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平清盛 第26話「平治の乱」

 平治元年(1159年)12月4日、平清盛は次男の平基盛、三男の平宗盛ら一門を引き連れて熊野詣に赴いた(ドラマでは長男の平重盛も同行していたが、重盛の名が見られるのは軍記物語の『平治物語』のみで、史料として比較的信憑性が高いとされる『愚管抄』の中には重盛の名は見られない)。『愚管抄』によると、このとき同行していた侍・郎等はわずか15名ほどだったという。一行が紀州路を田辺あたりまで進んだとき、六波羅からの早馬が京の危急を知らせてきた。その内容は、藤原信頼源義朝とが結託して兵を起こし、後白河上皇(第77代天皇)の御所・三条殿を襲ったという驚くべきものだった。信頼と義朝は前話の稿で述べたとおり(参照:第25話)、「打倒信西」という点で結びついていた。おそらく彼らは、信西を軍事面で支えていた清盛が京にいないタイミングを千載一遇のチャンスと捉え、この時期にことを起こしたのだろう。

 九日の夜半、義朝率いる源氏軍は院御所・三条殿と姉小路西洞院にある信西邸を焼き討ちし、後白河上皇とその姉の上西門院を内裏の一本御書所(書写した書物を保管して置く所)に、二条天皇(第78代天皇)を内裏にある黒戸の御所(清涼殿と後宮との間にある部屋)に幽閉するという暴挙に出た。軍勢は御所に火を放ったうえ、外からさんざんに矢を射かけたため、多くの女官が御所内の井戸に身を投げて命を落としたといわれる。

 からくも京を脱出した信西は、自身の荘園のある山城国の田原に逃れた。しかし、三条殿襲撃の知らせを聞くと、助かる見込みはないと観念し、郎等に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。ドラマで描かれていたとおり、このとき信西に従っていた郎等の藤原師光西光という法名を与えたという逸話は、『平治物語』に描かれているエピソードである。信西の遺体は行方を捜索していた源光保によって掘り起こされ、首をはねられた。また『平治物語』によれば、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見された郎等のひとりが隠れ場所を教えてしまい、掘り返された際に自ら首を突いて自害したという。あるいは別の説では、掘り起こした際にまだ息のあった信西の首をはねたとも。京に持ち帰られた信西の首は、西の獄門の棟木にさらされた。実権を握ってわずか3年という短い天下であった。

 熊野で変事を知った清盛は、この危急にいかに対応すべきか悩んだことだろう。熊野参詣の虚をつかれたことから考えれば、クーデターが用意周到なものであることは間違いなく、そのような軍勢に対して、清盛一行はあまりに少人数だった。『愚管抄』によると、この時清盛はいったん鎮西(九州)に落ちて兵を集めるという弱気な考えも見せたという。清盛にとって人生最大のピンチといえたこの危急を救ったのは、紀伊の在地武士たちだった。まず、湯浅宗重が三十七騎の手勢を提供し、続いて熊野別当湛快が鎧七領を提供。これに力を得た清盛は帰京を決意し、一門・郎等を引き連れて京への道を急いだ。

 以上は史料として比較的信憑性が高いとされる『愚管抄』の記述だが、軍記物語の『平治物語』のみに記述されているエピソードでは、京の危急を知った清盛は「下するよりほかは他事なし」と決意するも、いかんせん武具がない。そこへ「平家第一の郎等」といわれた筑後守・平家貞が進み出て「少々は用意つかまつりて候」と、長櫃の中に隠してあった50人分の甲冑や弓矢を取り出した。この家貞の機転に一同は「あはれ高名かな」と感心したという。ドラマで描かれていたエピソードは、この逸話を採用したものである。さらに『平治物語』では、清盛一行は義朝の長男・源義平(悪源太)が天王寺、阿倍野で待ち伏せしているという情報をつかみ、戦々恐々としながら京への道を急いだが、それは義平ではなく、決戦に備えて集まっていた平家の軍勢であったという。ドラマで、阿倍野での待ち伏せを献策した義平を義朝が制止していたのは、この物語の逸話をベースに描かれた設定だろう。しかし、家貞の逸話も義平の逸話も『愚管抄』にはなく、おそらくは、スリリングな物語展開を指向する『平治物語』の作者の虚構と見たほうがよさそうだ。

