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花燃ゆ 第36話「高杉晋作の遺言」 ~おもしろき こともなき世を おもしろく~

 四境戦争で幕府軍15万に圧勝した長州藩でしたが、その勝利のいちばんの立役者である高杉晋作が、戦後まもなくに伏してしまいます。というか、戦前から肺疾患の気配があったようで、とくに戦い終盤の小倉城攻めがこたえたらしく、慶応2年(1866年)9月4日に、白石正一郎邸で大量に吐血したと、白石の日記に記されています。戦の指揮の疲労も去ることながら、戦中も戦後も、晋作は連日のように芸姑をあげて大酒をあおっていたようで、それも、病状を悪化させた要因だったのでしょう。

 自身の容体が容易なことでないと自覚した晋作は、病気療養に専念すべく、白石邸を出て、下関郊外にある桜山という丘の麓に家を建て、そこに引っ越します。晋作はこの家を「東行庵」と名づけました。「東行」とは、かつて晋作が10年間隠棲するといって出家した際に、自らつけたですね。晋作はこの東行庵で、まさに世捨て人のようにを詠み、詩文を書いて過ごします。作家・司馬遼太郎氏は高杉晋作について、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と言っていますが、それは、この時期に残した数々の名句、名文によるイメージでしょう。東行庵は、療養所であると同時に、詩人・高杉晋作のアトリエでした。

 藩は晋作の病状がおもわしくないことを重く見、世子・毛利元徳から見舞状、見舞金の下付があり、すべての御役目を解かれ、病気療養手当が毎月支給されました。また、藩内で名医と評判の高い長野昌英李家文厚を藩命によって主治医にし、さらに、藩主の侍医である竹田友伯を出張先の太宰府から呼び戻し、晋作の治療にあたらせるなど、一介の書生への待遇としては異例の処置をとります。書生とはいえ、晋作はすでに救国の英雄的存在となっており、藩としては、いま晋作に死なれてはたまらないという思いがあったのでしょう。

 なぜかドラマでは出てきませんでしたが、東行庵で晋作の看病を務めたのは、妻の雅子でも美和でもなく、愛妾おうのと女流歌人の野村望東尼の両人でした。このふたりがドラマ自体にキャスティングされていないのならともかく、二人共何度か登場しているのに、なぜ最期のシーンに登場させなかったのでしょうか? 最期は愛妾ではなく正妻に看取らせるため? だとしたら、女性脚本家ならではの愚にも付かぬ設定ですね。わたしは、最終回まで観ずに批判することは極力しないようにしてきましたが、今話はさすがにひどすぎます。妻と息子に励まされて幸せそうに微笑む高杉晋作なんて、世の晋作像とはおよそかけ離れたキャラですし、ましてや、美和を呼びつけて未来を託すなんて、なんて安っぽい脚本でしょうか。吉田松陰久坂玄瑞の死が、それなりに上手く描かれていただけに、第三の見せ場である晋作の最期が、あまりにも幼稚な設定でガッカリです。

 妻の雅子が病床を訪れたのは、死の3週間ほど前の慶応3年(1867年)3月24日でした。この頃の晋作は、自力で立つこともままならないほど衰弱しきっていましたが、それでも突然、「林亀(料亭)に行きたい」などと口にし、周囲を困らせました。これを聞いたおうのは、三味線を弾いて林亀にいるかのように装い、晋作の気分を落ち着かせたというエピソードがあります。そして4月13日夜にも、今度は「対帆楼(料亭)に行きたい」というので、駕籠をよんで病床から乗りますが、駕籠のなかで便を漏らし、引き返して病床につきました。そしてその14日未明に死去します。享年28歳

 死の淵にあって晋作は、枕元にいた野村望東尼に筆と紙を要求し、

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 とまで書いたところで力尽きて筆を落としてしまい、この尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないと考えた望東尼が、

 「すみなすものは 心なりけり」

 と書き足して晋作に見せると、「・・・面白いのう」と微笑んで、そのまま息を引き取った、という有名なエピソードがありますが、近年の研究によれば、この歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があるそうで、死の淵の逸話は誰かの作り話だろうという見方が有力なんだそうです。歴史研究が進むのは望ましいことですが、ときにそれでドラマチックな側面を失うこともあり、残念な思いになったりします。しかし、死の淵の逸話がどうであれ、高杉晋作という人物の短い生涯が、ドラマチックであったことは間違いありません。

