タグ:別所吉親(賀相) ( 4 ) タグの人気記事

 

三木合戦ゆかりの地めぐり その39 ~豊地城跡~

小沢城跡から2kmほど南西に「豊地城跡」があります。

現在の住所でいえば、兵庫県小野市と加東市のちょうど境目あたりが城跡とされています。


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かつては小沢城主の依藤氏が豊地城を居城としていたようですが、三木合戦当時は、三木城主・別所長治の叔父・別所重宗の居城となっていました。

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三木合戦以前は、兄の別所吉親(賀相)と共に若き長治の補佐役を務めていた重宗でしたが、かねてから兄との折り合いが悪く、家内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。

その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。


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一時は織田氏指示でまとまったかに見えた別所氏でしたが、「その18」で紹介した加古川評定の席で兄の吉親(賀相)が羽柴秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は織田氏に叛旗を翻します。

しかし、重棟は納得がいかず、別所家を出奔して織田方につきました。

この、いわば兄弟喧嘩が、三木合戦のキッカケだったともいえます。

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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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土塁の南側(写真右側)は外堀跡です。


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みごとな土塁跡ですね。


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土塁に登って北側を望みました。


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紺のプリウスαは、わたしの愛車です(笑)。


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豊地城の歴史は古く、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に焼き払われたと伝わる東条城は、ここ豊地城の前身と考えられているそうです。

その後、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城となり、その依藤氏から城を奪ったのが、別所氏だったと伝わります。

しかし、三木合戦終結後に重宗は但馬国に移封となり、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下され、豊地城は破城となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-23 19:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その18 ~加古川城跡(称名寺)~

続いて加古川市にやってきました。
加古川市にも、三木合戦ゆかりの史跡が数多くあるのですが、まずは、三木合戦の発端となった加古川評定の舞台、加古川城跡を訪ねます。

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現在、城跡には称名寺という寺院が建てられており、城の遺構は残っていません。
城は元和元年(1615年)に破却されたと伝えらているそうで、ちょうど今年で400年ですね。

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加古川市は黒田官兵衛の妻・の出生地ということで、昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』にあやかった観光誘致が熱心だったようで、いたるところにこのデザインの看板が立てられていました。

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天正6(1578)年2月、織田信長から中国の毛利攻めを任されていた羽柴秀吉は、播磨国の領主たちをこの地に一同に集めて、中国攻めに向けての軍議を開きます。
その軍議の場で、三木城主・別所長治の代わりに出席していた叔父の別所吉親(賀相)が秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻します。
東播磨一の実力者である別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。
播磨を反毛利氏で結束させたいという秀吉の思惑で開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまい、ここから、約2年に及ぶ三木城攻めが始まるんですね。

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山門を入ると、中央にいちょうの巨樹があります。
今は刈り込まれていますが、この木は昔から加古川の町の目印だったそうです。
あるいは、加古川評定を見ていたかもしれません。

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加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。
境内には、糟谷家の墓があります。

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三木合戦とは関係ありませんが、境内には、地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。
詳しくは看板を読んでください(笑)。


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城の面影はまったく残っていませんが、歴史が大きく動いた場所に立つと、何だか言い知れぬ感動を覚えますね。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-27 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その12 ~三木城鷹尾山城(鷹ノ尾城)跡~

羽柴秀吉軍が築いた付城はまだまだあるのですが、少し飽きてきたので、ここらで別所方の陣を見てみましょう。
訪れたのは鷹尾山城跡、本城である三木城のすぐ南の高台にある要害です。
本によっては、「鷹ノ尾城」と書かれているものもあるのですが、現地看板は「鷹尾山城」となっていたので、拙稿では後者でいきます。

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ここを守っていたのは、別所長治の伯父で後見人でもある別所吉親(賀相)でしたが、三木合戦の最終段階では、長治の弟、別所彦之進友之が守備していました。

