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太平記を歩く。 その158 「天龍寺」 京都市右京区

世界遺産に登録されている京都・嵐山の天龍寺を訪れました。

ここは、暦応2年/延元4年(1339年)に吉野で崩御した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために、足利尊氏夢窓疎石を開山として創建したと伝わる大寺院です。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、なんで菩提を弔う寺院を?・・・と思ってしまいますが、そこは、複雑な心中があったのでしょうね。

尊氏の「尊」は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて改名したもの。

そんな関係にありながら、結果的に敵対する関係になってしまったことで、少なからず胸を痛めていたのかもしれません。

逆賊の誹りを逃れたいという思惑もあったかもしれませんね。

あるいは、天皇が怨霊となって祟りをなすのを恐れたのかもしれません。

そんな尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うことを強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石だったと伝わります。


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元々この地は、嵯峨天皇(第52代天皇)の后である檀林皇后が開創した檀林寺のあったところで、のちに後嵯峨上皇(第88代天皇)ととその皇子である亀山天皇(第90代天皇)の仙洞御所・亀山殿が営まれた場所です。

後醍醐天皇は、この地で幼少期を過ごしたと伝わります。


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寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定だったそうですが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたといわれます。


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造営に際して尊氏や光厳上皇(北朝初代天皇)が荘園を寄進しましたが、それでも費用が足りず、直義は夢窓疎石と相談のうえ、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画しました。

これが有名な「天龍寺船」の始まりです。


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庫裏と呼ばれる堂の玄関を入った正面に置かれる達磨図の大衝立。

前管長である平田精耕老師の筆によるもので、大方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴した天龍寺の顔といえるものです。


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こちらは大方丈のなか。

庫裏、大方丈内は自由に見学できるのですが、観光客がいっぱいで、いい写真がありません。


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こちらが、大方丈の西側に広がる曹源池庭園

夢窓疎石作の庭園といわれ、わが国最初の史跡・特別名勝に指定された庭園です。


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そして、平成6年(1994年)、世界文化遺産に登録されました。


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こちらは、境内西北にある多宝殿

ここに、後醍醐天皇の木像が安置されています。


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畳の間には入れませんが、ラッキーなことに撮影禁止ではありませんでした。


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ズームです。

肖像画に似てますね。

いつの時代に作られたものかは、調べがつきませんでした。


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康永2年(1343年)に完成した天龍寺は京都五山の第一位に擬せられ、室町幕府の隆盛とともに最盛期には子院が150を数える巨大寺院にまで成長しますが、その後、度重なる大火に見舞われ、やがて室町幕府の衰退とともに寺運も衰え、応仁の乱によって堂塔伽藍がことごとく焼失すると、しばらく再建もままならない状態が続きます。

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この状況を救ったのが豊臣秀吉で、豊臣政権下で天龍寺は蘇り、その後、徳川政権下でも庇護を受け、江戸時代中期にはかつての隆盛を取り戻すまでに至りますが、幕末の禁門の変の際に長州軍の拠点となったことで薩摩軍から砲撃を受け、ことごとく破壊されました。

現代の建造物のほとんどは、明治期に再建されたものです。


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嵐山といえば紅葉の名所で知られ、ここ天龍寺の庭園も、美しい景観が見られるとのことです。

ここを訪れたのは10月10日、ちょっと早かったですね。

今度は紅葉狩りに訪れたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-30 01:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~

二条城本丸へは、二ノ丸御殿との間の内堀に架かる東橋を渡り、本丸櫓門(本丸東櫓門)から入ります。


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本丸櫓門は入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた天明の大火で唯一焼け残った遺構だそうで、国の重要文化財に指定されています。


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寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸の際、そのときの木橋2階橋だったそうで、天皇は二ノ丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれたといわれます。

その2階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていたそうですが、その後、解体されたそうで、その部材は土蔵で保管されているそうです。


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木橋から北側の内堀を撮影。

前稿で紹介した鳴子門が見えます。


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こちらが南側の内堀。

前稿で紹介した桃山門が見えます。


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櫓門をくぐると、両側に櫓跡と思われる石垣があり、その向こうは枡形虎口になっています。


