タグ:北条氏政 ( 5 ) タグの人気記事

 

真田丸 第24話「滅亡」 ~小田原城落城~

 北条氏の居城・小田原城は、当時、関東一の規模の惣構えを誇る堅城でした。それだけに、北条氏政・氏直父子の目算に誤りが生じたといえるでしょう。特に氏政は、小田原城と支城の防衛力過信し、同時に豊臣軍の力を侮っていました。当初の氏政の作戦では、まず進軍する豊臣軍を箱根の山で防ぎ、さらに、関東一円に配置された100ヶ所以上ある支城に豊臣軍を引きつけて兵力を分散させ、そこを攻めあぐんでいるところを、小田原城の本軍が背後から攻撃するというもので、さらには、同盟関係にあった奥羽の伊達政宗の援軍や、徳川家康の離反も視野にあったといいます。そのため、小田原城には2、3年分の兵器や食料が運び込まれていました。

e0158128_21204350.jpg 籠城兵は約5万6千。その2、3年分の食料を備蓄していたということですから、その規模の大きさがわかりますね。城攻めが得意な豊臣秀吉でしたが、たとえば、かつてその秀吉が兵糧攻めで落とした三木城攻めでは、籠城兵は約7千500、支城は30ヶ所にも満たない数でした。それでも、三木城を落とすのに約2年という月日を費やしたのです(もっとも、当時、織田信長傘下の一武将に過ぎなかった秀吉と、天下統一を目前にした小田原城攻めの秀吉とでは、軍事力の違いは歴然としていましたが)。そんな経験値からか、小田原城攻めは1年から2年はかかると、秀吉自身も覚悟していた様子が当時の書簡などからもうかがえます。

 ところが、総勢20万以上の大軍を結集した秀吉は、北条氏の誇る箱根の山の堅城・山中城をあっけなく1日で落とすと、陸と海から小田原城を完全に包囲します。そのため、小田原城に籠る兵たちはどこにも援軍を出せなくなり、そして、100ヶ所以上ある北条氏自慢の支城は、援軍が期待できなくなったため兵の士気が下がり、豊臣軍の前に次々と落城していきました。

e0158128_22054082.jpg そんななか、北条氏が最も頼みにしていた伊達政宗が、小田原城を包囲する秀吉の下に屈します。政宗は、北条氏が名胡桃城を乗っ取ったときにも連絡を取り合い、出兵準備をしていたほどでしたから、氏政は伊達軍の応援を大いに期待していたんですね。しかし、秀吉としてもそんな両者の関係を捨て置くはずがなく、前田利家浅野長政を介して調略の手を伸ばしていました。両者の板挟みとなった伊達家内部では、重鎮の伊達成実は豊臣軍との合戦を主張し、正宗の重臣・片倉景綱は秀吉への恭順を唱えるなど、意見が真っ二つに分かれていました。これが、伊達家の小田原への遅参の原因でした。

 ちなみに余談ですが、正宗の重臣・片倉景綱の嫡子・重綱が、後年(たぶん最終回)、真田信繁深い縁を持つことになりますので、知らない方は覚えておいてください。

 結局、正宗は景綱の意見に従い、打首覚悟で小田原に参陣。秀吉に下りました。この事実は北条方にとっては大打撃となり、一気に戦意を萎えさせました。これが、北条氏の降伏に繋がった最大の出来事だったといっていいでしょう。秀吉はこの機を逃さんとばかりに側近の黒田官兵衛孝高を交渉役として小田原城に送り(信繁ではありません)、降伏を促します。そして、小田原城籠城からわずか3ヶ月の天正18年(1590年)7月6日、ついに小田原城は開城し、氏政とその弟で主戦論を唱えていた八王子城主の北条氏照切腹。氏直は家康の嘆願もあり死罪を免れるも、高野山へ送られました。ここに、北条早雲以来、5代、100年に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅亡します。

 北条氏の滅亡、伊達氏の降伏をもって、秀吉の天下統一事業はほぼ完成しました。ちなみにドラマでは、天下統一のことを「天下一統」といっていましたが、時代考証担当の黒田基樹氏の解説によれば、「天下統一」という言葉が使われだしたのは江戸時代以降のことだそうで、この時代は、「一統」といっていたそうです。なかなか、細部にこだわってますね。しかし、その天下一統が実現したときから、すでに豊臣政権は崩壊の道をたどり始めていました。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-06-20 22:08 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第21話「戦端」 ~北条氏の上洛と沼田領問題~

