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鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その5 「福禅寺・對潮楼(いろは丸事件第2・3回談判場)」

前稿で紹介した旧魚屋萬蔵宅の東側の高台にある福禅寺・對潮楼が、慶応3年(1867年)4月25日と26日に行われた「いろは丸事件」2回目、3回目の談判場となりました。


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細い路地の坂道を上ると、「国史跡 對潮楼」と書かれた誘導板が出てきます。


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海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。


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石碑には、「日東第一形勝」と刻まれています。

この言葉は、正徳元年(1711年)にここを訪れた朝鮮通信使が、あまりにも美しい景観に感動して言った言葉だそうです。

つまり、朝鮮より東で一番美しい景色ってことですね。

楽しみです。


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本堂です。

元禄年間(1690年代)に建立されたそうです。


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隣接する客殿・對潮楼も、同じ時代に建てられたものだそうです。

「對潮楼」という名称は、延享5年(1748年)に訪れた朝鮮正使の洪啓禧が名付けたそうです。

さっそく對潮楼に行ってみましょう。


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おおっ!


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おおおおっ!


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たしかにこれは素晴らしい!


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窓枠が額縁の絵画のようです。


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話をいろは丸事件の談判のことに戻します。

慶応3年(1867年)4月25日、2回目の交渉の席についた坂本龍馬は、要領を得ない紀州藩汽船・明光丸船長の高柳楠之助に対し、急場の難を救うために1万両を要求します。

これを受けた高柳は、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい」と返答します。

ところが、これに対して龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない」と、強気に跳ね返したといいます。

万国公法に明るい龍馬は、よほど自信があったのでしょうか?


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坂本龍馬率いる海援隊の船・いろは丸と紀州藩汽船・明光丸が瀬戸内海で衝突したこの事故ですが、実は、海援隊側に重大なミスがあったという説があります。

西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。

この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵、つまり右折して回避するのがルールなんだそうです。

ところが、記録では、いろは丸は左折し、右折の明光丸と衝突しています。

あわてた明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

つまり、致命傷となった2回目の衝突は明光丸側に過失があるとしても、最初の操縦ミスはいろは丸側にあったというんですね。

もし、これが本当の話なら、いろは丸側の方が不利な立場だったんじゃないでしょうか?

龍馬はこれを知らなかったのか・・・。

神戸海軍操練所航海術を学び、さらに国際ルールにも明るい龍馬ですから、知らなかったとはとても思えない。

だとしたら、なかなかしたたかですね。


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交渉は翌26日も平行線をたどり、27日午後に交渉は決裂

談判の場は長崎に移されることになります。

このあと龍馬は、身の危険を感じたのか、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っています。

それほど殺気立った交渉だったのでしょうね。

龍馬も見たであろうこの景色。

とても景色を楽しむような気分ではなかったでしょう。


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観光客用の渡し船「平成いろは丸」です。

実際のいろは丸に比べるとぜんぜん小ぶりですが、まあ、町おこしの一環でしょうね。


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長崎での談判では、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が根負けし、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めます。

しかし、それでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけて海援隊側を威圧する策に出ました。

ところが龍馬も負けておらず、世論を味方につけます。


 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う♪」


こんな狂歌をつくり、長崎丸山の妓楼で歌わせたそうです。

この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まりました。

さらに龍馬は、追い打ちをかけるように交渉の席に土佐藩家老の後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者vs紀州藩の事件を、土佐藩vs紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としました。

藩同志の談判となれば、紀州側もこれまでのような脅しまがいの交渉は出来ません。

もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助(のちの五代友厚)に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやく事件に決着がつきます。

龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには、大藩相手に怯まない腹の据わったリーダーシップ

どれをとっても、一級品の外交手腕ですね。

現代の政治家さんにも見習ってほしいものです。


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くつろいでいるのは、わたしの高1の娘です(笑)。


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サザエさんも鞆の浦に来たようです(笑)。


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最後に、下の道路に降りて、さっきまでいた對潮楼を見上げます。

この日、鞆の浦での滞在は約3時間

まだまだ観光スポットはたくさんあったのですが、時間に限りがあったため、龍馬関連に絞って観光しました。

また機会があれば。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-26 00:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その4 「旧魚屋萬蔵宅(いろは丸事件第1回談判場)」

