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真田丸 第12話「人質」 ~上杉氏の人質となった真田信繁~

徳川家康に見切りをつけた真田昌幸は、越後国の上杉景勝に対して再び従属を申し入れます。かつて傘下に下りながら短期間で関係を反故にした経緯を思えば、なんとも図々しい話ですが、実は昌幸が上杉氏に援助を打診しはじめたのは、この1年ほど前の徳川氏と北条氏が同盟を結んだときからだったとも言われます。昌幸は、いずれ沼田・吾妻領の問題が争点になるであろうことを見通し、反故の時期をうかがっていたのかもしれません。

e0158128_16232423.jpg そんな節操のない昌幸の申し出を、景勝は受諾します。その理由は、上杉氏の家風である「義」の精神も多少はあったかもしれませんが、それよりも、上杉氏にとっても真田家と結ぶことにメリットがあったからでした。というのも、上杉氏と徳川氏の間では、これまで大きな衝突こそなかったものの、徳川方に従属していた小笠原貞慶が上杉方の城である信濃国筑摩郡の麻績城、青柳城を執拗に攻めたり、上杉方の海津城の副将格だった屋代秀正が調略されたりと、お互いを仮想敵国として牽制しあう関係でした。そんななか、徳川方の最前線として上田城を守る真田氏と結ぶことは、徳川氏の勢力を弱めるとともに、上田城が反対に上杉方の最前線となるわけで、上杉氏にとっては、これを歓迎しないわけにはいかなかったと思われます。

また、上杉氏はこの少し前に上方の羽柴秀吉とも連携をとっており、昌幸としては、上杉氏と結ぶことによって、その背後に見える強大な羽柴氏の後ろ盾を得ようと考えていたのかもしれません。いずれにせよ、上杉氏と真田氏の連携というのは、残念ながら「義」の精神より「利」の要素のほうが強かったと推察されます。

 ただ、さすがにただで上杉氏に従属できたわけではありません。そこで登場したのが、真田信繁でした。昌幸は上杉に従属するとして、次男の信繁を人質として送ります。このとき、信繁は16歳とも19歳とも言われており、ドラマではすでにをも娶っていますが、実際には、元服していたかどうかも定かではありません。そのことが確認できる史料として、上杉氏家臣で海津城代を務めていた須田満親が、昌幸の叔父・矢沢頼綱の嫡男・矢沢三十郎頼幸に宛てた書状に「今度御証人として御幼若の方越し申し、痛み入り存じ候」と記されており、この「御幼若」という言葉からみるに、まだ元服していなかったのかもしれません。いずれにせよ、信繁が歴史の記録にはじめて登場した瞬間といっていいでしょう。ちなみに、このときの信繁と一緒に、三十郎も人質として同行しています。

 人質を受けた景勝は昌幸に対して、徳川・北条両氏との軍事衝突に際しての後詰めを約束するとともに、沼田・吾妻・小県の知行も認めます。さらに、このとき上杉氏に属していた小県滋野一族禰津氏を真田氏の配下につけました。至れり尽くせりですね。上杉氏がいかに真田氏を歓迎していたかがわかります。

 『真武内伝』によると、人質に送られた信繁は、景勝より屋代秀正の旧領のうち千貫が与えられたといいます。このことから、景勝が信繁を単なる人質としてではなく、家臣として遇していたことがわかります。これは、景勝がそれだけ真田氏との関係を重要視していたともとれますが、ドラマのように、信繁その人を認めたのかもしれません。人質といえども、客人として遇する・・・。ここは、上杉流の「義」の精神だったのかもしれませんね。ただし、扶持をもらえば、それに見合う働きを見せねばなりません。ドラマでは描かれていませんでしたが、『真武内伝』によると、天正14年(1586年)9月、上杉氏の新発田重家攻めに三十郎が上田勢100騎を率いて参陣し、軍役をつとめたといいます。このことは、景勝が三十郎の父・矢沢頼綱に宛てた書状に「子の三十郎参陣、別して走り廻り候条、感悦候」とあることからもわかります。信繁がこれに加わっていたという記録は存在しません。

