江は秀忠の心根を知ることとなり、二人の意地の張り合いは終わったという今話。先週の予告編を観たとき、この火事はおそらく、慶長元年閏7月13日に近畿地方で起きた、「慶長伏見地震」と呼ばれるマグニチュード7以上の大地震が原因だと思っていた。この地震で指月伏見城は天守閣が倒壊し、城内だけで500人もの死者が出たという。2006年の大河ドラマ『功名が辻』山内一豊千代の娘が死んだ、あの地震である。震源は淡路島断層地帯といわれ、1995年に起きたあの「阪神・淡路大震災」に非常によく似た地震だったとか。この地震がちょうどドラマのこの時期であり、おそらくそれが原因の火事だろうと思った視聴者は、私だけではなかったのではないだろうか。

 ところが、設定では「単なる不始末による火事」だったようである。なんともシックリ来ない設定だが、私が思うに、元々は「慶長伏見地震」を絡ませる設定だったところが、今年3月11日に「東日本大震災」が起きたため、被災地の視聴者への配慮から、このような設定に変えたのではないだろうか(私は原作小説を読んでいないので、間違っていたらゴメンナサイ)。だとすれば、この唐突な火事騒動の設定も納得できなくもないが、しかし残念でもある。ドラマで歴史的事実である地震を描かないことが、被災者のためになるとも思えないし、描くことが不謹慎だとも思えない。むしろ、戦国時代にもこのような大地震があって、その苦境を乗り越えてきた人たちを描くほうが、逆に今必要な気がする。ドラマに限らず、どうも震災以降、的外れな“自粛”が蔓延しているように思えてならない。

 さて、次週はいよいよ豊臣秀吉の死が描かれる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-08 20:43 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第29話「最悪の夫」

 お江豊臣秀吉の命により、徳川家康の三男・徳川秀忠のもとに輿入れしたのは、文禄4年(1595年)9月。前夫である豊臣秀勝の死から3年後のことであった。このとき、お江23歳、秀忠17歳。同時代の武将、大名が年上の正室を迎えた事例は皆無ではないが、お江のように6歳も年上の正室というのは稀といっていい。現代の感覚でいえば、4年制大学を卒業したOL1年生の大人の女性と、まだ子供っぽさが拭いきれない高校2年生の少年の夫婦である。実際には、もっと歳の差が感じられたかもしれない。23歳といってもお江は、バツ2子持ちである。これまで彼女が歩んできた波乱の人生からいっても、現代の23歳とは比べものにならないほどの人生経験を積んできており、17歳の秀忠とでは完全に大人と子供の関係だったかもしれない。そんなこともあってか、秀忠は恐妻家であったと後世に伝わる。あながち的外れでもないように思う。

 しかし、ここで少しだけお江を擁護しておくと、過去に結婚歴があるのはお江だけではなく、秀忠も実はバツ1であった(婚約だけだったという説もあるが)。お相手は織田信長の次男・織田信雄の娘で秀吉の養女でもあった小姫(春昌院)。信雄とお江は従兄妹にあたるから、小姫とお江も血縁関係(いとこ半)ということになる。ときはお江との結婚の5年前の天正18年1月、秀忠12歳、小姫6歳であったと伝わる。ところが同年8月、信雄が秀吉からの関東への転封(国替え)命令に難色を示したため除封(お取りつぶし)となり、そのため小姫も離縁された。

 まあ、12歳と6歳の夫婦と聞けば、多分にかたちだけの結婚であったことが想像でき、秀忠をバツ1といってしまうには少々気の毒な気がしないでもないが、それでも結婚歴には違いない。いってみればお江の初婚・佐治一成との結婚も、小姫ほどではないにしても12歳という幼さで、実際に同居していたという史料も残っておらず、秀忠と小姫同様、かたちだけの結婚だったのかもしれない。ドラマ中、“政略結婚”という言葉が頻繁に使われるが、そう聞けば何かダーティーな魂胆を想像しがちになるが、つまりは家と家との同盟の証ということで、だから年齢などどうでもよく、かたちだけに意味があった。だから、簡単に引っ付いたり離れたりする。現代のバツ2とは、少し違うようである。