「いろは丸事件」坂本龍馬紀州藩鞆の浦での談判は、慶応3年(1867年)4月24日から26日にかけて3回行われましたが、その最初の談判の会場が、ここ旧魚屋萬蔵宅だったといいます。


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といっても、この建物は当時のものではありません。

旧町役人の家である魚屋萬蔵宅は、明治以後、何度も増改築が繰り返され、戦後には通りに面した部分に近代的な増築が施され、伝統的な外観を大きく損ねる建物になっていたそうです。

長く呉服店として使用されていたそうですが、平成13年(2001年)からは空き家になり、老朽化が進んでいたそうです。

その後、地元のNPO「鞆まちづくり工房」をはじめ、さまざまな協力を得て改修し、旅館「御舟宿いろは」として平成18年(2008年)にオープンしたそうです。

なんと、外観はあの宮﨑駿氏がデザインしたんだとか。

宮崎氏は、ここ鞆の浦の滞在中に映画『崖の上のポニョ』の構想を練ったそうで、そのときの縁で、ここの改修工事に関わったそうです。


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「いろは丸事件談判跡」と刻まれた石碑があります。


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中に入ると、1階は御食事処でした。

観光のつもりで入ったのですが、「いらっしゃいませ」と言われてしまい、ちょうど昼食がまだだったこともあり、やむなく食事をとることに(苦笑)。

でも、「鯛いろは漬け御膳」、メチャウマでした。


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修復作業の際の調査により、旧魚屋萬蔵宅は江戸時代後期に当たる18世紀後半に建てられたと推測されたそうです。

また、龍馬たちの談判の場は2階だとされていましたが、調査の結果、2階部分は明治以降に増築されたことが判明し、談判が行われたのは1階の8畳間であると断定されたそうです。

それが、この部屋。


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もちろん、改修されていますので当時のままの部屋ではありません。


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慶応3年(1867年)4月24日、この部屋で交渉の席についた龍馬は、明光丸船長・高柳楠之助に、「今回のような海難事故は例のないこと。万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい」と提案します。

万国公法はアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、龍馬は神戸海軍操練所時代に勝海舟らを通じてこれを学び、日本語への翻訳を計画するほどに内容を熟知していたといいます。


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しかし、この時代のほとんどの日本人は国際ルールなど知らず、そのため、万国公法をたてに取って談判に臨めば、自分の土俵で相撲をとれるいう目算があったのでしょう。

龍馬は、事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールとして、「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい」と要求しますが、高柳は首を縦にふりません。

「万国公法に基づき非は明光丸にある」と主張する龍馬と、「すべて藩命に従う」とする高柳。

交渉はまったく進まないまま、ここ旧魚屋萬蔵宅での第1回目の談判を終えます。


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談判時も、こんな中庭があったのでしょうか?


さて、次稿では、第2回、第3回の談判が行われた場所を訪ねます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-25 00:11 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その3 「桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ家)」

坂本龍馬鞆の浦に滞在した4日間、宿泊していたとされる桝屋清右衛門宅を訪れました。

屋根が片方だけ長い特徴的なつくりですが、これは、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけてる工法で、鞆では19世紀以降に流行した手法だそうです。

商家の見栄っ張りな気風がよく現れている建物だそうです。


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「坂本龍馬宿泊跡」と刻まれた石碑が。


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入口は2ヵ所ありますが、南側の入口から入ります。


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玄関を入るとすぐに、龍馬の写真パネルが迎えてくれます。


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こちらは説明板。


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順路を進むと、日本間に時代劇などでよく見る商家の衝立が。

ここに番頭さんがいたのでしょうか?


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横のふすまには坂本家の桔梗の家紋が入った袴下が飾られています。


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順路に沿って奥に進みます。


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物置のような箪笥部屋に、梯子が架かっています。


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当時は、屋根裏部屋に行くにはこの梯子しかなかったようで、板が閉じられていれば、上に部屋があることはわからなかったそうです。

まさに隠し部屋ですね。

あるいは命を狙われるかもしれない談判に臨む龍馬としては、このような場所に潜む必要があったわけです。


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いまは観光用に階段が設置されています。


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階段を上ると、海援隊のメンバーが集っていました(笑)。

左から3番目が龍馬です。


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そして更にこの細い階段を上ると・・・。


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ありました!

