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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

さて、この日は朝9時から夕方5時すぎまで、みっちり姫路城とその周辺を歩き廻ったのですが、最後に、どの稿でも紹介しきれなかった姫路城の眺望も含めて、もう一度姫路城天守いろんな角度から望みたいと思います。

まずは、大手門から。


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続いて、大手門を入った南側三の丸広場から。


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三国堀から。


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二の丸広場から。

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本丸広場(備前丸)から。


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西の丸から。

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東側の喜斎門跡から。

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北側シロトピア公園から。

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男山配水公園から。

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だいぶ夕方になってきました。
南東の城見公園から。

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千姫ぼたん園から。

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そして最後は、南側イーグレひめじからです。

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どの角度から見ても、素晴らしいですね。

この美しい城を築城した池田輝政公と、その後、城の保存に従事してきたすべての関係者に感謝です。

以上で姫路城めぐりのシリーズを終わりますが、姫路はわがまち神戸から車で30分ほどの距離ですから、今回めぐりきれなかった中堀外堀なども、いつかまたレポートしたいと思います。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-05 00:35 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~

姫路城には、いろは順に名づけられた15ヵ所、その他の門が69ヵ所、あわせて84の防御門あったそうですが、 そのうち21門が現存しています。

本稿では、それらの門(すべてではありませんが)を見ながら歩いてみます。

まずは、「大手門」

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大手門とはいうまでもなく正面玄関のことですが、実はこの大手門は昭和13年(1938年)に建てられたものだそうで、江戸時代のそれとは位置も大きさもまったく異なるそうです。

というのも、現在の姫路城の敷地は、江戸時代でいえば内堀内の内曲輪で、本来の大手門は、もっとずっとずっと外側にあったんですね。

本来の姫路城の縄張りは、めちゃめちゃバカでかいですから。

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上の写真は三の丸広場の北西登城口にある「菱の門」です。

表玄関にふさわしく格式高い櫓門で、伏見城から移築されたという説もあります。

火灯窓(かとうまど)が特徴的ですね。

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「いの門」です。↑↑↑

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「ろの門」です。↑↑↑

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「はの門」に向かう石段。

この坂道は「将軍坂」と呼ばれていて、時代劇などでもよく出てくるロケーションです。

今年の新春時代劇『信長萌ゆ』でも、この将軍坂の向こうにCGの安土城を合成していました。

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「はの門」です。↑↑↑

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「にの門」↑↑↑

天井が低く登りながら曲がっていて、集団では進めないように設計されています。

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「ほの門」↑↑↑

ひとりずつしか入れないほど狭い門です。

ここをくぐると、天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっています。

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その天守群の周りにある「水の一門」です。↑↑↑

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「水の二門」です。↑↑↑


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このあたりはすべて天守の周りですから、導線が狭い上に、上の石落としから石が降ってきます。

よく考えられていますね。

このあと水の門は六門まで続くのですが、狭くて人が多くて、上手く撮影できませんでした。


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隠れた場所にある「るの門」です。↑↑↑

ここは伏兵の出入りを想定した出入り口だとか。

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三国堀から二の丸に登る「ぬの門」です。↑↑↑

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二の丸から本丸に登る「りの門」↑↑↑

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そして最期に、本丸東側の入口「備前門」です。↑↑↑

ざっと主だった門を紹介しました。

それぞれに特徴があり、役割があります。

すべてが池田輝政の築城時からあった門ではないでしょうが、よく考えられていますね。

もっとも、慶長14年(1609年)に完成した姫路城が、その後合戦の舞台になることはありませんでしたが・・・。

だから、美しいまま現存して世界遺産になったんですけどね。

次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-28 21:57 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~

昨年春に5年間の大天守改修工事を終えて一般公開された姫路城に、昨秋10月、ようやく行ってきました。

写真は天守南側の三の丸広場から。


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本当はもっと早く訪れたかったのですが、春先は連日2~3時間待ちとの報道でしたから、ちょっとほとぼりが冷めてから行こうと様子を見ていたところ、夏になっても状況はあまり変わらず、しびれを切らして朝早くから強行したのが10月17日。

