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太平記を歩く。 その134 「大橋跡・天王橋跡・丈之橋跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山には、3つの橋の跡があります。

これは、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野城に設けられたとされる空堀に架かる橋でした。


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まず初めに紹介するのは、最も北側にある「大橋跡」です。

現在、朱塗りの欄干が復元されていますが、これは、形こそ橋の格好をしていますが、橋の下に水はなく、両側は谷になっています。


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谷の下から撮影した大橋です。

もちろん、かつては木の橋が架かっていました。


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車の交通量とともに木の橋は傷み、現在はコンクリート橋になっていますが、木の橋ときの欄干についていた青銅の擬宝珠には、慶長9年(1604年)豊臣朝臣秀頼卿御建立の銘が刻まれていたそうです。


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次に紹介するのは、細長い吉野山のちょうど中央付近にある「天王橋跡」です。


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ここは、いまでは注意して探さないと見逃してしまいそうなほど小さな橋のかたちをしているに過ぎませんが、ここも大塔宮吉野城三空堀に架かる橋のひとつです。


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東側の相叶の尾根と竹林院の丘をつなぐ細い地形を掘り割った、戦略的な橋だったようです。


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橋を渡った向かい側には小山神社という小さな祠があります。

ここは、明治の初めまで梵天王を祀っていたそうで、橋の名はこれに由来しているそうです。


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最後に、吉野山南にある吉野水分神社の裏手にある、「丈之橋跡」です。

いまは、少し尾根道が細くなったところに石標があるだけですが、ここも、大塔宮吉野城三空堀に架かる橋のひとつです。

江戸時代にはまだ橋が架かっていたらしく、寛文11年(1671年)の『吉野山独案内』には、「子守の社より少し過ぎ、城の橋あり」と記されているそうです。

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いまは桜の名所として名高い吉野山ですが、かつては、山全体が大塔宮護良親王の城だったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-30 11:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その133 「大塔宮仰徳碑・火の見櫓」 奈良県吉野郡吉野町

高城山の登山道の途中にある丘の上に、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野城火の見櫓跡があります。


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現在、火の見櫓跡は登山客の休憩場所になっており、あずまやがあります。


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標高435mの丘の上には、小さな石碑が建てられています。


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火の見櫓跡から北を見下ろすと、金峯山寺蔵王堂が見えます。


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拡大します。


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火の見櫓跡の向かい側の台地には、高さ8mに及ぶ「大塔宮仰徳碑」が建てられています。


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この碑は、日本皇紀2600年にあたる昭和14年(1939年)に、当時の皇国隆盛、勤王思想をより高揚させるために建てられたものです。


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いまは木々に覆われていますが、往時はここから西に金剛・葛城の山脈、北に龍門・高取の山並みが見渡せたそうで、大塔宮方の武士たちが合戦の合図の狼煙をここから上げたと伝えられます。


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石碑に埋め込まれた説明板です。


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わたしがここを訪れたのは夏真っ盛りの7月23日でしたが、春には、この石碑の周りはでいっぱいになるそうです。

昨今では、この碑の下で桜に酔う人はいても、碑の意味を知る人はほとんどいないようです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-28 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その131 「高城山」 奈良県吉野郡吉野町

吉野山の南にある標高702m高城山にやってきました。

古くは万葉集にも歌われるこの山は、大塔宮護良親王が吉野で挙兵した際、奥の詰城となった場所です。


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現在は展望公園となっています。


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誘導看板の脇に整備された登り口があり、5分ほど登ると山頂に着きます。

もっとも、金峯山寺などのある吉野山中心部からここまで、30分以上の登山でしたが。


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山頂には往時の山城のを思わせるような休憩所が設置されています。


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別名「ツツジヶ城」とも呼ばれるここ高城山は、寛文11年(1671年)に刊行された『吉野山独案内』にも、「牛頭天王のほこら左に大塔宮こもらせ給ひし城あり、ここを高城とも、またつつじヶ岡ともいふ。」と紹介されています。