龍馬の隠れ部屋です。

広さは約8畳で、壁は当時のままだそうです。


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ホームページの解説によると、龍馬がここに宿泊した理由は、長崎の豪商・小曽根乾堂の末弟である小曾根英四郎が積荷の仕切り役としていろは丸に乗っており、その小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたと考えられているそうです。

ここ桝屋清右衛門宅に龍馬が泊ったという伝承がありましたが、長年その場所は確認されていなかったそうです。

そこで平成元年(1989年)、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、この隠れ部屋が発見されたそうです。

部屋は当時のまま手つかずで残されていたそうで、ほこりや傷みがひどく、一般に公開できる状態ではなかったそうですが、広島県などの補助金を利用し整備を進め、平成23年(2011年)から一般公開することになったそうです。


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龍馬がここに泊まったとしては、紀州藩との賠償交渉の経過が記された『備後鞆津応接筆記』のなかに残されているそうで、そこには、「才谷梅太郎」の偽名で宿泊していたと記されているそうです。


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机の上の手紙は、「才谷梅太郎」の名で京都の伏見寺田屋お登勢に宛てて書いた手紙(複製)で、その日付から、龍馬がこの鞆の浦で書いたものと思われるそうです。


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身の危険を感じながらも、龍馬はこの部屋で談判の策を練っていたんでしょうね。

次回はその談判の場を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-23 23:41 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その2 「いろは丸展示館」

前稿で紹介した常夜燈のすぐ側に、「いろは丸展示館」があります。

せっかくなので、入ってみることに。


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建物は坂本龍馬が訪れた当時からあったという「大蔵」と呼ばれる土蔵で、国の登録有形文化財だそうです。


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入口から中を覗くと、上野彦馬撮影の有名な龍馬の肖像写真が迎えてくれます。

実はこの写真、わたしの職場の部屋にも飾っていて、毎日見ています。

入口横に掲げられた紅白の旗は、海援隊の隊旗です。


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館内は写真撮影オッケーです。

入ってすぐに龍馬の像がお出迎え。


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1階の館内です。


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グッズ販売やパネル展示が所狭しと並べられています。


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いろは丸沈没した正確な場所は長年の間わかっていませんでしたが、平成元年(1989年)、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」によって発見され、その後、京都の水中考古学研究所によって平成2年(1990年)、平成18年(2006年)、平成22年(2010年)の4回に渡って潜水調査され、船体の鉄材、部品、装備品、日用品、石炭などが引き上げられました。

上の写真は、その潜水調査を再現したジオラマです。


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背面のパネルには、衝突地点沈没場所の地図があります。


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こちらでは衝突した経緯が解説されています。


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こちらの展示コーナーでは、引き上げられた物品が展示されています。


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革靴のかかとなんて、150年近くも海中にあって、よく残っていましたね。


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ここ鞆の浦で行われた紀州藩汽船・明光丸海援隊との談判において、龍馬は鉄砲400丁などの武器弾薬3万5,630両分、金塊など4万7,896両198文分が沈んだとして、合わせて8万3,526両198文損害賠償を要求します(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)。

その後の談判で、最終的に紀州藩は龍馬側に賠償金7万両を支払ったのですが、平成18年(2006年)に行われた潜水調査では、龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした。

龍馬もなかなかしたたかですね。


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展示館2階です。


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こちらは、龍馬が鞆の浦に滞在した4日間、隠れ家としていた回船問屋の桝屋清右衛門宅屋根裏部屋を忠実に再現したとのことですが、桝屋清右衛門宅の屋根裏部屋、現存してるんですよね。

再現する必要あるのかなぁ・・・と。


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龍馬の蝋人形は高知県の坂本龍馬記念館にもありましたが、こうして見ると、五木ひろしさんに似てません?

