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坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝は、やはり事実だった! 

e0158128_21185141.jpg先ごろ、坂本龍馬の剣術の腕前を証明する資料が見つかり、話題になっているようです。
記事によれば、今年6月、高知県立坂本龍馬記念館が北海道に住む坂本家の子孫の方から寄贈を受けた資料の中に、かつて「北辰一刀流兵法皆伝」の巻物が実在したとの記述があり、その後、火災で失われたと説明されている文書が確認されたそうです。
嬉しいニュースですね。

幕末の剣豪、千葉周作が創始した北辰一刀流千葉道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったと伝えられますが、その一方、実際の目録や皆伝を示す史料が現存しないため、近年は疑問視する声が多くあがっていました。
剣の達人と言われながらも護身用にピストルを持ち、実際に剣を使って戦った逸話もなく、しかも、不意をつかれたとはいえ、近江屋でいとも簡単に刺客に討たれたことなどから、龍馬が剣の達人だったという説は、後世の物語が作り出した虚像なんじゃないか?・・・と。

実際、わたしたちが知る坂本龍馬の人物像というのは、以前も当ブログの「坂本龍馬の人物像についての考察。」の稿でも述べたとおり、虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっています。
とくにその「龍馬像」を決定的にしたものが、故・司馬遼太郎氏の代表作『竜馬がゆく』で、わたしたちの知る龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はありません。
ただ、その『竜馬がゆく』には、司馬氏の創作部分が多く入っており、世間一般の龍馬像に懐疑的な意見の方々は、それを根拠に批判します。
坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎の大罪で、実際の坂本龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・と。

たしかに、司馬氏の描いた竜馬像のすべてを鵜呑みにするのは間違いだとは思います。
でも、司馬氏のファンの立場として反論させてもらうと、司馬氏は、『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければいいというものでもないかもしれませんが、少なくとも、司馬氏の描いたフィクションというのは、氏の想像の世界だけで創りだされた荒唐無稽なものではなく、莫大な史料の断片を繋ぎあわせて確立した龍馬像であり、限りなく実像に近い虚像だと、わたしは思います。

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京都の東山にある龍馬の墓所です。
ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、最も大きな面積に祀られているのは木戸孝允ですが、龍馬と中岡慎太郎の墓も、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いの様相で葬られています。
もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?
ここへ来ると、いつもそう思います。

とにもかくにも、このたびの発見は、龍馬の実像にせまる大きな史料になりそうですね。
剣の達人論争も、これで決着になるかな。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-14 21:25 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その2

 昨日のつづきです。

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技でした。中岡慎太郎は早速、西郷吉之助の元へ赴き、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説きまが、断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動きませんでした。そんななか、ここからが坂本龍馬の活躍です。龍馬は、二つの雄藩を「道理」ではなく、「実利」で動かそうとします。

 まず長州藩に提示したのは、龍馬が運営する亀山社中が薩摩名義で武器船舶を購入し、長州へ回送するというプランでした。幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていましたが、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていました。それを利用して、長州に横流しするというのです。幕府との戦を想定して軍制改革に着手していた長州藩にしてみれば、願ってもない話です。しかし、一方的に薩摩が長州を援助するかたちでは、対等な同盟関係を結べません。そこで龍馬が考案した次のプランが、薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえないかというものでした。これを長州藩は快諾します。このギブアンドテイクの関係が成立すると、同盟の話が再びテーブルの上に乗ります。「道理」ではなく「実利」。このあたりは、中岡や土方には考え及ばない龍馬ならではの周旋力ではないでしょうか。

 それともうひとつ。このときの長州藩の首相に、我慢強い桂小五郎が就いていたというのも大きかったでしょうね。本来、革命を成立させた高杉晋作が首相的立場に就くべきでしたが、ちょうどこの時期、四国に逃亡して長州を不在だったため、潜伏先の出石から呼び戻された桂が、藩のスポークスマンを任されていました。もし、このときの外交官が晋作だったら、きっと西郷がすっぽかした時点で、全面戦争の体制に入ったんじゃないかと・・・。その点、桂は政治家でした。歴史というのは、上手くできているものです。

 そして慶応2年(1866年)1月8日、京の薩摩藩家老・小松帯刀邸で、桂、西郷の会談が始まります。この席には、龍馬も中岡も土方もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、
「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。
 龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛、小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人でした。

慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-25 23:26 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その1

