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龍馬伝 第45話「龍馬の休日」

 前話の「英艦イカルス号事件」に一応の決着を見た坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月18日、芸州藩汽船・震天丸を借用して長崎を出航した。今話で登場した佐々木高行(三四郎)と相談して購入したライフル銃1000挺を土佐に届けるためだった。同月20日、震天丸は下関に寄港する。滞在は2日間、22日には下関を出帆して土佐へ向う。これが、お龍との永訣となった。

 このときより7ヵ月ほど遡った慶応3年(1867年)2月10日、龍馬はお龍を連れて下関を訪れ、豪商・伊藤助太夫の家の一室を借り受け、そこを「自然堂(じねんどう)」と名付け、夫婦の生活の場とした。「自然堂」とは龍馬の号。号とは文人などの雅名のことで、今風に言うとペンネーム。慶応元年(1865年)以来親交があったとされる伊藤助太夫は、このときしばしば龍馬夫妻を歌会へ誘ったと伝えられており、「自然堂」の号はその際に使用していたものと思われるが、現存する龍馬の書簡では、龍馬暗殺の1ヵ月前に陸奥宗光に宛てた手紙で使用されているだけである。
自然堂・・・いかにも自然体なイメージの龍馬らしい号だ。

 龍馬は2月27日から病気になり、「いろは丸事件」が起こる少し前の3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。前年の幕長戦争以降、休む間もなく働き通しだった龍馬にとっては、夫婦水入らずの、ひとときの安らぎの期間だった。

 伊藤家で催された春の歌会で、龍馬が詠んで第2位となった歌。
 「こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶 雪げながらの 春風ぞ吹く」
 そして、お龍の歌。
 「薄墨の 雲と見る間に 筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立」
 楽しい時間だったことが感じられる。この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。龍馬、お龍、三吉・・・このときより約1年前、寺田屋の修羅場で生死を共にしたこの3人が、1年後にこうしてのどかに歌会に参加している姿など、事件当夜にはまさか想像だにしなかっただろう。

 ドラマにあった、龍馬の朝帰りのエピソードもこのときである。ある日、龍馬は稲荷町の遊郭で遊び朝帰りをした。お龍は怒って責め立てた。ピストルを突き付けたかどうかはわからないが・・・。その現場をたまたま訪ねてきた長府藩士・梶山鼎介に目撃されてしまう。よほどバツが悪かったのか、龍馬は三味線を爪弾きながら即興で俚謡を歌った。
 「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
 歌詞に出てくる「猿回し」とは龍馬自身のこと。「たぬき」はお龍。自分の心はいつもお龍にある・・・としながらも、でもたまには遊びたい・・・といった意味の歌で、この歌を聞いてさすがのお龍も破顔して許してくれたという。龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介がその場で貰い、現在は長府博物館にあるそうだ。私も朝帰りした際、ギターを弾いて歌ってみたら、妻は許してくれるだろうか・・・。おそらく逆効果になるに違いない(笑)。この対処法は、薩長同盟と同じく龍馬にしかできない芸当だ(笑)。

 思えば二人が夫婦として一緒に時を過ごしたのは、「寺田屋事件」後の闘病生活から薩摩旅行のときと、この自然堂での1ヵ月半ほどの間だけだった。伊藤家での生活は、龍馬の死後40年も生きたお龍にとって、忘れ難い思い出の地となったことだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-09 01:37 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(0)  

龍馬伝 第38話「霧島の誓い」

 慶応2年(1866年)3月10日、坂本龍馬と新妻・お龍の二人は西郷隆盛らに同行して薩摩の地に降り立った。「日本初の新婚旅行」といわれる旅である。この新婚旅行のいわれは、明治16年刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の中で、「ホネー、ムーン」と紹介されたことによるもののようだが、本来の目的は、寺田屋事件で受けた手傷の湯治と、同事件でより厳しくなった幕府の監視から身を隠すため、と考えるのが正しいようだ。

 この旅の日程や詳細は、龍馬が姉・乙女に宛てた手紙や、龍馬自筆の手帳に書き残されており、こと細かな足取りが追跡できる。3月10日鹿児島着。鹿児島より海路、浜ノ市港に入り、日当山温泉に一泊。17日より塩浸温泉に11連泊。霧島に向かい、硫黄谷温泉にて小松帯刀と面談し1泊。29日、霧島山に登り霧島神社で1泊。30日、硫黄谷温泉に戻り1連泊。その後また塩浸温泉で連泊して4月11日鹿児島に帰着。特に長く滞在した塩浸温泉でのひとときは、龍馬にとってまさに心洗われる時間だったようで、
「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにてうおをつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり」
と、乙女に宛てた手紙の中で、子どもが親に語るように無邪気に伝えている。