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元弘3年(1333年)閏2月1日、攻め寄せた北条幕府二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に吉野城の間道の機密がもれ、奥の詰城として親王が最も頼りにしていたこの城が、真っ先に落ちてしまいます。

この高城山が落ちたことで、親王はもはやこれまでと観念し、蔵王堂前庭での酒宴を開くんですね。


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高城山展望台から望む北西の眺望です。

中央左のいちばん高い山が「その16」「その17」で紹介した金剛山、その右隣が葛城山、さらにその右の2つこぶの山が、「その27」で紹介した二上山城のある二上山です。

吉野山での戦いに敗れた大塔宮護良親王は、あの金剛山中腹にある千早城(参照:その15に落ち延び、楠木正成と合流することになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-26 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その118 「藤島城跡(超勝寺)」 福井県福井市

前稿で紹介した小黒丸城跡から7kmほど東にある藤島城跡を訪れました。

現在は超勝寺という寺院が立ちます。


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ここも、越前国守護の斯波高経が築いたといわれる足羽7城のひとつと伝わります。


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山門の横には「藤島城址」と刻まれた石碑と、説明板が設置されています。


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『太平記』巻20にある「足羽七城の戦い」の中心となったのが、小黒丸城とここ藤島城でした。

小黒丸城には足利方の大将・斯波高経が籠って全軍の指揮を執り、ここ藤島城には、一度は新田軍に味方しながら足利方に寝返った平泉寺衆徒籠っていました。

新田義貞は軍勢を分けて足羽7城を攻めますが、7城の巧妙な連携体制の前に攻めあぐね、戦いは長期化します。


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新田軍の出陣から3ヵ月が過ぎた延元3年/建武5年(1338年)7月2日、小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていたここ藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

ところが、その道中、同じく藤島城に加勢するために出動した足利方の軍勢300騎と出くわし、行き当り遭遇戦の末、討死します。


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超勝寺境内には、藤島城の遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-07 13:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その117 「小黒丸城跡」 福井県福井市

日野川の戦いに勝利した新田義貞軍は、越前国府を占領します。

『太平記』では、この報が越前国中に伝わると、足利方の73の出城が降伏を申し出たと伝えます。

気運に乗った義貞は、越前国を完全掌握するため北上。

足利方で越前国守護の斯波高経の籠る小黒丸城を包囲します。


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現在、小黒丸城は住宅地田園のなかに石碑が立つのみで、遺構などは残っていません。


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小黒丸城は黒丸城ともいい、足利方の足羽7城のなかの本城とされています。

足羽7城は諸説ありますが、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城、そしてここ小黒丸城のことをいいます。


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『太平記』巻20によると、延元3年/建武5年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら6千余の兵を率いて府中に出陣し、足羽7城への攻撃を開始しました。

しかし、小黒丸城は容易には落ちません。


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高経の築いた足羽7城は実に巧妙な連携体制が整えられていたといわれ、ひとつの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う陣形になっており、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化します。


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そして3ヵ月が過ぎた閏7月2日、ここ小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

その道中、足利方の軍勢に出くわし、討死するんですね。


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小黒丸城跡と夕日です。


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義貞の死の翌年、弟の脇屋義助が再び挙兵して小黒丸城を攻めると、斯波高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れたといい、その後、小黒丸城は廃城となります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-06 13:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その116 「新善光寺城跡(正覚寺)」 福井県越前市

「その114」で紹介した杣山城跡から6kmほど北上した場所にある新善光寺城跡を訪れました。

ここは現在、正覚寺という寺院になっています。


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山門の手前にある「正覚寺」の寺号碑には、「新善光寺城跡」という文字も刻まれています。


