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太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


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千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


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そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


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建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


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『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


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石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


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ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


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また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


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「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区

延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦い楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。

そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。

そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。


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比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。

叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。


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雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。

前方には、標高848mの比叡山が聳えます。


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川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。


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橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。

雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。


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石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。


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登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。

雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。


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雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底歩いているような気分になります。


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足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。

また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。


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雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。


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近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。

えっ? ここって城跡だったの?


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早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。

城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。


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その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。

どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。


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で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。

端には「水飲対陣の碑」が建てられています。

「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。

たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。


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『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。


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「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。

この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。

この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。


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ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その99 「処女塚古墳」 神戸市東灘区

神戸市東灘区御影町にある「処女塚古墳」にやってきました。

「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。

前稿で紹介した「生田の森の戦い」から敗走した新田義貞軍が、追撃してきた足利軍に追いつかれたのが、ここ処女塚古墳だったと伝わります。


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義貞は味方の軍勢を落ち延びさせるため一人踏ん張りますが、義貞の乗る馬が敵の矢に射られて倒れてしまいます。

『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」では、このときの様子を「義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ける間、小膝を折て倒けり」と伝えています。


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身動きの取れなくなった義貞は、処女塚の墳丘に駆け上り、敵の激しい攻撃を受けました。

足利軍の矢が雨のように降るなか、義貞の気迫もすさまじいもので、「鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜き持て」と、二刀流を使って敵に立ち向ったと『太平記』は伝えます。


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この義貞の窮状をはるか遠くから眺めて気づいた新田方の小山田太郎高家が、これまで義貞から受けた恩義を感じ、すぐさま処女塚の上に駆け寄り、自分の馬に義貞を乗せ、高家は塚の上にとどまって、義貞を東へ逃れさせました。

義貞に代わって足利軍の攻撃に立ち向かった高家でしたが、味方の敗色は濃く、ついに墳丘の上で討死しました。

しかし、高家のおかげで、義貞は何とか京へ落ち延びることができました。


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『太平記』が描くこの小山田太郎高家の武勇を称え、処女塚の東脇には高家の碑が建てられています。


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現地説明板によると、この石碑は弘化3年(1846年)に代官の竹垣三左衛門藤原直道が、東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものだそうです。


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ところで、なぜ高家は、自らの命を犠牲にしてまで義貞を助けたのか・・・。

『太平記』によると、高家が従軍中、兵糧に困り付近の農家の麦を刈り取ったことから、軍法で死刑を宣告されますが、そのとき義貞が、「武将に兵糧の不自由をさせたのは自分の責任だ」と、麦の代金を畑の持ち主に支払い、麦を高家に渡しました。

このことから、高家は義貞に大きな恩義を感ずるようになったといいます。

実話かどうかは定かではありませんが、高家を庇った義貞も、そして義貞を守った高家も、どちらも武士の鏡といえるでしょうか。


処女塚古墳については、以前の稿「神戸の古墳めぐり その4」でも紹介していますので、

よければ一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-05 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その98 「生田の森」 神戸市中央区

足利尊氏水軍を討つべく経ケ島に陣を布いた新田義貞でしたが、足利軍の巧みな戦略の前に押され、中央区の生田の森まで後退することになります。


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すでに楠木正成軍を討った足利軍は、ここ生田の森で三方から集中して新田軍に襲いかかります。

『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」によると、新田軍は奮戦し、合戦は「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」との激しさを見せます。


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合戦の規模からすると、ここ生田の森での戦いが、「湊川の戦い」本戦と言っていいかと思います。

しかし、結局は衆寡敵せず

兵力差は歴然としており、新田軍は丹波路めざして敗走することになります。


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現在「生田の森」は、生田神社境内の北側に、少しだけその名残を残しています。


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「生田の森」は、「湊川の戦い」以外でも、12世紀末には源氏平家の間で行われた「一ノ谷の戦い」の舞台にもなり、また、16世紀末には、織田信長軍と荒木村重の間で行われた「花隈城の戦い」の舞台にもなりました。

いつの時代でも、砦となる立地条件は同じということですね。


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余談ですが、ここ生田神社は神戸市いちばんの繁華街である三宮のど真ん中にあり、近年では、女優の藤原紀香さんとお笑いタレントの陣内智則さんが結婚式をあげた神社として、全国に知られるところとなりました。


