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太平記を歩く。 その164 「飯盛山城跡」 大阪府大東市

前稿で紹介した四條畷神社の裏山にあたる、標高315.9m飯盛山山頂に、飯盛山城跡があるのですが、ここも、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日に起きた「四條畷の戦い」の戦場となったと伝えられます。


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神社南側にある石碑です。

石碑は大正8年(1919年)、記念碑は大正13年(1924年)に建てられたもののようです。

ここから飯盛山に登ります。


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登山道はハイキングコースになっているので、歩きづらいこともなく、道に迷うこともありません。

ただ、勾配は結構きつく、ハードです。


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30分以上登ると、ようやく最初の曲輪、二の丸史蹟碑郭にたどり着きました。

この日は12月3日だったのですが、この時点で汗だくです。


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こちらも麓にあった記念碑と同じく大正13年に建てられた「飯盛山史蹟の碑」です。


碑文

標高三一八米 地質花崗岩

建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ其規模頗る宏大三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる現存せる城址は実に當年のものなり

大正十三年一月廿六日  大阪府立四條畷中學校校友會


簡単にまとめると、建武の頃に楠木正成がここで北条氏残党を討ち、その後、四條畷の戦いで高師直軍がここを占領して楠木正行討死

その後は畠山氏が河内を領し、家臣の木沢長政が天文年間にこの地に築城するも、永禄年間に三好長慶が奪取して城を拡張。

しかし、その後、織田信長の近畿統一により廃城となります。


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同じく、二ノ丸郭にある立て札です。

実は、四條畷の戦いの頃の飯盛山城は、臨戦的な陣城で、恒久的な城ではなかったといわれています。

現在残る城址遺構のほとんどは、戦国時代、三好長慶の頃のものです。


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二ノ丸郭の景色を眺めたあと、再び山頂に向かって登ります。


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青空に紅葉が映えます。


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二の丸御体塚郭です。

戦国時代、ここの城主だった三好長慶の死後、ここ御体塚郭に遺骸を3年間、仮埋葬していたのだとか。


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御体塚郭の斜面には、石垣跡が綺麗な状態で残っています。


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見事ですね。


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この石段を登ると、山頂のようです。


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山頂が見えました。


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山頂の高櫓郭には、「飯盛城址」の石碑と楠木正行の像が建っています。


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本丸に着いたのは正午前、北向きに建っているので、逆光で上手く撮影できません。


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この像は、はじめ昭和12年(1937年)に建立されたそうですが、第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に出された金属供出の命令により、台座を残して上の銅像の部分を供出されたそうです。

現在の像は昭和47年(1972年)に再建されたものだそうです。


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斜め後ろ姿です。


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本丸跡に設置された城の縄張り図です。

たいへんわかりやすい。


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本丸展望台からの西の眺望です。


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本丸斜面にも、石垣跡がきれいに残っています。


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こちらも石垣跡ですね。


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まだまだ、曲輪跡やら土塁跡などたくさん写真があるのですが、ずいぶん長くなっちゃったので割愛します。
せっかくなので紅葉の写真を数枚。


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『太平記』には、「懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」と記されています。

懸下野守とは、楠木八臣のひとり恩地左近満一のことで、恩地軍5000の兵がこの城に立て籠ったようです。

しかし、そのほとんどが戦下に散りました。

最後に、下山してから飯盛山を見上げます。


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「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-12-09 09:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~

二条城本丸へは、二ノ丸御殿との間の内堀に架かる東橋を渡り、本丸櫓門(本丸東櫓門)から入ります。


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本丸櫓門は入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた天明の大火で唯一焼け残った遺構だそうで、国の重要文化財に指定されています。


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寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸の際、そのときの木橋2階橋だったそうで、天皇は二ノ丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれたといわれます。

その2階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていたそうですが、その後、解体されたそうで、その部材は土蔵で保管されているそうです。