 ちなみに徳川家を離縁された小姫は、その1年後に死去したという説もあれば、織田家に復籍したのち佐々一義と再婚したという説もあり、他には、生涯独身を貫いたという説もある。もし、最後の説が正しかったとするならば、お江にとっては夫の前妻とはいえ“いとこ半”の間柄でもある小姫のことを、その後も気にかけていたことだろう。

 愛娘・完子を豊臣家に残して嫁ぐことになったお江(完子のその後については、以前の稿で詳しくふれているのでそちらを一読ください<参照:第27話「秀勝の遺言」>)。ドラマでは、今生の別れのように描かれていたが、実際にはその後も会うことは可能であった。言うまでもなく、徳川家の居城は武蔵江戸城だが、この頃の秀忠は上方にいることがほとんどで、大坂城内か伏見城のどちらかに起居していたと思われ、新婚当初の秀忠・お江夫妻が住んだのもどちらかの城内であったと思われる。つまり、お江と完子はその後も同じ城内で暮らしていたかもしれないということ。こののち、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれたのちも、秀忠が多くの時間を上方で過ごしていた関係で、お江、さらにはお江と秀忠の間に生まれた子どもたちも、伏見城で暮らしていたようである。のちにお江は江戸城本丸の大奥に移り住むことになるが、完子の幼少期はお江もほとんど上方で暮らしていたようで、完子が13歳で嫁ぐ慶長9年(1604年)の時点でも、お江はまだ上方にいたかもしれない。豊臣家と徳川家の隔たりはあったものの、案外、頻繁に会う機会があったのではないだろうか。

 豊臣秀吉の養女同様の存在であるお江を正室に迎えたことで、徳川家の世子(次期当主)としての地位が一層強固なものとなった徳川秀忠。これまでの秀忠像とは随分と違った描かれ方のこの度の秀忠が、気の強い姉さん女房のお江とどんなふうに夫婦の絆を築いていくか、今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-01 22:02 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第27話「秀勝の遺言」

 お江が二人目の夫・豊臣秀勝の忘れ形見である長女・豊臣完子(さだこ)を産んだのは、ドラマのとおり秀勝の戦病死の報に接した頃と推測されている。かつて天正12年(1584年)に佐治一成と結婚したお江だったが、当時のお江は数えで12歳という少女で、しかも数ヶ月という短期間の結婚生活であったことから、名実ともに夫婦となり得ていたとは考えづらい。しかし、それから8年が経った文禄元年(1592年)当時のお江は成熟した大人の女性で、完子という子宝に恵まれたのは自然といえるだろう。

 その初めての出産の前後に秀勝の戦病死の報に接したお江。夫を戦場に送り出した以上、生きて帰らないかもしれないことは覚悟の上のことだとしても、このタイミングでの秀勝の訃報はあまりにも酷な話。ドラマのように、夫の死の現実をそう簡単に受け入れることはできなかっただろう。出産の喜びとは、夫婦揃っていてこその喜びだと私も思う。夫の死の知らせを受けた直後の出産だったとすれば、どんな思いでその痛みに耐えたか、経験のない人間には想像もつかない。ましてやそれが初めての出産ならば、なおのことである。生まれた完子を抱くことができなかったお江の気持ち・・・何となく、わかるような気がする。