 天正17年(1589年)5月、待望の嫡男が誕生し、関白公邸の聚楽第には後陽成天皇(第107代天皇)の行幸を迎え入れるという一大イベントを成功させ、まさに天下人として絶頂期を迎えつつあった豊臣秀吉でしたが、一方で、それでも上洛しようとしない関東の北条氏に苛立ちを募らせていました。そこで秀吉は、聚楽第天皇行幸が終わってすぐ、北条氏と同盟関係にある徳川家康を差し向け、北条氏政、氏直父子に上洛を強く要請します。このとき、ドラマのとおり家康は、「誰も上洛に応じない場合、北条家とは断交し、氏直に嫁がせている娘・督姫を返していただく」とまで言って圧力をかけたといいます。

e0158128_21204350.jpg この家康からの要請をうけた氏政は、上洛の条件として、棚上げとなっている沼田領問題の解決を訴えます。天正壬午の乱以降ずっと引きずっているこの領土問題と、北条氏が豊臣傘下に入るという話とはまったく無関係といえますが、北条氏としては、自らの上洛を取引材料にして、関白秀吉の力を借りて沼田問題の決着をつける腹だったのでしょう。そこで、北条氏は重臣の板部岡江雪斎を名代として上洛させ、秀吉にその採決を委ねたのでした。

三成「むしろ好都合ではございませぬか? 沼田を真田から取り上げ北条に渡す。その采配を殿下が行うのです。殿下は、大名同士の勝手な争いを禁じられました。そのよき手本になるかと。」

北条からの上洛の条件を聞いて苦虫を噛み潰す秀吉に対して、石田三成が言った台詞ですが、まさしく、これは秀吉の発令した「惣無事令」に沿った解決法でした。これまで、領土は戦で切り取るものでしたが、豊臣政権の元に天下が統一されるこれからは、天下人である秀吉の裁決によって決められる。これが、新しい国のかたちだということです。豊臣政権にしてみれば、沼田領問題はそれを天下に示す絶好のネタだったといえます。

 しかし、真田昌幸にしてみれば、釈然としない思いがあったでしょう。沼田領は昌幸が自力で切り取った領地であり、北条氏はその沼田城攻めに何度も失敗している。それを、徳川氏と北条氏の講和条件に勝手に入れられて割譲を迫られたわけですから、納得できるはずがありませんでした。氏政にしてみても、家康の協定違約だという思いがあったでしょうから、引き下がるわけにはいかなかったでしょう。

 家康「沼田、沼田と・・・まるで、喉に刺さった小骨じゃのう。」

 いやいや! そもそもあんたが出来ない約束をしたからでしょう(笑)! 天正壬午の乱以降、足掛け7年に及ぶこの難問の着地点は、新しい時代の新しい解決法で決着を見ることになります。

e0158128_20022019.jpg ちなみに余談ですが、談判の席で上段に座った秀吉が「関白太政大臣豊臣の秀吉であるぞ。」と言ってましたよね。今回のドラマでは秀吉が自身を名乗るとき、豊臣“の”秀吉と言っていますが、一般にあまり耳慣れないですが、実はこれが正しい「豊臣秀吉」の読み方です。一般に秀吉は関白になって「羽柴」から「豊臣」に変わったと思われていますが、それは間違いで、「羽柴」は苗字、「豊臣」は。ですから、「豊臣」になっても苗字が「羽柴」であることに変わりはありません。「氏」とは、源氏・平氏・藤原氏・橘氏に代表される天皇家から下賜された冠名のことで、「豊臣」は、それに続く新しい「氏」として、秀吉が天皇家から与えられたものです。「氏」と名の間には“の”を入れるのが正しく、例えば平清盛(たいらのきよもり)、源頼朝(みなもとのよりとも)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と同じように、豊臣秀吉(とよとみのひでよし)と読むのが正しいんですね。

