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太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は石の柵が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その14 「洞ヶ峠」

「洞ヶ峠を決め込む」という言葉がありますよね。

両者を比べて、有利な方につくために形勢を観察し、日和見的な態度をとることを言いますが、この言葉の由来は、山崎合戦明智光秀から援軍要請を受けた大和国郡山城主筒井順慶が、羽柴秀吉明智光秀のどちらに加勢しようかと、洞ヶ峠に陣取って形勢をうかがったというにちなみます


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「洞ヶ峠」という名称は現在も残っており、京都府八幡市と大阪府枚方市の府境にあります。


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現在のロケーションはこんな感じ。

飲食店などが立ち並ぶ開発された町並みで、当時の痕跡を見ることはできません。


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「八幡洞ヶ峠」の交差点の片隅には、「筒井順慶陣所跡」と刻まれた石碑が、ひっそりと建っています。

碑は道しるべも兼ねていて、『右西双子塚三丁、左圓福寺三丁』とありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようです。


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峠の頂上付近には、「洞ヶ峠茶屋」という屋号のかやぶき屋根そば屋がありました。

べつに史跡というわけではないようですが、ちょうど昼食時だったこともあり、入って見ることに・・・。


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入口には、教育委員会が作った「洞ヶ峠」伝承の説明板が設置されていました。

何度もいいますが、お店自体は史跡ではありません。


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店内はこんな感じ。


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席につくと、洞ヶ峠茶屋と洞ヶ峠伝承を紹介した新聞記事がテーブルに置かれていました。


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で、これが「順慶定食」1300円です(笑)。

具がたっぷりはいったうどん(そば)二玉に、小鉢が3品も付いたボリューム満点の逸品です。

でも、なんで「順慶」なのかはわかりません(笑)。


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お店はぼたもちが名物らしく、せっかくなので買って帰りました。

帰宅して包装を開けてビックリ!

で・・・デカイ!!


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ちなみに、洞ヶ峠の伝承についてですが、実際には、筒井順慶は「本能寺の変」のあと、郡山城に籠城を決め込んでいて、洞ヶ峠には来ていないという説が正しいようです。

なぜ、このような話が生まれたのかはわかりませんが、伝承なんて、案外そんなものなのでしょうね。

不名誉な伝承で汚名を着せられた筒井順慶は気の毒ですが、そのおかげで、洞ヶ峠という名称が世に知れ渡っていて、わたしも、このぼたもちに巡り会えました(笑)。


次回、シリーズ最終回です。




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by sakanoueno-kumo | 2016-08-03 18:49 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その11 「明智光秀本陣(境野1号墳・恵解山古墳)」

石碑のある公園から北東へ500mほど歩いたところに、山崎合戦において明智光秀本陣を布いたと考えられている場所があります。


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『太閤記』の記述に、光秀の本陣は「御坊塚」に布かれたとありますが、その「御坊塚」というのが、かつてこの地にあった境野古墳群のなかの境野1号墳と推定されているそうです。


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現在、古墳はサントリーの工場敷地内になっており、中には入れません。

フェンスの外に、説明看板が建てられているだけです。


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ただ、その横には墓地があり、そこにはかなり古い墓石や祠がありました。


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地蔵はいつの時代のものでしょう・・・あるいは、合戦を知っているかもしれませんね。


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また、光秀本陣と考えられているもうひとつの説として考えられているのが、境野1号墳から500mほど北上したところにある恵解山古墳(いげのやまこふん)です。

こちらは大山崎町のお隣の長岡京市になります。


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もともと、2つの説があって結論をみていなかったそうですが、平成23年(2011年)の発掘調査で、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡、幅4~5m、深さ約2mで、49mにわたる堀跡などが見つかったそうで、現在では、こっちの説のほうが有力になりつつあるようです。


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全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mの前方後円墳で、幅30mの周濠を持ちます。

