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三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~

前稿の野上城跡(常泉寺)から直線距離にして4.5kmほど西の兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは三木合戦当時、別所長治の幕下・浦上久松の居城だったと伝わります。


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城跡近くに常行院という寺院があり、その横に駐車場があります。

寺院前には城跡までの案内板が設置されています。


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城跡に向かう遊歩道にも誘導表示が設置されていて、迷うことはありませんでした。


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しばらく進むと、丘の麓に登城口が見えます。


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おそらく、ここは大手口搦手口といった正式な城の入口ではなく、城巡り客用に作られた登城口だと思います。


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しばらく登ると、大きな堀切跡に目を奪われるのですが、写真じゃわかりづらいですね。


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登城道は整備されていて、簡単に登れます。


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二ノ丸跡です。

それほど広くはありません。


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上から見下ろした二ノ丸跡です。


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そして更に上を目指し・・・。


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本丸跡です。


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本丸跡には、常行院前にあった案内板より詳細は想定縄張り図が設置されています。

いま登ってきたルートは、左下の遊歩道入口から大堀切横を通って、二郭、本郭というルートです。


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ここ山下城主の浦上久松は、三木城主・別所長治の幕下として兵を伴い三木城籠城戦に参陣、最後は長治と共に自刃して果てたと伝わります。

その久松の母は、黒田官兵衛孝高の父・黒田職隆の娘とも言われます。

ということは、久松は官兵衛のということになりますね。

久松は長治と同じく若い城主だったのでしょうか?


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山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

その本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます。


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城跡の外周を散策しました。

田園が美しい。


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南西から見た山下城跡です。

さぞ立派な城だったんでしょうね。


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先ほどいた本丸跡を見上げます。

浦上久松が三木城に籠城したという記録は残っていますが、ここ山下城が三木合戦でどんな戦いをしたかはわかっていません。

これだけ立派な城ですから、別所方の拠点として何らかの役割を果たしていたのではないでしょうか?


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ちなみに、ここ山下城は、南北朝時代の光明寺合戦にも関わっていたようです。

その話は、また別の機会で。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-30 18:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その31 ~箱木千年家~

「その29」で紹介した丹生山の麓に、「箱木千年家」の名称で知られる古民家があります。

ここは現存する日本最古の民家とされ、国の重要文化財となっています。


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この「箱木千年家」も、三木合戦に関わりがあります。

丹生山城跡を訪れたついでにここに立ち寄ったのですが、そのとき初めて、そのことを知りました。


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この家の主だった箱木家は、元は衝原氏と称した藤原鎌足の末裔といわれるこの地方の土豪で、三木合戦時の当主だった衝原与一左衛門藤豊は、三木城主の別所長治に仕えていたそうで、合戦の最中に討死したそうです。


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はなれに展示されていた古文書です。


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拡大します。


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読みづらいですが、

「属三木城別所氏 天正五年四月一日」からはじまり、

「冷泉郷ノ御家臣◯津伊賀守ト合戦顕武功 同年羽柴筑前守秀吉 播ノ国府御着城小寺加賀守ヲ攻ムル時 俵◯別所小三郎長治君ノ箱木与一左衛門藤豊◯細河中村城主岡村孫大夫秀治各両将御着城に加勢出陣合戦箱木藤豊戦死」

とあります(※◯は読解不能です。)

藤豊は冷泉氏との戦いで武功をあげましたが、御着城攻めの際に討死したようです。

また、たぶん藤豊の息子だと思われる箱木與一郎藤徳という人物の欄には、

「母別所大和守村重女 藤徳人質為入三木城内然天正八年正月十七日大 別所長治君自殺し後 俵◯秀吉之三木篭城諸士退散ノ利衝原舘◯住」

とあります。

藤豊は人質として三木城に入りますが、別所長治の自刃で三木合戦が終了すると、三木城を退散してこの屋敷に戻った、ということでしょうね。


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以後、箱木家は士分を捨てて農家となり、江戸時代は庄屋としてこの家を守りました。


