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山崎合戦のまちを歩く。 その8 「山崎宗鑑冷泉庵跡~妙喜庵」

天王山登山口のすぐ横に、「山崎宗鑑冷泉庵跡」があります。

山崎宗鑑「俳諧の祖」と称される室町時代後期の歌人で、出家後、この地に隠棲していたと伝わります。


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宗鑑は本名を志那弥三郎範重といい、寛正6年(1465)頃に近江国で生まれたと伝わります。

生家は支那地区を幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、あの一休禅師とも親しかったとか。

しかし、義尚が佐々木高頼との合戦(鈎の陣)で没したため、世の無常を感じて剃髪し、入道となってここ山崎の地に隠棲したそうです。


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宗鑑は、この近くにある離宮八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、ここ冷泉庵での講を主催しながら、後世に知られた『犬筑波集』を生み出した。

また書も宗鑑流として多くの人々から珍重されたそうです。


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「霊泉連歌講跡」と刻まれた石碑の横には、宗鑑の句碑があります。


「うつききて ねぶとに鳩や 郭公(ほととぎす)」


この句は掛詞を巧みに使い、その手法は、のちの俳諧の基礎となったそうです。


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冷泉庵跡の南に位置するJR山崎駅の近くには、宗鑑が隠棲場所として建立したつ伝わる「妙喜庵」があります。

山号は豊興山

「妙喜禅庵」とも称します。


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ここには、二つの国指定文化財があります。

まずひとつは、千利休山崎合戦直後に建立したと言われる草庵風の茶屋「待庵」で、後世に多大な影響を与えた日本最古の茶室建造物であるとともに、日本に唯一現存している利休が建てたと確証できる茶屋として、国宝に指定されています。


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また、もうひとつは、室町時代の文明年間(1469年~1487年)に妙心寺霊雲院書院を模して建てられたとされた書院「明月堂」があり、こちらも国の重要文化財に指定されています。


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ただ、残念ながら、建物内を見学するには1ヵ月以上前からの予約が必要だそうで、無計画に訪れたわたしは、外観のみの見学です。

入口の説明書きによると、予約は往復ハガキで1ヵ月以上前に申し込み、見学時間は午前中のみで、高校生以下は謝絶とのこと。

めっちゃ厳しいやん!

まあ、利休ゆかりの国宝ですから、やむを得ないかな。


次回に続きます。



このシリーズの記事は、こちらから。

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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-13 17:14 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

千利休ゆかりの地めぐりと、その人物像に迫る。

今週の大河ドラマ『真田丸』で、千利休が切腹しました。

同作品の千利休は、これまでの作品で描かれてきた悟りを開いた高僧のような厳かな人物像ではなく、小田原合戦において豊臣方、北条方の双方に武器弾薬を売りつけるなど、悪徳商人まがいのいままでにないキャラでしたね。

実際の利休とは、いったいどんな人物だったのか。

そこで今日は、以前に訪れた堺の利休関連史跡を紹介しながら、その人物像に迫ってみます。


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写真は大阪府堺市にある千利休屋敷跡

阪堺電車宿院駅のすぐ近くのビルとビルの間に、異質な空間として残されています。


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千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商・魚屋(ととや)の当主・田中与兵衛の長男として生誕。

幼名は与四郎といいました。

17歳のときに北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事し、「わび茶」を大成させます。

その後、茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいます。

しかし、小田原合戦の後、何らかの理由で秀吉の怒りにふれ、自刃して果てます。

享年70。


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屋敷跡には「椿の井」が残っています。

この井戸は、利休が産湯につかったと伝えられるものだそうで、いまなお清水が湧き出ているそうです。


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井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだそうです。


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一般に「利休」という名で広く知られていますが、実は、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしています。

「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇(第106代天皇)から与えられた居士号です。


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同じく堺市内にある南宗寺には、利休一門の供養塔があります。

ここは、若き利休が修行したと伝わるゆかりの寺院です。


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豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきました。

しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界なんですね。

というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年(1936年)に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたんだそうです。

現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識ですが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったそうですね。

この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年(1940年)に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうですが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたそうです。

現代でも、大河ドラマの設定に難癖つける自称歴史マニアがたくさんいますが、あれと同じですね。

「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようです。

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海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきました。

そのなかでも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、利休の等身大の木像を紫野大徳寺の山門の2階に設置してその下を秀吉に通らせたという大徳寺木像事件や、利休が朝鮮出兵に強硬に反対したため疎んじられた・・・とか、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・などなど、どの説にもそれなりの信憑性はありますが、どれも決定力に欠けます。

のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いですが、はたしてそうだったのでしょうか。

最も信頼していた豊臣秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えられなくもありません(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。

その意味では、今回の大河ドラマでの「死の商人」として暗躍していた利休なら、じゅうぶん死罪に値しますよね。

ない話ではないのかな・・・と。


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中央に利休の供養塔、左右に表千家、裏千家、武者小路家の供養塔があります。


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こちらが利休の供養塔です。


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「天正19年 利休宗易居士」と刻まれています。


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隣には、利休の師匠である武野紹鴎の墓があります。


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利休が愛した茶室「実相庵」です。


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その前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」があります。


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結局のところ、千利休という人物については茶道千家流の始祖ということ以外はなんですね。

その人物像がどうだったのか、切腹させられた理由がなんだったのか、そもそも、豊臣政権において利休の存在がどの程度の影響力を持っていたのか、すべては想像するしかありません。

千利休=芸術界の巨人という今日の常識自体が、実は後世が創りだした虚像かもしれませんね。


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ちなみに余談ですが、ここ南宗寺には、実は大坂夏の陣で死んでいた徳川家康がここに埋葬されたという伝承があります。

以前の稿ですが、よければ一読ください。

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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-29 18:11 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第25話「離別」 ~豊臣秀長、鶴松の死、千利休の切腹~

e0158128_19071167.jpg小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近中の側近だった千利休を自らの命によって切腹させるに至り、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年となります。

 秀長が病没したのは1月22日。温厚篤実な人物だったと伝わる秀長は、秀吉の数少ない一族のナンバー2として、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、から豊臣政権を支えました。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたといい、まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だったといいます。その秀長を失ったことで、秀吉はブレーキが効かなくなった車のように暴走し始めます。その手始めが、千利休の切腹だった・・・というのが、これまでの一般的な描かれ方でした。

e0158128_19072829.jpg 秀吉が利休を切腹させたことは歴史上の事実ですが、その理由については定かではなく、これまで小説やドラマなどで描かれてきた設定も、すべて作家さんの想像の世界です。一般的には、朝鮮出兵に強硬に反対したため・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、紫野大徳寺の山門に置かれた利休等身大の休像が秀吉の逆鱗にふれた・・・といった描かれ方が多かったと思いますが、今回のドラマでは、小田原城攻めにおいて利休が豊臣軍、北条軍の双方に弾薬を売りつけていたことが露見するという設定でした。

「いくさは儲かりまっせ。」

 いわゆる「死の商人」ってやつですね。今も昔も、戦争を食い物にする営利団体がいる限り、戦いは世の中から消えません。今回、それを利休にやらせていたのは斬新でした。実際、堺の商家の出といわれる利休ですから、ない話ではありません。悟りを開いた高僧のようなキャラに描かれることの多い利休ですが、実は、それらの人物像というのは、すべて後世の虚像に過ぎません。今回のダーティー利休、あながち的外れでもないかもしれません。

また、利休を切腹に追いやったのは、利休をはじめ堺の商人の力を失墜させようという石田三成大谷吉継策謀という設定。これも秀逸でしたね。実際、利休の豊臣政権への影響力を、三成ら吏僚たちは苦々しく思っていたといいますから、これも、ない話ではないように思えます。それも、積極的に利休を追い込んだのは三成ではなく、吉継だったというのも面白かった。冷徹なキャラで描かれることの多い三成ですが、今回のドラマでは、加藤清正福島正則の誘いに応じて水垢離に付き合ったりと、ときおり人間味が見え隠れします。

e0158128_19074758.jpg そして同じ年の8月5日、秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去します。鶴松は生まれつき虚弱で床に伏すことが多かったといわれ、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、全国の寺社に祈祷を命じますが、その甲斐むなしく、わずか2年2ヵ月の生涯を閉じます。このときの秀吉の落胆ぶりは傍目にも痛々しいもので、一説には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったともいわれます。実際、鶴松の死の直後すぐに肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになっていきます。悲しさを紛らわすために無理矢理仕事に没頭する・・・。同じ男としてわかるような気がしますね。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれますから、鶴松の夭逝は決して珍しい話ではありませんでしたが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくありません。鶴松の死は、豊臣家にとっての不幸であるとともに、日本の不幸だったといえるかもしれません。わずか2年2ヵ月しか生きていない鶴松自身が、歴史上に何かを残したということは当然ありませんが、彼が生まれたことによって歴史が大きく動いたことは間違いなく、日本史上に大きな存在感を残しました。人生というのは、つくづく長さじゃないんですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-27 19:09 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第41話「男たちの覚悟」 ~支那征服の企図と千利休の切腹~