 信西を排除して内裏でのイニシアティブをとった信頼は、天皇の名のもとに論功行賞を行い、自身は念願の大臣・大将に就任、義朝は清盛が保元の乱で任じられた播磨守に、そして義朝の三男・源頼朝右兵衛佐に任じられた。ここに信頼・義朝連合によるクーデターはひとまず成功をみた。ひとまず・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-03 15:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第25話「見果てぬ夢」

 平清盛太宰大弐に任命された保元3年(1158年)8月、後白河天皇(第77代天皇)は即位3年という短さで長子の守仁親王に譲位。二条天皇(第78代天皇)が誕生した。もともと後白河帝の即位は、崇徳上皇(第75代天皇)に院政を敷かせないためにとられた鳥羽法皇(第75代天皇)と美福門院得子の策謀によるもので(参照:第18話)、守仁親王が天皇の座に就くまでの中継ぎとしての即位だった。つまり、二条帝の即位は予定どおりだったのである。

 ドラマでは、後白河帝の気まぐれで譲位したかのように描かれていたが、『兵範記』平信範の日記)によれば、「仏と仏との評定」によって決したと記されており、「仏と仏」=「出家した者と出家した者」、すなわち美福門院得子信西の協議によるものだったと考えられている。天皇の側近として権勢をふるいたい信西にしてみれば、政治向きに疎い後白河帝をそのまま天皇の座に据えていた方が何かと都合がよかったかもしれないが、そもそもの後白河帝誕生の出発点に立てば(あるいはそのことを美福門院から指摘されたら)、やむを得ない譲位だったのかもしれない。ただし、このとき二条帝は若干16歳。上皇となった後白河院が院政をしくことになる。鳥羽院の死によって美福門院の発言力も衰えており、その実権は相変わらず信西の手にあった。

 しかし、信西の権力が強大なるとともに、これに恨みを抱く勢力が現れ始めたのも当然のことだった。その一人が、鳥羽院の近臣だった藤原忠隆の子で、後白河院の近臣として異例の昇進を遂げていた藤原信頼だった。信頼はこの2年弱の短期間で従四位下から正三位へ五段階上昇、官職も武蔵守から検非違使別当まで駆け上がるという飛ぶ鳥を落とす勢いの出世を遂げていた。ただし、この急速な昇進は、『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受けて実現したものであり、純粋に実力でのし上がったわけではなさそうである。一説には、後白河院の男色相手だったとも伝えられているが、いかがなものだろう(それが本当なら、塚地武雅さんのキャスティングはいかがなものだろう・・・笑)。その真偽はともかく、彼の異例の出世に不信感を抱く空気は実際ににあったようで、『平治物語』では彼のことを「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と散々な評価を与えている。

 寵におごった信頼は、後白河院の後ろ盾を受けてさらに上位の大臣近衛大将の官職を希望したが、信西がこれを阻止。ドラマにもあったように、信西は信頼の危険性を後白河院に伝えるべく、唐の玄宗皇帝安禄山を重用して国を滅ぼした故事を『長恨歌絵巻』に描いて、暗に後白河に諌言したほどだった(しかし、後白河院がこれにまったく気付かなかったというのも、ドラマのとおりである)。大臣・近衛大将への昇進を阻止された信頼は、信西を激しく恨むようになったと伝えられる。

 もう一人、信西に恨みを抱いていた男がいた。源義朝である。義朝は「保元の乱」における後白河方の勝利の一番の立役者であり、さらにはその戦後処理に際して信西の命令で実の父や年若い弟たちを自らの手で処刑したにもかかわらず、信西が主導した戦後の恩賞は、さして戦功があったわけでもない平家に厚く源氏に薄いものだった。この恩賞の格差を平清盛と信西の同盟関係にあると考えた義朝は、自らもこの実力者に取り入ろうと、信西の息子の一人を娘婿にもらいたいと申し入れた。しかし、信西は「わが子は学者にて武門の家の婿には相応しくない」といってこれを拒否。しかしその一方で、同じ武門の家柄である清盛の娘との縁談を進めて、義朝の面目をつぶしたと、『愚管抄』には記されている。信西にしてみれば、清盛と義朝のどちらが役に立つかを比べた当然の判断だったのだろうが、面目をつぶされた義朝が、信西に恨みを抱いたのもまた当然のことだった。