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『摂津名所図会』などの近世の記録によれば、この住宅は、大同元年(806年)に建てられたとされていましたが、近年の調査によれば、母屋は14世紀頃に建てられ、離れは江戸時代中期に建てられたことがわかったそうです。


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現在の建物は、呑吐ダムの建設により、昭和52年(1977年)7月から昭和54年(1979年)3月にかけて移築工事され、従来あった場所から数十メートル離れた場所に建っているそうです。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-02 23:25 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり ~史跡分布図~

さて、約5ヵ月間、28回に分けて起稿してきました自己満足シリーズ「三木合戦ゆかりの地めぐり」ですが、前回でひとまず休憩、区切りということで、これまでの紹介した史跡分布図を作成しました。

まずは、三木城周辺の付城分布図
(画像をクリックすると拡大図が見れます)
    ↓↓↓
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三木城を中心に、オレンジ別所方の陣で、織田(羽柴)軍の付城、関連の史跡です。
三木城から北東の秀吉本陣までが直線で5kmほどですから、それほど広い範囲ではないことがおわかりいただけるかと思います。
織田軍の付城は7ヵ所めぐりましたが、『信長公記』によると、その数は50~60か所あったとされていますし、現在確認されている付城跡だけでも、20ヵ所以上あります(具体的には、北部の平田村山之上付城から秀吉本陣のあいだにも、付城跡が数カ所確認されているようですし、南西部分にも多くの付城が存在していたそうです)。
また、機会を作って取材してみたいと思いますね。

で、次は別所方支城の広域図です。
(画像をクリックすると拡大図が見れます)
    ↓↓↓
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こちらもオレンジ別所方織田方関連の史跡です。
三木城周辺の小さな文字なしのマークは、上記の付城分布です。
東端の淡河城から西端の御着城までが直線距離にして約40km
現在の住所でいえば、東から神戸市北区、神戸市西区、三木市、小野市、明石市、加古川市、高砂市、姫路市で、播磨国東南部ほぼ全域にあたります。
三木城の南南西のあたりが空いていますが、ここに城がなかったわけではなく、史料が乏しく城跡が特定できないだけです。
江戸時代のそれとは違い、城から城の間は歩いて1時間も掛からない距離のところもあります。
こうして見ると、ひとつの城が支配する地域は、ずいぶん狭いということがわかりますね。
で、その東播磨の領主たちのなかで最も勢力が大きかったのが、この当時の三木城主・別所長治だったわけですが、だからといって、他の東播磨の城主たちが別所氏の臣下だったというわけではなく、単に同盟を結んでいただけの関係で、別所氏はその盟主にすぎませんでした。
のちの江戸時代には、全国三百諸侯などと言われましたが(実際には270ほど)、この時代の各地の支配者というのは、途方もない数だったことがわかりますね。

これ以外にも、三木合戦に関連する局地戦は西播磨地域の上月城佐用城にも及んでいますから、当時の人々にしてみれば、播磨国中が戦火となった世界大戦のような感覚だったかもしれません。

それにしても、今回あらためてわかったのは、わが兵庫県は城跡が多い!
たしか、日本の都道府県のなかでは城跡数ダントツトップだったと思います。
このたびの企画も、はじめは三木城を中心に付城跡数カ所をめぐって終わるつもりだったのですが、調べていくうちにどんどん関連史跡があることを知って、気がつけばシリーズ28回、まだまだ回りきれていないといった状態です。
おかげでたいへん勉強になりました。
また、折をみて続けていきたいと思います。
そのときは、上記分布図も更新していきますね。

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by sakanoueno-kumo | 2015-07-03 16:03 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その17 ~池尻城跡~

今回は、三木市の北に位置する小野市にやってきました。
大歳神社という名称の小さな祠の東にある丘陵に、池尻城跡と刻まれた石標があります。
ここにも、三木合戦ゆかりの城跡なんだそうです。

