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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~

姫路城の西北にある「千姫天満宮」を訪れました。

ここは、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。


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長男・幸千代をわずか3歳で亡くし、夫・忠刻も病気がちになると、千姫は化粧櫓から望むことのできる男山に天満宮を建立し、跡継ぎの誕生と、夫の回復を毎日のよう、西の丸長局の廊下から朝夕祈り続けました


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城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。


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千姫天満宮から少し山を登ると、男山天満宮があります。

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ここは、天正元年(1436年)に最初に姫路城を築いたとされる赤松貞範が、城の鎮守社としてここ男山の山頂に建立したもので、歴代の城主が信仰したと言われます。


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石鳥居は第34代目の姫路城主・榊原政邦が正徳6年(1716年)に建てたものだそうです。


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で、ここからさらに長い階段をのぼると、頂上に水道水を市街地に配水している池があるのですが、そこが市民憩いの公園になっています。


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階段を登り切ると視界がぱっと開け、振り返った眺望がこれ。↓↓↓


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みごとな絶景です。

ここからの城の眺望は、姫路城十景のひとつとされています。


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ここを訪れたのは夕方だったのですが、西陽を受けた姫路城もまた美しいですね。


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ここに来た目的は千姫天満宮で、ここへ来るまでこの公園の眺望は知りませんでした。

めっちゃ得した気分です。

シリーズはもうちょっと続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-02 19:44 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~

三の丸南側に、武蔵野御殿跡があります。

ここはかつて、千姫の居館があった場所だそうです。

屋敷内にあった襖には、武蔵野の風景を思い起こされるすすきが描かれていたことから、「武蔵野御殿」と呼ばれるようになったそうです。

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徳川家康の孫娘である千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしましたが、周知のとおり大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣家は滅亡します。

落城間際の大坂城から助け出された千姫は、夫の死を悲しむ暇もないまま、今度は本多忠政の嫡男・忠刻と再婚させられます。

千姫20歳、忠刻21歳のときでした。

千姫は、忠刻とのあいだに一男一女をもうけ、束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。

その後、江戸城にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送りました。

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千姫の実母は、浅井三姉妹の三女・お江、叔母であり義母となったのは、あの淀殿ですね。

ということは、祖母にあたるのが織田信長の妹・お市の方ということになります。

いずれも、戦国の世の政局に翻弄されて波乱万丈の生涯を送った女たちばかり、数奇な一族といえます。

いずれ、千姫を主役にした大河ドラマが作られるんじゃないでしょうか?

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西の丸の西側の掘り沿いに、「千姫の小径」と呼ばれる散歩道があります。

実際にここを千姫が歩いたというわけではないと思いますが、千姫ゆかりの化粧櫓を西側から眺めながら、自然を感じて散策できる遊歩道になっています。

小径の最北端には、千姫と忠刻の連歌が刻まれた石碑がありました。

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初秋の風を 簾にまきとりて (忠刻)

軒はにおふ 竹の葉の露 (千姫)

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この歌は長男幸千代が生まれ、千姫が幸せに包まれていたときに詠まれた句で、軒までのびた竹にこの幸せがずっと続くようにと、想いが込められています。

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晩年の千姫は、「忠刻と暮らした姫路城での10年間が、生涯でいちばん幸せだった」と語っていたとか。

わずかでも、幸せな時間があったことが救いですね。

次回に続きます。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
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by sakanoueno-kumo | 2016-02-26 23:37 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~

西の丸庭園にやってきました。

ここは、池田輝政に変わって城主となった本多忠政が、大坂夏の陣のあと将軍・徳川秀忠の息女・千姫を娶った嫡男・本多忠刻のために御殿を建てた場所で、「中書丸」とも呼ばれていました。

「中書」とは、忠刻の官職・中務大輔の唐名だそうです。


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ここからの天守の眺めが最高なんですよね。

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時代劇をよく観る方は、なんとなく見覚えないですか?