 小田原征伐を終えて天下統一を果たした豊臣秀吉は、かねてからの夢だった(と秀吉自身は言う)への進出を企図します。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。

 まず秀吉は、朝鮮半島に近い対馬の宗義智に、李氏朝鮮を服属させるように命令します。宗家は、秀吉の九州征伐の折に秀吉に従ったため、対馬一国を安堵されていました。しかし、一方で宗家は、李氏朝鮮とも交易での深い繋がりがあったのです。秀吉の命令に背くことはできないが、李氏朝鮮との関係も拗らせたくない義智は、天下統一を果たした秀吉に対する祝賀使節を送るよう李氏朝鮮に依頼し、秀吉には、これを服属使節だと偽って謁見させます。義智にとっては苦肉の策だったのでしょう。

 使節に謁見した秀吉は、までの道案内を要請します。しかし、いうまでもなく使節はこれを拒否します。李氏朝鮮は明の属国なので秀吉の明征服事業に手を貸すはずがありませんし、そもそも李氏朝鮮は秀吉に服属した事実はなく、ただ祝賀を述べに来ただけなのですから、拒否するのは当然ですよね。怒った秀吉は、明を攻める前に李氏朝鮮に攻める決断をします。

 この朝鮮出兵は、口には出せないものの多くの諸将が反対でした。そんななか、面と向かって秀吉に反対意見を述べていたのが、千利休だったといいます。そんな利休を疎ましく思ってか、秀吉と利休の間には、かつてのような信頼関係は消え、いつしか深い溝が出来ていたといいます。

 そんなとき、秀吉の周りでは良くない出来事が次々に起こります。まずは実弟・豊臣秀長病死。秀吉にとっては、これから豊臣家の天下を盤石なものにしようというときに、片腕をもがれたような痛手だったに違いありません。

 さらに時を同じくして、最愛の嫡子・鶴松が病に倒れます。鶴松は生まれつき病弱だったといいますが、このときの病状はよほど深刻だったようで、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣しました。この参拝の折、ドラマで石田三成が言っていた利休の等身大の休像を見つけます。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じます。そして、天正19年(1591年)2月28日、秀吉の命により利休は切腹します。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされてにされた木像に踏ませる形で晒されたと伝えられます。秀吉の利休に対する感情は、怒りを通り越して激しい憎悪が感じられますね。単に、朝鮮出兵に関して出過ぎたことを言ったから、という理由だけではなかったんじゃないかという気がします。もっと根深い何かがあったんじゃないかと・・・。歴史の謎ですね。

 利休の切腹から約半年後の8月5日、鶴松が死去します。享年3歳。落胆した秀吉は、「利休に腹を切らせたバチが当たったんじゃ・・・」と言っていましたが、きっと本当にそんな気分だったでしょうね。子を思う親心は、今も昔も変わりありません。ましてや、50歳を超えてからの待望の愛児の死ですから、そのショックは察するに余りあります。その悲しさを紛らわせるためか、同年10月、秀吉はいよいよ朝鮮出兵の準備にとりかかります。

 秀長、利休といった両翼を失い、愛児・鶴松をも失った秀吉は、もはや誰も諫めることの出来ない孤独な独裁者になろうとしていました。

 利休の死については、3年前の拙稿(江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」)で、また、鶴松の死についても、同じく(江~姫たちの戦国~ 第25話「愛の嵐」)でふれていますので、よければ一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-14 23:19 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第33話「傷だらけの魂」 ~荒木村重の最期~

 今回は荒木村重の晩年についての話がメインでしたね。織田信長との戦いに敗れた村重は、毛利氏に亡命し、尾道に隠遁して再起を図っていたといいますが、その後、本能寺の変で信長が横死すると、堺へ移り住み、千利休らとの交流を得て茶人として暮らします。もともと村重は、織田家に仕えていた頃から茶は嗜んでおり、その師は、利休の師のひとりでもある武野紹鴎だったともいわれます。有岡城籠城戦から脱出の折、愛する妻子は置き去りにしても大切にしていた茶道具は持ちだした、というエピソードが残っていますが、このときの茶器は「荒木高麗」と呼ばれ、現代に残されています。妻子の命より重い茶器など、現代の私たちにはまったく理解できませんが、当時、銘器と呼ばれるものには、城をひとつ買えるほどの価値があるものもあったようですから、あるいは、城を捨てて敗走する村重にとっては、再起のための大切な資金源だったのかもしれませんね。