 長州藩正義党の革命から薩長同盟成立まで、本話で一気に1年も話が進んじゃいましたね。そこで本稿では、その間の流れを足早に解説します。

 高杉晋作ら反乱軍のクーデターが成功し、元治2年(1865年)1月27日、藩主・毛利敬親は藩政改革を約束します。こうして長州藩の政権は再び正義党が握るのですが、かつての正義党政権のときと根本的に違うのは、中心人物たちが「攘夷」という思想を捨てていたことでした。とくに、彼らを牽引する立場の高杉晋作が、率先して開国論を唱えはじめ、下関の開港を推し進めようとしたため、攘夷・俗論両派から命を狙われます。そんなわけで晋作は、一時、愛妾のおうのと共に、四国へ身をくらませていました。

 同時に新政権は、武装恭順という藩是を掲げます。武装恭順とは、表向きは幕府への恭順を装いながら戦闘準備をすすめるということで、いずれ幕府とやり合わなければならないと覚悟を決めた政策です。そこで長州藩は、兵力の近代化をはかるため、大村益次郎を起用して軍制改革を任せ、水面下で軍事力の強化をはかります。しかし、そうした長州藩の動きを、幕府がだまって見過ごしているわけはありません。長州藩内の政局を敏感に察知した幕府は、再び長州征伐軍を編成すべく、将軍・徳川家茂が大阪に入ります。元号を元治から慶応に改めた5月のことでした。

 ところが、2回目の長州征伐の号令に対して、薩摩藩が出兵を拒否します。その理由は、「このたびの長州再征は幕府と長州の私闘である」というものでしたが、実は水面下で薩摩藩と長州藩の手を握らせようという勢力が働き始めていました。その中心となっていたのが、土佐藩士の中岡慎太郎土方楠左衛門、そして坂本龍馬でした。ドラマでは龍馬ひとりが働いていたかのようでしたが、薩長同盟の構想に向けて最初に動き出したのは、中岡と土方でした。龍馬は、土方から構想を聞き、途中から協力することになります。

 5月、三条実美ら五卿に拝謁するため筑前太宰府を訪れていた龍馬は、たまたま密使として太宰府に来ていた長州藩士・塩間鉄蔵と名乗る人物に会います。この人物は、このとき変名を使っていた小田村伊之助でした。あまり知られていませんが、龍馬がはじめて長州藩士に薩長同盟の構想を語ったのが、このときの伊之助だったという説があります。伊之助は龍馬の話に強い関心を抱き、桂小五郎宛に龍馬との面会を勧める手紙を送っています。龍馬関係の物語などでは、龍馬と小五郎は若き日の剣術修行の頃からの旧知の仲で、薩長同盟時にもふたりの友情関係が大いに役だったように描かれることが多いですが、実際には、江戸で剣術修行をしていた時期も異なり、ふたりが知り合いだったことを裏付ける史料は存在しません。あるいは、このとき初めて知り合ったのかもしれません。

 桂と面会した龍馬は、土方とともに3日がかりで説得を重ねます。一方、薩摩には中岡が赴き、西郷吉之助を説得していました。そして同年閏5月21日、下関で西郷と桂の会談が行われる手筈が整います。ところが、約束の日に現れたのは、中岡ひとりでした。聞けば、実は下関港まで一緒に来たものの、突如京都にいる大久保一蔵から「至急上京すべし」との一報が入り、約束をほっぽっていっちゃった、とのこと。これには温厚篤実な桂も激怒。中岡と土方が構想した薩長同盟は暗礁に乗り上げてしまいます。

やはり1年分の話を1稿でまとめるのは無理でした。
続きは明日にします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-24 23:32 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第18話「龍馬!登場」 ~桜田門外の変と航海遠略策~

 意外にもあっさり終わった「桜田門外の変」でしたね。過去の幕末作品においても、同事件を描かなかった例はないことはないのですが、今回の作品での井伊直弼は、前半の主役ともいうべき吉田松陰を死に追いやった張本人であり、しかも演じている俳優さんもビッグネームの高橋英樹さんですから、もっとフィーチャーされると思っていました。銃声一発だけの演出とは驚きましたね。物語の舞台である萩からは遠く離れた江戸での事件で、主役のとは直接関わりのない出来事ですが、「安政の大獄」をあれだけ引っ張ったんだから、その結末である「桜田門外の変」も、しっかり描いて欲しかった気がします。

 吉田松陰の死から4か月余りが過ぎた安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変が起こります。この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れません。作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。

