タグ:中岡慎太郎 ( 9 ) タグの人気記事

 

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その1

 長州藩正義党の革命から薩長同盟成立まで、本話で一気に1年も話が進んじゃいましたね。そこで本稿では、その間の流れを足早に解説します。

 高杉晋作ら反乱軍のクーデターが成功し、元治2年(1865年)1月27日、藩主・毛利敬親は藩政改革を約束します。こうして長州藩の政権は再び正義党が握るのですが、かつての正義党政権のときと根本的に違うのは、中心人物たちが「攘夷」という思想を捨てていたことでした。とくに、彼らを牽引する立場の高杉晋作が、率先して開国論を唱えはじめ、下関の開港を推し進めようとしたため、攘夷・俗論両派から命を狙われます。そんなわけで晋作は、一時、愛妾のおうのと共に、四国へ身をくらませていました。

 同時に新政権は、武装恭順という藩是を掲げます。武装恭順とは、表向きは幕府への恭順を装いながら戦闘準備をすすめるということで、いずれ幕府とやり合わなければならないと覚悟を決めた政策です。そこで長州藩は、兵力の近代化をはかるため、大村益次郎を起用して軍制改革を任せ、水面下で軍事力の強化をはかります。しかし、そうした長州藩の動きを、幕府がだまって見過ごしているわけはありません。長州藩内の政局を敏感に察知した幕府は、再び長州征伐軍を編成すべく、将軍・徳川家茂が大阪に入ります。元号を元治から慶応に改めた5月のことでした。

 ところが、2回目の長州征伐の号令に対して、薩摩藩が出兵を拒否します。その理由は、「このたびの長州再征は幕府と長州の私闘である」というものでしたが、実は水面下で薩摩藩と長州藩の手を握らせようという勢力が働き始めていました。その中心となっていたのが、土佐藩士の中岡慎太郎土方楠左衛門、そして坂本龍馬でした。ドラマでは龍馬ひとりが働いていたかのようでしたが、薩長同盟の構想に向けて最初に動き出したのは、中岡と土方でした。龍馬は、土方から構想を聞き、途中から協力することになります。

 5月、三条実美ら五卿に拝謁するため筑前太宰府を訪れていた龍馬は、たまたま密使として太宰府に来ていた長州藩士・塩間鉄蔵と名乗る人物に会います。この人物は、このとき変名を使っていた小田村伊之助でした。あまり知られていませんが、龍馬がはじめて長州藩士に薩長同盟の構想を語ったのが、このときの伊之助だったという説があります。伊之助は龍馬の話に強い関心を抱き、桂小五郎宛に龍馬との面会を勧める手紙を送っています。龍馬関係の物語などでは、龍馬と小五郎は若き日の剣術修行の頃からの旧知の仲で、薩長同盟時にもふたりの友情関係が大いに役だったように描かれることが多いですが、実際には、江戸で剣術修行をしていた時期も異なり、ふたりが知り合いだったことを裏付ける史料は存在しません。あるいは、このとき初めて知り合ったのかもしれません。

 桂と面会した龍馬は、土方とともに3日がかりで説得を重ねます。一方、薩摩には中岡が赴き、西郷吉之助を説得していました。そして同年閏5月21日、下関で西郷と桂の会談が行われる手筈が整います。ところが、約束の日に現れたのは、中岡ひとりでした。聞けば、実は下関港まで一緒に来たものの、突如京都にいる大久保一蔵から「至急上京すべし」との一報が入り、約束をほっぽっていっちゃった、とのこと。これには温厚篤実な桂も激怒。中岡と土方が構想した薩長同盟は暗礁に乗り上げてしまいます。

やはり1年分の話を1稿でまとめるのは無理でした。
続きは明日にします。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-08-24 23:32 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」

 「龍馬、人がみんなぁ自分のように、新しい世の中を望んじゅう思うたら大間違いぜよ。口ではどう言うとったちいざ扉が開いたら、戸惑い、怖気づく者は山のようにおるがじゃき。」
 「龍馬、人の気持ちは、それほど割り切れるもんではないがぜよ。」

 弥太郎と慎太郎の言葉どおり、龍馬が選んだ革命の道は、必ずしも皆が望んだ道ではなかった。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」
 龍馬が16歳のときに詠んだといわれるこの句のとおり、慶応3年のこの時期の彼の理解者は龍馬自身だけだったのかもしれない。

 大政奉還の偉業を成し遂げた坂本龍馬は、来たるべき新時代の政府の組織作りにとりかかった。三条家家士の戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て、「新官制議定書」と称する新政府組織案が出来たのは慶応3年(1867年)10月16日のことだった。その内容は、関白、内大臣、議奏、参議などの職制からなり、公卿、大名、諸藩士の名が適所に配置された見事な草案だった。ところが、新政府樹立の功労者が列挙されたその名簿の中に、肝心の龍馬自身の名がなかったという。それを見た西郷隆盛が龍馬の名がないことに気づき理由を尋ねたところ、「自分は役人にはなりたくないので新政府に入閣するつもりはない。」と答えたという。龍馬の魅力を語る上で、欠かせないエピソードである。龍馬の懐の大きさが感じられるエピソードだが、これひとつみてもまさに、「我が成す事は我のみぞ知る」の言葉どおりだった。

