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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~

樫井古戦場跡の近くに、同戦いで討死した塙団右衛門直之の墓があります。
団右衛門は「その6」で紹介した「夜討ちの大将」として、後世に人気の武将ですね。

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団右衛門の出自は不明ですが、はじめ織田信長に仕えるも酒癖の悪さでクビになり、続いて、豊臣秀吉に仕えるも、またも同じ理由で出奔、その後、賤ケ岳の七本槍の一人、加藤嘉明のもとで文禄・慶長の役に出陣し、敵の番船を乗っ取る大功を挙げます。
しかし、関ケ原の戦いで徳川方についた嘉明隊の鉄砲大将に任じられながら、自ら槍を取って敵中へ一騎駆けをしたため、嘉明から「大将の器にあらず」と叱責され、これに気を悪くした団右衛門は、加藤家を去ります。

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その後、小早川秀秋、松平忠吉、福島正則と主を変えるも長続きせず、そして大坂冬の陣が始まると、豊臣方に与すべく大坂城に入城します。
そして、本町橋の夜襲で名をあげますが、最後は、「その12」で紹介したとおり、功名に焦って討死するんですね。
人気の高い武将ではありますが、「大将の器にあらず」といった嘉明の評価は正しく、スタンドプレイの武将だったといえるでしょうか。

余談ですが、現地説明板の英文を読んでみると、「大坂夏の陣」の英訳は「Osaka Summer Campaign」となるんですね。
「陣」って、「キャンペーン」なんですか?(笑)
じゃあ、さしずめ淀殿は、キャンペーンギャル?(笑)
      ↓↓↓
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司馬遼太郎の短編小説『言い触らし団右衛門』のなかで団右衛門は、分の悪い豊臣方についた理由について、次のように言います。

「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う」

後世の講談や小説で人気を博した団右衛門。
ある意味、望みを果たしたといえるでしょうか。

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塙団右衛門の墓所は、写真のように住宅密集地の中にひっそりと、見落としてしまいそうなロケーションにあります。
目立ちたがり屋の塙団右衛門からすれば、少々不満かもしれませんね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-20 23:10 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(2)  

坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝は、やはり事実だった! 

e0158128_21185141.jpg先ごろ、坂本龍馬の剣術の腕前を証明する資料が見つかり、話題になっているようです。
記事によれば、今年6月、高知県立坂本龍馬記念館が北海道に住む坂本家の子孫の方から寄贈を受けた資料の中に、かつて「北辰一刀流兵法皆伝」の巻物が実在したとの記述があり、その後、火災で失われたと説明されている文書が確認されたそうです。
嬉しいニュースですね。

幕末の剣豪、千葉周作が創始した北辰一刀流千葉道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったと伝えられますが、その一方、実際の目録や皆伝を示す史料が現存しないため、近年は疑問視する声が多くあがっていました。
剣の達人と言われながらも護身用にピストルを持ち、実際に剣を使って戦った逸話もなく、しかも、不意をつかれたとはいえ、近江屋でいとも簡単に刺客に討たれたことなどから、龍馬が剣の達人だったという説は、後世の物語が作り出した虚像なんじゃないか?・・・と。

実際、わたしたちが知る坂本龍馬の人物像というのは、以前も当ブログの「坂本龍馬の人物像についての考察。」の稿でも述べたとおり、虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっています。
とくにその「龍馬像」を決定的にしたものが、故・司馬遼太郎氏の代表作『竜馬がゆく』で、わたしたちの知る龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はありません。
ただ、その『竜馬がゆく』には、司馬氏の創作部分が多く入っており、世間一般の龍馬像に懐疑的な意見の方々は、それを根拠に批判します。
坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎の大罪で、実際の坂本龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・と。

たしかに、司馬氏の描いた竜馬像のすべてを鵜呑みにするのは間違いだとは思います。
でも、司馬氏のファンの立場として反論させてもらうと、司馬氏は、『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければいいというものでもないかもしれませんが、少なくとも、司馬氏の描いたフィクションというのは、氏の想像の世界だけで創りだされた荒唐無稽なものではなく、莫大な史料の断片を繋ぎあわせて確立した龍馬像であり、限りなく実像に近い虚像だと、わたしは思います。

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京都の東山にある龍馬の墓所です。
ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、最も大きな面積に祀られているのは木戸孝允ですが、龍馬と中岡慎太郎の墓も、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いの様相で葬られています。
もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?
ここへ来ると、いつもそう思います。

