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おんな城主 直虎 第50話「石を継ぐ者」 ~最終回~

 本能寺の変から約2ヵ月半が過ぎた天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎がこの世を去ります。その死について、『井伊家伝記』では、たった1行だけこう記されています。


 天正十年午八月廿六日御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉


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 直虎の享年は、誕生年が不明なために明らかではありませんが、許嫁だった井伊直親が生きていれば47歳だったことから考えれば、40歳代半ばから50歳前後だったと思われます。死因も定かではありません。直虎の晩年は、天正3年(1575年)以降、実母の祐椿尼とともに龍潭寺内にある松岳院という庵で過ごしたということ以外、何もわかっていないんですね。ただ、おそらくは井伊谷を出ることはなかったでしょうから、きっと、松岳院で南渓瑞聞和尚らに見守られての穏やかな最期だったのではないでしょうか。

 直虎の亡骸は龍潭寺の井伊家墓地に葬られました。直虎の右隣には祐椿尼が、左隣には直親が眠り、その横には直親の妻、そして末席には万千代こと井伊直政が眠ります。井伊家が最も危機的状況にあった時代を生きたこの5人が、肩を並べるように眠っているというのも、感慨深いですね。


 南渓瑞聞和尚は、直虎が死んだ7年後の天正17年(1589年)まで生きます。享年は不明ですが、直虎の祖父の弟という説が正しければ、かなりの長寿だったと思われます。井伊家の危機がはじまった井伊直満・直義の死から、直盛、直平、直親、小野政直・政次父子、そして直虎の死まで、すべてを弔ってきた南渓瑞聞和尚。最後は、直政が大名となって井伊家を再興させるところまで見届けて、この世を去ります。『井伊家伝記』によると、次郎法師に井伊家当主を継がせたのも、南渓だったといいます。結局のところ、当主不在の井伊家を実質率いていたのは、南渓だったといってもいいかもしれません。

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 直虎の死から3ヵ月後の11月、万千代は元服して井伊直政と名乗ります。22歳でした。通常、武家の子は15歳で元服するのが慣例で、何か特別な理由がない限り、22歳での元服は考えられない遅さでした。直政の場合、15歳で徳川家康に取り立てられ、すでに戦場を何度も経験しており、武功もたて、2万石を有する侍大将だったわけで、元服しない理由が見当たりません。なぜ直政はここまで元服しなかったのか・・・。その理由は判然としませんが、直虎の死の3ヵ月後に元服したという事実を鑑みれば、何か直虎の存在と直政の元服に関係があったと考えるのが自然かもしれません。直政がもし元服すれば、たったひとりの井伊家の男として、家督を継ぐことになるのはわかりきっていました。直虎の目の黒いうちは、それが出来ない、あるいはそれが憚られる何らかの理由があったのではないかと・・・。それが何かはわからないのですが。


 直政の「直」は井伊家の通字で、「政」は小野家の通字というドラマの設定には、思わず目頭が熱くなりました。小野但馬守には「政次」「道好」の2説あるのですが、実は「道好」の方が通説となっています。ところが、今回のドラマでは、俗説の「政次」を採りました。その理由は、これだったんですね。直政の諱には、直親、直虎そして政次が生きている・・・と。そして、3人の魂がこもった石(遺志)を継いだんですね。


 ナレーションにもあったとおり、その後、井伊家は260年に渡って徳川家の屋台骨となります。その礎を築いたのが直政だったわけですが、父の直親が死に、一時は滅亡しかけた井伊家が、直政によって再興されるまでの間にも、記録には残らない歴史があったはずです。その時代を描いたのが、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でした。『井伊家伝記』は伝えます。


 次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間


 本稿をもって大河ドラマ『おんな城主直虎』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-18 21:22 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第44話「井伊谷のばら」 ~井伊万千代の初陣~

 井伊万千代初陣の回でしたね。ドラマでは、天正6年(1578年)の田中城攻めを初陣としていましたが、通説では、天正4年(1576年)の芝原の戦いが初陣だったとしています。その詳細は、『井伊家伝記』が次のように伝えます。