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城主ははっきりとわかっていませんが、石標の説明板によると、別所氏の家臣の居城だったと伝わるそうで、三木合戦の際に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝えられているそうです。
(写っているのは、わたしの愛車です。)

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三木城からみれば北西約5kmの場所で、三木城と池尻城を結ぶ直線上のちょうど真ん中あたりには、「その5」で紹介した大村城平田村付城があり、その位置関係から考えれば、あるいは天正7年(1579年)9月の「平田・大村合戦」の戦火に巻き込まれたのかもしれません(これは、あくまでわたしの想像です)。

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山に入ると、遺構らしき跡が何ヶ所も確認できます。

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説明板によると、一番の高所に設けられた主郭は長さ約18mの方形を呈し、周囲には空堀がつくられ、その北方には二つの曲輪がある、とあります。

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おそらく、上の写真が主郭跡かなぁと。
写真じゃわかりづらいですけどね。

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堀切跡かな?

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丘陵の西にある大歳神社です。
城への登城道はここから伸びており、説明板によると、この神社の敷地に城主の館があったんじゃないかと考えられているそうです。

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祠の側には、小野市保存樹木に指定された巨樹があります。
樹齢は記されていませんが、あるいは往時を知っているかもしれません。

シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-15 21:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その13 ~淡河城跡・八幡森史蹟公園~

三木城跡から東へ7~8km離れた神戸市北区に、淡河城跡があります。
難読ですが、淡河(おうご)と読みます。

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あまり有名ではありませんが、ここ淡河城は三木城籠城戦に際して、食料の補給ルートを確保した重要な役割を担っていた城です。
三木合戦のときの淡河城主・淡河弾正忠定範は、三木城主・別所長治の義理の伯父にあたります。

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淡河氏は鎌倉北条一族の流れと伝えられる名家で、南北朝時代は播磨国一帯を支配する守護大名の赤松氏の配下に属し、この地で勢力を拡大します。
ここ淡河城が築城時期は定かではありませんが、かなり昔からこの地に城があったと考えられているようです。

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城は淡河の里を一望できる小高い丘の上にあります。
濠を渡って、比高差約20mの斜面にある山道を登ります。

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現在は、本丸跡土塁等が残っているのみとなっています。
南の土塁は天守台跡と考えられており、上端が広いため、が建っていた可能性があると考えられているそうです。

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ただの草むらか畑のように見えますが、本丸跡です。
この本丸跡では、柱穴井戸などの遺構が見つかっているそうです。

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本丸跡北側から見た天守台跡です。

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天守台跡は現在、稲荷神社の境内となっていて、遊が置かれた公園になっています。
地面にピンクに散らばっているのは、桜の花びらです。
この日は4月12日で、もう一週前に訪れていたら、きっと桜が綺麗だったでしょうね。

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境内の片隅には、淡河氏のあとに城主となった有馬氏の子孫にあたる有馬頼寧氏が昭和11年(1939年)に揮毫した石碑があります。

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天守台から見下ろす城下です。
黒い建物は、模擬櫓です。

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本丸の周りには内堀跡があります。

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内堀の外側には、淡河氏の菩提寺だった竹慶寺跡があります。
竹慶寺は、江戸時代中期頃に無住寺となり、廃寺となったそうです。
境内には歴代の城主の墓碑があります。

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三木合戦時に城主だった淡河弾正忠定範は、奇策を用いて織田軍を手こずらせたといいます。
その奇策とは、攻めこむ羽柴秀長軍に対して、数十頭の牝馬を放ち、敵の馬が乱れ狂ってパニックになったところに城内から攻め掛かり、秀長軍を敗走させました。
その後、自ら城に火を放ち、別所氏の籠もる三木城に入り、やがて運命を共にしたと伝えられています。

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その定範が討死したと伝えられる三木市の八幡森史蹟公園には、「淡河弾正忠定範戦死之址」と記された石碑と、平田大村加佐合戦の戦死者の慰霊碑があります。