 さらに反信西勢力として、院政を否定して天皇が政治を主導する「親政」の実現を目指す一派も台頭してきた。二条帝の伯父である藤原経宗と、帝の乳母子の藤原経宗である。「信西排除」という目的で一致した源義朝、藤原信頼、藤原経宗、藤原経宗が結びつくまでに、さして時間はかからなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-25 16:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0)  

平清盛 第24話「清盛の大一番」

 保元の乱後、政治向きに疎い後白河天皇(第77代天皇)のもとで中央政界の実権を握った信西は、自身の構想する天皇権威の復権を目指して体制を整えるべく、「保元新制七箇条」を発令した。その内容は、火災で失われていた大内裏の再建、税収を上げるための諸国の荘園整理神人・悪僧の統制などの諸改革。信西は、保元の乱で落命した政敵・藤原頼長よりも、さらに具体的で発展的な構想を持っていた。

 信西の手腕をうかがえる逸話として、大内裏の再建における『愚管抄』の記述を引用すると、
 「ハタハタト折ヲ得テ、メデタクメデタク沙汰シテ、諸国七道スコシノワズライモナク、サハサハト二年ガ程ニツクリ出シテケリ。ソノ間手ヅカラ終夜算ヲオキケル。」とある。
 意訳すると、大内裏の再建に際して信西は、自ら夜な夜な算盤をはじいて、再建経費が諸国の負担にならないように公平に分配し、2年足らずの短期間で民の不満もなくこれを成し遂げた・・・と。とにかく信西の采配は、メデタシメデタシの沙汰だった・・・というのだ。少々べた褒めすぎる気がしないでもないが、政局にあたっては腹黒い野心家のイメージが強い信西だが、行政家としての彼は、清廉で公正な理想家だったのかもしれない。

 その再建された内裏で、信西は長らく行われていなかった内教坊の舞姫の楽や、相撲節会(すまいのせちえ)などの古儀の復興を行った。「相撲」とは文字通り現代に通ずる「すもう」のことで、「相撲節会」とは、各地から相撲人を選出し、天皇御覧の元に国家安泰五穀豊穣を祈って行う大規模な天覧相撲大会のこと。古くは奈良時代の聖武天皇(第45代天皇)の時代の記録にも残されているという伝統ある宮廷行事だった。しかし、平安時代の後期には衰退していて、保元3年(1158年)と承安4年(1174年)に散発的に行なわれたのを最後に、宮廷行事としての相撲は廃絶したという。ドラマで描かれていた相撲節会は、この保元3年に行われたものである。

 ちなみにドラマの相撲節会で優勝した力士・長門を演じていたのは、現役力士で山口県出身の豊真将関。大河ドラマに現役力士が出演するのは初めてのことだとか。まわしも当時の形を忠実に再現したもので、取組も、立ったままの立ち合いという平安相撲をそのまま描写したそうだ。本当に平安相撲に忠実だったかどうかは私にはわからないが、いくらディテールにこだわっても、取組自体に迫力がなければリアリティは描けない。その意味では、さすがは豊真将関だったと思う。ただのデブを起用していたら、きっと台なしになっていたことだろう(笑)。

 相撲節会の復興を平清盛が手伝ったという記録は残っていないが、大内裏の再建には大きく貢献していた。仁寿殿の造営を任された清盛は、ドラマのとおり公卿昇進とはいかなかったものの、長男の平重盛がその譲りによって正五位下となった。また、貞観殿の造営を担当した清盛の弟、平頼盛従四位下に、また、平教盛平経盛らも、それぞれ位階の昇叙があった。そして清盛自身は、播磨守から太宰府の実質的な長官である太宰大弐にとなった。太宰大弐という役職は、通常は三位の公卿が就任する高官である。これにより、清盛の政界での存在感は、さらに大きなものとなっていった。
 
