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花燃ゆ 第49話「二人の再婚」 ~楫取素彦と美和子の再婚~

 楫取素彦の年譜よれば、美和子再婚したのは明治16年(1883年)5月3日とされていますが、別の書簡などによれば、その1年半ほど前には既に同居していたことがわかっており、しかも、明治15年(1882年)4月には、湯之沢温泉(現・赤城温泉)にふたりで3泊滞在している記録もあるそうで(ドラマでは、嵐に巻き込まれてやむを得ず1泊という設定でしたが)、ふたりが結婚したのは、その頃だったんじゃないかという見方もあるようです。前妻の寿子が没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでしたから、後者の説を採れば、妻に先立たれてから1年余りでの再婚ということになります。現代の感覚で言えば、ちょっと早すぎるんじゃないの?・・・という気がしますが、当時のそれなりの地位の男でいえば、1年以上も後妻を迎えないというのは、むしろ遅いくらいでした。そのうえ、亡き妻の遺言どおりに妹と再婚したわけですから、素彦がいかに寿子のことを思っていたかが窺える気がします。

 一方の美和子は、前夫の久坂玄瑞と死別してから20年近い年月が過ぎていましたが、その間ずっと独り身を通しており、この再婚話にもはじめは乗り気ではなかったといいます。ドラマでは、阿久沢権蔵・せい夫妻から再婚を勧められていましたが、実際には、山口県で存命だった美和の母・杉滝子からの再三の勧めだったようです。しかし、美和子はなかなか首を縦に振りませんでした。というのも、美和子は20年近く経った今なお、玄瑞から送られてきた手紙を後生大事に保管しているほど、亡き夫のことを忘れられずにいました。「貞女二夫まみえず」といった貞操観念も強かったのでしょう。実姉の夫だった人というのも、抵抗があったかもしれません(ドラマでは初恋の人という設定でしたが)。でも、素彦との再婚は亡き姉の遺言でもあったこと、県令としての激務をこなす素彦を間近で見ていたことなどから、最終的には、素彦との再婚を決意したのでしょうね。素彦54歳、美和子39歳のときでした。

 再婚を決意した美和子が、玄瑞からの手紙を燃やしかけて素彦に止められるシーンがありましたが、実際にも、京のまちで政治活動をしていた玄瑞から美和子(当時は)に宛てた書状は21通が現存しているそうです。そこで留意すべきは、その21通が、後夫である素彦関連の書状、著作などを収録している『楫取家文書』に載せられていることです。つまり、妻となった美和子が前夫からの手紙を大切に保管していることを、素彦は許していたということですね。「前の夫のことなど早く忘れろ!」なんて狭量なことは、素彦は言いません。

 そればかりか、素彦は美和子が持参した21通の書状を装丁して3巻にまとめ、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と名付けて大切に保管することを決めました。『涙袖帖』というタイトルは、美和子が玄瑞の自刃後、折にふれてこの書状を読み返し、落涙して袖を濡らしたという意味が込められているのでしょう。妻の前夫に対する思いを十分に理解し、決して忘れないよう手助けをしていた素彦。彼は、ドラマのとおり大きな包容力を持った優しい男だったのでしょうね。それと、素彦自身も、亡き妻・寿子のことを忘れたくないという思いが強かったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-07 16:48 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第40話「二人の母」 ~久坂玄瑞の忘れ形見~

 生前の久坂玄瑞が京都の芸妓・辰路に生ませた息子・秀次郎が主役の回でしたね。玄瑞と文(美和)の間に実子は生まれていませんので、この秀次郎が玄瑞の血を引くただひとりの忘れ形見となります。もっとも、秀次郎が生まれたのは元治元年(1864年)9月と伝えられていますが、玄瑞は同年7月の禁門の変自刃しているため、玄瑞は秀次郎の顔を見ることなくこの世を去っています。あるいは、辰路が妊娠していたことすら知らずに死んでいったかもしれませんね。だとすれば、もし、わが子の誕生を知っていれば、あるいは生きて落ち延びる道を選択したかもしれません。そうすると、子を産んでいない文は離縁されていたかもしれませんね。「嫁して三年子なきは去れ」と言われた時代ですから・・・。となると、このドラマは存在しないわけで・・・(笑)。まあ、すべて「もしも」の話ですが。

