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坂本龍馬の人物像についての考察。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が、次回で最終回を向かえる。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見を述べさせてもらってきたが、最終回を向かえるにあたって、今更ながら坂本龍馬の人物像についてふれてみたいと思う。

e0158128_14402415.jpg 坂本龍馬といえば、人々の中に強い一定のイメージが存在する。明るく、楽天的で、濶達で、気取りがない。粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感がもてる。同時代に生きる「志士」たちのイメージといえば、激情家で、眉をつり上げ、とらわれた精神の持ち主という、いわば悲憤慷慨型の人物を連想しがちだが、龍馬にはそういった気負いがまったく感じられず、良くも悪しくも自然体の自由人といったイメージだ。

 では、そうした龍馬像はいつごろから定着したのだろうか。龍馬をあつかった小説として司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』は決定的で、私たちの持つ龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はないが、では、その司馬・龍馬像は、どのようにして出来たのだろうか。歴史家の故・飛鳥井雅道氏はその著書の中で、龍馬の人物像は明治、大正、昭和の時代背景に応じて段階的に形成されていったと説く。

e0158128_144152100.jpg 最初に龍馬が脚光をあびたのは、明治16年(1883年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という小説だった。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾。自由民権運動の激化の中で、悪は薩長にありとのキャンペーンが民権派の中に浸透されていく過程でのことだった。民権運動の中で育った若き坂崎紫瀾は、維新前、土佐を二分していた上士と下士の対立をそのまま藩閥対民党の対立にかぶせ合わせて話を展開していった。維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝し、征韓論以来、政府の片隅に追いやられてしまっていた土佐派が、板垣退助後藤象二郎をはじめとして、なんとか土佐の役割を復権したいと模索していた時期だっただけに、この小説の影響力は大きかった。板垣はこのころから、「自分の今日あるは坂本龍馬先生のおかげである」などと好んで言い始めていたという。龍馬の復活は死後十数年経った明治中期、まずは民権派の源流としてであった。

e0158128_14424896.jpg 次に龍馬の名が世間に轟いたのは、明治37年(1904年)2月、近代日本の二度目の大博打たる日露戦争の戦端が開かれ、国民の中に憂色が立ち込めていた時期だった。そんなおり、新聞各紙は突然、「皇后の奇夢」と題したセンセーショナルな記事を発表する。日本がロシアと国交を断絶した2月6日、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。そして翌日の晩も再び皇后の夢枕に立ったという念の入りようだった。皇后が怪しんで側近にこの夢を語り、当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「容貌風采、この写真に寸分違ひなしと仰せられた」とあっては、龍馬ブームが爆発的に広がっていく理由としては十分すぎただろう。龍馬の墓の横には新たな碑が建てられ、「死して護国の鬼となる」とうたわれた。ここでの龍馬は、亀山社中のリーダーから海援隊の隊長にとどまらず、大日本帝国海軍の守護神にまで高められたのである。もちろん、この夢はおそらく作り話だろう。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥にその実権をにぎられ、二流の閑職かせいぜい皇后宮関係などの無難な場所に追いやられていた土佐派にとって、この龍馬の幽霊は大きな意味があった。演出者はほぼ想像がつく。龍馬の二度目の復活は、こうした背景の中、海軍の先駆者としてであった。

 「皇后の奇夢」から20年ほどが過ぎた大正末から昭和初年にかけて、立憲主義をとなえた大正デモクラシーが華やかに展開されていた。この立場によれば、明治維新は「万機公論ニ決スベシ」という「五箇条の御誓文」の精神にそってとらえなおすべきであり、藩閥政府は維新本来の精神に反しているという論だった。こうした「デモクラシー歴史観」の中で再び注目されたのが、龍馬の「船中八策」ならびに「新政府綱領八策」であったという。 「万機宜シク公議ニ決スベキ事」「外国ノ交際広ク公議ヲ採リ」など、この案では「公」が激しく強調されており、デモクラシー史観からは、この龍馬の案が「デモクラシー」の先駆的思考と考えられた。強く日本の変革を求めつつも、ボルシェヴィキ革命のような流血をさけたいとする民本主義者たちにとって、公儀を原則とする「大政奉還」、つまり平和革命コースはもっとも理想的な革命のモデルだった。こうした背景の中、龍馬の三度目の復活は、大正デモクラシーの源流、平和革命論者としてであった。