 父の顔を知ることなく育った完子は、この3年後の文禄4年(1595年)に母のお江が徳川秀忠と再々婚をすることになったため、叔母である淀殿に養育されることになる。一般に、悪女という評価が定着している感がある淀殿だが、妹のために一肌脱いだこのエピソードから想像すれば、ドラマのように、少なくとも妹たちには良き姉だったようである。通説では、その後、完子は織田信長の嫡孫である織田秀信と婚約、もしくは結婚したとされてきた。この秀信という人物は信長の嫡子・織田信忠の長男で、天正10年の「清洲会議」の際に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が手懐けた、あの三法師のことである。しかし、近年では完子が秀信と婚約、もしくは結婚していたという説に対して、否定的な意見が少なくない。

 そして、慶長9年(1604年)、13歳になった完子は、公家である九条忠栄御簾中(正室)に迎えられることになる。おそらくこの婚儀は、生母であるお江の意向を汲んだものでもあったであろう。お江は完子の他に、秀忠との間に二男五女の子宝に恵まれたが、その多産のDNAを受け継いだ完子も、忠栄との間に九条道房をはじめ四男三女をもうける。九条家は藤原北家流で、五摂家のひとつに数えられる名門中の名門で、古くから朝廷の摂政、関白を務めた人物が数多く存在し、完子の夫となった忠栄も第107代・後陽成天皇と第108代・後水尾天皇の関白を務め、その子の道房も、第110代・後光明天皇の摂政を務めている。忠栄と完子の夫婦仲も仲睦まじかったようで、不幸な出生に始まった完子の人生だったが、思わぬ幸せな人生が待っていた。

 いうまでもなく、お江と徳川秀忠の間に生まれた二男五女と完子は異父兄弟姉妹にあたる。その異父弟の徳川家光が江戸幕府第三代将軍となり、異父妹の東福門院和子は後水尾天皇の女御となって第109代・明正天皇(女帝)を産んだ。将軍や国母(天皇の母)の異父姉であり、「最後の豊臣家の人物」ともいうべき完子が、こうして京都で公家の御簾中として幸せに暮らしたというエピソードは、一般にはあまり知られていない。

 完子は異父弟の家光よりも長生きし、万治元年(1658年)、67歳で病没する。そして、その血脈は歴史の中に生き続けた。完子の子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。つまり、織田家浅井家豊臣家の血を引いた完子の血脈が、昭和天皇、そして今上天皇にも繋がっているというわけである。お江の不幸な出産によって生まれた完子が、歴史上、極めて貴重な、存在感のある女性となったことに、歴史の綾の不思議さ、面白さを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-19 01:42 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第26話「母になる時」

 お江の二人目の夫となった豊臣秀勝は、豊臣秀吉の甥にあたる。秀吉には姉の瑞龍院(智)、弟の豊臣秀長、妹の朝日姫(南明院)という三人の兄弟姉妹がいた。ちなみに、ドラマなどでよくある設定で、瑞龍院と秀吉は木下弥右衛門天瑞院(仲)夫妻の子で、秀長と朝日姫は天瑞院が後夫の筑阿弥とのあいだにもうけた子といわれ、日吉丸こと秀吉は継父・筑阿弥の折檻に耐え切れずに家を飛び出し、放浪の末、蜂須賀小六(正勝)と遭遇した・・・などという説がよく知られるところだが、その大部分はフィクションである。近年は、秀吉たち4人の兄弟姉妹は全員、弥右衛門・天瑞院夫妻の子とみる説が有力である。

 その4兄弟の一番上の瑞龍院は、三好吉房という人物と結婚し、秀次秀勝秀保という3人の息子に恵まれた。そのうち、秀次と秀勝は叔父・秀吉の養子となり、三男の秀保は同じく叔父・秀長の養子となっている。3人の息子に恵まれた瑞龍院とは対照的に、秀吉は最晩年まで子宝に恵まれず、秀長も、娘は2人いたものの、息子はいなかった。朝日姫にも子どもがいたという記録はなく、瑞龍院の3人の息子が秀吉や秀長の養子に迎えられたのは、豊臣家の繁栄のためにも当然のことだった。