 ドラマでは、秀次郎は母親である辰路が京都で育てていましたが、実際には、秀次郎は玄瑞の縁者である酒造家に託され、長州藩の徳佐村という場所で育ったそうです。そして明治2年(1869年)、長州藩は正式に秀次郎を玄瑞の子と認定しました。今話のドラマの設定は、明治5年(1872年)~同6年(1873年)あたりでしたね。だとすれば、秀次郎は満8歳~9歳あたりのはずです。どう見ても5~6歳だったように思うのですが・・・。また、以前、美和が京都を訪れたときに秀次郎と会ったのは、鳥羽伏見の戦いの真最中だったので慶応4年(1868年)のことで、あれから5年の歳月が経っているわけです。秀次郎、ぜんぜん成長してないし・・・(苦笑)。無粋なことを言うようですが、ちょっと設定が雑すぎじゃないですかね。

 秀次郎の存在が正式に認定されると、玄瑞の義兄にあたる楫取素彦杉民治は、秀次郎に久坂家の家督を継がせるかどうかを相談しています。当時はDNA鑑定などありませんから、本当に秀次郎が玄瑞の子であるかどうか確認できませんしね。それに、幕末の功労者である玄瑞の跡継ぎとして相応しいかどうか見定める必要もあったでしょう。結局、秀次郎が正式に久坂家を継いだのは、明治12年(1879年)9月のことでした。その間、秀次郎の養育費を工面していたのは、楫取素彦だったそうです。素彦にしてみれば、一時はわが子を養子に出した久坂家のことですから、放ってはおけなかったのでしょうね。

 秀次郎の母・辰路についてですが、先述したとおり、秀次郎を育ててはいません。自ら秀次郎の養育を放棄したのか、あるいは誰かに無理やり引き裂かれたのかはわかりませんが、実際には、明治3年(1870年)4月に下京の裕福な農家の竹岡甚之助と結婚しているそうです。芸妓としては、金持ちに身請けされて玉の輿に乗るのが一番の幸せであり、そのためには、死んだ田舎侍の忘れ形見など邪魔な存在で、とっとと正妻に押し付けたかったんじゃないでしょうか。それじゃあドラマになりませんけどね。現代でも、育児放棄して男に走る母親がたくさんいるようですが、当時の芸妓さんにとっては、それは生きる術であり、現代の無責任な母親のそれとは少し違うように思います。でも、ドラマではあくまで母子愛を強調し、子どもは実母の手で育てさせるんですね。まあ、あのように描かないと仕方がないのかもしれませんが・・・。

 余談ですが、玄瑞の死後、埋葬された遺骸を玄瑞ゆかりの女性が掘り起こし、頭部だけを持ち去ったという逸話が残っています。この女性を辰路とする説がありますが、その真偽は定かではありません。でも、もしそれが実話だとすれば、辰路の玄瑞に対する思いは相当なものだったといえるでしょうね。だとすれば、その遺児である秀次郎との別れは、断腸の思いだったかもしれません。

 成長した秀次郎は、大倉組(現在のホテルオークラや大成建設などが属していた大倉財閥の企業)に勤務し、昭和7年(1932年)に69歳で死去しています。父の玄瑞はかなりのイケメンだったといいますが、今日よく知られる玄瑞の肖像画は、秀次郎をモデルに描かれたそうです。きっと、父親に似てイケメンで聡明な人物だったのでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-05 21:24 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第27話「妻のたたかい」 ~禁門の変(蛤御門の変) その2~

 元治元年(1864年)7月19日、長州軍は京への進撃を開始します。まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。さすがは武勇の誉れ高き又兵衛、単に勇ましいだけじゃなく、よほどの実戦上手だったことがわかります。

 又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転します。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年48歳。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。

 久坂玄瑞真木和泉が率いる約500の部隊が御所に着いたときには、すでに又兵衛は討死していました。2日前の軍議で又兵衛と衝突していた玄瑞は、この惨状に及んでもなお朝廷への嘆願をあきらめておらず、前関白の鷹司輔煕屋敷に入ってへの取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と刺し違えて自刃します。玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。

 前年の雪辱戦とばかりに暴発した長州藩兵は、薩会連合軍の前に潰滅してしまいましたが、その哀れな長州藩士たちに涙する前に、この戦いの巻き添えとなった京の市民たちに目を向けなければなりません。戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。

 この戦いにより、長州藩は多くの有能な人材を失いました。この発狂したとしか思えない無謀な暴挙によって古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。長州藩が目を覚ますには、あまりにも大きな代償でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-06 16:34 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第26話「夫の約束」 ~禁門の変(蛤御門の変) その1~