この日も、朝9時のオープンに合わせて訪れたのですが、すでに天守への登城は40分待ちでした。

まあ、9月末のシルバーウイークなんて、とんでもないことになっていたみたいですから、まだましかなぁと・・・。


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テレビの報道などで既に何度も目にしていましたが、実際に訪れてみて、やはりこの白さに目を奪われます。

姫路城の美しさの象徴でもある白漆喰壁の天守は、白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」と呼ばれています。

この度の改修工事で屋根までもが白くなりましたから、まさに白鷺の姿となりました。

これは、瓦の継ぎ目に屋根目地漆喰を一面に塗ったせいで、角度によって屋根全体が白く見えるようになったそうです。


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ただ、この白さが保たれるのも長くて2年だそうですね。

漆喰の弱点はカビに弱いそうで、梅雨などの湿気の多い季節をすぎると、カビで黒ずんでくるんだそうです。

わたしが訪れたときも、既にオープンからひと夏を越してましたから、春先よりは若干白さが失われはじめていたかもしれません。

白い姫路城を見たい人は、早めに行ったほうがいいですよ。


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写真は三の丸広場です。

かつてこの三の丸には、御殿屋敷が立ち並んでいましたが、いまは芝生広場として、市民憩いの空間となっています。


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ご存知のとおり、国宝である姫路城は、平成5年(1993年)に奈良の法隆寺とともに、わが国最初の世界遺産に登録されました。

その理由はいくつかありますが、池田輝政によって現在の5重7階の天守が建てられてから400余年、改修工事を繰り返しながらも一度も建て替えられていないことがあげられます。

日本の現存天守12城(復元天守ではない城)のなかでは、最も大きく優れた木造建造物だという評価だそうです。

兵庫県民の誇りですね。


次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
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by sakanoueno-kumo | 2016-01-27 19:58 | 姫路城めぐり | Comments(2)  

花燃ゆ 第48話「富岡製糸場の危機」~楫取素彦の功績~

 平成26年(2014年)にユネスコ世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した官営製糸工場でした。場内には繰糸器300基も設置され、工女200人(のち約400人)が雇用されるなど、当時としては世界屈指の規模を誇っていました。また、労働条件は1日8時間の週休制で、食事や寮も完備され、医療費も無料という当時の日本では異例の好待遇だったそうです。そんなこともあって、全国から集った工女のなかには、元士族の娘も多く、長州藩出身の長井道子長井雅楽の娘)の姿もあったそうです。「産業」と呼べるものがほとんどなかった当時の日本にとって、富岡製糸場で生産される生糸は、日本が唯一世界に誇れる国産品でした。

 ところが、明治13年(1880年)11月5日、富岡製糸場は採算を度外視した経営が祟り、明治政府は民間への払い下げを決定します。当時の明治政府には、赤字続きの官営工場を維持するだけの体力はありませんでした。今でいえば、民営化推進の構造改革ですね。この時点での政府の判断は、決して間違いではなかったでしょう。明治政府は、民営化が上手く運ばなければ、閉場も辞さないという強硬な態度を示します。

 当時の群馬県令だったかとり楫取素彦も、当初は民間払い下げについて賛同の意向だったそうですが、しかし、閉場には大反対。払い下げが上手く運ばない状況を見ると、これは猶予ならぬ事態として、即座に官営の継続を政府に請願しています。明治14年(18881年)11月、素彦は農商務卿・西郷従道の元を訪れ、官営存続の請願書を提出しました。その際、民間払い下げのメドがつくまで官営を継続するよう強く口頭で要請したそうです。