とにもかくにも、このたびの発見は、龍馬の実像にせまる大きな史料になりそうですね。
剣の達人論争も、これで決着になるかな。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-14 21:25 | 歴史考察 | Comments(0)  

花燃ゆ 第31話「命がけの伝言」 ~高杉晋作の大演説~

 第一次長州征伐後に藩の実権を手中にした俗論党の首領・椋梨藤太は、次々に正義党派閥の者たちを槍玉にあげ、片っ端から処刑していきます。身の危険を感じた高杉晋作は、海を渡って筑前国福岡藩に逃れ、同藩志士の月形洗蔵や女流歌人・野村望東尼の庇護を受けます。桂小五郎禁門の変以後、但馬国出石藩に身を隠したまま。井上聞多は刺客の襲撃により瀕死の重傷を負い、伊藤俊輔は別府温泉に逃げていました。つい数ヶ月前まで長州藩を動かしていた男たちが、あっという間に政治の外側に追い出されてしまいます。

 晋作がつくった奇兵隊をはじめとする諸隊も、すべて解散を命じられ、萩城下から追い出されました。彼らは長府の功山寺近くに集まり、今後の去就についての相談を繰り返しますが、なかなか意見の一致をみません。強いリーダーシップを持った人物がいなかったんですね。このときの奇兵隊総督は赤禰武人でしたが、赤禰は俗論党に取り行って隊の存続を図ろうとしていました。それを潜伏先で知った晋作は、再び長州の地に戻って俗論党打倒することを決意します。

 戻ってきた晋作は、諸隊らの駐屯地にふらりと顔を出します。このとき赤禰は不在でした。そこで晋作は、「今こそ立ち上がるべきときである」と、隊士たちに激をとばしますが、なかなか皆、乗ってきません。俗論党による粛清の嵐に、行き場を失った諸隊士たちのモチベーションはダダ下がり状態で、晋作の攻撃的な策より、赤禰の進める俗論党との融和策のほうが、現実的だと思えたのでしょうね。無理もないことだったでしょう。ここに集まる諸隊士たちはわずが80人ほどで、弱体化したとはいえ数千人はくだらない長州藩正規兵が相手では、衆寡敵せずと見るのが当然でした。

 そんな彼らの反応を、赤禰の政論に毒されているとみた晋作は、次のように吠えます。

 「赤禰とは何者なるか! 大島郡の土百姓ではないか! これに反してこの晋作は、毛利家譜代恩顧の士である。武人の如き匹夫と同一視される男児ではではない!」

 身分階級にとらわれない奇兵隊を創設した晋作の言葉とは思えない暴言ですね。同じく土百姓あがりが多数いる諸隊のかれらは、晋作の言葉にドン引きします。これまた無理もありません。晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。ドラマでは、それに近い台詞を吐いていましたね。実際の晋作は、言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。このときの晋作について司馬遼太郎氏は、小説『世に棲む日日』のなかで、「晋作という男は直感で物事を判断する資質には富んでいたが、理屈で相手にわからせるという能力に欠けていた」と分析しています。天才にありがちな欠陥かもしれません。

 そしてここで、晋作は沈黙する隊士たちに向けて、後世に有名な大演説をぶちます。

 「もし諸君が僕の意見を聞いてくれないとすれば、もはや諸君に望むところはない。ただ従来の旧誼に甘え、一頭の馬を貸してもらいたい。僕はその馬で萩へ駆けつけ、御両殿様に直諫する。もし、御両殿様に受け入れてもらえなければ、その場で腹を掻っ切り、臓腑をつかみだし、城門へそれをたたきつけて、御両殿様のご聡明をめぐらし奉ろうと存ずる。萩への途中、もし俗論等にはばまれて斬殺されるとも、あえて厭わぬ。いまの場合、萩に向かって一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里ゆけば二里の義をあらわす。尊皇の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。」

 この演説は、長州維新史料のあらゆるところに記録されているそうで、よほど当時、語り伝えられたのでしょう。高杉晋作のいちばんの見せ場といえるかもしれません。ただ、このとき諸隊士たちは晋作の迫力に圧倒されますが、この時点ではまだ、誰一人晋作とともに立ち上がろうとする者はいませんでした。まさに、たった一人の決起。ここから、晋作の奇跡の大逆転劇がはじまります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-03 16:57 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第22話「妻と奇兵隊」 ~下関戦争と奇兵隊~