 そして11月、その仕上げともいえる「新政府網領八策」を作成する。その内容は同年6月に作成した「船中八策」と大きな違いはなかったが、この策をどのように実現させるかを記した結びの文が違っていた。
 「右、預メ二三明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公儀ニ違フ者ハ断然征伐ス。権門貴族モ貸借スル事ナシ。」
 ここで問題となるのが、「○○○」と伏せ字にされた盟主の名前だ。ドラマの龍馬は、ここに入るのは「皆」だと言っていたが、そんな民主的な発想がこの頃の龍馬にあったとはさすがに思えず、やはりここには、実名を表しては差し障りがある人物の名が入ると考えたほうが正しいだろう。となれば、やはり思い浮かぶのは、徳川慶喜だろう。龍馬は、上記の「新官制議定書」に見る関白の次の内大臣の職に、大政奉還を断行した慶喜こそふさわしいと考えていたといわれている。龍馬は、朝廷を中心に薩摩、長州、土佐などの雄藩に加え、徳川家も入れた新政府の樹立を考えていた。大政奉還の成立で肩すかしをくらった武力討幕派の薩長は、この「○○○」の伏せ字で、さらに龍馬への不信感を覚えたであろうことは容易に想像がつく。もはや龍馬は、誰からも理解されない人物になっていた。まさに、「我が成す事は我のみぞ知る」だった。

 慶応3年11月15日、その日は朝から雨だった。前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていた。寒さが厳しいので、龍馬は真綿の胴着に舶来絹の綿入れをかさね、その上に黒羽二重の羽織をひっかけていたという。夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきた。用件はわからない。このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいた。やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れ、しばらく雑談を交わしていると、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じた。峯吉が使いに出るとき、岡本も一緒に部屋をでた。峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ二、三十分。その間に事件は起きた。

 近江屋入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と名刺を差し出す。十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は別に怪しまず龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけた。その物音を聞いた龍馬は奥から「ほたえな!」と大喝した。藤吉が客人とふざけていると思ったのだろう。そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかった。そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらった。龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けた。続いての三の太刀は立ち上がりざま鞘で受け止めたが、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれた。脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れた。慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受け倒れた。刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去った。この刺客たちの、ほとんど間髪を入れないわざに、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も完全に立ち向かうすきがなかった。

 龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねた。慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼び医者を求めたが、そのときは既に精根が尽きていた。 「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに言って、うつぶしたまま龍馬は絶命した。その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたという。

 坂本龍馬、享年33歳。奇しくもこの日、彼の33回目の誕生日であった。

 慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。中岡慎太郎、享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 龍馬は大政奉還後ほとんど何も出来ぬままにこの世を去った。龍馬が明治の世まで生きていれば・・・後世の私たちは、幕末の英雄となった坂本龍馬についついそんなことを思う。しかし、同時代に生きる者たちにとっては、龍馬はむしろ疎ましい存在になっていた。繰り返し言うが、龍馬の最期は、誰からも理解されない境地に身を置いていた。彼の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていた龍馬。小説やドラマで颯爽としている龍馬からは想像もつかない、本当はどうしようもなく孤独な面をたえず持ち歩かねばならなかった、龍馬の晩年だったのではないかと私は思う。

 しかし、そんな孤独の中でも、きっと彼はこう言って笑っていたに違いない。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」・・・と。



 「龍馬伝」全48話が終わりました。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、どなた様もこのような素人のとりとめのない稚文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。今週中に「龍馬伝」総括を起稿したいと思いますので、よろしければまた、そちらにもお越しいただければ嬉しく思います。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-11-29 03:40 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(8)  

中岡慎太郎の命日に訪れる、坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難の地。

 本日、11月17日(旧暦)は中岡慎太郎の命日。前稿でも記述したとおり(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)、1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。龍馬はほぼ即死。慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 本日朝から、急な打ち合わせの仕事が入り、京都を訪れていた。せっかく京都に来たのだから、ちょうど中岡慎太郎の命日ということもあり、二人の受難の地・近江屋跡まで足を伸ばした。二人が暗殺された近江屋は、土佐藩邸用達の醤油商。京都市中京区河原町通四条にあった近江屋は現在は残っておらず、京都市内一番の繁華街となった四条河原町に、石碑がひっそりと立っている。

e0158128_1550859.jpg

 ここを訪れるのは今年2度目。2月に訪れたときも、拙ブログにて紹介させてもらった(参照:坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難の地)。本日、訪れてみると、おそらく一昨日の龍馬の命日に誰かが供えたであろう献花が、石碑の横にあった。突然思いつきで訪れた私は何の用意もしておらず、ただ手を合わせただけだったが・・・。