 「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」

 この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは間違いないでしょうね。

 長州藩重役・長井雅楽が提唱した『航海遠略策』とは、急速に広まりつつあった攘夷思想をけん制した内容で、それによれば、
「積極的に通商を展開して国力を高め、その上で諸外国と対抗していこう」
というもので、目先の「小攘夷」ではなく、将来を見据えた上での「大攘夷」という思想でした。しかし、この建白書の内容を知った久坂玄瑞をはじめとする松下村塾系の書生たちは、激しく反発します。後世の目から見れば、長井の主張は至極もっともな意見であり、この数年後には実際にその方向に進んでいくのですが、この段階では、長井の考えは進みすぎていたんですね。この建白書のせいで、やがて長井は命を狙われる立場となります。正論を掲げるにもTPOがあるんですね。

 坂本龍馬武市半平太の使者として萩を訪れたのは、文久2年(1862年)1月のことでした(ドラマでは、松陰が死んで間もない感じで描かれていましたが、実は2年以上も経っています)。このとき、龍馬と玄瑞のあいだでどのような会話があったかは記録が残っていませんが、龍馬が玄瑞から預かった武市宛ての書状には、
 「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず。草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事」
などと、松陰の「草莽崛起論」に影響を受けた内容が記されており、おそらく、龍馬にも同様の話をしたでしょうね。龍馬が脱藩するのはこの2か月後のことですから、あるいは、玄瑞との会談が龍馬の脱藩に大きく関わっていたかもしれません。

 あと、ドラマで龍馬が言っていた「フレーヘード」とは、松陰が佐久間象山に宛てた書状のなかに記されていた言葉で、オランダ語のようです。ただ、少し無粋なことをいえば、龍馬が何度もつかっていた口にしていた「自由」という言葉は(前話で松陰も使っていましたが)、のちに福沢諭吉が英語の「Freedom」を訳して作った言葉で、この時期には、まだなかった日本語です。まあ、それを言い出せば時代劇なんて矛盾だらけなんでしょうが、ああも連呼されると、ちょっと違和感を覚えますね。「自由」という言葉がなかったくらい、人々に自由がなかった時代ですから。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-04 02:32 | 花燃ゆ | Trackback(5) | Comments(0)  

司馬遼太郎記念館をたずねて。 その1

過日、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。
オープン当初からずっと行きたいと思っていたのですが、なんとなく行きそびれて十数年、今回がはじめての訪問です。
神戸から東大阪は車で1時間ほどの距離で、行こうと思えばいつでも行ける場所なんですが、いつでも行けるという思いが、かえって足を遠のかせるんですね。
この日はたまたま仕事でこの近くを訪れていて、午後からぽっかり時間が空いたので、ならばと、十数年越しの希望を叶えに足を運んだ次第です。

司馬遼太郎記念館は生前の司馬氏の自宅を利用して作られたもので、敷地内には安藤忠雄氏の設計による資料館も設けられています。

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入口はこんな感じです。
門扉の左側の壁には、司馬氏自筆の表札が、いまも掲げられていました。

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邸内には入れませんが、庭越しに書斎を見学することができます。
書斎は司馬氏が亡くなった当時のままの状態で保存されており、未完に終わった『街道をゆく−濃尾参州記』の資料が置かれたままになっているそうです。

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わたしは、すべてとは言わないまでも、司馬氏の大半の作品を読みあさっていますので、ここからあの名作の数々が生まれたんだなあ・・・と、しみじみ見入ってしまいました。

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庭は雑木林のイメージで造られているそうですが、この日は立春前の2月1日、木々のほとんどは裸状態でした。
緑の生い茂る季節にくれば、きっと綺麗でしょうね。

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でも、ここで自然を感じながら執筆していたという司馬氏にとっては、裸の木々もまた、冬を肌で感じるための大切な景色だったのでしょう。

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サンルームの下には、菜の花のプランターがところ狭しと並べられていました。
おそらくこれは、小説『菜の花の沖』に関連した演出なんでしょうね。
司馬氏は、菜の花やたんぽぽなどの黄色い花が好きだったそうです。

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司馬遼氏自筆の歌碑です。
「ふりむけば 又 咲いている 花三千 仏三千」

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安藤忠雄氏設計の資料館です。

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資料館入口に向かう回廊にも、菜の花が並んでいました。

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館内は撮影禁止だったので、パンフレットの画像です。
2万冊資料本が並べられた高さ11mの書棚は圧巻でした。
これでも、ごく一部だというから驚きですね。
公開されていない邸の方には、40mの廊下の両側がすべて書棚となっていて、そこにはいまでも6万冊ほどの資料本が並べられているとか。
この、おびただしい数の書物が、「知の巨匠」と言われた司馬氏を作っていたんですね。