 ちなみにちなみに、自称平氏だった織田信長の正式名称は「平朝臣織田三郎信長」源氏を称していた家康は、「源朝臣徳川次郎三郎家康」となります。ですから秀吉の場合は、「豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉」となるのかな? まあ、教科書でも、豊臣と秀吉のあいだに“の”は入れてませんし、「羽柴」から「豊臣」に変わったように書かれてたと思いますから、一般に知られてなくて当然ですけどね。今年の大河ドラマは、そういった細かいところにもこだわって制作されていることがわかります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-30 21:27 | 真田丸 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第40話「小田原の落日」 ~石垣山一夜城~

 九州を平定した豊臣秀吉にとって、残る大敵は相模国小田原城主の北条氏のみとなりました。北条氏は関東一円に300石近い領地を支配する大大名で、徳川家康とも同盟関係にあったことから、当初は秀吉も北条氏と事を構えるつもりはなく、おとなしく臣下に下ってくれればそれでよかったのですが、徳川家康を介して説得を重ねるも、北条氏政・氏直父子は、頑なに上洛を拒否し続けます。その理由は、信濃国から上野国の沼田に勢力を伸ばしつつあった真田昌幸との領土問題が解決していないから、というものでした。

 であればと、秀吉は仲介に入ります。秀吉は真田氏が占領していた沼田3万石のうち3分の2を北条氏に返還させ、名胡桃城を含む3分の1を真田氏のものとする裁定を下し、氏政・氏直父子のどちらかの上洛を約束させました。これですべてが上手く治まったかに見えたのですが、それでも北条氏は重い腰を上げようとはせず、そんななか、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が名胡桃城を武力で奪い返す事件が発生。これに怒った秀吉は、大名同士の私闘を禁じた惣無事令に反するとして、小田原征伐を諸大名に発令。宣戦を布告します。

 天正18年(1590年)3月、秀吉は総勢22万という大軍を引き連れ、小田原城に向かいました。その中には、黒田官兵衛、長政父子もいます。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧や武器弾薬は豊富に備蓄され、支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、豊臣軍は端から小田原城に攻め込む気などなく、大軍で包囲して城に籠もらせることが目的でした。このあたり、氏政・氏直父子の読みが甘かったといえるでしょうね。

 豊臣軍は小田原城に睨みを効かせて閉じ込めておきつつ、周りの支城を次々に落としていきます。更に追い打ちをかけるように、北条氏と同盟関係にあった伊達政宗までもが豊臣軍の傘下に下ります。もはや北条氏に味方する大名はおらず、孤立無援状態となった城内では、士気が下がる一方でした。

 そんなとき、小田原城に籠もる城兵たちの度肝をぬく出来事が起こります。小田原城からわずか3kmほどの距離にある山上に、突如、豊臣軍の城が姿を表したんですね。この城は一夜にして完成したという逸話から、「石垣山一夜城」と称されますが、もちろん一夜で築かれたなんてことはあり得ないわけで、着陣早々から秀吉は小田原城から見えない場所に密かに築城を進め、城が完成したと同時に周りの樹木を伐採するといった演出を実行したため、それを見ていた小田原城の籠城兵たちは、まるで突然城が姿を表したとしか思えない錯覚に陥り、その秀吉の規格外な力を目の当たりにして、ますます士気が下がります。

 ここまでくればもはや勝負は決したも同然で、双方これ以上、無駄な血を流すことを避けるべく和議の方向へ舵を切ります。その交渉役に任じられたのが、ほかならぬ官兵衛でした。官兵衛は敵陣に向けて和睦の意を表した矢文を放ち、酒樽などの陣中見舞いを贈ると、北条氏政は返礼武器弾薬を送り付けてきました。ドラマでは、これは城内にまだ武器弾薬が有り余っているという、余裕を見せつけるための行為としていましたが、別の解釈では、もうこれ以上戦う気はないといった意思表示という見方もあるようです。いずれにせよ、これを好機とみた官兵衛は、ドラマのとおり、単身丸腰で小田原城に乗り込みました。その毅然とした姿に城兵は圧倒され、誰も官兵衛に矢を向けなかったと伝えられます。