 お江の夫となる秀勝が秀吉の養子になったのは天正14年(1586年)ごろ。病死した秀吉の養子・羽柴秀勝から諱(実名)を相続し、領地も相続して丹波国亀山城主となった。ここで、秀吉には秀勝という名の実子・養子が3人もいたので、そのことについてふれておきたい。最初の秀勝は、以前の稿でも紹介したとおり(参照:第22話「父母の肖像」)、これより20年ほど前の長浜城主時代の秀吉と側室・南殿との間に生まれたといわれる実子・石松丸。秀吉にとっては、長男になる。その石松丸秀勝は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 石松丸秀勝を亡くした秀吉は、その2年後の天正6年(1578年)、主君・織田信長に乞うて、信長の四男・於次丸を養子に貰い受け、早世した石松丸と同じ秀勝という諱を名乗らせた。天正10年の本能寺の変で信長が死んだのち、織田家領の再分配を決めた清洲会議の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。しかし、その後は臥せりがちとなり、天正13年(1585年)12月10日に病没する。年齢は18歳前後だったとみられている。

 於次丸秀勝が病没した直後の天正14年(1586年)ごろ、秀吉の養子となった甥の小吉が丹波国亀山城主を受け継ぎ、秀勝という諱も受け継いだ。歳も、死んだ於次丸秀勝とほぼ同年代だったと思われる。この三代目秀勝、豊臣小吉秀勝が、お江の二人目の夫となった人物である。2人の結婚の時期については、天正14年(1586年)説と文禄元年(1592年)説とがあり、ドラマでは文禄元年(1592年)説をとっているが、いかがなものだろう。そもそも、お江がなぜ小吉秀勝のもとに嫁がされたかという観点に立ってみると、小吉秀勝が死んだ於次丸秀勝から丹波国亀山城主を受け継いだ際に、そのまま於次丸秀勝の家臣も引き継いだであろうことが想像でき、その場合、家臣たちの反感を買わずに“秀勝”の名を継承するには、於次丸秀勝と同じく織田家の血を引くお江との結婚は効果的だったと思われ(参照:江戸東京万華鏡「江は何故秀勝に嫁すことになったのか?」)、そう考えれば、天正14年(1586年)説のほうが、信憑性があるように思える。とすれば、嫁さんの威光に頼るしかなかった小吉秀勝にとってお江は、頭の上がらない妻だったかもしれない(笑)。

 それにしても、秀吉はこの“秀勝”という諱になぜこれほどまでにこだわったのか・・・。たしかに、“秀でる”“勝る”、あるいは“勝つ”という二つの漢字が織り込まれている“秀勝”という諱は、大変良い諱ともいえなくもない。しかし、それだけの理由で秀吉がこの諱にこだわっていたとも思えない。想像するに、秀吉は最初の秀勝・・・つまり、天正4年に亡くした愛児・石松丸秀勝のことが諦めきれず、7歳で死んだ石松丸秀勝と歳が近い於次丸を養子として秀勝とし、その於次丸秀勝が18歳前後で死ぬと、同じく18歳前後だった小吉を養子として秀勝を継がせ、ずっと早世した実子・秀勝の姿をみていたのではないだろうか。だとすれば、なんとも切ない秀吉の子煩悩な姿だが、しかし、皮肉なことに、於次丸秀勝にしても小吉秀勝にしても、秀勝という諱を名乗ってから6~7年で死去することになる。それは奇しくも、石松丸秀勝の生涯とほぼ同じ長さだった。

 ドラマでは魅力的な男に描かれているお江の夫・豊臣小吉秀勝だが、実際の彼は、生母・瑞龍院に甘やかされて育ったため、わがままな性格だったともいわれる。於次丸から受け継いだ丹波国の領地は、天正15年(1587年)の「九州征伐」の際の論功行賞で知行の不満を訴えたため秀吉の怒りを買い、所領を没収された。その後、武将の座に返り咲き、やがて甲斐甲府城主となるが、瑞龍院の嘆願で岐阜城主に転封となる。少々、マザコン気味の男だったようだ。そんな小吉秀勝のもとに輿入れしたお江は、きっと秀勝に親離れをしてほしいと願っていたことだろう。