実は、テレビドラマ『暴れん坊将軍』に毎回出てくる江戸城は、ここから撮影した姫路城なんです。

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拡大です。

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さらに拡大。

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西の丸庭園を囲むように築かれている長屋は、通称「百間廊下」ともいわれ、約300mの長さがあるそうです。

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天守から見下ろした「百間廊下」はこんな感じ。↓↓↓

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建物内には、城外側に廊下、城内側が部屋になっていて、西の丸で働く女中が住んでいたと考えられています。

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中はこんな感じで、長い廊下が続いています。

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部屋はこんな感じの板の間です。

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長局の北端には、他の部屋とは異なって広くて畳敷きの開放感のある空間があります。

ここは、「化粧櫓」といい、千姫が忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部で建設されたと言われる櫓です。

千姫が城の北西にある男山天満宮を遥拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したと言われています。

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部屋内には、千姫と女中が百人一首を楽しんでいる人形が展示されています。

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知ってのとおり、千姫の生涯は波乱万丈でした。

その話は、また別の稿に譲ることにしましょう。

次回に続きます。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-12 20:27 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第44話「江戸城騒乱」

 豊臣秀頼と正室・千姫の間に子供はいなかったが、秀頼は側室・伊茶との間に一男一女をもうけていた。慶長13年(1608年)生まれの長男は名を国松といい(偶然か否か徳川秀忠お江の間に生まれた次男と同名で、歳も近いのでややこしい)、慶長14年(1609年)生まれの長女は、名を奈阿姫という(彼女は別の側室・小石の方の生んだ子という説も)。もっとも、この二人の存在は淀殿をはじめ、ごく一部の者しか知らされていなかったようで、正室の千姫も大坂冬の陣以前は二人の存在を知らなかったともいわれる。慶長8年(1603年)、数えの7歳で秀頼のもとに輿入れした千姫は国松が生まれたときでもまだ13歳。側室や子供の存在を知らされてなかったとしても、頷ける話である。

 といっても秀頼と千姫が形だけの夫婦だったわけでもなさそうで、子供が生まれなかっただけで、仲睦まじい夫婦だったといわれている。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしている姿を侍女が目撃した、という逸話も残されている。考えてみれば、秀頼は11歳から23歳、千姫は7歳から19歳までを二人で共に過ごしたわけで、その関係は夫婦というより幼馴染兄妹のようなもので、特に千姫にとっては徳川家で母・お江と共に過ごした日々よりはるかに長く、ほぼ人生の全てといってもいいほど。19歳の千姫にとっては、秀頼はかけがえのない存在だっただろう。

 そんな秀頼が大坂夏の陣自刃し、千姫は徳川方に救出されて生き延びることとなった。彼女自身が生きる道を望んだかどうかはわからないが、正室としてその最期を共にで出来なかったことに、きっと罪悪感を感じたことだろう。秀頼落命後、その長男・国松は徳川方に捕らえられ、市中引き回しのすえ斬首されたが(享年8歳)、長女の奈阿姫は千姫の懸命な助命嘆願が功を奏し、出家して子を残さないことを条件に生を許される。この当時、男子は父親のもの、女子は母親のものという考え方があった。父の正室のことを嫡母といい、秀頼の正室である千姫は奈阿姫の嫡母。その嫡母の千姫が母親代わりとなることを主張されれば、秀忠らも許さざるを得なかっただろうと想像する。当然、淀殿の孫で織田家浅井家の血を引く奈阿姫の助命は、お江も切望するところだったに違いない。

 その後、しばらくの間千姫と共に過ごした奈阿姫だったが、翌年に千姫が本多忠刻のもとに再び輿入れすると、彼女は相模鎌倉の東慶寺での修行生活に入り、天秀尼と名乗った。東慶寺は臨済宗の尼寺で、弘安8年(1285年)に覚山志道尼が開山した格式高い尼寺だった。そんな天秀尼と東慶寺に、その後も千姫は色々と庇護を加えたという。のちに天秀尼は第20世の住持(住職)となり、東慶寺の発展に功績を残す。東慶寺は離婚を希望する女性の駆込寺としても有名だが、千姫の庇護を受けていた天秀尼は江戸幕府と交渉しつつ、寺法の整備不幸な女性の保護に尽力した。しかし、出家した尼であるため生涯結婚することなく、正保2年(1645年)に37歳の若さで病没する。彼女の死によって、豊臣秀吉の直系は断絶した。長く母親がわりをつとめた千姫は、天秀尼病没の報に接して、きっと嘆き悲しんだことだろう。