 近江屋跡は、今はコンビニエンスストアになっている。店の中には当然、龍馬グッズの販売コーナーがあった。前回訪れたときはマグカップを衝動買いしてしまったが、今回もまた、衝動買いをしてしまった。

e0158128_16205452.jpg

 龍馬伝のボールペンシャーペン。せっかく来たのだから、何か買って帰らないといけないような衝動に駆られてしまうのは、その昔、観光地などで販売されていた記念ペナントと同じようなもので、金を捨てるようなものなのだが、わかっていてもまんまと店の思惑にハマって買ってしまう幼稚な私です。それにしても、龍馬グッズばかりで慎太郎のグッズがないのが不憫だ。

 以前も述べたことだが、ここは龍馬ファンにとっては聖地のひとつであるものの、京都市一番の繁華街に埋もれ、気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所。私が写真撮影をしていると、通行人が初めて気づいた様子で石碑に目をやっていた。いくら市内繁華街のど真ん中とはいえ、龍馬暗殺の場所がコンビニというのはどうだろう。行政が買い取って保護することは出来なかったのだろうか。幕末の英雄・坂本龍馬の落命の地としては、あまりにも粗末な扱いに憤懣を感じる。何とかならないものだろうか・・・。

 とにもかくにも、大河ドラマ「龍馬伝」も、もうすぐ最終回を向かえる。


にほんブログ村に参加しています。
下の応援クリック頂けるとと嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-11-17 16:53 | 京都の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)  

坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。

 本日、11月15日(旧暦)は坂本龍馬の命日。今から143年前の1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。奇しくもこの日は、龍馬の33回目の誕生日でもあった。事件当日の内容は、2週後の大河ドラマ「龍馬伝」の最終回の稿に譲るとして、命日の今日は、未だ歴史の謎とされている暗殺犯の諸説、その代表的なものを簡単にまとめてみた。

■ 新選組説
 事件後、最初に疑われたのは新選組だった。彼らは言わずと知れた佐幕派の警察組織で、殺人集団ある。龍馬を襲う動機は十分にあり、また事件現場に証拠となる下駄刀の鞘が残っていたことが、疑いの発端となった。下駄は新選組がよく出入する料亭「瓢亭」のもので、鞘は新選組隊士・原田左之助のものであると、元新選組隊士であった高台寺党の伊東甲子太郎が証言している。この左之助説については、事件後2日間生き延びた中岡慎太郎が、刺客の中に「こなくそ」という伊予弁を使う人物がいたと証言したことで、伊予出身であるの原田左之助への疑いが強まった。以後明治に入るまでこの説が最も有力とされ、実際に新選組隊士・大石鍬次郎などはその疑いで処刑されている。しかし、その物証については後世の研究で矛盾点が立証され、また、慎太郎の証言についても信憑性を欠く部分が多く、現在では、この説を支持する人はほとんどない。

■ 見廻組説 
 この見廻組説が、現在もっとも定説とされているものである。上記、新選組の大石鍬次郎が官軍に捕えられたとき、龍馬暗殺の実行犯を「見廻組の今井信郎らの仕業だという話を聞いた。」と供述した。見廻組は幕府が設置した特殊治安部隊で、浪士結社の新選組に対して幕臣をもって組織された隊で、その任務は同じである。明治3年、函館の旧幕軍が降伏し、その降軍の中に今井信郎を発見、明治新政府の手によって捕えられた。今井はほどなく犯行を自供。供述によれば刺客団は隊長の佐々木唯三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人。しかし、今井自身はあくまで見張り役をしただけで、直接手を下してはいないという。真実はわからないが、結局今井は禁錮刑という軽い刑ですみ、明治5年(1872年)、特赦によって釈放されている。その後28年経った明治33年(1900年)、今井信郎自身が雑誌「近畿評論」「坂本龍馬を自らが斬った」と発表し、物議を醸した。さらに、それから15年後の大正4年(1915年)、渡辺篤という老人が自身の死を目前にして、坂本龍馬を殺したのは自分だと告白している。この老人が上記、渡辺吉太郎かどうかは定かではない。ただ、この渡辺の告白と今井の供述は、刺客の人数や名前など食い違う点が多く、その点はよくわからないが、二人とも襲撃時の供述内容は具体的な部分でも一致する点が多く、ほぼ信頼できる説となっている。しかし、上記、今井の減刑については何らかの政治的圧力があったといわれており、また、今井の自白があったにもかかわらず、見廻組が実行犯という説は明治政府上層部のみに知られる事実として、なぜか世間には公表されず、そのため新選組説がその後も長く信じられることとなったことから、現在でも研究者の間で様々な推論がる。

■ 紀州藩説
 この説は、動機としてはもっともわかりやすい。慶応3年4月、海援隊が搭乗していた船・いろは丸と紀州藩の船・明光丸が衝突した、いわゆる「いろは丸事件」によって紀州藩は賠償金8万3千両を支払うこととなった。我が国最初の「海難裁判」といわれるこの事件で、大藩の紀州相手に龍馬率いる浪士集団が勝った。このとき紀州代表として交渉にあたったのが三浦休太郎という人物で、以後、龍馬に対して恨みを抱いていたという。その報復による暗殺というのがこの説。実際、この「いろは丸事件」の談判中、龍馬暗殺を企てていたという話もある。龍馬の死後、海援隊の番頭格だった陸奥陽之助などは紀州藩を疑い、海援隊・陸援隊士ら16名で三浦を襲撃している(天満屋事件)。しかし、新選組に護衛を依頼していた三浦休太郎は軽傷のみで終わり、以後明治43年(1910年)まで長寿している。動機としては、もっとも単純で説得力もあり、陸奥が疑ったのも無理はないように思うが、この説にはこれといった証拠もなく、憶測の域を出ない。

