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坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その2 ~エピローグ~

 戦後、東郷平八郎は日本海海戦の完璧な勝利によって、アドミラル・トーゴー(東郷提督)として世界中の注目を集め、日本だけではなく世界の歴史に名を刻んだ。たとえば、長年ロシアの圧力に苦しめられていたトルコなどは、自分の国の勝利のように歓喜し、東郷は国民的英雄になったそうである。その年にトルコで生まれた子供に「トーゴー」と命名する者もおり、「トーゴー通り」と名付けられた通りまであったとか。東郷平八郎は、トラファルガー海戦でフランススペイン連合艦隊を打ち破ったイギリス軍のネルソン、アメリカ独立戦争でイギリス艦隊を打ち破ったアメリカ人ジョン・ポール・ジョーンズと並んで「世界三大提督」と称された。

 日本でも東郷は当然、英雄視され、生きながらにして軍神に祭り上げられた。海軍内においては、軍令部長、軍事参議官を経て大正2年(1913年)に元帥府に列せられ、終身現役となる。大正3年(1914年)から大正10年(1921年)には、東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育にもあたった。ただ、その権威はあまりにも大きくなりすぎ、現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞くことが習慣化した。その結果、日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続けることとなった、という意見もある。人間が神様になって良い結果をもたらしたことはない。東郷の場合も例外ではなかったようである。

 昭和9年(1934年)、満86歳で逝去。侯爵に昇叙され国葬が行われた。その葬儀の日には、世界各国の海軍関係者が彼の死を惜しんだという。その後、東京都渋谷区、福岡県宗像郡津屋崎町に「東郷神社」が建立され、“神”として祭られた。

 “神”といえばもう一人、乃木希典陸軍大将も軍神となった。戦後「陸の乃木、海の東郷」と英雄視された乃木だったが、彼の場合、日露戦争の武功というよりも、多分に人格的、精神的要素が理由だった。たとえば、降伏したロシア兵に対する寛大な処置や、旅順攻囲戦後の水師営の会見における、敵将ステッセルに対する紳士的な態度などが、世界中から賞賛された。乃木にはどこか神秘的で人を魅了するところがあったのは確かなようで、敵兵のみならず、従軍していた外国人記者からも尊敬された。こちらも東郷の場合と同じく、子供の名前に乃木の名をもらうという例が、世界的に頻発したという。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。

 日露戦争の結果報告のため明治天皇に拝謁した乃木は、自らの不覚を天皇に詫び、涙声になりながら、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが、「今は死ぬべきときではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去ったのちにせよ」という趣旨のことを述べたとされる。その後、明治天皇のはからいで学習院院長を勤め、皇族の教育を尽力する。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御すると、それを待っていたかのように、乃木はその大喪の当日に妻と二人で自刃して果てる。その報道に日本国民は悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。その殉死は一部で批判的な声もあったものの、多くの庶民に賞賛され、日本各地で乃木を祀った乃木神社が創建されることになった。だが、その明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、やがて政治的・軍事的に徹底利用されることとなる。

 乃木の相棒、児玉源太郎は日露戦争終結8ヶ月後、参謀総長在任のまま 、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55歳。日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰えた観があり、ボーッと遠くを眺めているようなことがしばしばあったと言われる。作戦家として、軍事行政家として、日露戦争勝利のために日夜心血を注ぎ込んできた彼は、戦後はもはやすべてをやり尽くした感があり、生ける屍となっていたのかもしれない。小説「坂の上の雲」では、人事を尽くした児玉の最後の行動として「祈りに託す」という場面が幾度となく描かれているが、天性の機敏と胆力、的確ですばやい判断力と指導力を持った知将として名高い児玉でも、全身全霊を傾けて思考の限りを尽くし、最後の最後に行き着く先は「神頼み」なのかと、深く考えさせられたシーンである。その意味では、同じく「天才」と称された秋山真之もまた同じであった。