 茶人として堺に移り住んだ村重は、名を荒木道薫と号し、豊臣秀吉御伽衆として仕えます。はじめは、自らの過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗っていたそうですが、秀吉に「道薫」と改名させられたとか。御伽衆とは、主君の側近として仕える相談役のような存在で、政治や軍事などのざまざまな分野の経験豊かなスペシャリストが任命される役職です。秀吉は読み書きがあまり得意ではなかったといわれ、それを補うための耳学問として御伽衆を大勢雇っていたと伝えられます。たしかに村重の経験は、ある意味、数奇といえますよね。御伽衆としては、恰好の人材だったかもしれません。

 茶人としても、「利休十哲」のひとりとして名を連ねるほどだったようですが、結局その後の人生は短く、秀吉が関白に就任した1年後の天正14年(1586年)5月に死去したと伝えられます。享年52歳だったと言われますが、信長より年上だったという説もあり、正確なところは定かではありません。一族を皆殺しにされてなお、ひとり生き延びていた最後の数年間はどんな思いだったのか、当人以外にはわかるはずもないですね。一説には、村重が自害しなかったのはキリシタンだったから、とも言われますが、だとすれば、死にたくても死ねない境地は地獄の苦しみだったでしょうね。

 村重とだしの間に生まれた子で、有岡城落城の際に生後間もない赤児だった男児は、乳母に救い出されたのち石山本願寺に保護され、後年、岩佐又兵衛と名乗り、浮世絵の祖とも言われるほどの高名な絵師としてその名を残します。あと、ドラマには出てきませんでしたが、村重には尼崎城花隈城をともに戦った嫡男・荒木村次がいますが、村次も豊臣政権時代まで生き延びていたようです。また、細川忠興に仕えた荒木善兵衛という人物も、村重の子だったという説もあるようですが、真偽は定かではありません。

 荒木村重という人物は、織豊時代の物語を描く上で外せない人物で、過去の大河ドラマでも何人もの俳優さんが演じて来られましたが、今回ほどクローズアップされた作品はなかったんじゃないでしょうか。大概は本能寺の変の伏線として少し描かれるだけですからね。ところが、本作品は黒田官兵衛が主役ということもあって、重要な登場人物として前半の準主役の如くフィーチャーされました。無謀とも言える謀反を起こし、官兵衛を幽閉し、挙句は一族を見殺しにし、しかし自身は信長の死後も生き延びた村重という人物を、後世は高く評価しません。しかし、本作はそんな村重の生き様を、上手く描いていましたね。謀反に至るまでの心境の変化、本能寺の変後の生き恥のさらし方、少しは共感できる部分があったんじゃないでしょうか。村重にとっては、汚名返上の作品でしたね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-18 19:57 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第12話「茶々の反乱」

 前話の稿で、お江たち三姉妹がこの時期どこで過ごしていたかという説について、羽柴秀吉の庇護の下で摂津大坂城山城伏見城に暮らしたという説や、京極マリアに預けられ安土で過ごしたとする説、また、京極龍子の後見のもと京都にいたという説があると紹介したが、その後調べたところ、柴田勝家お市の方が落命したのが天正11年(1583年)4月で、大坂城の築城が始まったのが同年9月、本丸御殿が竣工したのが翌年8月のようで、その頃には既にお江は嫁いでいることから、三姉妹揃っての大坂城という説はないようだ。ドラマでは安土城説を採用しているが、この時期、山崎城を居城としていた秀吉が、そう頻繁に安土に足を運んでいたとも考えづらく、また、秀吉の正室・お寧や京極龍子も同居しているというドラマの設定から考えても、舞台を山崎城とした方が、無理がなかったのではないかと思う。