 こうして坂本龍馬は、「自由民権運動の祖」「大日本帝国海軍の祖」「大正デモクラシー的平和革命の祖」と、時代時代に合わせてその姿を変え、語り継がれてきた、と飛鳥井雅道氏はいう。だが、この龍馬の持つ3つの顔は、きわめて政治的な背景が生んだ虚像であることは言うまでもない。では、本来の龍馬像はどのようなものだったのだろう、という観点から生まれたのが、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』であった。e0158128_1446159.jpg司馬氏は、それまでの龍馬が持つ政治的な匂いを払拭し、人々が抱き始めていた愛すべき龍馬像を司馬氏的に大きく拡大し定着することに成功したことで、戦後の龍馬像の決定版を作れたのだ。土佐にとらわれず、薩長にもとらわれず、さらには幕臣の勝海舟から貪欲に知見をむさぼりつくした自由人・坂本龍馬・・・と。この司馬氏的龍馬像も、司馬氏が作り出した虚像だといわれれば、そうかもしれない。事実、小説である以上、多分にフィクションが盛り込まれている。しかし、少なくとも司馬氏の龍馬像は、上記に見る政治的、思想的に都合よく利用されてきた龍馬像ではない。明治、大正、昭和と政治的に利用され、思想的に拡大解釈されてきた龍馬像は、死後100年が過ぎ、司馬氏の手によってようやく本来の龍馬像に近づき得たと私は思っている。

 今年また、大河ドラマの影響で5度目の龍馬ブームが起こった。ドラマに見る龍馬像については、最終回終了後の稿にゆずることにしたい。ただ、一言だけいえば、司馬氏的龍馬像を超える龍馬像はまだ生まれていない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-25 22:51 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第38話「霧島の誓い」

 慶応2年(1866年)3月10日、坂本龍馬と新妻・お龍の二人は西郷隆盛らに同行して薩摩の地に降り立った。「日本初の新婚旅行」といわれる旅である。この新婚旅行のいわれは、明治16年刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の中で、「ホネー、ムーン」と紹介されたことによるもののようだが、本来の目的は、寺田屋事件で受けた手傷の湯治と、同事件でより厳しくなった幕府の監視から身を隠すため、と考えるのが正しいようだ。

 この旅の日程や詳細は、龍馬が姉・乙女に宛てた手紙や、龍馬自筆の手帳に書き残されており、こと細かな足取りが追跡できる。3月10日鹿児島着。鹿児島より海路、浜ノ市港に入り、日当山温泉に一泊。17日より塩浸温泉に11連泊。霧島に向かい、硫黄谷温泉にて小松帯刀と面談し1泊。29日、霧島山に登り霧島神社で1泊。30日、硫黄谷温泉に戻り1連泊。その後また塩浸温泉で連泊して4月11日鹿児島に帰着。特に長く滞在した塩浸温泉でのひとときは、龍馬にとってまさに心洗われる時間だったようで、
「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにてうおをつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり」
と、乙女に宛てた手紙の中で、子どもが親に語るように無邪気に伝えている。

 霧島山高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾」を引き抜いたという有名なエピソード。ドラマでは、龍馬の決意の行動という、えらく大袈裟な設定になっていたが、実際には龍馬とお龍のお茶目な「いたずら」だったようだ。乙女に宛てた手紙では、
「是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ其顔がつくり付てある、からかね也。やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。」
と述べ、さらに、
「此サカホコハ、少シうごかして見たれバよくうごくものから、又あまりニも両方へはなが高く候まゝ、両人が両方より、はなおさへて、エイヤと引ぬき候得バ、わづか四五尺計のもの二て候間、又々本の通りおさめたり。からかねにてこしらへたものなり。」
とある。つまり、神の逆鉾といっても簡単にひっこ抜ける、まやかしものだと言っているに等しい。

 この「天の逆鉾」は、天照大御神の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が突き立てたという伝説のもので、「神のましますしるし」だった。その逆鉾をいたずらで引き抜く行為など、龍馬の盟友・武市半平太を代表とする、皇国観念に酔った志士たちすべてにとって、とてもできることではなかっただろう。この行動から見ても、龍馬がこの当時のいわゆる尊王の志士たちと違う考えを持っていたことがわかる。龍馬は何かのシンボルに頼ることなく、常に現実主義で、自分の力のみを信じていた男だったのだろう。 「信仰」はもちろん「倫理」にも「道徳」にも彼はしばられなかった。そんな龍馬の人間像がうかがえるエピソードである。

