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花燃ゆ 第3話「ついてない男」 ~黒船来航と将及私言~

 脱藩の罪で武士の身分を剥奪された吉田松陰は、実父である杉百合之助のもとで育(はぐくみ)となります。「育」とは、長州藩にある制度で、公式の居候、公式の厄介者といった意味らしく、現代でいうところの保護観察のようなものだとか。つまり、松蔭の身柄を実家にあずけて、再び不始末を仕出かさぬよう監視せよ、ということですね。ただ、もとより松蔭は吉田姓を名乗りながら杉家で暮らしていましたから、禄と扶持を失いはしたものの、生活は以前と変わりありません。加えて、藩士の「育」だから、侍の恰好をしても良いし、他藩の者に自らを「長州藩士」と名乗っても罪にはならないそうで、つまるところ、「たてまえ」の処分だったわけですね。さらに、将来有望な松蔭の才能を腐らせないために、藩主・毛利敬親は百合之助に対して、松蔭の10年間の諸国遊歴願を出すよう命じ、これを許可しています。こうなると、もはや罪人とはいえませんよね。いかに長州藩が松蔭に期待していたかがわかりますが、この過保護ともいえる甘さが、罪に無頓着な松蔭を作ったといえるかもしれません。

 嘉永6年(1853年)正月、諸国遊歴に旅立った松蔭は、讃岐、摂津大坂、大和、伊勢などの各地を訪問しながら東へ向かい、5月24日にいったんは江戸に着いたものの、すぐさま相模鎌倉にいる叔父の竹院に会いに行き、そして再び江戸に戻ったのは6月4日でした。ところが、その前日の6月3日の午後2時頃、驚天動地の事件が発生していました。アメリカのペリー提督率いる軍監4隻の艦隊が、江戸湾浦賀沖に来航したのです。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 突如出現した黒船艦隊を見た当時の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってSNSで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミ手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったといいますから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。

 結局、このときは何も出来ずにただ眺めるだけだった松蔭ですが、この出来事に刺激された彼は、佐久間象山の塾で西洋兵学を懸命に学びます。ペリー艦隊が撤退して間もない頃は、「次にペリーが来たら、刀の切れ味を試してやります」などといった書状をマブダチの宮部鼎蔵に送ったりしていた松蔭でしたが、象山の塾で西洋を学べば学ぶほど、日本に勝ち目がないことを悟らざるを得ませんでした。そして、欧米列強と互角に戦うには、まず敵を知るため海外に留学するしかないと考え至ります。一説には、象山が留学の必要性を松蔭に説き、海外密航計画を持ちかけたとも言われますが、定かではありません。

 ちょうどその頃、ロシアのプチャーチン提督が艦隊を率いて長崎に来航していました。この情報を知った松蔭は、愛弟子の金子重輔とともにプチャーチン艦隊に潜入すべく、長崎に向かいます。しかし、二人が長崎に着く3日前、艦隊は長崎を出港していました。松蔭は九州に入ると、すぐに長崎には行かず、熊本の宮部鼎蔵や横井小楠に会いに行っていました。そのロスタイムが仇となるんですね。寄り道を決行した自身の浅はかさを、大いに悔やんだことでしょう。

 ドラマで騒ぎになっていた意見書は、「将及私言」というタイトルが付けられた上申書で、実際にこの時期の松蔭が藩主に宛てて書いたものです。ドラマでも言っていたように、武士の身分を剥奪された「浪人」が、藩主に意見書を出すなどは、この当時、考えられない僭越沙汰でした。あるいは死罪になるかもしれないほどの畏れ多い行いであるにもかかわらず、このなかで松蔭は、来春のペリー艦隊再来航に備えて、藩内の改革案をかなり具体的に言及しています。また、あるいは国内に革命が起こるかもしれないとも説き、藩としてその備えが必要だと説いています。まだ、倒幕云々といった思想は微塵もなかったこの時期においては、かなり危険な言説だといえるでしょう。そして最後に、「この意見書が上に達せられたならば、どのような厳罰を受けようとも、決して恐れたりはいたしませぬ」と、書いています。「私」を滅して「公」のために尽くす。叔父・玉木文之進の教えは、松蔭のあらゆる行動の源泉だったのでしょうね。

  結局、この意見書は多くの段階を経て、藩主・毛利敬親まで達せられ、松蔭もお咎めなしでした。どこまでも藩はこの過激者に対して寛容でした。これが、長州藩の藩風だったのでしょうか。