天正四年の春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦の時、権現様陣小屋の中に御休息被遊候所に夜中忍びの敵近藤武助と申者を直政公御次之間にて御討取被成候故、権現様殊の外御悦にて御感不斜、則、十倍の御加増にて三千石に被仰付なり。

(天正四年の春、甲斐の武田勝頼と遠江国高天神に近い柴原で戦ったとき、権現様(徳川家康)が陣小屋で休息していたところ、夜中に敵方の忍びの近藤武助という者が侵入したので、直政(万千代)が御次の間で討ち取った。そのはたらきを家康はことのほか喜び、十倍の加増をして三千石を与えた)


舞台の設定は違いますが、手柄の内容はドラマとほぼ一緒ですね。徳川家康の部屋に忍び込んだ曲者を討ち取ったとなれば、まさに家康にとって命の恩人。戦場での槍働きをはるかに凌ぐ武功といっていいでしょう。家康が喜んで加増するのは当然のことだったでしょうね。ただ、加増はこの時点では1万石ではなく、三千石だったようですが。もっとも、忍者を討ち取ったというエピソードは、『井伊家伝記』のみの記述であり、史実か否かを判断するには資料不足といえるでしょう。少々出来すぎた話のようにも思えますしね。


 一方で、万千代の初陣を「天正四年」と記す史料は他にも複数あり、『寛政重修諸家譜』では、「天正四年二月七日」と明確な日付まで示しています。内容はともかく、このときが初陣で何らかの手柄をあげたのは事実かもしれません。


 ドラマの設定は、天正6年(1578年)の田中城攻めが初陣でした。このとき万千代は18歳。『井伊家伝記』の記述は次のとおりです。


 直政公御奉公日夜御勤労忠節異代故、拾八の御年に壱万石御加増被成候。

 (直政は日夜、他に代わりがないほど忠節を尽くして奉公に勤めたため、18の年に1万石を加増された)


具体的な手柄の内容は記されず、日々の勤労の賜物としています。ただ、この年の3月から本格的に田中城攻めを開始したのは事実で、ここで何らかの手柄を立てたのでしょうね。1万石といえば、江戸時代なら大名に匹敵する大身です。日々の忠節だけではここまでの大出世は考えられないでしょう。他の家臣たちから見ても納得できるような手柄をあげたに違いありません。


 ドラマでは天正4年の手柄と天正6年の加増を合体させて、300石の小姓から一気に1万石の大身に出世させました。まあ、いずれも二次史料でしか確認できない説ですから、ドラマなりの解釈があっていいんじゃないでしょうか。ドラマの尺の都合もあるでしょうしね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-06 02:19 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第40回「天正の草履番」 ~日の本一の草履番~

 天正3年(1575年)2月、徳川家康と面会した虎松は、名を家康から与えられた井伊万千代と改め、家康に仕えます。ドラマでは、「井伊」を名乗ることを手放しに喜べないおとわ(井伊直虎・次郎法師)でしたが、武家にとって何よりも屈辱なことは家名を失うことで、家名を失った武家がもっとも望むのは家名再興でした。家康のこのはからいは、井伊一族にとっては何よりのプレゼントだったはずです。


 一方、とんだ思惑違いだったのが養父として虎松を育てた松下源太郎清景でした。松下家は徳川家の家臣で、清景の弟・松下常慶は家康からたいへん目をかけられており、虎松が家康にお目見えできたのは、おそらく清景・常慶兄弟の尽力があってのことだったでしょう。もっとも、実子のいない清景は虎松を後継ぎと考えていたはずで、15歳で虎松を家康に引き合わせたのは、あくまで「松下虎松」として、あわよくば家康に烏帽子親になってもらい、元服させたいとの思惑だったんじゃないでしょうか?