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平田大村加佐合戦とは、三木合戦のなかでももっとも激しかったといわれる戦いで、「その6」で紹介した谷大膳が討死した合戦です。

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石碑には、「三木方戦士者、侍大将七十三人、士卒八百余人」とあります。
織田方を入れると、もっと大勢の兵が、この戦いのあった天正7年(1579年)9月9日に命を落としているんですね。
それでも、三木城内で餓死した籠城兵よりは、武士らしく死ねて幸せだったかもしれません。

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現在この慰霊碑は、閑静な住宅街の一角にある公園内に、遊具とともにあります。
公園で遊ぶ子どもたちは、430年前の惨劇を知るよしもありません。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-01 19:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~

法界寺山ノ上付城という名称ですから、当然、その山の麓には法界寺というお寺があります。
ここは別所氏の菩提寺として、別所長治の高祖父にあたる別所則治が再興したと伝えられる寺です。

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創建は行基菩薩聖武天皇(第45代天皇)の勅願を奉じて諸国行脚のとき、宝祥祝寿鎮護国家の道場として、虚空山と号して法界寺と名づけたと伝えられているそうです。

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天正8年(1580年)1月17日、羽柴秀吉三木条攻めの兵火によって寺院は焼失しましたが、別所長治が自刃したあと、遺体はこの地に埋葬されたといわれています。
ということは、三木城跡近くの雲龍寺にある首塚は、供養塔ってことですかね?

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その後、豊臣政権下の慶長元年(1596年)、三木城の城代を務めていた杉原伯耆守長房によって再建され、別所氏の五輪石塔および霊廟が建てられました。

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その別所家の霊廟です。
この霊廟は当時のものではなく、文政4年(1821年)に再建されたものだそうです。

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長治とその妻・照子の辞世が刻まれた石碑です。

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「東播八郡総兵別所府君墓表」と刻まれた石碑です。
これも文政4年(1821年)に再建されたものですが、初代は、長治の死から98年後の延宝6(1678)年、禅空素伯和尚が三木郡十二町里の民衆に募縁し、この碑を建てて長治の百回忌法要を施したといいます。

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別所氏家臣墓所とあります。
これは、どう見ても最近造られたものでしょう。

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長治の騎馬像です。
これと同じような石像が三木城跡にもありますが(参照:その1)、先日、とある方から教えていただいたのですが、着物が左前死人襟(死人合わせ)になっています。

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写真は2つの石像のアップ、たしかに左前ですよね。
これは駄目でしょう?
両方とも同じときに造られたものかはわかりませんが、ここ法界寺の石像は、「平成15年1月吉日」とあります。
なんで左前なのか、知ってる人がいれば教えてください(教えてくれた人は、中国で造らせたんじゃないか?と言っていました。たしかに、三国志の騎馬武者って感じの顔でした)。

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他にも、法界寺には長治夫妻の位牌および木像、三木合戦記を絵物語にした大幅掛軸があるそうです。
現在でも毎年4月17日には追悼法要が営まれ、掛軸を公開して「三木合戦絵解き」が行われるそうです。
いつか参加してみたいものです。

シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-23 21:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~

別所長治が籠城する三木城を包囲するため、羽柴秀吉は四方八方に多くの付城を築きます。
『信長公記』によると、その数は50~60か所にも及んだといわれます。
付城とは、別名、出城、陣城とも言い、恒久的な城郭ではなく、戦のための仮の城、いわば前線基地のようなものですね。
秀吉は、この付城づくりを得意としていました。
三木市内には、当時の付城跡と考えられている場所がいくつも残っていますが、この日は、平成25年3月に三木城跡とともに国史跡指定された、秀吉本陣跡を訪れました。

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秀吉本陣が置かれたのは、三木城から北東へ約2km離れた平井山という標高143mほどの山上です。
秀吉が三木城包囲を開始してから約3か月が過ぎた天正6年(1578)7月、織田信長の嫡男・織田信忠によってこの地に築かれ、その後、秀吉に引き渡されたといいます。

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付城跡の入口は、平井山北西部分にあり、新しく造られたという丸太階段で整備されていました。
この登り口は、当時は搦手(裏口)だったようです。

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階段で整備されていたのは最初の100mほどで、その後はガッツリ山道になります。
結構ハードです。

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段状の平坦地群跡です。
斜面地を削ったり盛ったりして、段状に平坦地を造っています。
こうして、兵が駐屯しやすいようにしているんですね。
写真ではわかりづらいでしょうか?