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木橋から北側の内堀を撮影。

前稿で紹介した鳴子門が見えます。


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こちらが南側の内堀。

前稿で紹介した桃山門が見えます。


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櫓門をくぐると、両側に櫓跡と思われる石垣があり、その向こうは枡形虎口になっています。


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枡形の奥には雁木があります。

これは往時のものではないような・・・。


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振り返って櫓門を見ます。

櫓の土塀には砲撃用の狭間が見えます。

この両側の石垣上にも櫓があったとすれば、防御は完璧

この門をくぐった時点で蜂の巣状態ですね。


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櫓門をあとにして、本丸庭園に向かいます。


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この庭園は明治29年(1896年)に明治天皇(第122代天皇)の指示によって造られたものだそうです。


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本丸御殿御常御殿です。


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現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893年)から翌年にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。


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創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模だったそうですが、天明の大火によって焼失してしまったそうです。

その後、本丸御殿は再建されませんでしたが、幕末に第15代将軍・徳川慶喜の住居として再建されました。

しかし、この御殿も明治14年(1881年)に撤去されました。


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こちらは、本丸御殿玄関です。

現在の本丸御殿は、玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間4棟からなります。


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そして、本丸西南にある天守台を登ります。

かつてはここに天守がありましたが、寛延3年(1750年)に落雷焼失して以来、再建されませんでした。


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天守台には手すり付きの階段が設置されており、簡単に登れます。


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石垣は「打込み接ぎ」です。


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天守台の上です。

石垣の高さは18m、広さは427㎡だそうです。

かつてここにあった天守は、寛永3年(1626年)に伏見城から移設されたと考えられています。

屋根は5重、内部は地上5階、地下1階の構造だったと伝わります。


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天守台から本丸御殿を望みます。


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こちらは天守台から北側に見える本丸西門西橋です。


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こちらは天守台西側に見える土蔵


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そしてこちらは、南側内堀です。


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徳川家康によって築城された当時の天守は、こことは違う場所(城の北西部分)にあったといわれ、『洛中洛外図屏風』望楼型の5重天守として描かれています。

その天守は、ここに家光が天守を築いたとき、淀城移築されたと言われます。


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天守台を降りて、本丸西側の西門から外に出ます。


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見事に残る打込み接ぎの石垣。


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西門も東門と同じく枡形虎口になっています。


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西門の橋から見た天守台。


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さて、4稿に渡って紹介してきた二条城ですが、これですべて回りました。

大政奉還から今年で150年、その他にも、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の会見など、時を超えて歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


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帰りに二条城を次代へ保存・継承していくための募金「二条城一口城主募金」をしたところ、缶バッジクリアファイルなどの記念品をいただきました。

今日からわたしも二条城の城主です(笑)。







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by sakanoueno-kumo | 2017-11-11 00:31 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

二条城二ノ丸庭園の西側には、内堀に囲われた本丸があります。

その本丸に登る前に、内堀沿いを歩いてみました。


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二ノ丸と本丸の間を通る内堀沿いの南北に、鳴子門桃山門という仕切門がになっています。

上の写真はを守っていた桃山門


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そして上の写真を守っていた鳴子門です。

ここから北回りに内堀を1周します。


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こちらが鳴子門。

寛永3年(1626年)頃の建築と言われ、国の重要文化財に指定されています。


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こちらは北側からみた鳴子門。

門の形式は正、背面に4本の控柱を立てた「四脚門」です。


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鳴子門を過ぎて東北から東側内堀と石垣を撮影。

向こうに見える櫓と橋は、本丸の正門東橋です。


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そして、北側内堀沿いに西へ進むと、ほぼ中央に北中仕切門があります。

この門も南側にある南中仕切門になっていて、寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


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西二ノ丸側から見た北中仕切門。

門は小ぶりで、背面の屋根だけが延びるという変わった構造で、門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから、「埋門(うずみもん)」とも呼ばれるそうです。