さて、次回は実際の桝屋清右衛門宅を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-22 23:52 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その1 「鞆の港」

平成29年(2017年)の今年は、坂本龍馬没後150年にあたる年ですが、同じ年の4月23日に起きた「いろは丸事件」からも、ちょうど150年になります。

そこで、かねてから行きたかったいろは丸事件の談判の地鞆の浦に、この夏、足を運びました。


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鞆の浦はJR福山駅から南へ14km、沼隈半島南端にある港町で、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、このあたりで潮の流れが変わることから、古来、潮待ち風待ちの港として栄えてきました。

現在では風光明媚な観光地として人気のスポットで、映画のロケ地や、あの宮崎駿氏のアニメ『崖の上のポニョ』の舞台にもなっています。


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慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗りこみ、土佐藩の帰属となった海援隊として初めての航海に出発しました。

しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突してしまいます。

いろは丸は160トン、明光丸は880トン軽自動車と大型トラックの衝突のようなものでした。


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いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしましたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれて機関室を破壊したといいます。

佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責しましたが、お互いにあわてて要領を得ない。

そうこうしているうちに、明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため、同夜のうちに明光丸をここ鞆の浦に入港させます。

そして、そこから4日間、この地で激しい談判が繰り広げられました。


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写真は鞆の港のシンボルといっていい常夜燈です。

安政6年(1859年)に作られたものだそうですから、龍馬がこの地を訪れたとき、すでにあったものです。


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常夜燈は船の出入りを誘導する燈台で、鞆の浦では「灯籠燈」と呼ばれて親しまれてきました。

燈の部分は5.5mですが、海中の基礎の上から宝珠までは11mあり、現存する江戸期の常夜燈のなかでは日本最大級の高さだそうです。


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こちらは、雁木と呼ばれる石段で、いわゆる船着き場ですね。

潮の満ち干きによる水面の上下に応じて階段状になっていて、停泊中の船からここに渡り板を架けて乗降していました。

時代劇なんかでは、よく見る港の風景ですよね。

この雁木は文化8年(1811年)に作られたといいますから、龍馬がこの地を訪れる半世紀以上前から存在するものです。

説明板によると、雁木、常夜燈ともに花崗岩製だそうです。


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というわけで、しばらく鞆の浦での龍馬の足跡をたどります。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-21 23:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4

坂本龍馬暗殺の黒幕説として、ここまで松平容保説と薩摩藩説、紀州藩士報復説を考えましたが、もうひとつの有力な説として、土佐藩説があります。

実は、最近のわたしは、この説にいちばん信憑性を感じています。


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一般的に言われる土佐藩黒幕説は、具体的な人物名でいえば参政の後藤象二郎ですね。

かつては龍馬の盟友・武市半平太率いる土佐勤王党弾圧した後藤でしたが、慶応2年(1866年)に長崎に出張して以来、龍馬と深く関わるようになり、次第に龍馬に感化されていきます。

そして慶応3年(1867年)、龍馬の発案とされる船中八策に基づいて大政奉還を土佐の藩論とし、将軍・徳川慶喜に上申して実現に至るのですが、この働きが藩主の父・山内容堂から高く評価され、大きく栄進します。

しかし、後藤はこれが龍馬の発案だとは明かしませんでした。

この一連の発案が龍馬であることを隠すために龍馬を亡き者にした・・・というのがこの説の推論ですが、であれば、そのことを知るすべての人物を殺さねばならず、動機としては無理があります。

それに、後藤象二郎という人物像の他のエピソードなどから見ても、そこまで器の小さな人物だったとも思えません。

龍馬の名を容堂に明かさなかったのも、明かす必要がなかったからではないでしょうか。

いくら坂本龍馬という名が天下に轟いていたとしても、土佐に帰れば下級藩士

藩主の耳に入れるべき人物ではなかったでしょうし、後藤にしてみれば、特にそれが普通の感覚だったんじゃないかと思います。

後藤自身としても、龍馬の能力は認めつつも、所詮は郷士といった見下した感情があったでしょうし、むしろ、自分が龍馬を使っているといった気分だったんじゃないでしょうか。

龍馬の手柄を横取りしたなんて意識は毛頭なかったと思います。


じゃあ、他にどのような動機があったか・・・。

この点で、ある方のブログを読んで目からウロコが落ちました(参照:しばやんの日々「坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2」)。


前稿でも紹介しましたが、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた「いろは丸事件」で、龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

なんか匂いませんか?