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急な斜面を10分ほど登り続けると、ようやく坂が緩やかになり、歩きやすい山道が現れます。
この尾根上の山道は、太閤道と呼ばれていたそうです。
この同じ道を、約430年前に秀吉も歩いていたんですね。

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主郭跡と考えられている場所だそうです。
城の最高所ではありませんが、山道が拓けた比較的平坦な場所で、三木城を監視するには絶好の場所だったのでしょう。
3方が土塁で囲まれています。

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主郭に設置された展望台から見た、三木城下です。
あいにくこの日は霞がかっていて、わかりづらいのですが、写真中央にある樹木と真ん中あたりに見えるのが、三木城跡です。

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現地の説明書きによると、赤線で囲まれた部分が三木城です。
ここから、飢えに苦しむ三木城内の様子を監視していたんですね。
もっとも、人々の様子が見えるほどの近さではありませんが。

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天正6年(1578)10月15日、秀吉は飢えに苦しむ三木城の籠城兵を日和見に、この地で茶会を催したと伝えられます。
なんとも趣味の悪いいやがらせだと思っていましたが、こうしてその場所に来てみると、籠城兵から茶会の様子までは見えなかったでしょうね。

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主郭跡から更に奥へ進むと、櫓台状の土盛と表記された遺構がありました。
ここの櫓があったのでしょうか?

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さらに奥へ行くと道は下り始め、大手口と推定されている遺構に着きます。
地面を深く掘って両側を一段高く切盛りし、その段状に平坦地を設け、見張り兵を駐屯させていたと考えられているそうです。
ここを降りて行くと、与呂木という集落に繋がっていたそうですが、いまは、この先は行き止まりとなっていて立ち入り禁止です。
観光順路は、裏口から入って正門でUターンさせられるコースとなっていました。

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この平井山付城跡は、これまで民間が所有していたそうですが、平成25年(2013年)に三木市が買収し、国の史跡に指定されたそうです。
よく遺構が破壊されずに残っていたものですね。
これからは、三木市が遺跡の保存や整備を管理していき、三木城跡とセットの観光地としてアピールしていくそうです。
結構、しんどい登山ですが・・・。

いつになるかわかりませんが、次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-06 23:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~

過日、兵庫県三木市の三木城跡に行ってきました。
三木城というと、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の行った「三木の干殺し」で知られる三木合戦の舞台として有名ですよね。
旧令制国でいえば播磨国の東端に位置し、現在の三木市は、神戸市の西北にあたります。

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現在、城跡は本丸周辺だけが丘の上に上の丸公園として残っています。
形式は平山城で、別名「釜山城」「別所城」とも呼ばれていたそうです。
当時は、小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称されたそうです。

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三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしないそうですが、15世紀末ごろに別所則治によって築城されたとされおり、以後、代々別所氏の居城となります。
別所氏は、播磨国の守護大名・赤松氏の家臣であり、同じく家臣である浦上氏に次ぐ有力な一族として、播磨東部辺りに勢力を誇っていました。

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秀吉に攻められる以前にも、時の勢力争いに幾度となく巻き込まれ、山陰の尼子氏や四国の三吉氏、三田の有馬氏などに攻められますが、なんとか落城は免れてきました。
その後、織田信長が勢力を伸ばすと、その傘下に入ります。

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しかし、天正6年(1578年)3月7日、信長の命による秀吉の中国攻めが始まると、5代目当主・別所長治は突如、反旗を翻します。
その理由ははっきりしていませんが、以前の拙稿でも紹介したとおり(参照:軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」~加古川評定~)、加古川評定における対立が原因とされています。
謀反を受けた秀吉は、ただちに三木城を包囲。その数3万とも言われる大軍でしたが、それでも、三木城の堅牢さを知っていた秀吉は、無駄に自軍の兵力を失うことを避け、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというものでした。

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下の三木城跡から望む城下です。
写真右奥に見えるのが、秀吉が本陣をおいた平井山かな?