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内堀北側の石垣です。


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そして、こちらは西北から撮影した内堀と石垣。

向こうに見える橋は、本丸西門に架かる西橋です。


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こちらは内堀西北にある土蔵(米蔵)です。


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そして、こちらは内堀西南にある土蔵(米蔵)

どちらも寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


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先程から紹介するほとんどの門や櫓が寛永3年(1626年)頃につくられていますが、これは、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸にあわせて造られたからです。

当時、上洛中だった第2代将軍徳川秀忠、第3台将軍徳川家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。

秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと、5日間滞在したと伝わります。

徳川将軍家は天皇を迎えるにあたって、その2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守行幸御殿、本丸御殿などを造営したと伝わります。


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そして、こちらが本丸西南にある天守台です。


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かつてここに5層の天守が建てられていましたが、寛延3年(1750年)の落雷によって焼失し、その後、再建されることなく現在に至っています。

後水尾天皇の行幸の際、天皇は天守に2回登ったと伝わり、天守に登られた天皇は、このときの後水尾天皇が唯一とされています。


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天守台のある西南から内堀沿いに東へ進むと、南中仕切門があります。

この門は、上に紹介した北中仕切門になった門で、作りもよく似ています。


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こちらは反対側からの南中仕切門。


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本丸東南から見た内堀と石垣。

向こうに見える石垣の出っ張ったところが天守台です。


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そして、この稿の最初に紹介した桃山門にやってきました。

門の向こうに小さく見えるのが、桃山門とになっている北側の鳴子門です。


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門を潜って北側から見た桃山門。

寛永行幸の際の絵図には大きな建物として描かれているそうですが、その後、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられています。


さて、内堀を1周して、次稿、いよいよ本丸に登ります。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-10 00:13 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

二条城東大手門から城内に入り、南側から二ノ丸御殿に向かいます。

写真は城内に設置された案内図です。


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南へ進むと、国の重要文化財に指定されている東南隅櫓が目に入ります。

「その1」では、外から見た東南隅櫓を紹介しています。


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そして、こちらが二ノ丸御殿入口にある唐門です。


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この唐門は、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸にあわせて造られたと伝わります。

二ノ丸御殿の正門にあたり、切妻造、檜皮葺四脚門で、その屋根の前後に唐破風が付きます。


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この唐門も昭和19年(1944年)に国の重要文化財に指定されています。

平成25年(2014年)8月に完成した保存修理では、檜皮の葺替え、飾金具の金箔貼直し、彫刻欄間の彩色の塗り替え、の塗り替えなどが行われ、往時の姿に蘇りました。


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門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾ります。


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そして、唐門を潜って正面に見えるのが二ノ丸御殿

国宝です。


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二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。


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御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


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正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


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残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


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こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


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そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。

平成29年(2017年)11月9日の今日は、大政奉還から150年の節目にあたります。

写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


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写真左が大広間、その向こうに見える棟が「式台」で、いちばん奥に見える建物が「遠侍」です。

「遠侍」は来殿者が控える場所で、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した際に使われた部屋と伝わります。


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こちらは大広間南西からの撮影で、向こうに見える棟は「黒書院」です。

「黒書院」は大広間に次ぐ公式の場で、将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した場所だそうです。


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大広間と黒書院前の庭園です。


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こちらは黒書院側から撮影した庭園と大広間。

慶喜の大政奉還の意思表示の際には、ああやって障子は閉ざされていたんでしょうね。


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多くの歴史を刻んだ二ノ丸御殿を後にして、本丸へ向かいます。






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by sakanoueno-kumo | 2017-11-09 00:01 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

平成29年(2017年)の今年は、大政奉還から150年にあたります。

京都では「大政奉還150年周年記念プロジェクト」と題したイベントが各所で行われていますが、大政奉還といえば、いちばんはやはりその発表の舞台となった二条城を訪れるべきでしょう。