本来であれば、そのうちの約半分の船の損害金は、船のオーナーである大洲藩に支払われるべきでしたが、実際に支払われた形跡がないそうです。

その後、その7万両がどうなったのか・・・。

ここで登場するのが、のちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。


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龍馬の死によって求心力を失った海援隊は解散を余儀なくされ、その事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、やがては岩崎の立ち上げた九十九商会に繋がっていきますが、のちに岩崎は、明治政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤からのインサイダー情報によって、10万両で藩札を安く買い漁ってボロ儲けします。

この資金の出どころが、いろは丸事件の賠償金だったんじゃないかと・・・。

岩崎は龍馬が暗殺された数ヶ月前、龍馬が長崎から上京していく船を見送った日の日記に、「余、不覚にも数更の涙を流す」と記しているそうです。

それほどの関係にありながら、岩崎は、龍馬が暗殺される少し前の10月28日から龍馬が殺されたあとの11月22日まで大阪に滞在していますが、その間、龍馬をまったく訪ねていません。

これは少し不自然な気がしますよね。

まるで何かを知っていたかのような・・・。


実際に後藤と岩崎が龍馬を亡き者にするために見廻組に指示したというのは考えづらいとしても、龍馬の居場所をリークした、ということは考えられなくもない気がします。

龍馬が近江屋に潜伏していた事実を知っていたのは、土佐藩士の一部だけだったといい、当然そのなかには、後藤が含まれています(もっとも、龍馬自身が不用心に出歩いていたため、近江屋潜伏の事実は知れ渡っていたとも言われますが)。

後藤は経済面においては公私混同も甚だしかったといい、岩崎も、かつて土佐藩の公金100両を使い込んで役職を罷免された前科があります。

ふたりとも、金に目がくらんでもおかしくない男だとは、ちょっと言い過ぎでしょうか。

でも、暗殺の動機としては、政治的なものや思想的なものより、よほど現実味があるように思うのですが・・・。


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土佐藩黒幕説には、他にも谷干城説があります。

谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物で、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、新選組の仕業と決めつけ、局長・近藤勇斬首に処したのも谷でした。

見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけで、のちに見廻組今井信郎が暗殺を自供したときも、売名行為だとしてこれを認めようとしませんでした。

谷は龍馬の暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われていますが、どうも、不自然な気がしないでもないです。

現在伝わる龍馬と慎太郎襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

谷たちが作った話なんじゃないかと・・・。


いずれにせよ、龍馬が潜伏していた近江屋は、土佐藩邸の目と鼻の先にあり、であれば、なぜ土佐藩邸に寝泊まりしなかったのかという疑問は拭いきれません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・というのは物語などに見る龍馬像ですが、実際には、そんなカッコイイ理由ではなく、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないでしょうか。

残念ながら、この時期の龍馬には、安全な場所などどこにもなかったような気がします。


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他にも、紀州藩説新選組説御陵衛士説や、なかには中岡慎太郎との心中説まで、様々な推論、邪論がありますが、結局はどれも決定的な論証はなく、推論の域をでません。

通常、推理小説などで犯人探しをする場合、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」といった着眼点で絞り込みますが、龍馬の場合、その条件に当てはまる人物がたくさんいるんですよね。

それが、これだけ多くの説を生むことになったと言えます。

後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬ですが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようです。


龍馬の語録にこんな言葉があります。


「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」


大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味ですね。

本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわりませんが、国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉だったのでしょう。

龍馬の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、この時期の龍馬は、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていたといえます。

その意味では、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれません。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-19 00:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

今回は、紀州藩士報復説について考えます。

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坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船いろは丸と、紀州藩大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。


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龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」の報復でした。

海援隊士・陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけます。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥陽之助ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた京都の油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に2名の死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

世にいう「天満屋事件」です。


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この紀州藩士報復説は、もっともわかりやすい動機といえ、陸奥らが真っ先に疑ったのは当然だったかもしれません。

しかし、この説に関しては、それを裏付ける証拠はまったくなく、現在ではこの説を推す歴史家はあまりいません。

よくよく考えてみると、三浦が龍馬を殺して恨みを晴らしたという推論は、ちょっと短絡的すぎる気がしますね。

「いろは丸事件」の談判は、事故発生当初は海援隊と紀州藩汽船・明光丸の間で行われていましたが、途中から、龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を引きずり出し、土佐藩vs紀州藩政治的な談判に持ち込みました。

そしてその談判に紀州藩は全面敗訴したわけで、その賠償金も支払ったあとでした。

もし、ここで三浦が龍馬を殺したとなれば、藩間の政治問題に発展します。

そんなリスクを負ってまで恨みを晴らすなど、あまりにも稚拙な行動といっていいでしょう。

藩の外交を任されるほどの人物だった三浦が、そんな軽挙に至ったとは考えづらいですね。

もし、龍馬を殺すなら、談判の最中だったんじゃないでしょうか?