ところが、蓋を開けてみれば、家康は元服どころか「万千代」という幼名を与え、井伊家を再興させてしまいます。これは井伊一族にとっては大きな喜びだったでしょうが、たちまち後継ぎを失った松下家にとっては、お家存続の危機を意味します。いい面の皮ですよね。ドラマでは、寛大な態度で理解を示した清景でしたが、実際には、苦虫を噛み潰す思いだったに違いありません。


 ちなみに、清景はのちに中野直之の次男を養子にし、代々、井伊氏に仕えることになります。


 さて、徳川家の家臣となった万千代ですが、『井伊家伝記』の伝えるところでは、いきなり小姓として三百石を与えられたといいます。しかし、それは後世が家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造った話だと見てよさそうで、実際には、草履番だったかどうかはわからないにしても、それほど重用はされていなかったんじゃないでしょうか? かつての地頭とはいえ一度は潰れた家で、しかも、今川方だったわけですからね。家康の正妻で井伊氏の血を引く築山殿の口添えがあったとしても、他の家臣の手前、最初は草履番あたりが妥当だったんじゃないかと。


 もっとも、別の説では、万千代が破竹の勢いで出世していった理由について、万千代は家康の稚児小姓(男色相手)だったんじゃないか、という説があります。戦国時代、名のある武将のほとんどは、15、6歳の美しい少年を男色相手として身辺に仕えさせていたといい、その多くは、草履取りの名目で召し抱えていたことから、男色相手の家来を「小草履取り」と言いました。実際、万千代はたいそう美形だったといいます。その説が本当なら、万千代も、やはり最初は草履取りだったかもしれません。


「井伊万千代、かくなるうえは日の本一の草履番を目指す所存にございます!」.


そう言い放って意地を見せた万千代の奮闘ぶりが描かれた今話でしたが、ここで、ふと、ある言葉を思い出しました。それは、阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループの創業者である小林一三の名言。


「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」


木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が織田信長の草履取りから出世したという故事を下敷きにした言葉だと思いますが、実際、そのとおりですよね。現在の境遇に納得いかなくても、腐らずにそこでできることを目一杯やる。それが「仕事」をするということで、何も考えずに与えられた役目をただこなすだけでは、単なる「作業」に過ぎません。「仕事」とは、「事に仕える」こと。与えられた事柄をより良くするにはどうすべきかを、常に考えながら事に臨むことが「仕事」なんですね。その意味では、藤吉郎も万千代も、最初から「仕事」ができる人物だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-10 20:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第39話「虎松の野望」 ~井伊直政出世物語のはじまり~

 天正2年(1574年)12月14日、井伊谷龍潭寺において井伊直親十三回忌の法要が行われました。『井伊家伝記』によると、このとき15歳になった虎松(のちの井伊直政)も呼び戻され、祐椿尼、次郎法師(井伊直虎)、南渓瑞聞和尚らが集まって相談し、井伊家再興のため、虎松を徳川家康に出仕させる方針が決まったとあります。ドラマでは、直虎は井伊家を再興するつもりはないと言っていましたが、実際には、直親の忘れ形見である虎松によって井伊家を復活させることが、一族の悲願だったようです。まあ、当然だったでしょう。


 虎松と家康の面会は、その後、間もなく実現します。『井伊家伝記』によると、天正3年(1575年)2月と記され、『寛政重修諸家譜』には、同年2月15日と具体的な日付まで記されています。どちらの記述も、面会したのは鷹狩りの途中の道端だったと伝えます。また、江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』でも、道端で尋常じゃない面魂の少年を見つけ、素性を調べさせたところ、井伊直親の子だというので、不憫に思って仕えさせたとあり、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』でも、鷹狩の道すがらただものとは思えない小童が家康の目に入り、その子がかつて陰謀によって死んだ直親の遺児で、いまは松下源太郎清景の養子になっていることを知り、すぐに召し抱えたと記されています。すべて二次史料ではあるものの、「鷹狩の途中」という話は一致しており、おそらく本当の話なんでしょうね。


ただ、「偶然の出会い」というのはどうだったでしょうね。『井伊家伝記』によると、「御小袖二つ、祐椿・次郎法師より御仕立遣わされ候なり。天正三年二月、初めて鷹野にて御目見遊ばされ候。」とあります。直虎と祐椿尼から虎松のもとに小袖が届けられ、その小袖を着て家康に拝謁したというのです。つまり、家康に会うために、わざわざ正装を新調したということです。これ、ドラマでも描かれていましたね。この話が事実なら、家康との面会はあらかじめ設定されていたことになります。ドラマでは、この説が採られていましたね。おそらく、そうだったんじゃないかとわたしも思います。江戸時代に記された史料がすべて「偶然の出会い」と伝えているのは、神格化した家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造られた話なんじゃないでしょうか。実際には、ドラマのように、誰かによって面会の場があらかじめセッティングされ、その場所が、鷹狩の途中だったんじゃないかと。