 「作戦上の心労のあまり寿命をちぢめてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」
 と戦後いわれたそうだが、真之は発狂したわけではなかった。しかし脳漿をしぼりきったあと、戦後の真之はそれ以前の真之とは別人の観があったことだけはたしかである。戦後、真之の言うことにはしばしば飛躍があり、日常的に神霊を信ずる人になった。真之はロシア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことを僅かに慰めとしていた。あの海戦は天佑に恵まれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてから少しずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖が勝利のあとの彼の精神に尋常でない緊張を与えていたのかもしれなかった。

 日露戦争時に中佐だった真之は、のちに日本海海戦の功により若くして海軍中将まで昇進するが、日露戦争後は僧侶になって戦争の呪縛から逃れたいと思う日々を送った。結局それは叶わなかったが、真之は自分の長男の大(ひろし)に僧になることを頼み、その長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えたという。真之の生涯は長くなく、大正7年(1918年)、49歳の若さで没した。晩年の真之は、宗教研究など精神世界に深くのめり込んでいき、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。

 その兄・秋山好古は、陸軍大将で退役したのち爵位をもらわず、故郷の松山に戻って私立の北予中学という無名の中学の校長を6年間務めた。従二位勲一等功二級陸軍大将という人間が田舎の私立中学の校長を務めるというのは、当時としては考えられないことであった。彼はその生涯において、
「男子は生涯一事をなせば足る。そのためには身辺は単純明快にしておく。」
 というのが信条で、常に無駄を省き、贅沢を嫌い、己の鍛錬に身をささげた。おそらく、爵位などには興味がなかったのだろう。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし、松山の家は彼の生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想を愛した。退役後は自らの功績を努めて隠し、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の話を聞かせてほしい」「陸軍大将の軍服を見せてほしい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することはなかった。好古は死ぬその年まで校長を務め、その年の4月、老後を養うため東京の借家に帰ってきたが、ほどなく発病した。見舞いに来た友人に、「もうあしはすることはした。逝ってもええのじゃ」と言ったりした。やがて、陸軍軍医学校に入院し、初めて酒のない生活をした。糖尿病と脱疽のため、左足を切断した。しかし、術後の経過は芳しくなく、昭和5年(1930年)11月4日、満71歳で病没した。好古が死んだとき、その知己たちは、こういったそうである。
「最後の武士が死んだ」と。

  司馬遼太郎氏は、原作第一巻のあとがきで、「坂の上の雲」という長い作品を書くあたり、
「たえずあたまにおいているばく然とした主題は日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかったのである。」
と述べている。明治維新によって初めて近代的な「国家」というものを持った日本人が、「まことに小さな国」の国民としてどのように物事を考え、どのように生きたか。
司馬氏はいう。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。



近日中に、「まとめ」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-28 17:27 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その2

 旅順の乃木軍司令部からの度重なる敗報を受けて、満州軍総参謀長・児玉源太郎は旅順に行くことにした。乃木希典のかわりに第三軍を指揮するためである。これは軍隊の生命とでもいうべき命令系統の破壊を意味する。しかし、秩序を守って日本を滅ぼしてしまっては何にもならない。このままでは旅順のせいで日本は潰れてしまう。児玉は軍法会議にでもなんでもかけられていいという肚があった。この局面で乃木から指揮権を奪うという越権行為が出来るのは、児玉しかいないという理由もあった。ひとつには、政治的な理由である。乃木も児玉も長州人で、もしどちらかが薩摩閥か、非薩長閥に属していたとすれば、実行不可能なことであった。加えて二人には維新以来の長い親交の歴史があり、お互い知り抜いた友人関係で、少々のことではあとに人間関係のシコリを残すことはない、と児玉は思っていた。それゆえ、他に変わりの人間は存在せず、乃木のもとに行けるのは自分以外にはいないと児玉は思っていた。ただ、もし乃木が自分を拒んだ場合のため、児玉は満州軍総司令官・大山巌の命令書を得て旅順に向かうことにした。しかし、できれば乃木の名誉のためにも、この命令書は使用したくはなかった。