談判が終わり、賠償金も支払ったあとに龍馬を殺しても、紀州藩は何の得も得られません。

動機としては単純明快でわかりやすい紀州藩士報復説ですが、信憑性は薄いですね。


維新後、三浦は諱であるを名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代東京府知事を務めたあと、明治43年(1910年)、81歳まで長寿します。

それだけ明治政府に貢献しながら、後世に、坂本龍馬を殺した(かもしれない)人物として名が知られているのは、少々気の毒な気がしますね。

次回に続きます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-18 09:28 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

前稿の続きです。

次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。

坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。

龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論です。


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以前はわたしもこの説に最も信憑性を感じていたのですが、ただ、よくよく考えてみると、やはり腑に落ちない点が浮かび上がります。

というのも、果たして薩摩が龍馬をそれほど重要視していただろうか?・・・と思うんですね。

薩摩藩といえば、幕府に次ぐ勢力を持つ大藩であり、その中心的指導者だった西郷隆盛は、幕末の動乱の初期段階から活動していた名士でした。

一方の龍馬は、最近にわかに名前が売れてきた程度の人物で、西郷にしてみれば、薩長同盟の仲介人といった程度の認識でしかなかったんじゃないかと思います。

その薩長同盟も、後世の小説などでは龍馬と中岡慎太郎が成立させたように描かれますが、これも見方を変えれば、薩長が手を結ぶために双方に親交があった龍馬たちを利用したともとれますし、たぶん、そんな側面もなきにしもあらずだったんじゃないでしょうか。

実際、西郷が国元にいた大久保利通に宛てた書状のなかに「坂本某という脱藩浪士を便利に使っている」といったニュアンスのことが書かれています。

西郷にとって龍馬は、それほど重要な存在ではなかったと思うんですね。


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慶応3年(1867年)に入ってからの龍馬の新国家の構想は、薩長を中心とした雄藩に徳川家も加えた連合政権だったといわれ、大政奉還から暗殺されるまでの約1ヵ月間の龍馬の政治活動は、主にその構想を実現するための周旋活動だったといいます。

この動きは、たしかに薩摩にとっては少々目障りだったかもしれませんが、とはいえ、時流は薩長にありましたから、龍馬ごときを殺そうが殺すまいが、結局は薩長主導のもとに戊辰戦争は起こっていたと思います。

むしろ、どっち付かずの土佐藩を討幕勢力に引き入れるためにも、薩長にとって龍馬はまだまだ利用価値があったといえます。

どう考えても、この時点で薩摩が龍馬を殺すことは、ハイリスクローリターンだと思うんですね。

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ただ、もし薩摩藩黒幕説が事実だとすれば、その中心人物はやはり西郷隆盛だったと思います。

一部には、龍馬とはあまり接点がなかった大久保利通が、西郷の了承なしで暗殺を指示したとの説がありますが、少なくともこれはあり得ないでしょう。

この時期、大久保は主に朝廷への工作を担っており、他藩士との外交の中心は、西郷でした。

「敬天愛人」の体現者としてのイメージが強い西郷ですが、この時期の西郷は、幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊偽官軍として処断するなど、道義に反する行いを数多く断行しており、マキャベリストとしての顔が目立ちます。

一方の大久保は、冷徹な鉄仮面というだけで、そういう面は見られません(一説には、岩倉具視とともに孝明天皇毒殺したなんて話もありますが、これも、裏付ける史料はなにもなく、俗説にすぎません)。

また、武力倒幕に最もこだわっていたのも西郷ですし、革命成就後の薩摩閥の地位確保のためという動機であれば、尚のこと西郷だと思います。

事実、維新後の明治政権におけるふたりを見てもわかるように、一貫して薩摩閥を重視した西郷に対して、大久保は薩摩人には珍しく藩閥に固執しない人物で、そのことが薩摩人からの大久保不人気の一因となり、やがては西南戦争につながっていきます。