司馬氏は、代表作である『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければ必ず良い作品が生まれるとは限りませんが、妥協を許さない司馬氏の作品に向き合う姿勢が、わたしたち読者の心を惹きつけていたのは間違いないでしょう。

『竜馬がゆく』で思い出したのですが、館内でたいへん面白いものを見ました。
        ↓↓↓
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館内吹抜のコンクリートの天井です(画像はネット上で拝借しました)。
このシミが、坂本龍馬の肖像にそっくりだと話題になっているそうで・・・。

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並べてみると、たしかに似てる(笑)!!
資料館は2001年に竣工したそうですが、2004年頃に来場者が「龍馬にそっくり!」と気づいたそうです。
専門家によると、コンクリート内の水分が徐々にしみ出したもので、このシミはもう消えないとか。
外国では、教会の壁にキリストの姿が浮かび上がった・・・なんて話がときどきあるようですが、司馬遼太郎記念館の天井に、代表作の主人公である坂本龍馬が浮かび上がるなんて、出来すぎのオカルト話ですね。
信じるはどうかは人それぞれですが・・・。

長くなっちゃったので、次回に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-02-05 21:29 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第18話「尚之助との旅」 ~大政奉還~

 いよいよ幕末史の大詰、物語は慶応3年(1867年)の後半期を迎えました。この時期になると、あくまで幕権強化を是とする佐幕派と、武力で幕府を倒そうという倒幕派の緊張がますます高まるなか、そのどちらでもない第三の道として、幕府自ら政権を朝廷に返還し、武力を用いないで、平和的に幕府専制を解消して、新たな政治機構を作ろうとする運動が活発になります。いわゆる「大政奉還論」ですね。この3つの運動が並行的にからみ合いながら進展していたので、政局はきわめて複雑な様相を示します。

 大政奉還論を中心的に推進したのは土佐藩でした。その土佐藩の代表者は前藩主の山内容堂であり、その腹心である後藤象二郎が藩内でもっとも実力を持っていました。その後藤に大政奉還論を教えたのが、あの坂本龍馬ですね(参照:龍馬伝第43話「船中八策」)。龍馬の示した構想は、上下二院制など外国の立憲制にのっとった近代的な統一国家の構想で、これまで薩摩藩の西郷隆盛らが推し進めてきた列藩会議の構想よりもずっと進んだものでした。しかし、これを受けた後藤はあくまで列藩会議のかたちをとり、その列藩会議の議長に旧将軍が就任し、徳川本家の権威は持続させる、名目は朝廷の一元政治である、という妥協方針を立てます。山内容堂も、これならば賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年(1867年)10月3日、老中に提出し、大政奉還を説きます。

 土佐藩から大政奉還論を上申された幕府でしたが、すでに将軍・徳川慶喜やその側近にはその論は入説されていました。したがって慶喜以下幕府首脳は、これをどうするか、すでに検討を加えていたのです。これまで幕権強化に力を注いできた慶喜も、ここにきて、なんらかのかたちでこれまでの幕府政治の形態を変えなければならないと感じとっていたのでしょう。薩長を中心に討幕運動が進められていることは明らかであり、しかもイギリスがその後押しをしていることもわかっている。第二次長州征伐では、長州一藩相手でも歯が立たなかった。そのほかの諸大名も幕府にソッポを向き始めている。民心の動向を見ても、幕政に対して非難が集中している。そんななか、この際なんらかの思い切った手だてが必要と考えたのも、当然だったといえるでしょう。

 そこへ飛び込んできたのが、土佐藩の大政奉還論でした。迷った慶喜はこの案を採り入れる決意をします。そして慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これにより、250年続いた徳川政権は名目上終わりとなったわけですが、それは名目上であって、事実上はそう簡単なことではないと慶喜はふんでいたと考えられます。政権を返されたとて、250年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなる。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱を回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。そこが、来週のタイトルどおり、「慶喜の誤算」だったのでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-07 00:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第10話(最終章・前編)

 坂本龍馬暗殺予定日の慶応3年(1867年)11月15日になって、ようやく龍馬と会うことができた南方仁は、龍馬を助けるべく居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移したものの、日が変わった16日未明、龍馬は史実通りに前頭部を横に斬られて倒れる。しかし、史実とは違って龍馬を斬った人物は、龍馬の護衛に付いていた長州藩士・東修介(架空の人物)だった。
 「私の兄は貴方に切られたんです。貴方が久坂さんと会った帰りに。貴方は私の敵なんです。そのつもりで貴方に近づきました。」