陣城(付城)として使用するには、最適な大きさなんじゃないでしょうか。


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現在は史跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。


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すぐ北側にある歩道橋から撮影した眺望です。


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歩道橋には、古墳及び山崎合戦を紹介する説明板がありました。


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墳丘の上から見た天王山です。

いまは建物がひしめき合っていますが、当時は、ここから天王山の麓までが開けていて、合戦の舞台になりました。

光秀はこの地で、次々に敗走する自軍の兵を見ながら、何を思っていたでしょう。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-22 18:16 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その10 「山崎合戦古戦場碑」

名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐのところに、「山崎合戦古戦場碑」があると聞いてやってきました。

当時の合戦図を検証すると、ちょうどインターチェンジあたりを境に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が対峙していたと考えられているそうで、その中心あたりに近年石碑を建てたとか。


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で、現地に足を運んでみたのですが、なかなか石碑が見つからない。

ネットの情報では、大山崎中学校の校門付近に建っているとのことだったのですが・・・。


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学校の周りをいくら探しても見当たらず、途方にくれていたのですが、ふと、道路を挟んで西側にある高速道路の高架下に、「天王山」と書かれたが目に入り、行ってみることに・・・。


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やっと石碑が見つかりました!

どうやら、ここに移設されていたみたいですね。


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ここは「天王山夢ほたる公園」という名称で、昨年5月にオープンしたばかりの公園だそうです。

どうりで、ネットにもカーナビにも出てこないはずです。


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石碑は教育委員会が建てたものだそうですが、残念なことに字がきたない(苦笑)。

この日は、わが家の中2の娘も一緒だったのですが、書道有段者の娘曰く、「わたしのほうが上手い」と・・・。

たしかに(笑)。


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公園から見た天王山です。


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何度も言いますが、「天下分け目」「関ヶ原」です!!!


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-21 22:20 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その4 「山崎合戦旗立松」

天王山八合目あたりに、「旗立松」と刻まれた石碑石灯籠があり、その横に松の木が植えられています。

説明板によると、山崎合戦の際に羽柴(豊臣)秀吉がここにあった老松の樹上高くに旗印を掲げ、自軍の士気を高めたと伝えられるそうです。


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当時の旗立松は明治中期ごろまでは、その姿をとどめていたそうですが、朽ちてしまったそうです。

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その後、幾度か植樹を繰り返し、説明看板には5代目とありますが、現在の松はその6代目だそうです。


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オリジナルの松は、きっと麓からも見えるほど大きな松だったのでしょう。


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すぐ横には、「山崎合戦の地」と刻まれた石碑があります。

実際には、合戦は山中ではなくで行われたんですけどね。


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こちらは裏面。




その側には、説明板があるのですが・・・。


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読めません(笑)。


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近くには、古戦場を望める展望台があります。


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木が茂ってよく見えないですが、高速道路が見えるあのあたりを境に、北に明智軍、南に羽柴軍が陣取っていました。


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展望台にある説明板です。


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『太閤記』によれば、秀吉の軍勢4万人に対し明智光秀1万6千人とあります。

夕方4時頃から始まった合戦は、わずか3時間ほどで決着がつき、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わります。

その後、光秀は敗走し、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

世に言う「光秀の三日天下」ですね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-24 07:29 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その3 「天王山登山道~秀吉の道陶板絵図」

宝積寺をあとにして天王山山頂を目指します。

登山道はハイキングコースになっていますので、そう苦もなくのぼれます。


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この日は昨秋10月18日の気候のいい日だったので、絶好のハイキング日和で多くの登山客とすれ違いました。


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途中の休憩所から見た天王山南側の眺望

中央の高いビルとビルの間に、かすかに大坂城が見えるとのことですが・・・。


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う~ん・・・見えるような見えないような・・・。


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登山道の道中には、頂上まで数カ所に分けて「秀吉の道」というタイトルの大きな陶板絵図が設置されています。