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山門には、「旧府中城表門」という立札があります。

府中城とは、戦国時代に前田利家が築いた城で、新善光寺城とは別のものです。


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山門の横には「新善光寺城址」の石碑が。


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新善光寺城の築城主は越前国守護の斯波高経です。

つまり、足利方の拠点だったわけですね。

延元元年/建武3年(1336年)には杣山城主の瓜生保の軍勢によって一度落とされていますが、すぐに足利方が奪回しています。


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金ヶ崎城の落城後に杣山城に逃れていた新田義貞は、その後、四散していた軍を糾合して勢力を盛り返し、延元3年/建武5年(1338年)2月、再び打って出て足利方の斯波高経軍と日野川で激戦を交えます。


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この戦で府中(武生)の町は焦土と化し、高経は敗走して新善光寺城は義貞の手に落ちました。


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現在、境内の北側にある総社大神宮との境界に、わずかに土塁跡が残されています。


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その説明版です。


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新田方の手に渡った新善光寺城には、その後、義貞の弟・脇屋義助が入りますが、やがて義貞が戦死すると、義助は美濃へと敗走します。


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その後、正平21年/貞治5年(1366年)には廃城となり、良如上人によって正覚寺が建立され、現在に至ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-03 09:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その114 「杣山城跡」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から直線距離にして20kmほど北西にある杣山城跡を訪れました。

ここは、金ヶ崎城の戦い新田義貞軍に加担した瓜生氏の居城でした。


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杣山城は標高492m比高402mの山頂にあり、登山道は険峻ガッツリ登山系の城跡です。


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この日は早朝に神戸を出て、車で2時間半かけて敦賀市に入り、午前中に金ヶ崎城跡をめぐり、午後から約30分かけてここに来ました。

結構つかれていたのでどうしようか迷ったのですが、せっかく来たので登ることに。


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登山コースはいくつかありましたが、この日は、いちばんポピュラーだという第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコースを選びました。


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麓の谷間の居館跡です。

幅約100m奥行き約300mの広大な面積です。


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谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100m、高さ3m土塁が残されています。


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居館跡を抜けると、登山道が始まります。

最初は階段がつくられていて登りやすいのですが・・・。


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しばらく登ると、なにかの石垣跡があります。

これはたぶん城跡のものじゃないでしょうね。


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西御殿跡経由のコースを選びます。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日、金ヶ崎城に入った新田義貞は、ここ杣山城の瓜生保とその兄弟に援軍を要請します。

これを受けた瓜生保は、いったんは義貞に味方したかと思えば、足利尊氏からの偽の綸旨に踊らされて義貞に敵対したりと右往左往するのですが、最終的には新田軍に与し、年が明けた正月11日、瓜生保は金ヶ崎城に食糧を運ぶべくここ杣山城を出兵し、その道中、戦死したと伝えられます。

その後、金ヶ崎城の落城直前に城を脱出した義貞は、ここ杣山城に入ります。


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中腹を過ぎたあたりに、ハート型をした洞窟が見えます。


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この洞窟は「姫穴」と呼ばれ、新田義貞の妻・匂当内待が、この穴に一時隠れていたという伝承があるそうです。


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それほど深くないので、隠れていてもすぐに見つかりそうですが。


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姫穴を過ぎると、登山道はいっそう険峻になります。


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標高400m附近にある「殿池」です。


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ここは、山城の唯一の水源だったようです。


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殿池のすぐ上に「西御殿跡」があります。

西御殿跡の周りの西尾根には、殿池の場所も含めて大小17の削平地があります。

そのなかには礎石が見つかった削平地もあるそうで、何らかの建物が建っていた可能性も考えられているそうです。


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西御殿跡に設置された案内板です。


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西御殿跡から本丸跡までは、緩やかな尾根道になります。

ただ、道の周りは大きな岩がゴロゴロあって、決して歩きやすくはありません。


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「袿掛岩」と呼ばれる断崖絶壁に面した岩場です。


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ここは、瓜生保が戦死したと聞いた奥方侍女たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという伝承がある岩だそうです。