 この時代、仇討(敵討)合法な行為だった。武士階級のみに許されたもので、範囲は父母や兄など尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。その仇討をした相手に対して復讐をする重仇討は禁止されていた。本来は仇討をする場合、主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取るという手続きが必要。しかし、無許可であっても、現地の役人が調査して仇討であると認められれば、大目に見られ、場合によっては賞賛された。逆に父母や兄が殺されたにも関わらず仇討しないことは武士として恥ずべきことで、場合によっては家名お取り潰しになったりもした。

 つまり、東の龍馬に対する仇討の企ては、逆恨みでも何でもなく、武士として当然の、あるべき姿だったのである。仇討のために龍馬に近づくも、龍馬の考え方に感銘し、尊敬すらし始めていた東。しかし、仇討を断念するは武士の恥。そんな葛藤に苦しんでいた東だったのだろう。
 「私の兄は志士で、やはり志半ばで倒れました。兄の代わりに果たしたいことがひとつあったのですが、坂本さんの大政奉還の建白を読んだ時に、もう良いのではないかと思ったのです。」
 前話でそう言っていた東が、この局面で龍馬に刃を向けたのは、武士の誉である仇討だったのか、それとも、咲が言うように龍馬の生き方を守るためだったのか・・・。

 これより6年後の明治6年(1873年)、明治政府の司法卿・江藤新平らによる司法制度の整備により、仇討は禁止される。それ以後、当然だが現在でも仇討は許されていない。しかし、肉親や大切な人が殺害された場合、その相手を殺したいほど憎む思いは今も同じだろう(肉親を殺された経験はないが)。現代の、どれだけ凶悪な殺人鬼であっても人権が守られる法制度が、果たして正しいものなのだろうか・・・なんて、昨今の裁判の報道などを見てときどき思ったりする。昔のほうが、被害者に優しい血の通った秩序だったんじゃないかと・・・。

 仁先生たちの懸命な治療により、一時的に意識を取り戻した龍馬と仁先生の会話。
 「先生には、この時代はどう見えたがじゃ?愚かなことも山ほどあったろう?」
 「教わる事だらけでした。未来は夜でもそこらじゅうで灯りがついていて、昼みたいに歩けるんです。でも、ここでは提灯を提げないと夜も歩くこともできないし、提灯の火が消えたら、誰かに貰わなきゃいけなくて・・・。一人で生きていけるなんて、文明が作った幻想だなあとか。離れてしまったら、手紙しか頼る方法ないし、ちゃんと届いたかどうかもわからないし・・・。人生って、ホント、一期一会だなあとか・・・。あと、笑った人が多いです。ここの人たちは、笑うのが上手です。」

 文明ってなんだろう・・・と、私もときどき思う。不便を便利にするために発達した文明に、結局私たちは縛られている。携帯電話なんてなかった十数年前までは、相手とすぐに連絡が取れないことが当たり前だった。今は、携帯が繋がらないと、私も含め人はすぐにイライラする。休日でも出先でも、いつでもつかまえられることが当たり前。逆に自分もつかまえてもらう体勢でいなければ、相手に不快感を与えてしまう。便利であるはずの文明に、縛られている。原発が止まって電力が滞ると、都市機能は麻痺し、経済すら滞る。提灯から提灯へ火を譲ったように、電力を国民皆で分け合わなければならない今、人々はそれぞれの立場で好き勝手なことを言い、混沌とした政治はこの期に及んでまだ国民の側を向うとしない。文明って、本当に人を幸せにしたのだろうか・・・と。

 「先生・・・わしゃ、先生の生まれた国を作れたかのぉ?・・・先生のように、優しゅうて、馬鹿正直な人間が、笑うて生きていける国を・・・。」

 坂本龍馬たち幕末の志士たちが命を賭けて目指した未来の国家像は、今のようなものだったのだろうか・・・。もし、彼らが現代の日本と日本人の姿を見たら、どう思うだろうか・・・。

 「こりゃぁ、もういっぺん日本を洗濯する必要がありそうじゃき!」
 そんな龍馬の言葉が聞こえてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-21 19:12 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(3)  