 「人の生涯には春夏秋冬があり、それは人生の長さに関係しない」
 「男子たるもの、自身の人生を一遍の詩にすることが大事だ。」


 とは、吉田松陰が晋作ら弟子たちに残した言葉ですが、まさしく、晋作の生涯には激しすぎるほどの春夏秋冬があり、一遍の詩だったといえるでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-07 18:05 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(4)  

大阪都構想の夢ついえた橋下徹市長に告ぐ、志士は溝壑に在るを忘れず。

橋下徹大阪市長が推し進めてきた大阪都構想否決されましたね。
関西のテレビやラジオでは、今日1日その話題でもちきりです。
投票率66.8%という地方選では考えられない高い関心度を示した住民投票だったようですが、結果は反対が70万5585票、賛成の69万4844票という、わずか1万票余りの差での決着でした。
ただ、その結果を世代別で見ると、反対多数だったのは70歳代以上だけで、20歳代~60歳代は、いずれも賛成派が上回っていたそうですね。
年配の方にしてみれば、現在「市」から受けている福祉が削減されるかもしれないという不安に駆られてのことでしょうが、若い世代にとっては、10年後、20年後を見据えての判断だったのでしょう。
言葉は悪いですが、若者の希望を年寄りが潰したということになりますね。
わたしはお隣の兵庫県民なので投票権はなかったのですが、大阪の財政問題は関西全体の経済にも関わる問題で、当然、無関心ではいられるはずがありません。
そうですが・・・否決ですか・・・。
正直、残念ですね。

橋下さんのやり方も、もっと方法があったような気がしますね。
自身の人気を過信しすぎたのか、真っ向勝負しすぎだったんじゃないでしょうか?
良く言えば公明正大、悪く言えばバカ正直というか・・・。
それが彼の魅力といえばそうなんでしょうが、政治家はときには権謀術数も必要だと思いす。
やろうと思えば方法はあったと思うんですけどね。
たとえば、自民党府連は反対の立場をとっていましたが、菅義偉官房長官なんかは「個人的には賛成」などと言っていましたし、首相官邸サイドにしてみれば、橋下さんを敵に回したくない思惑があったわけでしょう。
だったら、それを利用しない手はないですよね。
その「思惑」交換条件にすれば、安倍晋三首相の援護射撃を取りつけることも出来たんじゃないでしょうか?
安倍さんもこの土日、関西に来てたしね。

この結果を受けて、橋下徹大阪市長は12月の任期満了で政界を引退するそうですね。
政治生命を賭けて臨んだ政策だっただけに、大阪都構想の終焉は政治家・橋下徹の終焉といったところなんでしょうが、これまた、少々カッコ良すぎるんじゃないでしょうか?
大阪都構想の夢は潰えましたが、賛成派がほぼ半数近くいたわけで、ましてや、今回の投票は大阪都構想への賛否であり、橋下市政ならびに政治家・橋下徹を否定したわけではありません。
市政は都構想だけではないですしね。
志尽きたからには、武士らしく潔く切腹・・・といえば、なるほど戦士の美学かもしれませんが、自身が代表を務める「大阪維新の会」の語源である「明治維新」の原動力となった吉田松陰の言葉に、次のようなものがあります。

志士は溝壑に在るを忘れず(志士不忘在溝壑)
勇士は其の元を失ふを忘れず(勇士不忘喪其元)


「志士は山野の溝に自分の遺体を晒すことを恐れてはならない」
「勇士は斬首されることを恐れてはならない」

ということです。
潔く切腹なんてのは、所詮は逃げ口上で、高い志を持った志士は、首をもがれて遺体を溝に捨てられるまで、戦い続けるべきである・・・と。
たしか、小泉純一郎元首相も、施政方針演説でこの言葉を引用していましたね。
その人気の高さや政治姿勢が、よく小泉さんと比較された橋下さんでしたが、その意味では、橋下さんの政治家としての首は、まだ繋がっていますよね。
まあ、今は精も根も尽き果てたといった状態かもしれませんが、少し頭を冷やして、もう一度考えなおして欲しいと思います。
わたしはこれまでも橋下さんに対して、たびたび厳しいことを言ってきましたが、それだけ期待していたということで、このまま幕を引くというのであれば、残念ながら、その程度の政治家だったのか・・・と、思わざるを得ません。
そうならないことを期待しています。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-18 22:07 | 政治 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その1 ~間部老中要駕策の自供~