 文禄元年(1592年)3月、秀吉の号令のもと第一次朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、秀勝も8千人の将兵を率いて出陣した。そして、同年9月9日、秀勝は出陣中の唐島(巨済島)で死去した。享年24歳。死因は戦病死とだけ伝えられている。前後して、お江は秀勝との間の子どもを生んだ。お江と秀勝がどんな夫婦関係だったかはわからないが、どうあれ、お江にとっては初めての出産で、しかもこのとき19歳。夫・秀勝の死を伝え聞いて、嘆き悲しんだことだろう。生まれた子は女児で、完子と名付けられた。お江は、19歳にして2度目の結婚に終止符を打つことになる。今風にいえば、19歳にしてバツ2となった。

 余談だが、後年、豊臣秀頼と側室の間に生まれた長男・豊臣国松は、大坂の陣関係の軍記類には“秀勝”という諱で登場する。秀吉が3人の実子、養子に名付けた“秀勝”という諱は、孫に当たる国松にも名付けられたのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-11 19:10 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第14話「離縁せよ」

 お江佐治一成のもとへ輿入れした天正12年(1584年)、一成の主君である織田信雄徳川家康と同盟し、東海各地で羽柴秀吉軍と対峙した。この1年前の秀吉と柴田勝家が対峙した賤ヶ岳の戦いの際には、実弟・神戸信孝(織田信孝)との後継者争いもあって秀吉方に属していた信勝だったが、勝家、信孝の死後、日増しに勢力を強め始めた秀吉に不満を抱いていた。そこで信勝は、秀吉に通じていたと疑いのある重臣、津川義冬岡田重孝浅井長時を殺害し、父・織田信長と同盟関係にあった実力者、徳川家康に応援を頼む。同じく秀吉の台頭を快く思っていなかった家康は、信勝の応援要請で秀吉を叩く大義名分を得ることができ、これを好機とばかりに兵を挙げた。後年、小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの戦は、こうして火蓋が切られる。

 秀吉軍10万、信雄・家康軍1万5千といわれるこの戦は、数の上では圧倒的有利に思えた秀吉方だったが、思わぬ苦戦を強いられることになる。家康・信雄軍は秀吉包囲戦を展開し、3月15日には尾張の小牧山に本陣を構え、17日には羽黒に陣していた森長可を撃破した。これに対し大坂を出陣した秀吉軍は、29日に楽田に本陣を置き対峙した。羽黒で敗北した長可と池田恒興は、家康を小牧に釘付けにして三河を攻撃する後方攪乱を秀吉に提議し、秀吉の甥である羽柴秀次を大将として侵入した。しかし、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において家康軍の奇襲を受けて惨敗し、長可・恒興をはじめ2500の兵を失い、命からがら敗走する。戦は家康方の完勝に終わった。このため秀次は、秀吉から激しい叱責を受けたという。

 その後、秀吉軍は撤退し、6月には家康も清洲に戻った。予想外の敗北を喫した秀吉だったが、ここからが秀吉の本領発揮。信雄をあの手この手で懐柔し、家康に無断で信雄との単独講和に成功する。家康にしてみれば、自分に断りなく信雄が単独講和してしまったため、戦うための大義名分を失ってしまった。やむなく、11月に浜松城に引き揚げようとするが、知多半島大野川で渡し船が見当たらずに困窮してしまった。このとき、この辺りの領主である、お江の夫・佐治一成が渡し船を用意し、家康の引き揚げに協力したという。水軍を指揮下に置く一成としては、渡し船の用意などわけないことで、しかも、家康が主君・信雄の同盟者であったことを思えば、一成の行為は至極当たり前のことだった。