 文久3年(1863年)5月、馬関海峡を通る外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行した長州藩でしたが、当然、外国側がそのまま黙っているはずがなく、6月1日にはアメリカ軍監が下関沖に現れ、長州藩の軍監2隻を撃沈します。続いて5日にはフランス軍監2隻が下関に入ってきて、長門下関の砲台を撃破。さらに陸戦隊約250人に上陸されて砲台を占領され、長州藩の本営・慈雲寺を焼かれてしまいます。完膚なきまでに叩きのめされたといっていい惨敗でした。幼稚園児が大人に喧嘩を売ったようなもので、当然といえば当然の結果ですよね。そもそも、一橋慶喜がその場しのぎで決定した5月10日の攘夷決行命令でしたから、実行した藩はほとんどありません。ところが、長州藩だけは藩をあげて実行しちゃうんですよね。このときの長州藩について、司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように表現しています。

 「長州は藩をあげて気が狂った。攘夷々々と唱えるうちに、ついにゆきつくところまで行きついたという観がある。このわずか三十六万九千石の藩が、世界じゅうを相手に宣戦布告をやってのけたようなものであった」

 まさしく、この知らせを聞いた幕府や他藩は、長州藩は発狂したと思ったでしょうね。その結果、長州は外国との軍事力の違いを、まざまざと思い知らされることになります。

 事態を重く見た藩当局は、萩にて隠棲中だった高杉晋作を登用し、軍制の再構築を命じます。このとき晋作は若干24歳。後世に「天才」の呼び声が高い晋作ですが、この藩の存続に関わる危機的状況において、このような若僧に重責を負わせるあたり、晋作の軍才というのは、当時から非凡な存在として認められていたということでしょうね。

 下関についた晋作は、6月6日、新しい軍組織の案を提唱します。事ここまで至ったからには、もはや武士の身分に限らず、町民、農民なども混じえた有志の者を選抜し、近代的な軍隊を組織しようというものでした。有名な「奇兵隊」ですね。この案は、晋作の師匠である吉田松陰の持論『草莽崛起論』、あるいは著書の『西洋歩兵論』に影響されたものだといわれていますが、この時代、こういった合理的な発想で組織が作られること自体、革命的なことでした。封建社会の秩序を守っているのは、身分制度でした。身分があることによって、社会が安定して構築されていました。ところが、晋作の構想する奇兵隊では、それを一挙になくしてしまおうというわけです。またまた、『世に棲む日日』から引用しますと、

 「もはやその瞬間から封建身分社会が崩れたことになるであろう。げんにこの『奇兵隊』から、明治維新は出発するといっていい。・・・(中略)・・・徳川封建制という巨大な石垣のすき間に無階級戦士団という爆薬を挿しこみ、それを爆発させることによって自分の属する長州の藩秩序をゆるがせ、ついに天下をも崩してしまったのである。」

 とあります。長州藩が明治維新の主役になり得たのも、この「奇兵隊」の着想があったからかもしれません。

 しかし、軍を組織するにはお金がかかります。奇策を講じることについては天才的頭脳の持ち主だった晋作ですが、金の工面はできません。そこで泣きついたのが白石正一郎という下関の豪商。正一郎は商人ながら尊皇攘夷の志を強く持ち、長州藩士のみならず、幕末志士たちの多くと交流し、そのスポンザーとなります。そんな正一郎でしたから、当然、晋作が組織した奇兵隊の結成にも惜しみなく援助し、以後も晋作を経済面で大いに支えます。ところが、あまりにも支援しすぎたため、明治維新を迎える前に破産してしまうという結果をまねいちゃうんですね。しかし、正一郎はそのことについて、少しも後悔していなかったとか。幕末の豪傑というのは、武士に限ったことではなかったようです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-01 19:39 | 花燃ゆ | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~

端谷城跡から南西に1.5kmほど下ったところにある丘陵上に、福谷城跡があります。
現在の住所でいう神戸市西区櫨谷町一帯には、端谷城を本城として多くの支城が築かれていましたが、ここ福谷城も、その支城のひとつだったようです。

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城主はわかっていませんが、おそらく端谷城と同じ衣笠氏の一族だったと考えられています。

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現在、城跡の主郭跡らしき場所は、秋葉神社が建っています。
神社の参道ということで、登山道は舗装されていて歩いやすくなっていたのですが、かなりの急斜面で、メタボ腹のわたしは息切れしまくりです。

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この急斜面、写真で伝わるでしょうか?