■土佐藩黒幕説
 龍馬の所属藩であるはずの土佐藩だが、藩内での龍馬の身分は低く、しかもこの1年ほど前までは脱藩の罪で追われていた罪人の立場。この時期、天下の名士として名を轟かせていた龍馬だったが、他藩である薩摩や長州から懇意にされるほど土佐人からは重視されず、むしろ疎ましく思う者たちがいたであろうことも容易に想像できる。「大政奉還」という藩論を掲げて手を結んだ土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬だったが、その信頼関係はどこまで築かれていたかはわからない。龍馬が起草したといわれる「船中八策」の案を後藤が自分の手柄にするため龍馬を殺したという説があるが、この論でいくと龍馬の秘書官であった海援隊士・長岡謙吉なども殺さねばならず、少し無理がある推論だ。他、土佐藩にも薩摩藩と同じ武力倒幕を推す派もおり、その代表格である谷干城の仕業という説。谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物。事件後2日間生き延びた中岡慎太郎の証言は、この谷によって語られたものだ。現場の遺留品なども彼が発見したものであり、上記・新選組説を強く信じていて、局長・近藤勇を斬首に処したのも谷である。見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけだが、これも少々深読みし過ぎの観は否めない。谷は生涯を通して龍馬の暗殺犯を追ったという。

■薩摩藩黒幕説
 土佐藩説に比べて、こちらはリアリティーがある。龍馬と親交の深かった薩摩藩だったが、この時期に来てその関係は変わってくる。龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は目障りな存在になりつつあった。革命成就後の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論。実行犯は中村半次郎(桐野利秋)という説もあるが、暗殺未遂の場合を想定すると、他藩に顔の売れた中村ではリスクが大きく考え難い。直接薩摩藩士が手を下さず、黒幕として足が付かない刺客を送ったと考えるのが妥当だろう。とすれば、この時期薩摩藩を動かしていたのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の3人で、このうちの誰かが下命したと考えられる。西郷と小松は龍馬と昵懇だったが、大久保と龍馬の関係はあまり伝わっていないことから大久保を黒幕とする説があるが、逆に大久保は龍馬という人物をそれほど重視していた様子はうかがえず、また、事件後、大久保は龍馬や慎太郎と親交の深かった岩倉具視宛の手紙の中で、二人の死について驚きと遺憾の意を記しており、これを信じれば大久保は事件とは無関係ということになる。その手紙すら、味方をも欺くための偽文書と疑うこともできるが、そこまでいくと深読みしすぎのようにも思える。一方で西郷を黒幕とする説。上記見廻組説で実行犯のひとりとされた今井信郎の減刑に、西郷の口添えがあったという説がある。西郷と今井に面識はなかった。この話が事実だとすれば、西郷がなぜ面識のない今井の助命運動に疾走したのか、という疑問になり、そのことで、龍馬暗殺と西郷の何らかの関わりを想像できるが、この西郷の口添え説を裏付ける史料は残っておらず、憶測の域を出ない。ただ、後世の小説などにあるような、西郷と龍馬の間に信頼関係があったかどうかは疑わしく、また、もしそのような信頼関係があったとしても、幕末きってのマキャヴェリスト西郷にとって、武力倒幕を断行するにあたって目障りな存在となった龍馬を消すことなど、ためらいの余地もなかっただろう。大久保説は、のちの明治政府での政争で後世に与えた不人気なイメージが作り出したもので、客観的に見れば、黒幕は西郷と考えるほうが、説得力があるように私は思う。

 他にも俗説は多々あるが、上記が主だったものである。私個人的には、実行犯は通説となっている見廻組とみてほぼ間違いないのではないかと思う。そこに黒幕がいたとすれば、これも現在通説となっている薩摩藩、その中でも西郷隆盛説にもっとも真実味を感じる。しかし武力倒幕を進めるにあたって、殺さねばならないほど薩摩が龍馬を重要視していたかという点では首を傾げるし、武力派にとっていわば同志である中岡慎太郎の死は薩摩にとって痛手だったはずで、そういった疑問は残る。その点で考えれば、単純に見廻組単独犯説というのも捨てきれない。実際に龍馬は前年の「寺田屋事件」以降、捕り方を殺害した罪で幕府から追われる身となっていた。「大政奉還」は幕府延命の妙案であり、それが龍馬によって推進されていることも幕府上層部の一部には知られていたものの、末端の知るところではなく、この時期でもまだ、坂本龍馬は幕府にとっての危険人物という認識だった。濡れ衣を着せられた新選組も同様の認識だったようだ。事実、今井は、「上からの命令」と供述しており、事件当日の昼間に堂々と近江屋に訪れ龍馬の不在を確認している事実から考えれば、見廻組にとっては正当な警察権の行使だった可能性は否定できない。