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現在は市役所の西隣にある勤労者体育センターの裏山に遺構の一部が残っています。
当時は、「その1」で紹介した長治と妻・照子首塚がある雲龍寺の裏山まで、要害が続いていたそうです。

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市役所などの建設で大部分が破壊されていると聞いていたので、正直、訪れるまではあまり期待していなかったのですが、実際に来てみると、少ない面積ながら立派な遺構がしっかり残っています。

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土塁跡が平らな敷地をL型に囲んでいます。
おそらく郭跡でしょう。

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土塁の外側には、堀跡があります。
で、その堀跡の外側には、また土塁があります。

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案内板などは設置されていませんが、面積が狭いので容易に全形が想像できます。
なかなか見応えがありました。

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天正8年(1580年)1月11日、ここ鷹尾山城は秀吉軍に攻め込まれ、占領されます。
そして、ここから三木城に対して降伏勧告を行ったのだとか。
そして1月17日、降伏した別所一族はみごと自刃します。

「命をも惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも名を思う身は」

友之の辞世です。
長治23歳、友之21歳でした。

シリーズは、まだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-30 20:42 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」 ~加古川評定~

 西播磨の福原城上月城を落とした羽柴秀吉は、年が明けた天正6(1578)年2月、播磨国の領主たちを一同に集めて評定を開きます。会場となった加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、三木城主の別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。この評定の目的は、今後の中国攻略に向けての道筋を立てるというものでしたが、真の目的は、播磨国領主たちの去就を今一度確認して、反毛利の結束を固めるといった意図も込められていたのでしょうね。おそろく黒田官兵衛も、各地の長たちを集める工作に尽力したに違いありません。しかし、結果的にこの評定は、失敗に終わってしまいます。

 そのキーマンとなったのが、播磨国最大の勢力を誇る別所氏でした。別所氏は15世紀後半から三木城に拠点を置く名家で、城主は若き別所長治。叔父の別所吉親(賀相)別所重棟を後見人に12歳という若さで当主となった長治も、このとき既に20歳となっていましたが、いまだ叔父たちの発言力が強く残っていたようです。この二人の叔父が、かねてから対立関係にあったようですね。城内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。一時は織田家支持の方針で固まったかのように見えた別所氏でしたが、賀相は納得していなかったのでしょうね。その思いが、この局面で吹き出します。

 評定の当日、会場に姿を表したのは長治ではなく、賀相でした。もともと毛利派だった賀相が出席した時点で結果は見えていたともいえますが、案の定、評定の席で秀吉と衝突してしまいます。その理由は、「賀相の作戦が受け入れられなかった」とか、「出自の賤しい秀吉に従いたくなかった」などと言われますが、実際のところはどうだったのでしょう。長治が出席しなかったということは、おそらく評定に先立って毛利氏への加担を決めていたのでしょうね。その上で評定に出席したとなれば、ドラマのように、秀吉との衝突は計算通りで、播磨の諸氏たちを扇動するための茶番だったといえます。なかなかの策士ですね。これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻すわけですが、播磨一の別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。こうして、播磨を反毛利で結束させるべく開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまいます。ドラマで描かれているとおり、曲者ぞろいの播磨国の諸氏は、人たらし秀吉をもってしても、一筋縄ではいかなかったようですね。

 この評定の失敗によって、秀吉の播磨平定は2年遅れることになるわけですが、結果的には、別所氏の選択が間違いであったことは歴史の示すとおりです。しかしながら、当時に生きる彼らに、そんな未来が予見できるはずはありませんから、やむを得ない結果ですね。ただ、賀相の毛利氏支持の真意が何だったのかと考えたときに、「織田氏より毛利氏についたほうが有利だ」と考えたのならばやむを得ないとして、もし、重棟に向けた対立感情からきたものだったとすれば、なんともくだらないプライドのために主家の運命を賭けたものだと言わざるを得ません。もっとも、政をくだらない派閥争いの道具にする政治は、現代も変わらないですけどね。命を賭けているぶん、当時の政治家のほうが上だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-15 20:59 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)