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主郭跡とみられる場所にある、秋葉神社です。
ありがたいことに、境内横に物見台っぽい展望台が建てられていました。

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そこから見た西側の眺望です。
現在、この辺りは狩場台糀台という地名で、西神ニュータウンといわれ、神戸市内有数のベットタウンとなっています。
30年前は何もない山だったんですけどね。

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境内北側は、自然のままの山道になっています。
中へと進むと、土塁らしき遺構が見られます。

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そのまま更に北へ進むと、藪が拓けた場所が見えてきます。
曲輪跡か何かかな?・・・と近づいてみると・・・

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ゴルフ城・・・じゃなかったゴルフ場に出ちゃいました(笑)。
ファー!!!

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上の写真は福谷城跡の鳥瞰図
図の切れている上が、ゴルフ場になっています。
史料が乏しく城史が定かではない福谷城ですが、おそらく、天正8年(1580年)2月の織田軍の攻撃によって、本城の端谷城と共に落城したと考えられています。

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それにしても、神戸市西区や北区には、福谷、櫨谷、寺谷、名谷、伊川谷、押部谷、箕谷と、「谷」の付く地名がやたら多いですね。
で、そのほとんど場所に、かつて城があったとされています。
その谷と谷の間には、「◯◯ヶ丘」「◯◯台」といった地名が必ずあるのですが、それらのほとんどは、昭和の時代に開かれたニュータウンです。

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司馬遼太郎氏の何の作品だったか忘れたのですが、その中で司馬さんは、古来、日本人はずっと、「谷」を恵み地としてきた、ということを述べておられました。
谷には川が流れ、その川を水源に、田畑を耕してきた。
一方で谷には洪水がつきもので、人々は、天災と戦いながら、それでも谷に住み続けた・・・と。
それが、産業が発達した近代、人々は災害の多い谷を嫌って、「丘」へと移り住んだ。
で、いつの間にか、「◯◯ヶ丘」といった場所が、人々の憧れの地となった。
でも、司馬さんは、新しい地名の「丘」「台」にはまったく魅力を感じず、歴史と共に歩んできた「谷」にこそ、深い感動を覚える・・・と。
うろ覚えで申し訳ないのですが、たしか、そんな旨のことを述べられていました。
なるほどなあ・・・と。
だから、「谷」には必ずがあったんですね。
「谷」に比べたら、「丘」や「台」は安っぽい土地なんですね。
そういうわたしは、丘に住んでるんですが(笑)。

話がずいぶんそれちゃいました。
次回に続きます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-05-07 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その1 ~間部老中要駕策の自供~

 安政6年(1859年)5月25日、萩から護送された吉田松陰は、6月25日に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日、伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まります。松蔭の吟味を担当したのは、主に寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清などの5人で、幕府の司法の執行権を持つ役人がすべて揃っていました。

 松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜との関係、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった落とし文との関係についてでした。雲浜は、松蔭よりもはるかに名の通った尊皇攘夷のカリスマ的志士で、「戊午(ぼご)の密勅」の下賜に関わって大老・井伊直弼の失脚を謀った咎で捕縛され、松蔭が刑死する少し前に獄中死します。その雲浜がかつて長州を訪れたとき、密談して反幕府の政治工作を企てたのではないか、というのが、松蔭にかけられた嫌疑でした。しかし、松蔭は雲浜と面会はしたものの、政治的な結託はしておらず、むしろ、雲浜という人物を快く思っていなかったようで、臆することなく否認します。

 また、幕政を批判した落とし文についても、取調官は筆跡が酷似していると追求しますが、松蔭はまったく身に覚えがなく、だいいち、囚人として蟄居の身でありながら、京のまちで落とし文などといった政治工作を行うのは物理的に不可能であり、言いがかりも甚だしい容疑でした。松蔭はいいます。
「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」
(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)
と。
その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

 このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれません。少なくとも命は救われたでしょうね。しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、井伊大老と直接話しをするための策というのは、ドラマのオリジナルの解釈であり、フィクションです。だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。光明正大にもほどがありますよね。司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、このときの松蔭のことを次のように書いています。

 「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」

 取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。

 「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」

 誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?