 こうして見ても、どの説にしても決定的な論証はなく、この先新しい史料が見つかる可能性も低く、永遠に歴史の謎だろう。通常、犯人探しのセオリーは、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」という着眼点で絞り込むものだが、龍馬の場合その条件に該当する者が多数いて、そのことが諸説を生む要因だといえる。後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬だが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようだ。
 龍馬の語録にこんな言葉がある。
 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」
 「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」

 大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味。儒教的な道徳が支配していたこの時代において、龍馬のこの言葉はあまりにも非常識な言葉だ。これは国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉で、本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわからないが、彼の濶達な生き方は、ときに人の恨みをかったり目障りな存在となったであろうことは容易に想像できる。 「敷居をまたげば、男には七人の敵がいる。」という言葉があるが、志を遂げるためにその何十倍もの敵を作ったであろう晩年の龍馬にとって、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれない。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-11-15 21:55 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(9)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)

 坂本龍馬大政奉還の周旋に動き始めた慶応2年(1866年)末、中岡慎太郎は、「窃(ひそか)に知己に示す論」(慶応2年10月執筆)、「愚論 窃に知己の人に示す」(同年11月執筆)という二つの論文を記している。
e0158128_1555366.jpg 「徳川を助くる今日の策は他無し。政権を朝廷に返上し、自ら退いて道を治め、臣子の分を尽すにあり。強て自から威を張らんとせば、則ち必滅疑無。諸侯若し信あらば、今日暴威を助けて自滅に至らんよりは、早く忠告し、一大諸侯となり、永久の基を立てしむべし。」
 この慎太郎の記した「窃に知己に示す論」の結論を見ると、龍馬の大政奉還論と根本的に一致していることがわかる。前年に記した「時勢論」の、「戦の一字」の名文が一人歩きし、武力倒幕一辺倒のイメージでとられがちな彼だが、この論文を見ると決してそうではなかったことがうかがえる。また、「愚論 窃に知己の人に示す」ではこうも記している。
 「窃に思ふに、大に開かんとすれば、其の船の仕法肝要なる故に、大坂辺の豪商と結び、洋商公会の法に習ひ商会を結び、下ノ関、大坂、長崎、上海、香港等へ其の局内の者を出し、大に国財を養ひたらば、海軍の助になるべし。」
 土佐の藩政改革を論及したものだが、ここでも龍馬の発想に接近していることは明らかだ。龍馬から得た経済眼だったと考えてもいいかもしれない。慎太郎は、龍馬のいう大政奉還論や経済感覚を、完全に肯定するまでには至らずとも、ひとつの手段として認めていたことがうかがえる。

 龍馬はどうだろう。慎太郎のいう武力倒幕論を全く認めない、平和主義非戦論者だったのだろうか。私は違うと思っている。たしかに彼は、慶応3年(1867年)5月、京における四侯会議がまとまらず、薩長がもはや武力討幕しかないと考え始めていたとき、「船中八策」後藤象二郎に説き、大政奉還を土佐の藩論とするよう促した。彼はこの時期、「いろは丸沈没事件」の談判で無駄な日々を費やしており、京の情勢に疎くなっていたという歴史家もいる。それも違うと思う。龍馬は現実を見据え、もっとも可能性の高い道を探していたのだと私は思う。

e0158128_1563989.jpg 長州は、前年の四境戦争で幕軍を追い払うだけの実力があることは証明された。薩摩も同等の力はあるだろう。しかし、徳川慶喜の率いる幕府直属軍も、フランス陸軍の援助のもとに軍制改革が強化されており、四境戦争のときよりかなり質が高まってきていることは、薩長とて知らないはずはない。薩長が事を起こすとしても、この5月、6月の段階ではまだ準備不足で、必ず勝てる保障などどこにもなかった。そんな博打のような革命路線で多くの無駄な命を亡くすことは、龍馬は避けたかったのだろう。龍馬が起案した「大政奉還」への道筋は、もし、幕府がこれを受け入れればそれでよし、受け入れずとも、この案を土佐藩が藩論として幕府に促している間に、武力討幕の準備も同時進行で進めるといった、両道の、いわば引き伸ばし策でもあったのではないだろうか。ここでも、あらゆる可能性を考えて策を施す、龍馬の現実的な政治手腕がうかがえる。後藤がこれを、まったくの平和路線と考え、これで武力討幕派を抑えて土佐藩がイニシアティブをとれると思ったことは間違いないだろう。しかし、龍馬は武力倒幕の道を完全否定しているわけではなかった。

