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太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その57 「三人五輪」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和一族郎党の墓とは別に、ここ大山町名和地区には名和氏ゆかりのものと伝わる五輪塔があります。


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それが、これ。

「三人五輪」と呼ばれる大型の五輪塔3基で、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光首塚といわれています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を護衛して上洛した名和長年は、北条幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成の(キ)、結城親光の(キ)、千種忠顕の(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。


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『太平記』巻17「義貞軍事付長年討死事」は、長年の最期を次のように伝えます。


義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。

要訳すると、

新田義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、一人残らず討ち死にしました。


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向かって左から長年、長男の義高、三男の高光のものであると言われています。


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長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父の死と時を同じくして、比叡山の西側にあたる西坂本(現滋賀県)にて討死したと伝わります。

その後、それぞれを家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。


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さて、「その48」から10稿に渡って伯耆国の史跡を巡ってきましたが、この稿にて終了です。

次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-25 00:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その56 「名和一族郎党の墓」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した長綱寺の裏山に、名和一族郎党の墓と伝わる300基以上の五輪塔があります。

墓所への参道は、境内に誘導板が設置されているので、すぐにわかります。


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急な階段を登ります。


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ここが、その場所です。


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この五輪塔群は、名和長年船上山で幕府軍と戦ったときに戦死した一族を祀ったものか、あるいは、そのとき館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が都を追われて足利尊氏の天下になったとき、足利方によって墓を荒らされることを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋めたといわれ、それが、昭和5年(1930年)になって偶然、地元の農家の人によって発見されたそうです。


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発見当時は何の墓かわからなかったそうですが、名和長年の妹婿の家に伝わる古文書によって判明したそうで、その後、現在のかたちに祀られたそうです。


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ほとんどが五輪塔ですが、最上段の中央に1基だけ、大きな宝篋印塔があります。


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これが、名和長年の墓と考えられているそうです。


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参道から西を見下ろします。

右端に見えるのが、日本海です。


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下山して長綱寺とその裏山を見上げます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-24 00:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その55 「長綱寺(名和一族菩提寺)」 鳥取県西伯郡大山町

前稿的石前々稿名和氏館跡のすぐ東側に、名和氏一族の菩提寺・長綱寺があります。

この寺には、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光、そして後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の位牌が祀られてあり、寺紋は帆掛け船で後醍醐天皇から名和氏に賜ったものと言われています。


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寺の創建は名和長年によるもので、元は長年の父・名和行高の還暦を祝って建てた隠居所だったそうです。

長綱寺(ちょうこうじ)という名称は、長年の以前の名である長高から取ったものだそうです。

ちなみに、船上山挙兵時は、長年は長高の名乗っていたといい、後醍醐天皇の「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉を受け、長年の名を贈られたと伝わります。


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説明板によると、創建当初は長高の名前にあやかって「長高庵」と言ったそうですが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて足利氏の天下になってからは、ここが長年(長高)に関係する場所であることを知られないため、「長高庵」を「長綱庵」と改名したそうです。


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その後、長綱庵が火災で焼けたのを機会に、屋敷を前々稿で紹介した場所に移し、再建した寺院は現在の長綱寺と再度改めまたそうです。


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境内の片隅には、「硯岩」と称する遺跡があります。


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その説明書きによると、長年が後醍醐天皇を船上山へ案内する途中に休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から、「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれ、伝承されてきた岩だそうです。


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ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年が立ち、「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている。持ち帰るよう。」とのお告げがあったそうです。

これを聞いた有志たちが手をつくして探し回ったところ、そのお告げ通り皆生温泉の近くで硯岩を発見。

平成22年に寺へ帰ってきたそうです。


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夢枕云々はどうかわかりませんが、昭和30年代の話ですから、岩がなくなったという話は本当なんでしょうね。

この岩は10トン300kgあるそうです。

誰が? どのようにして? 何のために?

なかなかミステリアスな話ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-20 00:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その54 「的石」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和氏館跡のすぐ近くに、「的石」と呼ばれる遺跡があります。

この石は、名和長年を始めとする名和氏一族が、弓矢の修練に使用した的だと伝わります。


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広い公園内の一角に、大きな石と説明板が見えます。


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説明板です。


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縦170cm、横150cmの大きな石で、たしかに平らに削ったような面があるものの、それ以外は何の変哲もないただの石です。


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なんでも、この的石は、雨が降りやんだあとに太陽が照り出すと、石の表面に白い二重の輪がくっきり見えるのだそうで・・・。


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う~ん・・・この日は太陽は照っていたものの雨上がりではなかったので、なんとも言えません。


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長年が弓の名手であったことは、『太平記』にも記されています。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が名和の湊についたとき、船を降りた千種忠顕「この辺りに弓矢の名手はおらぬか?」と領民に尋ねたところ、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。」と答え、長年を頼ることにしたとあります。(参照:その52