 しかし、これを知った秀吉は、一成が家康に便宜をはかった点を自身に対する背信行為とみなした。すぐさま、「長姉のお茶々が病気のため、見舞いに来るように」との偽手紙を送ってお江を上方へ呼び寄せ、彼女が上方へ着くや否や結婚したばかりの二人の仲を引き裂き、一成を大野城から退去させた。お江と一成の結婚生活は、一年にも満たなかったのである。16歳の一成と12歳のお江の夫婦関係が、はたして名実ともに夫婦になり得ていたかは知る由もないが、お江にとってこの結婚は、秀吉の都合に始まり秀吉の都合で終わった、あまりにも短い結婚生活。ドラマのように、秀吉に直接怒りをぶつけたかどうかはわからないが、大きな心の傷になったことは間違いないだろう。

 上記のエピソードから想定すると、お江が呼び戻されたのは天正12年(1584年)の暮れと考えられるが、他の説としては、この5年後の淀殿(お茶々)妊娠した天正17年(1589年)とする説や、秀吉が別の理由で二人の仲を裂いたとする説もあるらしい。5年後の説では、お江は一成との間に二人の娘をもうけ、お江が離縁となった後、一人は悲嘆のあまりに入水し、もう一人は盲目となって出家し、京都の嵯峨野に庵を結んで暮らしたといわれる。また、お江との仲を裂かれた一成は、秀吉の仕打ちに憤り、武将の座を捨てて僧侶になったという説や、あるいは憤りの余り切腹して果てたといった説もあるようだが、これらの話は秀吉の妹・朝日姫の夫だった副田甚兵衛の行動と混同されてできた説とみるのが正しいようである。

 実際の一成は、伊勢安濃津城主の織田信包に仕えて5千石を知行し、家老として活躍したことがわかっている。慶長3年(1598年)に信包が丹波柏原城主に転封となった際にも一成は従い、寛永11年(1634年)に66歳で病没した。54歳で江が死去した8年後のことである。幼いながら、ほんの一瞬でも夫婦だったお江と一成。のちに徳川将軍御台所となったお江を、丹波の田舎侍となった一成はどのような思いで見ていたのだろうか。それは、今となっては知る術はない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-18 03:00 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第13話「花嫁の決意」

 天正12年(1584年)、12歳となったお江は、羽柴秀吉の命により尾張大野城主の佐治一成のもとへ輿入れする。一成はお江より4歳年上で、このとき16歳。父は佐治信方、母は織田信長の妹・お犬の方で、彼女はお江の母であるお市の方の妹(異説あり)でもあることから、一成とお江は従兄妹という間柄にあたる。当時、一成は尾張清洲城主の織田信雄(信長の次男)の家臣で、領地も5万石ほどしかなかったものの、佐治家は代々の当主が知多半島の水軍を支配下に置く家柄でもあった。また、佐治家が近江甲賀出身で、甲賀忍者の系譜に属するとする説もあるらしい。そういった関係もあってか、生前の織田信長は佐治家を重要視し、妹のお犬の方を佐治信方に嫁がせていたという。

 一成の父、信方は、これより10年ほど前に信長の嫡男・織田信忠に従って、伊勢長島攻め(長島一向一揆)に加わり、討死している。その後、母・お犬の方は織田家に引き取られ、改めて細川昭元(細川信良)のもとへ嫁がされており、一成は幼くして家督を相続し当主となるものの、父を失い、母とも引き離され、孤独な少年時代を過ごした。幼くして両親を失ったという意味では、お江とは似たもの同士だったわけである。

 秀吉が12歳のお江を16歳の一成に嫁がせたのは、一成の主君である信雄を懐柔し、知多半島の水軍を掌中に収めたかったからだと推測されている。一方で、お江を一成に嫁がせたいと提案したのは、信雄側からだったという説もあるらしい。信雄にしてみれば、秀吉の庇護のもとにあるとはいえお江は織田家の血を引く者。お江と一成が夫婦になることによって、織田家と佐治家の関係をより強固なものにしたいという思惑からである。秀吉側はそれを承知で、あわよくば一成の寝返りを期待した同意だったとも。いずれにしても、幼いお江と一成の知る由もないところで、それぞれの政治的な思惑が交差した婚儀だった。