 信繁と頼幸の越後での人質生活は、史料が乏しく詳らかではありませんが、その少ない史料から、信繁は景勝の側に付き従い、三十郎は真田家を代表して上杉氏の軍役につとめていたことが推察されます。ここで上杉家の「義」にふれたことが、後年の信繁の生き様に、少なからず影響を与えたのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-28 16:25 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第8話「調略」 ~天正壬午の乱・前編~

 今話は、海津城を陣取った上杉氏小諸城まで北上してきた北条氏の間に挟まれた真田家が、どう立ち回ったか・・・という話でしたね。史実とフィクションを上手くからめて実に見応えのある話でした。この間の真田昌幸の動きは、たしかにどうにでも解釈できますからね。今回も、通説となっている経緯を解説します。

e0158128_19053623.jpg 本能寺の変後、真っ先に旧武田領に乗り込んできたのは上杉氏でした。それまで上杉氏は、東には新発田重家、南からは上野の滝川一益、北信濃の森長可、そして西からは柴田勝家前田利長佐々成政などの織田勢に四方を囲まれ、まさに四面楚歌状態となって滅亡の危機に瀕していました。ところが、本能寺の変によって新発田を除く織田軍はことごとく退却。これを好機と捉えた上杉景勝は、ただちに長可を追撃して北信濃に攻め入り、同地の国衆や旧武田遺臣たちを味方に引き入れました。その中に、今話で真田家に利用された春日信達もいました。信達は武田四天王のひとりとして知られる高坂弾正昌信の次男で、武田氏滅亡後は、織田家に降伏して森長可に帰属していました。


 一方、神流川の戦いで滝川一益を追放し、上野国南部をほぼ制圧した北条氏は、碓氷峠を超えて信濃に侵攻する動きを見せます。すでに北条氏直は、6月中旬までに信濃の小県郡、佐久郡の国衆たちを次々と臣従させていました。この頃、徳川家康は旧武田遺臣の依田信蕃を味方に引き入れていましたが、北条軍の侵攻によって信蕃は小諸城を捨てて後退し、小諸城を抑えた北条氏は佐久郡を掌握します。

 さて、この間の昌幸の動きです。まずはじめ、昌幸は実弟の信尹とともに上杉氏に従います。ドラマでは、上杉氏に臣従するように見せかけていただけのように描かれていましたが、そのあたりの真偽は定かではありませんが、ともかく上杉に従属します。6月中旬頃のことでした。この間、昌幸は、青柳城主・青柳氏虚空蔵山城主・岩下氏らを調略し、上杉家に帰属させるという働きを見せます。また、弟の信尹は、上杉軍を先導して牧之島城の占領に貢献します。

 ところが、7月に入って北条軍が信濃侵攻の動きを見せると、7月9日、昌幸は突然、北条氏方に身を転じます。なんとも節操ない変わり身ですが、一方で、弟の信尹は、そのまま上杉氏に臣従することとなり、兄弟は敵味方に分かれることになりました。しかし、これはおそらく兄弟合意済みのことで、後年の関ヶ原の戦いのときと同じく、真田家の常套手段ですね。

 7月12日、北条軍は信濃侵攻を開始。4万3000の大軍を率いた北条軍が川中島の八幡に、海津城妻女城を中心に上杉軍が布陣し、両軍はにらみ合いに入りました。このとき、昌幸は得意の調略を仕掛けます。そのターゲットとなったのが、今話の主役・春日信達でした。


春日信達が昌幸の暗躍で北条氏に内通していたのは事実で、それが露見して景勝に誅殺されたことも事実です。しかし、これらすべてが昌幸の仕組んだ罠だったという設定は、ドラマのオリジナルでしょう。まあ、ありえない話ではありませんが、ここまで絵に描いていたとなると、信繁の言うとおり「昌幸、恐るべし!」です。

