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太平記を歩く。 その57 「三人五輪」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和一族郎党の墓とは別に、ここ大山町名和地区には名和氏ゆかりのものと伝わる五輪塔があります。


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それが、これ。

「三人五輪」と呼ばれる大型の五輪塔3基で、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光首塚といわれています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を護衛して上洛した名和長年は、北条幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成の(キ)、結城親光の(キ)、千種忠顕の(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。


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『太平記』巻17「義貞軍事付長年討死事」は、長年の最期を次のように伝えます。


義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。

要訳すると、

新田義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、一人残らず討ち死にしました。


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向かって左から長年、長男の義高、三男の高光のものであると言われています。


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長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父の死と時を同じくして、比叡山の西側にあたる西坂本(現滋賀県)にて討死したと伝わります。

その後、それぞれを家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。


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さて、「その48」から10稿に渡って伯耆国の史跡を巡ってきましたが、この稿にて終了です。

次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-25 00:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その53 「名和氏館跡」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和神社から600mほど南東に、名和氏館跡と伝わる場所があります。

説明書きによると、ここは名和2代の屋敷跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうです。


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名和2代と書かれていましたが、誰と誰のことかは説明されていませんでした。

「又太郎屋敷」という呼称から、ひとりは名和又太郎長年だと思いますが、もうひとりは嫡男の名和義高?・・・あるいは次男の名和基長? 三男の名和高光

でも、長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父と時を同じくして比叡山の西坂本で討死したといわれ、次男の基長は、のちに高野山に入山してとなったといいます。

その後、名和氏は九州に下り、肥後国八代郡の地頭となっていますから、この地には戻っていません。

じゃあ、長年の父・名和行高のことでしょうか?

もうちょっと詳しく説明してほしいですね。


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名和氏は村上源氏雅兼流を自称していますが、おそらくこれは後付の由緒で、播磨国の赤松氏や河内国の楠木氏と同様、地域に根付いた土豪悪党の類だったと思われます。

「悪党」とは、現代で言うところの悪人の意味ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した自主独立の武士の集団を指します。

室町時代の「国人」の前身ですね。

この頃の「悪」は、「悪い」というより「強い」といったニュアンスの言葉だったようです。


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名和氏は海運業を営んで財をなしたと伝わりますが、海賊のようなものだったのでしょうか?


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敷地内にある碑は、天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうですが、池田治道が死んだのは寛政10年(1798年)、この碑の建つ40年近く前になります。


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碑には確かに「天保六年八月」と刻まれています。

その頃に死んだ藩主となると、その2代あとの池田斉稷です。

その間違いじゃないでしょうか?


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屋敷は約2700㎡(800坪)ほどで、現在の家屋で考えれば豪邸ですが、当時の土豪の屋敷跡としてみれば、それほど広い敷地とは思えませんでした。

中世の屋敷というのは、土豪といえどもこの程度だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-17 22:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)