 本話のタイトル『ついてない男』は、短期間に父・母・兄を亡くした久坂玄瑞のことですが、のちに松蔭をして「長州第一の俊才」と言わしめた玄瑞も、ペリー来航時は数えで14歳。現代で言えば中学1年生の歳で、歴史の表舞台に登場するには、いま少し時を待たねばなりません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-19 20:58 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第11話「守護職を討て!」 ~佐久間象山暗殺~

 元治元年(1864年)7月11日、当時のわが国でもっとも開明的な知識人だったであろう、佐久間象山暗殺されました。享年54歳。象山は、これより遡ること10年前の嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して蟄居させられており(参照:第2話)、その罪が許されたばかりでした。

 信濃国松代藩士の佐久間象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって、全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

 一方で、象山は自信過剰傲慢なところがあり、たいへん敵が多かったといわれています。彼の門弟であり義弟にもあたる勝海舟ですら、後年の回顧談で傲慢な象山のことをあまり高く評価していません(もっとも、海舟もまた、一癖も二癖もある人物ではあったようですが)。身分制度の厳しい封建社会において、若い頃より上者に対しても自身の意見を曲げず、不遜な態度がたびたびあったようで、何度か閉門などの罰を受けています。おそらく、自分以外の者がすべて馬鹿に見えるといった性格の持ち主だったのでしょうね。ただ、彼がこの時代の先覚者として、実に優れた人材であったことは間違いなく、彼の門弟からは、上述した吉田松陰や勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助、八重の兄の山本覚馬、さらにはあの坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。彼の存在が、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。

 蟄居がとかれた象山は、元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論や開国論を説いてまわります。しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、その姿が尊攘派にとって格好のターゲットとなったことは想像に難しくありません。しかも、共も連れずに移動することもしばしばだったとも・・・。このあたりも、彼の自信過剰な性格を表しているといえるでしょうか。

 都で目立ちすぎた象山は、7月11日午後5時、刺客のために非業の最期を遂げました。刺客は、肥後の河上彦斎、隠岐の松浦虎太郎の二人だともいわれていますが、確たる証拠はありません。象山が殺された現場には、次のような斬奸状が残されていました。

 松代藩 佐久間修理
 この者、元来西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立入り、御国是を謝り候。大罪捨て置き難く候の処、あまつさえ奸賊の会津藩、彦根の二藩に与党し、中川宮と事を謀り、おそれ多くも九重(天皇)御動座、彦根城へ移し奉り候。儀を企て、昨今しきりにその機会窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊に付、即ち、今日三条木屋町に於い、て天誅を加え畢りぬ。但し、斬首梟木に懸くべき処、白昼其の儀も能わざる者也。
 元治元年七月二十一日  皇国忠義士


 象山の死後、彼の妾が生んだ恪二郎家禄を相続すべく松代藩に申し入れますが、藩はこれを受け入れず、佐久間家の家禄を召し上げました。その理由は、殺された象山が背中に深傷を負っていることにふれ、「敵に背中を見せるとは、武士としてあるまじきことなり。」というものだったそうです。むろん、これが真の理由でなかったことは言うまでもありません。真の理由は尊攘派に対する体裁だったことは間違いないでしょうが、もし、象山が日頃から敵が多い人物でなければ、また違った扱われ方をしたかもしれませんね。最後は人格がものをいう、といったら、少し酷でしょうか。

 ドラマではおそらく描かれないでしょうが、相続を退けられた象山の息子・佐久間恪二郎は、八重の兄・山本覚馬に仇討ちを勧められて、新選組に入隊します。でも結局は、父譲りの傲慢な性格が露呈して上層部から目をつけられ、隊を脱走することになるんですね。明治維新後は「象山の息子」であることを利用して司法省に出仕するも、警察官との喧嘩沙汰で免職となります。父は傲慢ではあったものの、時代の先覚者としての裏付けがありましたが、恪二郎は傲慢なだけのただのドラ息子だったようです。後進に多大な影響を与えた象山でしたが、自身の息子には悪影響しか与えていなかったようですね。

 話がすいぶんとそれちゃいました。本日はこのへんで・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-18 23:43 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」 ~黒船来航~