 春日信達の調略が失敗に終わったため、北条氏は上杉軍に攻め入る機会を逸してしまい、氏直は川中島の制圧を諦め、徳川家康が侵攻した甲斐方面に矛先を向けます。このとき、氏直が昌幸に殿軍を命じたのは史実。真田軍は、見事にその役割を果たします。そんな状況を好機と捉えた昌幸は、上杉軍への抑えとして本領に残留させてほしいと氏直に願い出て、これを許されます。ところが、上杉景勝は、北条氏が退陣すると間もなく、越後国に引き揚げてしまいます。実はこのとき、越後で叛乱を起こしていた新発田重家の活動が激しくなっており、北条軍を追撃する余裕などなかったんですね。かくして、昌幸は一兵も失うことなく上杉、北条両軍から自領を守りました。

 これらすべてのシナリオも、昌幸の描いたとおりだったというのがドラマの設定で、他の小説や物語などでも、昌幸の知略の真骨頂として描かれる場面です。しかし、実際にはどこまでが計算どおりの行動だったかは定かではありません。わたしが思うに、最後の上杉軍の退却は想定内だったかもしれませんが、北条の転戦は想像してなかったんじゃないでしょうか。昌幸と信尹が敵味方に分かれたのも、どちらが勝っても生き残るための手段で、春日信達の内通が露見したのも想定外。ただ、結果的にそれらがすべて昌幸に有利な展開にはたらいた。わたしはそう思います。いすれにせよ、どう転んでも道がつくようにたくさんの布石を打っていたのは間違いなく、まさしく「昌幸、恐るべし!」ですね。

 この頃の真田信幸、信繁兄弟ですが、17歳の兄・信幸は岩櫃城を任されていましたが、16歳の信繁は、前話であったとおり木曽義昌の人質となっていました。したがって、春日信達の調略にも関わっていません。ふたりが活躍する舞台は、まだまだ先のことです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-29 18:44 | 真田丸 | Comments(2)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~

大阪冬の陣を時系列で追っていくと、戦端が開かれたのは慶長19年(1614年)11月19日、豊臣方の武将・明石全登が守る木津川口の砦を、徳川方・蜂須賀至鎮の隊が攻撃して陥落させた木津川口の戦いです。
残念ながら、木津川口の戦い関連は、史跡とよべるものは残っていないようです。
そして、その1週間後の11月26日には、大坂城の東側にあたる地区で鴫野・今福の戦いが行われました。

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鴫野地区も今福地区も、いまでは住宅密集地となっていて、古戦場としての面影を見ることはできません。
写真は大正9年(1920年)に建てられた鴫野古戦場跡の石碑ですが、いまは城東小学校敷地内にあります。

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金網越しなのでわかりづらいですが、右の「大坂冬の陣」と刻まれた石碑は、最近建てられたもので、左の石碑が大正時代のものです。

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説明看板です。

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思い切ってをよじ上って撮影しました。
小学校の門横なので、不審者と間違われないか不安でしたが(笑)。

柵つながりで言いますと、大阪冬の陣に際して、豊臣方が防御のための柵をこの辺りに建設し、これをめぐって徳川方の上杉景勝、佐竹義宣らと大坂方の後藤又兵衛基次、井上頼次らとが激突した戦いを、鴫野・今福の戦いと呼びます。

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石碑から1kmほど北上したところにある若宮八幡大神宮が、鴫野・今福の戦いにおいて佐竹義宣がを布いた場所だそうです。
その際、御神木の楠の大樹が切り倒されて篝火に使用されたそうで、のちに佐竹家より贖罪のためのが奉納されたそうです。
ここに、佐竹義宣本陣跡と刻まれた石碑があると聞いて来たのですが、現地でいくら探しても見当たりませんでした。
どこにあったんでしょう?