 さらに『井伊家伝記』の伝えるところでは、かつて直親が家康と内通した疑いによって今川方に殺されたことを家康は知っており、家康は直親が命を失ったのは自分のためだったも同然として、虎松を召し抱えたとあります。家康はその際、虎松に松下姓から井伊姓に戻るように命じ、自分の幼名・竹千代から「千代」ををとり、「万千代」という名を与えました。そして上下とともに三百石を与えたと伝えます。


 ドラマでは、虎松が築山殿根回しして、家康から井伊姓を名乗るように命じてもらうよう仕向けてもらうといった設定で、その小賢しさのせいで、三百石はおろか、小姓に取り立てられる約束だった話も反故になり、草履取りを申し付けられるという展開でした。まさに策士策に溺れるってやつですね。まあ、そんなに早く虎松に出世されたんじゃ、50話まで話が続かないでしょうからね。ここからは、井伊直政の出世物語となるのでしょう。


 ちなみに、ネタバレになりますが、井伊姓と松下姓のどちらを与えるか迷っていた家康に、逆に虎松に選ばせてはどうかとアドバイスしていた鷹匠ノブという人物は、おそらく、のちの本多正信でしょうね。家康の後半生はこの正信をいつもそばに置き、すべて正信との謀議で事が進められたといいます。早くも、その策士ぶりを発揮していましたね。虎松の才気も、正信にかかっては赤子同然だったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-03 14:39 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第36話「井伊家最後の日」 ~虎松の養子入り~

 三河国の鳳来寺に入っていた虎松(のちの井伊直政)が、生母の再婚先である松下清景養子となったのは史実です。ただ、どのタイミングで養子となったかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、母の再婚とともに虎松も松下家の養子になったと記されていますが、『井伊家伝記』では、井伊家一族が集まって虎松を徳川家康に出仕させる計画を立て、鳳来寺には黙って家康の臣下である松下家の養子になったと伝えます。鳳来寺からは事情を尋ねるべく使者が何度も訪れますが、南渓瑞聞和尚が、その都度、言いくるめていたとあります。


 ドラマでは、清景の弟・松下常慶が持ち込んだ養子の申し出に対して、「虎松を松下によこせということか?」と困惑する井伊直虎に、「虎松君に松下をさしあげたいということでございます」と常慶が答えていましたが、それは詭弁ですよね。ドラマでも言っていたとおり、清景には継嗣がおらず、養子に迎えるということは、即ちあととりです。松下姓を名乗るということは、松下の家に入るということ。実子のいなかった清景にしてみれば、再婚相手の生んだ子で、しかも筋目的にも申し分ないですから、虎松を松下家のあととりにすべく養子に迎えたのでしょう。『井伊家伝記』でも、松下家の養子になったのは徳川家に士官するための隠れ蓑のようなニュアンスで伝えますが、これも、後世に都合よく脚色された話かと思われます。


 つまり、井伊家は、この時点でいったん潰れたと考えていいでしょう。井伊谷城を追われ、井伊家の血を引く唯一の男子である虎松が養子に行ったわけですからね。その虎松が生きている以上、井伊家再興の可能性はゼロではなかったでしょうが、それは極めて薄い希望だったと思われます。ドラマのとおり、この時点の直虎たちは、井伊家再興をいったん諦めたのかもしれませんね。


 井伊谷城を追われたあとの直虎や家臣たちがどうしていたかについては、史料が乏しく定かではないようです。ただ、のちに井伊家が井伊谷に戻ってきたときには、旧臣たちも戻ってきていますから、おそらく、ドラマのように近藤康用井伊谷三人衆などに士官し、井伊谷周辺にいたんでしょうね。直虎はおそらく龍潭寺尼僧として過ごしていたことでしょう。少なくとも、盗賊からプロポーズされることはなかったかと思います。たぶん。