 つまり私が言いたいのは、中岡慎太郎の武力討幕論に対して、坂本龍馬は大政奉還論平和革命コースという常識は、必ずしもそうとはいえないということだ。たしかに言論だけ見ていけば、慎太郎の方が武力倒幕論一本でまとまっている。しかし、実際の行動を見ると、慎太郎は龍馬の海援隊に呼応する陸援隊を作ったものの、現実には小銃の買い入れさえ上手く進んでいなかったのに対し、龍馬は新式ライフル銃1300挺を買い入れ、そのうち1000挺を土佐に送りつけるなど、はるかに具体的な討幕の準備を進めていた。言論で促すよりも、1000挺のライフル銃を土佐がどう始末するか、龍馬流の土佐藩に対する脅しだったのではないだろうか。龍馬と慎太郎は、決して相反する考えだったわけではなく、間違いなく同志だった。龍馬は、武力倒幕の準備を全力をあげて行った上で、薩摩、長州、土佐がまだその実力を持てない状況を見据え、もうひとつの道、「大政奉還」の案をいまひと押ししようとしたのだろうと私は思う。

 前編の冒頭で述べたように、もともと大政奉還論は、幕府側から出たものである。その大政奉還を、龍馬はかたちを変えてぎりぎりのタイミングで幕府に投げ返した。この政治的センスの良さは坂本龍馬の大きな魅力のひとつで、高く評価していいのではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-11-11 23:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)

 「大政奉還論」は、もちろん坂本龍馬が考えたものではない。最初に提唱したのは、幕閣の大久保一翁だった。一翁は文久2年(1862年)、幕府の衰退が甚だしい情勢から、政権を朝廷に返上して、徳川家も駿河一体の一大名になるべきだと城中で説いた。このとき幕府内では誰も賛同する者はいなかったが、その後、越前藩主・松平春嶽も同年10月13日付の政治総裁職辞任願で同意見を記し、翌年1月18日には勝海舟も江戸城大広間で将軍職辞退を発言している。ただ、この頃の大政奉還論は、後年の龍馬のそれとはニュアンスが少し違う。嘉永6年(1853年)の黒船来航から、幕府は鎖国が不可能であることを認識していた。しかし、当時の孝明天皇は開国に反対し、攘夷を求め続けていた。一翁たちのいう大政奉還論は、開国の必要性を朝廷に認識させ、それと引き換えに政権を返上する、といった意味での論だった。幕府の政権はあくまでも天皇から委任されたものであり、日本の第一主権者は天皇であることは歴史的にも明白であったが、鎌倉幕府以来600年以上も続いていた武家政権の中、朝廷に政権担当能力などなかった。攘夷、攘夷と簡単にいうが、では政権を返すから、やれるものならやってみろ、といった露骨な批判の意味を込めた大政奉還論だった。幕府側から出た大政奉還論は、つきつめれば低意はそこにあった。

e0158128_1524677.jpg 坂本龍馬が大政奉還論を初めて口にした記録は、慶応2年(1866年)8月、四境戦争で幕府が長州に敗れたのちだった。長崎にいた龍馬を訪ねてきた越前藩士・下山尚に、幕府はもうだめだ、親藩の春嶽公なら何とかなるから、「政権奉還ノ策ヲ速ヤカニ春嶽公ニ告ゲ、公一身之レニ当ラバ、幸ニ済スベキアラン」と語っている。春嶽が大政奉還の意見だったことは海舟から聞いていたことだろう。下山尚は越前への帰途、横井小楠に面会してこの龍馬の意見を告げると、小楠は「手ヲ拍シテ歎シタ」という。大政奉還論はもともと小楠からの発想でもあったからだ。越前に戻った下山は、直ちにこの意見を春嶽に伝えた。しかし、春嶽は難色を示した。彼がこの意見を述べた4年前とは情勢が変わっていたからである。4年前のそれは、朝廷はたとえ政権返上案を突きつけられても、のめるはずがないことが分かっていての、いわば脅しの意味のそれだった。今は違う。大政奉還は、徳川政権の終焉を意味する。春嶽にそれほどの意欲はなかった。彼は賢公ではあったが、所詮、実行の人ではなかった。

e0158128_1533825.jpg この時期より少し前の慶応元年末、中岡慎太郎は独自の論法で倒幕への見通しをたてた論文を記している。有名な「時勢論」である。封建の害の克服を目指して書かれたこの論の主眼は、龍馬とは違い武力そのものに集中していた。
 「夫れ国に兵権有て然る後、可和、可戦、可開、可鎖、皆権は我に在りて、而して其兵権なるものは武備に在り。其の気は士気にあり、故に卓見者の言に曰く、富国強兵と云うものは、戦の一字にあり、是れ実に大卓見にして千載の高議、確乎として不可抜、則も知能の事に処する者、且和し、且戦い、終始変化無窮極る者なり。」
 のちに伝説的に伝えられることになる「戦の一字」なのだが、この武力に集中した慎太郎の発想は、二度も朝廷の「賊」として追われた長州激派と共に行動してきた経験から引き出された信念だったといえる。彼はこの中で、死んだ久坂玄瑞の言葉を借りてこう記す。
 「西洋諸国と雖、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非共百戦中より英傑起り、議論に定りたる者に非らざれば、役に立たざるもの也。是非共早く一旦戦争を始めざれば、議論計りになりて事業は何時迄も運び不申」
 ロシアのペートル大帝を見ても、アメリカのワシントン大統領を見ても、戦争なくして革命は成立しないといった慎太郎の論は、決して的外れではなかった。