 龍馬が薩摩に滞在したのは88日間。この旅に出る前、京の薩摩藩邸で療養していた期間を合わせれば、寺田屋事件から約5ヵ月近くもの間、世の流れから距離を置くこととなった。念願の薩長同盟を締結させ、これから・・・というときのこの療養期間は、龍馬にとっては歯がゆい日々だったに違いない。加えてこの間の5月2日、長州からの兵糧米を薩摩に廻送するユニオン号に同行した、亀山社中唯一の持船・ワイルウェフ号が暴風のため沈没し、同志・池内蔵太黒木小太郎ほか水夫10名が水死するという事故が起こった。自由の利かない自身の身体に加えて、船と同志を一度に失い、この時期の龍馬はやりきれない思いだっただろう。6月、龍馬はユニオン号から名をあらためた桜島丸(乙丑丸)に乗って鹿児島を発ち馬関に向かったが、その際ワイルウェフ号の沈没地点に近い五島にまわり、碑を建てて弔ったという。

 次週から第4部。いよいよ時勢は「倒幕」へと進んでいく。そして龍馬と岩崎弥太郎が深く関わることになるのも、これからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-21 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(2)  

龍馬伝 第14話「お尋ね者龍馬」

 さて、「龍馬伝」第2部が始まった。第1話のオープニングと同様、明治15年、三菱会社社長となった岩崎弥太郎のもとに、既に過去の人となった坂本龍馬のことを取材にきた一人の記者とのシーンから始まった。第1話のときも紹介したが、この記者は、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞で連載された、坂本龍馬を初めて題材として取り上げた小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」の著者で、坂崎紫瀾(しらん)という自由民権運動家。この作品のことは、以前、「坂本龍馬が日本史のスターになった理由。」の稿でも紹介したとおり、後世の私たちが持つ「龍馬像」の基礎を作った作品とも言われている。その作者が、執筆前に龍馬の旧知の人物のもとに取材に訪れる。あっても不思議ではない設定だ。同じ席で、新政府の官僚となった後藤象二郎と、このとき自由党総裁だった板垣退助のヨーロッパ外遊費を借りにきていた人物がいたが、この話も実話で、この後、弥太郎は二人の洋行費を世話することになるのだが、その話はドラマの本筋と離れてしまうのでここではひかえることにしよう。物語は「龍馬伝」である。

 龍馬が脱藩したのは、文久2年(1862)3月24日。その後、史実の記録に再び龍馬が姿を現すのは、同年8月の江戸にて。つまり、脱藩してから江戸にたどり着くまでの数カ月間、彼がどこで何をしていたかはわかっていない。小説などのこの間のエピソードは全て想像でしかなく、ドラマのように大坂に現れたり京に立ち寄ったりするのだが、ドラマ中の彼が言っていたように、九州は薩摩へ行ったのではないか・・・とする説が、どうやら最も濃厚のようだ。龍馬の九州行きの件は、上記、坂崎紫瀾著の大正元年に刊行された「維新土佐勤王史」の中でも紹介されているらしいが、それよりも真実味があるのは、文久3年に出された龍馬の脱藩罪の赦免申渡書の中に、
「右之者去戌ノ三月御国元ヲ立チ、京摂並九州関東辺諸所周旋罷在・・・」
という文言があり、これは龍馬自信の供述に基づくものだろうから一概には信用できないものの、はっきりと九州と記されている。この8年前に、龍馬と親交があったとされる河田小龍が藩命で実際に薩摩に派遣され、当時最先端の大砲鋳造技術を視察してきている。その体験談を小龍から聞いた龍馬が、自分の目で見るために薩摩へ向かった・・・としてもまったく不思議ではない。もっとも、ドラマ中の彼も言っていたとおり、当時の薩摩藩はよそ者を簡単に入国させるような藩ではなかったことを思えば、龍馬が目的を果たせたかどうかは定かではないが・・・。

 「わしやち、攘夷の志はあったがじゃ。けんどのぉ、わしが思うちゅう攘夷と他のもんが思うちゅう攘夷は、どうも違うがぜよ。」
 大坂で出会った弥太郎に龍馬が言った言葉。後に勝海舟との運命的な出会いによって、開明的な世界観を持つに至る龍馬だが、一介の脱藩浪人に過ぎないこの頃の龍馬は、まだ他の志士たちと同じく攘夷を志していた。が、他の単純攘夷志士たちと違っていたのは、攘夷の為にはまず敵を知ろうとしたことだろう。敵を知り己を知ることは兵法の常道。このとき薩摩へ向かったことが事実とするならば、日本で最も西洋技術に近い進歩を遂げているとされる薩摩から、何かを学び得ようという発想からだろう。この頃の龍馬には既に他の攘夷志士たちとは違う、自分が目指すビジョンがおぼろげながらあったのかもしれない。