 官兵衛の小田原城開城の説得に対して、氏政はなかなか首を縦に振らなかったといいますが、息子の氏直は開城命令を受け入れ、自らの命と引き換えに父・氏政と城兵の助命嘆願を行います。これを聞いた秀吉は大いに喜び、氏直の死罪は取り消しますが、氏政には切腹を命じました。また、氏直も切腹こそ免れたものの、無罪放免とはならず高野山に追放となります。秀吉は官兵衛の功績を大いに称えますが、官兵衛にしてみれば、氏政の助命を説得できなかったことが、多少心残りの結末だったかもしれません。

 ちなみに、ドラマでは官兵衛が出した和議の条件として、伊豆・相模・武蔵領の安堵とありましたが、これについては、『黒田家譜』『異本小田原記』など後世になって成立した史料にのみ見られる説のようで、最近では否定的な見方が強いようです。本領安堵を条件に和議を結び、あとで約束を反故にする・・・。なんか、数話前にも観たような話ですね。

 ちなみにちなみに、支城攻めに失敗した石田三成を秀吉が罵る場面がありましたが、三成が攻めた忍城は、小田原城の支城の中で唯一最後まで落城しなかった城で、最近では、映画『のぼうの城』でも描かれていた舞台ですね。吏僚としての才覚には長けていた三成ですが、武功には乏しく、その汚名返上とばかりに大規模な水攻めで臨みますが、結局小田原城の開城まで忍城は持ち堪え、三成の面目は丸つぶれとなった戦いです。それにしても、本作での三成は小者感丸出しですね。まあ、黒田家視点で見れば三成はああなるのかもしれませんが、仮にも関ヶ原の西軍の大将。ヒール役はいいとしても、もうちょっと、大物感があってもいいのかなぁ・・・と。

 そんな三成と武断派の確執が決定的となるのが、次週から描かれる「朝鮮出兵」です。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-10-07 00:52 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第23話「人質秀忠」

 豊臣秀吉は、徳川家康を通じて北条氏政北条氏直父子に対し再三上洛を求めていたが、北条氏は一向に従おうとしなかった。徳川氏と北条氏は、家康の次女の督姫を氏直に嫁がせ、同盟関係にあった。天正16年(1588年)、九州平定を終えた秀吉は後陽成天皇聚楽第に招き、諸大名の起請文をとった。これが北条氏への圧力となり、同年8月22日に北条氏規(氏政の弟)が上洛し、秀吉の謁見をうけた。氏規は懸案の上野沼田領問題が解決すれば、兄氏政も上京するといい、秀吉はともかく氏政を上京させよと要求した。沼田領問題とは、徳川・北条の両氏が和議した際、沼田領は北条氏の所領にすると決まっていたものを、家康家臣の信濃上田城を本拠とする真田昌幸が、沼田城の対岸には先祖代々の墓があるという理由で、この地から手を引かず、両者の間でもめていた問題のこと。このとき秀吉は、沼田領の三分の二を北条氏の領地とし、名胡桃(なぐるみ)の地は真田氏のものとすると裁定した。

 ところが翌年の天正17年(1589年)10月、沼田城の北条勢が、真田領の名胡桃城を攻略してしまう。これを聞いた秀吉は豊臣政権への反逆と見なし、11月、家康を通じて最後通達を氏直に送りつけた。これを受けた氏直は地位の確保・上洛の延期など強気な態度を示した。名胡桃城攻略は、秀吉が発した「惣無事令」に背いており、北条征伐の大義名分となる。もはや豊臣政権と北条氏の激突は避けられない状況にあった。

 そんな緊迫した状況下の天正18年(1590年)1月、家康の三男・徳川秀忠(竹千代)が上洛した。理由はドラマのとおり、北条征伐の準備が着々と進むなか、徳川家は娘の督姫を嫁がせるなど北条氏と同盟関係にあったため、豊臣家に誠意を見せるため、いわば“人質”として送り出されたもの。秀忠は、井伊直政酒井忠世内藤清成青山忠成を共に1月3日に駿府を立ち、13日に入京。その翌日の14日には、秀吉の実妹で家康の継室だった朝日姫が聚楽第にて病没しているので、ドラマのように臨終に立ち会ったかもしれない。その翌日の15日に、秀忠の元服の儀が行われたのもドラマのとおり。このとき秀吉の実母・大政所が直々に秀忠の髪を結ったというのも実話である。娘の死の悲しみも覚めやらぬ翌日に、政治的大役を任された大政所の心中は、どのような思いだっただろうか。