 霧島山高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾」を引き抜いたという有名なエピソード。ドラマでは、龍馬の決意の行動という、えらく大袈裟な設定になっていたが、実際には龍馬とお龍のお茶目な「いたずら」だったようだ。乙女に宛てた手紙では、
「是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ其顔がつくり付てある、からかね也。やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。」
と述べ、さらに、
「此サカホコハ、少シうごかして見たれバよくうごくものから、又あまりニも両方へはなが高く候まゝ、両人が両方より、はなおさへて、エイヤと引ぬき候得バ、わづか四五尺計のもの二て候間、又々本の通りおさめたり。からかねにてこしらへたものなり。」
とある。つまり、神の逆鉾といっても簡単にひっこ抜ける、まやかしものだと言っているに等しい。

 この「天の逆鉾」は、天照大御神の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が突き立てたという伝説のもので、「神のましますしるし」だった。その逆鉾をいたずらで引き抜く行為など、龍馬の盟友・武市半平太を代表とする、皇国観念に酔った志士たちすべてにとって、とてもできることではなかっただろう。この行動から見ても、龍馬がこの当時のいわゆる尊王の志士たちと違う考えを持っていたことがわかる。龍馬は何かのシンボルに頼ることなく、常に現実主義で、自分の力のみを信じていた男だったのだろう。 「信仰」はもちろん「倫理」にも「道徳」にも彼はしばられなかった。そんな龍馬の人間像がうかがえるエピソードである。

 龍馬が薩摩に滞在したのは88日間。この旅に出る前、京の薩摩藩邸で療養していた期間を合わせれば、寺田屋事件から約5ヵ月近くもの間、世の流れから距離を置くこととなった。念願の薩長同盟を締結させ、これから・・・というときのこの療養期間は、龍馬にとっては歯がゆい日々だったに違いない。加えてこの間の5月2日、長州からの兵糧米を薩摩に廻送するユニオン号に同行した、亀山社中唯一の持船・ワイルウェフ号が暴風のため沈没し、同志・池内蔵太黒木小太郎ほか水夫10名が水死するという事故が起こった。自由の利かない自身の身体に加えて、船と同志を一度に失い、この時期の龍馬はやりきれない思いだっただろう。6月、龍馬はユニオン号から名をあらためた桜島丸(乙丑丸)に乗って鹿児島を発ち馬関に向かったが、その際ワイルウェフ号の沈没地点に近い五島にまわり、碑を建てて弔ったという。

 次週から第4部。いよいよ時勢は「倒幕」へと進んでいく。そして龍馬と岩崎弥太郎が深く関わることになるのも、これからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-21 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(2)  

龍馬伝 第37話「龍馬の妻」

 寺田屋で幕府捕方に襲われ、絶体絶命のピンチをからくも逃げのびた坂本龍馬三吉慎蔵は、伏見薩摩屋敷に庇護された。このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したという。そしておそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を明示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、薩摩藩士・吉井幸輔に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせた。さらに龍馬の負傷を聞いて、藩医・木原泰雲も同行させた。このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」に書いている。

 伏見薩摩屋敷に1週間ほど匿われた龍馬たちだったが、奉行所の監視が執拗なこと、伏見では十分な医療が受けられないという理由から、2月1日、京の薩摩藩邸に移った。その際、既に事件直後から警備にあたっていた一個小隊に加え、更にもう一個小隊、そして大砲まで用意された。もはやそれは一種の軍事行動だった。たかが一介の脱藩浪士を京に護送するのに、日本最強の英国式歩兵隊と大砲が動くのである。「薩長同盟」成立直後のこの時期、いかに西郷が坂本龍馬という人間の価値を認めていたががうかがえる。龍馬、三吉、お龍を乗せた三艇の籠を中心に、前衛に一個小隊、後衛に一個小隊と大砲が進んだ。これでは奉行所も見廻組も手の出しようがなかった。

