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花燃ゆ 第44話「運命の糸つなげて」 ~学制発布と幕末明治の教育事情~

 今回は明治初期の教育事情についてお話します。明治5年(1872年)8月2日、明治政府はわが国最初の近代的学校制度を定めた学制を発布します。その内容は、全国を8つの大学区に分け、その8つの大学区を32の中学区に分けて256の中学校を置き、さらにその中学区を210の小学区にわけて、53,760の小学校を置き、そしてその小学校を義務教育にしようというもの。その後、区分けの数字は修正されますが、こんにちのわたしたちの社会に繋がる教育制度の礎が、このときに築かれます。

 それ以前の日本の教育制度は、武士階級の公的教育機関としてそれぞれの藩単位で「藩校」が置かれ、儒学を中心とした教育が行われていました。本ドラマでいえば、小田村伊之助と名乗っていた頃の楫取素彦が教官を務めていた「明倫館」が、それにあたります。また、有能な学者が私費で開いた私塾も数多くありました。吉田松陰松下村塾がそうですね。松蔭の塾では主に儒学が中心でしたが、ほかにも、西洋医学としてはシーボルト鳴滝塾蘭学としては緒方洪庵適塾などが有名です。これらの私塾からは、多くの人材が輩出されています。

 さらに、庶民の子どもたちの学び舎としては、僧侶や浪人らが読み書きそろばんを教えた「寺子屋」があり、その数は日本全国で15,000ほどあったとも言われます。就学率5割近くあったと言われ、江戸だけでみれば、7~8割の就学率があったといわれます。また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の就学数が多かったという記録もあるそうです。日本人というのは、元来、勉強熱心、教育熱心だったんですね。

 そんなわけで、幕末の識字率は武士階級がほぼ100%、庶民層でも、男子は約50%、女子も20%が読み書きができたといわれます。この数字は、世界的に見ても驚異的な高水準だったそうで、当時、多くの外国人が、日本人の識字率の高さに驚愕し、記録を残しています。黒船で日本の鎖国を開いたマシュー・ペリー提督も、自身の手記『日本遠征記』のなかで、「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と記述しており、日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の読書好きと識字率の高さに驚いたと語っています。当時、世界一の大国といわれたイギリスですら、国民の識字率は20%程度だったそうですから、さぞ驚いたことでしょうね。一説には、この日本人の教養の高さを見て、日本の植民地化は不可能と考え至ったともいわれます。

 しかしながら、それぞれの藩単位での教育でしたから、カリキュラムもバラバラで、標準語も存在しませんでした。それを一元化し、士族も町人も農民も同じテキストで一緒に勉強しようというのが、明治5年の学制発布でした。もともと学校というものには馴染みのあった国民ですから、これほどいい法制度はない・・・と思いきや、この法令が発布されるや否や、庶民層から猛烈な反対運動が起こります。その理由はいくつかありますが、いちばんの理由は、授業料を徴収されたことでした。寺子屋にも授業料に相当するものはあったようですが、その額は一定ではなく、その家の格や財力によって払える額を払っていました。しかし、新しく設立された小学校は、事情に関係なく授業料を義務付けられます。当時、地租改正などで重税を強いられていた下級層にしてみれば、このうえ授業料をとられるなどたまったものじゃなかったでしょう。

 また、ちょうど同じ頃に、国民皆兵を掲げた徴兵令が発令され、そのことと重ねあわせて、小学校は徴兵のための教育を施すところだという誤解が広がり(まあ、後年の大日本帝国教育をみれば、あながち誤解とも言えませんが)、各地で「小学校反対」「徴兵反対」「太陽暦反対」をスローガンに一揆が起こります。ひどいところでは、学校焼き討ち事件まで発生しました。楫取素彦が群馬県令として教育改革に臨んでいたのは、そんな学制の揺籃期だったわけです。

 そんなこんなで、当初の小学校就学率は、寺子屋の就学率にも及ばない30%程度でしたが、その後、学制は教育令、学校令と内容が改善されていき、明治33年(1900年)に義務教育の授業料廃止によって就学率は90%を超えるようになります。もともと勉強好きな国民でしたから、法整備さえ成されれば、受け入れるのにそう時間はかからなかったわけですね。いずれにせよ、世界一の識字率と勉強熱心な国民性が、明治維新後の急激な近代化を可能にした最大の原因であることは確かでしょう。その子孫として、誇るべき歴史ですね。現代にもその精神は残っているかな?