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石碑のある城東小学校に戻って、その東隣にある八劔神社の境内には、大坂城の石垣と同じ石材が使われているそうで、紹介されていました。
これはのちの徳川時代のものですが、結局、この辺りはすべて、大坂城の一部だったわけですね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-16 16:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

天地人 第45話「大坂の陣へ」

 関ヶ原の戦いが終わってから大坂冬の陣・夏の陣までの十数年間、勝者の側も敗者の側も、様々な思いが交錯したことだろう。後悔の念。先行きの不安。良心の呵責。あのときもしこうしていたならば・・・。己の選んだ道は間違いっていたのではないだろうか・・・。400年後に生きる私たちが思うまでもなく、この時代、それぞれの立場で「迷い」の時代であったのかもしれない。

 兼続のもとを訪れた毛利輝元は、関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将という立場でありながら煮え切らぬ姿勢だった行いに、後悔の念を打ち明ける。あのとき敢然と動いておれば・・・あのとき大坂城を明け渡さなんだら・・・いまだ天下は豊臣にあり、毛利も安泰だったのではと・・・。
 そして兼続に問う。
 「そちとて、そう思わぬことはなかろう?」
徳川が背を向けたとき追撃しておればと・・・。さすれば、家臣や民、百姓にいらぬ苦労を負わせることはなかったのではと・・・。
 兼続は答える。
 「我らは負けました。今更それを悔いたとて何も始まりませぬ。」
 「生きていれば、辛いことも、ままならぬこともございます。されどそれらすべてに、慈愛の一念を持って対することこそが、人としてのあるべき姿と存じまする。」

 過ぎたことを悔いていても前には進めない。これまで歩んできた道を否定するのではなく、その全てが今の自分を作っており、歩むべき道だったと思うことこそが大切ということなのだろう。難しいことだが、そうありたいと私も思う。

 そんな兼続にも「迷い」はある。この先起こるであろう、徳川と豊臣の決着についてである。歩んできた道は心の持ちようで消化できても、これから進むべき道への迷いは拭いきれない。

 そしてもう一人、上杉景勝もまた「迷い」の境地にいる。
 「徳川の世にあって、生き続ける道を我らは選びました。されど、その道で良かったのでありましょうか。」
 養父である上杉謙信の掲げた「義」に、自分の行いは反しているのではないだろうか。多くの家臣を養う主としての「義」と、一人の武士(もののふ)としての「義」の狭間で迷い苦しむ景勝。そんな彼に、死を目前にした景勝の母・仙桃院はこう告げる。
 「引け目に思うことなど何もない。そなたはそなたの義を、貫き通せばそれでよい。」
 自分を信じて、自分の出来る精いっぱいの仕事をする。「迷い」は誰にでもあるけれど、精いっぱい生きることが後悔しないたったひとつの道だと私も思う。

 大坂では淀殿が・・・高台院が・・・徳川方では二代将軍・秀忠が・・・全国諸所では、豊臣恩顧の大名が・・・徳川譜代の大名が・・・それぞれの立場、思惑で「迷い」の境地にあったであろうこの時代。歴史はこのあと、乱世に終止符を打つべく、大坂冬の陣、夏の陣に向かっていく。



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by sakanoueno-kumo | 2009-11-10 01:10 | 天地人 | Comments(2)  

天地人 第42話「将軍誕生」

 1563年(永禄6年)、武田信玄の六女として生まれた菊姫は、1604年(慶長8年)、上杉家伏見邸にて42年の生涯を閉じる。武田家と上杉家の同盟の証として景勝に嫁いだ菊姫だったが、両家の血を引く世継ぎ産むことは出来なかった。英雄、武田信玄と上杉謙信の血筋を託された菊姫。重圧は大変なものだっただろう。

 お家の存続が第一だったこの時代。ドラマでは自ら子を宿すことを諦めた菊姫は、夫・景勝に側室を薦める。側室が当たり前だった時代。自分が世継ぎを産めなければ側室を薦めるのが正室の務め。現代の私たちには想像できない感覚だが、しかし生涯側室を持たなかった武将も数多くいることを思えば、男女の心のあり様は今も昔も変わらないのではないかとも思える。