JIN -仁-(完結編) 第9話

何の根拠もないけれど、俺は信じようとしていた。
自分は龍馬さんを救うためにここに来たのだと。
龍馬さんが・・・坂本龍馬が死なない歴史をつくるために、ここにやって来たのだと。
ただ、ひたすらに信じようとしていた。


 坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された慶応3年(1867年)11月15日の京都は、朝から雨が降っていたはずだが、ドラマでは晴れていたようだった。仁先生が歴史に関わったことで、天気まで変わってしまったのか?・・・なんて無粋なツッコミはやめて(笑)、歴史の修正力に立ち向うべく龍馬暗殺を阻止しに京に訪れた南方仁先生たち。暗殺予定日になってようやく龍馬と会うことができた仁は、即刻、京を離れることを忠告、居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移した。寺田屋に移っても史実どおり軍鶏鍋を食す龍馬。これも、歴史の修正力なのだろうか(笑)。日付が変わって16日となり、ホッと胸を撫で下ろす仁だったが、本当に歴史の修正力というものがはたらくならば、1話の佐久間象山などの例をみても、日付や場所を変えたからといって免れられるものではない。案の定、史実と違ったストーリーで、龍馬も慎太郎も刃に倒れた。

 龍馬暗殺当日の詳細については、昨年の大河ドラマ『龍馬伝』の稿(参照:龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」)で紹介しているので、そちらを一読ください。また、龍馬暗殺の実行犯および黒幕の諸説についても、以前の稿(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)をよければ・・・。

 それにしても、仁先生は坂本龍馬と一緒に中岡慎太郎も暗殺されるという史実を知らなさそうだ(可哀想な慎太郎・・・笑)。ていうか、中岡慎太郎という人物自体、知らないのでは?・・・と思ったり。まあ、仁先生が歴史オンチだという設定が、この物語の面白さだとは思うが・・・。

 大政奉還後に龍馬が作った新政府人事案に、大政奉還の立役者たる龍馬の名前が記されていないことを不審に思った西郷隆盛が、そのことを龍馬に尋ねると、龍馬は役人をやらずに「世界の海援隊」をやる旨、返答したというエピソード。この話は、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』をはじめ、多くの物語で描かれてきた逸話で、龍馬の魅力を語るに欠かせないエピソードといっていいだろう。ただ、この逸話については、歴史家の間でも実話か否かの様々な論争があるようだ。というのも、この「新官制擬定書」といわれる新政府の人事案の史料は全部で5種類存在し、その中に龍馬の名が記載されているものと記載されていないものがあり、否定派の主張では、龍馬の名が記載されていないものは後世に作られたもので、龍馬には新政府に入る意志があったという。専門家ではない私にはその真偽はわからないが、龍馬ファンの私としては、この「世界の海援隊」説を信じたい。私の思う龍馬ならば、きっと、そう言ったんじゃないかと・・・。

 この西郷との会見に同席していたといわれる、海援隊出身で、のちの明治政府で「カミソリ大臣」として辣腕をふるった外務大臣・陸奥宗光は、このときの龍馬について後年こう語っている。

 「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のやうに思はれき。」

 このときの龍馬は、西郷よりも一層大人物に思えた・・・と。この談話も陸奥の虚言だといわれれば、反論する材料を私は持ちあわせていないが、明治政府で薩長閥に後塵を拝していた土佐派が、龍馬の虚像を作って政治利用しようとした例とは違い(参照:坂本龍馬の人物像についての考察)、伊藤博文に重用されて外務大臣にまで栄達した陸奥が、龍馬を過大評価して政治利用する理由はどこにもないように思う。さらに陸奥は、このようにも語っている。

 「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。後藤伯がその得意の地にありながらその旧敵坂本を求めたるは、もとより彼が常人に卓越したる所以にして坂本と相見たる彼は、さらに坂本の勧誘力に動かされて、まず国内を統一和合して、而して薩長の間に均勢を制せざるべからざるの必要を覚りぬ。
・・・中略・・・
薩長二藩の間を連合せしめ土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは坂本の策略にして彼は維新史中の魯粛よりも更に多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がかり個人的思想を打破して呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止まる、坂本に至りては、一方に於て薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、名において緒候を平等の臣族たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ」


 めったに人を褒めなかったといわれる陸奥宗光にして、最大級の賛辞である。たしかに、現在私たちが抱いている魅力的な龍馬像というのは、後世に色付けされた部分も多々あるとは思うが、全てを虚像だといってしまうのは、少々、穿ち過ぎではないだろうか。メッキであれば、研究が進むにつれ剥がれるものである。

