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太平記を歩く。 その122 「新田義貞首塚(滝口寺)」 京都市右京区

新田義貞の墓所は「その120」で紹介した福井県坂井市の称念寺にありますが、あちらの墓は胴塚で、京都嵯峨野にある小さな山寺・滝口寺の境内に、義貞首塚と伝わる墓石があります。


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境内入口です。

中央にNO PHOTOと書かれた立て札がありますが、これは、参拝料を払わない人は撮影禁止という意味で、ちゃんとお金を払ったわたしは撮影オッケーです。


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この苔むした墓碑が、新田義貞の首塚だそうです。


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燈明寺畷自刃した義貞の首は、越前国守護の斯波高経によって検められたあと、すぐさま京に運ばれ、都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

それを見た義貞の最後の妻・勾当内侍は泣き崩れ、その日のうちに髪を剃り落して尼となり、かつてこの地にあった往生院で余生を義貞の菩提を弔うことに費やしたといいます。


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『太平記』が伝えるのはそこまでで、その後、晒された義貞の首がどうなったかは伝えられていません。

ここ滝口寺に伝わる伝承によれば、晒された義貞の首を妻の勾当内侍が盗み出し、秘かにこの場所に葬ったといいます。


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たしかに、この説は真実味がありますよね。

足利尊氏は信心深い人で、一旦は晒した楠木正成の首を河内の親族の元に丁重に送り返したり、あれだけ確執があった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の死後、その菩提を弔うために天龍寺を建立したりしています。

そんな尊氏が、最大のライバルだった義貞の首を、そのまま捨て置くとは思えないですよね。

もし、その妻が盗み出して葬ったとあらば、それが発覚したとしても、尊氏は見て見ぬふりをしていたんじゃないかと。


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義貞の墓所の側には、その妻の勾当内侍の供養塔があります。

勾当内侍は公家の出で、後醍醐天皇によって義貞のもとに降嫁されたと伝わります。


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『太平記』では、義貞の最期をこう評します。


「此の人、君の股肱として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」


「うたてかりし」とは「情けない」といった意味だそうで、要訳すると、

「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした。運が悪いというより、軽率である」

といった感じでしょうか?

つまり、「犬死」だとい言っています。

かなりの酷評ですね。


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新田義貞も足利尊氏も、源氏の中興の祖である源義家を祖先にもつ家系で、いわば同族でした。

共に鎌倉幕府瓦解の立役者であり、ライバル関係だった義貞と尊氏でしたが、建武の新政以後、朝廷に対して反旗を翻した尊氏を討伐する目的で官軍を率いたはずの義貞が、最期は足利氏から朝廷に抗う反乱軍というレッテルを貼られてしまい、無念の死を遂げてしまいます。

そんな義貞に対する後世の評価は微妙で、戦には強かったものの、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりしたことから、時代の趨勢が読めなかった武将とか、機を見るに敏という能力が足りなかったなど、その器量、能力に対しては酷評気味です。

同じく一貫して後醍醐天皇方に与して討死した楠木正成英雄扱いを受けているのに対し、なぜ義貞は微妙な評価になっちゃったんでしょうね。

客観的に見て、鎌倉幕府滅亡にもっとも尽力したのは義貞だったと思いますし、建武の新政以後、尊氏が反旗を翻したあとも、最も長く、足利方と互角に戦ったのは義貞でした。

後世の評価は、ちょっと、気の毒な気がしないでもないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-13 23:37 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)