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枡形の奥には雁木があります。

これは往時のものではないような・・・。


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振り返って櫓門を見ます。

櫓の土塀には砲撃用の狭間が見えます。

この両側の石垣上にも櫓があったとすれば、防御は完璧

この門をくぐった時点で蜂の巣状態ですね。


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櫓門をあとにして、本丸庭園に向かいます。


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この庭園は明治29年(1896年)に明治天皇(第122代天皇)の指示によって造られたものだそうです。


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本丸御殿御常御殿です。


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現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893年)から翌年にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。


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創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模だったそうですが、天明の大火によって焼失してしまったそうです。

その後、本丸御殿は再建されませんでしたが、幕末に第15代将軍・徳川慶喜の住居として再建されました。

しかし、この御殿も明治14年(1881年)に撤去されました。


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こちらは、本丸御殿玄関です。

現在の本丸御殿は、玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間4棟からなります。


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そして、本丸西南にある天守台を登ります。

かつてはここに天守がありましたが、寛延3年(1750年)に落雷焼失して以来、再建されませんでした。


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天守台には手すり付きの階段が設置されており、簡単に登れます。


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石垣は「打込み接ぎ」です。


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天守台の上です。

石垣の高さは18m、広さは427㎡だそうです。

かつてここにあった天守は、寛永3年(1626年)に伏見城から移設されたと考えられています。

屋根は5重、内部は地上5階、地下1階の構造だったと伝わります。


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天守台から本丸御殿を望みます。


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こちらは天守台から北側に見える本丸西門西橋です。


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こちらは天守台西側に見える土蔵


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そしてこちらは、南側内堀です。


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徳川家康によって築城された当時の天守は、こことは違う場所(城の北西部分)にあったといわれ、『洛中洛外図屏風』望楼型の5重天守として描かれています。

その天守は、ここに家光が天守を築いたとき、淀城移築されたと言われます。


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天守台を降りて、本丸西側の西門から外に出ます。


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見事に残る打込み接ぎの石垣。


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西門も東門と同じく枡形虎口になっています。


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西門の橋から見た天守台。


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さて、4稿に渡って紹介してきた二条城ですが、これですべて回りました。

大政奉還から今年で150年、その他にも、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の会見など、時を超えて歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


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帰りに二条城を次代へ保存・継承していくための募金「二条城一口城主募金」をしたところ、缶バッジクリアファイルなどの記念品をいただきました。

今日からわたしも二条城の城主です(笑)。







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by sakanoueno-kumo | 2017-11-11 00:31 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その140 「吉水神社」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から南東に300mほど下ったところに、吉水神社という由緒ある神社があるのですが、ここはかつて吉水院といわれ、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山に入ると、吉水院の住僧であり金峯山寺の執行でもあった宗信法印らに迎えられ、ひとまず、ここ吉水院を仮の皇居としました。


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天皇は、楠木正行、真木定観、三輪西阿ら率いる兵に守られ、ここ吉水院に入ったと伝えられます。


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吉水神社の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されています。


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が、残念ながら、わたしが訪れたこの時期は、書院改修工事中のためその外観を見ることができませんでした。


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由緒書きです。


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外観は見られませんでしたが、書院内は見学できました。


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書院内には、後醍醐天皇玉座が残されています。


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南朝4代57年の歴史は、ここから始まったんですね。


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この部屋は上段の間五畳下段十畳敷で構成されています。


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「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」

この有名な後醍醐天皇の御製は、この部屋で生まれたそうです。


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こちらも御製。


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時代は下って文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際、ここ吉水院を本陣として数日間滞在したと伝えられますが、その際、この部屋も修繕されたと伝わります。


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正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品だそうです。


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書院内には、後醍醐天皇に関する様々な宝物が展示されています。

撮影禁止じゃないのがありがたい。


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こちらの掛け軸は、若き後醍醐天皇御宸影


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こちらは、教科書などでよく知られている後醍醐天皇御潅頂宸影です。


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こちらは後醍醐天皇御宸翰

天皇自筆の書ということですね。


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他にも、石硯や茶入れなど、後醍醐天皇御物が数多く展示されています。


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『太平記』とは関係ありませんが、先述したように安土桃山時代、豊臣秀吉がここで盛大な花見を催しており、そのときの寄贈物も多く残されています。

