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花燃ゆ 第46話「未来への絆」 ~西南戦争後の国事犯たち~

 8ヶ月に及んだ西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じ、政府軍の死者は6,403人、反乱軍の死者は西郷隆盛をはじめ6,765人に及びましたが、反乱軍の生き残りたちは国事犯として長崎で裁判にかけられ、そのほとんどが囚人となります。しかし、政府の管理する監獄ではそのすべてを収監しきれず、約2,700人の囚人が全国の監獄に護送されることとなりました。楫取素彦が県令を務める群馬県には、最初に57名、翌年に31名計88名が囚人として送られてきたそうです。

 ドラマでは、群馬県では囚人たちをただ労役につかせるだけでなく、仕事を与えて職業訓練をさせるという試みをはじめたとありましたが、実際には、群馬県のみならず多くの県で同じようなことが行われていたようです。ただ、それは現代のような職業訓練という趣旨ではなく、労働力としてのそれだったようですね。もっとも、奴隷のようにこき使われていたわけでもなく、むしろ囚人らが自発的に労働を望む場合が多かったようで、開墾作業土木工事に従事して、地域開発に大きな役割を果たしました。

 「国事犯」とは国家の政治的秩序を侵害する犯罪のことをいいますが、そもそも革命期においては、その政治的秩序そのものが不安定なもので、勝てば官軍負ければ賊軍、ひとつ間違えれば、裁く側裁かれる側が逆転していたかもしれないわけです。ドラマ中の美和も言っていましたが、官軍も賊軍も、国のことを憂い、国のために命を投げ出した者たちであり、罪人と言っても、極悪非道な人物たちではなかったわけです。先週、フランス同時多発テロ事件がありましたが、現代のように一定の政治的秩序が確立された時代の政治犯とは違いますからね。当時の国事犯のなかには、人格者が多くいたはずです。

 しかし、当時、国事犯とは最も重い罪で、その首謀者は、ほとんどがまともな裁判にかけられることなく死罪になっています。「佐賀の乱」江藤新平「萩の乱」前原一誠がそうですね。政治的秩序が不安定である以上、その秩序を乱す行為は見せしめとして厳罰に処し、秩序を正当化していく必要があったわけです。その恐怖政治を断行したのは大久保利通でしたが、それほど強引な姿勢で臨まないと、新しい秩序は確立されなかったんですね。新国家の陣痛時期とでもいうか・・・。現代でも、政治犯を問答無用で粛清する独裁国家がすぐ近くにありますが、それ即ち、国家の秩序が不安定な状態にあることを露呈しているといえるでしょうか。

 話を戻すと、その後わが国における囚人の数は増え続け、明治18年(1885年)には8万9千人となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年(1881年)に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を、当時、開拓地だった北海道に求めました。開拓の労働力としても役に立ち、加えて、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得だという目論見もあったようです。そんなわけで、明治14年(1881年)には月形町に樺戸集治監、明治15年(1882年)には三笠市に空知集治監、明治18年(1885年)には標茶町に釧路集治監、そして明治23年(1890年)には有名な網走囚徒外役所が置かれます。こうして北海道の監獄の歴史がはじまるんですね。

 本稿は、ドラマから少し離れちゃいましたね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-16 17:54 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第43話「萩の乱に誓う」 ~激動の幕末長州藩の終焉~

 明治9年(1876年)10月28日、山口県はにおいて、不平士族たちの新政府に対する反乱が勃発します。その首謀者は松下村塾生だった前原一誠。決起の趣意書には、「木戸孝允等帷幄に出入し、寵待此なく、しこうして先君の業、掠めて己の功となし」(原文は漢文)と書かれていました。つまり、木戸孝允ら政府高官たちは、先君・毛利家の地をほしいままにしている、と。廃藩置県から4年の歳月が過ぎていましたが、士族たちの心は、未だ毛利家の家臣だったんですね。

 維新後一時期、前原は新政府の参議、兵部省の兵部大輔を務めていました。ただ、前原の登用は、彼の識見や経験を斟酌されたものではなく、前任の大村益次郎暗殺されたため、同じ長州閥から繰り上がりで抜擢されたようなものでした。幕末に多くの有能な人材を失っていた長州藩は、薩摩藩に比べて人材が少なかったんですね。そんななか、同じ松下村塾出身の伊藤博文山縣有朋の出世に便乗して、前原も政府高官に登用されたといった感じでした。しかし、そもそも軍事の専門家ではない前原は、あまり出仕することがなかったようです。やがて徴兵制をめぐって木戸、山縣と対立し、明治3年(1870年)9月に追われるように政府を去ります。先述した決起の趣意書からも、木戸に対する恨み節が感じ取れますよね。

 その後、版籍奉還、廃藩置県で全国の諸藩が解体されると、新政府に反発を抱く不平士族が全国各地にあふれはじめます。そんななか、政府内も権力抗争のゴタゴタが続くのですが、明治6年の政変(征韓論政変)によって、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣、板垣退助らが参議を辞任すると、新政府の軍人、高官の多くが西郷らと行動を共にしました。日本中に、新政府と不平士族らの一触即発の空気が漂いはじめます。