 八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のために挙兵して京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれていましたが、一時は割拠派の意見が主流となっていたものの、そこに池田屋事件の知らせを入ると、進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、そして、一度は廃案になっていた上洛案に、ふたたび火がつきます。それでも、慎重論の周布政之助らは懸命に藩論の沈静化に努めますが、ついに抑えきれなくなり、「三条実美ら七卿と藩主父子の冤罪を帝に訴える」ことを名目に、挙兵が決定します。

 この頃、藩の政務座役といなっていた久坂玄瑞は、当初は周布らと同じ慎重論でしたが、この2ヵ月ほど前に京で行われていた参預会議がものわかれに終わると、これを政権奪還のチャンスととらえ、兵の上洛に肯定的な立場をとりはじめていました。しかし、玄瑞のいう上洛とは来島又兵衛らのいう勇ましい進発論ではなく、あくまで名誉回復のための嘆願が目的であり、すぐに武力行使といった考えではありませんでした。

 元治元年(1864年)6月4日、藩当局から進発令が発せられると、玄瑞は来島又兵衛、真木和泉らと共に忠勇隊、集義隊、八幡隊、義勇隊、宜徳隊、尚義隊など諸隊を率いて、6月16日に三田尻を発ちました。そして京都近郊の山崎に着いた玄瑞は、さっそく長州藩の罪の回復を訴えた嘆願書を起草し、6月24日、朝廷に奉ります。これを受けた朝廷内では、当初は長州藩に同情的な考えを持つ公卿も多く、寛大な処置を要望する声もあがっていましたが、7月12日に武装した薩摩藩兵が上洛するとムードは一変。反長州派の勢いが盛り返します。朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派宥和派が対立していたんですね。ただ、どれだけ宥和派が声をあげても、肝心要の孝明天皇(第121代天皇)は長州掃討を望んでいたわけですから、結果は見えていたかもしれません。孝明帝は長州がよほど嫌いだったんでしょうね。

 そんなこんなで、一触即発の空気が張りつめた7月17日、男山の石清水八幡宮で長州藩幹部が集結した最後の軍議が開かれます。この席でも、来島又兵衛ら強硬派と久坂玄瑞ら慎重派が激しく対立するのですが、その時の会話の記録は克明に残されています。それによると、玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出しますが、又兵衛は
 「進軍を躊躇するとは何たることだ!」
と詰め寄ります。これに対して玄瑞は、
 「今回の件は、もともと君主の冤罪をはらすために、嘆願を重ねる目的だったはずで、こちらから戦闘を仕掛けるのは本来の志ではない。それに、世子君定平公もまだ到着しておらず、それを待った上で進撃の是非を決するべきである。いま進軍したところで、援軍もなく、しかも、わが軍の戦闘準備も整っていない。必勝の見込みの立つまで、しばらく戦機が熟するのを待つべきである。」
と提言します。すると又兵衛は怒気を露わにし、
  「卑怯者!!!」
と一喝。(べつに卑怯者ではないと思うんですけどね。この場合、「臆病者」といったほうがよかったんじゃないかと・・・)
 「医者坊主などに戦争のことがわかるか!! もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余はわが一手をもって悪人を退治する!!」
捨て台詞を吐き、座を去ってしまいました。又兵衛の気迫に圧倒された一同は沈黙。そんななか、最年長で参謀格の真木和泉が、
 「来島くんに同意を表す」
と述べたことにより、進軍が決定しました。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻ったといいます。そのとき歴史が動いた瞬間ですね。

 人は追い詰められると、過激な意見ほど魅力的に感じるといいます。後世から見れば、玄瑞の意見は至極もっともだと思えるのですが、前年の政変以来いじめられっ子だった長州藩士たちにすれば、玄瑞の冷静な分析よりも、又兵衛の勇ましい侍道の方が輝いて思えたのでしょうね。こうして、世に言う禁門の変(蛤御門の変)は始まりました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-29 22:39 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

花燃ゆ 第23話「夫の告白」 ~八月十八日の政変~

 攘夷決行報復戦でコテンパンにやっつけられた長州藩は、その名誉挽回とばかりに、朝廷内の攘夷派公家たちと手を組んで、あからさまな工作を行います。その中心となって京で動いていたのが、久坂玄瑞でした。玄瑞らは孝明天皇(第121代天皇)を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない。討幕の先頭に立つなど滅相もない、と。