 安政6年(1859年)5月25日、萩から護送された吉田松陰は、6月25日に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日、伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まります。松蔭の吟味を担当したのは、主に寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清などの5人で、幕府の司法の執行権を持つ役人がすべて揃っていました。

 松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜との関係、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった落とし文との関係についてでした。雲浜は、松蔭よりもはるかに名の通った尊皇攘夷のカリスマ的志士で、「戊午(ぼご)の密勅」の下賜に関わって大老・井伊直弼の失脚を謀った咎で捕縛され、松蔭が刑死する少し前に獄中死します。その雲浜がかつて長州を訪れたとき、密談して反幕府の政治工作を企てたのではないか、というのが、松蔭にかけられた嫌疑でした。しかし、松蔭は雲浜と面会はしたものの、政治的な結託はしておらず、むしろ、雲浜という人物を快く思っていなかったようで、臆することなく否認します。

 また、幕政を批判した落とし文についても、取調官は筆跡が酷似していると追求しますが、松蔭はまったく身に覚えがなく、だいいち、囚人として蟄居の身でありながら、京のまちで落とし文などといった政治工作を行うのは物理的に不可能であり、言いがかりも甚だしい容疑でした。松蔭はいいます。
「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」
(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)
と。
その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

 このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれません。少なくとも命は救われたでしょうね。しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、井伊大老と直接話しをするための策というのは、ドラマのオリジナルの解釈であり、フィクションです。だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。光明正大にもほどがありますよね。司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、このときの松蔭のことを次のように書いています。

 「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」

 取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。

 「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」

 誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?

「余は人の悪を察すること能わず、ただ人の善のみを知る」
「余はむしろ、他人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」


 これも、松蔭の残した言葉です。
~♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがい♪~
なんて歌がありましたが、人を信じるということと、聞かれてもしない自分の罪を白状するのとは違うように思います。短慮な失言で政治生命の危機に立たされる政治家は現代でもたくさんいますが、松蔭のそれは、短慮というよりも、むしろ確信犯的に自ら死を呼び寄せたとしか思えない失言ですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-27 22:19 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第16話「最後の食卓」 ~松蔭の江戸送り~

 吉田松陰の一度目の野山獄収監は、黒船密航未遂という国禁を犯した罪に対する服役でしたが、二度目の野山獄収監は、まだ何も罪を犯しておらず、いわば、これから犯すかもしれない罪を未然に防ぐためのものでした。これまでも、松蔭という過激な天才に対して、寛大な処置をとってきた長州藩でしたが、この時も、危険な言動を繰り返す松蔭に、罪を犯させないための処置であったといえます。それほど、長州藩は松蔭を守ろうとしていたんですね。このときの藩当局の立場を、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、次のように表しています。

 「藩庁は、松蔭の狂気を議論でしずめる自信がなかった。やむなく松蔭の身柄をふたたび野山獄に入れ、社会から隔離し、その自由をうばうことによってかれの暴発をふせごうとした。藩庁の要人である周布政之助らの好意であった。それ以外に藩庁としては、長州藩のほこるべきこの予言者の生命をまもるすべがない、と、藩庁にいる松蔭のファンたちは思ったのである。」

 しかし、その甲斐もなく、松蔭が収監されてから4ヵ月ほどが過ぎた安政6年(1859年)4月、松蔭を江戸に送るよう長州藩に幕命がくだります。こうなると、さすがの藩当局も幕府に逆らうわけにはいかず、松蔭の護送を決定します。そうすると、今度は、藩の立場として違う心配が出てくるんですね。またまた『世に棲む日日』から引用しますと、

 「この時期、長州藩は、松蔭という存在のためにおびえきっていた。幕府が、松蔭を訊問する、この訊問から糸がほぐれ出て、藩そのものに大事がおよびもしないかというお家大事の心配を、たとえば周布政之助という、いわばはねっかえりの進歩派官僚さえもった。」