上の写真は秀吉愛用の金屏風


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こちらは豊太閤吉野之花見図の複製。


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こちらは秀吉寄贈の壺と花瓶


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また、時代は遡って、文治元年(1185年)、兄・源頼朝の追手を逃れた源義経静御前は、弁慶と共に吉野に入り、ここ吉水院に潜伏していたとの伝承もあります。

そして、ここが義経と静御前の別れの地となったそうです。

上の写真は、義経らが数日間を過ごした潜居の間


「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前

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書院を出て庭の北側に行くと、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋できる日を祈ったとい北闕門(ほっけつもん)があります。


「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」後醍醐天皇御製


上の御製は後醍醐天皇の辞世と言われていますが、この歌にある「北闕の天」とは、この門から見た京都の空のことでしょう。


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北闕門に掲げられた後醍醐天皇御製です。


「みよし野の 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん」後醍醐天皇御製


ある日、この門の前で後醍醐天皇がこの歌を詠まれると、側にいた宗信法印が次の歌を返したといいます。


「花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよし野の山」宗信法印


後醍醐天皇は京に戻る日をにたとえ、「花はいつ咲くのだろか?」と宗信法印に問うたところ、「花の咲く時期はわかりませんが、かならずすばらしい花が咲きますよ」と、宗信法印は返したんですね。

しかし、後醍醐天皇が生きているあいだにその花が咲くことはありませんでした。

後醍醐天皇崩御に際して、その忠臣たちがここで号泣したと伝えられます。

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様々な歴史の舞台となった吉水院は、明治8年(1875年)、吉水神社に改められました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-13 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その132 「吉野水分神社」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した高城山展望所から5分ほど歩いて坂を下ったところにある、吉野水分神社を訪れました。

ここは、『太平記』のなかに記述は出てきませんが、大塔宮護良親王の挙兵の詰城となった高城山頂上近くにある神社で、戦火に巻き込まれなかったはずがないと思い、シリーズのなかに入れました。


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由緒書によれば、創建については不詳だそうですが、延暦16年(797年)に完成した『続日本紀』のなかにも記述があるそうで、かなり古い歴史があることがわかります。


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水の配分を司る天之水分大神を主神とし7柱を祀っている神社で、平安時代中期ごろから子守(みこもり)明神とも呼ばれています。

これは、「みくまり」が訛って「みこもり」となったと考えられているそうで、子授けの神としての信仰を集め、あの豊臣秀吉もこの地を訪れ、豊臣秀頼を授かったといわれます。


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現在の社殿は、慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものだそうです。


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平成16年(2004年)7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-27 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その127 「金峯山寺・蔵王堂」 奈良県吉野郡吉野町

世界遺産に登録されている吉野山のなかで、シンボル的存在がここ金峯山寺です。

創建は7世紀、開基は伝説の呪術者・役小角と伝わります。


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なかでも、本堂の蔵王堂はその象徴的建築物で、天武天皇(第40代天皇)の勅願によって建てられたともいわれます。


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蔵王堂は入「母屋造り」という建築様式で、正面5間(約9m)、側面6間(約11m)、高さ約34mと、日本の木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇ります。


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さすがの大迫力です。


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現在でも修験道の根本道場として多くのひとびとの崇敬を集めている蔵王堂ですが、特に平安時代から鎌倉時代には隆盛をきわめ、多数の堂塔が並び建ち、吉野大衆と称せられる大勢の僧兵が集まっていたといいます。


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長い歴史のあいだには何度も火災に遭い、寛治7年(1093年)、嘉禄元年(1225年)、文永元年(1264年)に焼失した記録があります。

その都度、強い信仰の力によって復興されてきましたが、正平3年(1348年)1月28日、足利軍の高師直による焼き討ちによって兵火にかかったときには、その再建に実に60年余りも要しました。


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『太平記』巻26「吉野炎上の事」では、

「さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。」

と、その惨状を嘆いています。


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ちなみに、その後も天正14年(1586年)にも失火によって焼失し、現在の蔵王堂は天正20年(1592年)に再建されたものです。

そして平成16年(2004年)7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-20 22:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その109 「東寺」 京都市南区