 「私には嫡男としての覚悟がござりません。一門のためとはいえ、大叔父上を己が手で斬ることができる父上の、それを命じた信西入道と平気で働ける父上の、跡を継げるだけの肝が据わりません!」
 「さようか。お前の考えはようわかった。だが、お前の戯言につきおうておる暇はない。つべこべ言うておらず、早う婚礼を済ませ、子でももうけよ!」

 父・清盛のやり方に疑問を抱く生真面目な重盛と、そんな息子の気性を理解した上で一蹴する清盛の会話。のちに「平家の良心」とよばれる聖人君子の重盛と、清濁併せ呑む清盛。『平家物語』では、専制君主の清盛をただ一人諌めることができた良識人が重盛だったと伝えられる。このとき重盛は19歳。アイデンティティを持ち始める年齢だ。信西と父のやり方に反発するドラマの重盛像は、あながち的外れではないかもしれない。

 平家の財力武力を借りて権力を拡大していった信西。その信西の引き立てによって出世を重ねた清盛と平家一族。この時期、信西と清盛はお互いがお互いを頼りにした、あるいは利用した、いわゆるギブ・アンド・テイクの関係だった。しかし、その関係が長くは続かなかったことは、歴史の知るところである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-18 23:45 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第23話「叔父を斬る」

 後白河天皇(第77代天皇)方の勝利で幕を閉じた「保元の乱」。その戦後処理を一手に引き受けた信西は、敗者への苛烈極まりない処分を断行していった。まず、仁和寺において拘束された崇徳上皇(第75代天皇)を讃岐国に配流。天皇もしくは上皇の配流は、奈良時代に起きた「藤原仲麻呂の乱」における淳仁天皇(第47代天皇)の淡路配流以来、およそ400年ぶりのことだった。敗軍の将とはいえ、既に出家を果たしており、また上皇という高貴な身分を考慮するなら、京のしかるべき場所に幽閉される程度の刑に留めおかれると思われたが、処分は遠国に流罪という予想外に厳しいものだった。後白河帝を頂きに権勢を振るいたい信西としては、力を失ったとはいえ上皇という立場にある崇徳院の息の根を完全に止めておきたかったのだろう。

 また信西は、これを機に藤原摂関家の弱体化をはかった。崇徳院方の参謀だった藤原頼長は、奈良の興福寺にいた父・藤原忠実に助けを求めるも拒否されて自害(参照:第22話)。忠実にしてみれば、頼長に連座して罪人になることを避けるための苦渋の選択だった。しかし、信西は忠実を罪人として扱い、洛北にある知足院に幽閉。崇徳院のように流罪とならなかったのは、79歳という高齢が主な理由だったようである。そして信西は忠実、頼長が持っていた摂関家領を没収。後白河方についていた関白・藤原忠通が残っているとはいえ、摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕する。『保元物語』によれば、忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

 その他、頼長の息子たちを始め、崇徳院方についた公家の多くが流罪に処せられたが、その武力となって前線で戦った武士たちへの処分はより苛烈なもので、源氏では源為義とその4人の息子たち、平氏では平忠正とその4人の息子たちに対して信西は、大同5年(810年)の「薬子の変」を最後に、およそ350年行われていなかった死罪を言い渡した。しかもその刑の執行を、源氏、平氏のそれぞれの棟梁である源義朝平清盛に命じたのである。ドラマでは、義朝、清盛ともに刑に不服を申し立てていたが、実際に助命を嘆願していたと伝えられるのは義朝だけである。清盛と忠正は、もともと平氏内でも対立関係にあった。義朝と為義も対立していたという点では同じだが、叔父と甥、父と息子では関係の深さが違いすぎる。さして仲の良くない叔父一族を斬った清盛に比べて、実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は並々ならぬ大きさだったといえよう。

