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太平記を歩く。 その19 「楠公産湯の井戸」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「楠公生誕地」碑のすぐ近くに、「楠公産湯の井戸」と呼ばれる古い井戸跡があります。

その伝承によれば、楠木正成がこの地で生まれたとき、この井戸の水を産湯に使ったのだとか。


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青々とした稲の絨毯のなかに、「楠公産湯井北エ一丁」と刻まれた石柱があります。

石柱はかなり古いもののようで、この伝承が昔から存在したことを物語ってくれています。


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こちらには、千早城跡にあったものと同じ藁人形を模したブリキの人形が。


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田畑の間の谷底に井戸があるようで、観光客用にヒノキで作られた階段が設置されています。


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井戸には屋根が作られています。


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で、これがその伝承の井戸です。

いまも水が湧き出ています。

何の変哲もない、ただの古い井戸です。

石垣はきっと、当時のものではないでしょう。


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当時、井戸は集落ごとに共同で使われていたでしょうから、正成の産湯というよりも、この一帯で生まれた赤子の産湯は、おおかたこの井戸の水を使っていたのでしょう。

だから、正成がこの地に生まれたのであれば、ここが産湯だった可能性は十分にあるでしょうね。

『太平記』では、楠木正成は河内国金剛山の西、赤阪村水分(みくまり)山の井で生まれたと伝えており、楠木氏は橘諸兄の後裔としています。

吉川英治『私本太平記』でも、正成の生まれは水分としていますね。


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ただ、前稿でも述べたとおり、そもそも正成の生誕地は諸説あって、ここ水分の地に生まれたことを立証する史料はなにもありません。

もっとも、そう言ってしまえば身もふたもないんですけどね。

この地が楠公さんの生誕地とうたっている以上、ここは楠公産湯の井戸と言っていいでしょう。

まあ、話のネタですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-25 00:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その1 「笠置山・前編」 京都府相楽郡笠置町

京都府、奈良県、三重県の3県が交わる県境ちかくにあるJR笠置駅を訪れました。

ここは1日の利用客はがわずか200人余りしかいない小さな山奥の単線の駅で、電車は1時間に1本しか発車しません。


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そんなひっそりとした山奥で、約700年前にわが国の歴史が大きく動きました。

それが、これ!


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元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いのジオラマモニュメント。

笠置駅前のいちばん目立つ場所にあります。

「元弘の乱」とは、鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と、鎌倉幕府北条氏の戦いのことで、ここ笠置山は、その決戦の場となりました。

『太平記』の3巻に出てくる最初のクライマックスです。


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なぜここを訪れたか・・・。

これからしばらく『太平記』に関連する史跡を、関西を中心にめぐってみたいと思い立ちました。

となると、まず最初に紹介すべきは、最初に歴史が大きく動いた、ここ笠置山の地からスタートすべきかと思い、神戸から車で約2時間かけてこの地を訪れました。


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『太平記』は、わが国中世の大乱を描いた戦記文学です。

乱世を描いて、なぜ『太平記』というのか不可解な作品で、その内容は『戦乱記』というに相応しいものです。

作者は宮方(後醍醐天皇方)に近い人物といわれますが、詳細はわかっていません。


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『太平記』の書き出しは、平安時代以来の院政を廃し、天皇親政の世を実現した後醍醐天皇の元亨元年ごろに始まり、北条氏鎌倉幕府の滅亡「建武の新政」の成立、朝廷の分裂南北朝の並立、その南北朝のいずれかに属した公家や武家の興亡、やがて足利尊氏室町幕府を開き、その後、幕府内の抗争「観応の擾乱」、そして二代将軍・足利義詮が死亡する後村上天皇の正平23年(1368年)に至る、46年間が描かれています。

現在伝えられている『太平記』は全40巻あり、日本の歴史文学の中では最長の作品とされています。

もちろん、600年以上前に書かれたものですから、あくまで伝承の域を出ない虚実取り混ぜた話もたくさんありますが、日本の中世を知るにおいて、外せない作品といえます。


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駅前の笠置町産業振興会館の外壁には、「笠置元弘の乱絵巻」と書かれた長い看板が設置されていました。