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が比叡山に入ると、京を占拠した足利尊氏は、はじめ男山八幡に陣を布いて比叡山に総攻撃を仕掛け、その後、延元元年/建武3年6月14日に、ここ東寺に布陣しました。

東寺は、世界文化遺産に登録されている京都の顔です。


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九条通りに面した正門・南大門です。


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そして南大門を潜ると、国宝・金堂が正面に見えます。


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金堂は1200年以上前からあったとされますが、現在のものは慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進によって再建したものだそうです。


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こちらは重要文化財の講堂


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そして、こちらが有名な五重塔

国宝です。


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東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8mは、木造塔としては日本一の高さを誇ります。


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尊氏が東寺に入ると、名和長年四条隆資など後醍醐天皇方の武将が次々に東寺に攻め込みますが、名和長年は討死し、四条隆資は足利方の土岐頼直に阻まれ、上手く進軍できません。

そんななかの延元元年/建武3年6月30日、新田義貞率いる2万の軍勢が猛然と大宮通りを東寺に向かって進軍し、六条大宮付近で足利軍の激しく激突。

苦戦した足利軍は東寺の東大門から境内になだれ込み、最後の一人が境内に入ると同時に東大門は閉ざされました。


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ここが、外側から見た東大門ですが、平成29年(2017年)5月現在、修築工事中とのことで、養生柵に囲われています。


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柵の上に腕を伸ばして撮影。


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こちらは、境内から見た東大門

工事関係者の車両が停まっています。

邪魔だなあ・・・。


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その説明板。

通称「不開門(あかずのもん)」と呼ばれているそうです。


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足利方によって東大門が閉ざされると、新田軍はその門めがけて無数の矢を放ったといいます。

義貞が門外より尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、尊氏はその挑発にのることなく、その後も東大門が開くことはありませんでした。

そんな由来で、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれるようになったのだとか。


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門扉には新田軍が放った矢の跡があると聞いてきたのですが、残念ながら工事が終わるまで見ることはできなさそうです。


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こちらは、この戦いより半年間、尊氏が居館としていたと伝わる食堂です。


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そして、こちらはその間、光厳上皇(北朝初代天皇)の行宮となった小子坊。


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正門の門扉は菊の御紋です。


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この新田軍の総攻撃が失敗に終わったことで、その後、後醍醐天皇方の形勢は厳しくなり、やがて後醍醐天皇は足利方の和平工作に応じ始めます。

しかし、義貞にはこの事実は知らされておらず、義貞がこのことを知ったのは、和議を結ぶ当日でした。

これを知った義貞の家臣・堀口貞満が涙ながらに後醍醐天皇の無節操を非難して訴えるシーンが『太平記』に描かれます。

しかし、結果的に後醍醐天皇は、義貞を切り捨てるかたちをとりました。

一方で、天皇はこの和議は一時的な「計略」であるとの旨を義貞に伝え、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐためだったと取り繕います。

これを聞いた義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて北国へと下向させてほしいと提言し、後醍醐天皇もこれを受け入れます。


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後醍醐天皇による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いも拭いきれません。

しかし、この日を機に後醍醐天皇方が2つに分裂したのは確かで、何らかの行き違いがあったのは間違いないでしょう。

義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸入りしたのは、自身が逆賊扱いされないための人質だったのかもしれません。

というわけで、次回から北陸の新田義貞らの足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-23 22:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

さて、この日は朝9時から夕方5時すぎまで、みっちり姫路城とその周辺を歩き廻ったのですが、最後に、どの稿でも紹介しきれなかった姫路城の眺望も含めて、もう一度姫路城天守いろんな角度から望みたいと思います。

まずは、大手門から。


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続いて、大手門を入った南側三の丸広場から。


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三国堀から。


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二の丸広場から。

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本丸広場(備前丸)から。


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西の丸から。

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東側の喜斎門跡から。

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北側シロトピア公園から。

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男山配水公園から。

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だいぶ夕方になってきました。
南東の城見公園から。

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千姫ぼたん園から。

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そして最後は、南側イーグレひめじからです。

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どの角度から見ても、素晴らしいですね。

この美しい城を築城した池田輝政公と、その後、城の保存に従事してきたすべての関係者に感謝です。

以上で姫路城めぐりのシリーズを終わりますが、姫路はわがまち神戸から車で30分ほどの距離ですから、今回めぐりきれなかった中堀外堀なども、いつかまたレポートしたいと思います。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-05 00:35 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~

