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山崎合戦のまちを歩く。 その11 「明智光秀本陣(境野1号墳・恵解山古墳)」

石碑のある公園から北東へ500mほど歩いたところに、山崎合戦において明智光秀本陣を布いたと考えられている場所があります。


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『太閤記』の記述に、光秀の本陣は「御坊塚」に布かれたとありますが、その「御坊塚」というのが、かつてこの地にあった境野古墳群のなかの境野1号墳と推定されているそうです。


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現在、古墳はサントリーの工場敷地内になっており、中には入れません。

フェンスの外に、説明看板が建てられているだけです。


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ただ、その横には墓地があり、そこにはかなり古い墓石や祠がありました。


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地蔵はいつの時代のものでしょう・・・あるいは、合戦を知っているかもしれませんね。


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また、光秀本陣と考えられているもうひとつの説として考えられているのが、境野1号墳から500mほど北上したところにある恵解山古墳(いげのやまこふん)です。

こちらは大山崎町のお隣の長岡京市になります。


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もともと、2つの説があって結論をみていなかったそうですが、平成23年(2011年)の発掘調査で、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡、幅4~5m、深さ約2mで、49mにわたる堀跡などが見つかったそうで、現在では、こっちの説のほうが有力になりつつあるようです。


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全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mの前方後円墳で、幅30mの周濠を持ちます。

陣城(付城)として使用するには、最適な大きさなんじゃないでしょうか。


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現在は史跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。


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すぐ北側にある歩道橋から撮影した眺望です。


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歩道橋には、古墳及び山崎合戦を紹介する説明板がありました。


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墳丘の上から見た天王山です。

いまは建物がひしめき合っていますが、当時は、ここから天王山の麓までが開けていて、合戦の舞台になりました。

光秀はこの地で、次々に敗走する自軍の兵を見ながら、何を思っていたでしょう。

次回に続きます。



このシリーズの他の記事は、こちらから。

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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-22 18:16 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

明石海峡を望む神戸市垂水区西舞子の標高30mの丘陵地に、大歳山遺跡公園があります。

ここは、「明石原人」の発見者として著名な考古学者の故・直良信夫博士によって、大正末年から昭和初期にかけて発掘調査された遺跡です。

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この丘陵地に、「大歳山2号墳」と名付けられた全長37m前方後円墳があります。

調査によると、古墳時代後期(6世紀頃)に造られたと考えられているそうで、古墳の上や周辺からは、須恵器の坏、高坏、瓷などが出土しているそうです。
向こうに見えるのは、明石海峡大橋です。

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「2号墳」というくらいですから、当然、「1号墳」も存在したようですが、いまは住宅開発に埋もれてしまい、詳細は不明です。

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この周辺からは、縄文時代弥生時代土器などがたくさん発掘され、近畿地方で有数の遺跡として知られていましたが、昭和40年代の宅地造成により、消滅の危機に瀕しました。

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しかし、遺跡を守ろうとする多くの人々の努力もあって、弥生時代後期の集落と「大歳山2号墳」を含む遺跡の中心部、約8,000㎡を神戸市が買い取り、昭和49年(1974年)に遺跡公園として開園しました。

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公園内には、発掘調査で出土した竪穴式住居が復元されています。

「大歳山2号墳」の後円上から望む明石海峡大橋です。

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このような見晴らしのいい丘陵地に葬られた人物ですから、さぞかし身分の高い人だったのでしょう。

まさか、ここに世界一の吊橋が出来るなんて、古代人もビックリでしょうね。

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ここから1kmほど東に舞子墓苑という墓地があるのですが、そこにも、舞子古墳群と称される10数基の古墳が点在しています。

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かつては100基前後の古墳が存在したのだとか。

1500年近く経ったいまでも、墓地は墓地なんですね。

いにしえの歴史を感じます。

神戸の古墳は他にもまだあります。

気が向いたときに、また続きやります。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-08 11:14 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~

神戸市東灘区御影町に、処女塚(おとめづか)古墳という全長約70m前方後方墳があるのですが、その処女塚を中心に東西約2kmの位置に、東求女塚西求女塚と呼ばれる古墳があります。

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その名称から連想されるように、この3つの古墳には、男女の三角関係の悲恋話が古くから伝わります。

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太古の昔、現在の神戸市東部から芦屋市にかけて、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていたそうですが、伝承によれば、その葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者が思いを寄せていたといいます。

なかでも、同じ里に住む菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の男が彼女を深く愛し、激しく争うことになりました。