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絵の下の文末には、<笠置寺所蔵の「笠置寺縁起絵巻」より>とあり、どうやら笠置山上にある笠置寺が所蔵する絵巻を観光客用の看板に仕立てたもののようですね。

通常、絵巻物は右から左へ展開するものですが、駅から笠置山に向かう導線の左側に設置されていることから、左から右へ読んでいく構成になっています。

意図はわかるのですが、縦書きの文章を左から読むのは、けっこう難しい・・・。


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笠置町産業振興会館の館内には、後醍醐天皇楠木正成が初めて対面した場面のジオラマが展示されています。


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『太平記』の3巻によると、笠置山の笠置寺に行在所を設けた後醍醐天皇は、自身の周りに名のある武将が全くいないことに不安に感じていたところ、夢で「木に南」と書く者が自分を助けるとのお告げがあり、その後、河内国の金剛山に楠木正成という者がいると聞き及び、急遽、正成を笠置山に呼び寄せたといいます。

吉川英治『私本太平記』では、後醍醐天皇の呼びかけになかなか応じない正成の心の葛藤が描かれていましたね。

わたしにとっての『太平記』の知識は、ほとんど『吉川太平記』がメインです。

なので、楠木正成のイメージは、やはり武田鉄矢さん。

こんなイケメンではありません(笑)。


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さて、そんなこんなで、しばらく『太平記を歩く』シリーズにお付き合いください。

たぶん、かなり長いシリーズになります。

次稿は笠置山を登ります。





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by sakanoueno-kumo | 2017-01-18 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

キムタク版 『宮本武蔵』 鑑賞記

先週末、木村拓哉さん主演の『宮本武蔵』が2夜連続で放送されていましたよね。
宮本武蔵といえば、言わずと知れた江戸時代初期の剣豪兵法家で、これまで何度も映画化やドラマ化されてきた時代劇の定番中の定番ですよね。
古くは片岡千恵蔵さんや嵐寛寿郎さんなどの伝説の名優に始まり、戦後は三船敏郎さん、萬屋(中村)錦之介さん、北大路欣也さんらビッグネームの俳優さんが演じ、今世紀に入ってからは、上川隆也さんや本木雅弘さん、そして2003年の大河ドラマでは市川海老蔵(新之助)さんが抜擢されて話題を呼びました。
武蔵を演じるということは、ある意味、一流の俳優としての箔がつくといっても過言ではないかもしれません。

で、名前の大きさでいえば、過去の俳優さんたちに決して引けをとらない平成のトップスター木村拓哉さんの武蔵ですが、わたし個人的には、なかなか良かったと思います。
やはり彼は、何を演ってもサマになりますね。
キムタクは何を演じてもキムタク・・・なんて批判する人もいますが、それを言うなら高倉健さんだってそうですからね。
何を演ってもカッコいい役者さんというのは、そうはいないと思います。
いろいろ言われるのは、それだけ彼がスターだということですね。

そもそも、宮本武蔵という人物については、実はほとんど謎の人物といっていいほど、詳しいことは何もわかっていません。
わたしたちが知る宮本武蔵は、吉川英治著の不朽の名作小説『宮本武蔵』で描かれた武蔵像で、ほとんどの映画やドラマが、この作品を下敷きにしています(今回のドラマもそうでしたよね)。
関が原の合戦後に始まって、巌流島の戦いをクライマックスに描くこの小説は、吉川英治氏自身も語っているように、史実をベースにした伝記小説ではなく、剣の道を通して自己を研鑽していくひとりの男を描いた娯楽小説であり、そのほとんどがフィクションです。
わたしたちの知る宮本武蔵は、吉川英治氏が作った虚像なんですね。