 一方、京の政局では、水面下で薩摩藩会津藩の提携が画策されていました。京都守護職として御所を警護する会津藩士が約1000人。ここに、近々交代制の藩士が会津から1000人くる予定で、そこに薩摩藩の兵約800人を加えれば、ざっと3000人近くになる。この機会に会津と薩摩が同盟して、いい気になっている長州藩を朝廷から追いだそう、というクーデター計画があがっていました。そんななか、大和行幸計画に怯えた孝明天皇からSOSが会津藩主・松平容保の元に届きます。会津、薩摩にすればチャンス到来「いつやるの?今でしょ!」と言わんばかりにクーデターに踏み切ります。

 文久3年(1863年)8月18日早朝、会津兵と薩摩兵は御所の門という門をすべて固め、登城してきた三条実美を始めとする攘夷派の公卿7人の入門を遮りました。また、長州藩の持ち場である堺町御門も、薩会の兵によって封鎖され、追い払われてしまいます。怒った長州藩士たちは、兵を率いて堺町御門に押しかけますが、あまりにも兵の数が違いすぎることを悟り、ここは残念ながらひとまず退却し、再起を期して落ち延びるしかない、という結論に至ります。まさに、おごる平家は久しからず。昨日までの栄華から一気に奈落の底に突き落とされた長州藩士と7人の公卿たちは、翌日、降りしきる雨のなか、長州に向かって京を離れます。いわゆる「七卿落ち」ですね。薩会のクーデターは成功しました。

 クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、薩会および公武合体派の公家たちが天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は討幕派から「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされたという、なんとも皮肉な話といえます。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派、ことに長州藩士たちは、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 ドラマでは、七卿落ちに随行して長州に戻ってきていた久坂玄瑞でしたが、実際には、玄瑞は政変後も京に残り、政務座役としてしばらく京で活動します。玄瑞がに宛てた手紙は数多く残っていますが、ちょうどこの時期に書いた手紙に、義兄である小田村伊之助の次男・久米次郎養子に迎えたいと書いています。つまり、この時期、玄瑞は死を覚悟したということですね。自分が死んでも久坂家が絶えないよう取り計らったわけですが、しかし、玄瑞の死後、久米次郎が久坂家を継ぐことはありませんでした。というのは・・・と、このあとはドラマの今後に譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-08 20:07 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

花燃ゆ 第21話「決行の日」 ~高杉晋作の暴挙と馬関海峡の攘夷決行~

 処刑された当初の吉田松陰の遺骸は、小塚原刑場へ埋葬されていました。通常、幕法により刑死人の遺骸は捨ておかれることになっていましたが、長州藩の藩医で飯田正伯という人物が獄吏に賄賂を渡して遺骸の引き渡しを懇願し、特別に許しを得たといいます。遺骸の引き取り、埋葬に奔走したのは、伊藤俊輔、桂小五郎らでした。

 それから3年半が経った文久2年(1862年)8月、かつての安政の大獄によって刑を受けた者たちの名誉を回復する勅書が発せられたことに伴い、松蔭の埋葬場所に墓碑が建設されましたが、刑死者の埋葬場所にそのまま置いておくのは適切ではないという声が上がり、その翌年の1月には、遺骨は武蔵若林村の大夫山へと改葬されます。この改葬を発案、実行したのは、高杉晋作、伊藤俊輔らでした(ドラマでは伊藤は萩に残っていましたね。このあたり、どちらが正しいのかわかりません)。

 この改葬を指揮した高杉晋作は、陣羽織騎馬姿という戦装束でした。そして松蔭の遺骨を入れた柩を中心に列をなし、悠然と歩を進めます。それを見たひとびとは、皆どよめいて道をあけたといいます。

 道中、一行は徳川家将軍代々の廟所がある寛永寺にさしかかります。寛永寺には「三枚橋」と呼ばれる三つの橋が並んでかけられていましたが、その中央の橋は、将軍が寛永寺に参拝するときのみに使用されていた橋で、将軍以外の者がその橋をわたることは許されていません。そこを、晋作率いる一行は、押し通っちゃうんですね。もちろん、わざとです。当然、それを見た橋の番人は通行を阻止しようとしますが、晋作はそれを払いのけ、「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放って強行します。さらに、追いすがって名を名乗れと叫ぶ番人に対して、晋作は馬上ふりかえり、「長州浪人高杉晋作」と言い放ったとか。この暴挙の知らせは、すぐさま幕閣へ届きますが、普通なら、即刻打首に処せられる行為ですが、幕府は長州藩との摩擦を嫌って不問に付したといいます。

 いかにも高杉晋作らしい痛快なエピソードですが、この逸話が実話かどうかは定かではありません。しかし、この時期になると、これほどまでに幕府の権威は落ちていたということがわかるエピソードです。