というわけで、先日、朝から夕方まで二条城をみっちり歩いてきました。


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写真は東大手門前に設置された金屏風風の看板。

いまから150年前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げました。


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その前日の10月13日に、ここ二条城の二の丸御殿に上洛中の40藩の重臣を召集し大政奉還を発表しました。

その二の丸御殿に行く前に、まずは城の外堀に添って外周を歩きます。


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上の写真は東南隅櫓

国の重要文化財に指定されています。

堀川通を南から北上してくると、まず最初に目に入るのが、このです。


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現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたもので、東南隅櫓はその築城当初に造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年(1788年)に起きた大火によってそのうちのふたつが焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。


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東南隅櫓から外堀沿いに西へあるくと、南門があります。

この南門は大正4年(1915年)に大正天皇(第123代天皇)の大典に備えてあらたに造られたもので、本来の城門ではないそうです。


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外堀に面した石垣

「打込み接ぎ」ですね。

慶長年間(1600年~1615年)に築かれた城は、この「打込み接ぎ」の工法が多いです。

現存する大坂城などに見られる「切込み接ぎ」は、大坂夏の陣以降の元和期に多用されるようになった工法で、また、関ヶ原の戦い以前は、自然石を積み上げる「野面積み」が主流でした。

この「打込み接ぎ」は、石垣が進化する過渡期の工法といえます。


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そして、こちらが西南隅櫓

東南隅櫓と同じく慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

こちらも国の重要文化財に指定されています。


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二重二階の構造で、西と南に石落としが見えます。


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西南隅櫓と外堀です。


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西南隅櫓から北上すると、西門があります。

寛永年間(1624年〜1643年)に造られたといわれています。

大政奉還を発表したとき、徳川慶喜がこの西門から城外に出たと伝わるそうです。


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西面の外堀です。


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そしてこちらは北大手門

ここも東南隅櫓や西南隅櫓と同じく、慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られて寛永3年(1626年)に改修されました。

ここも国の重要文化財に指定されています。


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東面の外堀。


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外堀を1周まわって東大手門に戻ってきました。

ここが二条城の正門です。


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現存の門は、寛文2年(1662年)頃に造られたと考えられています。

築城当時は現在のような2階建の櫓門でしたが、寛永3年(1626年)の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸の際には、天皇を2階から見下さないようにとの配慮から、一重の唐門に建て替えられたと言われています。


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門幅13間におよぶ勇壮な門で、国の重要文化財に指定されています。


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東大手門は平成26年(2014年)10月から改修工事が行われ、今年(平成29年)3月に完成しました。

この日は、その記念として櫓内部を特別公開していました。


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櫓内部です。


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さて、外堀と門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次回に続きます。










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by sakanoueno-kumo | 2017-11-07 23:22 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その156 「淡河城跡」 神戸市北区

前稿で紹介した石峯寺から4kmほど西に、淡河城跡があります。

難読ですが、淡河(おうご)と読みます。


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ここは、播磨一帯の豪族であった北条時房の孫にあたる淡河時治の城と伝わります。

淡河氏は暦応2年(1339年)に赤松則村(円心)・則祐父子と南朝方のあいだで争われた石峯寺・三津田の戦いにおいて、南朝方に与して破れ、ここ淡河城は赤松氏の拠点となりました。


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丹生山城、石峯寺城、そしてここ淡河城と、このあたりの城はことごとく赤松軍によって抑えられたようですね。

赤松氏といえば、東播磨地区のイメージがあったのですが、円心の時代は、今の兵庫県南部のほとんどを征服していたことがわかります。


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その後、明徳3年(1392年)には、淡河範清が赤松氏より季範を養子として迎え、その後は、淡河氏は赤松氏に属しました。


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時代は下って戦国時代後期には、羽柴秀吉率いる織田軍と別所長治が対峙した三木合戦では、別所方に与して滅びました。