 20歳で本多忠刻と再婚した千姫は、一男一女をもうけ束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。同じ年、実母であるお江も病没するなど不幸が続き、娘の勝姫と共に本多家を出て江戸城に入る。江戸にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送った。

 織田家徳川家の血を引き、豊臣家と契りを結んだ戦国最期の姫君・千姫。その長い人生の最期を迎えたとき、半世紀以上前の秀頼との生活を顧みて何を思っただろうか。残念ながら彼女の心を後世に伝えるものは、何も残されていない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-16 11:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第37話「千姫の婚礼」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに大勝利を収めた徳川家康は、同8年(1603年)2月12日に朝廷より征夷大将軍の職に任ぜられ、事実上、江戸を中心とした武家政権を開始した。一般にこれを「幕府を開く」というが、この時代に「幕府」という言葉はまだ一般的ではなかった。そもそも「幕府」という言葉は、おとなりの中国の戦国時代に、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。その「幕府」の名称が、中央政庁の意味を表すようになったのは、「藩」と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられ始めたらしい。よって、「鎌倉幕府」「室町幕府」という言葉は後世の人によって作られた名称で、当時の人々が中央政庁のことを「幕府」と呼んだことはなく、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。

 征夷大将軍とは朝廷から任命されるもので、簡単にいえば武家の棟梁。もともとは地位ではなく職務を表すもので、常置の官職でもなく、いってみれば軍隊の司令長官のようなものだった。ところが源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、征夷大将軍が天皇に代わって政権を担うことが慣例となり、国家元首はあくまで天皇、そして政を司るのは将軍という、現代でいうところの内閣総理大臣のような立場になった。しかし厳密にいえば、総理大臣に任命されたら直ちに内閣を組閣しなければならないが、征夷大将軍に任命されたからといって、必ずしも幕府を開かなければならないという決まりはなかった。

「あくまで秀頼様が関白におなりあそばすまでのこと。いわば、仮の将軍にございまする。」

 もし将来、豊臣秀頼が関白に就任することあらば、征夷大将軍より地位は上になるわけで、家康のこの白々しい言い訳も、この時点では筋の通らない話ではなかった。しかし、実質的には関ヶ原の戦い以降、徳川家と豊臣家の力関係は逆転しており、この将軍就任の報が豊臣家や諸大名に与えた衝撃は大変なものだったであろう。豊臣恩顧の大名のなかには、純粋に豊臣家の御為と思って関ヶ原の際に徳川方に与した武将もいたわけで、そんな彼らにしてみれば、騙された感に打ちひしがれたことであろう。

 そんな家康の策略だったのか、はたまたドラマのとおり死んだ豊臣秀吉の遺言だったのか、徳川秀忠・お江夫婦の間に生まれた長女・千姫が、豊臣秀頼のもとへ輿入れする。秀頼11歳、千姫7歳のときだった。いうまでもなく、2人は従兄妹関係である。千姫は、祖母のお市の方聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。その千姫の輿入れに、母親のお江が同行したというのは史実にあるとおり。7歳といえば現代の小学1年生で、母親にしてみれば心配するなという方が無理な年齢で、お江が同行してきたのも無理はなかったかもしれない。ただ、これもドラマにあったように、お江はこのとき妊娠8ヵ月の身であった。今のように出産前に性別がわかるわけもなく、この時点では徳川家の跡継となる男児を身篭っているかもしれなかったわけで、そのことを考えれば、よくぞ秀忠はこの妻の長旅を許したものである。そんなことからも、秀忠・お江夫妻が千姫のことをどれほど愛していたか、どれほど案じていたかが感じ取れる。しかし、こののち千姫も、母たち三姉妹に勝るとも劣らない波乱万丈の生涯を送ることになるのだが、それはまた別の機会に・・・。