 同じ頃、乃木希典は作戦思想を自ら修正し、攻撃の力点を二〇三高地へと向けようと決心した。これは乃木自身の判断であり、参謀長の伊地知幸介の発議によるものではなかった。乃木は開戦以来はじめて参謀長の意向を無視したのである。しかし、この数カ月の間にロシア軍はこの二〇三高地の重要性に気づき、そこにあらゆる砲塁のなかで最強のものを築きあげていた。乃木軍は、またも無数の屍を積み上げていくこととなった。そしてこの戦いで、乃木の次男・保典が戦死する。乃木はこの約半年前にも長男の勝典を南山の戦いで失っていた。子どもはこの2人だけである。乃木は、部下から保典の死を知らされたとき、「よく戦死してくれた。これで世間に申訳が立つ。よく死んでくれた」といったという。

 ロシア軍の銃砲火の中、乃木軍の死の突撃の反復の末、一時的に二〇三高地を占領することができた。が、ほんの束の間であった。乃木軍は二〇三高地の頂上にある二つの堡塁を占拠したものの、一つは生存者は100人ほどであり、もうひとつはたった40人前後であった。乃木軍はそれに対する兵員、弾薬、食料の補給をせず、軍司令部ははるか後方にいて前線の状況を把握するまもなく奪還されてしまった。児玉は旅順に向かう汽車の中でこの報告を受け、激怒した。

 旅順に着いた児玉は早速伊地知に会い、乃木軍司令部のこれまでの作戦について痛烈に批判した。その後児玉は乃木と二人きりで会見、乃木は第三軍の指揮権を一時的に児玉に委譲する。この辺り、原作小説では児玉が乃木の自尊心を傷つけないために、良い意味でペテンにかけるようなかたちで乃木から指揮権を奪い取るのだが、ドラマでは、乃木が児玉にあくまで二人の友情によって指揮権を委譲するといった描かれ方だった。これもおそらく、乃木=無能児玉=有能といった司馬氏的主観を、なるべく和らげようという制作者の意図によるものだろう。

 指揮権を委譲された児玉は作戦の大転換をはかった。もともとそのために旅順にきたのである。彼は幕僚を集め、「以下は命令である」と告げた。一座は動揺した。児玉は本来、大山の幕僚に過ぎず、乃木軍の幕僚に対する命令権は持っていない。それが命令をするのは統帥権の無視であったが、児玉は無視した。そして、つづけて「攻撃計画の修正を要求する」といってしまった。本来なら乃木がいうべき言葉である。児玉は二〇三高地の占領確保のため、重砲隊を移動して高崎山に陣地変換し、椅子山の制圧に乗り出すといった。そして、二〇三高地の占領を確実にするために、二十八サンチ砲での援護射撃を加えるという。この援護射撃は難しく、味方もろともに粉砕してしまう恐れがある。これを聞いた佐藤鋼次郎砲兵中佐は、「陛下の赤子を、陛下の砲をもって射つことはできません」と抗議した。ここからは、原作小説の文章をそのまま引用する。
 児玉は突如、両目に涙をあふれさせた。この光景を、児玉付の田中国重少佐は、生涯忘れなかった。児玉は、かれなりにおさえていた感情を、一時に噴き出させたのである。
「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、なるほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦をつづけてゆことによる地獄にくらべれば、はるかに軽微だ。いままでも何度か、歩兵は突撃して山上にとりついた。そのつど逆襲されて殺された。その逆襲をふせぐのだ。ふせぐ方法は、一大巨砲をもってする援護射撃以外にない。援護射撃は危険だからやめるという、その手の杓子定規の考え方のためにいままでどれだけの兵が死んできたか」

