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花燃ゆ 第18話「龍馬!登場」 ~桜田門外の変と航海遠略策~

 意外にもあっさり終わった「桜田門外の変」でしたね。過去の幕末作品においても、同事件を描かなかった例はないことはないのですが、今回の作品での井伊直弼は、前半の主役ともいうべき吉田松陰を死に追いやった張本人であり、しかも演じている俳優さんもビッグネームの高橋英樹さんですから、もっとフィーチャーされると思っていました。銃声一発だけの演出とは驚きましたね。物語の舞台である萩からは遠く離れた江戸での事件で、主役のとは直接関わりのない出来事ですが、「安政の大獄」をあれだけ引っ張ったんだから、その結末である「桜田門外の変」も、しっかり描いて欲しかった気がします。

 吉田松陰の死から4か月余りが過ぎた安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変が起こります。この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れません。作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。

 「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」

 この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは間違いないでしょうね。

 長州藩重役・長井雅楽が提唱した『航海遠略策』とは、急速に広まりつつあった攘夷思想をけん制した内容で、それによれば、
「積極的に通商を展開して国力を高め、その上で諸外国と対抗していこう」
というもので、目先の「小攘夷」ではなく、将来を見据えた上での「大攘夷」という思想でした。しかし、この建白書の内容を知った久坂玄瑞をはじめとする松下村塾系の書生たちは、激しく反発します。後世の目から見れば、長井の主張は至極もっともな意見であり、この数年後には実際にその方向に進んでいくのですが、この段階では、長井の考えは進みすぎていたんですね。この建白書のせいで、やがて長井は命を狙われる立場となります。正論を掲げるにもTPOがあるんですね。

 坂本龍馬武市半平太の使者として萩を訪れたのは、文久2年(1862年)1月のことでした(ドラマでは、松陰が死んで間もない感じで描かれていましたが、実は2年以上も経っています)。このとき、龍馬と玄瑞のあいだでどのような会話があったかは記録が残っていませんが、龍馬が玄瑞から預かった武市宛ての書状には、
 「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず。草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事」
などと、松陰の「草莽崛起論」に影響を受けた内容が記されており、おそらく、龍馬にも同様の話をしたでしょうね。龍馬が脱藩するのはこの2か月後のことですから、あるいは、玄瑞との会談が龍馬の脱藩に大きく関わっていたかもしれません。

 あと、ドラマで龍馬が言っていた「フレーヘード」とは、松陰が佐久間象山に宛てた書状のなかに記されていた言葉で、オランダ語のようです。ただ、少し無粋なことをいえば、龍馬が何度もつかっていた口にしていた「自由」という言葉は(前話で松陰も使っていましたが)、のちに福沢諭吉が英語の「Freedom」を訳して作った言葉で、この時期には、まだなかった日本語です。まあ、それを言い出せば時代劇なんて矛盾だらけなんでしょうが、ああも連呼されると、ちょっと違和感を覚えますね。「自由」という言葉がなかったくらい、人々に自由がなかった時代ですから。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-04 02:32 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第14話「さらば青春」 ~安政の大獄と間部老中暗殺計画~

 今回は、ドラマで省かれていた「安政の大獄」までの経緯を簡単に解説します。
 大老就任早々、独断で日米修好通商条約に調印した井伊直弼は、さらにその実権をフルに発揮し、将軍継嗣は紀伊の徳川慶福(のちの家茂)に決定したと大々的に発表します。不意をつかれた格好となった水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽一橋派は、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくります。ところが、これを受けた直弼は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。親藩や大藩の殿様相手にやりたい放題ですね。

 政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、今話で捉えられた梅田雲浜や、頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たちで、彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

 この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜ら密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。

 江戸や京都の動きを知った吉田松陰は、こうしてはいられないとばかりに、同年11月、京都での攘夷派や一橋派の弾圧を指揮していた幕府老中・間部詮勝の暗殺を企てます。そして、松蔭は藩の重臣・前田孫右衛門に計画を記した書状を送り、藩から武器を借りたいと依頼しました。同時に、門人を中心に同志の連判を募り、自分がこれらを率いて上洛し、事を起こすと公言したそうです。暗殺の企画書を役所に提出するなど聞いたこともありません(笑)。公然と発表する暗殺を暗殺といえるかどうかは疑問ですが、つまるところ、松蔭はこの暗殺計画を、藩をあげて実行しようとしていたわけですね。松蔭にしてみれば、この計画に一点の曇もなかったのでしょう。

