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太平記を歩く。 その162 「小楠公義戦之跡」 大阪市北区

大阪市営地下鉄谷町線と京阪電鉄が交わる天満橋駅を地上に上がった川沿いに、「小楠公義戦之跡」と刻まれた大きな石碑があります。

「小楠公」とは、楠木正成の嫡男・楠木正行のことで、父・正成は「大楠公」と呼びます。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が敗死したあと、楠木氏はしばらくのあいだ鳴りを潜めていましたが、嫡男の正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、正平2年/貞和3年(1347年)8月10日、ついに挙兵します。

『太平記』では、この年が父・正成の十三回忌に当たっていたからだと説明していますが、この頃、足利幕府内では足利尊氏の弟・足利直義と、尊氏の側近・高師直対立表面化しはじめており(これが、のちの観応の擾乱に繋がっていきます)、混乱の様相を見せていたことが挙兵の理由だったと考えられます。


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楠木軍は9月に藤井寺近辺で足利方の細川顕氏を破り、11月には住吉浜で山名時氏を破りました。

この住吉浜の戦いの際、敗走する敵兵がこの地で川に落ちて溺れているのを助け、体を温めて手当をし、衣服と薬を与え、4、5日休養させて敵陣へ送り帰したと伝えられます。

助けられた敵兵はこの恩に報いるため、翌年の「四條畷の戦い」では楠木軍として参戦した者が多数おり、正行と共に討死したと伝えられます。


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以下、『太平記』巻26「四条縄手合戦事付上山討死事」原文


「安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。」


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この正行の行為は、士道の華として後世に讃えられました。

明治の元勲にして日本赤十字社創始者である佐野常民は、日本が赤十字に加盟する際、この故事を引き合いに出し、「赤十字精神の鑑」として日本人スピリッツを宣伝したとか。

そのおかげもあってか、日本は容易に条約加盟を認められたといわれているそうです。


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石碑の背後に流れる大川です。

ここに敵兵が溺れていたということですね。

ここは、有名な天神祭の会場として、年に一度、全国からの観光客で賑わう場所でもあります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-07 10:01 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その135 「攻めが辻」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した大橋跡から50mほど北に、「攻めが辻」と呼ばれる場所があります。

ここは、吉野神宮からの尾根道と、吉野駅からの七曲りを上り詰めて出合う場所で、三叉路になっています。


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ここは、吉野山に立てこもった大塔宮護良親王方の守りと、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍の攻撃がぶつかり、激しい戦闘を繰り広げたところで、「攻めが辻」と呼ばれるようになったそうです。


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現在、その道脇には石標が建てられています。


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また、正平3年(1348年)に起きた高師直吉野焼き討ちの際にも、迎え討つ天皇方とこの地で激しい戦闘が繰り広げられました。


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わたしがここを訪れたのは夏真っ盛りの7月23日でしたが、春には、ここから千本桜が一目に見渡せるスポットだそうです。

かつて多くの兵の血が流れた場所だったなんて、桜見物に訪れた観光客は知らないでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-04 23:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その133 「大塔宮仰徳碑・火の見櫓」 奈良県吉野郡吉野町

高城山の登山道の途中にある丘の上に、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野城火の見櫓跡があります。


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現在、火の見櫓跡は登山客の休憩場所になっており、あずまやがあります。


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標高435mの丘の上には、小さな石碑が建てられています。


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火の見櫓跡から北を見下ろすと、金峯山寺蔵王堂が見えます。


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拡大します。


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火の見櫓跡の向かい側の台地には、高さ8mに及ぶ「大塔宮仰徳碑」が建てられています。


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この碑は、日本皇紀2600年にあたる昭和14年(1939年)に、当時の皇国隆盛、勤王思想をより高揚させるために建てられたものです。


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いまは木々に覆われていますが、往時はここから西に金剛・葛城の山脈、北に龍門・高取の山並みが見渡せたそうで、大塔宮方の武士たちが合戦の合図の狼煙をここから上げたと伝えられます。


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石碑に埋め込まれた説明板です。


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わたしがここを訪れたのは夏真っ盛りの7月23日でしたが、春には、この石碑の周りはでいっぱいになるそうです。

昨今では、この碑の下で桜に酔う人はいても、碑の意味を知る人はほとんどいないようです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-28 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その128 「金峯山寺・大塔宮御陣地」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した蔵王堂の正面、玉垣に囲まれたなかに桜の木が4本植えられている空間があります。


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時代は遡って元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府の二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に責められた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第二皇子・大塔宮護良親王は、ここに本陣を布いて戦ったと伝えられます。


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隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建てられています。


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『太平記』巻7「吉野城軍の事」によると、圧倒的な兵力で攻める幕府軍でしたが、天然の要害を持つ吉野城を攻めあぐみ、戦いは一進一退の攻防を繰り返します。

しかし、結局は衆寡敵せず、死を覚悟した大塔宮は、ここ蔵王堂前で最後の酒宴を開いたといいます。


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『太平記』の記述によると、このとき、大塔宮親王の鎧には7本の矢が刺さり、二の腕の2ヵ所に傷を負い、血が滝のように流れていましたが、宮は突き刺さった矢を抜こうともせず、流れる血を拭おうともせずに、毛皮の敷物の上に立って、大盃で3杯空けたといいます。

なんとも豪傑な親王ですね。


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雲が近いです。


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蔵王堂前庭の南側には、「村上義光忠死之所」と刻まれた石柱が建てられています。