 吉田松陰という人物に振り回されっぱなしですね。しかし、ただの危険人物であれば、これまでに藩として極刑に処する機会はあったわけで、でも、やらなかったことを思えば、やはり藩としては、松蔭という天才児をなんとか守りたいという思いがあったのでしょう。親の心子知らずですね。

e0158128_2044579.jpg 江戸送りが決まった松蔭との別れを惜しん描かれた肖像画が、後世の私たちに松蔭の姿を印象づけた有名な絵です。これを描いた松浦亀太郎は、武士でも足軽でもない魚屋の子で、ドラマでは温厚で地味な存在に描かれていますが、実際にはなかなかの切れ者だったようで、かつての松蔭と同じく、渡米を企てて失敗したという武勇伝の持ち主です。また、亀太郎は自宅蟄居中の松蔭に、京の情勢などを伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松蔭は愛し、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と、高く評価しています。

 松蔭の生涯唯一のラブロマンスの相手(とされる)、高須久子との別れのシーンがありましたね。通説によると、江戸に護送される直前、久子は餞別がわりに手作りの汗拭きを松蔭に贈ったといいます。これに対して松蔭は、
 「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」
という和歌と、
 「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」
という俳句を、久子に贈りました。この種の歌を意訳するのは無粋というものですが、「あなたのその声を、どうして忘れられようか・・・」といったところでしょうか? この、気持ちをそのまま詠んだといえる句を聞けば、やはり、松蔭と久子のあいだには、特別な感情があったと思ってしまいますね。

 そして、安政6年(1859年)5月25日、松蔭の護送行列は萩を出立します。家族や門下生たちは、松蔭に厳しい処分が下るであろうことを予想して大いに悲しみ、どうすれば助けることができるか思いをめぐらせますが、そんな周囲の心配をよそに、当の松蔭本人は生に対して特に執着しておらず、むしろ、江戸での取り調べにおいて自身の考えを主張し、幕政に一石を投じるチャンスと考えていた様子すらうかがえます。ここでまた、司馬さんの言葉を引用します。

 「その楽天性は、もはや滑稽どころか、悲痛をもとおりこしてしまっている。」

 いうまでもなく、これを最後に松蔭は、二度と故郷の地を踏むことはありませんでした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-20 20:49 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第15話「塾を守れ!」 ~松蔭獄中の過激政治工作~

 安政5年(1858年)12月、幕府老中・間部詮勝暗殺を企てた罪で再び野山獄につながれた吉田松陰でしたが、それでも計画をあきらめきれず、江戸にいる久坂玄瑞高杉晋作に計画の実行を要請します。しかし、松下村塾の龍虎と呼ばれた秀才ふたりの意見も、他の塾生たちと同じく、とうてい賛成できるものではありませんでした。ふたりは、その旨をしたためた手紙を松蔭に送り、なんとか師を思いとどまらせようとしますが、そんな彼らに対して、松蔭はあろうことか絶交状を送りつけます。師の身を案じての諌言だったのに、なんとも理不尽な話ですね。玄瑞も晋作も、たいそうショックだったことでしょう。

 この時期の松蔭の過激さは、一種の狂気をおびていて、間部老中暗殺計画のみならず、水野忠央暗殺計画、伏見獄舎破獄策、大原三位下向策、伏見要駕策など、次々に過激な政治工作をはかります。水野忠央暗殺計画は、南紀派の中心的存在だった紀伊藩の家老・水野忠央の命を奪おうとする計画で、伏見獄舎破獄策は、捉えられた梅田雲浜らが入獄されている伏見の獄舎を襲撃し、彼らを救出しようというものでした。松蔭は、これらの計画を門下の松浦松洞、赤禰武人に指示しますが、いずれも計画倒れに終わっています。

 次の大原三位下向策は、尊皇攘夷派の公家・大原重徳とその息子を長州藩に迎え、彼らを擁して、長州藩を中心とする諸藩で挙兵しようという計画で、特に松蔭はこの計画に思い入れがあったようで、再三再四、獄中から塾生らに賛同を求める書状を送っています。これを見かねた小田村伊之助が、安政6年(1859年)1月9日に、塾生すべてがこの策に反対であると伝えますが、それでもあきらめられない松蔭は、翌日に前原一誠ら3人の塾生に書状を送り、脱藩して計画を実行するよう要請しています。完全に狂気の沙汰といえますね。