 このときお江が出産した子も、また女児であった。そしてその娘はドラマのとおり、姉のお初の養女として育てられる。名は養母と同じく、初姫。この初姫のことについては(第30話「愛しき人よ」)の稿で少しふれているので、よければそちらを一読いただきたい。そしてもう一人の姫君、お江と2人目の夫・豊臣秀勝との間に生まれ、お江が徳川家に嫁いで来る際、姉・淀殿のもとに置いてきた娘・完子のことについても、(第27話「秀勝の遺言」)の稿で既述しているので、よければ・・・。

 さて、次週いよいよ春日局が登場するようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-26 02:26 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(2)  

天地人 第46話「大坂城炎上」

 豊臣秀頼の正室で徳川家康の孫でもある千姫。織田信長の妹・市と浅井長政の孫でもあり、再来年の大河ドラマの主役・江の娘でもあり、淀殿から見れば姪にあたり、秀頼にとっては従兄妹でもある。つまり彼女の身体には織田・浅井・徳川の血が流れているわけで、彼女自身が戦国ドラマの結末といってもいいかもしれない。そんな血を引く千姫自身もまた、数奇な人生を歩むことになる。

 関ヶ原の合戦の後、7歳で秀頼に嫁いだ千姫。徳川と豊臣をかろうじて結ぶ唯一細い糸の存在だったわけだが、秀頼との仲は決して細いものではなく、非常に仲睦まじい夫婦だったという。同じく幼かった秀頼との関係は、夫婦というより兄妹のような信頼関係にあったとか。しかし、無情にも歴史はその細い糸を引き裂く道を選ぶ。大坂夏の陣において大坂城落城。秀頼と淀殿は自刃し、豊臣家は滅亡する。このとき千姫は19歳。ドラマ中では真田幸村が救い出し、兼続が家康の陣に送り届けていたが、実際には津和野藩主・坂崎直盛が救出したとの説が有名(この説も確証はないようだが・・・)。家康はこのとき「千姫を救出した者と千姫を結婚させる。」との言葉があったとか。若き日の家康は自身の正室と嫡男をも信長に対する忠義で殺した男だが、年老いたとはいえ、孫娘に対する愛情は深かったようである。

 その翌年20歳になった千姫は、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚。ほどなく姫路城に移り住み、一男一女をもうける。新しい夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、これで幸せな日々を送れるかと思ったのもつかの間、長男・幸千代がわずか3歳で没し、その後流産を繰り返し子宝に恵まれず、やがて夫・忠刻も没し、30歳で再び未亡人に。その後は再婚することもなく70歳まで生きる。祖母であるお市の方や、叔母である淀殿の波乱に満ちた生涯に勝るとも劣らない数奇な人生。その血を引いた彼女の宿命だったのかもしれない。

 大阪城落城を目前に、淀殿は千姫に対して逃げることを命じる。
 「千・・・家康めに申し伝えよ。豊臣は慈悲の心を持って、真の天下人となるとな。」
 千姫と淀殿・秀頼の別れの際にどのような会話があったかなど、後世の私たちには知る由もないが、その後、秀頼と側室の間の娘が処刑されそうになった時に、千姫は身体をはって必死の助命嘆願を行い、彼女を自らの養女にして命を助けたという逸話を思えば、豊臣の慈悲の心は千姫に受け継がれており、後世の私たちのうかがい知れるところである。

 それにしても家康の最後の涙はいかがなもんだろう。ここまできたら最後まで悪役を徹底してほしかったと思ったのは私だけだろうか。あの程度の説教で反省する家康など、本ドラマではあって欲しくなかった!

 そんなこんなで次週、最終回。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-17 01:01 | 天地人 | Trackback | Comments(0)