上の説明板にもありますが、長年は五人張りの強弓を引き、一矢で二人の敵兵を射抜いたとの伝説があります。


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五人張りの強弓とは、弓を張るのに5人必要だったという超強弓のことで、普通は強弓といっても3人張り程度だそうです。

現在のオリンピッククラスのアーチェリーでも、強いもので引き重量が25kgほどだそうで、これは、ひとりで十分張れるそうです。

そう考えれば、五人張りというのがいかに強弓であったかがわかり、凄まじい威力を発揮したであろうことが想像できます。


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ちなみに、日本の歴史上、有名な強弓の使い手といえば源為朝(源頼朝、義経の叔父)で、為朝の弓も五人張りだったといいます。

為朝の放った矢は、鎧武者を貫通し、後ろにいた武者の袖鎧を射抜いて止まったという伝説があります。

長年の一矢で二人の敵兵を射抜いたという伝説も、あながち盛った話ではないのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その53 「名和氏館跡」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和神社から600mほど南東に、名和氏館跡と伝わる場所があります。

説明書きによると、ここは名和2代の屋敷跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうです。


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名和2代と書かれていましたが、誰と誰のことかは説明されていませんでした。

「又太郎屋敷」という呼称から、ひとりは名和又太郎長年だと思いますが、もうひとりは嫡男の名和義高?・・・あるいは次男の名和基長? 三男の名和高光

でも、長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父と時を同じくして比叡山の西坂本で討死したといわれ、次男の基長は、のちに高野山に入山してとなったといいます。

その後、名和氏は九州に下り、肥後国八代郡の地頭となっていますから、この地には戻っていません。

じゃあ、長年の父・名和行高のことでしょうか?

もうちょっと詳しく説明してほしいですね。


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名和氏は村上源氏雅兼流を自称していますが、おそらくこれは後付の由緒で、播磨国の赤松氏や河内国の楠木氏と同様、地域に根付いた土豪悪党の類だったと思われます。

「悪党」とは、現代で言うところの悪人の意味ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した自主独立の武士の集団を指します。

室町時代の「国人」の前身ですね。

この頃の「悪」は、「悪い」というより「強い」といったニュアンスの言葉だったようです。


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名和氏は海運業を営んで財をなしたと伝わりますが、海賊のようなものだったのでしょうか?


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敷地内にある碑は、天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうですが、池田治道が死んだのは寛政10年(1798年)、この碑の建つ40年近く前になります。


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碑には確かに「天保六年八月」と刻まれています。

その頃に死んだ藩主となると、その2代あとの池田斉稷です。

その間違いじゃないでしょうか?


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屋敷は約2700㎡(800坪)ほどで、現在の家屋で考えれば豪邸ですが、当時の土豪の屋敷跡としてみれば、それほど広い敷地とは思えませんでした。

中世の屋敷というのは、土豪といえどもこの程度だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-17 22:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


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名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


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入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


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江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


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現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


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説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その50 「後醍醐天皇御腰掛の岩」 鳥取県西伯郡大山町

せっかく伯耆国まで足を伸ばしたので、船上山周辺の『太平記』にまつわる史跡を巡ってみます。

まずは、御来屋漁港にある「後醍醐天皇御腰掛の岩」


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元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、側近の千種忠顕らと共に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、当初、出雲国を目指すも風に流され、ここ名和の湊にたどり着き、ここで、この地で海運業を営んでいた名和長年を頼ります。


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このとき、疲れた天皇が体を休めるために海岸にあった大きな岩に腰をかけたという言い伝えあり、それが、この岩だと伝わるそうです。


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30年ほど前までは海中にあったそうですが、漁港の改修によって海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置しています。


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それにしても、たかが休憩のために座っただけで史跡になんるんですね。


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御腰掛岩の隣には、後醍醐天皇の御製の碑があります。


「忘れめや よるべもなみの荒磯を 御舟の上にとめし心を」

(どうして忘れようか。寄る辺のない波の荒い磯で 朕の乗った船に心を留めてくれたことを)


「寄る辺のない」「波」「御舟の上」と天皇が立て籠もった「船上山」をかけているんですね。


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このあたりの地名を「御来屋(みくりや)」といいますが、天皇家や伊勢神宮などの神領を表す「御厨(みくりや)」という言葉がありますよね。

後醍醐天皇がこの地に上陸したということで、この地名になったのかもしれませんね。


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御来屋漁港から日本海を望みましたが、隠岐の島は見えませんでした。

うっすら見えている島のような場所は、おそらく島根半島かと。


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そのまま西に目を移すと、海岸線に風力発電の大きな風車が並びます。