 断腸の思いで父と弟たちを処刑した義朝だったが、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、
「為義は義朝がり逃げて来りけるを、かうかうと申ければ、はやく首を切るべきよし勅定さだまりにければ、義朝やがて腰車に乗せてよつつかへ遣りてやがて首切りてければ、『義朝は親の首切りつ』と世には又ののじりけり。」
(意訳:為義は義朝のもとへ逃げてきたのを、義朝が朝廷に報告すると、速やかに斬首にするよう帝から命令が下されたので、義朝は為義を輿に乗せて、よつつか(地名?)へ連れて行って間もなく首を刎ねたので、『義朝は親の首を斬った』と世の人々は騒ぎ立てた。)

とある。実の親を斬った義朝への世間の風当たりは強かったようだ。

 一方で『保元物語』では、義朝は自分で斬ることができず、側近の鎌田次郎正清に命じたと書かれている。ドラマは、この説をベースにアレンジしたのだろう。念仏を唱えながら斬首を待つ描写も、同物語からの引用のようだ。さらに同物語では、清盛は自分が忠正を斬れば、義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、すすんで叔父の処刑に踏み切ったと記されている。ドラマでは同時進行となっていたが、実際には為義たちの処刑は忠正たちの処刑の2日後のことで、たしかに、それが義朝に刑の執行を決断させることになったのかもしれない。平氏にとってはこの刑はさほど痛手ではなく、むしろ清盛にとっては、かねてから意見が合わなかった傍流を始末するいい機会だったと言えなくもない。一方の源氏は、義朝自身は昇進したものの多くの兄弟を失うこととなり、勢力の弱体化は避けられなかった。それこそが、信西のねらいだった。摂関家を武力で支えた源氏の勢力を削ぐことは、とりもなおざず摂関家の弱体化につながる。忠正は、いわばそのダシとして処刑されたといっても過言ではないかもしれない。その策謀に清盛が一役買っていたかどうかは定かではないが・・・。

 いずれにせよ、貴族は流罪、武士は死罪という処分に、清盛は何を感じただろうか。保元の乱によって武士の力をまざまざと見せつけたとはいえ、世の慣らいは依然として武士を見下したものだった。しかし、武士の世はもうすぐそこまで来ていた。そのことを、清盛はこの頃から少しずつ感じ始めていたかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-11 16:03 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(2)  

平清盛 第22話「勝利の代償」

 保元元年(1156年)7月11日、崇徳上皇(第75代天皇)方と後白河天皇(第77代天皇)方に分裂して武士たちが戦った政争、後世にいう「保元の乱」は、一時は上皇方の勇者・源為朝(鎮西八郎)の奮戦によって苦しめられたものの、天皇方の源義朝が放った火によって白河殿が焼け落ち、崇徳院ならびに上皇方の参謀・藤原頼長が敗走。合戦開始からわずか4時間で天皇方の圧倒的勝利に終わった。

 合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに藤原忠通を藤原氏長者とする宣旨を下し、早くも論功行賞が行われた。これを取り仕切っていたのが、天皇方の参謀・信西だった。この戦功により平清盛は受領の最上位に位置する播磨守に栄進。弟の平経盛安芸守、同じく弟の平教盛平頼盛が内昇殿を許された。その一方で、源義朝は内昇殿を許されたものの、左馬頭(朝廷の馬を管理する左馬寮の長官)に任じられたに過ぎなかった。戦功という点でいえば、最も積極果敢に戦ったのは義朝の軍勢であり、清盛率いる伊勢平氏は最大兵力を動員してはいたものの、目立った活躍はしていない。しかも、義朝は父・源為義をはじめ一族多数を敵にまわして戦ったが、清盛はさして仲が良かったわけではない叔父の平忠正と敵味方に分かれただけで、一族の人材を失ってはいなかった。すべては、今後の政権運営に平氏の力を利用しようと考えた信西の思惑によるものだったが、義朝の不満は大きかったようで、このことが3年後の「平治の乱」の遠因になったともいわれている。