 景勝が側室を迎え、懐妊の事実を知ってか知らずか、世継ぎ定勝が生まれる3か月前、己の役目を終えたかのようにこの世を去った菊姫。さぞかし無念だっただろう。1595年に豊臣家への人質のため京都伏見邸に移ってから9年。上杉家が移封された米沢で暮らすことや滞在する事はもとより、京都を出ることすら一度もなかった。

 征夷大将軍を任じられた徳川家康に、祝いの謁見をするため江戸入りした景勝と兼続。しかし、菊姫の病の知らせを受けた景勝は、兼続の後押しもあって伏見に向かう。景勝不在で家康に謁見した兼続は、当然の如くあらぬ言い掛かりをつけられ、理由を問われる。
 「病の奥方を案じ、そのお心を支えんがためでございます。」
 しかし家康は信用しない。信長への忠義のために己の正室と嫡男を殺した家康である。理解出来るはずがない。しかし、兼続は言ってのける。
 「それが上杉でございまする。」
 「君臣親しく、夫婦睦まじく、親子の絆強くあることこそ、国の礎と信ずる家風でございまする。」
 「はばかりながら申し上げまする。天下を取るばかりではなく、天下を治めるつもりがあるならば、何卒この心をお分かりいただきとう存じまする。」

 政治は心である。人を案ずる心がなければ、天下を案ずることは出来ない。政権をとるのは手段であって目的ではない。政権を司るには、マニフェストよりもまずは心である。

 「友愛」を掲げる今の政権。本当にその心が本物ならば、国民は支持を続けるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-20 01:47 | 天地人 | Comments(1)  

天地人 第40話「上杉転落」

 「謝罪は無用と存じます。」
関ヶ原の戦いから1年後の1601年(慶長6年)、景勝と兼続は上洛して家康と対面する。戦の責めを問われた景勝だったが、家康の処分には従うものの謝罪はしないと公言する。
 直江状が戦の発端だったと責められた兼続だったが、
 「云われ無き讒言によって敵が攻め来たるならば、正々堂々と迎え撃たんとの覚悟を示したまで。邪(よこしま)なものに天下が奪われようとしているときこそ、正義とは何かを世に示さんがため。」と、言い放つ。
 家康の言うとおり、兼続の書状はまさしく家康に喧嘩を売った果たし状。その喧嘩に負けたのだから潔く傘下に下るものの、喧嘩を売った理由は「義」にあり、謝罪する必要はないという強い意思表示。社民党議員が聞けばすっ飛んで怒ってきそうな話だが、戦とは勝者にも敗者にも「正義」があり「悪」があるもの。上杉にとっての「義」は、上杉にとっての「国体」なのである。謝ってしまっては死に体、譲ることの出来ないものである。

 とは言うものの、お家取りつぶしになってしまっては結局上杉の義は滅びてしまう。兼続は本田正信に近づき上杉家存続のための裏工作に奔走。福島正則や小早川秀秋の力添えもあって、なんとか会津120万石から米沢30万石へ減封に落着。(これについては史実と照らし合わせて異論も多いと思われるが、それはひとまずおいといて。) お家取りつぶしは免れたものの、直江状のダメージは大きかった。

 会津へ戻った兼続は、身の振り方を案じる家臣たちを前に決意を語る。
 「上杉はもう財は残っておらぬ。あるのは、皆の心の中にある義と愛の志のみじゃ。されど残念ながら義と愛だけでは食うては行けぬな。」
 「進むも引くも地獄となろう。殿を信じついてきてくれるのであれば、誰一人召し放ちなどせぬ。楽をさせることは出来ぬが、共に戦ったそなた達の暮らしは、わしが精一杯守る。」