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる艦隊が江戸湾浦賀沖に来航し、200年以上鎖国政策を続けてきた政権・江戸幕府に開国を迫りました。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 「黒船来航」といえば日本にとって突然の出来事だったように思いがちですが、実はその1年前に幕府は、長崎のオランダ商館長・ヤン・ドンケル・クルティウスから黒船来航の詳細な情報を得ていました。時の老中首座・阿部正弘はその情報に接してすぐさま対応策を幕府内に働きかけますが、協議の結果、「オランダ人は信用ならない」という根拠のない理由で一蹴されてしまいます。そして1年後に黒船艦隊が浦賀沖に現れ、幕府内は大慌てになるんですね。「想定外」といって原発事故が発生してから右往左往する現代の政府と似たものを感じます。

 突如出現した黒船艦隊を見た下田の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってツイッターなどで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミか手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったそうですから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。当時の日本人にとっては、進んだ科学力を持った異星人が現れたような恐怖だったのでしょう。その驚きは、予てより西洋文化にあかるかった佐久間象山吉田寅次郎(吉田松陰)とて同じでした。

 黒船という西洋の先進文明を目の当たりにした寅次郎は、その知識を得るため同郷の金子重之輔とともに黒船に乗り込んで密航を試み失敗。その罪によって投獄され、阿部正弘のはたらきかけによって死罪こそ免れたものの、郷里の長州へ檻送され野山獄に幽囚されてしまいます。そして寅次郎の師であった佐久間象山も連座して投獄、さらににその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を命じられます。ドラマ内で勝麟太郎(勝海舟)が言っていたとおり、これから日本にとって最も役に立つであろう二人を、幕府は罪人にしてしまいました。こののち二人が歴史の表舞台で活躍することはついにありませんでしたが、二人の意思を継承した門下たちが、幕末の時代を大いに暴れ回ります。おそらく本ドラマで吉田松陰と佐久間象山の出番はこの先あまりないでしょうが、この二人の知識人が幕末の歴史に残した影響は大きく、この時代の物語を描くにあたって欠かせない人物といえます。

 さて、ドラマの本筋に戻って山本八重。砲術師範の家に生まれた八重は、女子ながらに砲術を学びたいと言います。そんな八重を父・山本権八は鳥撃ちに同行させ、八重の目の前で野鳥を殺生します。
 「弾に急所さ射抜かれたら必ず死ぬ。鳥も獣も人間もだ。鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば人さ撃ち殺す。角場の的撃ちは面白く見えっかもしんねえ。だけんじょ的さ撃ちぬくちゅうことは、すなわち人間の心の臓さ撃ちぬくちゅうことだ。恐れることを知らず、形だけ真似ていては、いつか己の身が鉄砲に滅ぼされる。だから砲術をやる者は学問と技を磨かねばなんねえ。何より立派な武士でなければなんねえ。おなごのお前には到底背負いきれねえ。二度と鉄砲の真似事はするな。」
 あえて残酷な殺生を見せることによって、命の重み、武器を手にする怖さを諭す。これ以上説得力のある教育はないんじゃないでしょうか。

 それにしても、八重の幼少期を演じた子役の鈴木梨央ちゃんは上手かったですね。『天地人』の加藤清史郎くん、『江~姫たちの戦国~』の芦田愛菜ちゃんに続いて、またまたスターになるのでしょうか。今話で出番が終わりなのが残念です。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-14 02:12 | 八重の桜 | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第1話

 一昨年に大ヒットした、TBSドラマ『JIN -仁-』の続編、『JIN -仁-(完結編)』が始まった。幕末史が大好きな私としては、当然、楽しみにしていたわけだが、といってもドラマは漫画を原作としたオールフィクションの物語。毎週、大河ドラマのレビューを起稿しているように、ここで私が歴史についてのウンチクを垂れるのも無粋なことだと思い、純粋にドラマを娯楽として楽しむため、このドラマについて起稿するつもりではなかった。・・・が、あまりにも面白すぎて、気が変わった。毎回起稿するかどうかはわからないが、とりあえず第1話について、少しだけ私のウンチク話にお付き合い願います。

 ドラマの舞台となっていたのは、元治元年(1864年)7月19日に京都の町で起きた「禁門の変」。別名、「蛤御門の変」ともいわれるこの事件は、前年の「八月十八日の政変」(参照:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。)で京都を追放されていた長州藩が、尊皇攘夷派の勢力を取り戻そうと挙兵し、幕府(会津藩・桑名藩)薩摩藩の連合軍を相手に、御所の近くの蛤御門付近で交戦した事件のこと。結果は長州軍の惨敗に終わり、同藩は久坂玄瑞をはじめ多くの有能な人材を失うこととなる。この戦いはわずか1日で終わったが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は、たちまち火の海となった。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、上記、「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうである。ドラマの主人公・南方仁が訪れた京都のまちは、そんなときだった。