 ネタバレになりますが、後年、虎松は松下家に入ったことで家康の知遇を得ることとなり、やがて井伊氏に復することを許され、名を井伊万千代と改めて井伊谷に戻ってきます。井伊家再興を諦めて養子に行ったことが、結局はのちの井伊家再興に繋がったわけです。歴史って面白いですね。家康にあととりを取られてしまった清景は、中野直之の次男の松下一定を養子として跡を継がせます。虎松を家康に引き合わせた清景にしてみれば、「そんな~!」だったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-12 23:08 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第20話「第三の女」 ~井伊直親の隠し子~

 死んだ井伊直親の娘と名乗る高瀬という少女が出現しました。ドラマでは唐突な設定に思えましたが、実はこれは根拠のない話ではなく、直親は11歳から21歳までの約10年間に及んだ信濃国は市田郷での潜伏生活のなかで、身の回りの世話をしていた地元島田村の代官・塩沢氏の娘とのあいだに子をなしたといわれています。


 『寛政重修諸家譜』によると、直親の子どもは二人になっていて、「女子」「直政」とあります。「直政」とは言うまでもなく虎松のことですが、この「女子」は、直政より先に記載されていて、「母は某。家臣川手主水良則が妻」と書かれています。この女子こそ、直親(当時は亀之丞)が市田郷での潜伏生活時代に、塩沢氏の娘に産ませた子ではないかと思われます。たぶん、この「女子」が、ドラマの高瀬なんでしょうね。


 隠し子(というわけではなかったでしょうが)の出現に動揺を隠せない井伊直虎でしたが、正妻のしのは気丈でしたね。自分と結婚する前のことだから、関係ない・・・と。むしろ、裏切られたのは、かつて許嫁だった直虎様ですよ・・・と。あの意外な反応が笑えましたが、たしかにしのの言うとおりで、この時代、正妻を娶る前に側女を作るなんて話はよくあることで、その程度のことで狼狽えていては、武家の妻はつとまりません。ましてや、雲隠れの身だったとはいえ、井伊家の後継者候補だった直親ですから、正妻として迎えるのはそれ相応の身分の女性でなければならなかったわけで、塩沢氏の娘では身分不相応だったのでしょう。


かといって、11歳から21歳という時期を、女性なしで過ごすには無理がありました。この時代、武家の男子には15歳ぐらいで三点セットともいうべき儀式がありました。元服初陣結婚です。直親の場合、潜伏生活のため元服も初陣もおあずけでした。しかし、ひとつだけ可能だったのは結婚。直虎という許嫁がいたため正妻を迎えるわけにはいかなかったでしょうが、側女を迎えて子をなすことはできました。武家の男子にとって、子どもを作るというのは最も大切な仕事でした。そう、仕事だったんですよ。男が妻以外の女性に惹かれるのは、その仕事の習性の名残なんです。決して好色ではありません(笑)。


 井伊家に残る史料では、直親の子どもは直政とこの女子だけですが、しかし、直親の潜伏先だった市田郷では、直親は塩沢氏の娘とのあいだに一男一女をもうけ、女の子は井伊谷につれていったが、男の子は置いていったという伝承がのこっているそうで、いまもその子孫の方が長野県飯田市にご健在だそうです。歴史家・楠戸義昭氏の著書によると、その男子の名は吉直といい、直親が帰国の際に一振の短刀を託したといいます。吉直はこの地に留まり塩沢家で養育されましたが、数代ののち、飯田城下大横町に出て麹屋を創業<推定:延享3年(1746年)>し、そこで旧姓の井伊氏を名乗り、吉右衛門を襲名、代々島田屋を屋号として飯田藩ご用達として栄え、今なお続いているそうです。この家に、直親が息子に託したという短刀が家宝として伝わっているんだそうです。


 その話の真偽はともかく、高瀬のことは井伊家の記録にも残っており、その後、高瀬は井伊家家老となる川手良則の妻となったといいますから、たぶん事実なんでしょうね。一説には、この事実が直虎出家の理由だったとも言われますが、それはどうでしょうね。なんたって直親にとっては仕事だったわけですから(笑)。