その話については、「三木合戦ゆかりの地めぐり」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。


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天守台跡に設置された石碑に埋め込まれた銅板には、南北朝時代からの淡河城の歴史が刻まれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-05 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その155 「石峯寺・石峯寺城跡」 神戸市北区

神戸の北のはずれに、石峯寺(しゃくぶじ)という寺院があります。

ここは重要文化財三重の塔薬師堂で有名ですが、かつてこの石峯寺の裏山にがあったということは、あまり知られていません。


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参道を上って重要文化財の仁王門を潜ります。

両脇に金剛力士像の造像年代はわかりませんが、かなり古いもののようです。

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こちらは向かって右側の阿形仁王

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そし、こちらが左側の吽形仁王です。

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「建武の新政」が始まって間もないころの石峯寺は、47の坊があり、さらに付近の百姓を加えると200人あまりの僧兵を擁していたといい、南朝方に味方していました。

ところが、はじめは石峯寺の衆徒たちと一緒に南朝方について兵を挙げた赤松則村(円心)は、建武の新政ののち足利尊氏に味方して北朝方についたため、寺の衆徒たちとは激しい対立関係となります。


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延元4年/暦応2年(1339年)8月29日、円心は三男の赤松則祐に命じ、東播州一帯の南朝軍を攻めさせました。

このとき、ここ石峯寺城も包囲されますが、同時に近くの淡河城も攻め落とされ、もはや援軍は見込めないと考えた僧兵たちは、何よりも本堂三重の塔などを兵火から守るため、200人挙って城外に駆け出し、赤松軍の包囲を突破し、寺から遠くはなれた場所まで移動して戦ったといいます。

そのおかげで、建物は兵火に遭うことなく、重要文化財となった現在に至ると。


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山門には「孝徳天皇勅願所」と刻まれた石碑があります。

寺伝によれば白雉2年(651年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願により、法道が開山したとされます。


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本堂です。


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こちらは中堂の薬師堂

聖武天皇(第45代天皇)の開山で天平19年(747年)に行基が建立したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。


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本堂東にある三重塔です。

弘仁14年(823年)に嵯峨天皇(第52代天皇)の勅願により建立したと伝わりますが、ちょうど『太平記』の時代あたりに、建てられたとの説もあります。

この三重塔も、国の重要文化財に指定されています。

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敷地内には、暦王4年(1341年)4月に造られたことが確認できる石造五輪塔があります。

時期的にみて、あるいは赤松氏との戦いに関係があるかもしれません。


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城があったとされる裏山に入ってみました。


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岩肌を削った穴のなかには、観音石像が祀られています。

裏山の空間は人工的に作られた遺構のようにも見えますが、自然にできたようにも思えて素人の私には判断がつきません。


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でも、明らかに何らかの建造物があったと見られる削平地もあります。

まあ、城といっても、この時代の多くの大寺院がそうであったように、寺院と砦が一体化して要塞化したものだったのでしょうね。


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寺院内の一角には、どういう理由か、歴代の徳川将軍尊霊碑が祀られていました。


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写真右から、徳川吉宗、家光、家重、家定、綱吉、家綱

あと、写真には映ってませんが、家慶、家斉、家治、家宣の碑もあります。

なぜか、家康、秀忠、家継、家茂、慶喜の5人はありません。

あと、明石城主・小笠原忠眞碑と、淡河城主有馬公(たぶん有馬則頼)碑もあります。

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次回は、この近くの淡河城を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-04 01:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その154 「東条城(豊地城)跡」 兵庫県小野市

兵庫県小野市と加東市の市境あたりに、「豊地城跡」と紹介された史跡があるのですが、ここに南北朝時代、東条城があったと考えられています。


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前稿で紹介した丹生山城を拠点に足利軍と戦っていた金谷兵庫助経氏は、同時に東条城もその拠点とし、両城をさせて戦ったと伝わります。


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しかし、延元元年・<北朝:建武3年>(1336年)に東条城は北朝方の手によって焼き払われてしまいます。