 敗走した崇徳院は、ドラマにあったように仁和寺の覚性入道親王を頼った。覚性は崇徳院や後白河帝と同じく待賢門院璋子の子で、二人の実弟である。しかし覚性は兄・崇徳院の受け入れを拒否。行き場を失った崇徳院はやむなく投降した。軍記物語の『保元物語』によると、崇徳院は如意山へと逃亡するが、次第に気力を失い、出家を願うものの、この山中ではとても無理であると臣下にいわれ、涙をこぼして落胆したとある。これもドラマにあったとおりだ。

 同じく『保元物語』によれば、敗走中に流れ矢を首に受けて重傷を負った藤原頼長は、出血による衰弱に苦しみながら逃亡を続け、戦から2日経った13日に木津川まで落ち延びたところで気力を失い、奈良の興福寺の禅定院にいた父・藤原忠実に助けを求めるため、付き従っていた図書允俊成を使いに出すも、
 「何とか入道おも見んと思ふべき。我も見えん共思はず。やうれ俊成よ、思ふても見よ、氏の長者たる程の者の、兵杖の前に懸る事やある。左様に不運の者に、対面せん事由なし。音にもきかず、ましてめにもみざらん方へゆけと云べし。」
意訳:「何故この入道に逢いたいと思うのか、私は逢いたくもないぞ。やい俊成よ、思うて見よ。氏の長者たる程の者が、戦場にて傷付くなどということがあって良いものか。左様な不運の者に、対面せねばならぬ理由はない。風聞も目も届かないところへ行けと申せ。」

と言って、忠実は泣きながら頼長との対面を拒否。この報告を聞いた頼長は、失意のあまり舌を噛み切って落命する。享年37歳。「日本一の大学生、和漢の才に富む」と、その学識を称えられた頼長だったが、その最期はなんとも惨めなものだった。『保元物語』では頼長落命の章の最後を、
「俊才におはしましゝかども、其心根にたがふ所のあればこそ、祖神の冥慮にも違て、身をほろぼし給ひけめ。」
意訳:「たしかに頼長様は秀才ではあられたものの、その心根にどこか違うところがあったため、先祖の神々のお考えに合わず、わが身を滅ぼすことになったのでしょう。」

と、結んでいる。

 ドラマでは描かれていないが、さらに『保元物語』の伝えるところでは、頼長の亡骸は奈良の般若野に埋葬されたが、頼長落命の知らせを受けた信西が、その死を確かめるために遺骸を掘り起こさせたという。しかも、その遺骸は埋め戻されることもなく、路傍に捨て置かれた・・・と。この酷い仕打ちに頼長の息子たちは出家することを志すが、いつか再起をはかるべきであるという忠実の言葉に思いとどまったという。これがもし事実なら、後年、事あるごとに頼長の怨霊が囁かれたのも当然だったかもしれない。頼長の死によって摂関家の勢力はますます減退し、中央政界は信西の独壇場となっていった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-04 20:49 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

平清盛 第21話「保元の乱」

 鳥羽法皇(第74代天皇)の崩御から1週間が過ぎた保元元年(1156年)7月10日深夜、ついに戦いの火蓋が切られようとしていた。平安京の南の鳥羽殿から賀茂川の東にある白河北殿へ移った崇徳上皇(第75代天皇)と藤原頼長のもとに集まったのは、清和源氏の源為義をはじめ、源頼賢源為朝(鎮西八郎)など為義の息子たちや、伊勢平氏では平清盛の叔父・平忠正の一族などであったが、武士としては二流どころで兵力も少なかった。対する後白河天皇(第77代天皇)方は、京で随一の兵力を誇る清盛をはじめ、清和源氏の嫡流で為義の息子である源義朝、足利氏の祖・源義康、摂津源氏の源頼政などそうそうたるメンバーで、数の上でも崇徳院方を大きく上回っていた。