姫路城には、いろは順に名づけられた15ヵ所、その他の門が69ヵ所、あわせて84の防御門あったそうですが、 そのうち21門が現存しています。

本稿では、それらの門(すべてではありませんが)を見ながら歩いてみます。

まずは、「大手門」

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大手門とはいうまでもなく正面玄関のことですが、実はこの大手門は昭和13年(1938年)に建てられたものだそうで、江戸時代のそれとは位置も大きさもまったく異なるそうです。

というのも、現在の姫路城の敷地は、江戸時代でいえば内堀内の内曲輪で、本来の大手門は、もっとずっとずっと外側にあったんですね。

本来の姫路城の縄張りは、めちゃめちゃバカでかいですから。

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上の写真は三の丸広場の北西登城口にある「菱の門」です。

表玄関にふさわしく格式高い櫓門で、伏見城から移築されたという説もあります。

火灯窓(かとうまど)が特徴的ですね。

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「いの門」です。↑↑↑

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「ろの門」です。↑↑↑

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「はの門」に向かう石段。

この坂道は「将軍坂」と呼ばれていて、時代劇などでもよく出てくるロケーションです。

今年の新春時代劇『信長萌ゆ』でも、この将軍坂の向こうにCGの安土城を合成していました。

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「はの門」です。↑↑↑

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「にの門」↑↑↑

天井が低く登りながら曲がっていて、集団では進めないように設計されています。

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「ほの門」↑↑↑

ひとりずつしか入れないほど狭い門です。

ここをくぐると、天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっています。

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その天守群の周りにある「水の一門」です。↑↑↑

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「水の二門」です。↑↑↑


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このあたりはすべて天守の周りですから、導線が狭い上に、上の石落としから石が降ってきます。

よく考えられていますね。

このあと水の門は六門まで続くのですが、狭くて人が多くて、上手く撮影できませんでした。


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隠れた場所にある「るの門」です。↑↑↑

ここは伏兵の出入りを想定した出入り口だとか。

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三国堀から二の丸に登る「ぬの門」です。↑↑↑

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二の丸から本丸に登る「りの門」↑↑↑

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そして最期に、本丸東側の入口「備前門」です。↑↑↑

ざっと主だった門を紹介しました。

それぞれに特徴があり、役割があります。

すべてが池田輝政の築城時からあった門ではないでしょうが、よく考えられていますね。

もっとも、慶長14年(1609年)に完成した姫路城が、その後合戦の舞台になることはありませんでしたが・・・。

だから、美しいまま現存して世界遺産になったんですけどね。

次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-28 21:57 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~

昨年春に5年間の大天守改修工事を終えて一般公開された姫路城に、昨秋10月、ようやく行ってきました。

写真は天守南側の三の丸広場から。


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本当はもっと早く訪れたかったのですが、春先は連日2~3時間待ちとの報道でしたから、ちょっとほとぼりが冷めてから行こうと様子を見ていたところ、夏になっても状況はあまり変わらず、しびれを切らして朝早くから強行したのが10月17日。

この日も、朝9時のオープンに合わせて訪れたのですが、すでに天守への登城は40分待ちでした。

まあ、9月末のシルバーウイークなんて、とんでもないことになっていたみたいですから、まだましかなぁと・・・。


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テレビの報道などで既に何度も目にしていましたが、実際に訪れてみて、やはりこの白さに目を奪われます。

姫路城の美しさの象徴でもある白漆喰壁の天守は、白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」と呼ばれています。

この度の改修工事で屋根までもが白くなりましたから、まさに白鷺の姿となりました。

これは、瓦の継ぎ目に屋根目地漆喰を一面に塗ったせいで、角度によって屋根全体が白く見えるようになったそうです。


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ただ、この白さが保たれるのも長くて2年だそうですね。

漆喰の弱点はカビに弱いそうで、梅雨などの湿気の多い季節をすぎると、カビで黒ずんでくるんだそうです。

わたしが訪れたときも、既にオープンからひと夏を越してましたから、春先よりは若干白さが失われはじめていたかもしれません。

白い姫路城を見たい人は、早めに行ったほうがいいですよ。


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写真は三の丸広場です。

かつてこの三の丸には、御殿屋敷が立ち並んでいましたが、いまは芝生広場として、市民憩いの空間となっています。


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ご存知のとおり、国宝である姫路城は、平成5年(1993年)に奈良の法隆寺とともに、わが国最初の世界遺産に登録されました。