 リストラはしないが、ワークシェアリングでの痛み分けは避けられないといったところ。苦渋の選択だっただろう。石高は4分の1になったわけで、それでも従業員を減らさずに経営していける企業など、平成の現代では考えられないことである。取締役の大幅減俸はもとより、末端社員の隅々まで大きな理解と覚悟がなければ出来ることではない。
 「禄高など二の次、三の次。上杉の家臣であることこそ、宝でござる。」
こんな強い愛社精神の従業員を持った上杉家は、戦国屈指の優良企業だったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-05 10:17 | 天地人 | Comments(2)  

天地人 第26話「関白を叱る」

 第1話の冒頭に繋がった本話。兼続の才を見染めて、己が家臣にするため力を揮う秀吉。しかし兼続はこれを「戦」ととらえ、命を賭けた「覚悟」を決める。
「相手が誰であれ、武士には譲れぬものがある。後には退けぬと決めたからには、己を貫き、戦うまで。」
兼続の掲げた家臣としての「覚悟」は、天下人秀吉をも圧倒するものだった。

 一方で景勝も、万が一のときには秀吉と刺し違える「覚悟の遺言」を残していたことが後にわかる。主としての「覚悟」である。
「兼続、おぬしの好きにするがよい」
「何があろうとも、責めはわしが負うてやる」

兼続に言ったこの言葉に偽りはなかった。

 私は何度かこのブログ内で発言してきたが、戦国時代の主従関係には「ギブアンドテイク」の関係で成り立っていたと考える。後の江戸時代のような強い忠誠心は存在せず、自分が仕える器ではないと思えばすぐさま主君を変えることが普通に行われていた戦国時代。それ故に主は家臣に対し心配りをし、家臣はそういう主の力になる。強い信頼関係がなければ主従は成り立たなかった時代だと思う。

 私たちの現代社会でも、上司と部下、経営者と従業員、親と子など似たような関係がある。
「君の好きなようにしろ。」と言ってくれる人はいるが、その責めを負ってくれる人はそういない。しかし、下の者はその責めを負ってくれる人を尊敬し、従うものである。そしてその人の為に身を粉にしようと思うものである。家臣の「覚悟」と主の「覚悟」。そのどちらもが命を賭けた覚悟であっても、主の「覚悟」のほうがより重たいものでなければならない。それが出来る者だけが、人の上に立つ資格があると思う。本話の景勝の「覚悟」を、上に立つ人は見習わねばならない。

 最後の秀吉と家康の会見は見ごたえがあった。まさに「キツネ」と「タヌキ」の化かし合いそのもの。笹野高史と松方弘樹。今後の両者のバトルも楽しみである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-06-29 22:43 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第24話 「戸惑いの上洛」

 天正14年(1586年)、上杉景勝は重い腰を上げ上洛し、豊臣秀吉に対して臣下の礼をとった。その際、養子であった上杉義真(畠山義真)を人質として差し出したというのが史実なのだが、本物語では登場していない。上洛するということは、ただ単に挨拶に行くだけではなく、臣従の証しを示しに行くということ。その最も効果的な証しは「人質」で、その覚悟を語る意味でも割愛すべきではなかったように思う。(もっとも、義真自体、本物語では登場していないのだが・・・。)

 この時代、越後から京・大坂に出向くということは、現代で言えば地球の裏側の国に行くようなもの。文化もしきたりも違えば、言葉も考え方も違う。そんな中で景勝・兼続たちの受けたカルチャーショックは想像以上のものだっただろう。慣れない儀式や面会で、生来の無口な性格もあいまって、神経をすり減らす景勝。そんな彼に、前田利家や北政所は「辛抱」という言葉で諭す。