「余は人の悪を察すること能わず、ただ人の善のみを知る」
「余はむしろ、他人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」


 これも、松蔭の残した言葉です。
~♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがい♪~
なんて歌がありましたが、人を信じるということと、聞かれてもしない自分の罪を白状するのとは違うように思います。短慮な失言で政治生命の危機に立たされる政治家は現代でもたくさんいますが、松蔭のそれは、短慮というよりも、むしろ確信犯的に自ら死を呼び寄せたとしか思えない失言ですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-27 22:19 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第9話「高杉晋作、参上」 ~高杉晋作の松下村塾入門~

 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
 のちにそう評された幕末の風雲児、高杉晋作が登場しました。晋作の生まれた高杉家は、家禄200石という大組の藩士で、才能と運次第では、藩の家老に準ずる執政官にまで出世できる家柄、つまり、士官・将校の家でした。そんな名家の一人息子として育った晋作は、いわばボンボンだったわけです。のちに長州藩を代表する天才革命家となる晋作ですが、幕末この時代、高杉家のような上流階級から革命家になったという例は、長州藩のみならず薩摩藩、土佐藩などを見ても珍しく、ましてや、その指導者になった例は皆無でした。上流階級であれば、とくに現状に不満を感じることもありませんからね。そんなところから見ても、高杉晋作という人物は、やはり異端児だったわけですね。

 名家のひとり息子としてやや過保護ぎみに育った晋作は、少年時代から城下の吉松淳蔵の私塾に通い、その後、藩校の明倫館で学びます。成績はそれなりに優れていたようですが、学問にはさほど魅力を感じていなかったといいます。この時期の晋作について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、次のように分析しています。

 「本来、学校というのは、平均的な青年にとって十分な意味を持っている。もともと教育という公設機関は、少年や青年というものの平均像を -あくまでもそれを- 基準とし、一定の課程を強制することによって彼らの平均的成長を期待しうるものとして、そのような想定のもとに設置され、運営されている。自然、平凡な学生の成長にとっては学校ほど -どのような学校にせよ- 有意義な存在はないかもしれないが、精神と智能の活動の異常に活発すぎる青年にとっては、この平均化された教授内容や教育的雰囲気というものほど、多くの場合、有害なものはないかもしれない。」

 天才・高杉晋作にとっては、既存の学校はつまらないだけだったのかもしれません。そんな晋作を戦慄昂揚させたのが、吉田松陰松下村塾だったというわけです。

 ドラマでは、明倫館の教授を務める小田村伊之助から松下村塾を勧められた晋作でしたが、通説では、久坂玄瑞の紹介によって入塾したとされています。晋作と玄瑞は吉松淳蔵の塾で机を並べた仲であり、同じ秀才仲間として、玄瑞は晋作を誘ったのでしょうね。ドラマでは、晋作にライバル心をむき出しにしていた玄瑞でしたが、『世に棲む日日』では、むしろ晋作のほうが玄瑞を意識しています。このときすでに玄瑞の英才ぶりは萩城下に轟いており、しかも年齢は晋作のほうがひとつ上ですから、晋作のほうが玄瑞に対して嫉妬心を持っていたと見るほうが自然かもしれません。いずれにせよ、のちにこのふたりが松下村塾の双璧、龍虎と評されるに至ります。

 晋作が入門するときに詠み上げた詩文に対して、「久坂君のほうが優れている」と評したシーンがありましたが、このエピソードが実話かどうかはわかりませんが、『世に棲む日日』をはじめ多くの物語に描かれている話です。といっても、松蔭が晋作を買っていなかったわけではなく、晋作の性格を一瞬で見抜き、あえて不快にさせて反応を見たというんですね。このくだりについて『世に棲む日日』では、

 「松蔭は、高杉のような自負心のつよい男は一度その「頑質」を傷つけて破らねばならぬとおもった。・・・中略・・・むしろ、久坂に対する競争心をあおると、かならず他日、非常の男子になると思った。」

 としています。玄瑞との出会いのときの手紙のやりとりといい、誰にでも優しかったとされる松蔭像とは少し違う接しかたですよね。松蔭という人は、最初にどう相手の心を動かすかがわかる人だったのでしょうね。