 決戦を前に、それぞれの陣営で軍議が行われた。歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、崇徳院方では為義が夜討ちを献策したにも関わらず、頼長は大和の軍兵を待つとしてその案を一蹴したという。ドラマでは為朝が夜討ちを主張した設定になっていたが、これは軍記物語の『保元物語』にならったものだろう。なんとも厳つい顔をしたドラマの為朝だが、実はこのとき若干18歳。そんな若僧の為朝の献策だったとすれば、頼長が軽く見たのも無理からぬことだったかもしれない。また頼長は、天皇と上皇の戦いに夜討ちなど相応しくないといった考えもあったようだ。正論を好む観念主義の頼長らしい考えといえる。

 一方の後白河帝方の軍議では、合戦の計画を奏上せよとして、清盛と義朝の二人が朝餉(あさがれい)の間に召集され、ここで義朝は、敵方の父(もしくは弟)と同じく夜討ちを進言する。このとき、清盛がどのような奏上を行ったのかは不明である。後白河帝方に参陣したとはいえ崇徳院とも関わりが深かった清盛は、できれば崇徳院に対して手荒な真似はしたくないという思いもあったかもしれない。しかし義朝は違った。彼はこの戦いの戦功に自らの出世を賭けていた。義朝の進言を聞いた関白・藤原忠通は逡巡したが、実質的な参謀である信西はこの案を即座に採用。頼長と信西というそれぞれの司令官の見識の差が、勝敗を分ける決め手とる。

 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。」と頼長。
 「また孫子曰く、『夜呼ぶものは恐るるなり。』夜に兵が呼び合うは臆病の証。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり!」
 いかにも厳格で偏狭な頼長らしい解釈だ。
 一方の信西は同じ言葉を、「夜通しこうしてピイピイと論じ続けるのは臆病者のすること」と解釈。さらに信西はこう続ける。
 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』例え夜明けを待つにせよ、ぼんやりと待つことを、孫子は良しとはせなんだのじゃ。ならば動くがよし !今すぐ!」

 この頼長と信西の孫子の解釈の違いが明暗を分けたという脚本は、実に秀逸で面白かった。あくまで観念的な頼長に対して現実的な信西。孫子の解釈としてはおそらく頼長の方が正しいのだろうが、戦の司令官の見識としては必ずしも正しくなかった。一方で信西の解釈は、夜討ちありきで無理やり結びつけたこじつけ解釈。しかし、戦に勝つためには必要な屁理屈だった。もちろん、このエピソードはドラマのオリジナルだが、二人の人物像が上手く描かれたシーンだった。実際の頼長も、切れ者ではあったが狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのだろう。一方の信西はまさしく政治家。彼はこの戦で、後白河帝の権威を保つため、そして自身の政治権力を強固にするため、邪魔になる勢力を一掃しようと画策していた。その信西の描いたシナリオにまんまと乗っかってきたのが、崇徳院と頼長だったのである。「保元の乱」は、信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないだろう。

 7月11日未明、平清盛、源義朝、源義康率いる後白河帝方の兵600騎は内裏高松殿を出陣し、崇徳院方が篭る白河北殿へ押し寄せた。兵の数で劣る崇徳院方だったが、強弓を誇る源為朝の奮戦によって戦況は一進一退。一時は清盛たち後白河帝方が後退する場面もあった。しかし、義朝が内裏に使者を派遣して許可を得た上で白河殿に火を放つと、崇徳院方は浮き足立ち、合戦開始からわずか4時間、戦いは後白河方の圧倒的勝利で幕を閉じた。

 ドラマでは義朝に対抗心を抱いて奮戦していた清盛だったが、実際には清盛はこの戦いでは目立った活躍の記録がない。前話の稿(参照:第20話)でも述べたとおり、崇徳院と乳母子だった清盛は、この戦いには終始消極的な姿勢だったのかもしれない。にも関わらず、平家は戦後、手厚い恩賞を手にすることとなる。そしてそのことが、次の争いを生むことになっていくわけだが、このときの清盛はまだ知る由もなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-28 22:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」