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-03 14:17 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第4話「生きてつかあさい」 ~黒船密航未遂事件~

  嘉永6年(1853年)6月3日、江戸湾浦賀沖に軍監4隻を率いて来航したアメリカのペリー提督は、翌年の安政元年(1854年)1月18日、今度は江戸湾品川沖に軍監7隻を率いて現れます。目的はいうまでもなく、前年に訪れた際の開国要求の回答を求めにきたわけですが、当初は1年の猶予を与えられていたはずが、わずか半年で再来航して決断を迫られたため、幕府は大いに焦ります。そして、約1か月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れ、日米和親条約が締結されます。これにより、200年以上続いた鎖国が解かれます。幕末の動乱の始まりですね。

 長崎でロシア艦隊への乗り込みに失敗して江戸に戻っていた吉田松陰は、今度はペリー艦隊に潜入することを画策します。そして、あるいは生きて帰れないかもしれないと覚悟したからか、親しい間柄の者たちに密航計画を打ち明けます。これを聞いた宮部鼎蔵らは、その無謀さを激しく非難したといいますが、それでも松蔭の決意が揺るがないことを知るや、鼎蔵らは刀や羽織を餞別に贈ったといいます。

 その夜、弟子の金子重輔と合流した松蔭は、師匠の佐久間象山のもとを訪れ、象山の手配した舟で黒船に接近しようと考えますが、依頼された船頭は関わりを恐れ、舟を出してくれません。困った松蔭らは、別の船頭に大金を握らせたりを飲ませたりして頼み込みませが、皆、関わりを恐れていうことを聞いてくれません。そうこうしているうちに、艦隊は伊豆下田に移動してしまいます。慌てた松蔭たちは舟を追っかけるように下田に向かい、結局船頭を口説くことを諦めた二人は、上陸していた黒船艦隊の乗組員に、「自分たちをボートで迎えに来てほしい」と書いた手紙を渡します。しかし、いくら待っても迎えのボートが来るはずはありません。

 しびれを切らした二人は、停めてあった小舟を拝借し、自分たちだけで沖合に停泊する艦隊を目指します。櫓の操作に慣れていなかった二人は、ヘトヘトになりながらもどうにか艦隊の1隻・ミシシッピー号にたどり着きますが、この艦には日本語漢文を理解できる者がおらず、やむを得ず二人は再び小舟に乗り込み、今度は別の艦・ポーハタン号に向かいます。なんとかポーハタン号に舟を漕ぎ寄せた二人でしたが、同艦の水兵は松蔭たちの乗船を拒否。しかし、ここまで来て引き返せない二人は、無理やり同艦の甲板に飛び乗ります。このとき、二人の刀などの荷物をのせた小舟は、流れていってしまいます。

 苦労して乗り込んだ甲斐があり、この艦には日本語の巧みな通訳がいました。松蔭は自分たちを「米国まで連れて行って欲しい」と懇願しますが、通訳はこれを受け入れません。艦隊側にしてみれば、日米和親条約が結ばれたばかりのいま、外交上の問題に発展することを憂慮したのでしょう。当然ですよね。日本では国外に出ることは死罪に値するほどの大罪。この二人の乗船を許可することは、大罪に加担することになるわけで、両国の今後の関係を良好に保つためにも、二人を迎え入れるわけにはいかなかったのでしょう。松蔭らは、「このまま陸に戻れば首をはねられる」といって尚も乗船を懇願しますが、通訳はこれをきっぱり拒否。ふたりはごく短時間で、ボートで陸に送り返されます。このあたりの話は、ペリー艦隊側の記録にも詳細に記されています。

 密航に失敗した二人は、翌日、村役人に自首します。もとより決死の覚悟で臨んだことだったわけで、志を失ったいま、おめおめと江戸には帰れなかったのかもしれません。また、ポーハタン号に乗り込む際、乗っていた小舟が流されてしまったことも、理由のひとつだったかもしれません。舟には二人の刀に加え、佐久間象山から贈られた漢詩などもあったといいます。松蔭は、罪が象山に及ばないように、あくまで自分たちだけで計画したことだと申し述べようとしたのではないか・・・とも考えられています。いずれにせよ、松蔭の実直な人となりがうかがえますね。

 その後、松蔭は獄舎に収監され、数ヶ月に渡る取り調べの末、9月18日に下った判決は、国元での蟄居という軽いものでした。その理由は定かではありませんが、一説には、幕府内には二人を処刑すべきとの声が少なくなかったものの、老中・阿部正弘温情で減刑となったとする説もあります。また、ドラマでは、ペリーが二人の刑罰について寛大な処置を幕府に要請したとありましたが、その話は実話だったようで、ペリー艦隊の記録に、そのことが記されています。あるいは、ペリーの要請を阿部正弘が聞き入れた結果だったのかもしれませんね。この阿部正弘が死ななければ、松蔭のその後もきっと変わっていたでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-26 23:26 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第3話「ついてない男」 ~黒船来航と将及私言~