 あと、吉田稔麿入江九一も入塾していましたね。彼らふたりと晋作、玄瑞の4人で、のちに「松下村塾の四天王」と評されるに至ります。また、伊藤利助も顔見せ程度のちょい役レベルで出てきていましたが、このなかで、ドラマの最終回近くまで出演するのは、利助こと、のちの伊藤博文だけなんですね。他の4人は、たぶん夏までにはいなくなってしまいます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-02 22:14 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第7話「放たれる寅」 ~松蔭の獄中生活~

 野山獄に在獄中の吉田松陰が、仲間の囚人たちに「孟子」を講義したという話は有名ですよね。この講義は、松蔭が収監されてから約半年が過ぎた安政2年(1855年)4月13日からはじめられ、松蔭が出獄する同年12月15日まで、合計34回行われたといいます。はじめの頃は松蔭が一方的に講義していましたが、いつの頃からか囚人たちが輪読するようになり、やがて講義はディスカッション形式で行われるようになったとか。のちの松下村塾のスタイルは、ここから始まっていたようです。

 講義は昼夜に渡って行われました。士分の収監される上牢といっても、牢獄である以上、行燈などの照明設備は整っておらず、夜間は講義などできる条件ではなかったのですが、松蔭の人となりに感服した獄屋番の福川犀之助が、藩当局に掛けあって許可を得たといいます。のちに犀之助は、弟の高橋藤之進とともに松蔭に弟子入りします。

 この「孟子」の講義は、松蔭の出獄後も蟄居していた杉家で続けられ、翌年の安政3年(1856年)6月13日に全編を終了。その講義録を「講孟箚記(こうもうさつき)」としてまとめ、のちに題名を「講孟余話」と改め、松蔭の主著となります。ここに説かれている孟子解釈には、松陰の国家観人生観が明確に示されており、のちの松下村塾での教育原点となります。

 ドラマに出てきた「福堂策」は、残酷中の松蔭が記した牢獄改革案で、その考えは、懲罰刑主義ではなく教育刑主義でした。囚人に教育を施し、更生させて世に送り出す実りの場としたい。獄を幸福の殿堂にしようという提案です。いかにも性善説を唱える孟子をベースとした松蔭らしい考えですが、自身が囚人の身でありながら、獄の改革案を講じるなど、なんとも楽天的な頭の構造ですよね。まずは自分の心配をしろ!と(笑)。そんな松蔭について、作家・司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように述べています。

 松陰は、どうも快活すぎる。
 これは天性のもので、かれの思想でも主義でもなく、それがうまれつきだけにこの若者を自暴自棄にすることはいかなる悪魔でも不可能かもしれない。かれはどういう環境におちこんでしまっても、早速そこを自分のもっとも棲みやすい環境にしてしまう点、こういう凄みかたを才能であるとすれば、この人物は稀有の天才であったといえる。


 どうしようもなくポジティブシンキングだったようですね。松蔭はB型?(笑)

 松蔭の在獄期間は1年2ヵ月に及びましたが、その間、「孟子」の講義だけをしていたわけではなく、自身の学問も怠らず、おびただしい読書量だったことも有名ですね。その量、実に554冊だったとか。1日1冊では追いつきません。また、獄中の著書においても、先述した「福堂策」をはじめ、「二十一回猛士説」「士規七則」「回顧録」「寃魂慰草」「野山獄文稿」「野山獄雑著」「賞月雅草」「獄中俳諧」「清国威豊乱記」「書物目録」「抄制度通」など、たいへんな量にのぼります。いつ眠ってたんでしょうね。

 安政2年(1855年)12月15日、松蔭に出獄命令が下され、在宅での蟄居となります。獄を去る日、野山獄の囚人仲間たちは、松蔭のために送別句会を催しました。そのとき高須久子の詠んだ句が、ふたりが心を通わせたのではないかという憶測をよんでいます。

 「鴫(しぎ)立つて あと淋しさの 夜明けかな」

 「あなたがここを出て行くと、わたしは淋しい夜明けを迎えることになります。」てな感じでしょうか? まあ、この句をもってして恋愛感情があったかどうかをよみとるのは難しいですが、後年、松蔭が江戸に護送される際に詠んだ和歌とあわせて、ふたりのあいだにプラトニックラブがあったんじゃないかと考えられています。松蔭の生涯で唯一の浮いた話なんですが、どういうわけか、ドラマの句会では久子の句は描きませんでしたよね。なんでやらなかったのでしょう? このシーンのために久子をフィーチャーしていたと思っていたのですが・・・。