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以来、ここで結婚式をあげたいというカップルが増えたそうで、わたしが訪れたこの日も、1組のカップルが結ばれていました。

キッカケとなったふたりは、別れちゃいましたけどね(笑)。


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話を戻して、『太平記』によると、「生田ノ森の東より丹波路を差(さし)てぞ落行ける」とあります。

次回は落ち延びる新田軍の足跡を追います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-03 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その97 「本間重氏遠射之跡」 神戸市兵庫区

「湊川の戦い」で足利の陸軍と対峙したのは楠木正成軍でしたが、海から攻め寄せてくる水軍と戦ったのが、新田義貞軍でした。

義貞は弟の脇屋義助とともに、足利尊氏水軍の上陸地点を経ヶ島と考え、これを迎え討つべく、大輪田ノ泊・経ヶ島付近に陣を布きます。

経ヶ島とは、平清盛がこの地に築いた人工の島です。


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戦いの舞台となった和田岬は、現在は三菱重工の敷地となっていて史跡といえるものはありませんが、近くの和田岬小学校の校庭に、「本間重氏遠射之跡」と刻まれた石碑があります。


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『太平記』巻16「本間孫四郎遠矢事」によると、海から攻め寄せてきた足利の大軍に対して、新田方の本間孫四郎重氏という弓の名手が、沖に浮かぶ足利方の軍船めがけて遠矢を放ったところ、魚をくわえた海鳥の羽をつらぬき、それらもろとも敵の船に飛び込んでいったといいます。


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さらに『太平記』によれば「その矢六町あまりを越て」とあり、矢が六町(約650m)も飛んだということが記されています。


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これ以降、この地は「遠矢の浜」と呼ばれるようになったといい、浜が埋め立てられた現在でも、「遠矢町」「遠矢浜町」といった地名が当時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-02 22:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その93 「楠木正成戦歿地」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川神社の本殿の裏に、何やら特別な場所といった感じの一角があります。

近寄ってみると、「楠木正成公戦歿地」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、足利尊氏の弟・足利直義軍と戦った楠木正成は、激戦の末、弟の楠木正季と共に自刃して果てますが、ここがその場所だったということでしょう。


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「戦歿地」玉垣に囲われていて、門が閉ざされています。

中を参拝するには社務所への申し出が必要です。

なんとも厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のよう。


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説明看板によると、正成はこの地で、一族郎党60余人と共に自刃したとあります(『太平記』では73人全員が自刃したと記されている)。


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『太平記』によると、楠木軍は総勢700余りで、足利尊氏・足利直義両軍に囲まれてからは、前方の直義軍に向かうのが精一杯で、三刻(6時間)ほどの間に16回もの激戦がくりひろげられ、「その勢次第々々に滅びて、後わずかに七十三騎にぞ成たりける」と、楠木方はとうとう73人になってしまったと記されています。

もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられます。


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伝承によれば、まず部下たちが念仏を十回唱えて一度に腹を切り、その後、正成、正季兄弟が刺し違えて果てたといいます。

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七度生まれ変わっても朝敵を倒したい」と答えたというくだりは有名ですね。


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以下、『太平記』巻16「正成兄弟討死事」原文。


正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。


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この「七生滅賊」の逸話に、後代に「報国」の意味が加わって「七生報国」となり、先の戦時中のスローガンとなりました。

正成、正季兄弟が本当にこのような会話を交わしたかどうかはわかりませんが、600年後、まさか自分たちの言葉が、国民を死地に送り込むための呪文になろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-27 00:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その91 「湊川公園」 神戸市兵庫区

前稿「楠木正成本陣跡」から直線距離にして約1km弱東にある湊川公園です。

この辺りは、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、楠木正成軍と足利尊氏の弟・足利直義を司令官とする陸軍が激突した場所です。


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公園内には、巨大な楠木正成の騎馬像が建てられています。

600回目の正成の命日に当たる昭和10年(1935年)5月25日、神戸新聞社の音頭で、楠正成公600年祭に市民の浄財で建設されたそうです。


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精悍な顔をしています。


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説明板です。


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こちらは、『大楠公六百年祭齋行之碑』です。


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公園の片隅には、『旧湊川址』と刻まれた石碑があります。

現在、湊川はここから2kmほど西に「新湊川」と呼び名を変えて流れていますが、当時の湊川は、今の新開地本通りを流れていました。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」によれば、楠木軍約700に対して、足利軍50万