 私がこの小説の中で、もっとも好きな場面である。

 児玉が旅順を訪れてから4日目の明治37年(1904年)12月5日、陣地移動を完了した攻城砲は早暁から砲撃を開始。児玉の重砲陣地の大転換はみごとな功を奏しつつあった。攻撃開始から占領までに要した時間はわずかであり、まるで魔術を使ったような、嘘のような成功であった。午後2時、二〇三高地占領はほぼ確定した。児玉は山頂の将校に向かって電話した。
「そこから旅順港は、見おろせるか」
「見えます。各艦一望のうちにおさめることができます」

 児玉の作戦は奏功した。あとは、二十八サンチ榴弾砲で二〇三高地越えに旅順港の軍艦を射つことである。命中精度は、百発百中に近かった。

 児玉は乃木から指揮権を奪った。このことは部外に洩らしてはならない秘事であり、すべての功績は乃木希典に帰すべきであった。でなければ、児玉のやったことは、今後陸軍の統帥権の問題において、すさまじい悪例として残ることになる。旅順における児玉の役割は終わった。

 この旅順攻囲戦における児玉源太郎の指揮権介入のエピソードは、この小説の発表以降に世間一般に知られるようになったもので、児玉が旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、第3軍の指揮権に介入したという一次資料や記録は『坂の上の雲』以外には見られず(児玉の同行者だった田中国重の回想録にあるそうだが)、最近ではこのエピソードは司馬氏の創作である可能性が高いという意見が多いようである。しかし、司馬氏はこの小説を書くにあたって『フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、事実であると確認できないことは描かなかった』と語っており、真実はどうだったのか興味深いところである。いずれにせよ、児玉が旅順に訪れた直後に二〇三高地を占領したのは事実であり、旅順港攻撃後間もなく立ち去ったのも事実である。まさしく、この作戦を敢行するために訪れたといっても不自然ではなく、むしろ、それを偶然だと否定する方が穿ちすぎな気がしないでもない。司馬説を100%否定することはできないように思う。

 二〇三高地が陥ちたことが旅順要塞にとって致命傷となり、この約1ヵ月後に旅順要塞のロシア軍は降伏、旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万人、死傷者は約6万人に達した。原作小説ではこの二〇三高地の稿の中で、名もなき日本兵たちの死をも恐れない勇猛さについて司馬氏はこう述べている。
 日本の歴史は、明治になるまでのあいだ、ほかの歴史にくらべて庶民に対する国家の権力が重すぎたことは一度もない。後世のある種の歴史家たちは、一種の幻想をもって庶民史を権力からの被害史として書くことを好む傾向があるが、例えば徳川幕府が自己の領地である天領に対してほどこした政治は、ほかの文明圏の諸国家にくらべて嗜虐的であったという証拠はなく、概括的にいえばむしろ良質な治者の態度を維持したといっていいだろう。
庶民が、
「国家」
というものに参加したのは、明治政府の成立からである。
近代国家になったということが庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民にかならずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった。
 これを譬えていえば、日本の戦国期の戦争といえば、足軽にいたるまで軍人は職業であった。その職業からのがれる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下からのがれる自由さえもっていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりもさきに、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまうことによって自滅した。
ところが、明治維新によって誕生した近代国家はそうではない。憲法によって国民を兵士にし、そこからのがれる自由を認めず、戦場にあっては、いかに無能な指揮官が無謀な命令をくだそうとも、服従以外になかった。もし命令に反すれば抗命罪という死刑をふくむ陸軍刑法が用意されていた。国家というものが庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない。
 が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛ではなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。二〇三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さの基調には、そういう歴史的精神と事情が波打っている。