 脱藩の罪で武士の身分を剥奪された吉田松陰は、実父である杉百合之助のもとで育(はぐくみ)となります。「育」とは、長州藩にある制度で、公式の居候、公式の厄介者といった意味らしく、現代でいうところの保護観察のようなものだとか。つまり、松蔭の身柄を実家にあずけて、再び不始末を仕出かさぬよう監視せよ、ということですね。ただ、もとより松蔭は吉田姓を名乗りながら杉家で暮らしていましたから、禄と扶持を失いはしたものの、生活は以前と変わりありません。加えて、藩士の「育」だから、侍の恰好をしても良いし、他藩の者に自らを「長州藩士」と名乗っても罪にはならないそうで、つまるところ、「たてまえ」の処分だったわけですね。さらに、将来有望な松蔭の才能を腐らせないために、藩主・毛利敬親は百合之助に対して、松蔭の10年間の諸国遊歴願を出すよう命じ、これを許可しています。こうなると、もはや罪人とはいえませんよね。いかに長州藩が松蔭に期待していたかがわかりますが、この過保護ともいえる甘さが、罪に無頓着な松蔭を作ったといえるかもしれません。

 嘉永6年(1853年)正月、諸国遊歴に旅立った松蔭は、讃岐、摂津大坂、大和、伊勢などの各地を訪問しながら東へ向かい、5月24日にいったんは江戸に着いたものの、すぐさま相模鎌倉にいる叔父の竹院に会いに行き、そして再び江戸に戻ったのは6月4日でした。ところが、その前日の6月3日の午後2時頃、驚天動地の事件が発生していました。アメリカのペリー提督率いる軍監4隻の艦隊が、江戸湾浦賀沖に来航したのです。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 突如出現した黒船艦隊を見た当時の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってSNSで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミ手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったといいますから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。

 結局、このときは何も出来ずにただ眺めるだけだった松蔭ですが、この出来事に刺激された彼は、佐久間象山の塾で西洋兵学を懸命に学びます。ペリー艦隊が撤退して間もない頃は、「次にペリーが来たら、刀の切れ味を試してやります」などといった書状をマブダチの宮部鼎蔵に送ったりしていた松蔭でしたが、象山の塾で西洋を学べば学ぶほど、日本に勝ち目がないことを悟らざるを得ませんでした。そして、欧米列強と互角に戦うには、まず敵を知るため海外に留学するしかないと考え至ります。一説には、象山が留学の必要性を松蔭に説き、海外密航計画を持ちかけたとも言われますが、定かではありません。

 ちょうどその頃、ロシアのプチャーチン提督が艦隊を率いて長崎に来航していました。この情報を知った松蔭は、愛弟子の金子重輔とともにプチャーチン艦隊に潜入すべく、長崎に向かいます。しかし、二人が長崎に着く3日前、艦隊は長崎を出港していました。松蔭は九州に入ると、すぐに長崎には行かず、熊本の宮部鼎蔵や横井小楠に会いに行っていました。そのロスタイムが仇となるんですね。寄り道を決行した自身の浅はかさを、大いに悔やんだことでしょう。

 ドラマで騒ぎになっていた意見書は、「将及私言」というタイトルが付けられた上申書で、実際にこの時期の松蔭が藩主に宛てて書いたものです。ドラマでも言っていたように、武士の身分を剥奪された「浪人」が、藩主に意見書を出すなどは、この当時、考えられない僭越沙汰でした。あるいは死罪になるかもしれないほどの畏れ多い行いであるにもかかわらず、このなかで松蔭は、来春のペリー艦隊再来航に備えて、藩内の改革案をかなり具体的に言及しています。また、あるいは国内に革命が起こるかもしれないとも説き、藩としてその備えが必要だと説いています。まだ、倒幕云々といった思想は微塵もなかったこの時期においては、かなり危険な言説だといえるでしょう。そして最後に、「この意見書が上に達せられたならば、どのような厳罰を受けようとも、決して恐れたりはいたしませぬ」と、書いています。「私」を滅して「公」のために尽くす。叔父・玉木文之進の教えは、松蔭のあらゆる行動の源泉だったのでしょうね。

  結局、この意見書は多くの段階を経て、藩主・毛利敬親まで達せられ、松蔭もお咎めなしでした。どこまでも藩はこの過激者に対して寛容でした。これが、長州藩の藩風だったのでしょうか。

