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真田丸  第26話「瓜売」 ~文禄の役と瓜畑遊び~

 天正19年(1591年)8月5日に愛児・鶴丸を失った豊臣秀吉は、すぐさま、来春に「唐入り」(朝鮮出兵)を決行することを全国に布告します。世に言う「文禄・慶長の役」の始まりですね。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。秀吉の構想は信長のそれより壮大なもので、のみならず台湾フィリピン、さらにはインド南蛮への進出も視野に入れた「アジア帝国」を夢想していたともいわれます。

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「朝鮮と民を従えて、わしは大王になるぞ!」

 本当に、こんな台詞を言ったかもしれませんね。

 「唐入り」を布告した秀吉は、同じ年の10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事は加藤清正、小西行長らを中心に突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。さらに、その名護屋城の周りには全国の諸大名の陣屋が建ち並び、わずか数ヶ月の間に人口は20万人に膨れ上がり、戦時だけとはいえ大坂に次ぐ大都市となりました。集結した諸大名たちは、秀吉による天下統一の世を、改めて肌で感じたことでしょう。

 年が明けた文禄元年(1592年)4月、豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します。総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家。朝鮮半島に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧。その後も連戦連勝を重ね、わずか20日間で首都の漢城を占領しますが、その快進撃もそこまで。その後、からの援軍が登場し、さらに、海上では朝鮮水軍の前に苦戦を強いられ、戦況は膠着状態に陥ります。

そんななか、秀吉は名護屋城のそばにある瓜畑に諸大名を集め、「瓜畑遊び」なるイベントを催します。「瓜畑遊び」とは、現代でいうところのコスプレパーティ。この話は、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』などの書物に登場するエピソードです。それによると、前田利家高野聖蒲生氏郷茶商人織田有楽斎は旅の老僧、そして堅物の徳川家康までもが、あじか売りを演じて周囲を大いに笑わせました。そして秀吉が演じたのは、今話のタイトルの瓜売り。菅笠に腰蓑姿で籠を担ぎ、「味よしの瓜めせめせ」と、調子に乗せて声を張り上げる姿は、もともと卑賤の出である秀吉らしく堂に入ったものだったと伝わります。

 なぜ、秀吉はこのようなイベントを企画したのか。戦況が膠着状態のなか、中だるみしていた士気を鼓舞する意図だったかもしれませんし、あるいは、ただ単に名護屋城での生活が退屈だっただけかもしれません。まあ、現代でもそうですが、上に立つものがこういった無礼講の席を持つということは、チームワークを高める意味では効果が期待できます。このあたりは「人たらし」と言われた秀吉らしい演出で、数々の悪政を行いながらも、秀吉が後世に愛される理由は、こういった明るさにあるのでしょうね。

このイベントに真田昌幸が参加していたかどうかは定かではなく、もちろん、秀吉と出し物がかぶったという話は、ドラマのオリジナルです。それにしても、「瓜売り」の出し物をめぐって右往左往する様子は笑えましたね。

信繁「えらいことになりました!・・・そしてまずいことに、明らかに父上の方がお上手なのです。」

昌幸「なんたることじゃ!」

且元「これはいかん!太閤殿下に恥をかかせるだけだ。安房守殿、申し訳ないがもっと下手にできませぬか?」

信幸「父上はこの日のために血のにじむような稽古をしてまいりました!」

家康「そんなに安房守の瓜売りはよく出来ておるのか?」

信繁「身内が言うのもなんですが大したものです!なんとか徳川様から太閤殿下に出し物を変えるよう、それとなく勧めてはもらえませぬか?」

家康「力になりたいのはやまやまだが、今更それは申せまい。残念だが、ここは安房守に折れてもらうしかないな。」

信繁「思い切って瓜売り勝負と致しましょう。父上のあとに太閤殿下が演じられると見劣りしますゆえ太閤殿下が先でそのあとに父上が・・・あ~!それもよくないな!う~ん・・・。」

昌幸「もうよい!・・・真田安房守、本日急な病にて参れません。」

盛清「それがよかろう・・・。」

たかが余興ネタの話が、ほとんど政治問題でしたね(笑)。皆の真剣ぶりが滑稽で笑えましたが、考えてみれば、現代でも無礼講の席とはいえ上司やクライアントに花を持たせる気遣いは当然のことで、当人にとってみれば重大問題。くだらない話のようですが、的を射ているといえます。秀吉が企画したイベントですが、参加者たちは、きっと秀吉にいい気分になってもらうよう気を揉んだでしょうからね。