 上記、青字の文章の中で、太字の部分がドラマのナレーションになっていた言葉。ナレーションで省かれていた部分(細字の部分)があるのとないのとで、意味合いが随分と変わってくる。この省かれていた部分が、いわゆる司馬史観といわれる部分で、この小説を批判する立場にいる人にとって、もっとも標的になる部分である。ナレーションで省かれていたのは尺の問題ではなく、おそらくそういった声に配慮した理由からだろう。しかし、ここではあえて前後の文章も加えて記載した。なぜなら、この文章はこの物語の核ともいえる部分だと思えるからである。その是非は別にして、現代の私たちがどれほど「国家」というものの参加者であるという意識を持ちえているかといえば、哀しいかな、ほとんど自覚のないまま生きているように思う。戦後最大の国難といわれた今年でさえ、である。そんなことを感じずにいられない、司馬氏の言葉である。

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その1

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-13 23:26 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その1

 旅順要塞への攻撃はなおも続いていた。東京の大本営と海軍は攻撃の主目標を二〇三高地に限定するよう再三要請するも、乃木希典を司令官とする第三軍(第一師団・東京、第九師団・金沢、第十一師団・善通寺から編成)は参謀長である伊地知幸介中将の指揮により旅順要塞正面突破に固執し、それを繰り返しては多大な損害を受けていた。作戦当初からの死傷者の数はすでに2万数千人という驚異的な数字に上っており、もはや戦争というより災害といえた。これを司馬遼太郎氏にいわせれば、「無能者が権力の座についていることの弊害が、古来これほど大きかったことはないであろう。」となる。

 乃木軍の無能さの例をあげると、たとえば乃木軍は要塞への総攻撃を毎月決まって26日に行った。ロシア軍はそのことに気付いており、常に26日を想定して部署を整え、満を持して待っていればよかった。わざわざ敵に準備をさせ、無用に兵を殺すだけのことで、それでも乃木軍は毎月26日に総攻撃を実行し、そのたび、甚大な被害を受けた。その理由を伊地知にいわせれば3つあるという。一つは火薬の準備であり、「導火索は一月保つので、前回の攻撃から一ヶ月目になる」という、科学性に乏しく、戦術配慮が皆無の理由がひとつ。二つ目は、「南山を攻撃して突破した日が、二十六日で縁起がいい」という。三つ目は、「26という数字は割り切れる。つまり要塞を割ることができる」と。乃木も横で大いにうなずいていたという。司馬氏はいう。
 「この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。」

 伊地知はそのたびかさなる作戦の失敗を、自分の方針の失敗だとは思っておらず、「罪は大本営にある」と公言していた。伊地知は、作戦家としての能力に欠けていただけでなく、常に自分の失敗を他人のせいにするような、一種女性的な性格の持ち主であるようだった。そんな伊地知を乃木はかばった。乃木希典という人物は、自らに対しては厳格な精神家であったが、自分の部下に対しては大声で叱責するようなことはなく、この場合も伊地知を信じようとした。人の上に立つものの理想的な人格像ともいえるが、戦争を指揮するものとしての資質として、理想的とはいえなかった。司馬氏はいう。
 「ともあれ、旅順の日本軍は、『老朽変則の人物』とひそかにののしられている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘のかぎりをつくしていた。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけるという例は、史上に類がない。」

 原作小説では、とにかく一貫して乃木希典と伊地知幸介の無能論を説く。特に伊地知に対する批判というのは凄まじく、司馬氏の“怒り”とも“嘆き”ともいえる罵倒の数々である。その批判は軍人としての能力を超えて、人格まで否定しているといっていい。司馬氏は伊地知を語る際に、軍人についてこうもいっている。
 「軍人という職業は、敵兵を殺すよりもむしろ自分の部下を殺すことが正当化されている職業で、その職業に長くいると、この点での良心がいよいよ麻痺し、人格上の欠陥者ができあがりやすい。」
 この旅順要塞攻略で失った兵の命は1万6千人を超えていた。司馬氏にいわせれば、これはもはや戦争ではなく災害であった、となる。その災害を起こした司令官と参謀長を罵倒するのも、当然かもしれなかった。しかし、ドラマではそこまで二人に批判的な描き方ではなかった。これは、できるだけ司馬氏の主観的な描写は避け、あくまで視聴者に判断を委ねる、といった製作者の意図からのものだろうか。