 幕府の権威の失墜にまつわるエピソードでいえば、もう一つ。同じ年の3月、第14第将軍徳川家茂が、将軍としては229年ぶりに上洛します。京に入った家茂は、早速、上賀茂神社下鴨神社攘夷祈願に行幸する孝明天皇(第121代天皇)のお供をさせられます。天皇のお供をするということは、将軍が天皇の下であるということを世に知らしめる行為であり、これを画策したのが、久坂玄瑞を中心とする長州藩攘夷派でした。この時期、京では長州藩が朝廷をほぼ牛耳って動かしていました。

 この行列の見物人のなかにいた高杉晋作は、人々が土下座して平伏すなか、ひとり顔を上げて「いよう!征夷大将軍!」と、まるで舞台の歌舞伎役者に声をかけるような冷やかしの声を浴びせたといいます。これも本来であれば、その場で斬り捨てにされるべき無礼極まりない行為でしたが、この行列は天皇の権威の行列であり、将軍はあくまで“お供”にすぎません。晋作の声は将軍の供回りにいる旗本たちの耳にも入っていたでしょうが、勝手に飛び出して天皇の行列を乱すわけにはいかず、黙って耐えるしかなかったんですね。

 このエピソードも、実話かどうかは定かではありません。後年の山縣有朋などの話で、このとき晋作が何かを大声で叫んだことは間違いないようですが、それがどんな言葉だったかは、いろんな説があるようです。ただ、いずれにせよ、将軍が天皇のお供として付き従ったのは事実で、このときヤジが飛んだとしても、どうすることも出来なかったのも間違いなかったことでしょう。それだけ、幕府は軽んじられはじめていたわけですね。

 さらに晋作は、将軍暗殺計画まで口にし始めました。しかし、そんな晋作の過激な行動を恐れた久坂玄瑞や周布政之助らは、晋作を激しく詰問します。すると程なく、晋作は髪を剃り、法名を東行と名乗って出家するといいだしました。10年間、賜暇をもらいたい・・・と。周囲の者たちはきっと呆然としたでしょうね。とにかく、やることなすこと奇想天外、凡人の頭では理解しがたい晋作の行動。この非凡な生き方が、後世に人気の高い所以なんでしょうが、同時代に生きていた関係者たちは、振り回されっぱなしでたまったもんじゃなかったでしょうね。

 さて、本話のタイトル「決行の日」についてですが、「決行」とは即ち攘夷決行のことで、上洛していた将軍家茂は、朝廷から攘夷の実行を執拗に迫られ、これを応対していた将軍後見職の一橋慶喜は、なんとか誤魔化そうといろいろ手立てを講じますが、結局は天皇に押し切られるかたちで、「攘夷の期日を5月10日とする」と約束させられます。そして、4月22日に諸大名に公示されるのですが、そもそも幕府にしてみれば、攘夷実行の意思などさらさらなく、その場の逃げ口上にすぎなかった約束でした。諸大名たちのほとんども、空気を読みながら様子を伺っていました。ところが、長州藩だけが、約束どおり5月10日に砲門を開きます。彼らは、馬関海峡を通ったアメリカ商船ペンブローク号に発泡。相手は軍監ではなく商船ですから、逃げるしかありません。更に23日にはフランス軍監キャンシャン号にも、また26日にはオランダ軍監メデューサ号にも砲撃しました。このとき中心となっていたのが、ほかならぬ久坂玄瑞だったんですね。逃げていく外国船を見て長州藩士たちの意気は大いに上がったといいますが、ここから、幕末における長州藩の墜落が始まったともいえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-26 15:24 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第20話「松蔭、復活!」 ~イギリス公使館焼き討ち事件~

 『航海遠略策』が長州藩の藩論に採用され、藩の中老に昇進した長井雅楽は、京に赴き公武の周旋活動に奔走していましたが、公武合体派の幕府老中・安藤信正、久世広周が文久2年(1862年)1月に起きた坂下門外の変で襲撃されて失脚すると、たちまち藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井排斥運動が激しくなります。長井は同年3月に再び上京し、朝廷、公家への働きかけを展開しますが、久坂玄瑞ら攘夷派は弾劾状を藩主に提出するなど、長井の追い落とし工作を強めます。一方で、玄瑞らは朝廷に対して、「長井の主張のなかに朝廷を誹謗する文言がある」などと主張し、長井の立場はいよいよ悪くなっていきます。そして同年6月、藩主・毛利敬親は藩論を『航海遠略策』から『破約攘夷』へと切り替え、長井の役職を剥奪、帰国を命じました。