 最初に決起したのは、佐賀県でした。これまでずっと薩長の下風に立たされてきたことへの憤懣もあり、加えて江藤、副島が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、帰郷した江藤が3千人近い不平士族の神輿に担ぎあげられて挙兵します。いわゆる「佐賀の乱」ですね。しかし、大久保利通の指揮する新政府軍によってまたたく間に鎮圧され、首謀者の江藤は即刻、斬首、梟首となります。不平士族たちへの見せしめですね。

 その後、政府は不平士族たちの特権をさらに削ぐべく、明治9年(1876年)に帯刀禁止令、秩禄処分を断行します。これによって、不平士族たちの憤懣はいっぺんに頂点に達し、同年10月24日に熊本県で太田黒伴雄らが「神風連の乱」を、続いて10月27日には福岡県秋月町で宮崎車之助らが「秋月の乱」を起こします。神風連の乱はわずか1日で鎮圧されましたが、秋月の乱勃発の報が短時間で萩に伝わり、これを千載一遇の好機とみた前原は、10月28日に挙兵します。これが、「萩の乱」勃発までの経緯です。

 しかし、前原にはそれほど人望カリスマ性もなかったのでしょうか。集まった士族は150人にも満たず、これでは大反乱になるべくもなく、たちまち広島鎮台兵によって鎮圧されます。前原は逃亡先の島根県下で捕縛され、首謀者として即日、斬首となります。享年43歳

 前原も江藤も太田黒も宮崎も、挙兵した彼らはみんな鹿児島の西郷の決起を期待していました。乱を起こせば、必ず西郷が起ってくれるに違いない・・・と。この頃、不平士族にとって西郷の声望は、まことに巨大なものになっていました。彼らのあいだでは、西郷は精神的支柱だったんですね。ところが、当の西郷はなかなか動かない。結局、それぞれの反乱が連携することなく単発で終わってしまい、前原たちの思いは砕け散りました。もし、このとき西郷が動いていたら、歴史はどうなっていたんでしょうね。

 この萩の乱には、美和の一族が深く関与していました。ドラマでは美和の甥にあたる吉田小太郎杉民治の長男)しか出てきませんでしたが、民治長女の婿養子で玉木文之進の跡取でもある玉木正誼も、乱に加わり討死しています。一族から二人も反乱者を出し、さらに、首謀者である前原が松下村塾出身であったことから、玉木文之進はその道義的責任を痛感し、同年11月6日に萩の山中で自刃して果てます。享年67歳。松下村塾の創設者であり、吉田松陰の師でもある文之進は、ある意味、激動の幕末長州藩の生みの親ともいえます。その生みの親が、長州藩の最後の武士たちと運命を共にしたというのは、なんとも出来過ぎたドラマですね。彼の死が、幕末長州藩にピリオドを打ったといえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-26 21:47 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第11話「突然の恋」 ~文と久坂玄瑞の縁談~

 久坂玄瑞が結婚したのは、安政4年(1857年)のことでした。ときに玄瑞18歳、文の生年は諸説あるので定かではありませんが、13~15歳あたりだったと思われます。当時としても若い夫婦ですが、すでに玄瑞は両親と兄を亡くして家督を継いでいる身でしたから、できるだけ早く嫁をとって子をつくる必要があったのでしょう。

 萩城下英才で知られた玄瑞でしたが、その容貌も麗しく、身の丈6尺(約180cm)の長身で、面構えはすこぶるイケメン、しかも美声で、立ち居振る舞いも同世代の男のなかでは抜きん出ていたといいます。玄瑞がその美声で詩吟を唸りながら歩くと、付近の女性が群がるように彼を覗き見たとか。ちょっとしたスターですね。しかも、萩城下きっての秀才だったわけですから、容姿端麗にして頭脳明晰、まさに非の打ちどころのない人物だったようです。

 そんなミスターパーフェクトと文が結婚に至った馴初めについてですが、ドラマでは、お互いにほのかな恋心を抱いていたことになっていましたが、そこはドラマの設定。実際に伝えられる話では、玄瑞ははじめ、この縁談に乗り気ではなかったようです。その理由について、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治になってから執筆した随筆で、次のように語っています。

 「久坂時尚ほ甚だ荘、拒むに夫の妹氏醜なるを以てせり」

 妹氏醜なるを以て・・・すなわち、文がブスだから嫌だ!・・・と。ひじょうにわかりやすい理由ですね(笑)。実際に文がブスだったかどうかはわかりませんが、モテモテのイケメン玄瑞ですから、周りにもっと美人がたくさんいたのかもしれません。そんななか、いくら師匠の妹御といえども、なんでこんな幼い小娘と・・・と思ったのかもしれませんね。男として、わからなくもないです(笑)。