 第36話「寺田屋騒動」の稿で紹介した龍馬の手紙に、「私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。」とあるように、龍馬の傷は思った以上に深かったようで、しばらくは床に伏した生活だった。そのとき龍馬を献身的に看病したのが、お龍だった。医師の父・楢崎将作のもとに育ったお龍は病人や怪我人の看護は馴れていたかもしれない。寺田屋事件の際も、お龍の機転のきいた行動で九死に一生を得た龍馬。そのときのことを龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙に、「正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女がおれバこそ龍馬の命ハたすかりたり」と書いているが、その後も龍馬はお龍の看病を受ける日々を過ごすこととなり、事件後もお龍は龍馬にとって命の恩人となった。おそらくはこのとき、龍馬はお龍を妻とする決意をしたのだろう。

 男にとって、病に伏したときほど心細くなるときはない。健康時、仕事に情熱を燃やしていた男ならなおさらだ。そんなとき、自分の手となり足となって看護してくれる女性が傍にいれば、これはもう、惚れないでいるほうが難しい。私も数年前、入院した経験があるが、そのときの担当の看護婦さんが天使に見えた(ちょっと意味合いが違うかな・・・笑)。幕吏に追われ、いつ命を落とすかもしれない身となったこの時期の龍馬が、妻を娶る気になるということ自体が不思議とも思えるが、病に伏し気弱になった龍馬が、命の恩人でありなおも看病をしてくれているお龍に、ずっと傍にいてほしいと思ったのも無理はないだろう。龍馬とお龍は、西郷隆盛、小松帯刀の立ち会いのもと祝言をあげ、正式に夫婦となった。

 長崎の亀山社中に立ち寄ったのはドラマオリジナルのフィクション。龍馬とお龍は西郷のすすめもあって、幕吏の捜査からしばらく身を隠すため、湯治を兼ねた薩摩旅行に向かう。世にいう「日本初の新婚旅行」である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-13 02:18 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(8)  

龍馬伝 第36話「寺田屋騒動」

 慶応2年(1866年)1月22日に「薩長同盟」を締結させた坂本龍馬は、翌23日夜、この時期龍馬の護衛として行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵の待つ伏見寺田屋へと帰着した。そしてその夜、伏見奉行所配下の捕方らに襲撃されるという、いわゆる「寺田屋事件」が起こる。この事件については、以前、寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。の稿でも紹介した、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」などに詳しいが、しかし事件当日の様子においてもっとも詳細な資料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはないだろう。描写が実に細やかで面白く、今話は私の駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章を紹介することにしたい。

上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、
「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」
と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、
「何者なるや」
と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。
早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より
「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」
と申したれば、敵人口々に
「上意なるぞ。坐れ々々」
と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。
其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。
此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に
「筒は捨てたぞ」
と云えば、三吉曰く
「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く
「此間に引取り申さん」
と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。
夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。
此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


 まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれる。九死に一生を得るという大事件にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられる。負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになる。近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだった悲壮感は微塵にも感じられない。龍馬ならではの文章だ。

 龍馬の指の傷は動脈まで達しており、出血が止まらず走れなくなった龍馬は、材木屋の棚の上に身を潜めた。龍馬の手紙には書かれていないが、「三吉慎蔵日記抄録」の中に書かれているもので私の大好きなエピソードがある。材木屋の棚の上に隠れていた際、もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言する。しかしそれを聞いた龍馬は、
「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」
 現代語に直すと、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」ということ。生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば体の動く限り生きることを考えろという。この龍馬の言葉が、彼をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年まで生かすことになる。龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないが、三吉にとっても龍馬は命の恩人といえるだろう。

 そしてもう一人の命の恩人、お龍。彼女が捕方の来襲を龍馬たちに伝えるシーンは、多くの男性視聴者の期待どおり・・・とはいかなかった(笑)。入浴中だったお龍が一糸まとわぬ姿で階段をかけ上がり、その報告を受けた二人は襲撃に備えることが出来たという有名なエピソードだが、この「一糸まとわぬ」というのは実際のところはわからないようだ。明治32年のお龍自身の回想録「千里駒後日譚」では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、当ブログで度々紹介している坂崎紫瀾著の「汗血千里駒」では、浴衣をうちかけたとある。しかし、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録「毛利家乗抄録」では、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるが、同じく三吉の日記「三吉慎蔵日記抄録」には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていない。ドラマでのお龍の姿は、彼女自身の談話の姿を採用したものだろう。

 兎にも角にも、龍馬は絶体絶命のピンチを脱し、九死に一生を得た。そしてこの修羅場をきっかけに、お龍と龍馬の関係が一層深まったことはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-06 03:07 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(5)  