 前話の稿でも述べましたが、長井の提唱した『航海遠略策』は、後世の目からみればこの時期もっとも優れた見識だったといえます。しかし、政治というのは、機を見るに敏でなければならないんですね。どんな正論を吐いても、それがどれだけ良策であっても、追い風に乗らなければ支持されない。機を見るのを間違えれば、昨日までの英雄もたちまち失脚してしまいます。『大阪都構想』橋下徹氏と同じですね。

 同じ年の10月、孝明天皇(第121代天皇)は勅使の三条実美、姉小路公知を江戸に送り、幕府に攘夷の決行を迫ります。これを受けた幕府は、返答を引き延ばす作戦に出たため、全国の攘夷派の反発はいっそう高まります。そんななか、長州藩内攘夷派の中心的存在となっていた久坂玄瑞、高杉晋作らは、この状況下において、「世間の度肝を抜くようなことをしよう!」という思いを強くします。そこで、彼らは当初、横浜の外国人居留地の襲撃を計画しました。しかし、この計画を耳にした毛利元徳(次期藩主)は、勅使が江戸滞在中であることを理由に、晋作に襲撃を思いとどまるよう説得し、江戸藩邸での謹慎を命じました。

 やむなく、計画を断念した晋作らでしたが、今度は勅使が江戸を離れたあとに実行する新たな計画を立案します。その計画は、江戸の御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちするというもの。そしてその実行部隊として御楯組なる組織を作ります。そのメンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、松島剛蔵小田村伊之助の兄)、品川弥二郎、堀真五郎ら十数人。顔ぶれを見ると、井上と松島を除いて、他は松下村塾門下生ばかりで、しかも、吉田松陰が目を掛けていた者ばかりです。生前、どんどん過激さを増す松蔭を持て余し気味だった彼らでしたが、結局、その過激なDNAは引き継がれていたんですね。

 ドラマで描かれていたのは実行前まででしたが、この先もいっちゃいます。文久2年(1862年)12月12日、彼らは手際よく計画を実行し、公使館はたちまちのうちに全焼しました。放火後、一目散に逃げ出し、近くの妓楼に登った晋作らは、全焼する公使館をながめながら酒盃を傾け、実に上機嫌だったといいます。結局、江戸幕府はこの放火の犯人を特定することができないまま、やがて瓦解してしまいます。事件の真相が明らかになったのは、ずっと後年、明治政府において栄達した伊藤博文井上馨が、「自分たちが公使館に放火した」暴露したことによります。そのときの彼らは、やはり上機嫌だったとか。時の総理大臣が放火の前科を誇らしげに語るというのもどうかと思いますが、考えてみれば、明治政府初期の大臣たちは、ほとんどが人殺しの経験があるんですよね。そら、肝が座ってたはずです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-19 21:04 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第19話「女たち、手を組む」 ~長井雅楽暗殺計画~

 長井雅楽が提唱した『航海遠略策』は、このときの時勢において、わが国のとるべき最良の道だったといえるでしょう。しかし、松下村塾系の過激書生たちをはじめとする攘夷志士たちからは極めて不評を買い、「長井、斬るべし」というムードが沸騰しはじめます。その先頭にたっていたのが、久坂玄瑞でした。彼は、仲間と結託して長井の暗殺を企てます。玄瑞ほどの英明な人物が、長井の言わんとする理論をわからなかったわけはないと思うのですが、彼にしてみれば、その正邪はどうでもよかったのでしょう。問題なのは、この案があくまで幕政中心に、幕府に擦り寄るかたちで唱えられたものだったということだと思います。

 玄瑞らの理屈でいえば、日本の中心にあるのは幕府ではなく、あくまで天皇であり、その天皇のご意向が攘夷である以上、国策は攘夷でなければなりません。もっと言えば、天皇のご威光をかさに、あるいは利用して、反幕府を主張していたとも言えます。ドラマでは、「攘夷」という言葉は頻繁に出てきますが、なぜか「尊皇」という思想はあまり強調されていません。この「尊皇」「攘夷」が結びついた「尊皇攘夷」思想が、やがて倒幕のエネルギーになっていくわけです。その精神をもっと描かなければ、彼らがなぜ命を賭してまで政治活動をするのかが伝わらないですよね。ドラマの描き方では、ただ正論に反抗する熱い若者たちといった感じでしかないような・・・。