 本話のタイトル『ついてない男』は、短期間に父・母・兄を亡くした久坂玄瑞のことですが、のちに松蔭をして「長州第一の俊才」と言わしめた玄瑞も、ペリー来航時は数えで14歳。現代で言えば中学1年生の歳で、歴史の表舞台に登場するには、いま少し時を待たねばなりません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-19 20:58 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」

丹波篠山にある「お菓子の里丹波」を訪れました。

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丹波篠山といえば、なんといってもまず黒豆で、お菓子といわれてもピンとこなかったのですが、訪れてみると、黒豆パン黒豆ソフト黒豆とうふ黒豆茶などの黒豆づくしで、なるほどやっぱり丹波は黒豆でした(笑)。

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施設は、いわゆる観光客用のおみやげ売場レストランがメインですが、敷地内には広大な庭園があって、のんびり散策ができます。
といっても、この日はお盆休み真っ只中でしたから、優雅に庭園散策といった気分には程遠い酷暑の中の散策でしたが(汗汗汗汗)。
ただ、そのなかで目を引いたのが、庭園の一番奥にあった異人館ミオール でした。

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一見、よくあるレトロな洋館ですが、館内にある説明パネルを読んでビックリ。
私の地元である神戸市垂水区にあった旧・垂水警察署の建物でした。

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そういわれてみれば、中の階段など、その昔高校時代に、オイタしてお巡りさんのご厄介になったときに見たロケーションと重なります(笑)。
たしかに、こんな窓がありました。

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もともとこの建物は、川崎重工業の社長だった四本萬二という人物が大正7年(1918年)に建てた邸だったそうで、戦後、神戸市が買い取り、昭和24年(1949年)から昭和61年(1986年)まで、垂水警察署として使用されていました。

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その後、垂水警察移転に際して、歴史的価値のある建築物だから、どこかに移設して展示するという話は聞いていましたが、明治村のような施設に移されたとばかり思っていました。
こんなところに移設されてたんですね。
思いがけない再会でした(笑)。

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あと、庭園内には、嘉永7年(1854年)に建てられたという茅葺きの古民家もあり、そこで和菓子や日本茶を賞味できるサービスが行われていました。

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嘉永7年というと、あのペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀に来航した翌年で、日米和親条約が結ばれた年です。
歴史的価値でいえば、こっちのほうが高いですね。
あと、写真は撮れませんでしたが、安政4年(1857年)に建てられた商家を移築した建物もありました。

そんな感じで、ちょっとタイムスリップしたひとときでした。
庭園内は桜が綺麗だそうですから、今度は春に来てみたいですね。

近日中の「その3」につづく。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-13 22:47 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」 ~黒船来航~

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる艦隊が江戸湾浦賀沖に来航し、200年以上鎖国政策を続けてきた政権・江戸幕府に開国を迫りました。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 「黒船来航」といえば日本にとって突然の出来事だったように思いがちですが、実はその1年前に幕府は、長崎のオランダ商館長・ヤン・ドンケル・クルティウスから黒船来航の詳細な情報を得ていました。時の老中首座・阿部正弘はその情報に接してすぐさま対応策を幕府内に働きかけますが、協議の結果、「オランダ人は信用ならない」という根拠のない理由で一蹴されてしまいます。そして1年後に黒船艦隊が浦賀沖に現れ、幕府内は大慌てになるんですね。「想定外」といって原発事故が発生してから右往左往する現代の政府と似たものを感じます。

 突如出現した黒船艦隊を見た下田の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってツイッターなどで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミか手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったそうですから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。当時の日本人にとっては、進んだ科学力を持った異星人が現れたような恐怖だったのでしょう。その驚きは、予てより西洋文化にあかるかった佐久間象山吉田寅次郎(吉田松陰)とて同じでした。

 黒船という西洋の先進文明を目の当たりにした寅次郎は、その知識を得るため同郷の金子重之輔とともに黒船に乗り込んで密航を試み失敗。その罪によって投獄され、阿部正弘のはたらきかけによって死罪こそ免れたものの、郷里の長州へ檻送され野山獄に幽囚されてしまいます。そして寅次郎の師であった佐久間象山も連座して投獄、さらににその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を命じられます。ドラマ内で勝麟太郎(勝海舟)が言っていたとおり、これから日本にとって最も役に立つであろう二人を、幕府は罪人にしてしまいました。こののち二人が歴史の表舞台で活躍することはついにありませんでしたが、二人の意思を継承した門下たちが、幕末の時代を大いに暴れ回ります。おそらく本ドラマで吉田松陰と佐久間象山の出番はこの先あまりないでしょうが、この二人の知識人が幕末の歴史に残した影響は大きく、この時代の物語を描くにあたって欠かせない人物といえます。