 ところが、藩当局にしてみれば、そんな無謀な計画を公言する松蔭をそのままにしておけるわけがありません。バカ正直というか何というか、結局、藩当局はふたたび松蔭を野山獄へ収監します。しかし、これで松蔭がおとなしくなったかというと、更に過激になっていくんですね。その過激さに、松下村塾の門弟たちも、やがて距離を置くようになっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-06 20:55 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第5話「松蔭の遺言」その2〜桜田門外の変〜

 安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、翌万延元年、大老・井伊直弼の独裁専制と志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

 政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

 幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。

 この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。

 井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

 私は、そのどちらでもないと思います。開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

 私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、吉田松陰を殺したことだと思います。松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。

 いずれにせよ、「安政の大獄」「桜田門外の変」という2つの大きな出来事を引き起こした井伊直弼は、歴史を大きく動かした人物であることは間違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-05 20:30 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第5話「松蔭の遺言」その1〜安政の大獄と吉田松陰〜

 江戸幕府大老・井伊直弼の断行した安政の大獄により、多くの志士たちが切腹死罪などの極刑に処せられましたが、そのなかのひとりに吉田松陰(寅次郎)がいました。松蔭は、このとき重罪を科せられた志士のなかでは、もっとも異彩を放つ人物といえます。というのも、安政の大獄によって処罰された者のほとんどは将軍継嗣問題で一橋派に与した者たちでしたが、松蔭の場合、その問題にはまったく関係しておらず、そればかりか、彼は安政期を通じてほとんど長州藩で幽囚生活を送っています。そんな彼が、なぜ死罪に処せられたのでしょうか。ここで少しばかり吉田松陰について触れてみます。

 嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航の際、黒船に乗り込んで密航を試みた罪で、郷里の萩へ送られ投獄された松陰でしたが、翌年には釈放され、自宅蟄居となりました。蟄居という身であるため、家から出ることは許されなかったものの、自宅で叔父の玉木文之進が開いていた「松下村塾」を引き継ぎ、後進指導にあたりました。蟄居の身である松蔭のこのような活動を黙認していたことに、長州藩の松蔭に対する寛大さがうかがえます。

 松下村塾の門下からは幕末維新から明治にかけての多数の人材が輩出されました。おもな門下生には、高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山縣有朋前原一誠品川弥二郎などがおり、木戸孝允もまた、松蔭の強い影響を受けたひとりです。松蔭がのちの明治維新に与えた影響は多大なものであったといえるでしょう。

 松蔭の松下村塾における教育方針は、厳正な規則を立てて生徒を率いるというものではなく、師弟相互に親しみ助け合い、尊敬信頼し、たがいに腹を割って交わるといったものでした。通常の塾のように師匠が一方的に教えるというかたちではなく、松蔭も弟子も一緒になって意見を交わし合うディスカッション方式をとり、机上の学問だけでなく、登山や水泳なども共にしたといいます。しかも、武士の者も足軽の子も平民の子も差別なしの教育でした。松下村塾における平等思想は、幕府を中心とする封建制の否定を意味していたのかもしれません。
 「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」
とは、松蔭の心情を述べた句として有名ですが、己の信ずるところを突き進む熱狂的な松蔭の教育は、当時の若者たちの心を大きく震わせるものでした。

 松蔭は、お隣の清国アヘン戦争によって西欧列強の植民地になった現実を知り、日本も同じ道を辿るのではないかと危惧し、藩単位でバラバラな日本の体制を憂います。そして、天皇を中心とした挙国一致体制をとるべきだと考えるようになるんですね。夷狄(異国)を打ち払い、天皇を中心とした政治を行うという、いわゆる尊皇攘夷思想です。やがてその思想は、幕府を否定する論調にまで及んでいきます。幕府にとっては、松蔭の存在自体が危険だったわけです。