 なぜ三姉妹の中で、お江が最初に嫁がされたかについてはわかっていない。一説には、長女・お茶々を見初めた秀吉が、彼女を側室にするため邪魔な妹たちを先に片付けていった・・・などとも言われるが、であれば、順番からいえば次女のお初が先に嫁がされていたほうが納得がいく。理由は他にあったと考えるほうがいいだろう。12歳といえば、現代でいえば小学6年生。この時代、この歳で嫁ぐというのは特に珍しい話ではないが、母と死に別れて1年足らずで姉たちと別れることは、この上なく心細かったに違いない。ドラマでは、自分の意志で嫁ぐ決意をしたお江だったが、実際には、そこに彼女の意思など存在しなかっただろうから・・・。

 二度の政略結婚の末、37歳という若さでこの世を去ったお市の方の血を引くお江は、はからずも僅か12歳という若さで政略結婚の道具となった。願わくば、これが幸せな結婚となれば救われるのだが、母とは違った形の不幸を背負うことになる。お江と一成の夫婦生活は、ほんの数ヶ月に過ぎなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-11 01:45 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ キャスト

 さて、1月9日より2011年NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が始まります。主役のお江(ごう)は、あの織田信長の妹・お市の娘であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の妹でもあり、さらにはその秀吉と淀殿の間に生まれた嫡男・豊臣秀頼の正室・千姫の実母でもあるという、ミス戦国のような女性。母も姉も娘も波乱の生涯を送っており、彼女も当然例外ではありませんでした。二度の落城により父と母を失った江は、時の権力者たちに人生を翻弄され、三度の結婚を重ねることになります。その三度目で徳川二代将軍・徳川秀忠の正室となった江は、やがて姉・淀と敵味方に分かれて天下を争うことになってしまいます。

 今年もまた毎週、感想やらうんちくを起稿していきたいと思っていますが、昨年の「龍馬伝」ほどの知識はないので、その辺はご了承願います。放送開始に先立って、まずはキャストの紹介から。

***********************************************************************
三姉妹
(江→崇源院)・・・・・・・・・・・上野樹里
(茶々→淀殿)・・・・・・・・・・・宮沢りえ(幼少期:芦田愛菜)
(初→常高院)・・・・・・・・・・・水川あさみ(幼少期:奥田いろは)

浅井家
浅井長政・・・・・・・・・・・・・・・・・時任三郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木保奈美
浅井久政・・・・・・・・・・・・・・・・・寺田農
赤尾清綱・・・・・・・・・・・・・・・・・油井昌由樹
侍女たち
須磨(市の乳母)・・・・・・・・・・・左時枝
ヨシ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮地雅子
サキ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊佐山ひろ子
ウメ(初の乳母)・・・・・・・・・・・・和泉ちぬ

織田家
織田一門
織田信長・・・・・・・・・・・・・・・・・豊川悦司
織田信忠・・・・・・・・・・・・・・・・・谷田歩
織田信雄・・・・・・・・・・・・・・・・・山崎裕太
織田信孝・・・・・・・・・・・・・・・・・金井勇太
織田信包・・・・・・・・・・・・・・・・・小林隆
織田家家臣
佐治一成・・・・・・・・・・・・・・・・・平岳大
柴田勝家・・・・・・・・・・・・・・・・・大地康雄
丹羽長秀・・・・・・・・・・・・・・・・・江達健司
池田恒興・・・・・・・・・・・・・・・・・武田義晴
佐久間盛政・・・・・・・・・・・・・・・山田純大
森蘭丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瀬戸康史
森坊丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・染谷将太
森力丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪本奨悟
佐々成政・・・・・・・・・・・・・・・・・中原裕也
前田利家・・・・・・・・・・・・・・・・・和田啓作