 秀吉を頑なに拒絶するお茶々お初お江。当然、今話は完全オリジナルのストーリーだが、父、母、義父の仇である秀吉の庇護の下で暮らす生活というのは、そう簡単に割り切れるものではなかったであろうことは想像できる。ドラマでは多少コミカルに描かれてはいたものの、彼女たちの秀吉に対する感情という意味では、遠からずではなかっただろうか。秀吉に媚びるくらいなら、いっそ殺されたほうがマシ・・・ぐらいに思っていたかもしれない。このときお茶々は14歳、お初は13歳、お江は11歳。のちにお茶々が秀吉の側室になるのは天正16年(1588年)頃といわれており、このときより5年後のこと。秀吉がいつ頃からお茶々を見初めていたかはわからないが、お茶々にしてみれば、はじめから秀吉の側女になることを望んでいたわけでは当然ないだろう。一説には、秀吉がお茶々を側女にするために、邪魔な妹たちを次々と他家に嫁がせていった・・・ともいわれる。側室になるまでの5年間を、お茶々はどんな思いで過ごしていたのか、また、どのように心が移り変わっていったのか、後世の私たちには想像する以外に知る術はない。このドラマでは、その5年間をどう描いていくか・・・今後の展開を楽しみにしたい。

 母の仇を討ちたいというお茶々に対して、憎んで刃向かっているだけでは、所詮は相手と同じレベル、同じ高さだと千宗易はいう。
 「もひとつ上に行くには、相手を受け入れ、いっそ呑み込んでしまわななりまへん。敵より大きゅう太うなるんです。そやないと、倒す、殺すなど到底できませんわ・・・今はこらえて、静かに爪を研ぐときと違いますかな。」
 憎い相手と関わらずに生きられるなら、それもいい。許しがたい相手を排除してしまうほどの力があるなら、それもありだろう。しかし人生には、そんな敵を避けて通れない場合が往々にしてある。そんな場合、いちいち刃向かって、拒絶しながら生きていけるか・・・。それでは、自分の立ち位置は何も変わらないばかりか、場合によっては、相手から自分が排除されるかもしれない。宗易のいうとおり、真に敵に立ち向かうには、まずは相手を受け入れ、己の立ち位置を変えなければならない。そうして敵より力をつけてこそ、初めて煮るなり焼くなり好きにすればいい。しかし、真に敵より大きく太くなったときには、きっと憎しみは消え失せているものだろうと思う。人を憎いと思う気持ちは、所詮は現状置かれた己の立ち位置から生じるものだと思うから・・・。

 千宗易について少しだけ。一般に「利休」という名で広く知られる彼だが、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしている。「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇から与えられた居士号である。江たち三姉妹が秀吉に庇護されたこの時期にはまだ「利休」という名は存在せず、ドラマのとおりである。

 織田信長豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。その悲劇の最後からも、秀吉の物語には欠かせない存在の彼だが、意外にも、その出典はさほど古くはなく、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 何かと批判の声が多い、今年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国』。新しい解釈には、いつの時代も批判が集中するものである。そうした批判を受けながら、歴史認識は出来ていくといってもいい。今日の常識といわれるものも、非常識と批判されたときがあったということを知ってほしいと思う。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-06 19:44 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(37)  

天地人 第30話「女たちの上洛」

 天下人となった秀吉の愚行は数々あるが、その中でも朝鮮出兵と並んで最も不評なのが、この千利休を死に追いやった行い。秀吉は貿易の利益を独占するため、堺に対し重税をかけるなど圧力を加え、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は疎ましく思い始める。茶の湯に部分でも、秀吉が愛した「黄金の茶室」は、利休が愛する木と土の素朴な草庵とは対照的。そんな利休との思想的対立が深まっていく。本物語では省略されていたが、利休が切腹を命じられる約1カ月ほど前に、秀吉の最も信頼する弟、秀長が病死している。秀長は秀吉以上に利休を重用していた。利休と秀吉とを結ぶ太いパイプを失ったわけである。

「頭を下げてでも守らねばならぬものがある」と、景勝。
「頭を下げれば守れぬものもございます。」と、利休。
どちらも強い意志から出た「心の言葉」である。

「頭を下げてでも守らねばならぬもの」とはいったいどんなものだろう。
それは愛する家族や恋人、経営者であれば従業員・・・・つまり、「人」である。
それでは「頭を下げれば守れぬもの」とはいったいどういうものか。
それは、信念やこだわり、己の培ってきた道など・・・・つまり、「自分」である。
国主である景勝と茶人である利休。それぞれのおかれた立場から出た「心の言葉」である。

 私たちの社会において、「頭を下げてでも守らねばならぬもの」は、大人であれば大なり小なり背負っているもの。しかし、「頭を下げれば守れぬもの」は、大人になるにしたがって、失ってしまうことが多いのではないだろうか。
 非業の最期を遂げた千利休。しかし、生涯「自分」を守り続けることが出来た彼は、秀吉より幸せだったかもしれない。



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by sakanoueno-kumo | 2009-07-27 01:58 | 天地人 | Trackback | Comments(0)