 で、ドラマで描かれていたのが、最後の伏見要駕策です。この計画は、参勤交代で江戸に向かう途中の長州藩主・毛利敬親の籠にとりすがり、伏見から京都に向かわせ、大原重徳らと合流して御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)の勅命を得て幕府の失政を正そうというものでした。この頃になると、ほとんどの塾生たちが松蔭と距離をおきはじめ、野山獄への訪問や文通を控えていました。見放していたというわけではないのでしょうが、矢継ぎ早に実行不可能と思える指示を発してくる師に対して、ついていけなくなっていたというのが正直なところだったでしょう。

 それでも、入江九一野村靖の兄弟だけが松蔭との交流を続けており、そのせいで、弟の靖が脱藩して京都に向かい、この計画を実行することになります。しかし、それを知った前原一誠らが小田村伊之助に相談し、伊之助が差し向けた追手に説得された靖は、踏みとどまって藩当局に自首。兄ともども岩倉獄に投獄されます。気の毒な話ですが、そのまま計画を実行すれば間違いなく死罪だったわけで、そう思えば、未遂で終わって良かったといえます。

 最後まで手足となってくれていた九一・靖兄弟が獄につながれたことで、松蔭の獄中での政治工作は、事実上、実現不可能となります。藩当局は、そのために兄弟を投獄したのかもしれませんね。絶望と孤独の淵にいたであろうこのときの松蔭は、どんな思いを巡らせていたのでしょうか。われわれ凡人には、その胸中は計り知れません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-14 22:08 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第14話「さらば青春」 ~安政の大獄と間部老中暗殺計画~

 今回は、ドラマで省かれていた「安政の大獄」までの経緯を簡単に解説します。
 大老就任早々、独断で日米修好通商条約に調印した井伊直弼は、さらにその実権をフルに発揮し、将軍継嗣は紀伊の徳川慶福(のちの家茂)に決定したと大々的に発表します。不意をつかれた格好となった水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽一橋派は、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくります。ところが、これを受けた直弼は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。親藩や大藩の殿様相手にやりたい放題ですね。

 政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、今話で捉えられた梅田雲浜や、頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たちで、彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

 この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜ら密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。

 江戸や京都の動きを知った吉田松陰は、こうしてはいられないとばかりに、同年11月、京都での攘夷派や一橋派の弾圧を指揮していた幕府老中・間部詮勝の暗殺を企てます。そして、松蔭は藩の重臣・前田孫右衛門に計画を記した書状を送り、藩から武器を借りたいと依頼しました。同時に、門人を中心に同志の連判を募り、自分がこれらを率いて上洛し、事を起こすと公言したそうです。暗殺の企画書を役所に提出するなど聞いたこともありません(笑)。公然と発表する暗殺を暗殺といえるかどうかは疑問ですが、つまるところ、松蔭はこの暗殺計画を、藩をあげて実行しようとしていたわけですね。松蔭にしてみれば、この計画に一点の曇もなかったのでしょう。

 ところが、藩当局にしてみれば、そんな無謀な計画を公言する松蔭をそのままにしておけるわけがありません。バカ正直というか何というか、結局、藩当局はふたたび松蔭を野山獄へ収監します。しかし、これで松蔭がおとなしくなったかというと、更に過激になっていくんですね。その過激さに、松下村塾の門弟たちも、やがて距離を置くようになっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-06 20:55 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)  

花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第8話「熱血先生、誕生」 ~吉田松陰と久坂玄瑞の出会い~

 久坂玄瑞吉田松陰師弟の運命の出会いの回でしたね。両親と兄に立て続けに死なれた玄瑞は、15歳にして家督を継ぎ、家業の藩医となるべく医学所で猛勉強をします。そして16歳になった頃には、その秀才ぶりが萩城下に知れ渡るほどの人物となっていましたが、もともと兄の生存中は医学より兵学に興味を持ち、「はからずも家督を相続して医の道を目指しているが、本心は患者の治療ではなく、天下の大患を治療したい」という思いを強くしていたといいます。