では、その吉川武蔵像のベースはどこから来ているかといえば、江戸時代中期から歌舞伎浄瑠璃講談などの題材として脚色されてきたもので、これもまた、明らかなフィクションといっていいでしょう。
武蔵の本来の人物像を見るうえで唯一の史料として重視されるのが、武蔵自身が著した兵法書『五輪書』ですが、これとて、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、武蔵直筆のものは存在しません。
しかも、その内容は明らかに武蔵の武勇伝を誇張して書いているとしか思えない部分が多く見られ、ほんとうに武蔵自身が書いたものかどうかも疑わしいとする歴史家の方もたくさんいます。
なかには、宮本武蔵という人物の実在性すら疑問視する歴史家さんもいるほどで・・・。
結局のところ、宮本武蔵という人物は、歴史上ほぼ謎の人物といってよく、日本史のなかよりも、物語のなかで輝いてきた人物といえるでしょう。
ですから、いろんな武蔵像があっていいと思うんですね。
キムタク武蔵、わたしは良かったと思います。

他のキャスティングも実に良かったですね。
セクスィー部長・沢村一樹さんの佐々木小次郎もハマってましたし、真木よう子さんのお通も、予想に反して合ってたと思います。
ユースケ・サンタマリアさんの又八は、いちばんのはまり役だったんじゃないでしょうか(彼のためにあるような役かと・・・笑)。
松田翔太さんの吉岡清十郎は、吉川英治作品よりも、漫画『バカボンド』のイメージに近かったでしょうか?
ただ、これらの登場人物たちも、ほとんどが吉川氏の作った架空の人物か、実在性が定かでない人物ばかりですから、正解の人物像はないんですけどね(明らかに実在した人物といえば、香川照之さんの沢庵和尚と、鈴木福くんの宮本伊織くらいでしょうか?)。

とにもかくにも、民放テレビでの時代劇がめっきり減ってしまった昨今、こうして人気俳優さんを主役に王道の時代劇を作ってくれるのは嬉しい限りです。
定期的に続けてほしいものですね。
とりあえず、保存版で録画しました。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-19 21:08 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

平清盛 総評

 2012年NHK大河ドラマ『平清盛』の全50話が終わりました。ブログで大河ドラマのレビューを始めて4年、私自身の率直な感想をいえば、近年(今世紀)の大河作品の中では三本の指に入れてもいいほど優れた出来だったと思っています。しかしながら世間の評価は私とはどうも違ったようで、大河ドラマ歴代最低の視聴率を記録したそうですね。そんなこともあってか、巷では本作品を酷評する記事が乱立していました。歴史ドラマといえどもドラマである以上、大衆娯楽ですから、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思います。ですが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないでしょうか。そこで今日は、なぜ『平清盛』が視聴者の支持を得られなかったかを考えながら、物語を総括してみたいと思います。

 ドラマ開始早々物議を醸したのが、「画面が汚い。鮮やかさのない画面ではチャンネルを回す気にならない」といった兵庫県知事のクレームでしたね。これに対してNHK側の回答は、「時代考証を忠実に再現した映像」との説明だったと記憶しています。県知事という立場の人が公の場でこのような発言をしていいものかとは思いますが、それはここでは横において、知事の苦言が的を射たものだったかどうかを考えます。

 まず、このようなフィルム調の暗い映像は今回に始まったことではなく、『龍馬伝』『江~姫たちの戦国』そしてスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』でも使われていた手法です。夜は暗く、昼間でも決して俳優の正面から光を当てず、光源は常に斜め上か真後ろ。だから、ときには逆光となって、役者の顔がまったく見えなくなったりもします。時代劇といえば、俳優さんはドウランをテカテカに塗って、照明は常に俳優さんの顔に当たるというのが当たり前でしたが、近年の大河ではその常識を覆しました。その深みのある画面は、そこにスタッフの存在を匂わせないリアリティあふれる映像世界を作り出していると私は思います。この映像に対する好き嫌いはあると思いますが、兵庫県知事のクレームは、近年の大河作品を全く見ていなかったゆえに出た言葉で、時代劇に対する知事の固定観念からきた意見でしょう。それ自体が視聴率に影響したとは思えません。