そんな後年のふたりを比較してみても、脱藩浪士から土佐藩士に復帰した龍馬の政治活動を疎ましく思うとすれば、大久保より西郷だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、最初の話に戻りますが、西郷にせよ大久保にせよ、殺さなければならないほど龍馬を重要視していたとは思えません。


龍馬が暗殺されたとき、西郷も大久保も、薩摩に帰国していました。

何のために帰っていたかというと、討幕のための出兵を要求するために帰っていたのです。

実は、薩摩藩はこの時期に至ってもなお藩内保守派の勢力が強く、決して一枚岩ではありませんでした(むしろ、西郷ら倒幕派のほうが少数派だったとも言われます)。

それら保守派を説得して出兵するための藩論をまとめるために帰国していました。

彼らにしてみれば、いかにして藩内の保守派を抑えるかが眼前の最大の課題であって、はっきりいって龍馬など眼中になかったと思います。

彼らの敵はむしろ薩摩藩内にあり、本当に暗殺したかったのは、藩内の政敵だったんじゃないでしょうか(その最大の政敵が国父の島津久光だったため、さすがに暗殺するわけにはいかなかったでしょうが)。

そんな背景から見ても、薩摩藩黒幕説というのは、よくよく考えてみると薄いように思えますね。

次回に続きます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-17 00:08 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬150回目の命日を迎えた昨日の稿で、襲撃当日の記録を追いましたが、本稿では、その暗殺犯について改めて考えてみたいと思います。

当ブログでは7年前にも同じネタを起稿していますが(参照)、あれからわたしも色々と見聞きし、少し考えが変わっています。

まあ、もとより確信を得た説などないんですけどね。

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実行犯については、今では通説となっている京都見廻組の面々(佐々木只三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人)と見てほぼ間違いないんじゃないでしょうか?

彼らの供述に多少の矛盾点があることから、一部、見廻組説を否定する意見を耳にしますが、歴史研究家の方々のあいだでは、否定する人がほぼいない定説となっているかと思います。

問題は、誰が彼らに殺らせたか?・・・ですね。

実際、今井信郎渡辺篤(渡辺吉太郎と同一人物?)は、襲撃の理由を「上からの御指図」と供述しており、また、自分たちの斬った坂本という人物が、それほどの大人物だとは知らなかった、と後年に語っていることからみても、彼らは所詮、末端の実行犯に過ぎなかったでしょう(リーダー格の佐々木只三郎だけは龍馬を暗殺する政治的意図を知っていたかもしれませんが、佐々木は龍馬の死の2ヶ月後に戦死しており、死人に口なしです)。

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「上からの御指図」という供述を素直に解釈すれば、見廻組の上役である京都守護職、つまり会津藩主の松平容保になります。

事実、前年の寺田屋事件以降、幕府は龍馬を罪人として指名手配しており、見廻組も新選組も、龍馬を追っていました。

シンプルに考えれば、松平容保の命令という見方が正しいように思いますが、ただ、釈然としないのは、京都守護職からの指図であれば、正当な警察権の行使であり、暗殺する必要があったのか?・・・という疑問です。

殺さずに捕縛すればいいはずで、仮にやむを得ず殺してしまったとしても、新選組の池田屋事件のように、堂々と名乗りをあげれば良かったはず。

しかし、龍馬襲撃は紛れもなく暗殺でした。


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この疑問について、この時期は大政奉還後であり、京都守護職も見廻組も「公務」ではなかったとする意見もあります。

たしかに、この約1ヵ月前に将軍・徳川慶喜によって大政奉還が宣言されましたが、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の「王政復古の大号令」においてであり、薩長の新政権が誕生するのも、そのあとのことです。

龍馬が襲撃されたこの時期はまだ、政権は幕府にありました。

現代でも、衆議院を解散しても次の選挙で新しい内閣ができるまで、現状の暫定内閣が国の執行部ですからね。

現に、慶喜は政権を投げ出すと公言したものの、容保はじめ幕府役人の多くはこれに反対の意志を示しており、彼らにしてみれば、少なくとも鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦旗が掲げられるまでは、自分たちの行いは幕府という日本国政府「公務」だという認識だったと思います。

したがって、容保の命令であれば、「坂本を捕縛せよ。抵抗するならば斬り捨ててもよい。」となったんじゃないかと。


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歴史家の磯田道史氏は、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させたと説かれています。