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試しに覗き込んでみましたが、高いところが苦手なわたしは、気分が悪くなって吐きそうになりました。


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袿掛岩を過ぎると、大きな「堀切跡」が現れます。

もうすぐ本丸跡ということですね。


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そして「本丸跡」入口。


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本丸は標高492mの頂上にあり、円形状の削平地が中央にあり、その一段下にも削平地があります。


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城下の様子が一望でき、なるほど、籠城するには最高のロケーションです。


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金ヶ崎城からここ杣山城に移った新田義貞は、その後、約1年近くここを拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗しました。


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一説には、金ヶ崎城が落城するずいぶん前から義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見方もあるようです。


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下山道は東御殿跡コースを選びます。


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本丸から東御殿跡に向かう道中にも、無数の削平地が見られました。

これらも、おそらく何らかの曲輪跡なんでしょうね。


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そして「東御殿跡」

東御殿跡は南北に長い約600㎡の削平地で、礎石建物跡が残っています。


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説明板によると、足利軍との戦いの際に麓の居館を捨てた瓜生保が立て籠もったのが、ここ東御殿だったそうです。


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枯れてしまっていますが、かなりの樹齢と思われる巨木が。

あるいは往時を知っているかもしれません。


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東御殿を過ぎた下山コースがまた過酷で、ほとんど道なき道を進む感じでした。


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下山道を覆う断崖絶壁の岩場

写真じゃこの迫力は伝わりづらいですね。


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下山して再び居館跡から城跡を見上げます。


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よく見ると、杣山が岩によって出来た山だということがわかります。


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西御殿から本丸までの尾根伝いも、こうして見るとよくわかりますね。


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で、普通ならこれで終わりなんですが、杣山城の遺構はまだあります。

居館跡から約1km西に、「二の城戸外濠跡」と書かれた説明板と、土塁と堀の跡と思しき遺構が残っています。


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南越前町のHPによると、このあたりには武家屋敷があったとされているそうです。


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二の城戸外濠跡の側には、「史蹟 杣山城趾」と刻まれた石碑と、小さながあります。


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杣山城はその後、幾多も城主を変えながら戦国時代まで存在したようですが、天正元年(1573年)、織田信長北陸攻めにより廃城となりました。

その後、天正2年(1574年)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-31 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その110 「金ヶ崎城跡」 福井県敦賀市

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡までやってきました。

これまで関西を中心にめぐってきたため(山陰も行きましたが)、ここはちょっと遠いのでどうしようか迷ったのですが、やはり、『太平記』には福井県は欠かせないと思い至りました。

というわけで、しばらく越前国シリーズが続きます。


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足利尊氏が京の都を占領し、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)との講和が始まると、徹底抗戦を主張していた新田義貞恒良親王、尊良親王を奉じて京を脱出。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、当時、気比氏治の居城だった、ここ越前国金ヶ崎城に入り、約半年間、この地で足利勢と激戦を交えます。


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金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)を利用して築かれた城で、敦賀津を眼下にみおろす絶好の立地にあります。

前は海、背後は険しい山岳で、天然の要害をなした難攻不落の城でした。


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現在、城跡は公園整備されており、気軽に散策できます。

遊歩道からは敦賀市街地が見渡せます。


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しばらく歩くと、「絹掛松」を書かれた案内板があります。


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その説明書きによると、金ヶ崎城の落城直前、恒良親王(当時15歳)は蕪木浦(現在の越前町)に避難しますが、その際、衣を脱いで岩の松の枝に掛けて小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を「絹掛松」と呼び、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいるそうです。


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そのすぐ側にある鴎ヶ崎

大正天皇(第123代天皇)、昭和天皇(第124代天皇)もこの地を訪れ、ここで小休止されたそうです。


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本丸跡に登る途中に、「金ヶ崎古戦場碑」が建てられています。


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義貞らが金ヶ崎城に入ると、足利方は越前国守護の斯波高経新田軍討伐を命じます。