説明書きを見ると、堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画なんだとか。

お金かけてますねぇ。

せっかくなので、まとめて紹介しておきます。


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最初に目にしたのが、ハイキングコース最初の展望台「青木葉谷展望台」に設置された陶板絵図。

題名は「秀吉の中国大返◆勝負を決めた判断と行動◆」

わずか1週間足らずで備中高松城から引き返していた、有名な羽柴(豊臣)秀吉中国大返しが解説されています。


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続いて、ハイキングコース八合目あたりの酒解神社大鳥居をくぐったところに大きな陶板絵図が2枚。


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まずは、山崎合戦直前の各部隊のを描いた絵図。

題名は、「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算◆」

明智光秀があてにしていた諸将の援軍は来なかったという、光秀の誤算がテーマです。


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そのすぐ隣の絵図は、まさに合戦の様子を描いたもの。

題名は、「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった◆」

前々稿でも言いましたが、天下分け目は「関ヶ原」だと思うんですけどね。


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さらに山を登って、酒解神社を過ぎたあたりにある絵図。

タイトルは「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北◆」

たしかに、光秀はこの時代の常識人、秀吉や信長は非常識人でした。

時代を変える英雄というのは、その時代の人から見れば非常識な人じゃないとだめなんでしょうね。

秀吉に敗れた光秀は、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命しますが、絵図は、まさにその寸前を描いたものです。


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最後は、山頂にある絵図。

題名は「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」

秀吉は光秀との戦いに勝利すると、ここ天王山山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点とします。

まさに、秀吉の天下への道はここからはじまりました。

陶板の堺屋氏の解説では、「秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」と結んでいます。


それにしても、登山道の道中にこのような立派な陶板を設置するなんて、運搬がたいへんだったでしょうね。

次回につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-06-23 00:02 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その1 「天王山登山口」

「ここが勝負の天王山」という言葉がありますよね。

ここ一番の勝負どころのことを「天王山」と表現して、スポーツの実況放送などでよく使われていますが、このたとえの由来が、羽柴(豊臣)秀吉明智光秀が激突した山崎合戦であることは周知のところだと思います。

「本能寺の変」で主君の織田信長を討った光秀が、備中高松城から猛スピードで帰ってきた秀吉に討たれた戦いで、この敗北によって、いわゆる「光秀の三日天下」となってしまったわけですね。

一方の秀吉は、この戦いを制したことで一気に天下人への階段を上ることになるのですが、この山崎の戦いを有利にすすめるうえでの要所となったのが、山崎地区にある標高270.4mの天王山だったことから、勝負のヤマ場のことを「天王山」と言うようになりました。


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天王山は、現在の京都府大阪府府境に位置しますが、その昔も、山城国摂津国国境でした。

関西の人にとっては、名神高速道路の天王山トンネルとして耳馴染みの地名だと思いますが、実はわたし、関西に住む歴史好きを自称しながら、これまで天王山を訪れたことがなかったんです。

で、過日、思い立って天王山を登ってみました。


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JR山崎駅を降りて北へ向かいます。

歴史的に有名な山崎という地名ですが、駅は小さくてローカル感いっぱいです。

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駅前には、秀吉のシンボル「千成瓢箪」の馬印をデザインしたオブジェがあります。


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周辺観光マップです。

左端にサントリー山崎蒸溜所という場所がありますが、洋酒の好きな方はご存知だと思いますが、ここ山崎はサントリーウイスキー「山崎」の発祥の地でもあります。


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踏切の向こうに見えるのが登山口です。

前のリュックを背負った外国人のお姉さんも、天王山の登山客でした。


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登山口です。

写真では伝わりにくいかもしれませんが、かなりの急勾配です。


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「歴史街道百選」だそうです。


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「天下分け目の天王山」って、「天下分け目の関が原」と混同してません?