 出獄した松蔭は、仲間たちも出獄させてもらえるよう盛んに運動し、やがて8割がたの囚人を釈放させます。野山獄での出会いは、松蔭にとっても、他の囚人たちにとっても、大きな財産になったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2015-02-16 21:37 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第2話「波乱の恋文」 ~吉田松蔭の奥羽脱藩旅~

 江戸遊学から奥羽の旅、そして脱藩帰国蟄居と、本話は吉田松陰の生涯にとってはかなり重要な部分だったと思うのですが、ドラマではなんとも足早に流されただけで、メインはの初恋物語と、その姉・寿が兄のせいで玉の輿に乗れなかったという、どうでもいい創作話の回でした。そこで今回は、松蔭のことのみに絞りたいと思います。

 嘉永4年(1851年)3月、江戸遊学の旅に出た松蔭は、儒者の安積艮斎、古賀精里、兵法家の山鹿素水らのもとで学びますが、なかでも最も熱心に通ったのが、砲術家にして洋学家でもある佐久間象山塾でした。その博識慧眼に心酔した松蔭は、以後、象山を最高の師と仰ぎ、また、そんな松蔭を象山も可愛がり、最大の理解者となります。

 松蔭は江戸での生活で、藩内藩外に多くの友人を得ました。熊本藩士の宮部鼎蔵、南部藩士の江帾五郎、房州の学者・鳥山新三郎、その他、それぞれの藩の秀才たちと深く繋がったことで、大いに刺激になったことでしょう。この時期の松蔭の実家に宛てた手紙には、それらの友人たちのことが多く記されているそうです。現代の大学生の留学と変わらないですね。

 江戸に着いて数ヶ月が経った7月中旬、松蔭は奥羽(東北地方)に遊学したいという願書を藩に提出します。宮部鼎蔵、江帾五郎との3人旅でした。その目的は、奥羽にロシア船が出没するという情報に危機感を覚え、その視察のための旅、というのがドラマの設定でしたね。別の説では、江帾五郎が亡兄の仇討ちの旅に出ると言い出し、その助太刀として鼎蔵と松蔭が共にした、という話もあります。どちらが真の目的だったかはわかりませんが、マブダチ3人での旅に、さぞかし胸を踊らせたことでしょう。しかし、この奥羽の旅で、あろうことか松蔭は脱藩の罪を犯してしまうんですね。

 その経緯を説明すると、旅の出発は12月15日の予定で、5ヵ月前の7月に願書を受理されて許可を得ていたにもかかわらず、12月初旬になっても過書(通行手形)が発行されず、業を煮やした松蔭は、過書を持たずに旅に出ます。過書とは、現代でいうところのパスポートのようなもので、これを持たずに他藩を旅するということは、密出国になり、自藩を捨てたことになります。封建社会に生きる武士にとって、藩を捨てるということは主君を見限るということで、大罪に値します。のちに幕末の騒乱期になると、流行のように脱藩する若者が続出しますが、この時期はまだ、何よりも秩序が重んじられていた時代で、その罪科は当人だけでなく、一族にも及びます。そんな大罪を、松蔭はなぜ犯してしまったのでしょうか。

 このときの松蔭の心理状態について、司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』になかで、次のように解釈しています。
 「松陰は矛盾している。秩序美を讃美するくせに、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった。原理において正しければ秩序は無視してもかまわない、むしろ大勇猛をもって無視すべきであると考えている。いや、いまはじめてそのことを考えた。(中略) 人間の本義のためである。人間の本義とはなにか、一諾をまもるということだ。自分は他藩の者に承諾をした。約束をした。もしそれを破れば長州藩士は惰弱であるというそしりをまねくであろう。もし、長州藩士の声価をおとすようなことがあれば、国家(藩と家)に対する罪はこれほど大きいことはない。」

 脱藩によって受ける罪科は「私」であり、友との約束は「公」だと考えたのでしょうか。幼い頃から叔父の玉木文之進に叩きこまれた教えが、ここでも働いていたのかもしれません。松蔭という人物の真面目さ、純粋さが招いた罪だったといえるでしょう。本人は罪とも思っていなかったかもしれませんね。