しかし、守りの固い金ヶ崎城を攻めあぐねた高経は、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。

迎え討つ義貞は、20kmほど北の杣山城を拠点とする瓜生保らに援軍を要請し、紆余曲折のあと協力を得ます。


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年が明けた1月18日、金ヶ崎城の兵糧が尽き始めたことを知った瓜生保らは、杣山城を出て食糧救援に出撃しますが、あえなく失敗。

その後、義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と義貞の息子・新田義顕らを残して兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出しますが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできませんでした。

3月3日、斯波軍が金ヶ崎城に総攻撃を開始します。

兵糧攻めによる飢餓疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日落城。

尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は斯波軍に捕縛されました。


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本丸跡と伝わる月見御殿跡です。


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片隅に小さな石碑が。


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月見御殿跡からの敦賀湾の眺望です。


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下山は別ルートを進みます。

しばらく下ると、三の木戸跡があります。


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そのすぐ近くに、「焼米石出土跡」と書かれた看板が。


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ここ金ヶ崎城にはもうひとつの戦史があります。

戦国時代の織田信長朝倉義景の戦いがそれで、浅井長政裏切りによって危うく挟撃の危機に瀕したものの、信長の妹で長政の妻だったお市が、袋の両端を縛った「小豆の袋」陣中見舞いに送り、その危機を報せたという、あの戦いです。

「袋のネズミ」は、まさにこの城だったわけですね。

そのとき焼け落ちた米蔵の焼米と思われる遺蹟が、この場所で出土されたそうです。


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二の木戸跡です。


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説明板によると、新田軍と斯波軍の戦いで、このあたりで激戦が行われたといわれるそうです。


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二の木戸と一の木戸の間にある大きな堀切跡です。


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一ノ木戸跡です。


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『太平記』によれば、飢餓に耐えかねた城兵らは、まずを殺して食し、最後は死者の肉すら食らったと伝えます。

援軍を得て体勢を立て直すためだったとはいえ、結果的に義貞は2人の皇子と息子、そして餓えに苦しむ城兵を見捨てたことになり、南朝よりに書かれた『太平記』が、楠木正成ら他の南朝方の武将に比べて義貞の評価が低いのも、この戦いに起因するところが大きいといえるでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-24 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区

延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦い楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。

そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。

そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。


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比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。

叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。


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雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。

前方には、標高848mの比叡山が聳えます。


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川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。


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橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。

雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。


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石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。


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登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。

雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。


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雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底歩いているような気分になります。


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足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。

また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。


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雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。


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近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。

えっ? ここって城跡だったの?


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早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。

城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。


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その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。

どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。


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で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。

端には「水飲対陣の碑」が建てられています。

「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。

たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。


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『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。


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「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。

この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。

この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。


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ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その96 「阪本城跡(大倉山公園)」 神戸市中央区

前稿で紹介した廣厳寺のすぐ北に、大倉山公園という市民憩いの場があるのですが、ここに、かつて楠木正成が築いた阪本城があったといわれているそうです。


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阪本城が築かれたのは、建武年間(1334年~1338年)だったと考えられているそうですが、詳しいことはわかっていません。

ただ、時期的に見て、「湊川の戦い」に何らかの役割を果たしていたと考えられるでしょうね。


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公園は高台になっており、現在は高層の建物によって遮られていますが、かつては海まで広く見渡せていました。

攻防戦にはもってこいの場所といっていいでしょう。

城といっても、たぶんのようなものだったでしょうから、あるいは、正成軍は野戦に敗れて阪本城に逃れる途中、このすぐ南の湊川神社か廣厳寺あたりで自刃して果てたのかもしれません。


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また、時代は250年ほど進んだ天正8年(1580年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重が最後に籠城した「花隈城の戦い」のとき、織田軍の池田恒興がこの地に陣を布いたと伝わります。

時代は違えど、戦の砦となり得る場所は同じだったということですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-01 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)