 吉田東洋の死で、土佐勤皇党が土佐藩の実権を握り、同時に武市半平太が歴史の表舞台に登場する。半平太の念願だった「一藩勤皇」が実現しようとしていた。龍馬が歴史の表舞台に登場するまでには、もう少しときを待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-05 01:20 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(2)  

坂本龍馬が日本史のスターになった理由。

 大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。今更ながら坂本龍馬について少しふれてみたいと思う。彼の経歴や功績については誰もが知るところで、紹介するまでもないだろう。歴史上の偉人たちの中でとりわけ人気の高い人物で、尊敬する人物ナンバーワンだとか、企業が欲しい人物ナンバーワンだとか、とにかくファンが多い。それほどメジャーな人物なのだが、中高生の歴史の教科書を見てみると、薩長同盟の尽力者としてほんの数行載っているだけで、とりたてて重要視されていない。思い出してみても、学校で坂本龍馬のことを詳しく習った記憶はない。では何故これほどまでに坂本龍馬という人物が、歴史上のスター的存在になったのだろう。ここではその経緯について少し紹介してみたい。

 維新後、激動の明治新国家の中で、生者は栄え、死者は忘れられた。龍馬の名も例外ではなく、人々の記憶から消えかけていた。ただ土佐人や土佐系の浪士出身者たちは、薩長政府に憤懣を感ずるごとに、「龍馬がこんにち生きてあれば」という思いは募っていたという。龍馬の名が再び世に出てくるのは、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞に、坂本龍馬を初めて題材として取り上げた小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が連載されたことによる。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾(しらん)。政治色の強い小説で、当時自由民権運動がにわかにさけばれ初めていた土佐において、「自由民権の元祖は、坂本龍馬だった。」という、いわば宣伝のような作品だったともいわれている。同作品で姉・乙女や妻・お龍ら龍馬の周辺にいた人物が丁寧に描かれており、強い女性に守られながら育った龍馬の柔らかいイメージは、この作品によって作られたといわれている。

 次に龍馬のブームが起きるのは、1904年(明治37年)の日露戦争の日本海海戦直前、皇后の夢枕に立ったという話が新聞に報じられたことによる。当時、どうみてもロシアの陸海軍に勝てるはずがないという観測が誰の胸中にもあり、憂色が一国を覆っていた。そんなおり、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。」と言い、「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。皇后は龍馬という人物を知らなかった。当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「この人である。」と言ったという。この話は「皇后の奇夢」としてすべての新聞に載り、世間はその話題でもちきりになった。

 この奇夢は真実かどうかわからない。当時、そのこのろ流行語であった「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで変えようとしたとも言われているし、また当時、宮内関係の顕職についていた者は土佐系の人物が多く、彼らは薩長閥の外にあって冷遇されており、土佐株を上げるためにこういう話を作ったのではないかとも言われている。ともあれ、この話によって坂本龍馬の名は世間にとどろき、これ以後大正期に入って伝記が多く刊行され、芝居などにも登場するようになったという。この「奇夢」の、あるいは作者だったかもしれない田中光顕は、生涯この話は事実だと言い続けていたそうである。

 そして時代は進み、なんといっても龍馬の人気を不動のものにしたのは、1963年(昭和38年)に連載が始まった、司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」だろう。現代の人が持っている坂本龍馬のイメージはこの作品によって作られたものと言っても過言ではなく、私もこの作品に感化されたひとりである。以後、龍馬を題材にした物語はすべてこの作品をベースにしており、学者さんまでもが崇拝しているということを思えは、この作品がもたらした影響ははかりしれない。しかし、著者の司馬氏はあくまでこの小説はフィクションだと語っており、「龍」を「竜」としたところにもその意図がうかがえる。物語中に出てくる「竜馬」は、司馬氏が作り出した「竜馬像」だという。しかし、司馬氏はこの作品を書くにあたって何年もの準備期間と、きめ細やかな取材を重ねており、そうして作られた「司馬・竜馬像」は、真実とは言わないまでも、まったくの虚像とも言えない気もする。

 龍馬のもつ、自由で、濶達で、壮大な愛すべき人物像はこうして確立された。不思議なのは龍馬のキャラクターは、どの物語においても一定であること。例えば、同じ時代に生きた英雄・西郷隆盛などは、志士側の視点で書かれた物語では情に厚い古武士として描かれ、幕府側の視点で書かれた物語では、裏工作の得意な政治家・西郷の部分が強調されることが多い。しかし、龍馬という人はどの角度から描かれても、そのキャラクターは常に変わらない。どんな物語でも龍馬は龍馬なのである。それだけ龍馬のイメージというのは確立されており、その変わらない、変えようがない人物像が、彼を歴史のスターにさせた理由かもしれない。