『日本城郭大系』によると「東条城はおそらく豊地城の前身であろう」としています。


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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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ただ、これらはすべてのちに築かれた豊地城のもので、東条城の遺構ではありません。


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時代は進んで16世紀末、豊地城は羽柴秀吉別所長治の間で行われた三木合戦に加わり、その後、破城となりました。

その件については、「三木合戦ゆかりの地」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-03 10:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その153 「丹生山城跡・明要寺跡」 神戸市北区

「湊川の戦い」新田義貞が京都へ敗走した後も、神戸北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏が足利軍と奮戦していました。

その兵庫助が本陣を布いた場所が、神戸市北区の丹生山山上にあった明要寺でした。

明治に入って寺が廃され、丹生神社と改称しました。


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6世紀創建といわれる明要寺には、この当時、多くの僧兵がいました。

兵庫助はそれらの僧兵を引き連れ、付近の足利方に屈しない近江寺性海寺、さらには「その36」で紹介した太山寺の衆徒をもその配下に置き、赤松則村(円心)軍の攻略を開始します。

太山寺の衆徒といえば、かつては赤松軍とともに鎌倉幕府軍と戦った仲。

その後、円心は足利尊氏とともに後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻しますが、太山寺の衆徒たちは、南朝方に付いていたようです。


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その後、金谷軍と赤松軍の戦いは長引き、延元3年(1338年)9月、ここ丹生山城を守っていた金谷軍の吉川経清が赤松軍の攻撃によって討死すると、その後も、赤松軍の赤松範資赤松則祐が金谷軍の拠点を次々と攻め、翌年の9月8日、赤松則祐が端谷城を攻略したことにより、赤松軍の勝利に終わります。


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丹生山城は、天正7年(1579年)の羽柴秀吉別所長治のあいだで行われた三木合戦の際にも舞台となっているのですが、その話は、「三木合戦ゆかりの地めぐり」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。


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現在、丹生山城跡には石碑だけが残されており、その山頂には丹生神社があります。

かつて戦場となったシブレ山、丹生山、帝釈山、稚児ヶ墓山と連なる丹生山系の山々は、現在はハイキングコースとして登山客が多く訪れています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-02 08:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その152 「丹下城跡(河内大塚山古墳)」 大阪府松原市

大阪府南部には、日本一大きな大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする大規模な古墳が数多くありますが、その中のひとつ、松原市にある河内大塚山古墳は、南北朝時代、北朝方に属する丹下氏が城を築いていました。

それが丹下城です。


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丹下氏は伊予橘氏の流れを汲む土豪武士で、河内国丹下を支配していました。

伊予橘氏の流れというと、楠木正成の楠木氏も同じで、おそらく遠縁にあたる一族だと思われますが、楠木氏は南朝方、丹下氏は北朝方に属していたんですね。


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延元2年/建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市に陣を張っていた南朝軍を攻めました。

しかし、野中寺前で合戦となり、南朝軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われたそうです。


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古墳がに利用されることは多く、河内にある古墳群のほとんどが、中世や戦国期に戦火に巻き込まれています。

丹下城が築かれた河内大塚山古墳は、日本で5番目に大きな古墳で、全長は335m、後円部直径は185m、後円部の高さは20mあり、周囲に広い堀をめぐらせ、陣を張るにはもってこいの環境ですからね。


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その後、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側に松原城をつくったと伝わりますが、松原城の正確な位置はわかっていません。

延元3年/建武4年(1338年)、南朝側の和田正興橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。

このとき、和田正興軍の高木遠盛によって丹下八郎太郎の子である能登房が討ち取られます。

まもなく松原城は落城したと伝えられますが、丹下城はその後、戦国期まで存在したようで、天正3年(1575年)の織田信長による河内国城郭破却令によって廃城となり、丹下氏は城を退去して帰農したと伝わります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-29 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)