これに心を傷めた処女は身を処しかね、嘆きつつ自ら命を絶ってしまいます。

処女の死を知った壮士たちは深く悲しみ、二人とも後を追いました。

親族たちは、このことを長く語り継ごうと、処女の墓を中央に、壮士たちの墓を両側に作ったと伝えられます。

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この『菟原処女の伝説』は、古くは『万葉集』にも歌が残されており、奈良時代から語り継がれてきたそうです。

しかし、発掘調査によると、実際には築造時期がそれぞれ異なっているそうで、事実とは考えられないようですね。

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処女塚古墳には、もうひとつの伝承があります。

建武3年(1336年)に起きた「湊川の戦い」で、敗れた新田義貞が敗走の途中この地に立ち寄り、処女塚に登って敵を防いだといいます。

このとき義貞に従っていた小山田高家という武将は、自身の馬に義貞を乗せて逃し、身代わりとなって討死したと伝わります。

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処女塚古墳の片隅には、弘化3年(1846年)に建てられたと伝わる小山田高家の石碑があります。

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上の写真は、東求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの茅渟壮士の墓です。

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現在は公園になっていて、塚の原型は留めず石碑だけが建てられています。

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そして、こちらは西求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの菟原壮士の墓です。

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こちらも公園となっているのですが、こっちの方は、全長約95m前方後方墳の形が復元されています。

発掘調査によると、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡をはじめ、たくさんの埋葬品が出土したそうで、ヤマト朝廷と深く関わりを持った豪族の墓と考えられているそうです。

築造時期は3世紀後半で、神戸市内では最も古い古墳だそうです。

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(『摂津名所図会』より。生田川に浮かぶ水鳥を射んとする2人の男と見守る菟原処女)

いまは、ビルなどの建物に隠れてそれぞれの古墳は見渡せませんが、当時は、きっと処女塚を中心に東西に古墳が見渡せて、こんな伝承が生まれたのでしょう。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
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by sakanoueno-kumo | 2016-04-06 21:45 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~

明石海峡を間近に望む小高い段丘上に、狩口台きつね塚古墳があります。

この一帯には、古墳時代末期の小型古墳が10数基あったそうですが、現在は、このきつね塚古墳だけが残されています。

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きつね塚古墳は6世紀前半につくられたと考えられており、周りにが二重にめぐらされている作りは、この時代の古墳としてはあまり例がないそうです。

墳丘は2段の斜面でできており、すべて盛り土でつくられています。

円墳の直径は26mで濠の直径は56mにもなります。

円墳としては、結構大きめのものだそうです。

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古墳中央には、花崗岩の巨石で築かれた神戸市内最大の両袖式の横穴式石室があるそうです。

その全長は9.5mで、内部には凝灰質砂岩製の家形石棺が納められていたそうです。

しかし、盗堀で破壊され、副葬品は金銅装馬具須恵器が残るのみだったとか。

出土品から、この古墳は6世紀前半に最初の埋葬が行われ、7世紀初頭に追葬が行われたことがわかったそうです。

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実はわたし、いまから40年近く前に、発掘調査中のこの古墳の石室に入らせてもらったことがあります。

昭和53年(1978年)だったと思いますが、当時小学校6年生だったわたしは、夏休みの自由研究で古墳めぐりをしていたところ、たまたま発掘調査中のこの古墳を訪れました。

カメラを持ったわたしを見つけた調査員の方が、わたしを石室の中に入れてくれました。

当時は、緩かったのでしょうね。

で、その写真を貼った自由研究は、みごと入選し、表彰状をいただいた思い出があります。

それから30余年、同じく小学校6年生の娘の自由研究につきあったときの記録が、この稿の写真です。

親子二代のきつね塚古墳探索です。
(説明板が傷んでます。作り直してください。)
     ↓↓↓

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この古墳に埋葬されている人物はわかりませんが、同時期の周辺の古墳とは様相が異なることから、かなり有力な被葬者ではないかと考えられているそうです。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-30 21:34 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~

「その1」から2年以上あいてしまいましたが、シリーズ「その2」は、神戸市西区にある吉田王塚古墳です。

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このあたりの住所は「王塚台」といいますが、おそらくこの古墳からとったものでしょう。

場所は神戸市の最西端に位置し、明石市との境界近くにあたります。

いまは住宅地となっていますが、明石川右岸の段丘上に造られた前方後円墳で、全長74m、後円部の直径は44m、前方部前端幅は42mと、明石平野では最も大きく、この付近でも、その1で紹介した五色塚古墳の次に大きな古墳です。
下の画像はGoogleアースより。