 さて、ドラマはいよいよ最終章へ。来週、再来週と2話を残すのみとなった。刃に倒れた龍馬を、仁は救うことができるのだろうか・・・。とすれば、龍馬が死なない歴史というのは、どう展開されていくのか・・・。仁がタイムスリップした理由は・・・。あの胎児の真相は・・・。原作を知っている人は、どうか教えないでください(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-14 00:39 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第7話・第8話

 癌が再発した野風の出産の物語。このときより数年前、花魁時代に乳癌に侵された野風だったが、南方仁の手術により一命を取り留めた。しかし、そのことによって彼女が本来歩むべき歴史が変わってしまった。おそらく彼女は、仁の未来の恋人、友永未来(みき)の先祖。本来ならば彼女は、旗本と結婚して子供を生んだのち癌で死に、その子供の子孫が未来(みき)に繋がっていくはずだった。しかし、すでに彼女の人生は別の道を進み始め、仁が持っていた未来(みき)の写真も消えてしまっていた。

 人生が変わった野風は、フランス人貿易商ジャン・ルロンと結婚。しかし、その幸せも束の間、彼女の身体は再び癌に侵されていた。しかも、彼女はルロンとの間の子供を身ごもっているという。本来ならば、この世に生まれることはなかった命。ただでさえ癌に蝕まれた身体での出産は危険を伴うのに加え、歴史の修正力が本来生まれるはずのなかった命の誕生を許すだろうかと悩む仁。
 「もし、お前のやったことが意にそぐわぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。」
 1話で佐久間象山の言った言葉が仁の決断を鈍らせる。そんな彼に、自分に子供を取り上げさせてほしいと頼む。この時代の人間が子供を取り上げるなら、それは修正された歴史ではなく、ただの歴史なのではないか・・・と。この言葉に、仁は仁友堂で野風の出産を診ることを決断する。修正された歴史ただの歴史。ここに、この物語の核心部分が隠されているようだ。

 やがて臨月を向かえた野風だったが、逆子出産となってしまい、自然分娩を試みるものの困難を極め、帝王切開の必要性に迫られる。しかし、この時代の麻酔は強すぎて胎児が死んでしまう。野風の命を守るため、一度は死産を決意する仁だったが、野風の切望により、麻酔なしの帝王切開を断行する。

 麻酔なしの帝王切開といえば、なんと野蛮な荒療治かと思うが、信じられないかもしれないが、実は私はその麻酔なしの帝王切開で生まれた人間のひとりである。私が生まれたのは昭和42年(1967年)。この物語のちょうど100年後のこと。母の話では、私は予定日より1ヵ月近くも遅れていたそうで(その頃に陣痛促進剤があったかどうかは知らない)、頭蓋骨が出来上がっていて自然分娩では出てこず、帝王切開に切り替えるも、ドラマと同じく麻酔をすれば子供が死ぬと言われ(理由はわからない)、死産か麻酔なしの帝王切開かの究極の選択を迫られ、相談の末、麻酔なしの帝王切開を決断したらしい。腹を割いて子供(私)を取り出し、へその緒を切ったら即、麻酔・・・その間、数分のことだったそうだが、その痛みは想像を絶するものだったと母はいう。メスが入った瞬間、獣のような叫び声をあげた・・・と。そりゃあ、そうだろう。切腹のようなものだから(切腹をしたことがないので、どれほどの激痛かわからないが・・・笑)。これはまぎれもなく本当の話。病院も町医者ではなく、名の通った大病院である。平成の現代でもそんな例があるのかどうかは知らないが、昭和の後半には、間違いなくあった話である。私が子供の頃、私が反抗する度に母はこの話を持ち出した。「あんな痛い思いをして産むんじゃなかった。」・・・と(苦笑)。

 野風の子供は無事に生まれ、彼女も命を落とすことはなかった。歴史の修正力ははたらかなかった。修正される歴史と、そうでない歴史。この違いが、物語のテーマのようである。

 物語の裏主役とでもいうべき坂本龍馬は、「大政奉還」の実現に向けて奔走。有名な「船中八策」を起草する。この「船中八策」については、昨年の大河ドラマ『龍馬伝』の稿でふれているので、よければそちらを一読ください(参照:龍馬伝 第43話「船中八策」)。しかし、ここでもあるはずのない歴史が誕生。龍馬の起草した新国家の体制案は、9つ目の項目が存在し、「船中九策」となっていた。
 九、皆が等しく必要なる医療を受けられ、健やかに暮らせる保険なる仕組みを作る事
 それは、勝海舟からでも大久保一翁からでもなく、仁から得た知識だった。
 「いるはずの無い俺の足跡が、歴史に刻まれていく。坂本龍馬の手で・・・。歴史は、変えられないわけじゃない・・・。」
 変えられない歴史と、変わりはじめた歴史。その違いは何なのか。もうすぐ見えてきそうだ。