 歴史家の中には、この時期の龍馬の行動について、大政奉還の周旋を春嶽に依頼したことなどをあげて、「龍馬が主張する大政奉還論は、中岡の場合と違って現実の厳しい諸勢力の対立をかなり安易に判断しているとみなければならない。」と、手厳しい評価を下しているものもあるが、私はそうは思わない。薩摩も長州もまだ具体的な討幕の計画が出されていない慶応2年8月、大政奉還論というひとつの手段を、かねてから知り合いだった春嶽に促してみただけで、春嶽が動けばそれはそれで結構なことで、やらなければまた別の方法を考えればよしといった程度のものだったのではないだろうか。あらゆる可能性の種を一応は蒔いて布石を打っておくこと、これこそ龍馬の能力ではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-11-10 23:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第33話「亀山社中の大仕事」

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技だっただろう。ここから歴史は坂本龍馬を必要とする。薩摩と長州の和解・提携の仲介として奔走しはじめたのは、実は龍馬よりも中岡慎太郎・土方楠左衛門の二人の方が先だった。龍馬がこれに加わったのは、慶応元年(1865年)4月、土方と京で面談した際にこの企てを聞き、同調し関わっていったと考えるのが正しいようだ。言ってみれば、龍馬は慎太郎たちの推進する仕事の「お手伝い」をしていたにすぎなかったのかもしれない。西郷隆盛桂小五郎の下関会談の失敗までは・・・。

 龍馬は薩の側から、慎太郎は長の側から西郷を説いた。特に龍馬より長く両藩和解のために尽力してきた慎太郎は、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説いたという。しかし断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動けなかった。そこで龍馬が考案したとされるのが、前話で言った手みやげ話、薩摩名義で武器や船舶を購入し、長州へ回送するというプランだった。これは慎太郎には考え及ばない、亀山社中という組織を持つ龍馬だからこその発想だった。要は道理ではなく、「実利」なのだ。この着想が、坂本龍馬と亀山社中を歴史の表舞台へ一気に押し上げることとなる。

 幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていた。しかし、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていた。薩摩名義で武器を購入するということは、つまり長州を攻めるための武器ということ。その武器が実は長州の手に渡るというのだから、薩摩にとっては幕府に対してとんでもない反逆行為となる。西郷が慎重になるのは無理もないことだった。一方で壊滅寸前の長州にとっては喉から手が出るほど欲しいもので、これほどの誠意はない。この「実利」によって、薩長和解のステップを一歩進んだわけだが、このままでは一方的な薩の援助になってしまうと懸念した龍馬は、次に、長から薩への援助のプランを提案する。薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえぬかというものだった。長州は快諾した。しかし結局この兵糧米の受け取りを西郷は「長州国難」を理由に辞退する。それが西郷の誠意だった。こうして互いの「実利」というステップを踏みながら、薩長二藩は次第に接近していった。やはり、前回の下関会談は少々事を急ぎ過ぎていた。両藩の同盟締結までには、まずはこうした「和解」のための下準備が必要だったのだ。その「実利」という下準備の着想は、坂本龍馬が歴史に残した最初の奇跡だと私は思う。

 ドラマ中、英国商人・トーマス・ブレーク・グラバーと龍馬の密談シーンは実に面白かった。実際に龍馬がどのようにしてこの武器購入の話を持ち掛けたかはわからない。一説には、この「実利」のアイデア自体、実はグラバーが龍馬に入れ知恵したものという説もあるらしい。実際グラバーは後年の回想談で、「薩長の間にあった壁を壊したのが、自分の最大の手柄」であり、「徳川政府の謀反人の中では、自分が最大の反逆人であった。」と語っていることから、この説もまったく否定できないかもしれない。私は以前、第30話「龍馬の秘策」の稿で、龍馬たちの後ろ盾となったのは商人たちだった、と述べたが、その意味では、この後龍馬の最も力になったのは、このグラバーだった。龍馬とグラバー。この二人の出会いも、龍馬と勝海舟の出会いと同じぐらい、運命の出会いだったと私は思う。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-08-16 01:31 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(0)  

龍馬伝 第31話「西郷はまだか」

 慶応元年(1865年)閏5月頃、坂本龍馬は長崎において海運、貿易を業とする「商社」とでもいうべき団体を組織する。その名は「亀山社中」。本拠を亀山においたことからそう名付けられたといわれるが、実はこの名称は当時の史料には一切出てこないらしい。確認できる同時代の史料には「社中」とだけ記されていて、「亀山」という地名がついたものは残っていないそうだ。社中のメンバー・近藤長次郎の書簡や、後に土佐商会主任・長崎留守居役となった岩崎弥太郎の日記などにも「社中」としか記されていない。単に省略されただけとも解釈できるが、後の海援隊士・関義臣が明治になって語った回顧談に、「初めは唯、社中々々と称ったのを、土州藩に付属して後、海援隊と名づけた」という談が残っており、やはりどうやら当時は「社中」とだけ称していたようだ。「亀山社中」という名は、後世の史家によって名付けられたものだろう。