 長州藩きっての秀才であり、過激な尊皇攘夷論者だったとされる久坂玄瑞。しかし、ドラマのとおり、この戦いには自重論だったという。しかし、同藩・来島又兵衛をはじめ進発論に押し切られてやむなく兵を率い、一時は好戦するものの力及ばず、最後は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃する。享年25歳。

 ドラマ中、死を覚悟した久坂が、思いとどまらせようとする坂本龍馬に言った台詞。
 「攘夷などクソくらえだ。攘夷など本気で信じとる奴がいたらアホじゃ。長州はアホの集まりじゃ。私はこの国をひとつにしたかっただけじゃ。日本は外敵に狙われている。外国に真に立ち向かうためには、まずこの国が一つにならなければならぬ。でなければ太刀打ちなど出来ぬ。それを乗り越え、ひとつに出来るものが、尊王であり、攘夷であると思った。ひとつになり得るきっかけでさえあれば良かったのだ。・・・だが長州は、熱くなりすぎた・・・。」
 攘夷はこの国をひとつにするための手段だったという。この考えは、当時の“攘夷論”を掲げた指導者の共通した見識だったと私も思う。おそらく久坂ほどの明敏な頭脳の持ち主であれば、攘夷が現実的でないことはわかっていただろう。しかし、人を束ねるには目的意識が必要だった。それも、できるだけ勇ましく過激な目的の方が、人はついてくる。それが、“尊皇攘夷論”だった。しかし、下級層の志士たちにとっては、“尊皇攘夷論”はあまりにも麻薬性が強すぎた。やがて彼らは、無謀な自爆行為へと突き進んでいく。それが、久坂の言う「熱くなりすぎた」である。

 昨年の大河ドラマ『龍馬伝』では、そのあたりが上手く描かれておらず、攘夷論者は純粋に攘夷の実現を信じる盲目思想家といった描かれ方でしかなかった。そこが私は不満だった。本ドラマでは、死を覚悟した久坂が龍馬に諭す。「お前は間違えるなよ・・・」と。もちろん、久坂の死に龍馬が立ち会った話などないが、この台詞は、死んでいく攘夷指導者の本心だったように思う。正直、NHK大河ドラマが民放のオールフォクションドラマに負けた・・・と思った。

 史実では、この戦いの8日前の7月11日、同じく京都は三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手によって暗殺された佐久間象山。翌朝、三条河原に首を晒されたといわれているが、その首が実は偽物で、実は瀕死の重傷を負いながらも生きながらえていた・・・というのが今回のドラマの設定。その象山の生命を救うために京都に上った仁先生だったが、意識を取り戻した象山から驚愕の事実を知る。なんと象山は、少年時代に平成の未来にタイムスリップした経験があるというのである。

 佐久間象山は、この時代の日本における、洋学の第一人者だった。彼は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かったと伝わる。しかし、彼の持つ知識や思想はこの時代に生きる者たちの中では数段先に進んでいたといわれ、彼の門弟からはのちの日本を担う人物たちが数多く育った。そんな彼を、140年後の未来を見てきた男という設定にしたのが実に面白い。南方仁が、何らかの使命を神に与えられ、江戸末期に送り込まれた人物とするならば、象山は、何らかの使命を神に与えられ、未来を見せられた人物・・・と。

 そんな象山に、仁は自分がしていることは、歴史を変えてしまう行為ではないかという、この時代にタイムスリップしてきてからずっと悩み続けてきた思いを語る。すると象山はいう。
 「お前は歴史を変えてしまうことを恐れている。裏を返せばそれは、自分が歴史を変えてしまえるかもしれないと思っているからだろ?・・・相当な自信家だ・・・。もし、お前のやったことが意にそぐわぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。神は、それほど甘くはない。」
 実に深い台詞である。

 私はこの台詞の中の“神”を、“自然”と解釈したい。そして人間の歴史も自然現象の一部。生きとし生けるものは、すべて“自然”によって操られ、生かされているのである。その“自然”を、自然の一部である人間が変えよう、操ろうなど、思い上がりも甚だしい。“自然”がもし、自然の一部である人間の行いを不要だと思ったら、自然の力をもって人間を排除する・・・。“自然”は、それほど甘くはない・・・と。