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周りはがめぐらされ、中には入れません。

濠の外周には遊歩道があり、公園施設になっています。

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吉田王塚古墳は、日本書紀の記述にある、推古11年(603年)に用明天皇(第31代天皇)の第三皇子・当麻皇子が朝鮮半島に出兵した際、明石の地で亡くなった舎人姫王の墓であるとして、宮内庁が管理しています。
舎人姫王は欽明天皇(第29代天皇)の皇女で、日本初の女帝・推古天皇(第33代天皇)の妹にあたります。

夫の当麻皇子は、あの聖徳太子のすぐ下の弟ですね。

当麻皇子は征新羅将軍を任命され、難波から船で朝鮮半島に向けて出発しましたが、播磨国の明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬ったのち、引き返したといいます。

その場所が、この吉田王塚古墳だと考えられてきました。

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ところが、平成12年(2000年)に行われた宮内庁の発掘調査によると、出土した円筒埴輪壷形埴輪、朝顔形埴輪、盾形埴輪などから、5世紀の前半に造られたことがわかったそうです。

舎人皇女の時代から、150年以上も前のことになりますね。

たしかに、6世紀になるとこのような大型の前方後円墳は造られなくなったと考えられていますから、舎人皇女の陵墓という説は、たしかに無理があるのかもしれません。

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現在では、舎人皇女の陵墓と指定せず、陵墓参考地として宮内庁が管理しています。

そんなこんなで、「その3」につづきます。

神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-25 02:10 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~

大阪市生野区にある御勝山古墳を訪れました。
ここは5世紀前半の古墳だそうで、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣を布いたと言われる場所です。

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元は「岡山」という名称だったそうですが、大坂の陣の戦勝を祝い、「御勝山」と改名されたんだとか。

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元は前方後円墳だったそうですが、大坂の陣の際に墳形が破壊されたそうで、いまは後円部が残っているだけです。

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古墳の説明は、看板を読んでください(笑)。

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墳丘の上に古い石碑があります。
柵で囲われていて中には入れないので、ズームして見てみると・・・。

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「大阪府立農學校址」とありました。
なんだ、大坂の陣とは関係ないのか・・・。
でも、なんで古墳が学校跡なんだろう?

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大阪冬の陣では、秀忠はここに陣をかまえ、父の徳川家康はここから2kmほど西の茶臼山古墳に陣を布きました。
後世に大坂の陣といえば、豊臣方の大将が豊臣秀頼で徳川方の大将が家康だと思いがちですが、実質的にはそうだったでしょうが、形式上は、このときの征夷大将軍は秀忠であり、したがって総大将は秀忠だったわけです。
つまり、この地は総大将の本陣だったわけですね。
秀忠は大坂城落城後、この地で戦勝祝の宴を催したといいます。
それは、徳川幕府が盤石となった祝でもありました。

次回から、夏の陣関連に移ります。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-02 18:32 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

2015夏休み但馬路紀行 その1 「石ケ堂古代村」

今年もお盆休みを利用して、毎年恒例の4家族合同アウトドアの旅に行ってきました。
毎年、神戸から2時間ほどで行けるキャンプ場にコテージなどを借りて1泊するのですが、今年も、兵庫県は但馬地方の養父市にある、石ケ堂古代村キャンプ場にログハウスを3棟借りて1泊。

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ログハウスは綺麗に管理されていて、冷暖房完備、ユニットバス、冷蔵庫、キッチン、調理器具、食器も備え付けられていて、これをアウトドアと言えるのかどうかはわかりませんが、われわれ仲間内では、毎年これを「キャンプ」と言います。
以前、わが家の娘が学校で友達にこの話をすると、「それってキャンプとちゃうやろ!」と言われたそうです(笑)。
でも、山の中で自炊して泊まるんだから、キャンプでいいじゃないですか!