 さて、ドラマの本筋に戻って山本八重。砲術師範の家に生まれた八重は、女子ながらに砲術を学びたいと言います。そんな八重を父・山本権八は鳥撃ちに同行させ、八重の目の前で野鳥を殺生します。
 「弾に急所さ射抜かれたら必ず死ぬ。鳥も獣も人間もだ。鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば人さ撃ち殺す。角場の的撃ちは面白く見えっかもしんねえ。だけんじょ的さ撃ちぬくちゅうことは、すなわち人間の心の臓さ撃ちぬくちゅうことだ。恐れることを知らず、形だけ真似ていては、いつか己の身が鉄砲に滅ぼされる。だから砲術をやる者は学問と技を磨かねばなんねえ。何より立派な武士でなければなんねえ。おなごのお前には到底背負いきれねえ。二度と鉄砲の真似事はするな。」
 あえて残酷な殺生を見せることによって、命の重み、武器を手にする怖さを諭す。これ以上説得力のある教育はないんじゃないでしょうか。

 それにしても、八重の幼少期を演じた子役の鈴木梨央ちゃんは上手かったですね。『天地人』の加藤清史郎くん、『江~姫たちの戦国~』の芦田愛菜ちゃんに続いて、またまたスターになるのでしょうか。今話で出番が終わりなのが残念です。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-14 02:12 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

龍馬伝 第5話「黒船と剣」

 嘉永6年(1853年)6月3日、米国のペリー提督率いる東インド艦隊4艦が江戸湾浦賀沖に来航し、米大統領フィルモアの親書を将軍宛てに呈した。世にいう「黒船来航」である。この瞬間から日本史は一転して幕末の風雲時代に突入する。坂本龍馬19歳のときだった。

 200年以上戦から遠ざかりぬるま湯につかってきた武士たちは、甲冑、刀槍を買うために江戸中の古道具屋に駆け込み、それらの値段が3倍にも上がったという。焔硝も同じで、諸藩とも江戸屋敷では幕府の祖法によって必要以上の鉄砲の玉薬の貯蔵は禁じられていたため、各藩の争奪戦になり値段は瞬く間にはね上がり、ほとんどの店が品切れになったそうである。それでも諸藩の武士たちはまだマシだった。本来江戸を守るべき立場である幕府直参の旗本八万旗はまったく機能しなかった。江戸に駐在する旗本たちは公家のような生活をしており、戦に向かう気構えすらなかった。おまけにどの旗本も家計は厳しく、古道具屋で甲冑や刀槍を買い揃える金さえなかったという。

 龍馬ら土佐藩は、幕命にて藩邸のある品川近辺の警備についた。軽格身分の郷士であり遊学中の書生でもある龍馬は当然雑兵でしかなかった。それでも、この騒動が龍馬に与えた影響は大きかっただろう。ドラマ中にあったように間近で黒船を見たかどうかはわからないが、のちに自らの軍艦を手に入れ、幕末の荒波にのり出す龍馬の原点はここから始まったといっていいかもしれない。

 そしてこのときから「夷狄攘つべし」という、いわゆる「攘夷論」が始まった。後年開国論者になる龍馬もこの時期はまだ若く、すっかり攘夷派になっていたようである。ドラマ中にも出てきた、このとき龍馬が乙女姉に宛てて送った手紙がいまでも残っている。
「異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候。」
 と、勇ましいものである。ドラマでは、この文章は龍馬の本心ではないような設定だったが、おそらくはそうではなく、19歳の時点での龍馬の本心だっただろう。この当時、武士にして攘夷論を持たない者があるとすれば、それは男ではないとさえいえる。無理に後年の龍馬像にラップさせなくても良かったのではないだろうか。それでも、こののち砲術の必要性を感じたのか、佐久間象山の塾へ入門していることからも、剣術というものに疑問を感じたのは本当かもしれない。

 乙女姉の言葉。
 「世の中を知るいうことは、みんなと同じような人間になることではないがぞね龍馬。おまんらしい生き方を探しなさい。それを見つけてこそ、自分が何を成し遂げるために生まれてきたがか見つかるがじゃ。」
 なるほど深いですね。世の中を知れば知るほど、既成概念にとらわれて皆と同じような人間になっていくもの。皆と同じでいることで、不安が解消される。そうやって既成概念というものができていき、そこに人々は集い、徒党を組む。それが凡人の姿。このような乙女姉の言葉があったかどうかはわからないが、こののち、みんなと同じような人間にはならなかった龍馬の陰には、みんなと同じような考え方を持たなかった乙女姉に育てられたことが大きく影響していることだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-02-03 00:19 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(4)