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おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第6話「初恋の別れ道」 ~井伊直親の元服・結婚~

 弘治元年(1555年)3月、井伊谷に帰還した亀之丞は、早速、井伊直盛の養子となり、元服して井伊肥後守直親と名乗ります。このとき、直親21歳。遅すぎる元服ですが、逃亡、潜伏生活を強いられていたわけですから、やむを得なかったのでしょうね。晴れて井伊家の後継ぎとなった直親は、10年前の約束どおり、出家した次郎法師還俗させて結婚・・・というのが直盛の希望だったでしょうが、残念ながらそうはいきませんでした。


 第4話の稿でも述べましたが、出家した井伊直虎が尼の名前を名乗らず、「次郎法師」という僧名を名乗ったのは、再び還俗しやすいように、との直盛の願いだったといいます。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、後継ぎの男子がいなくなった場合、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。そこに目をつけた南渓瑞門和尚が、直虎に僧名をつけ、いつでも俗世に帰れるようにしたと伝えられます。次郎法師の還俗は両親の切実な願いだったんですね。


 ドラマでは、井伊家の本領安堵と引き換えに出家させられた次郎法師でしたが、史実では、そのような記録はありません。即ち、還俗しようと思えばいつでも出来たわけで、直親が帰還したこのタイミングが、まさに直盛の望みを叶えるチャンスだったといえます。しかし、実際には次郎法師の還俗は行われず、直親は一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。なぜ、次郎法師と結婚しなかったのか・・・。


 これについては、様々な推理があるだけで、実際の理由はわかりません。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項によると、直親の信濃国逃亡の際、朝利(その父の親朝とも)が直親を匿うべく尽力したと伝えています。つまり、奥山家は直親の命の恩人であり、無下にはできない間柄だったわけです。そんな事情から、直盛は出家した実の娘ではなく、奥山家から直親の嫁を選んだのではないか、と、推測されます。


 また、別の説では、直親は潜伏先の信濃国で代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたといわれ、井伊谷にはその娘を伴っての帰還だったため、次郎法師がこれを嫌った、とも言われます。元服していなかったとはいえ、帰還時の直親は21歳。当時の習慣からいえば、子どもがいても何ら不思議ではありません。ただ、それを理由に次郎法師が還俗、結婚を拒んだというのは、いささか現代チックな見方かもしれませんね。この時代、正妻より先に側女を持つなどよくあることで、その程度のことで目くじらを立てる次郎法師ではなかったでしょう。おそらく、ふたりが添えない何らかの事情があったのでしょうね。


次郎法師「直親とわれは、それぞれ1つの饅頭なのじゃ。2つの饅頭を一時に食べたり与えてしまっては、のうなってしまう。なれど、1つを取り置けば、まことに困ったときに、もう1度食べたり与えたりできる。」

直親「おとわが還俗するのは俺と一緒になるときではなく、俺に何かがあったときでありたいということか?」

次郎法師「井伊のためには、死んでしまったことにするわけにはいかぬ。次郎の名を捨てるわけにはいかぬ。」

直親が「おとわはそれでよいのか? 一度きりの今生と言うたではないか。一生、日の目を見ることなどないのかもしれぬのだぞ!」

次郎法師「それこそ上々であろ? われがかびた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証しであろ?」


 これが、ドラマにおける理由でした。つまり、次郎法師はリザーブになる・・・と。実際には、この時点での次郎法師を井伊家の後継ぎ候補と考えるようなことはなかったとは思いますが、そこはドラマですから、多少の千里眼的設定はいいんじゃないでしょうか? 実際、次郎法師はかびた饅頭になれなかったわけですから。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-13 21:43 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第4話「女子にこそあれ次郎法師」 ~直虎の出家~

 今回は出家したおとわの話がメインでしたね。ドラマでは、今川家から本領安堵の条件として、おとわの出家を命じられるといった設定でしたが、実際には、井伊直虎がいつ、どのような理由で出家するに至ったかはわかっていません。前話の稿でも紹介しましたが、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞(のちの井伊直親)出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓瑞門和尚の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されています。これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになり、もう少し大人になってからということになります。


 また、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞との婚約が破談になったことで、自らの意志で出家したとあります。この時代、夫に先立たれた妻は出家するのが慣わしで、直虎も、その慣例に則って操を通したのかもしれません。しかし、直虎の両親である井伊直盛夫妻は、そもそも結婚はしておらず婚約が破棄になっただけなので、出家する必要はないと猛反対したといいます。ドラマとはずいぶん話が違いますよね。


 結局、直虎の出家への決意は固いものでした。そこで、両親がせめてもの妥協案として、尼の名前は付けないでほしい、と要望したといいます。通常、尼の名とは法名のことで、俗世間との関係を断ち切ったことになります。そうなると、二度と還俗できません。直虎の両親には男子がいなかったので、家督を継がす養子を迎えなければなりません。もちろん、単に養子を迎えることも出来たのですが、できれば、実の娘と結婚させて婿養子として迎えたいという望みを捨てきれなかったのでしょう。そのためには直虎が出家していては望みが断たれるため、なんとしても法名は避けたかったのでしょうね。


 そこで、南渓和尚がひとつのアイデアを提示します。というのは、尼名ではなく、僧名を与えてはどうか、というものでした。尼名と僧名ではどう違うのか・・・。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、跡継ぎの男子がいなくなった場合、一度僧になった弟が呼び戻されるといった例は少なくありませんでした。その最も有名なところでは上杉謙信がそうで、井伊家の主家である今川義元もまた、仏門から還俗したひとりです。南渓の案は、直虎が変心して還俗できるよう含みをもたせたものだったわけです。


 そこで、直虎につけられた名が「次郎法師」でした。代々、井伊家惣領は「備中法師」と名乗っていたと伝えられ、また、井伊家の歴代当主の仮名が「次郎」だったことから、この2つをつなぎ合わせて「次郎法師」としたとされています。「法師」とは、法名ではなく、僧侶や俗人で僧形をした男子のことを言い、純粋な僧侶ではありません。つまり、井伊家の当主の証である「次郎」を名乗り、尚且つ純粋な僧侶の意味を持たない「法師」をつけることで、いつでも俗世に帰れるようにしたというんですね。両親の切実な願い込められた名だったといえるでしょうか。


 というのが、『井伊家伝記』による直虎出家のくだりです。ところが、ドラマではまったく違うストーリー展開で描かれていましたね。なんで変えちゃったのでしょうね。まあ、『井伊家伝記』にしても『寛政重修諸家譜』にしても江戸時代中期に記されたものですから、そこに書かれた話にどれほど信憑性があるかはわからないので、オリジナルの解釈で創作してもいいところだとは思いますが、『井伊家伝記』の伝承そのままのほうがドラマチックだったような・・・。でも、伝承そのままで描くには、おとわが少々幼すぎたのかもしれませんね。いよいよ、次回からは柴咲直虎の登場です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-30 16:49 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)