 玄瑞17歳のとき、九州各地を歴訪する旅にでます。この時代、秀才たちの旅といえば、天下に名が知れている人物を訪ね、議論を交わしてスキルアップするというもので、若き日の松蔭も、人と会うことを学問としていました。このときの玄瑞も、九州の名のある人物と面会する旅を続けますが、その旅先のひとつである肥後熊本藩の宮部鼎蔵をたずねた際、「貴藩には吉田寅次郎という英傑がおられるではないか。」と、松蔭に従学することを強く勧められたといいます。おそらく、萩城下で生まれ育った玄瑞ですから、松蔭の名をまったく知らなかったということはなかったでしょう。でも、国禁を犯して獄に繋がれていた人物ですから、17歳の若者にしてみれば、危険人物的な認識だったのかもしれませんね。この当時、すでに尊皇攘夷の巨魁として名を轟かせていた鼎蔵の口から松蔭という名を聞いて、はじめて松蔭という人物のスゴさを知ったのかもしれません。

 帰国した玄瑞は、さっそく松蔭宛の書状をしたためます。そして、松蔭の友人である土屋蕭海に頼んで届けてもらいました(ドラマでは、手紙の伝達役はになっていましたが)。その内容は、
 「開国、通商を迫る米国の外交使節は、弘安の役の北条時宗の如く、即刻切り捨てるべし!」
といった、極めて短絡的な過激攘夷論でした。といっても、この当時の尊皇攘夷志士たちの考え方はほぼこんな感じで、英才といえども若干17歳の玄瑞にしてみれば、精一杯の自説だったのでしょう。ただ、玄瑞はこの書状をすべて漢文で書いており、その博学さは松蔭にじゅうぶん伝わったはずです。

 ところが、この書状を読んだ松蔭は、猛然と筆をとり、玄瑞のプライドをこなごなに打ち砕く酷評の返事を書きます。
 「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない。私はこの種の文章を憎み、この種の人間を憎む。米国の使節を斬るのは時すでに遅し。往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。思慮粗浅とはこのことをいうのだ。とるに足らない主張はやめて、もっと勉強せよ!」と。
 松蔭という人は、あらゆる人間にやさしく、そのやさしさと聡明さで人の長所を見抜き、獄につながれた囚人をも人変りさせてしまうほどの人物だったはずなのに、玄瑞に対する痛烈な罵倒の数々は、まるで別人の文ですよね。さぞ、玄瑞も驚いたことでしょう。

 もっとも、この返事には、松蔭なりの意図があったようで、間に入っている蕭海には、次のような書状を送っています。
 「久坂がもし凡人ならば、二度と書状を送ってくることはないだろう。しかし、彼は必ず僕を論破すべく、ふたたび書状を送ってくるに違いない。」と。
 おそらく、批判して大いに鍛えてやろうという目論見だったのでしょうね。そんな松蔭の期待どおり、玄瑞は大いに憤激した返事を送り付けてきますが、今度は松蔭はすぐに返事を書かず、1ヶ月ほど時をおいてから返事を送ります。その後も2度ほど書状での議論が展開されますが、最後に松蔭が送った書状で、
 「あくまで君が外国人を斬るというのであれば、そうするがいい。僕もかつては、米国人を斬ろうとしたことがあるが、無益であることを悟ってやめた。そして考えたことが、いままでの書状に書いたことである。君は僕と同じにならないよう、断固として斬ってほしい。僕はそれを傍観させてもらおう。もし出来なければ、僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。それでもなお、君は僕に向かって反問できるか!」
 と書きました。つまりは、「自分の発言に責任を持て!自分の吐いた言葉は、命を賭けて守れ!」ということですね。この松蔭の強い意志のこもった言葉にたじろいだ玄瑞は、やがて松蔭の門下に入ります。医学所においても随一の秀才といわれた玄瑞にとって、これほどまでに論破されたのは初めてだったでしょうね。

 のちに松蔭は知人に宛てた書状の中で、
 「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物ににて、もとより天下の英才なり」
 と、絶大に賞賛しています。師弟といっても、ともに学ぼうという考えの松蔭にしてみれば、最高の弟子を得たという気持ちだったんじゃないでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-23 21:39 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第7話「放たれる寅」 ~松蔭の獄中生活~