 この秀忠の上洛は、結局5日間という短さだった。秀吉にしてみれば、家康の誠意さえ確認できれば十分、秀忠を無事に帰国させることで、自身の心の広さを諸大名に知らしめることのほうが、この場合、効果的だったのだろう。家康も、そんな秀吉の性格をわかった上での秀忠上洛だったのかもしれない。5日間だけの人質・・・まさに、ドラマ中の秀忠の台詞どおり、「猿芝居」だった。

 めずらしく通説どおりの展開だった今話だが、ただ1点違うのは、肝心のお江は、この時期すでに豊臣秀勝再婚していたと思われる。したがって朝日姫の臨終に立ちあってもいなければ、秀忠と出会うこともなかった。このとき、お江17歳、秀忠11歳。二人が夫婦となるのはこの5年後、お江22歳、秀忠16歳のときである。一般に、温厚で従順な人物だったと伝わる秀忠だが、ドラマでの秀忠は、言いたいことをズケズケと口に出す少々弄れた男のようだ。お互いの第一印象は良くなさそうなお江と秀忠。今後の展開を楽しみにしたい。

 2月10日、北条征伐の先鋒を命じられた徳川家康は2万5千の東海道軍を率いて駿府城を出発、上杉景勝前田利家も東海道軍と連携する形で信濃から北条領国へ進行した。3月には秀吉自身も聚楽第を出陣、20日に駿河で家康と合流し、29日には松田康長山中城豊臣秀次率いる2万の軍勢で攻め掛かり落城、その後、足柄城・新城など次々に落城させ、小田原城包囲の体制を整えるべく石垣山に城を築いて本陣とした。

 有名な「小田原の一夜城」として知られる石垣山城は、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山の上に、約80日間で築かれたと伝えられる。その名の通り石垣を用いた本格的な城で、本丸、二の丸、西曲輪、馬出し曲輪などを備えていたという。ただし、天守閣まであったかどうかは定かではない。秀吉は小田原城攻めを急がず、余裕を見せつけるかのように、千利休淀殿ら愛妾を呼んで大茶会などを連日開いた。一方、上杉・前田の北陸軍も各諸城を撃破し、5月には河越城鉢形城が落城した。5月24日には氏規の韮山城も落ち、北条方の主要な支城は落城した。援軍も望めず孤立した小田原城中の籠城兵は、石垣山城を眼前に豊臣勢の強大さを思い知らされ、なし崩し的に内部崩壊。7月6日ついに小田原城は開城し、氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は家康の嘆願もあり高野山へ送られた。これにより、北条早雲以来、五代・百年に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅んだ。

 ここに、豊臣秀吉の天下統一は完全なものとなった。しかし、磐石なものとはならなかったことは、後世の知るところである。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2011-06-20 17:50 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

天地人 第12話「命がけの使者」

長引く内乱の越後。そこに北条氏政、武田勝頼と、まわりを取り巻く諸国の様々な思惑が錯綜する。
この情勢に便乗して、勢力を広げようとするもの。積年の遺恨をはらそうとするもの。戦とは、醜い「欲」のぶつかり合い。謙信の掲げた「義」など、そこには存在しない。
平成の現代においても似たようなもの。中東の終わりなき抗争と、それを取り巻く主要先進国の思惑。そこにもまた「義」の心などひとかけらも感じられない。人間とは醜いものである。

そんな中、今回も兼続は「こころ」で人を動かそうとする。
「人を従えるには、お金や腕力ではなく誠実なこころである。」ということを証明してみせる。
これは容易なことではない。しかし、偽善でもない。
利害で結びついた関係は、利害関係が成立しなくなればもろく崩れるもの。
力で従わせた関係は、いずれ力によって覆されるもの。
強い絆を作るには、やはり「こころ」で結ばれなければならないものだと思う。
私たちの社会においても、決して軽んじてはいけないことではないだろうか?
今回の兼続の行動を、「そんなに上手くいくもんか!」と鼻で笑う人は、おそらく本当の信頼関係を得ることが出来ないひとなのでは?
不肖、私も日々自己研鑽の途中ではあるが・・・・。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記バナーをクリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2009-03-23 00:39 | 天地人 | Comments(0)