龍馬は、幕府若年寄永井尚志のもとへ、暗殺される前日まで連日のように通いつめており、その永井の寓居の向かい側に佐々木の下宿していた松林寺があり、龍馬の行動は逐一監視されていた、と。

磯田氏がMCをつとめる『英雄たちの選択』で力説しておられました。

なるほど、そう聞けば説得力がありますが、だとしても、なぜ暗殺しなければならなかったか、という疑問は拭えません。

こうした事件は穿った見方をせず、シンプルに考えたほうがいいとは思うのですが、闇夜に紛れた暗殺という事件の内容を思うと、やはり、腑に落ちない点が多いんですよね。

というわけで、次回、他説を考えます。







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by sakanoueno-kumo | 2017-11-16 03:43 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の命日に思う。

坂本龍馬暗殺されたのは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)。

つまり、今日が150回目の命日にあたります。

約1年前になりますが、京都国立博物館で行われていた「特別展覧会 没後150年 坂本龍馬」に行ってきました。

その後、今年に入って、長崎、東京、静岡で同じ展覧会が行われていたそうですね。

残念ながら展示品は撮影禁止のため紹介できませんが、130通余り残されている龍馬直筆の手紙や、愛用した北辰一刀流の目録など、なかなか見ごたえがありました。

龍馬の手紙は本にもなっているので、有名なものはこれまで何度も読んで知っていたのですが、やはり、実物で読むとさらに引き込まれましたね。

この日、午後1時から6時半過ぎまで、6時間近く展示品に見入っていました。


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龍馬が殺された150年前の今日は、朝からだったといいます。

前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていました。

そこに夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきます。

このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいました。

やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れますが、しばらく雑談を交わしたのち、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じると、岡本も峯吉と一緒に部屋をでました。

峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ20~30分

その間に事件は起きました。


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午後9時過ぎ、数人の武士が近江屋を訪れます。

入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と、名刺を差し出しました。

十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は特に怪しむことなく龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけます。

その物音を聞いた龍馬は、藤吉が客人とふざけていると思い、奥から「ほたえな!」大喝しました。

この声で、刺客たちは龍馬の所在を知ります。

そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかりました。

そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらいます。

龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けます。

続いての三の太刀は立ち上がりざまで受け止めるも、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれます。

脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れました。

慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受けて倒れます。

刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去りました。

この刺客たちの、ほとんど間髪を入れない技に、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も、完全に立ち向かうすきがありませんでした。


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龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねたといいます。

慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼んで医者を求めましたが、そのときは既に精根が尽きていました。

「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに呟くと、うつぶしたまま龍馬は絶命しました。

その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたといいます。

坂本龍馬、享年33歳。

奇しくもこの日、龍馬の33回目の誕生日でした。


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慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたといいますが、その後、容態は悪化し、17日に死去します。

中岡慎太郎、享年30歳。

現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれています。


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上の写真は展示会場を出たときに撮影したもの。

展示品に見入ってしまい、気がつけば外は夜になっていました。

下の写真は、展示会場で購入した没後150年の図録です。


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龍馬、慎太郎が凶刃に倒れてから今日で150年が経ちました。

ちなみに、不肖わたくし、今年50歳。

龍馬没後100年の年に生まれました。

わたしが生まれたときには、龍馬たちが殺されたときに既に生まれていた人が、まだたくさんこの世にいたんですね。

わたしの父は昭和5年(1930年)生まれ、わたしの母は昭和13年(1938年)生まれですが、龍馬たちと共に土佐勤王党に参加していた田中光顕という人物は、昭和14年(1939年)まで生きています。

田中光顕は慎太郎の陸援隊の幹部で、龍馬たちが襲撃されたとき、その現場に駆けつけて重傷の慎太郎から経緯を聞いた人です。

わたしの父や母が生まれた頃には、まだそんな人物が生きていたわけで、そう考えると、龍馬たちの時代って、そんなに昔ではないんですよね。


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上の写真は京都東山にある龍馬と慎太郎の墓所です。
毎年11月15日には、ここで坂本龍馬命日祭が行われていますが、
今年は150回忌の法要ですから、さぞかし盛大に行われるのでしょうね。


さて、次稿では、没後150年の節目ということで、改めて暗殺犯の諸説を考えてみたいと思います。






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by sakanoueno-kumo | 2017-11-15 00:06 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)