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なんとか別所氏を支援したい毛利氏は、さまざまなルートから三木城への食料搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。
籠城する7500人の別所勢は、孤立無援となります。
やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者が数千人に及んだといいます。
飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミや土壁のなかのをも食べたといいます。
その光景はまさに地獄絵図
この兵糧攻めは「三木の干殺し」と呼ばれ、のちの「鳥取の渇え殺し」とともに戦国史上最も凄惨な籠城戦と評されています。

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本丸跡です。
天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。
このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。
本丸跡には、長治の辞世の句が刻まれた石碑があります。

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「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

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長治像です。
23歳の若者らしい幼い顔ですね。

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城跡公園のすぐ近くにある雲龍寺には(戦国当時は、三木城郭内にあった)、長治と照子夫人の首塚が残されています。

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長治は切腹にあたって、照子夫人と3歳のわが子を刺殺し、その後、切腹にのぞんだと言われます。
武士の世の慣いとは言え、無念だったことでしょう。

近日中の「その2」につづきます。



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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-26 21:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第24話「帰ってきた軍師」 ~三木合戦の終結と小寺政職の逃亡~

 黒田官兵衛が有岡城に幽閉されたため戦線離脱してしまった羽柴秀吉三木城攻めは、有岡城が落城して官兵衛が帰還してもなお続いていました。秀吉がとった作戦は、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというもので、『信長公記』によると、秀吉の築いた付城は5~60に及んだといいます。毛利氏は三木城に籠城する別所氏に兵糧を補給するため、さまざまなルートから搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。じわじわと別所陣営は追い詰められます。後世に「三木の干殺し」と称される最も有名な兵糧攻めですね。

 籠城兵が餓えに苦しむなか、秀吉はそれを日和見に茶会を催したといいます。なんとも残酷で趣味の悪いいやがらせですよね。やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者数千人に及んだといいます。飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミ土壁のなかのをも食べたといいます。その光景はまさに地獄絵図。よく、兵糧攻めは血を流さない戦法のため、人をあまり殺さない方針の秀吉が好んだ人道的な策と勘違いする人がいますが(また、そう描いているドラマなどがありますが)、実際には、餓死ほど酷い殺され方はなく、むしろ極悪非道な戦法といっても過言ではありません。秀吉や竹中半兵衛(もしくは黒田官兵衛)が殺したくなかったのは、自軍の兵のことであり、決して、血を見ることを好まなかったというわけではなかったと思います。

 天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。以下は、長治の辞世の句です。
 「いまはただ うらみもあらじ諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

 長治の死によって、生きながらえていた城兵たちの命は助けられたというのが通説でしたが、近年の研究では、その後、城内の兵たちはことごとく首をはねられた、という記述がいくつかの史料に確認されているそうで、最近では、その可能性が高いと見る歴史家の方々が多いそうです。籠城兵を助けたという美談は、のちの備中高松城の戦いと混同されて伝わった話かもしれません。どうもこの頃の織田軍は、戦後処理の大量虐殺がお好きなようで、後味の悪い結末が目立ちますね。