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せっかくなので、近くに行ってみました。


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壮観ですね。

後醍醐天皇もびっくりです。


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遠くに大山、そして船上山が見えます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-11 23:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その49 「船上山行宮跡(後編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

前稿の続きです。

標高616.5m地点に建つ「船上山行宮之碑」の丘をあとにし、「後醍醐天皇行宮跡」への誘導案内板に従ってさらに尾根道を奥に進みます。


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船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた修験道の零場だったといいます。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と名和長年らがこの地で挙兵した頃、この山には金石寺という寺院があったと伝わります。


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しばらく進むと、石段石垣の遺構があります。

おそらくこれは、その金石寺の後身・智積寺のものと思われます。

智積寺とは、室町時代後期の享禄3年(1530年)に創建された寺院です。


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山道の左右には、「寺坊跡」とみられる削平地が何箇所もあります。

当時の智積寺の繁栄ぶりがうかがえますね。


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この「寺坊跡」は、かなりの面積です。


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道中、「船上山古石塔群」と記された案内板がありました。

それに従って進んでみると、古い五輪塔宝篋印塔が100基以上、苔むした状態で乱立していました。


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形から察するに、鎌倉時代末期から室町時代中期のものかと思われます。


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その時代、立地から考えて、おそらく寺院関係の墓域かと思われますが、あるいは、後醍醐天皇らが挙兵した「船上山の戦い」での戦死者の墓だったりするかもしれません。


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それにしても、保存状態がよろしくなく、荒れ放題です。

数少ない中世墳墓の貴重な遺跡といえます。

船上山は国の史跡にも指定されているわけですから、なんとか維持管理できないものでしょうか?


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山頂の船上神社が見え始めた少し手前に、「文保二年銘台石」と名付けられた石塔の台石があります。

その説明板によると、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318年)の年号が刻まれているそうで、鎌倉時代の僧・良賢によって建てられたものだそうです。

後醍醐天皇がこの地に籠もったのが元弘3年/正慶2年(1333年)ですから、その当時、すでにこの石塔があったということですね。


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そして、標高687m付近にある船上神社です。


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船上神社は、かつては船上山三所権現といい、寺僧が奉仕していたそうですが、明治11年(1876)の神仏判然令によって本尊等を山下の法蔵院に戻し、奥ノ院のご神体を権現社に移して、船上神社としたそうです。


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拝殿です。

戦後、正道館の講堂を移築したものだそうです。


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本殿です。

昭和9年(1934年)に船上山史跡保存会によって再建されたものだそうです。


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そして本殿から200mほど西に進むと、奥の院があります。


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奥の院には、後醍醐天皇が祀られているのだとか。


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船上神社の北側には、金石寺本堂跡(推定)があります。


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説明板によると、承和6年(839年)鋳造で「伯耆国金石寺」の銘が残る梵鐘が、現在も福岡県福岡市早良区にある西光寺国宝として保存されているそうで、そのことから、約1200年前には既にこの地にあったことがわかっています。


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船上神社の南側には、智積寺本堂跡があります。


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金石寺は南北朝時代の争乱に巻き込まれて衰退してしまいますが、室町時代後期の享禄3年(1530年)に智積寺として再興されました。

しかし、天文13年(1544年)に尼子氏と山名氏の戦乱により焼失。

これ以後、本堂は再建されていないそうです。

その後、太閤検地による寺院の没収などにより、文禄年間(1592~1595年)に山上の寺院を解散したそうです。


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で、本稿のメイン、船上神社の本堂と奥の院の間に、「後醍醐天皇行宮跡」があります。


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後醍醐天皇を奉じた名和長年らは、攻め寄せる隠岐守護の佐々木清高軍と激しい戦いを繰り広げます。

『太平記』によると、3000余りの佐々木軍に対して名和軍は僅かに150余り

しかし、名和長年は木に数百の旗をくくりつけて自軍を大軍であるかのように見せかけるなどの策を講じ、3日間の激戦の末、佐々木軍を打ち破ります。


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戦いに勝利した後醍醐天皇は、その後も約80日間この地に留まり、全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばすなど、倒幕に向けての政治工作を執り行ったといいます。

いわば、倒幕の聖地といえますね。

そんな歴史を踏まえ、昭和7年(1932年)5月、「船上山行宮跡」として国指定の史跡となりました。


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ただ、当時は行宮跡の正確な場所が確定できず、頂上一帯が指定区域となっていたそうで、第二次世界大戦後に調査研究が進み、地元史の『伯耆民談記』に見られる「本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり」という記述から、後醍醐天皇行宮跡をこの地と推定したそうです。


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行宮跡と船上神社の間には、樹高23m、幹周囲5.6mの杉の大樹が聳えます。