龍馬伝 第25話「寺田屋の母」

 伏見寺田屋は、代々、京阪往復舟客取扱いと旅宿業を営む船宿。女将のお登勢は18歳で寺田屋六代目伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけるが、夫が病弱だったため、寺田屋の家事一切を取り仕切っていた。女将としての手腕に長け、いたって評判が良かったそうだ。この寺田屋では、文久2年(1862年)4月23日に薩摩藩士同士で起こした内訌事件があって以後、毎月の命日に薩摩藩邸の人々を招き、殉難者の弔祭を行い続けたという。その行いによって寺田屋は薩摩藩との関係が一層深まり、格別の信頼をおかれていたという。

 坂本龍馬がこの寺田屋に出入りし始めたのは、薩摩藩の紹介によってという見方が強いようだ。慶応元年(1865年)9月の姉・乙女に宛てた手紙に「伏見ニておやしき(薩摩藩邸のこと)のそばニ宝来橋と申へんに船宿ニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申すものあり、これハはたごやニて候」と紹介している。お登勢は、寺田屋を定宿にしていた龍馬を大そう手厚く接待していたようで、後にお登勢の息子・七代目伊助が「亡母ヲ座敷ニ呼ビ何事カ密ニ談ゼラレ」と語っており、龍馬がお登勢に親密に心を許していたことがうかがえる。先に紹介した乙女宛ての手紙にも、「ちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふなこゝろもちニており候」と、龍馬の一番上の姉・千鶴の嫁ぎ先の高松家での快適さにたとえ、「あちら(高松家)よりもおゝいにかわいがりくれ候」と紹介しており、よほど懇意な関係だったことを知ることができる。

 また、慶応2年(1866年)に兄・権平に宛てた手紙ではお登勢のことを、「学文も十人並の男子程の事ハいたし居り候もの」と評価している。面倒見がよく、学問もそなえ、情に厚いお登勢の存在は、龍馬にとってまさに「寺田屋の母」といってもよく、常識に少し欠けた面を持つお龍を託すのにこれほど安心できる人物と場所はなかっただろう。禁門の変(蛤御門の変)で焼け野原となった京の町に龍馬が入ったのは、事変から10日ほどが過ぎた8月1日。お龍の身の危険を案じた彼は、母を杉坂の尼寺へ、妹を海舟のもとへ、弟たちは金蔵寺へとあずけ、お龍を寺田屋にあずけた。突然見ず知らずの娘の擁護を託されたお登勢だが、それも快く引き受け、お龍の眉を剃って人妻風にしたて、名もお春と変えさせてかくまったという。何故そこまで龍馬はお龍家族の世話を焼いたのか。既にこの頃の龍馬は、お龍に対して特別な感情を抱いていたのかもしれない。その特別な女性を託したお登勢の存在というのは、この時期の龍馬にとってもっとも信頼できる人物だったのだろうと想像する。

 お龍の寺田屋での生活は半年余りに過ぎなかったが、龍馬は終生お登勢を信頼し、以後、土佐の坂本家からの送金や手紙はすべてこの寺田屋を窓口としており、また、お登勢自身にも手紙を送り続けている。まさに母のような存在だったのだろう。

 今話で閉鎖になった神戸海軍操練所の史跡巡りを先日しました。よければ一読ください。
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その1
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その2
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その3
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その4


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-21 00:24 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(0)  

龍馬伝 第22話「龍という女」

 坂本龍馬と後に妻となる、お龍こと楢崎龍との出会いについては正確なことはわかっていないが、元治元年(1864年)の4月から5月にかけてと考えられているらしい。その出会いのきっかけは、小説などでは寺田屋であったり火事場であったりするが、もっとも通説とされているのは、京都の東山区付近に龍馬たち脱藩志士の隠れ家があり、そこでお龍の母・貞が賄いをしていて、同じく近くの宿場で賄いをしていたお龍が度々そこへ通ってきており、父が死に困窮して暮らしているお龍の身の上に同情した龍馬が、何かと世話をするようになったという説。龍馬が姉・乙女に初めてお龍のことを紹介した手紙を送ったのは翌年の慶応元年(1865年)の9月であることから、出会いは伏見寺田屋と結び付けられて語られることが多いが、それは龍馬にとって姉に紹介したい存在になったのがその時期だったというだけのことだろう。