 安政の大獄によって再び捕らえられた松蔭は、長州から江戸へ送られて取り調べを受けます。このときの幕府の取り調べは別の嫌疑についてでしたが、どういうわけか彼は、幕府の志士弾圧に憤慨し、老中・間部詮勝暗殺しようと計画したこと、公卿・大原重徳を長州に迎え、藩主をして重徳を擁立させようと計画したことなどを、自らすすんで告白しました。しかも、自身を死罪にするのが妥当だと主張したとか。このあたりが、後世に“狂人”と言わしめるところでしょうか。結局これが井伊の逆鱗にふれるところとなり、安政6年(1859年)10月27日に斬首となります。享年30歳。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
 (私の命がたとえ この武蔵野の野で終えることになっても、私の心はここに留めておこう。)


 ドラマでも使われていた松蔭の辞世の句ですが、これは彼の最期の著書となった「留心録」の冒頭に記されている句です。この言葉は、日本中の草莽の志士たちの心を奮い立たせました。自身の死をもって時勢を先導した吉田松陰。その過激さは、やはり“狂人”の域だったのでしょうか。

 ドラマでは出てきませんでしたが、もうひとつ松蔭の辞世の句として有名な言葉があります。

 「親思ふ心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」
 (子が親を思う気持ちより、親が子を思う気持ちのほうがはるかに大きい。私が処刑されたことを知ったら、親は何と思うだろう。)


 こちらの上の句は後世に有名ですね。先述の句が弟子たちに宛てたものだったのに対し、こちらの句は家族に宛てた言葉だと言います。親思う心にまさる親心・・・この句を聞けば、松蔭が決して狂人ではなかったことがわかりますね。

 「至誠にして動かざるものは 未だこれあらざるなり」
 (誠意を尽くしてことにあたれば、動かせないものはない。)


 松蔭にとっての「至誠」とは、この時点では死をもって訴えることしかなかったのかもしれません。その彼の誠の意志は、やがて後進に引き継がれて行きます。

 思いのほか長文になってしまったので、明晩、その2~桜田門外の変~に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-04 21:06 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第4話「妖霊星」 ~井伊直弼と徳川斉昭~

 安政5年(1858年)4月、近江国彦根藩の藩主・井伊直弼が幕府大老に就任します。大老職とは幕閣の最高職で、常置の職ではありません。通常、将軍自らが政務を執り行うことは少なく、その一切を取り仕切っていたのは老中でした。老中は常に4~5人いて、その中の筆頭を老中首座といい、行政機関のトップとして政務を執り行います。いまでいえば内閣総理大臣のような役職といえばいいでしょうか。将軍はというと、「よきにはからえ!」といっていればよかったわけです。この時期の将軍は第13代将軍・徳川家定で、家定は生まれつき病弱だったとも暗愚だったとも言われていますが、老中たちさえ有能な人物を揃えておけば、将軍はバカ殿様でもよかったわけですね。

 で、その老中のさらに上の役職が大老で、国難非常事態に際して置かれる臨時職でした。平時のそれは多分に名誉職的な意味合いが強かったそうですが、実質、老中首座より強い権限を与えられた役職だったわけですから、その権限をフルに発揮すれば独裁政治も可能だったわけです。井伊直弼が就いた大老とは、そういう椅子でした。

 彦根藩主である直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張します。しかし、その直弼の主張に真っ向から反対する人物がいました。前水戸藩藩主・徳川斉昭です。水戸藩といえば、尊皇攘夷論のさきがけ的存在の藩。ときの老中首座・阿部正弘によって幕政への参与を許されていた斉昭は、鎖国の維持と攘夷を主張し、直弼と激しく対立します。結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。

 折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まります。幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。直弼と斉昭の対立関係は、条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきます。そんななか、直弼は大老職に電撃就任します。

 大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありました。しかし、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。世に言う、「安政の大獄」です。

 ドラマに出てきた彗星は、この年の10月に観測された「ドナティ彗星」という名の彗星だとか。肉眼でも見ることができたほど大きく輝く彗星だったようで、世界各国で観測された記録が残っているそうです。タイトルの『妖霊星』とは、当時、凶事の前兆として不吉とされていた「ほうき星」のこと。奇しくもこの彗星がもっとも地球に近づいた頃から、日本は殺伐とした時代に入っていくんですね。それは日本にとってのことか、あるいは直弼にとってのことか、でも確かに、「ドナティ彗星」は凶事の前兆、「妖霊星」でした。



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by sakanoueno-kumo | 2013-01-31 02:33 | 八重の桜 | Comments(0)