 坂本龍馬に魅力を感じる人たちの多くは、小説、ドラマ、映画など虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっている。坂本龍馬という人は、日本史の中よりもはるかに物語の中で輝いてきた人物だと言えるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-01-08 14:03 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

龍馬伝 第1話「上士と下士」

 明治15年、三菱会社社長となった岩崎弥太郎のもとに、坂本龍馬という人物について話を聞かせてほしいという記者・坂崎紫瀾が訪れる。この脚本の設定は、あながちフィクションとも言えない。平成の現代では、歴史的英雄と評される坂本龍馬だが、明治のこの時期には激動の歴史の中で忘れ去られていた存在だった。明治政府のパトロンとも言えるほどの財力を手に入れた弥太郎に対して、既に過去の人物として埋もれてしまっていた龍馬。再び坂本龍馬の名が世に響き渡るのは、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という龍馬をモデルにした志士の物語によってである。当時、薩長閥政府に不満を持っていた土佐系の人々にとっては、「龍馬さえ生きておれば・・・。」という気にさせた読み物だったに違いない。その物語を連載するにあたって、所縁の人物として弥太郎のところに記者が取材に訪れる。あっても不思議ではない話だ。

 この「龍馬伝」は、岩崎弥太郎の視点で坂本龍馬の物語を描くという設定。どのような物語になるのだろうと色々想像はしていたが、この弥太郎の回想から始まったオープニングは全く予想外で、しかしとても面白く、良い意味で期待を裏切ってくれた。今後が楽しみである。

 本話のタイトルは「上士と下士」。そのタイトルどおり、土佐の厳しい身分制度を見せてくれている。他のどの藩にも、上士と下士といった身分は存在するのだが、土佐藩にいたっては特にその差別が激しい。その起源は、この時期よりさらに250年ほど前、関ヶ原の合戦後まで遡らねばならない。関ヶ原で東軍として戦った遠州掛川五万石の山内一豊は、その恩賞として土佐二十四万石を家康より与えられ、国主となった。その山内家の子孫が、土佐の「上士」と言われる身分の武士たちである。一方で「下士(郷士)」という身分の武士は、その関ヶ原において西軍に味方し敗軍となって土佐を追われた元・国主、長宗我部氏の遺臣たちの子孫である。つまり、この下士たちの方が、元々の土佐の地の侍で、上士たちは所謂「よそ者」なのである。それだけに、下士たちは、よそ者である上士に対して積年の恨みがあり、上士たちはその地侍を抑えるために、他藩よりも厳しく抑えつけた。職制上だけにとどまらず、
「郷士は冬でも絹や紬の類を着てはならない。」
「郷士は夏の日差しの強い日でも日傘をさしてはならない。」
「郷士は雨の日でも下駄を履いてはならない。」

など、屈辱的な差別を250年もの長い間、強いられてきた。この土佐の厳しい身分制度を理解しなくては、幕末の土佐藩の立場は理解できない。藩全体が勤皇・倒幕として働いた薩摩・長州はいずれも関ヶ原の敗軍だった外様大名の藩。一方土佐藩は外様とはいえ、徳川家に関ヶ原での大恩がある上士・山内家は佐幕、関ヶ原敗軍・長宗我部氏の流れをもつ下士(郷士)は勤皇といった複雑な形となるのである。

 坂本龍馬の身分は郷士、そして岩崎弥太郎の身分は地下浪人。地下浪人とはその郷士の株を売ってしまった身分のこと。下士の中でも更に虐げられていた。そんな身分の低い男たちが、一方は平成の現代においてもっとも人気の高い英雄となり、一方は三菱グループという日本屈指の財閥の創始者として天下に名を轟かせることとなる。二人に共通するのは、その身分の低い下士の中でも、一風変わった考え方を持つに至ったことだった。それは、今後の物語の運びに任せるとしよう。

 第1話を見た感想は、思ったより楽しめそうな予感。坂本龍馬という誰もが知っている題材で、しかも人気も高く注目度、期待度も高いであろうことを考えれば、否が応でもハードルが高くなるところだが、その高い第1ハードルは難なくクリアといったところだろうか。年末のスペシャル大河「坂の上の雲」と同様、フイルム調の映像の作り方も良かった。物語は始まったばかり。次週からも楽しみに、そして毎週このブログでも感想や補足エピソードをアップしていこうと思う。 


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by SAKANOUENO-KUMO | 2010-01-04 02:07 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(1)