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ここ石ケ堂は、奈良時代から平安時代にかけての土器などが数多く発掘された遺跡です。
詳しくは説明看板を読んでください。

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この日はあいにく小雨がパラつく天気だったのですが、なんとか外でバーベキューが出来ました。
やっぱ「キャンプ」と言うからには、バーベキューをやらなきゃねぇ。

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この日の夜は、「ペルセウス座流星群」が最もよく見える日だったのですが、厚い雨雲が空を覆って、何も見えませんでした。
晴れてたら、きっと最高の天然プラネタリウムだったでしょうね。
残念です。

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それでも、小雨のなか無理やり花火を強行。

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そして毎年恒例のスイカ割り
これ、もう15年以上やってます。
当時4~5歳だった上の子たちは、いまや大学生。
それでも、まだやってくれます(笑)。

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ただ、残念ながら今年は、わが家の愚息を含む大学生以上の年長組3人が欠席。
子どもたちも大きくなってしまって、スケジュールを合わせるのは難しいですね。
でも、出来る限り続けたいものです。

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次回に続きます。

2015夏休み但馬路紀行 その2 「生野銀山」
2015夏休み但馬路紀行 その3 「生野城」

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by sakanoueno-kumo | 2015-09-02 15:02 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~

昨年8月、娘の夏休みの自由研究に付き合って、わがまち神戸市の古墳めぐりをしたのですが、せっかくなので、そのときのことを私もブログネタにしようと思います(小学生の勉強内容を大人のわたしがパクるというのもどうかとは思いますが・・・笑)。
といっても、日本史が好きな私ではありますが、考古学はまったくの門外漢でして、古墳の知識はまったくありません。
したがって、ここで紹介する内容は、ほとんどが古墳めぐりの本や現地説明看板をにわかにつまみ読みしたものですので、あるいは間違った情報や解釈もあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。

e0158128_1923390.jpg最初に紹介するのは、兵庫県下最大の古墳である「五色塚古墳」です。
別名「千壺古墳」とも呼ばれるこの古墳は、全長194mとたいへん大きな前方後円墳で、明石海峡をのぞむ見晴らしの良い台地の上に築かれています。
全長194mというのは、全国的にみると40番目前後の大きさだそうですが、同じ時期のものだけと比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べるほどだそうで・・・。

海の向こうに見えるのが淡路島で、巨大な吊り橋は明石海峡大橋です。
現代の建築技術の粋を集めた夢の架け橋と、古代の技術の粋を集めた巨大前方後円墳の融合ですね。
(いうまでもなく、この写真は私の撮影ではありません)

五色塚古墳に関する最も古い記述は『日本書紀』のなかにあるそうで、それによれば、仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず(二人の皇子は神功皇后の子ではない)、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓を造った・・・とあるそうです。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていない・・・と。
実に手の込んだ嘘ですよね。
(神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です)

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しかし、発掘調査によれば、偽墓というにはたいへん丁寧に造られており、また、石室の石材も出土していることから、偽物とは考えづらいとされています。
石室のなかの発掘調査はしていないので、副葬品などは不明だそうですが、出土したたくさんの埴輪などから、4世紀後半に造られたものと推定されているそうです。
ここに葬られている人物ははっきりとわかっていませんが、明石海峡の海陸交通要衝の地を支配した豪族ではないかと考えられているそうです。

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現在見られる多くの古墳は、木が茂って森のようになっていますが、ここ五色塚古墳は、当時の姿を忠実に再現しようと、昭和40年から10年の歳月をかけて発掘、復元工事が行われました。

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三段に築かれた古墳の表面は約223万個の葺石で覆われ、各段の平坦面といちばん上には出土した鰭付円筒埴輪鰭付朝顔形埴輪のレプリカが、約2000本も立て並べられています。
上二段の斜面の葺石は、発掘された石をそのまま使用しているそうですが、その石を分析の結果、日本書紀の記述どおり淡路島の東海岸から運ばれてきたものとわかったそうです。

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前方のすぐ南には、山陽電鉄JR山陽本線、そして国道2号線が並走しています。
さらにそのすぐ南は、いまは埋め立てられていますが、ほんの十数年前まではでした。

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後円部から撮影した古墳南西に見える明石海峡大橋です。

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まさか、こんな巨大な橋が出来ようとは、埋葬されている古代人もビックリでしょうね(笑)。

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東側の堀の中にある一辺20m、高さ2mのマウンドです。
かつては斜面に古墳と同じように葺石があったと考えられ、また埴輪が立てられていたと考えられているそうです。
何のためのものかは、説明看板がなかったのでよくわかりません。

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後円部のすぐ西隣りには、小壺古墳と呼ばれる円墳があります。
直径70m、高さ約8.5mの二段に築かれた円墳で、斜面に葺石はありません。
造られた時期は、出土した埴輪などから五色塚古墳と同時代と考えられいるそうです。
どちらが先に造られたかはわかりませんが、あるいは深い関連性があるのかもしれませんね。