明智家
明智光秀・・・・・・・・・・・・・・・・・市村正親
細川ガラシャ(たま→ガラシャ)・ミムラ
斎藤利三・・・・・・・・・・・・・・・・・神尾佑

細川家
細川忠興・・・・・・・・・・・・・・・・・内倉憲ニ
細川幽斎・・・・・・・・・・・・・・・・・小田豊
清原いと・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田羊

豊臣家
豊臣一門
豊臣秀吉・・・・・・・・・・・・・・・・・岸谷五朗
おね(おね→北政所)・・・・・・・・大竹しのぶ
なか(なか→大政所)・・・・・・・・奈良岡朋子
豊臣秀次・・・・・・・・・・・・・・・・・北村有起哉
豊臣秀長・・・・・・・・・・・・・・・・・袴田吉彦
豊臣家家臣
石田三成・・・・・・・・・・・・・・・・・萩原聖人
黒田官兵衛・・・・・・・・・・・・・・・柴俊夫

京極家
京極高次・・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤工
京極龍子(京極龍子→松の丸殿)・・鈴木砂羽

徳川家
徳川一門
徳川秀忠・・・・・・・・・・・・・・・・・向井理(幼少期:嘉数一星)
徳川家康・・・・・・・・・・・・・・・・・北大路欣也
築山殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麻乃佳世
徳川信康・・・・・・・・・・・・・・・・・木村彰吾
結城秀康・・・・・・・・・・・・・・・・・前田健
徳川家家臣
本多正信・・・・・・・・・・・・・・・・・草刈正雄
本多忠勝・・・・・・・・・・・・・・・・・苅谷俊介
酒井忠次・・・・・・・・・・・・・・・・・桜木健一

その他の武家
足利義昭・・・・・・・・・・・・・・・・・和泉元彌
朝倉義景・・・・・・・・・・・・・・・・・中山仁
武田勝頼・・・・・・・・・・・・・・・・・久松信美

その他
千利休・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石坂浩二
与助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大竹浩一
***********************************************************************

 大河以外のドラマをあまり観ることのない私なので、江役の上野樹里さんのことをあまり知らないのですが、演技力には定評のある女優さんと聞きますから、今から楽しみにしています。姉・淀役は宮沢りえさんですね。淀という女性は、今までたくさんの方が演じてこられた難しい役です。可憐な悲劇のヒロインとして描かれたり、強かな悪女として描かれたり、傲慢でヒステリックな女性に描かれたりと、作品によって様々な姿があります。この度はどのような人物像に描かれるのか楽しみですね。宮沢さんの演技にも期待です。

 織田信長役は豊川悦司さん、豊臣秀吉役は岸谷五朗さん、徳川家康役は北大路欣也さんと、いずれも演技派ぞろいでイメージも申し分ありませんが、北大路さんだけずいぶん年上ですね。実際には三人の中で家康が一番年下なんですが・・・。おそらく家康が一番長く物語に登場するでしょうから、晩年を想定してのキャスティングだと思いますが、若き日の姿を想像すると、信長も秀吉も家康の貫禄に圧倒されそうですね。

 江の三番目の夫、徳川秀忠役は向井理さん。昨年、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」でヒロインの夫・水木しげる役を演じたのは記憶に新しいところですが、今度は大河ドラマのヒロインの夫役となります。偉大な父・家康とは違い、武勇や知略での評価は低く、温厚な人物だったと言われる秀忠。一説には、恐妻家だったともいわれますが、このドラマではどうでしょうね。

 第1話は75分の拡大版だそうです。当日私は新年会で、その次の週も新年会の予定があり、いきなり2週続けてリアルタイムでは観れそうにありませんが、遅れてでも毎週起稿していきますので、今年も宜しくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-06 22:20 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(8)