 ただ、コーンスターチというとうもろこしの粉を使ったホコリ演出は、少々やりすぎだったんじゃないでしょうか。「荒廃したホコリ臭い時代を表現するため」というのがNHKの説明でしたが、その点についてある方のブログでの指摘を読んで、なるほど・・・と頷きました。空気が乾燥した大陸の西部劇ならともかく、日本の湿潤な気候では、あんなにホコリは立たないのでは?・・・と。たしかにそうですよね。リアリティを追求するなら、時代考証だけではなく、日本の風土も考証すべきだったのではないでしょうか。ホコリ演出は戦闘シーンだけで良かったんじゃないかと・・・。

 次に、俳優さんたちに目を向けると、主演の松山ケンイチさんはもちろん、父・平忠盛役の中井貴一さん、藤原頼長役の山本耕史さん、信西役の阿部サダヲさんなど演技派の実力派揃いで、完璧なキャスティングだったと思っています。とりわけ松山ケンイチさんにいたっては、清盛の12歳から64歳という半世紀以上を演じきっておられ、その演技力は見事というほかありません。特に平家政権を樹立した後の暴君・清盛像の演技は素晴らしく、本当に60歳を超えた老人に見えました(決してメイクの力だけではなかったと思います)。気の毒なことに、主役の役者さんは低視聴率の責任を負わされるのが宿命ですが、この作品に限って言えば、松山さんと低視聴率はまったく関係ないと思うのですが、いかがでしょうか。

 ただ、清盛の描き方については、多少の不満がなきにしもあらずです。物語の設定は吉川英治著の『新・平家物語』と同じく白河院ご落胤説をベースにしており、その境遇に対する反発から、攻撃的な性格の異端児として成長するストーリーでした。その設定そのものは悪くなかったと思うのですが、その反発の矛先が父・忠盛や平家内部という幼稚な演出で、あれではただの反抗期を迎えた駄々っ子でしかありません。のちに忠盛の死によって覚醒する清盛ですが、忠盛が死んだとき清盛はすでに35歳。いつまで反抗期やってたんだ?・・・と。

 これは本作品に限ったことではなく、『龍馬伝』『天地人』など近年の作品に共通していえることですが、若き日の主人公の姿を、無理に現代のありがちな少年像にラップさせて描く傾向にあるようです。そのほうが視聴者の共感を得られるという意図かもしれませんが、それでは偉人としての本来の魅力を削ぐことになるんじゃないでしょうか。偉人は少年時代から良きにせよ悪しきにせよ非凡な人物であったほうが魅力的だと思います。第1話で描かれた清盛の生母の壮絶な最後や、忠盛が清盛に語った「心の軸」の話。そして「死にたくなければ強くなれ!」のラストシーンを観て、「今年の大河は違うぞ!」と思ったのは私だけではないのではないでしょうか。ところが第2話以降、繰り返し描かれていたのは、いつまでもウジウジとスネている反抗期の少年の物語で、第1話を超える回はしばらくありませんでした。このあたりで見限って離れていった視聴者がたくさんいたように思います。保元・平治の乱のあたりから物語はぐっと面白くなるのですが、そこまで視聴者を引きつけておけなかったことが、後半の低視聴率に大きく影響したように思います。

 あと、天皇家のドロドロした人間模様も今までになく踏み込んで描いていたと思いますし、本筋とは直接関係のない当時の貴族社会のエピソードなども、細やかに拾って描いていました。実に丁寧な演出だったと思いますし、作り手の作品にかける情熱がうかがえました。しかし、矛盾したことをいうようですが、いささか丁寧すぎた。きめ細やかにエピソードを描きすぎたことで、かえって視聴者に要点が伝わらない結果になったように思えます。これはおそらく、近年の作品で史実を歪曲した虚構ストーリーや割愛されたエピソードなどを批判する声が跡を絶たなかったことから、できるだけ通説に添ったかたちで作品づくりに臨んだ結果だと思われます。史実かどうかはともかく、『平家物語』『愚管抄』『玉葉』などに記された有名なエピソードをたくさん採用していましたよね。ところが、平家や源氏をはじめ天皇家や摂関家など、あらゆる角度からいろんなエピソードをくまなく描ききったことから、結局何が描きたかったのか視聴者に伝わりにくかった。やはりこういったドラマでは、ある程度大胆な省略や簡素化が必要なんでしょうね。毎年、史実云々と照らしあわせて浅薄な知識をひけらかすだけの批判者たちは、今回の結果をみて一度考えなおしてみてもいいんじゃないでしょうか。