 新しい命の誕生と、新しい国家の誕生を重ねあわせたあたり、実に上手い設定だと思う。第4話の稿でも述べたが(参照:JIN -仁-(完結編)第4話)、ストーリーに無理に龍馬を絡めてくるわけではなく、ちゃんと通説に沿った行動をさせながら、フィクションの物語とも深く繋がっているという設定は見事。このあたりが、フィクションでありながら歴史ファンにも支持される理由だと思う。

 余談だが、第6話で出てきた田中久重という人物のことをよく知らなかったのだが、調べてみると、「東洋のエジソン」といわれた大発明家で、東芝の創業者だとか・・・。原作漫画にもこの人物が登場するのかどうかは知らないが、チョイ役とはいえ、なぜドラマに登場させたのか考えたときに、このドラマのスポンサーがどこであるかに気がついた。なるほどな・・・と(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-08 01:04 | その他ドラマ | Trackback(2) | Comments(4)  

JIN -仁-(完結編) 第6話

 物語の本筋とは別に、このドラマのもうひとつの魅力は、なんといっても内野聖陽さん演じる坂本龍馬だろう。昨年の大河ドラマ「龍馬伝」でみた福山雅治さんのスマートで優等生の龍馬とは違って、いわゆる無骨で骨太な、脂ぎった龍馬像である。福山さんの龍馬も、あれはあれで新しい龍馬像として悪くはなかったが、私のような古い龍馬ファンにとっては、やはり内野龍馬のほうがしっくりくる。というか、今まで見てきた数々の役者さん演ずる龍馬の中でも、ひょっとしたら一番じゃないかとすら思っている。龍馬の持つイメージといえば、明るく、楽天的で、濶達で、気取りがなく、粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感が持てる。それでいて、眼の奥にはギラついた高い志がある。そんな往年の龍馬像を、内野さんが見事に演じてくれている。

e0158128_22291285.jpg 今話で長崎を訪れた南方仁先生が、龍馬と一緒に撮影していた写真は、幕末の写真家、上野彦馬が撮影したと言われる有名な龍馬の立ち写真。龍馬ファンでなくとも、一度は見たことがある写真だろう。もちろん、本物には仁先生は映っていないが(笑)、あまりにも似ていたので、ちと拝借して比べてみた。いや~、完璧じゃないですかね?

 このドラマでの龍馬の魅力のもうひとつは、その人物像の描かれ方だ。当ブログの昨年の「龍馬伝」の稿でも再三発言してきたが、私は、坂本龍馬は決して巷でイメージされているような、平和主義の非戦論者ではなかったと思っている<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>。周知のとおり、龍馬は幕末のギリギリのタイミングで、「大政奉還」という平和革命の道を選んだわけだが、そのことだけを捉えて、しばしば龍馬を「反戦、平和主義の象徴」のように描いた作品を見かける(昨年の「龍馬伝」もそうだった)。しかし、それでは今話の時期の龍馬の行動の説明がつかない。ドラマのとおり、薩長同盟を成立させた龍馬は、薩摩藩名義で武器と弾薬、軍艦を購入して長州へ流し、自らもその軍艦に乗って「四境戦争」に参戦している。さらにのち、自藩の土佐藩にも新式ライフル銃1000挺を送りつけ、討幕の準備を進めた。その上で、「船中八策」を考案し、「大政奉還論」を推したのである。

「まずは力を得んと、言いたいことも言えん。」

 仁先生に龍馬がいった台詞だが、この言葉通り、龍馬が目指したのは戦も辞さない姿勢を示した上での、無血革命コースだった。それは、平和主義からきたものではない。革命後の「富国強兵」のためである。そのためには、できるだけ内乱は少なく収めたい。それが、坂本龍馬の考えの最終的な到達点だったと私は思う。

 そんな坂本龍馬像が、このドラマでは実に上手く描かれていると思う。今話で龍馬は、仁先生の言葉によって新たな道を見つけ出したようだったが、実際の龍馬も、無血革命コースを模索し始めたのはこの四境戦争後のことだったと私も思う。今後も、内野龍馬から目が離せない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-24 22:43 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(0)