まあ、これはかなり盛った数字かと思われますが、兵力に大差があったのは事実でしょう。

数の上では圧倒的に不利な楠木軍もよく奮戦し、一時は大将の捕まえんとするところまでいったといいますが、結局は多勢に無勢、約6時間の奮戦のすえ、正成は弟の楠木正季とともに自刃して果てます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-22 21:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その90 「楠木正成本陣跡」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区の山の手にある会下山公園を訪れました。

ここは、湊川の戦いにおいて楠木正成が陣を布いたといわれるところです。


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『太平記』には楠木正成軍が陣を置いた地について、「湊川の西の宿にひかえて、陸地の敵に相向う」と記されており、『梅松論』には「湊川の後ろの山より里まで」とあります。

それらの条件を満たす場所といえば、高台になっているこの場所なんですね。

現在は、見晴らしのいい公園になっており、その公園内のいちばん高いところに、「大楠公湊川陣之遺蹟碑」と刻まれた巨大な石碑が建てられています。


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建武2年(1335年)12月11日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は、竹之下で新田義貞を破り、翌年の1月、京に攻め上がりましたが、その隙をついて北畠顕家が尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破します。

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さらに豊島河原・打出浜の戦いにも敗れた尊氏は、海路九州へ敗走しますが、その後、多々良浜の戦いに勝利して体制を立て直すと、光厳天皇(北朝初代天皇)を奉じて東上を開始。

これを迎え撃つため、楠木正成は京を発し、5月24日、既に新田義貞が布陣する湊川に着陣し、ここ会下山に本陣を布きます。

楠木勢の総兵力は、わずか700余りだったといわれます。


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石碑の揮毫は東郷平八郎元帥だそうです。


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石碑の建つ場所からは、神戸市の中心部が一望できます。

現在は高いビルに阻まれていますが、かつてはここから海辺が見渡せたはずです。

勝算の薄い戦いを前にしてこの地に着いた正成たちは、この景色を前に何を思っていたのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-21 18:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その66 「打出合戦、大楠公戦跡の碑」 兵庫県芦屋市

建武3年(1336年)2月10・11日に起きた、打出合戦の地を訪れました。

現在、その跡地である兵庫県芦屋市楠木町には、「大楠公戦跡」と刻まれた巨大な石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちの期待に呼応するかたちで、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻した足利尊氏は、建武2年(1335年)12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破すると、その勢いで、翌年1月に京都へ乱入しますが、それに対し、後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を呼び戻し、足利軍と激突させます。

ここで北畠・新田ら朝廷軍に押された足利軍は、1月30日に京を脱出し、丹波路を通り三草越えの道をとって、2月3日には兵庫の魚ノ御堂に陣を布きます。

ここで足利軍は、周防国の大内氏に援軍を得ることができ、再び京奪還を目指して東へ軍を進めました。

その途上、追撃してきた新田義貞・楠木正成軍と、この地で激しい戦闘となります。

これが打出合戦です。


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結局、尊氏はこの合戦に敗れ、12日に全軍をあげて兵庫から船で海路九州へと敗走

このときの様子を『太平記』では、「とるものもとりあへず、乗りおくれじとあはて騒ぐ。舟はわずかに三百余艘なり。乗らんとする人は二十萬騎に余れり」と伝えています。

かなり混乱していたようですね。


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このあたりの住所は、「芦屋市楠木町」といいます。

言うまでもなく、その由来は楠公さんから来たのでしょう。


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国道2号線を挟んで北側が楠木町、南側が打出町です。

さらにその南側は、現在は阪神高速道路が走っていますが、当時はでした。

平成7年(1975年)1月17日の阪神・淡路大震災のとき、高速道路が横倒しになって、バスが半分落下しかけていた映像を覚えている方も多いかと思いますが、ちょうどあのあたりです。


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また、同じく『太平記』における終盤のクライマックスといえる「観応の擾乱」のなかで、足利直義と足利尊氏・高師直の兄弟間で戦った「打出浜の戦い」も、このあたりが舞台でした。


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ちなみに、この「打出」は、「打出の小槌」の伝承の舞台でもあります。

歴史に深く関わる摂津国打出浜は、現在も芦屋市打出という住所で往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-08 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)