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推定樹齢1000年だとか。

後醍醐天皇の挙兵時にも、既に樹齢300年の大樹だったことになりますね。

歴史の守り人・・・もとい、守り樹といえるでしょうか。


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最後に、麓の船上山ダムから見上げる船上山屏風岩

絶景です。

この山が太古の昔から山岳信仰の対象となってきたことがわかりますね。

この『太平記を歩く』シリーズを続けるにあたり、当初は車で片道2時間程度以内で行ける関西の史跡をめぐる設定で、ここ船上山はリストに入れてなかったのですが、進めていくうちに、どうしてもこの神秘的な景色が見たくなり、このGWに神戸から片道4時間かけてこの地にやってきました。

いや~、来てよかったですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-10 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その48 「船上山行宮跡(前編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

島根県の東伯郡琴浦町にある標高687mの船上山までやってきました。

ここは、配流先の隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、挙兵したとして知られています。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は伯耆国名和にて海運業を営んでいたとされる名和氏を頼って名和の湊にたどり着きます。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、当初は出雲国を目指していたものの、風に流されて名和の湊についたとしています。

これを助けた名和一族の当主・名和長年は、天皇を奉じて元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月28日に、ここ船上山にて挙兵します。


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船上山は、「屏風岩」と呼ばれる比高100m以上の断崖絶壁が数kmに渡って続く山として知られています。

これ、一度見たかったんですよね。


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船上山は大山山系のひとつで、その南方に連なる勝田ヶ山(1,149m)、甲ヶ山(1,338m)、矢筈ヶ山(1,358m)などと連なり、古期大山(約100万年前)の外輪山といわれています。

古期大山の火山活動によって噴出した溶岩流が、長い間の浸食によって削られ、特異な山容を形成したと考えられているそうです。


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この山容が船底の形に似ていることから、「船上山」と名付けられのだとか。

ここは後醍醐天皇の挙兵の地となったことから、船上山城ともいわれますが、まさに、天然の要塞ですね。


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逆光でわかりにくいですが、頂上の台地から勢いよく流れ落ちる雄滝雌滝があり、この2つの滝を千丈滝といいます。


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屏風岩と愛車のプリウスαです(笑)。


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ここから屏風岩にズームしてみると、なっ、ななななんと!!!

天然の要塞を果敢に攻めるロッククライマーが!!!

崖の中腹にブルーの服を着たチャレンジャーがいて、崖の下でそれを見守る人が3人ほどいるのがわかるでしょうか?

よーやるわ!


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さて、標高400mほどの場所にある駐車場に車を停めて、ここから登山です。


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登山口にある説明板と案内板です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク初日の4月29日。

いい登山日和の天気です。


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登り始めて10分ほどすると、「駕籠立て場」という立て札が立つ場所を通ります。


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その説明によると、後醍醐天皇がこの地を発って京に向かわれる途中、この地に駕籠を立てて休憩されたのだとか。


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駕籠立て場から2~3分登ったところに、山頂へ向かう登山道と横手道に別れる分岐点につきます。

横手道を行くと、先程ロッククライマーがチャレンジしていた屏風岩の下に行くことができるようです。

試しに行ってみることに。


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進み始めてすぐに後悔。

急斜面にある細い山道は、高いところが得意でないわたしにはハードでした。


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足元を見下ろすと足が竦みます。


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なんとか屏風岩の最北端に這うようにたどり着き、下から撮影。


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振り向いた東の眺望です。


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行きはよいよい帰りは恐い。

登りは上を見て進んでいたのでまだ良かったのですが、帰りは否が応でも足元を見ながら進まなければならないため、足がガクガクでした。

まるで、崖の斜面に設置された平均台の上を歩いているかの如くで・・・。


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さて、気を取り直して山頂を見ざします。


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登り始めて約30分、山頂の尾根道にたどり着きました。


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丘の上に石碑が見えます。


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「船上山行宮之碑」と刻まれています。


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石碑裏面の碑文。

「大正十三年六月」とあります。


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石碑の横にある立て札。

標高616.5mとあります。


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その横に倒れていた石にも、何か文字が刻まれていました。

これも、かつて石碑だったのでしょうか?


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帰宅してネットで調べていると、この碑の立つ丘から少し下ったところに、「千丈のぞき」と呼ばれる屏風岩を上から見下ろせるスポットがあったことを知りました。(※参照)

この日、まったくその存在に気づかずに痛恨・・・と言いたいところですが、横手道でへっぴり腰になっていたわたしですから、たぶん、千丈のぞきは無理だったに違いないと思い、納得です。


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この日は4月29日ですが、山頂にはまだ山桜が残っていました。


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で、丘の下にある案内板です。

「後醍醐天皇行宮跡」とあります。

えっ?・・・ここが行宮跡じゃないの?

・・・てな訳で案内板に従って進んでみることにしますが、かなり長くなっちゃったので、続きは次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-09 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)