 ドラマでは、間者の疑いもあるとして追い出してもかまわないとする小野但馬守政次でしたが、高瀬の鼻歌を聴いた直虎が、直親の娘と認知します。まあ、間者だったらそれぐらいの予備知識は持っていそうですが、DNA鑑定などない時代ですから、疑うも信じるも当人次第だったでしょう。かくして高瀬は井伊家の姫子となって、めでたしめでたし・・・と思っていたら、徳川家康の諜報活動担当の松下常慶が飛び込んでくるや、意味深な眼差し。えっ? やっぱり間者なの? じゃあ、直親は直虎を裏切ってなかった? でも、じゃあ井伊家史料に残る高瀬の存在は? 今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-22 21:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第17話「消された種子島」 ~戦国大名の鉄砲と囲碁~

 今話は井伊家の種子島(火縄銃)導入と虎松(のちの井伊直政)の教育のお話。鉄砲がはじめて日本に伝わったのは、天文12年(1543年)のこととされています(異説あり)。井伊直虎のこの時代より、約20年前のことです。場所は大隅国の種子島。中学校で習いましたよね。持ち込んだのは、中国船に乗っていたポルトガル人のフランシスコキリシタダモッタの2人とされています。このフランシスコを、かの宣教師フランシスコ・ザビエルと混同して覚えている人がよくいますが、別人です。ザビエルが日本に来たのはこれより6年後の天文18年(1569年)のことで、上陸したのも種子島ではなく鹿児島。持ち込んだのも鉄砲ではなくキリスト教でした(献上品のなかには鉄砲もあったかもしれませんが)。


 種子島の島主・種子島時堯は、鉄砲を2丁買い求め、1丁は家宝とし、もう1丁を鍛冶屋の八板金兵衛清定に命じて分解させ、研究させます。当時の日本にはネジというものがなく悪戦苦闘が続いたようですが、やがて国産の火縄銃、その名も「種子島」が金兵衛らによって完成すると、瞬く間に各地に生産が広まり、和泉国の、紀伊国の根来、近江国の国友、同じく近江国の日野などが代表的な産地となります。他にも、「鉄砲町」という地名がいまも全国各地に残っていますが、それらはすべて、鉄砲鍛冶が住む町でした。


生産ラインが充実すると、戦場における新兵器として、戦国大名たちは挙って鉄砲を買い求めはじめます。ドラマで、中野直之が直虎に種子島導入の話を持ち込んだのは、ちょうどそんな頃でした。時代は刀槍から火器へと移り変わろうとしていた過渡期で、やがてこれが、日本の天下統一を左右していくことになるんですね。


ちなみに、戦国時代末期には、日本は50万丁以上の鉄砲を所持していたともいわれ、この当時、世界最大の銃保有国となるに至ります。話はそれますが、幕末、黒船艦隊の脅威から明治維新を迎え、わずか半世紀ほどで世界一二を争う海軍を保有するに至る日本。第二次世界大戦後の焼け野原から、わずか半世紀ほどで世界一二を争う経済大国となった日本。その是非は別として、戦国時代も現代も、わが国の適応能力の高さには目をみはるものがあります。


 さて、虎松の囲碁です。碁は太古の昔からわが国にあった文化ですが、とくに戦国時代には戦国大名たちに大いに好まれ、織田信長徳川家康などは名人だったとされます。碁盤での対局は、ある種、戦場の戦術戦略にも通ずるところがあり(わたしは碁をやらないので詳しくはわかりませんが)、戦場で指揮をとる彼らにとって、碁は頭脳と精神力の訓練の場だったのかもしれません。


井伊直政の碁がどれほどの実力だったのかはわかりませんが、後年、豊臣秀次関白就任の際、家康の名代として直政が上洛し、祝いのあと、聚楽第の一室で秀次と碁を打ったという逸話が残されています。のちに家康の元で目覚ましい出世を遂げる直政ですが、あるいは、囲碁の素養が家康の目にとまったのかもしれませんね。それを鍛えたのが直虎だったかどうかはわかりませんが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-01 19:09 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)