 野山獄に在獄中の吉田松陰が、仲間の囚人たちに「孟子」を講義したという話は有名ですよね。この講義は、松蔭が収監されてから約半年が過ぎた安政2年(1855年)4月13日からはじめられ、松蔭が出獄する同年12月15日まで、合計34回行われたといいます。はじめの頃は松蔭が一方的に講義していましたが、いつの頃からか囚人たちが輪読するようになり、やがて講義はディスカッション形式で行われるようになったとか。のちの松下村塾のスタイルは、ここから始まっていたようです。

 講義は昼夜に渡って行われました。士分の収監される上牢といっても、牢獄である以上、行燈などの照明設備は整っておらず、夜間は講義などできる条件ではなかったのですが、松蔭の人となりに感服した獄屋番の福川犀之助が、藩当局に掛けあって許可を得たといいます。のちに犀之助は、弟の高橋藤之進とともに松蔭に弟子入りします。

 この「孟子」の講義は、松蔭の出獄後も蟄居していた杉家で続けられ、翌年の安政3年(1856年)6月13日に全編を終了。その講義録を「講孟箚記(こうもうさつき)」としてまとめ、のちに題名を「講孟余話」と改め、松蔭の主著となります。ここに説かれている孟子解釈には、松陰の国家観人生観が明確に示されており、のちの松下村塾での教育原点となります。

 ドラマに出てきた「福堂策」は、残酷中の松蔭が記した牢獄改革案で、その考えは、懲罰刑主義ではなく教育刑主義でした。囚人に教育を施し、更生させて世に送り出す実りの場としたい。獄を幸福の殿堂にしようという提案です。いかにも性善説を唱える孟子をベースとした松蔭らしい考えですが、自身が囚人の身でありながら、獄の改革案を講じるなど、なんとも楽天的な頭の構造ですよね。まずは自分の心配をしろ!と(笑)。そんな松蔭について、作家・司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように述べています。

 松陰は、どうも快活すぎる。
 これは天性のもので、かれの思想でも主義でもなく、それがうまれつきだけにこの若者を自暴自棄にすることはいかなる悪魔でも不可能かもしれない。かれはどういう環境におちこんでしまっても、早速そこを自分のもっとも棲みやすい環境にしてしまう点、こういう凄みかたを才能であるとすれば、この人物は稀有の天才であったといえる。


 どうしようもなくポジティブシンキングだったようですね。松蔭はB型?(笑)

 松蔭の在獄期間は1年2ヵ月に及びましたが、その間、「孟子」の講義だけをしていたわけではなく、自身の学問も怠らず、おびただしい読書量だったことも有名ですね。その量、実に554冊だったとか。1日1冊では追いつきません。また、獄中の著書においても、先述した「福堂策」をはじめ、「二十一回猛士説」「士規七則」「回顧録」「寃魂慰草」「野山獄文稿」「野山獄雑著」「賞月雅草」「獄中俳諧」「清国威豊乱記」「書物目録」「抄制度通」など、たいへんな量にのぼります。いつ眠ってたんでしょうね。

 安政2年(1855年)12月15日、松蔭に出獄命令が下され、在宅での蟄居となります。獄を去る日、野山獄の囚人仲間たちは、松蔭のために送別句会を催しました。そのとき高須久子の詠んだ句が、ふたりが心を通わせたのではないかという憶測をよんでいます。

 「鴫(しぎ)立つて あと淋しさの 夜明けかな」

 「あなたがここを出て行くと、わたしは淋しい夜明けを迎えることになります。」てな感じでしょうか? まあ、この句をもってして恋愛感情があったかどうかをよみとるのは難しいですが、後年、松蔭が江戸に護送される際に詠んだ和歌とあわせて、ふたりのあいだにプラトニックラブがあったんじゃないかと考えられています。松蔭の生涯で唯一の浮いた話なんですが、どういうわけか、ドラマの句会では久子の句は描きませんでしたよね。なんでやらなかったのでしょう? このシーンのために久子をフィーチャーしていたと思っていたのですが・・・。

 出獄した松蔭は、仲間たちも出獄させてもらえるよう盛んに運動し、やがて8割がたの囚人を釈放させます。野山獄での出会いは、松蔭にとっても、他の囚人たちにとっても、大きな財産になったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2015-02-16 21:37 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)