 脱藩した松蔭は、約5ヵ月に渡る奥羽の旅を経て、4月、江戸に戻り藩邸に出頭します。このとき、世間知らずの松蔭は、謹慎程度の処分を予想していたともいいますが、罪科は思いのほか大きく、早々に帰国蟄居を命じられ、同年12月、藩士・吉田家のお取り潰し、家禄の没収、武士身分の剥奪という厳しい処分が下ります。これまでエリートコースを突き進んできた松蔭にとって、初めての挫折だったといえるでしょう。この時、妹の縁談が破談になったという記録は、たぶん残っていません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-14 20:48 | 花燃ゆ | Comments(0)  

憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に思う、未来の戦前責任。

先般、安倍晋三内閣が臨時閣議を開き、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更を決定しましたね。
これにより、「専守防衛」を堅持してきた戦後日本の安全保障政策は、大きく変わることになります。
まさに、ここが日本の歴史的転換点といえるでしょう。

集団的自衛権云々については、さまざまな意見があるでしょうし、たいへんデリケートな問題でもあるので、わたしの浅薄な知識で軽はずみな私見を述べることは控えますが、ただ、このたびの安倍内閣のやり方については、少なからず不安を感じざるを得ません。
憲法の解釈変更によって法律が変えられるのであれば、それはもはや立憲主義の崩壊といえるのではないでしょうか。
そもそも立憲主義とは、国民個々の自由と権利を守るため、憲法で権力者を拘束するためのものです。
その権力者が権力を使って憲法の解釈を変えるというのは、明らかに本末転倒でしょう。
一昨日より「暴挙」という言葉が飛び交っていますが、決して大げさではないと思います。

安部首相は記者会見で、
「海外派兵は一般に許されないとの原則は全く変わらない。日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」
「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」

と言っていましたが、あるいは安倍政権のあいだはそうかもしれませんが、このたび安倍内閣が憲法解釈の変更を断行したように、10年後、20年後の政権が、集団的自衛権を拡大解釈することだってあり得るわけです。
かつて天皇陛下の統帥権を関東軍が拡大解釈したことにより、何が起こったかを思い出してください。
解釈の変更とは、そういうことです。

予算案や増税案など、ときには強行採決を必要とする事案もあるでしょう。
世論がすべて正しいというわけではありません。
しかし、それらと安全保障政策を同じように考えてはならないんじゃないでしょうか。
国の根幹に関わる問題ですから。
どんなに険しい道でも、国民投票、改憲の順序を踏むべきだったでしょうし、それで国民の理解を得られないようであれば、それが「この国のかたち」だということです。
国のかたちを変えるというのは、容易ではありません。
高い支持率を武器に強行採決していい問題では決してないと思います。

政府与党の多くの先生方が挙って崇拝する故・司馬遼太郎氏は、晩年の対談集内で、現憲法について次のように語っています。
「押しつけとかいろいろ悪口いう人もいますが、できた当時・・・自分が生きているあいだにこんないい憲法ができるとは思わなかった、と感じました。今でもその気持は変わっていません」
また、90年代に入って改憲論「普通の国」論が強まりはじめたことに対しても、司馬氏は次のように述べられています(「普通の国」とは、普通に軍隊を持って自国を自軍で守れる国ということ)。
「わたしは『普通の国』などにはならないほうがいいと思っています。」
「日本が特殊の国なら、他の国にもそれを及ぼせばいいのではないかと思います。」
「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから、しかも理想が好きな国なんですから、せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう、といえばいいんです」
(『日本人の器量を問う』=『司馬遼太郎対話選集・四』)


司馬氏が、決して左寄りな思想の持ち主でないことは周知のところだと思います。
その司馬氏ですら、このように述べられていることを思えば、戦争経験のある世代の方々の憲法観というものを感じ取ることができるような気がします。
わたしたち戦後生まれの世代には、先の戦争責任はありません。
しかし、未来に起こるかもしれない戦前責任は、わたしたちにある・・・ということを、国民ひとりひとりが肝に銘じていかねばならないでしょう。
このたびの安倍内閣の決定は、間違いなく将来の歴史教科書に載る事柄です。
そのときの日本が、この安倍内閣の決定を「英断」と評しているか「暴挙」としているか、見てみたいものです。
それ以前に、日本という国がなくなっていないことを願うばかりです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-03 16:15 | 政治 | Comments(4)