 久寿2年(1155年)の近衛天皇(第76代天皇)の崩御後、誰も予想していなかった後白河天皇(第77代天皇)が誕生すると、藤原忠通が関白に任ぜられ、後白河帝の乳父である信西が重用され、事実上この二人が国政を掌握する。一方で、崇徳上皇(第75代天皇)の皇子・重仁親王の即位を望んでいた藤原頼長は、後白河帝の即位によって内覧を解任され、朝廷内での存在感を失いつつあった。当然のごとく、頼長は後白河帝や信西に対して強い不満を抱くようになる。

 もともと摂関家の藤原氏では、官位官職などの就任をめぐり、深刻で拭いがたい対立があった。兄・忠通と弟・頼長との主導権争いである。「日本第一の大学生」といわれた頼長は、摂関となって自ら政治を執り行うことを願っていた。そんな頼長を父である藤原忠実も偏愛し、摂関の地位を弟に譲るよう忠通にたびたび圧力をかけたが、実子の藤原基実に継がせたいと考えていた忠通はこれを拒み続けた。怒った忠実は、忠通の東三条殿の邸に家人の源為義を派遣し、摂関家累代の宝物を接収して忠通を義絶、頼長を氏長者にしてしまう。そして翌年、鳥羽法皇(第74代天皇)に懇請して頼長を「内覧」に就かせた。内覧とは天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。関白の忠通と内覧の頼長という二人の執政が並び立つ異常事態が生まれたのだった。

 しかし、そんな頼長の権力の時代は長くは続かなかった。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、鳥羽院の寵臣・藤原家成邸の襲撃したことで鳥羽院の信任まで失うこととなる。さらには、近衛帝が眼病で早世したのは、「何者かが愛宕山の天公像(天狗像)の目に釘を打ち込み呪詛したせいだ」という風聞が飛び交い、その呪詛を行ったのが頼長だという噂を立てられる。おそらくは兄・忠通による策謀だと思われるが、この噂によってさらに頼長は鳥羽院の恨みを買い、そして後白河帝の即位に伴い、兄の忠通は関白に任じられ、頼長は内覧を解任させられた。

 「お前は、やりすぎたのだ!」
 ドラマ中、父・忠実が頼長に言った台詞だが、まさしく頼長はやりすぎた。やりすぎたことにより多くの敵を作り、そして遂には完全に失脚したのである。この失脚を操っていたのが、後白河帝の乳父・信西だった。

 信西入道こと藤原通憲は、頼長に勝るとも劣らないほど学才豊かな人物だったが、家柄が低かったため官職は少納言止まりだった。朝廷での官位官職の出世をあきらめた通憲は、出家して信西と名を改め、その学才を生かして鳥羽法皇の政治顧問となり徐々に頭角をあらわす。さらに信西は、妻が後白河帝の乳母を勤めていたことから、後白河帝を即位させ、天皇の乳父としての立場で政治の実権を握ろうと目論んだ。そしてその計画を実現した信西は、政敵となった頼長を徹底的に排除しようと画策するのである。

 同じ頃、清和源氏では源義朝の弟・源為朝(鎮西八郎)が鎮西(九州)で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで父の源為義は官位を剥奪されてしまう。また同じ頃、義朝の長男でわずか15歳の源義平が、同じく義朝の弟で義平からみれば叔父にあたる源義賢を攻め滅ぼし、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平は「悪源太」と呼ばれるようになる。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて逃げ延び、信濃の豪族に養育された。この駒王丸がのちに木曽義仲と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がることになるのだが、それはずっと後年の話。この頃、これまた義朝の弟で源氏の総領を継ぐ存在となっていた源頼賢が、義賢討死の報復のため東国に下る途中、鳥羽院の荘園といざこざを起こしてしまい、この報を受けた鳥羽院は頼賢追討を兄の義朝に命じた。義朝がこれを受けなかったため、兄弟での争いはとりあえずは回避できたものの、もともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた義朝とは、一線を画す関係にあった。一族の分裂は時間の問題だったのである。

 そんな中、保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽院が崩御した。これを機に、天皇家では兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇、藤原摂関家では兄・忠通と弟・頼長、そして源氏では父・為義と嫡男・義朝と、まさに「骨肉相食む」戦いが始まろうとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-15 22:43 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)