村上義光は大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

吉野城落城の際、前庭での酒宴も終わり、いよいよ死を決した大塔宮護良親王に対して、「ここで宮に死なれるのは犬死というもの、恐れながら今お召しの鎧直垂と甲冑を賜り、それを某が身に着けて敵を欺きましょう。その隙に宮は落ち延びてください。」と涙ながらに説き、身代わりとなって二天門に駆け上がり、「われこそは大塔宮護良親王である。」と叫んだのちに見事に腹をかき切り、壮絶な最期を遂げたといいます。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせになって絶命したといいます。

この間に大塔宮は高野山に落ち延びます。

歌書よりも軍書に悲し吉野山

松尾芭蕉の門弟・各務支考が詠んだ有名な句ですが、まさに、そんな歴史が感じられる場所です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-21 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


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敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


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門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


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前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


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ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


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『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


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致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


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また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


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時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


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ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


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大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その111 「尊良親王御墓所見込地」 福井県敦賀市

前稿で紹介した金ヶ崎城跡の一角に、尊良親王自害したと場所が伝えられています。


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その場所は、本丸跡に登る途中の脇道に設置された階段を上った、小高い丘の上にあります。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、幼いころより聡明容姿も端麗だったといい、次期皇太子として期待されていたそうですが、鎌倉幕府の介入によって後二条上皇(第94代天皇)の長子・邦良親王が皇太子となります。

その後、元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

そのときの逸話は、「その9」で紹介しています。


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その後、京に戻って新田義貞と共に足利軍と戦いますが、父帝の降伏に伴い義貞と共に越前国に逃れ、ここ金ヶ崎城にて半年間の攻防戦の末、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、この地で自害したと伝わります。


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石碑には「見込地」と刻まれています。

たぶん、このあたりだったんじゃないか、ということでしょうね。


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石碑の裏には、「明治九年十月」とあります。

これまで見てきた『太平記』関連の石碑のなかでは、いちばん古いかも。


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一説には、新田義顕は尊良親王に落ち延びるよう勧めたといいますが、親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶し、強く自刃を希望したため、義顕は応じたと言われます。

『太平記』によると、親王は義顕に「自害の方法とはどのようなものか?」と問い、義顕は涙ながらに「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。

それを見た親王も、直ちにを手にして腹を切り、義顕の上に折り重なるように倒れ、続いて付き従っていた300人も同じく親王に殉じたと記しています。

このとき、尊良親王27歳、新田義顕は18歳でした。


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この半年間の戦いの最中、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝(南朝)を開きました。

たぶん、そのことは尊良親王も聞き及んでいたでしょう。

あるいは、父に付き従っていれば、南朝第2代天皇は尊良親王だったかもしれません。

無念だったでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-25 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


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千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


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そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


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建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


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『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


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石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


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ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


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また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


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「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区

延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦い楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。

そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。

そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。


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比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。

叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。


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雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。

前方には、標高848mの比叡山が聳えます。


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川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。


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橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。

雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。


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石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。


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登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。

雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。


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雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底歩いているような気分になります。


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足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。

また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。


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雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。


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近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。

えっ? ここって城跡だったの?


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早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。

城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。


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その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。

どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。


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で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。

端には「水飲対陣の碑」が建てられています。

「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。

たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。


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『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。


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「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。

この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。

この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。


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ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その99 「処女塚古墳」 神戸市東灘区

神戸市東灘区御影町にある「処女塚古墳」にやってきました。

「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。

前稿で紹介した「生田の森の戦い」から敗走した新田義貞軍が、追撃してきた足利軍に追いつかれたのが、ここ処女塚古墳だったと伝わります。


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義貞は味方の軍勢を落ち延びさせるため一人踏ん張りますが、義貞の乗る馬が敵の矢に射られて倒れてしまいます。

『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」では、このときの様子を「義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ける間、小膝を折て倒けり」と伝えています。


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身動きの取れなくなった義貞は、処女塚の墳丘に駆け上り、敵の激しい攻撃を受けました。

足利軍の矢が雨のように降るなか、義貞の気迫もすさまじいもので、「鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜き持て」と、二刀流を使って敵に立ち向ったと『太平記』は伝えます。


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この義貞の窮状をはるか遠くから眺めて気づいた新田方の小山田太郎高家が、これまで義貞から受けた恩義を感じ、すぐさま処女塚の上に駆け寄り、自分の馬に義貞を乗せ、高家は塚の上にとどまって、義貞を東へ逃れさせました。

義貞に代わって足利軍の攻撃に立ち向かった高家でしたが、味方の敗色は濃く、ついに墳丘の上で討死しました。

しかし、高家のおかげで、義貞は何とか京へ落ち延びることができました。


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『太平記』が描くこの小山田太郎高家の武勇を称え、処女塚の東脇には高家の碑が建てられています。


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現地説明板によると、この石碑は弘化3年(1846年)に代官の竹垣三左衛門藤原直道が、東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものだそうです。


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ところで、なぜ高家は、自らの命を犠牲にしてまで義貞を助けたのか・・・。

『太平記』によると、高家が従軍中、兵糧に困り付近の農家の麦を刈り取ったことから、軍法で死刑を宣告されますが、そのとき義貞が、「武将に兵糧の不自由をさせたのは自分の責任だ」と、麦の代金を畑の持ち主に支払い、麦を高家に渡しました。

このことから、高家は義貞に大きな恩義を感ずるようになったといいます。

実話かどうかは定かではありませんが、高家を庇った義貞も、そして義貞を守った高家も、どちらも武士の鏡といえるでしょうか。


処女塚古墳については、以前の稿「神戸の古墳めぐり その4」でも紹介していますので、

よければ一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-05 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)