 司馬氏の有能無能論について原作から抜粋。
 「あたりまえのことをいうようだが、有能とか、あるいは無能とかということで人間の全人的な評価をきめるというのは、神をおそれぬしわざだろう。ことに人間が風景として存在するとき、無能でひとつの境地に達した人物のほうが、山や岩石やキャベツや陽ざしを溜める水たまりのように、いかにも造物主がこの地上のものをつくった意思にひたひたと適ったようなうつくしさをみせることが多い。
 日本の近代社会は、それ以前の農業社会から転化した。農の世界には有能無能のせちがらい価値規準はなく、ただ自然の摂理にさからわず、暗がりに起き、日暮れに憩い、真夏には日照りのなかを除草するという、きまじめさと精励さだけが美徳であった。
 しかし、人間の集団には、狩猟社会というものもある。百人なら百人というものが、獲物の偵察、射手、勢子といったぐあいにそれぞれの部署ではたらき、それぞれが全体の一目標のために機能化し、そうしてその組織をもっとも有効にうごかす者として指揮者があり、指揮者の参謀がいる。こういう社会では、人間の有能無能が問われた。
<中略>
有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。」

 まさしく、有能無能で人間の価値ははかれないが、無能な指揮官の下で命を落としていく兵の身になってみれば、指揮官の無能は大罪であった。日本は旅順で滅びようとしていた。そこに、有能な指揮官が秩序を犯して日本を救うこととなる。

やはり1稿では書ききれません。『その2』に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-12 23:59 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その1

 陸軍参謀本部は日露戦争開戦当初、「旅順攻略」という作戦は考えていなかった。「旅順攻略」は海軍から陸軍に要請され、急遽実施された作戦であった。なぜ海軍は旅順要塞の攻略が必要であったか・・・。要塞のある旅順港にはロシアの旅順艦隊がある。これを日本海軍は殲滅しようとし、奇襲作戦閉塞作戦を試みるも思ったような戦果を遂げることが出来ず、敵艦隊は旅順湾から出てこようとしない。旅順艦隊は、本国から回航されてくるバルチック艦隊の到着を待っていた。旅順艦隊、バルチック艦隊のそれぞれ個別で見ても、日本の連合艦隊とほぼ互角の力。ロシアとしては、バルチック艦隊が到着して旅順艦隊と合流すれば、その力は日本艦隊の2倍になる。そうなれば、日本艦隊に勝ち目はなかった。日本艦隊にしてみれば、バルチック艦隊の到着する前に旅順艦隊を1艦も残さず沈めておきたい。しかも、できるだけ早くそれを実行して、全艦隊を佐世保にドック入りさせ、軍艦を修理してバルチック艦隊を迎え撃つ準備をしておきたかった。日本海軍は焦っていた。

 しかし、要塞化された軍港内にいる艦隊を外洋から攻めてゆくというのは不可能に近い。どうしても敵艦隊を外洋へ追い出さなければならない。その追いだす方法として、陸軍をもって要塞を攻め、それを陥落させて陸から港内の艦隊を攻撃するというものだった。

 「旅順というものについて、陸軍の感覚は鈍すぎる。」
 というのが、秋山真之が常に感じてきたところだった。敵の旅順港内に、世界有数の大艦隊が潜伏していることの深刻さを、陸軍は理屈ではわかっていても、感覚上の激痛としてはあまり感じていないらしい。もし、この大艦隊が自由に海上にのさばり出れば、日本は海上補給を断たれ、満州に上陸した陸軍は孤軍と化し、敵の襲来を待たずして壊滅してしまうは必然。そうなれば、日本は日露戦争そのものを失うことになる。開戦当初予定になかった「旅順攻略」が、この段階では日本の命運を左右する重要な砦となっていたのである。しかし、陸軍参謀本部はそのことをどこまで深刻に捉えていたか、最初は旅順攻略に兵を割くことをためらった。あくまで陸軍作戦の本筋は満州平野であり、地名でいえば遼陽を制し奉天を制することにあった。それでも、海軍の執拗な要求にやがては屈し、乃木希典を司令官とする第三軍を創設し、それを遼東半島に送った。ただ、陸軍は旅順攻略などたいした時間はかからないだろうと楽観視しており、それは陸軍の頭脳・児玉源太郎といえども同じであった。