 話はそれるが、伏見寺田屋の話が出てきたので余談を述べると、小説「竜馬がゆく」などでは、龍馬がかなり若い時期から寺田屋に出入りしており、そのせいか本ドラマではまだ出てこない寺田屋の設定を批判する声が聞かれるが、実際にまだこの時期には龍馬が寺田屋に出入りしていた記録はなく、寺田屋は薩摩藩の定宿であったことから考えて、龍馬が寺田屋と縁が出来たのは慶応元年ごろ、つまり龍馬が薩摩藩の庇護を受け始めたころと考えられているようだ。

 話を戻す。明治32年にお龍自身が語った談話によると、
 「京都に大仏騒動といふのがありました。あの大和の天誅組の方々も大分おりましたが、幕府の嫌疑を避けるために、龍馬といっしょに大仏へかくれてをつたのです。ところが浪人ばかりの寄り合ひで、飯たきから縫い張りのことなど何分手が届かぬから、一人気のきいた女を雇ひたいといふので、ここにいろゝ話があって、私の母が行くことになりました。
 この時分に、大仏の和尚の媒介で、龍馬と私が縁組みしたのですが、大仏でいつしよにをるわけにはいきません。そこで私は七条の扇岩(おうぎいわ)といふ宿屋へ手伝ふかたゞ預けられてをりました。」

 と、語っている。ドラマでお龍が働いていた宿屋は、この扇岩という宿屋の設定だろう。龍馬はたびたびこの扇岩を訪ねていたという。新撰組が誕生し、浪士狩りがますます厳しくなっていたこの時期、身の危険も顧みず彼が京の町に潜入していたのは、政治活動だけではなく、お龍の魅力も手伝ってのことだったのではないだろうか・・・。

 お龍の妹が遊郭に売られたというエピソード。龍馬が借金の肩代わりをしたという話はドラマのオリジナルだが、妹を取り戻しに行ったというのは本当の話で、着物などを売り旅費を工面して単身大坂にのりこみ、死ぬ覚悟で懐に合口(短刀)を忍ばせ悪党相手に大喧嘩をしたという。悪党が腕をまくり刺青を見せて脅しても怯むことなく、逆に飛びかかって胸ぐらをつかんみ顔を殴りつけた・・・と、龍馬は姉・乙女宛ての手紙でこと細かに描写している。お龍という女性の気性の強さがうかがえるエピソードだ。私などは、到底ご遠慮させていただきたいタイプの女性だ。

 そんなお龍だが龍馬にとってはとても魅力的な女性だったようで、「まことにみょうな女」または「まことにおもしろき女」であったらしい。龍馬のまわりの女性を見ると、初恋の相手とされる平井加尾がどのような女性だったかはわからないが、「坂本のお仁王様」と言われた姉・乙女や「千葉の鬼小町」と呼ばれた千葉佐那など、気の強い女性に惹かれる傾向にあるようだ。

 後に龍馬と深く関わることとなる土佐藩士・佐々木高行は、お龍のことを日記にこう記している。
 「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。
 善悪ともに兼ぬるように思われたり。」

 お龍は、龍馬のまわりの者たちにはあまり良く思われていなかったらしい。

 作家・司馬遼太郎氏は、小説「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「おりょうの面白さは龍馬の中にしか棲んでいない。」


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-31 01:27 | 龍馬伝 | Trackback(8) | Comments(4)  

「龍馬伝」キャスト発表!

2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のキャストが発表された。
既に発表されていた5人に加えて、改めて下記のとおり。

■7月15日発表
坂本龍馬・・・・・・・・・・・福山雅治
坂本乙女・・・・・・・・・・・寺島しのぶ
坂本八平・・・・・・・・・・・児玉 清
坂本権平・・・・・・・・・・・杉本哲太
坂本伊與・・・・・・・・・・・松原智恵子
坂本千野・・・・・・・・・・・島崎和歌子
岩崎弥太郎・・・・・・・・・香川照之
岩崎弥次郎・・・・・・・・・蟹江敬三
武市半平太・・・・・・・・・大森南朋
武市 冨・・・・・・・・・・・奥貫薫
平井加尾・・・・・・・・・・・広末涼子
平井収二郎・・・・・・・・・宮迫博之
近藤長次郎・・・・・・・・・大泉洋
岡田以蔵・・・・・・・・・・・佐藤健
沢村惣之丞・・・・・・・・・要潤
溝渕広之丞・・・・・・・・・ピエール瀧
楢崎 龍・・・・・・・・・・・真木よう子
千葉佐那・・・・・・・・・・・貫地谷しほり
千葉定吉・・・・・・・・・・・里見浩太朗
千葉重太郎・・・・・・・・・渡辺いっけい
勝 海舟・・・・・・・・・・・武田鉄矢
西郷隆盛・・・・・・・・・・・高橋克実