 ふたりの縁談を仲介していたのは小田村伊之助ではなく、松下村塾生のなかで最年長の中谷正亮という人物でした。ブスだから嫌だと玄瑞がいったのも、この正亮に対してだったようです(当然ですが、松蔭や文に直接いったわけではありません)。幾太の随筆によると、玄瑞の言葉を聞いた正亮はすぐさま、

 「之れは甚だ君に似合はざる言を聞くものかな、大丈夫の妻を妻とる。色を選ぶべきか」

 と、強く叱責したといいます。まあ、18歳ですからね・・・。健康な男子ならば色を選びたいですよね(笑)。しかし、この正亮の叱責に玄瑞は言葉に詰まり、考えなおして縁談を承諾した、と幾太は続けています。この切りかえの速さと決断力は、さすが君子といえるでしょうか。そんな人格も含めて優秀な愛弟子・玄瑞を、吉田松蔭は義弟にしたかったのでしょうね。松蔭も罪なことをするものです(笑)。

 今週の塾生スポットライトは、前原一誠でしたね。一誠は久坂玄瑞や高杉晋作ら主だった塾生のなかでは年長の天保5年(1834年)生まれで、このとき24歳でした。塾生といっても、瀬戸内海側の厚狭郡船木村という遠方からやってきた一誠は、松下村塾で学んだのはわずか10日間ほど。しかし、その10日間で見た、松蔭の塾生から学ぼうとする姿勢に、たいそう感銘を受けたといいます。一誠は、主だった塾生のなかでは数少ない明治まで生きる人物ですが、わずか10日間に学んだ松蔭の遺志を深く継承し、やがて非業の死を遂げることになるのですが、それは、物語のずっとずっとあとの話です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-16 20:01 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その1 ~神風連・秋月・萩の乱~

 明治維新によって近代国家の扉を開いた日本でしたが、その最大の革命は、士農工商の世襲身分を廃止し、四民平等一君万民としたことでした。しかし、それによって最も困ったのは、維新の原動力となった身分の低い元武士たちでした。江戸時代、国民の約1割が武士だったといいますが、士族で明治政府に役人として仕えたのはごく僅かで、ほとんどの侍たちが職を失うことになります。武士は今でいう公務員ですから、平成の小泉改革なんて比較にならない公務員大リストラだったわけですね。新国家成立のために命をかけた武士たちでしたが、新国家で最も不要とされたのも武士たちでした。皮肉ですね。彼らは、やがて明治政府に対して不満をつのらせていきます。

 失業状態となった士族でしたが、それでも明治初頭は、わずかな俸禄(家禄)を政府から与えられていました。いうなれば、武士時代の年金みたいなものですね。ところが、これが国家財政の30%を占め、財政圧迫の大きな要因となります。そしてとうとう政府は、明治9年(1876年)に俸禄支給の廃止に踏み切ります。これによって士族は完全に収入源がなくなったわけですね。なかには商売に手を出す者もいたようですが、いかんせん役人上がりですから、上手くいく例は少なく、没落する者も出てきます。さらに同じ年、追い打ちをかけるように「廃刀令」が出されます。軍人と警察官以外は帯刀を許さぬというのです。収入を失った上に、士族の名誉の象徴「武士の魂」までも奪われたわけですから、彼らの怒りは頂点に達し、西日本各地で爆発します。

 10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする「神風連」と名のる熱狂的な攘夷主義士族の一団約200人が決起。彼らは県庁と兵営を襲撃し、県令の安岡良亮、鎮台司令長官の種田政明らを殺害します(神風連の乱)。暴動はただちに鎮圧されましたが、つづいて同月27日、福岡県の旧秋月藩士族・宮崎車之助らが、400人の同志を結集して神風連に呼応します。しかしこれも、乃木希典率いる小倉鎮台によって鎮圧され、多くが戦死、斬首になります(秋月の乱)

 さらに28日には、山口県の萩で前原一誠が200人余りを率いて挙兵します。前原は吉田松陰の開いた松下村塾の門下生で、幕末には久坂玄瑞高杉晋作らと共に討幕運動で活躍し、維新後は政府の参議兵部大輔を務めた人物。しかし、政府の商人と結託する不潔官僚主義に反感を持ち、さらに徴兵令に反対して同藩の先輩・木戸孝允とも衝突し、明治3年、いっさいの官職を辞めて萩に帰郷し、やがて山口県の不平士族の首領となっていきます。そして神風連の決起に呼応するかたちで兵を挙げ、一時は500人を超えた前原党でしたが、結果は三浦梧楼少将率いる広島鎮台などによって鎮圧。前原は出雲に落ち延びる途中で捕らえられ、斬首されます(萩の乱)

 こうして暴動は瞬く間に鎮圧されましたが、しかし、政府要職の経験もあり、士族仲間の徳望が高かった前原の叛乱は、政府にとってはかなりの脅威でした。そして政府は、おそらくこのつぎにくるものは、士族の大棟梁・西郷隆盛をかつぐ大叛乱であろうと予想します。そのため、西郷の身辺には、常に政府の密偵がつきまとっていました。

長くなったので、近日中の「その2」につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2013-09-24 23:18 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)