 また、素彦は富岡製糸場を閉場させないために、元前橋藩士で、この当時、農商務省に出仕していた速水堅曹と協力して、県内の生糸産業の有力者に直輸出専門の商社創立を説いてまわりました。そして、明治13年(1880年)12月には、生糸直輸出商社である「横浜同伸会社」を資本金10万円で創設しています。社長には速水堅曹が就任し、会長には星野長太郎。そしてその長太郎の弟・新井順一郎は取締役兼ニューヨーク支店長となり、直輸出の体制をつくりあげました。幕末の安政6年(1859年)に幕府大老・井伊直弼によって開港されて以来21年、楫取県政によって日本の直輸出がようやくスタートします。

 その後、直輸出の向上とともに富岡製糸場の経営も好転し、やがて10数年が過ぎた明治26年(1893年)に三井家が払い下げに応じ、以後、経営母体が代わりながら、昭和63年(1987年)に閉鎖となるまで、実に105年間操業し続けました。閉鎖後も最後の所有者である片倉工業が毎年1億円のコストをかけて保全修理につとめ、そして昨年、ユネスコ世界遺産に登録されるに至ります。

 もし、素彦が閉場差し止めの請願を行っていなければ、あるいは明治政府によって富岡製糸場は破却されていたかもしれません。そうなっていれば、世界遺産・富岡製糸場は存在しなかったわけで、素彦の大きな功績のひとつといえるでしょうね。民間でできることは民間で・・・小泉政権のときによく耳にした言葉ですが、まあ、間違いではないと思いますが、それもタイミングが必要ということでしょう。明治初期の富岡製糸場は、赤字経営でも国が面倒を見る必要があった、ということですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-30 17:26 | 花燃ゆ | Comments(0)  

明治日本の産業革命遺産の世界文化遺産登録に思う、世界遺産の価値。

e0158128_17402144.jpg先般、「明治の日本産業革命遺産」と銘打った日本各地23ヵ所の史跡が、一斉に世界遺産登録となりましたね。
この日を目指して活動されていた関係者の方々は喜びでいっぱいだと思いますが、昨年は群馬県の富岡製糸場、一昨年は富士山、たしかその前の年は岩手県の平泉と、このところ毎年、世界遺産が増えているようで、しかも今回は一気に日本各地に23ヵ所も世界遺産が誕生したわけで、喜ばしい反面、なんか有り難みがなくなってきたような気がしないでもないです。
まあ、世界でいちばん世界遺産が多いイタリアには、50もの登録があるそうですから、そう考えれば、日本は今回で19番目の世界遺産登録ですから(今回の登録は23ヵ所の構成資産としてカウントはとなります)、世界的に見れば、特別多いというわけではないようです。
歴史の深さで言えば、日本はイタリアに決して引けをとらないですからね。
(上の写真は6月25日に発売された富岡製糸場の記念切手です。これが発売された数日後に、このたびの世界遺産登録が決定されました。来年あたり、また今回分の記念切手が発売されるんじゃないでしょうか。)

ただ、今回の抱き合せ登録というのはどうなんでしょうね。
古都京都古都奈良も一括で世界遺産に認定されていますが、あれとはずいぶん違うように思います。
全部ひっくるめてカウント1ということは、穿った見方をすれば、ひとつひとつ単体では世界遺産に登録されるほどの価値がないものを、まとめて明治云々といった付加価値をつけて、無理やり世界遺産にしてしまったように思えてなりません。
だって、同じような明治の産業遺産でも、昨年の富岡製糸場は、それ単体で世界遺産に登録されたわけですし、一括登録されている京都や奈良に至っては、単体でも世界遺産の価値があるものばかりだということは、誰もが認めるところです。
それと比べたら、ずいぶんショボい・・・失敬、見劣り観は否めないんじゃないでしょうか(実際、わたし個人的な観点からでも、これまでの18の世界遺産はすべて登録前から知っていたものばかりでしたが、このたびの23資産のなかには、今回はじめて知ったものもあります)。