■9月1日追記
坂本 幸・・・・・・・・・・・草刈民代 ※龍馬の生母
坂本龍馬(子役)・・・・・濱田龍臣
坂本乙女(子役)・・・・・土屋太鳳
岩崎弥太郎(子役)・・・渡邉甚平

■9月9日追記
岩崎美和・・・・・・・・・・倍賞美津子 ※弥太郎の母
岩崎さき(子役)・・・・・・野口真緒 ※弥太郎の妹
岩崎弥之助(子役)・・・須田直樹 ※弥太郎の弟


NHKオンライン記事

注目のお龍さんは、真木ようこさん。気の強そうなイメージなので私としてはGoodな印象。寺田屋のあのシーンがちょっと楽しみ。(スケベオヤジの素直な感想です。)
物語前半のヒロインは平井加尾役の広末涼子さん。中盤は千葉佐那役の貫地谷しほりさん。そして後半はお龍さん役の真木よう子さんと、ヒロインがバトンタッチしていく龍馬の物語。3人ともハマリ役だと思います。
坂本龍馬の物語といえば不可欠なのは武市半平太。今回は大森南朋さんということだが、私は役者さんにはあまり詳しくなく、正直言ってこの方を知らない。(好きな方には申し訳ありません。)
今回の「龍馬伝」は岩崎弥太郎と坂本龍馬の両主役ということで、半平太はあまり重要な役どころではないのだろうか?その他、まだ発表されていない他藩の志士や海援隊の隊員たちのキャスティングも気になるところ。いずれにしても、今から楽しみでならない。


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以下、記事本文引用
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大河「龍馬伝」“モテ男”福山にヒロイン4人
 来年放送されるNHK大河ドラマ「龍馬伝」(日曜後8・00)の、ヒロインなど主要キャストが14日、正式発表された。福山雅治(40)が主演する龍馬の初恋の人を広末涼子(28)、江戸で出会う美人剣士を貫地谷しほり(23)、妻お龍は真木よう子(26)。長崎の芸妓(げいぎ)で、深い関係となるお元役は今後発表される。
 一夫多妻制だった戦国時代の物語でも、主人公の純愛を描くことが多かった大河ドラマ。龍馬伝にはヒロインが4人登場する。
 妻役の真木は今年5月に女児を出産したばかり。鈴木圭チーフプロデューサーは起用理由を「出産した後に会ったが、素晴らしい雰囲気になっていた。未知な神秘性のある役にピッタリと思った」と説明。来年4~5月の中盤で登場予定で、本人も「実在した女性であるとともに、その存在の大きさに、今は不安や緊張はありますが、私なりのお龍を演じられれば」と意欲を見せている。
 初恋相手を演じる広末も1児のママ。貫地谷も年齢よりしっかりしたイメージがある。NHKはお龍役で、真木とは別の、ママになったばかりの女優にもオファーしており、意識して福山・龍馬の周りを“しっかり者”で固める。
 鈴木氏が「金持ちのボンボンで女の子も好きな等身大の龍馬の成長物語を描きたい」と説明しているように、福山・龍馬は従来のヒーロー像より、女性に勝てない現代の男性像に近そうだ。
 07年の大河「風林火山」で主人公の初恋の人を演じた貫地谷は「前回はオリジナルキャラだったのに対し、今回は実在の人物ということで皆さんの期待を裏切らないように精いっぱい頑張りたいと思います」と話している。
 また、福山の「自分は役者ではなく歌手。自分を支えてくれ、刺激してくれるような方を」という要望もあり、脇は実力派で固められた。ドラマの中心となる三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎役は香川照之(43)。「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵役はイケメン俳優で人気上昇中の佐藤健(20)、近藤長次郎役は大泉洋(36)で、いずれもNHKドラマは初出演。クランクインは8月末の予定。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090714-00000025-maiall-ent

by sakanoueno-kumo | 2009-07-15 17:25 | 龍馬伝 | Trackback | Comments(2)