その理由はいくつかありますが、池田輝政によって現在の5重7階の天守が建てられてから400余年、改修工事を繰り返しながらも一度も建て替えられていないことがあげられます。

日本の現存天守12城(復元天守ではない城)のなかでは、最も大きく優れた木造建造物だという評価だそうです。

兵庫県民の誇りですね。


次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-27 19:58 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第48話「富岡製糸場の危機」~楫取素彦の功績~

 平成26年(2014年)にユネスコ世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した官営製糸工場でした。場内には繰糸器300基も設置され、工女200人(のち約400人)が雇用されるなど、当時としては世界屈指の規模を誇っていました。また、労働条件は1日8時間の週休制で、食事や寮も完備され、医療費も無料という当時の日本では異例の好待遇だったそうです。そんなこともあって、全国から集った工女のなかには、元士族の娘も多く、長州藩出身の長井道子長井雅楽の娘)の姿もあったそうです。「産業」と呼べるものがほとんどなかった当時の日本にとって、富岡製糸場で生産される生糸は、日本が唯一世界に誇れる国産品でした。

 ところが、明治13年(1880年)11月5日、富岡製糸場は採算を度外視した経営が祟り、明治政府は民間への払い下げを決定します。当時の明治政府には、赤字続きの官営工場を維持するだけの体力はありませんでした。今でいえば、民営化推進の構造改革ですね。この時点での政府の判断は、決して間違いではなかったでしょう。明治政府は、民営化が上手く運ばなければ、閉場も辞さないという強硬な態度を示します。

 当時の群馬県令だったかとり楫取素彦も、当初は民間払い下げについて賛同の意向だったそうですが、しかし、閉場には大反対。払い下げが上手く運ばない状況を見ると、これは猶予ならぬ事態として、即座に官営の継続を政府に請願しています。明治14年(18881年)11月、素彦は農商務卿・西郷従道の元を訪れ、官営存続の請願書を提出しました。その際、民間払い下げのメドがつくまで官営を継続するよう強く口頭で要請したそうです。

 また、素彦は富岡製糸場を閉場させないために、元前橋藩士で、この当時、農商務省に出仕していた速水堅曹と協力して、県内の生糸産業の有力者に直輸出専門の商社創立を説いてまわりました。そして、明治13年(1880年)12月には、生糸直輸出商社である「横浜同伸会社」を資本金10万円で創設しています。社長には速水堅曹が就任し、会長には星野長太郎。そしてその長太郎の弟・新井順一郎は取締役兼ニューヨーク支店長となり、直輸出の体制をつくりあげました。幕末の安政6年(1859年)に幕府大老・井伊直弼によって開港されて以来21年、楫取県政によって日本の直輸出がようやくスタートします。

 その後、直輸出の向上とともに富岡製糸場の経営も好転し、やがて10数年が過ぎた明治26年(1893年)に三井家が払い下げに応じ、以後、経営母体が代わりながら、昭和63年(1987年)に閉鎖となるまで、実に105年間操業し続けました。閉鎖後も最後の所有者である片倉工業が毎年1億円のコストをかけて保全修理につとめ、そして昨年、ユネスコ世界遺産に登録されるに至ります。

 もし、素彦が閉場差し止めの請願を行っていなければ、あるいは明治政府によって富岡製糸場は破却されていたかもしれません。そうなっていれば、世界遺産・富岡製糸場は存在しなかったわけで、素彦の大きな功績のひとつといえるでしょうね。民間でできることは民間で・・・小泉政権のときによく耳にした言葉ですが、まあ、間違いではないと思いますが、それもタイミングが必要ということでしょう。明治初期の富岡製糸場は、赤字経営でも国が面倒を見る必要があった、ということですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-30 17:26 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)