 この時期、他藩の西郷隆盛ですら、「長井雅楽と申すは大奸物」と言い、「長井は討たなければならない」とも書簡に記しているそうです。西郷こそ、長井の考えを理解できない人物ではありませんでした。司馬遼太郎氏はこのときの西郷について、次のように述べています。

 「正論で革命はおこせない。革命をおこすものは僻論である」ということが、この時期の西郷の肚の中にはあったにちがいない。

 正論というものが、必ずしも正しい道というわけではないんですね。長井は優秀な人物でしたが、機を見る能力に欠けていた。もし、この案を3年後か4年後に出していれば、後世に坂本龍馬的存在になっていたかもしれません。

 そんな情勢のなか、高杉晋作は幕府役人に随行するかたちで、上海への渡航を藩から命じられます。その理由について司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、長井雅楽暗殺計画を嗅ぎつけた周布政之助が、その中心的存在である晋作を集団から引き離すことで、彼らの暴挙を抑える狙いだったという設定でした。いわゆる『腐ったみかんの方程式』ですね(笑)。タイミング的にない話でもないのかなぁ、と。実際に、長井の暗殺計画が実行されることはありませんでした(ドラマでは松浦亀太郎が斬りかかっていましたが、実際には、亀太郎は計画段階で翻意を促されて断念し、その後、切腹したようです)。ただ、暗殺計画こそ断念したものの、玄瑞の長井に対する追い落とし工作はいっそう激しくなっていきます。

 今話のタイトル『女たち、手を組む』は、結局なにが描きたかったのか、よくわかりませんでした。女性たちが結束して男性陣を翻弄するような挙に出るのか?・・・などと、タイトルから想像していたのですが、結局、内助の功?・・・それとも待つ身の寂しさ?・・・よくわからなかったのは、わたしがおじさんだからでしょうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-11 22:44 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第12話『戻れないふたり』 ~文と久坂玄瑞の新婚生活~

 安政4年(1857年)12月、久坂玄瑞は晴れて夫婦となりますが、ふたりの新婚生活の場は、文の実家である杉家でした。その理由は定かではありませんが、おそらく、玄瑞は若くして親兄弟と死別しており、孤独な身であったこと、久坂家と杉家は直誠意距離で約1里半離れており、松下村塾の門弟として通い詰めるには遠かったことなどが理由だったのでしょう。一説には、吉田松蔭に目をかけられていた玄瑞は、結婚前から杉家で暮らしていたともいいます。文と玄瑞を結婚させたのは松蔭の意向だったといいますから、あるいは、ふたりを結婚させて、これまで以上に玄瑞を身近において指導したかったのかもしれません。いずれにせよ、ふたりの新婚生活は、玄瑞のマスオさん状態でスタートします。

 玄瑞の「不美人」発言の件、やけにひっぱってましたね。まあ、数少ないふたりの馴初めのエピソードですからね。この話は前話の稿で紹介したとおり(参照:第11話)、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治24年(1891年)に執筆した随筆『鷗磻釣餘鈔』に書かれていたものです。実際にこんな発言があったかどうかはわかりませんが、少なくとも、本人の耳に入れることはなかったでしょう。ドラマでは酔った高杉晋作KYな爆弾発言を吐いちゃってましたけどね(笑)。あのシーンは笑っちゃいました。

 ちなみに、伊藤利助が凍りついた空気をフォローするために「不美人はおすみちゃん」と言っていましたが、その“おすみちゃん”こと入江九一の妹・すみ子は、のちに利助のとなる女性です。他愛もないシーンですが、いちおう伏線をはってるんですね。もっとも、ほどなく「最初の妻」という言い方になるのですが・・・。

 そんなこんなで、文と玄瑞の夫婦生活がスタートしますが、年が明けた安政5年(1858年)2月、玄瑞は予てから希望していた江戸遊学が許され、萩を発ちます。そのため、ふたりの新婚ホヤホヤの生活は、わずか2ヵ月ほどで別居状態を強いられることとなります。こののち、玄瑞は江戸、京都、下関を拠点に志士活動を活発化させていくため、夫婦は事実上の別居状態となります。ふたりの夫婦生活は、玄瑞が自刃する禁門の変までの約5年半でしたが、実際にひとつ屋根の下で暮らしたのは、延べ数ヶ月ほどだったとも・・・。それが理由だったのか、ふたりの間に子宝は恵まれませんでした。決して、屋根裏部屋で寝ていたからではありません(笑)。