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というわけで、まずは兵庫県下でもっとも有名な五色塚古墳と、お隣の小壺古墳でした。
そんなこんなで、気が向いたときの「その2」につづきます。



神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

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by sakanoueno-kumo | 2014-03-13 19:38 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

阪神・淡路大震災から19年、いま思うこと。

今日は1月17日。
6434人の方が亡くなり、3人の方が行方不明になった阪神・淡路大震災の発生から、今日で19年となりました。
そして今日1月17日は、わたしの誕生日でもあります。
19年前の震災当日に28歳の誕生日を向かえたわたしも、今日で47歳になりました。
あのとき、生後4ヶ月だった愚息も、いまは大学生になっています。
足かけ20年もの年月が流れて、日々の暮らしのなかで震災のことを思い出すことはずいぶんと少なくなりましたが、神戸市民にとって1月17日だけは、当時のことを思い出して感傷にふける日です。
当ブログでも、この日は毎年、当時の話をしてきました。

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写真は、神戸市東灘区の東求女塚古墳跡公園内にある震災慰霊碑です。
東灘区は、神戸市のなかでも最も家屋倒壊率の高かったまちで、亡くなられた方の数も率もいちばん高かった地域です。
高速道路が横倒しになっていた映像は記憶に残っている人も多いかと思いますが、あの近くですね。
わたしは、倒れて数日後の高速道路を間近で見ましたが、映像や写真で見るのとは比べものにならないほど、恐ろしい光景でした。
正直、脚が震えました。
平衡感覚を失って吐きそうになりました。
あれは強烈な体験でしたね。

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当時のわたしの知人で、あのとき阪神高速道路を走行中だった奴がいるのですが、そいついわく、空が一瞬光ったと思ったら、いきなり目の前の道路が蛇のように上下にウネリ始めたといいます。
何が起きたのかわからないまま急ブレーキを踏んで停車し、揺れが収まってからしばらくして地震だとわかったとか。
その後、車を走らせようにも、道路のジョイント部分が離れたり、段違いになったりしていて進めず、停電で真っ暗ななか徒歩でしばらく進むと、道路が途中で途切れ、その先は目を疑う光景になっていた・・・と。
で、進むのをあきらめ、ラッキーにも少し引き返したところに高速の乗り口があったため、まわりにいた数台の車と協力して、逆走して高速道路から脱出したそうです。
その間も余震は頻繁に続き、生きた心地がしなかった・・・と。
間一髪、九死に一生を得るとは、まさにこのことですね。

あのとき東灘区で横倒しになった高速道路は600メートルにも及んだそうですが(他にも、橋桁がずれたり傾いたりした場所は数知れず)、意外にも、亡くなられたドライバーの方は10数名だったと記憶しています。
午前5時46分という時間が幸いしたのでしょうが、高速道路の真下には国道43号線が並走しており、よくそれだけの被害で済んだなあと、つくづく思います。
もし、あと2時間後に起きていたら・・・・考えるだけで背筋が寒くなりますね。

今年も神戸市内では、各地で追悼行事が催されるようです。
平日なので、わたしはそのような場所には行けませんが、19年前のあの日、幸運にも命を落とさずに、こうしていまを生きていることを幸せに思い、犠牲になった方々への哀悼の意を捧げたいと思います。
今日、1月17日は、神戸市民にとってそういう日です。


過去5年間の1月17日の拙稿です。
よければ一読ください。
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阪神・淡路大震災から18年、いま思うこと。
阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。
誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。
今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。
震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-17 01:02 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

夏休み播磨路紀行 その5 家原遺跡公園「古代村」

シリーズ最後です。
原不動滝戸倉峠のある波賀町より少し東の一宮町にある、「家原遺跡公園」を訪れました。
波賀町も一宮町も、現在では合併されて同じ宍粟市となっています。
この地は古くより瀬戸内地方と日本海地方を結ぶ交通の要衝として栄えてきた場所で、平成4年(1992年)からの調査では、縄文、弥生、古墳時代の竪穴住居跡、奈良時代の廃棄土坑、平安時代から鎌倉時代の掘建柱建物跡など、縄文から中世に至る大規模な複合遺跡が発掘されました。
この家原遺跡は、この種の遺跡としては、西日本有数の規模だそうです。

e0158128_15164323.jpg発掘された遺構群を忠実に復元し、史跡公園として整備された家原遺跡公園「古代の村」には、縄文時代の竪穴式住居、弥生時代の竪穴式住居、古墳時代の竪穴式住居、高床式倉庫(建物)、中世の掘立柱建物など12棟が復元され、古代から中世へと時代が移り変わっていく様子が分かりやすくなっています。