たしかに山崎合戦は歴史のターニングポイントではありますが、「天下分け目」という表現はちょっと違うような・・・。

やっぱ、「ここが勝負の天王山」のほうがニュアンス的にしっくりきますよね。


次回へ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-08 23:43 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>

本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。

そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。

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天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。

現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。

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それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。

それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。

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また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。

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備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。

光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催しました。

このとき光秀が詠んだ

「時は今 雨が下しる 五月哉」

という歌が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。

「時」「土岐」「雨が下しる」「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。

そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。

実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。

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6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。

そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。

重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。

そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。

「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。

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6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。

信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死

信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。

嫡子・織田信忠妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。

日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

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明智光秀の謀反に至る動機については野望説黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。

おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。

小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。

これも、考えられなくもありません。

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ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。

光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。

まあ、これも想像の域を出ませんけどね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。



「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <後編>

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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~

茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社は、真田信繁(幸村)が最期を遂げた場所です。
茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)での激戦のすえ、疲労した信繁がこの地で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られました。
享年49歳(異説あり)。

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ここは大阪の象徴・通天閣からほど近い場所です。

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また、先ごろ竣工したばかりの日本一高いビルで知られるハービス大阪がすぐそこに見える場所でもあります。

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そんな繁華街のど真ん中に、「真田幸村終焉の地」と書かれた看板と石碑が見えます。

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境内には、戦死跡之碑が建てられています。

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三光神社の勇ましい像とは違って、まさに死を覚悟して休息している穏やかなイメージですね。

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「さなだ松」だそうです。

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信繁は境内の一本松の下で死んだと伝えられます。
当時の松はすでに枯死してしまい、この樹は昭和26年(1951年)に植樹されたものだそうです。

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伝承によると、信繁はこの地で発見されたとき、「わしの首を手柄にされよ」といって討ち取られたといいます。
もともと勝ち目のない戦いであることは覚悟の上だったでしょうから、人生の最期を武士らしく終えることが出来て、本望だったにちがいありません。

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慶長20年(1615年)5月7日、信繁が討ち取られたことで豊臣軍の勝利は絶望的となり、この日の深夜に大坂城は落城します。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-11 16:40 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~

現在、天王寺公園内にある茶臼山古墳は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった場所です。
また、それ以前の歴史を見ても、1546年(天文15年)に細川晴元の家臣・山中又三郎がこの地に大塚城を築いたと伝えられ、舎利寺の戦いで落城したと言われます。
ここに限らず、古墳というのは陣城として使われやすいですから、数々の古戦場としての歴史を持っているものです。

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古墳の後円の横には、河底池という名称の大きな池があります。
たぶん、これがの役割を果たしていたのでしょうね。
現地説明看板によると、奈良時代の貴族・和気清麻呂が河内川の流水を南に引こうとして出来た池だそうです。

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その伝承からの由来で、池に架かる橋を「和気橋」と呼ぶそうです。

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橋をわたると、イラスト看板があります。

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立派な石碑(オブジェと言ったほうがいいかも)も建てられていました。

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慶長20年(1615年)5月7日、真田の赤揃えが陣を構える真田信繁(幸村)隊3千5百は、この日の正午すぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢1万5千と激突し、大坂夏の陣最大の激戦が、ここ茶臼山周辺で繰り広げられました。

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兵の数では歴然と劣る真田隊でしたが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。
攻め込まれた家康は、2度も自害を口にしたとも伝えられますから、真田隊の猛攻がいかに激しかったかが想像できます。
このとき信繁が家康の首を取っていたら、歴史はどう変わったでしょうね。

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しかし、時間が経つに連れて数に優る徳川方が立ち直りを見せ、やがて真田隊は追い詰められていきます。
そして疲労した信繁は茶臼山の北にある安居天神で休息していたところ、越前兵により討ち取られました。

次回は真田信繁終焉の地となった安居神社を訪れます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-12-10 18:15 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)