 坂本龍馬が大宰府を訪れたのは、慶応元年(1865年)5月23日、翌日24日には、この2年前の「八月十八日の政変」で京を逃れ長州に落ち、翌年の「第一次長州征伐」によってこの大宰府で幽閉生活を送っていた三条実美に謁し、その翌日には同じく幽閉生活中の東久世通禧に謁した。龍馬の目的は彼らに「薩長同盟」の趣旨の理解を得、長州と連絡をつけることにあった。龍馬と会談した東久世の日記には「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」と記されている。そう、この時点では、龍馬の説くところはまだ「奇説」でしかなかった。

 ようやく登場した盟友・中岡慎太郎武市半平太が投獄された文久3年(1863年)に脱藩した彼は、以後長州藩士と行動を共にし、「禁門の変」においても長州側として薩摩と戦っていた。言ってみれば、長州人と同じく「薩賊憎し」の立場にあるはずだった。一説には、薩摩藩国父・島津久光の暗殺を企てたこともあったという。そんな慎太郎が言う。
 「実はのう龍馬。わしもおまんと同じ考えを持っとったがじゃ。長州を助けるためには薩摩と手を組む以外にない。」
 ドラマ中、慎太郎が龍馬に言った言葉だが、まさしくそのとおりのようで、むしろ慎太郎の方が先に着想し行動していたといってもいい。この時期より3ヵ月程前の2月8日、中岡慎太郎と同じく土佐藩士・土方楠左衛門の二人は、下関の豪商・白石正一郎邸にて、薩摩の吉井幸輔、長州の三好内蔵助を加えて薩長和解を協議していた。その後上京した慎太郎と土方は常に薩摩屋敷に泊まり、同藩士の護衛をうけている。すでに二人は薩長間を奔走していた。そして幕府の「長州再征」にあたっていよいよ薩長和解の必要を痛感した彼らは、西郷隆盛が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、慎太郎は直接薩摩へ、土方は長州へそれぞれ二手にわかれて薩長を説きに向かった。龍馬が大宰府に訪れたのはそんなときだった。そして閏5月15日、白石正一郎屋敷で龍馬と土方が会うのだった。

 龍馬と土方は桂小五郎を説得した。しかし桂は薩摩への恨みを拭いきれないでいる。無理もない。長州が今瀕死の状態にあるのも、薩摩が土壇場で会津と組んだからだ。桂自身もそれ以来、京で、但馬で潜伏生活を8ヵ月も送っている。聡明な彼のことだから、龍馬と土方の説くところの必要性は十分に理解出来ただろう。しかしそれにも勝る恨みがあった。龍馬は説きに説いた。ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに閏5月21日まで待った。

 しかし、薩摩へ西郷を説きに行った中岡慎太郎は、茫然とひとりでやってきた。西郷は来なかったのである。彼は確かに慎太郎の説くところを了承し下関へ向かったのだが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と称して中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまった。桂は怒った。当然だった。

 薩摩と長州が手を結ぶには、まだ時間が必要だった。慎太郎や土方、そして龍馬も、少し事を急ぎ過ぎた。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったのである。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとした。これが失敗だった。

 ここまでの働きは、龍馬よりもむしろ中岡慎太郎と土方楠左衛門の働きが大きかった。ここからが龍馬と「亀山社中」の出番である。彼らが「和解」のための材料を用意し、やがては「同盟」に結びつけるまで、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要だった。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-08-03 03:02 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(0)  

坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難の地

 先日、仕事で京都を訪れ、坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された近江屋跡に立ち寄った。二人が暗殺された近江屋は、土佐藩邸用達の醤油商。京都市中京区河原町通四条にあった近江屋は現在は残っておらず、京都市内一番の繁華街となった河原町に、石碑がひっそりと立っている。

 数年前に訪れたときは、たしか旅行会社の店舗だったように思うのだが、いつの間にかコンビニエンスストアに変わっていた。以前から思っていたことだが、こういった場所は、市か府が買い取って史跡のような扱いに出来ないものだろうか。旅行会社からコンビニに変わるタイミングがあったのなら、なおさら思う。
e0158128_161327.jpg

 以前は石碑だけで、前を歩いても見落としてしまいそうだったが、今は看板が立てられていた。
e0158128_164868.jpg

 石碑は、昭和2年に京都市教育委員会によって建てられたそうである。
e0158128_166870.jpg

 コンビニになっていたので店の中に入ってみると、案の定、龍馬グッズの販売コーナーがあった。店の思うツボにハマった私はマグカップを購入。妻に「趣味ワル~!」と罵倒された品。↓↓↓
e0158128_16115285.jpg

 そして年甲斐もなく、キーホルダーまで買ってしまった嬉しがりの私です。↓↓↓
e0158128_1613545.jpg


 大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、全国各地の龍馬ゆかりの場所には今年多くの人が観光に訪れることだろう。冒頭にも書いたが、ここは京都市一番の繁華街で、気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所だが、龍馬ファンにとっては聖地のひとつ。京都に訪れた際は、一度足をはこんでみてはいかがでしょう。

 それにしても、このコンビニは今年1年でボロ儲けだろうなぁ・・・。


下のバナーを応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-02-10 16:26 | 京都の史跡・観光 | Trackback(2) | Comments(0)