 後味が悪いといえば、官兵衛のかつての主君・小寺政職。三木城が落城すると、たちまち御着城を捨てて逃亡します。自分が陥れた官兵衛が生きて戻ってきたことも、政職にとっては恐怖だったでしょうね。「なんで殺さなかったんだ!村重!」と思ったに違いありません。官兵衛が生きて戻ってきたからには、追っ付け「自分を討ちにくるに違いない」・・・おそらくそう考えた政職は、西へ西へと流浪し、毛利領の備後国鞆の浦へ落ち延びたといいます。先述した別所長治が、若干23歳ながら自らの死と引き換えに家臣の助命を嘆願したことを思えば、なんとも情けない最後ですね。小寺政職という人は、身分の低かった黒田職隆・官兵衛親子の能力を見出して引き上げるなど、決してドラマで描かれているようなどうしようもない暗君ではなかったと思いますが、官兵衛を陥れたことと、人生最後の往生際の悪さが、後世に評価が低い所以でしょうね。

 結局、毛利領に亡命して数年で政職はこの世を去りますが、その子・小寺氏職(ドラマではいつきという幼名)は、のちに官兵衛によって客分として迎え入れられ、さらにその子たちは、福岡藩士として代々黒田家に仕えます。あまりにも寛大すぎる官兵衛ですが、寛大な処遇を受けた政職の子孫たちは、決して居心地はよくなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-17 23:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」 ~加古川評定~

 西播磨の福原城上月城を落とした羽柴秀吉は、年が明けた天正6(1578)年2月、播磨国の領主たちを一同に集めて評定を開きます。会場となった加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、三木城主の別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。この評定の目的は、今後の中国攻略に向けての道筋を立てるというものでしたが、真の目的は、播磨国領主たちの去就を今一度確認して、反毛利の結束を固めるといった意図も込められていたのでしょうね。おそろく黒田官兵衛も、各地の長たちを集める工作に尽力したに違いありません。しかし、結果的にこの評定は、失敗に終わってしまいます。

 そのキーマンとなったのが、播磨国最大の勢力を誇る別所氏でした。別所氏は15世紀後半から三木城に拠点を置く名家で、城主は若き別所長治。叔父の別所吉親(賀相)別所重棟を後見人に12歳という若さで当主となった長治も、このとき既に20歳となっていましたが、いまだ叔父たちの発言力が強く残っていたようです。この二人の叔父が、かねてから対立関係にあったようですね。城内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。一時は織田家支持の方針で固まったかのように見えた別所氏でしたが、賀相は納得していなかったのでしょうね。その思いが、この局面で吹き出します。

 評定の当日、会場に姿を表したのは長治ではなく、賀相でした。もともと毛利派だった賀相が出席した時点で結果は見えていたともいえますが、案の定、評定の席で秀吉と衝突してしまいます。その理由は、「賀相の作戦が受け入れられなかった」とか、「出自の賤しい秀吉に従いたくなかった」などと言われますが、実際のところはどうだったのでしょう。長治が出席しなかったということは、おそらく評定に先立って毛利氏への加担を決めていたのでしょうね。その上で評定に出席したとなれば、ドラマのように、秀吉との衝突は計算通りで、播磨の諸氏たちを扇動するための茶番だったといえます。なかなかの策士ですね。これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻すわけですが、播磨一の別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。こうして、播磨を反毛利で結束させるべく開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまいます。ドラマで描かれているとおり、曲者ぞろいの播磨国の諸氏は、人たらし秀吉をもってしても、一筋縄ではいかなかったようですね。

 この評定の失敗によって、秀吉の播磨平定は2年遅れることになるわけですが、結果的には、別所氏の選択が間違いであったことは歴史の示すとおりです。しかしながら、当時に生きる彼らに、そんな未来が予見できるはずはありませんから、やむを得ない結果ですね。ただ、賀相の毛利氏支持の真意が何だったのかと考えたときに、「織田氏より毛利氏についたほうが有利だ」と考えたのならばやむを得ないとして、もし、重棟に向けた対立感情からきたものだったとすれば、なんともくだらないプライドのために主家の運命を賭けたものだと言わざるを得ません。もっとも、政をくだらない派閥争いの道具にする政治は、現代も変わらないですけどね。命を賭けているぶん、当時の政治家のほうが上だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-15 20:59 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)