 さて、そんな「瓜畑遊び」の前か後か、ちょうど同じ頃、淀殿の2度目の懐妊が発覚、そして文禄2年(1593年)8月3日、待望の男児が生まれました。名は「拾」。のちの豊臣秀頼ですね。秀吉はこれを機に名護屋城から大坂城に戻り、それが影響してか、明・朝鮮連合軍と戦いは講和に舵が切られはじめます。もともと鶴松死去と共に始まった「唐入り」でしたから、再び男児が生まれたことで、秀吉の大陸に対する情熱は、多少は薄らいだかもしれませんね。ただ、この男児出産の報せでいちばん動揺したのは、前年12月に秀吉から関白職を譲り受けていた甥の豊臣秀次だったであろうことは、想像に難くありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-04 20:43 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その1 ~信長の最期と光秀の動機~

 時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家臣のひとりである明智光秀の謀反によって落命します。享年49歳。日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

 「本能寺の変」はほとんどの人が知っている事件だと思いますので、細かい説明は省きます。事件に至る動きは、過去の拙稿『江~姫たちの戦国~第5話「本能寺の変」』でふれていますので、よろしければ一読ください。いままで数々の映画やドラマで描かれてきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じような演出ですよね。本能寺を包囲した明智軍が鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というもの。これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

 まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

 「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

 有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。また、同史料によると、

 「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


 信長は初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。ほぼドラマのとおりですね。『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

 また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

 「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

 『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

 明智光秀の謀反に至る動機については様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。そんななか、これまで小説やドラマなどの物語では、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることがほとんどだったと思います。その根拠は、領地を召し上げられたことや、徳川家康の饗応の役を突如解任され、秀吉の援軍を命じられたこと、大勢の前で足蹴にされたことなどなど、どれもありそうなエピソードですね。ただ、このたびのドラマは、そういった理不尽な仕打ちに耐えしのぐ光秀の姿はあまり描かれず、これまでの大河とは違った動機でした。

 「日の本に王はふたりもいらん!」

 つまり、皇位簒奪という意味ですね。信長は天皇を廃して自らが日本の王になろうとしていたのではないかという説です。そのため、朝廷を敬う光秀は決起に至った、あるいは、朝廷に促されて起たざるを得なくなった・・・と。これ、よくNHKがやりましたね。もちろんこれはドラマのオリジナル解釈ではなく、近年、学者さんたちの間でも採られている説のひとつです。たしかに、信長の行動を見ると、朝廷が信長に対してあらゆる官位を授けようと打診しても、信長はこれを固辞し、逆に京のまちで馬揃え(軍事パレード)をして朝廷を威嚇するなど、朝廷ならびに天皇家軽視したかの行動が目立ちますし、何より、比叡山焼き討ち石山本願寺との戦いなど、古い権威を徹底的に排除しようというきらいが伺えます。その意味では、じゅうぶんに考えられる動機ですよね。

 ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は帝に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。ところが、結果は歴史の示すとおりですね。この皇位簒奪説は、考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気がします。ドラマとしては面白かったですけどね。「日の本に☓☓☓☓☓☓☓☓」と声を消し、それを聞いた光秀が青ざめて諫めるシーンなどは、上手い演出だなあと思いました。

 あと、信長の正室・濃姫について少し。本能寺のシーンでは自ら刀を振って戦っていた勇ましい妻でしたが、実際の濃姫は、いつ結婚していつ死んだかもわからない、ほぼ謎の女性といっていい存在です。織田家に嫁いですぐに死んだという説や、子どもが出来ずに離縁したという説などさまざまで、斎藤道三の娘と言われていますが、それすら定かではなく、一説には、実在したかどうかすら疑問視する声もあります。本能寺で信長とともに長刀を振るって戦ったという演出は、司馬遼太郎『国盗り物語』からきたものですね。本能寺の戦死者の中に、「お能の方」という女性がいたという説もありますが、それが濃姫だったかどうかはわかりません。

 さて、このときの黒田官兵衛のエピソードまで行きたかったのですが、今回めちゃめちゃ長文になっちゃったので、後日、「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-14 22:56 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?

 豊臣秀吉6本指だった、という逸話があるのはご存知だろうか。これは、よくある偉人の超人的伝承とはちがって(たとえば、聖徳太子が一度に複数の人の話を聞き分けた・・・とか)、それなりの根拠をもった逸話である。この説の起こりは、織田信長時代にキリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によるもので、その中に次のような記述がある。

 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」


 これ以降、海外では、この「6本指説」が広く信じられてきたが、日本では、フロイス以外にこの点にふれる史料がないことや、フロイスの記述には多分に私怨が含まれているという理由から否定的な意見が多く、“邪説”とされてきた。

e0158128_03078.jpg しかし、私はこの説を信じている。たしかにフロイスの記述をみれば酷い言いようで、彼が秀吉に好感を持っていなかったことがわかるが、だからといって、6本指を作り話とする理由にはならないように思う。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えられる。
(← 6本あるようには見えないが・・・。)

 そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっている。その内容は次のとおり。

 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」


 この利家の談話からわかるのは、秀吉は右手の親指が1本多かったということ。要訳すると、「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っているもので、この談話を信じれば、フロイスの記述が“邪説”でないということになる。

 生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」というそうだが、これはそれほど珍しいことではないらしい。主にアフリカやヨーロッパに多いそうだが、東アジアでも1000人に1人ぐらいの割合で生まれるそうだ。ということは、戦国時代(織豊時代)の我が国の人口は約1200万人と言われるから、単純計算で1万人程度は「多指症」の人がいたということになる。ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で(通常6本目の指は役に立たない場合が多いらしい)、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれない。

 では何故、秀吉は6本指のままだったのか・・・。ここからは私の想像だが、6本目の指を幼い頃に切り落とす慣習は、武士階級や、ある程度の身分の者に限られていたのではないだろうか。農民の家に生まれた秀吉は6本指のまま成長し、その後、武士となったことから、武家社会では珍しい存在となった。成長してから切り落とすことも出来たかもしれないが、彼はあえてそれをせず、周囲から奇異な目で見られることを逆に反骨心にして、天下人への出世街道を上っていったのではないだろうか・・・と。

e0158128_0351879.jpg しかし、天下人となってからの秀吉は、肖像画を右手の親指を隠す姿で描かせたり、どうも、6本指の事実を歴史上の記録から抹消しようとしたきらいがある。
(たしかに、この肖像画の右手の描き方も、少々不自然な気がしないでもない。 →)
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作した・・・と考えるのは、穿ち過ぎだろうか。(あえて猿顔に肖像画を描かせた、なんてことはないと思うが。)秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのでは・・・と。

 作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について、こう述べている。
 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
 たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名。発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだというし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失った人。そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるものである。

 しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記は少ない。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれないが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないだろうか。6本指のコンプレックスをバネにして、天下人になった豊臣秀吉・・・と。

 ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もある。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。重瞳については、古代中国の伝説上の聖王であるが重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうである。

 6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-19 00:53 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(10)  

江~姫たちの戦国~ 第22話「父母の肖像」

 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる豊臣秀吉だが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく淀殿(お茶々)との間に鶴松秀頼を授かった・・・と、多くの物語で描かれている。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説もある。女児の名は不明だが、男児の名は秀勝。秀勝といっても、その後、お江の2番目の夫となる秀勝(小吉)とは当然違い、織田信長の実子を養子に貰い受けた秀勝(於次丸)とも当然違う。その由来は、琵琶湖上の竹生島にある宝厳寺に伝わる古書「竹生島奉加帳」に、石松丸という男児の名と南殿の記載があり、この石松丸が秀吉の子である秀勝であり、南殿がその生母だと推定されている。ただし、南殿と秀勝(石松丸)の存在が取り沙汰されたのは近代に入ってからのことで、南殿の経歴については全く不明である。その秀勝(石松丸)は、天正四年(1576)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 その話が実話だとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったことも事実で、にもかかわらず、淀殿ひとりが二度も妊娠し、長男・鶴松、次男・秀頼の二児を出産したという事実を、訝しいと考えるのも不思議ではない。実際に、この当時にも淀殿の懐妊は秀吉の子種ではないのではないか・・・という噂は存在していたようで、当時キリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスがのちに執筆した『日本史』の中にもそういった記述がある。そして、鶴松出産の3ヵ月前には、聚楽第の南鉄門に、こんな落首が貼りだされた。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ
 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける


 つまり、子種がなかったはずの秀吉が、大仏の功徳で子宝に恵まれた・・・と。これに激怒した秀吉は、門番の17人を処刑し、他にも本願寺に逃げた者を捕らえ、関わった者の居宅も焼き払い、総計113人を処罰したと伝わる。門番17人の処刑は、まず鼻をそぎ落とし、翌日には耳をそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑という、残忍極まりないものだったという。このあたりから、晩年のトチ狂った秀吉の人格が現れはじめたようだ。

 第二子・秀頼についても、巷では「秀頼の実父は秀吉ではない」という噂が蔓延っていたようで、たとえば、山城伏見城外に幽閉されていた李氏朝鮮の文人・姜沆なども、その噂を耳にしたと語っている。つまり、若い淀殿が空閨に耐えられず不倫した結果、生まれたのが鶴松、秀頼だと・・・。今回のドラマの淀殿は、とてもそんな“ふしだら”な女性ではなさそうだが(笑)、多くの物語で描かれているような“悪女”のイメージの淀殿であれば、ない話でもなさそうだ。その真偽はともかく、淀殿の浮気相手と名指しされてきたのは、大野治長木村重成名護屋山三郎という、いずれも戦国時代を代表する美男子3人である。秀吉が生前にこの3人の噂を知っていたかどうかはわからないが、猿顔の、しかも50歳を超えた秀吉にとって、この美男子3人との不倫の噂は、たとえそれが紛れもない嘘であっても、きっと穏やかではいられなかったのではないだろうか。