 私たちの現代社会においても、「辛抱」は必須である。自身の欲求に対する「辛抱」は己の心の鍛え方次第だが、一番難しいのは、人間関係の中での「辛抱」であると私は思う。学校や会社、恋人・夫婦間や親子間など様々な関係の中で「辛抱」を必要とする場面がある。人との調和を図っていく上で「辛抱」は不可欠で、「辛抱」が足りない人は必然的に社会では生きていきづらい。しかし、人にはどうしても譲れない「信念」も必要で、「信念」をも曲げてしまう「辛抱」は結果的にその人の人生のマイナスになってしまうようにも思える。「辛抱」とは非常にさじ加減の難しいものである。

 日本人は元来、辛抱強い国民性であるという人が多い。一方で日本人の心に根付く「侍の心」は信念の塊。今話でその「辛抱」と「信念」の狭間で苦しむ景勝。
 私たちも身に覚えがある「心の苦しみ」である。


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by sakanoueno-kumo | 2009-06-15 00:45 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第16話「信玄の娘」

「わしに力があったなら。誰が見ても明らかに謙信公の跡継ぎであったなら・・・。この戦の罪を背負うのは、このわしなのじゃ。どれほど苦しくてもこの越後を守らねばならぬ。それが定めじゃ。」
御館の乱の責めを一身に背負い身を退こうとする兼続に対して、景勝が言った言葉。
主たるもの、最も求められるのは統率力とカリスマ性。そのどちらも兼ね備えた先代の後継者は辛いものである。後継者候補が複数存在すれば、必ず争いは起こる。誰のせいでもない必然と言えよう。
次に主になる人物に必要なのは、最後に責任を負う「覚悟」であると思う。自己の力量を過大評価することなく、適材適所に部下に役割を与え、最後の責任は自らが負う。どうやらその「覚悟」は景勝は持ち合わせていたようである。
麻生さん、小沢さんは、その「覚悟」を持ち合わせているだろうか?

前話まで「御館の乱」を題材に、話の進行が停滞ぎみだった物語。今回、菊姫の輿入れから直江信綱の暗殺まで一気に話が進んだ。まだまだ30年分くらい描かなければならない。このあたりでペースアップというところだろうか・・・?


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by sakanoueno-kumo | 2009-04-19 23:02 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第11話「御館(おたて)の乱」

歴史上において、家督争い、相続争いによる内乱は数多くある。
その多くの場合、古くは「壬申の乱」にもあるように、偉大な主の後継者争いによるものである。
「御館の乱」も例外に及ばず、偉大なる主君、上杉謙信の死後、勃発した悲しい争いである。
景勝、景虎、それぞれにとりまく者たちの思惑に乗せられた形に描かれた、今回のお家騒動。
案外的を得ているかもしれない。
「この戦、真にわれらに義があるのか?」
「わしが身を引けば、 この戦を終わらせることが出来るのではないのか?」

景勝の言ったこの言葉は、みこしの上に担がれた者の本音のようにも聞こえる。
しかし後戻りすることは出来ない。そんなことはわかった上での言葉である。

越後の内乱を横目に、自分に吹いた追い風に感慨深げな信長。
今回このシーンは結構お気に入りだ。(初音が傍にいるのは余計だと思うが・・・。)
「義をつらぬいた謙信は、浄土とやらへいったのかのう。」
「じゃが、後には地獄を残した。」
「天はわしに進めというのか。」
「滅せぬものなど、この世にはない。 謙信なら、この俺を止めることもできたであろうに。」

歴史の中にはいくつかのターニングポイントがあって、もし・・・・ならば?あのとき・・・・たなら?などと考えたくなる場面がある。
もし、謙信があと数年生きていたら?もし信玄があと数カ月生きていれば?あのとき、光秀が謀反を起こさなければ?あのとき小早川が裏切らなければ?等々・・・・。
しかしそれは歴史の中の偶然であり、必然。
そのひとつひとつが現代のわれわれの社会に繋がっている。

信長にとって、自分の野望を後押しするかのように没した上杉謙信。
その偶然を必然と受け止めることに怖さを覚える、そんな信長もまた、案外的を得ているかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2009-03-17 01:40 | 天地人 | Comments(0)