 あと、前半の演出(特に天皇家の人間模様)は少々陰気臭かったですね。たしかに白河院鳥羽院待賢門院璋子の関係など、ドロドロしたエピソードが多かったのですが、物語全体を通して陰気なイメージを拭いきれなかった。やはり大河ドラマでは、歴史上の偉人の颯爽とした姿を観たいもので、視聴者はそこにカタルシスを感じるものだと思います。残念ながら今回のドラマでは、颯爽と武家の頂点への階段を駆けのぼっていくような清盛像はありませんでした。そのあたりも、視聴者が離れていった理由のひとつではないでしょうか。

 最後に、ドラマ開始前から話題になっていた「王家」という呼称の問題について少しだけふれます。天皇家を「王家」と呼ぶことは皇室に対する侮辱であるという意見で、一部の過激な右傾の方々の抗議がNHKに殺到したようですね。この問題については、以前の拙稿(大河ドラマ『平清盛』の王家問題について。)で述べましたので、ここで繰り返し述べることは控えますが、彼らの言い分では、ドラマの視聴率が悪かったことまでイデオロギー的な理由にされているようです。正直、実に不愉快でくだらないですね。「王家」という言葉に不快感を抱いていたのは、戦前の「皇国史観」から脱却できていない一部の化石のような方々だけです。彼らにしてみれば、ドラマの内容などどうでもいいことで、自分たちのイデオロギー論争をドラマに持ち込みたいだけです。純粋にドラマを楽しみたいと思っている者にとっては、迷惑千万な話ですね。

 さて、連連と私見を述べてきましたが、冒頭でもお伝えしたとおり、私にとって『平清盛』は名作とまではいかなくとも良作でした。少なくともここ2~3年の作品の中では最も良かったと思っています。それだけに、歴代最低の視聴率という結果は残念でなりません。大河ドラマといえば、戦国時代幕末維新の物語が圧倒的に多く、清盛のような中世を描いた作品は数えるほどしかありません。それだけ戦国と幕末の人気が高いということでしょうが、私が危惧するのは、今回の結果でまた中世を描くことを躊躇するようになることです。たしかに視聴率を狙うのなら、戦国モノや幕末モノが鉄板でしょう。だからといってそればかりやってたんでは、今後の大河ドラマの発展はありません。その観点からも、冒頭で述べたとおり、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないとは思いますが、視聴率が全てではないと思うのです。特にNHKの場合、民放と違って視聴者やスポンサーに媚びることなく作品づくりが出来ることに良さがあると思います。今回、歴史上あまり人気のない平清盛という人物と、同じく歴史上あまり人気のない中世を描くことにNHKはチャレンジしました。その意気込みは高く評価したいと思います。結果は残念ながら万人にウケるものとはなりませんでしたが、私のように支持する視聴者も少なからずいます。制作者の方々はこの結果に怯むことなく、この作品をベースとして、次はどうやったら中世という時代を多くの人に楽しんでもらえるかを考え、また挑んでほしいものです。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで私の拙い『平清盛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてお会いした方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考図書
『平清盛のすべてがわかる本』 中丸満
『平清盛をめぐる101の謎』 川口素生
『日本の歴史6~武士の登場』 竹内理三
『日本の歴史7~鎌倉幕府』 石井進
『新・平家物語』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-31 02:14 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(8)