 椋梨藤太周布政之助の政権争いによって、奥方たちの勢力図も一変したようです。もちろん、奥方たちの記録など残っておらず、ドラマのフィクションではあるのですが、現代社会でも、社宅住まいなどの奥様方は、似たようながあると聞きますよね(まるでドラマ『半沢直樹』の奥様会を見ているようでした)。当時の武家社会は狭い社会ですから、実際にも、あんな感じだったんじゃないでしょうか? そんななか、夫・小田村伊之助のために、妹の文のために、懸命に椋梨の奥方に取り入る寿。なんとも健気じゃないですか・・・。なんで、伊之助はこの妻の内助の功を評価してあげられないのでしょうね。文の縁談にしても、妹のことを思ってやったこと。責められることではないですよね。なんか、寿が不憫になってきました。

 文と玄瑞の馴初め話で2話ほど歴史が停滞していましたが、江戸では赤鬼・井伊直弼大老に就任しました。いよいよ、安政の大獄の始まりです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-23 19:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第11話「突然の恋」 ~文と久坂玄瑞の縁談~

 久坂玄瑞が結婚したのは、安政4年(1857年)のことでした。ときに玄瑞18歳、文の生年は諸説あるので定かではありませんが、13~15歳あたりだったと思われます。当時としても若い夫婦ですが、すでに玄瑞は両親と兄を亡くして家督を継いでいる身でしたから、できるだけ早く嫁をとって子をつくる必要があったのでしょう。

 萩城下英才で知られた玄瑞でしたが、その容貌も麗しく、身の丈6尺(約180cm)の長身で、面構えはすこぶるイケメン、しかも美声で、立ち居振る舞いも同世代の男のなかでは抜きん出ていたといいます。玄瑞がその美声で詩吟を唸りながら歩くと、付近の女性が群がるように彼を覗き見たとか。ちょっとしたスターですね。しかも、萩城下きっての秀才だったわけですから、容姿端麗にして頭脳明晰、まさに非の打ちどころのない人物だったようです。

 そんなミスターパーフェクトと文が結婚に至った馴初めについてですが、ドラマでは、お互いにほのかな恋心を抱いていたことになっていましたが、そこはドラマの設定。実際に伝えられる話では、玄瑞ははじめ、この縁談に乗り気ではなかったようです。その理由について、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治になってから執筆した随筆で、次のように語っています。

 「久坂時尚ほ甚だ荘、拒むに夫の妹氏醜なるを以てせり」

 妹氏醜なるを以て・・・すなわち、文がブスだから嫌だ!・・・と。ひじょうにわかりやすい理由ですね(笑)。実際に文がブスだったかどうかはわかりませんが、モテモテのイケメン玄瑞ですから、周りにもっと美人がたくさんいたのかもしれません。そんななか、いくら師匠の妹御といえども、なんでこんな幼い小娘と・・・と思ったのかもしれませんね。男として、わからなくもないです(笑)。

 ふたりの縁談を仲介していたのは小田村伊之助ではなく、松下村塾生のなかで最年長の中谷正亮という人物でした。ブスだから嫌だと玄瑞がいったのも、この正亮に対してだったようです(当然ですが、松蔭や文に直接いったわけではありません)。幾太の随筆によると、玄瑞の言葉を聞いた正亮はすぐさま、

 「之れは甚だ君に似合はざる言を聞くものかな、大丈夫の妻を妻とる。色を選ぶべきか」

 と、強く叱責したといいます。まあ、18歳ですからね・・・。健康な男子ならば色を選びたいですよね(笑)。しかし、この正亮の叱責に玄瑞は言葉に詰まり、考えなおして縁談を承諾した、と幾太は続けています。この切りかえの速さと決断力は、さすが君子といえるでしょうか。そんな人格も含めて優秀な愛弟子・玄瑞を、吉田松蔭は義弟にしたかったのでしょうね。松蔭も罪なことをするものです(笑)。

 今週の塾生スポットライトは、前原一誠でしたね。一誠は久坂玄瑞や高杉晋作ら主だった塾生のなかでは年長の天保5年(1834年)生まれで、このとき24歳でした。塾生といっても、瀬戸内海側の厚狭郡船木村という遠方からやってきた一誠は、松下村塾で学んだのはわずか10日間ほど。しかし、その10日間で見た、松蔭の塾生から学ぼうとする姿勢に、たいそう感銘を受けたといいます。一誠は、主だった塾生のなかでは数少ない明治まで生きる人物ですが、わずか10日間に学んだ松蔭の遺志を深く継承し、やがて非業の死を遂げることになるのですが、それは、物語のずっとずっとあとの話です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-16 20:01 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)