 今、日本は“自然”の力によって、これまでにない危機を向かえている。“自然”の力を利用してエネルギーに変え、“自然”を操っていると自惚れていた私たちは、“自然”によってその思い上がりを容赦なく打ち消された。“自然”という名の神は、人間を疎ましく思い始めているのかもしれない。こんな娯楽ドラマを見ながら、そんなことを思わされた台詞だった。

 ただ、同時にこの物語では、一貫したテーマとしてこう言っている。
 「神は乗り越えられる試練しか与えない」・・・と。
 日本が今、直面している危機も、乗り越えられる試練として、神が与えたものなのだ・・・と、そう思っていいのだろうか・・・。いや、必ずそうだと思わなければ、きっと乗り越えられないのだろう。だから私たちは、自分たちも自然の一部であるということを自覚し、自然に淘汰されないよう生きる道を探さねばならない。そうすれば、きっと乗り越えられる試練だと、神は言っているのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-19 01:32 | その他ドラマ | Comments(101)  

龍馬伝 第5話「黒船と剣」

 嘉永6年(1853年)6月3日、米国のペリー提督率いる東インド艦隊4艦が江戸湾浦賀沖に来航し、米大統領フィルモアの親書を将軍宛てに呈した。世にいう「黒船来航」である。この瞬間から日本史は一転して幕末の風雲時代に突入する。坂本龍馬19歳のときだった。

 200年以上戦から遠ざかりぬるま湯につかってきた武士たちは、甲冑、刀槍を買うために江戸中の古道具屋に駆け込み、それらの値段が3倍にも上がったという。焔硝も同じで、諸藩とも江戸屋敷では幕府の祖法によって必要以上の鉄砲の玉薬の貯蔵は禁じられていたため、各藩の争奪戦になり値段は瞬く間にはね上がり、ほとんどの店が品切れになったそうである。それでも諸藩の武士たちはまだマシだった。本来江戸を守るべき立場である幕府直参の旗本八万旗はまったく機能しなかった。江戸に駐在する旗本たちは公家のような生活をしており、戦に向かう気構えすらなかった。おまけにどの旗本も家計は厳しく、古道具屋で甲冑や刀槍を買い揃える金さえなかったという。

 龍馬ら土佐藩は、幕命にて藩邸のある品川近辺の警備についた。軽格身分の郷士であり遊学中の書生でもある龍馬は当然雑兵でしかなかった。それでも、この騒動が龍馬に与えた影響は大きかっただろう。ドラマ中にあったように間近で黒船を見たかどうかはわからないが、のちに自らの軍艦を手に入れ、幕末の荒波にのり出す龍馬の原点はここから始まったといっていいかもしれない。

 そしてこのときから「夷狄攘つべし」という、いわゆる「攘夷論」が始まった。後年開国論者になる龍馬もこの時期はまだ若く、すっかり攘夷派になっていたようである。ドラマ中にも出てきた、このとき龍馬が乙女姉に宛てて送った手紙がいまでも残っている。
「異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候。」
 と、勇ましいものである。ドラマでは、この文章は龍馬の本心ではないような設定だったが、おそらくはそうではなく、19歳の時点での龍馬の本心だっただろう。この当時、武士にして攘夷論を持たない者があるとすれば、それは男ではないとさえいえる。無理に後年の龍馬像にラップさせなくても良かったのではないだろうか。それでも、こののち砲術の必要性を感じたのか、佐久間象山の塾へ入門していることからも、剣術というものに疑問を感じたのは本当かもしれない。

 乙女姉の言葉。
 「世の中を知るいうことは、みんなと同じような人間になることではないがぞね龍馬。おまんらしい生き方を探しなさい。それを見つけてこそ、自分が何を成し遂げるために生まれてきたがか見つかるがじゃ。」
 なるほど深いですね。世の中を知れば知るほど、既成概念にとらわれて皆と同じような人間になっていくもの。皆と同じでいることで、不安が解消される。そうやって既成概念というものができていき、そこに人々は集い、徒党を組む。それが凡人の姿。このような乙女姉の言葉があったかどうかはわからないが、こののち、みんなと同じような人間にはならなかった龍馬の陰には、みんなと同じような考え方を持たなかった乙女姉に育てられたことが大きく影響していることだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-02-03 00:19 | 龍馬伝 | Comments(4)