日本の遺産が世界遺産となって各国から注目されるのは喜ばしいことですが、何でもかんでも登録すりゃいいってもんでもないと思います。
歴史の深いわが国ですから、もっと歴史的価値の高い遺産は他にたくさんあります。
寺社仏閣城跡など、同じような史跡をたくさん登録してもしょうがない、といった考え方もあろうかと思いますが、そもそも世界遺産の概念は、世界各国の歴史的価値のある遺跡や建築物などを、国の垣根を超えて世界じゅうの人々で守っていきましょう!・・・というものであって、観光誘致が目的ではないですからね。

わたし個人的には、このたび世界遺産となった場所には、ほとんど行ったことがありません。
などはかねから行きたいと思っていた場所のひとつでしたから、これを機にぜひ足を運んでみたいと思いますが、今回の構成資産はほとんどが炭鉱跡やら製鐵所跡造船所といった産業革命の施設なのに、その中で、萩城下町松下村塾だけ、明らかに他と異質な存在ですよね。
これって、やっぱ政治力ですかね?
こんなところにも政治家の力関係や下心が見えると、なんかシラケちゃうんですよね。
誰とは言いませんが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-08 17:46 | 時事問題 | Comments(0)  

広島を訪れたなら行かないわけにはいかない原爆ドームに学ぶ。

先週、出張ついでの広島城見物について起稿しましたが、せっかく広島に行ったので、原爆ドームのことも少しだけ記録したいと思います。

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いまさら説明するまでもないと思いますが、昭和20年(1945年)8月6日、世界史上はじめての原子爆弾投下によって破壊された、旧広島県産業奨励館の残骸です。

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爆弾はこの建物のほぼ直上約600mの空中で爆発し、そのたった1個の爆弾によって、20万人を超える市民の命が奪われ、半径2kmに及ぶ市街地が廃虚と化しました。

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現地の説明看板ではじめて知ったのですが、ここ原爆ドームは戦後まもなく保存が決まったわけではなかったんですね。
説明によると、被爆後の姿のまま放置されていたものが、昭和28年(1953年)に広島県から広島市に譲与され、保存が正式に決まったのは、昭和41年(1966年)7月のことだったのだとか。
実に戦後20年後のことだったんですね。
それまで、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという意見が対立していたそうです。

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原爆ドームという名称も、誰かが考えたというものではなく、頂上の円蓋鉄骨の形から、戦後、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになったんだそうですね。
いまでは日本人なら誰でも知っている原爆ドームですが、実は、意図的に造られたものではなく、自然発生的にシンボル化したものだったんですね。

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平成8年(1996年)12月には、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。
文化遺産とは、おもに歴史的価値の高い建造物が指定されていますが、そのほとんどが、災害などの被害を免れて、長い年月原型をとどめてきたものばかりで、人工的に破壊されたことにより文化遺産の対象となった建物は、たぶん原爆ドームだけなんじゃないでしょうか?
その意味では、世界遺産の中でも稀有な存在といえます。

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ライトアップされた夜の原爆ドームです。
三脚を持ち合わせていなかったので、手ブレまくりです。

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毎年原爆の日に行われる平和祈念式典の席に、いまでは当たり前のように内閣総理大臣が出席していますが、初めて式典に出席したのは、原爆投下から26年が過ぎた昭和46年(1971年)の佐藤栄作首相だったそうですね。
これも初めて知りました。
過去が歴史になるまでには、それ相応の年月が必要だということでしょう。
また、就任して間もない頃のアメリカのオバマ大統領が、米国大統領として初めて原爆ドームを訪れるんじゃないかといった噂も当時ありましたが、その後、日本が民主党政権になったために計画は頓挫したともいいますよね。
それが実現したら、歴史はまた大きな一歩を踏み出すことになったのでしょうが、いまの日米関係とオバマ大統領の力では無理でしょうね。
まだまだ、本当の意味での歴史になるには、時間がかかりそうです。

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わたしが行ったこの日も、外国人の方がたくさん訪れていました。
世界遺産登録の影響は大きいようですね。
今年は戦後70年の節目の年にあたりますが、ノーモア・ヒロシマのシンボルである原爆ドームを、今後もたくさんの外国人の方々に見てほしいですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1
晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-19 20:21 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)