 今話のタイトルの「父母の肖像」は、高野山の持明院に現在でも残されている。このうち、母・お市の方の肖像は大変素晴らしい仕上がりだとか。絵画作品に添えられた説明文のことを“賛”というが、父・浅井長政の肖像の賛には、この肖像画が「有人(あるひと)」の発意によって制作され、持明院に寄進されたと記されている。確証はないが、この「有人」は淀殿であるとみる説が、今日では有力のようである。秀吉の側室となったのちも、父母の供養に熱心だった淀殿。上記の不倫疑惑でみるような、“悪女”の淀殿とは違った、親思いの心優しい長女・お茶々の姿が、そこには見えるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-13 01:32 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(6)  

江~姫たちの戦国~ 第4話「本能寺へ」

 「天下布武」
 訓読すれば「天の下、武を布く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。織田信長がこの印を用い始めたのは、美濃平定後の永祿10年(1567年)、居所を「岐阜」と改名した頃からである。岐阜の命名は古代中国の周の文王(ぶんおう)岐山(きざん)に拠って天下を臨んだことにちなんでおり(阜は丘の意味)、自身も文王にならって日本全国を統一したいという志がうかがわれる。
 「天下布武とは、武力で世を統一する意味にあらず。公家、寺家、武家とある中で、武家こそが要となり、天下をまとめようとするものじゃ。」
 ドラマ中、信長がお市にいった台詞だが、これは上述した近年の解釈のとおりである。日本の中世での権力は、公家、寺家、武家が複雑に絡み合っており、信長の志した「天下布武」とは、その公家、寺家を廃して本格的な武家政権を作るという意味をもっていたと考えられている。その実現のために寺家対策として、一向一揆を叩き、本願寺の顕如らを石山合戦で破った・・・と。またこの解釈では、室町幕府は京都にあるという地理的条件からも公家との結びつきが強く、そのために足利義昭を追放したとも考えられている。

 織田信長は神になろうとしていた・・・と描かれることがよくあるが、これは、当時キリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスがのちに執筆した『日本史』の一文からくるものである。その中でフロイスは、
 「日本においては神の宮には通常神体と称する石がある。神体は神の心または本質をいふことであるが、安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きた神仏である。世界には他の主なく、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」
と記している。また信長は、安土城内に「盆山の間」を設け、諸国の神社から神体を集めその上に盆山と称する石を置き、それを自分の神体として祀らせ、自らの誕生日を聖日と定めて参詣することを命じたという。誕生日に参詣すれば功徳と利益があると、高札に列挙したとも。いわゆる「生神」というわけだ。

 本当に信長自身が己の神格化を望んだかどうかはわからないが、少なくとも神に仕える身であるフロイスの目にはそう映ったようで、根も葉もない話でもなさそうである。同時代の城の敷地内に寺院を建てた例など他にはなく、そう考えれば、あるいは信長は、実際に自らを「神」と称していたのかもしれない。または、神仏の存在を信じて疑わなかった当時の人々の中で、あらゆる神仏を否定し、自分なりの信念を持った信長の姿は異質なもので、その姿が、フロイスの目には「自分なりの神=自身が神」と映ったのではないか・・・とも考えられる。いずれにせよ、既存の神仏を否定し、帝をも操ろうとしていたこの時期の信長は、自身が望もうとも望まざろうとも、事実上、日本の「神」的存在になろうとしていた。

 とにかく「旧きもの」の不合理を忌み嫌い、徹底的に排除を計った織田信長。そんな信長の姿に、力では屈服しても、心情的には辟易たる思いがあった人物として描かれるのが明智光秀。彼は神仏を尊び、朝廷を重んじる、いわゆる当時の教養人常識人だった。光秀は、元亀2年(1571年)の「比叡山焼き討ち」による武功で、信長より近江国の滋賀郡を与えられ坂本城城主となったが、その際焼失した西教寺の復興にその後尽力したという。城持ち大名となったといえども、彼にとってこの武功は本意ではなく、不名誉なものだったのだろう。一説には、この比叡山焼き討ちに際して、光秀は信長に諌言したという記録もある(「光秀縷々諌を上りて云う」:比叡山延暦寺『天台座主記』)。信長より6歳年長だった光秀。神仏を忌み嫌い、帝すら軽んじ始めていた信長に対して、ドラマのように、光秀が耐え切れず諫言することもあったかもしれない。信長も光秀の能力は認めていたものの、そういう光秀の常識人的な態度が疎ましく、今風にいえば、「ウザい」存在となっていったのだろう。

 「その分別面が鼻につくのじゃ!」
 あるいは信長は光秀に対して、自身が最も忌み嫌った「旧きもの」を見ていたのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-02 20:04 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(6)