 乃木希典は東京を発つとき、「死傷者は1万人ほどで落ちるだろう。」と見ていた。その程度でしか旅順を見ていなかった。それを基準として攻撃法を決めた。その攻略法は、参謀長の伊地知幸介の頭脳からでたものである。ところが、第1回総攻撃だけで日本軍の死傷は1万6千人にのぼるというすさまじい敗北に終わり、しかも旅順を落すどころか、その要塞の鉄壁にかすり傷ひとつ負わせることも出来ず、要塞側の圧倒的な勝利に終わった。にも関わらず乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回目の総攻撃をやった。当然、同じ結果がでた。死傷4千900人で、要塞は微動だにしない。
 「すでに鉄壁下に2万余人をうずめてみれば何とか攻撃法を考えそうなものである。」
 と、東京にいる参謀本部次長・長岡外史は、その日記で乃木と伊地知のコンビに対する憤りを書いている。戦争には錯誤誤算はつきもの。しかし、長岡外史らが乃木軍の頭を疑ったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとは思わず、従ってここから教訓を引き出して攻撃方法の転換を考えようとしなかったことだった。

 「乃木では無理だった」という評価も東京の大本営では出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事を行ったのは東京にいる幹部たちである以上、責めることもできない。更迭案も一部で出ていたものの、しかし戦いの継続中に司令官と参謀長を変えることは、士気という点で不利であった。しかし、「兵を送れ」と際限もなく兵の補充を要求し、ただいたずらに人間を殺す作戦をやめようとしない乃木軍をそのままにしておくわけにもいかず、長岡外史は有坂成章陸軍技術審査部長の提案を受け、日本本土の主要海岸に備え付けてある28サンチ榴弾砲を送ることを決定した。しかし、あろうことかこの報告を受けた乃木軍司令部の変電は、「送ルニ及バズ」というものであった。この件について司馬遼太郎氏の原作の表現を借りると、「古今東西の戦史上、これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか。」となる。

 この、乃木希典と伊地知幸介の無能説は、司馬氏がこの小説の中で執拗に訴え続けたもので、その後の乃木と伊地知のイメージを決定づけたといっても過言ではない。しかし、この説については賛否両論があり、特に軍事の専門家の中に司馬氏の説を否定する意見が少なくない。そのあたりについては、私は専門家ではないので判断の材料を持たないが、ただ、乃木はのちに軍神あつかいとなって英雄となってしまったため忘れられてしまっていたが、この時期の乃木と第三軍に対する国民の批判は大変なものだったようで、日本にいた乃木夫人のもとには責任を取って辞職すべし、腹を切れとの抗議の手紙が何千通も送りつけられていたそうである。

 旅順要塞の前にとなっていった兵士たちについて司馬氏はいう。
 「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になってゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった。『民は倚らしむべし』という徳川三百年の封建制によってつちかわれたお上への怖れと随順の美徳が、明治三十年代になっても兵士たちのあいだでなお失われていない。命令は絶対のものであった。かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束になって殺された。」

 さらに司馬氏はいう。
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、初めて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」

 戦争に誤算はつきもので、互いに誤算し合うが最終的には誤算の少ない方が勝つ。日本はこれほどの大誤算をしたのだから、本来負けるはずだった。しかし、そうならなかった歴史の不思議である。

坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その2

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-08 00:46 | 坂の上の雲 | Comments(0)