家原遺跡のある三方盆地地区は、奈良時代に成立した播磨国風土記の中では「宍禾郡(しさわのこおり)・御形里(みかたのさと)」と記されているそうで、遺跡の北方には、室町時代後期の様式や技法を伝える「御形神社(本殿は国指定重要文化財)」が鎮座するなど、豊かな歴史遺産を伝えています。

e0158128_17572568.jpg家原遺跡で見つかった縦穴式住居跡は、長辺6m・短辺4.9~5.5mの角の丸まった四角い形をしています。
右の写真は縄文時代の竪穴式住居。
住居跡の中からは、縄文時代中期末から後期初頭のものとみられる土器類をはじめ、石斧石鏃などが出土しています。

e0158128_15344376.jpg中に入ると、このように床が低くなっています。これって、大雨の際にはすぐに浸水してしまうように思うのですが、実際にはどうだったのでしょうね。入口は、子供でも身体を丸めないと入れない小さなものでした。後ろにある消火栓は、出土品ではありません(笑)。

e0158128_17472954.jpgこちらは弥生時代の竪穴式住居の中です。縄文時代の住居の中にも、床の真中に石で囲んだ炉がありましたが(スミマセン・・・写真とってません)、弥生時代になると写真のように、住居内の一角に立派なカマドがありました。言ってみれば、キッチン付きになったようなもんですね(笑)。両端に写っている柱は、住居を支えている支柱です。

e0158128_1752477.jpg左の写真は住居内上部です。床が下がっていることもあって、外から見るより結構高さがあります。ぶら下がっている電球は、当然ながら遺跡ではありません(笑)。くだらないオヤジギャグを連発するな!という声が聞こえてきそうですが、でも、この裸電球を見た9歳の我が娘からは、「弥生時代の人は、あんな小さな電球で暮らしていたの?」と、マジ顔で聞かれましたから、小さい子供のためには、そんな当たり前の説明も必要のようです。

e0158128_1741135.jpgこの家原遺跡は、最初に縄文時代の竪穴式住居跡が見つかり、発掘を進めていくうちに、様々な時代の遺跡が見つかったそうです。
他にも古墳時代の住居や中世の建物、高床式倉庫などがあったのですが、この日は夕方から訪れたため時間があまりとれず、ゆっくり見学できなかったのが残念です。
e0158128_17441967.jpgただ、写真を見ていただいてもわかるように、かなり大規模な施設にもかかわらず、見学者はほぼ私たちだけでした。
夏休みの日曜ということを考えれば、寂しい話ですね。
交通上の不便さは確かに否定できませんが、兵庫県民の中ですら、この遺跡公園の存在はメジャーではありません。
非常にもったいないですよね。
復元された遺跡も、決して子供だましのようなものではなく、どれも見応えのあるものばかりでしたし、もっと、広報面に力を入れていいのではないかと思います。

家原遺跡公園には、古代遺跡の他にも一宮町の歴史を学ぶことの出来る歴史資料館や、竹わら細工木工細工陶芸などが体験できる工房、日帰り温泉施設、一宮温泉「まほろばの湯」などがあります。
せっかくここまで来たので、この日、子供たちは『勾玉作り』を体験しました。
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講師の先生から作り方を聞き、滑石(かっせき)をサンドペーパーで削ります。
滑石とは一番やわらかい石です。
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やわらかいといっても、子供にとっては思う形に削るのは容易ではありません。
そして形が整ったら、仕上げは水ペーパーで磨いて表面のツヤを出します。
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そして、1時間以上かけて、ようやく完成しました。
子供にとっては良い記念品です。
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最後に工房の前で、この日のメンバー全員で記念撮影です。
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てなわけで、夏休み播磨路紀行シリーズはこれで終わりにします。
気がつけば本日は10月1日、もう秋になってしまいました(苦笑)。
そろそろ長袖の季節ですね。
半袖の間に終わらせることができてホッとしています(笑)。

夏休み播磨路紀行 その1 「なでしこジャパン」ならぬ「なでしこの湯」
夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
夏休み播磨路紀行 その3 日本の滝100選「原不動滝」
夏休み播磨路紀行 その4 戸倉峠名物「滝流しそうめん」


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-01 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)