タグ:城跡 ( 142 ) タグの人気記事

 

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

シリーズ最後です。

江戸時代も後期に入った明和6年(1769年)兵庫津一帯は尼崎藩領から離れ、幕府の直轄領となります。
このとき、兵庫陣屋の敷地を縮小して「勤番所」となり、兵庫城の堀も幅2間分(約3.6m)を残して埋め立てられ、町人地として払い下げがおこなわれました。

e0158128_16371464.jpg

外堀の外にある、町屋街路の跡です。
いわゆる城下町ですね。
調査によると、何度も火災に遭いながらも再建し、町屋を営み続けていた様子が明らかになったそうです。
その一軒一軒の町屋の区画は、何度も何度も同じ区画のまま踏襲されていることがわかったそうで、その礎石も、ほとんど同じ場所に敷かれていたことが明らかになったそうです。

e0158128_16373847.jpg

写真は、街路を掘った断面です。
何層にもなっているのが、その時代時代の道の跡だそうで、グレーの部分が地表、茶色の部分が埋められた土だそうです。
焼けては埋めて道を造り、また焼けては埋めて道を造る、そうした250年の繰り返しの歴史の跡が、この地層だそうです。
すごいですね。

e0158128_16375063.jpg

出土品も数多く展示されていました。

e0158128_16393641.jpg

明治元年(1868年)5月、この場所に兵庫県庁が置かれ、初代知事にのちの初代内閣総理大臣・伊藤博文が赴任します。
初代兵庫県知事が伊藤博文ということも、知らない人が多いですよね。
しかし、わずか4ヶ月で県庁は現在の中央区に移転。
その後、明治6年(1873年)までは外郭となっていた土塁が残っていたようですが、市街地発展のため取り除かれ、翌年には大規模な兵庫港改修工事が始まり、兵庫新川運河の開削によって、兵庫城はほとんど破壊されてしまいます。
今となっては、なんで史跡として残さなかったのかと思ってしまいますが、城跡を史跡とみなすようになったのは近年のことで、明治新政府の発足当時は、城跡は無用の長物でしかありませんでした。

e0158128_16421576.jpg

兵庫城が水没した兵庫新川運河です。
上の写真左側に少し写っているのが、今回の発掘現場ですね。
下の写真は、運河の東側から西側の発掘現場に向かって撮影したものです。
この運河が出来たことによって、船を風や波から守る避難泊地として大いに活躍し、それまで頻繁にあった海難事故激減したそうです。
当時、神戸港発展のためには、不可欠な工事だったということですね。
兵庫城が運河の底に消滅したのも、やむを得ないことだったのでしょう。

e0158128_16454334.jpg

現在、その運河西側の遊歩道に、「兵庫城跡、最初の兵庫県庁の地」と刻まれた碑が立っています。

e0158128_16494174.jpg

e0158128_1650129.jpg

運河西側から発掘現場を望む場所に、城跡を見守るかのように無数のかもめが整然と並んでとまっていました。
あまりにも印象的だったので、思わすシャッターを切りました。

e0158128_16501524.jpg

e0158128_16502617.jpg

まるで、発掘調査を見守るかのようですね。

こののち、発掘調査は終了して、当初の予定どおりイオンのショッピング施設が建設されます。
イオンモール側にしてみれば、金を出して神戸市から土地を買ったにもかかわらず、この発見のおかげで工期が延期になり、迷惑千万な話だったと思いますが、われわれ歴史ファンの無責任な意見としては、これほど立派な遺跡が発掘されたのに、調査が終われば破壊というのは、なんともやりきれない思いです。
これまで謎だった兵庫城は、地元神戸市民ですら、その存在自体を知らない人のほうが多かったと思います。
今回の発見は、学術的価値だけでなく、神戸市民、兵庫県民の宝でもあると思います。
この歴史的遺産が、こののち完全に破壊され、もう二度とその姿を表すことはありません。
残念でならないですね。
もう決まったことでしょうから、今更わたしがここで訴えても、どうなるものでもないでしょうが、なんとか遺跡を残してほしいと思っているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
明治の運河開削はやむを得ななかったのかもしれませんが、平成のショッピングモール建設は、400年前の歴史的遺産を破壊してまで建てなければならないものでしょうか?
いったん神戸市がイオンモールに売ったものを、ふたたび買い戻すなどといったことがあり得ないことはわかっています。
ですが、400年前の先人たちからのメッセージを、どうにか保存する手立てはないものかと、素人ながら思う次第です。
壊してしまったら、もう二度と元へは戻せないですからね。


二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-02-06 16:54 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

昨日のつづきです。

神戸は幕末になってから開かれた港町と思われている人が多いですが、実はそうではなく、この兵庫城のあった兵庫津は、奈良時代より1300年の歴史があります。
古くは「大輪田の泊」と呼ばれ、平安時代には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名ですね。
この近くには、清盛廟所や史跡も数多く存在します(下記参照)。 
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3
e0158128_165056.jpg

その後、応仁の乱で壊滅的に破壊された兵庫津は、一時歴史のなかから姿を消しますが、恒興がこの兵庫城を築いたことによって、ふたたび都市として機能しはじめます。
恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封となりますが、その後、豊臣秀吉の時代になると、兵庫城下は豊臣家の直轄地となり、片桐且元が代官として入城します。

e0158128_16502014.jpg

江戸時代に入ると兵庫津一帯は尼崎藩領になり、兵庫城は廃城、兵庫陣屋(奉行所)となります。
その後、港町や西国街道の宿場町として栄え、江戸時代中期には、人口2万人を数えるほどのにぎわいをみせたそうです。
このころの元禄9年(1696年)に作成された『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』には、兵庫のまちの様子が克明に描かれており、兵庫津遺跡を調査するうえで貴重な史料となっています。

e0158128_16404055.jpg

しかし、今回の発掘調査によって、堀の形状が絵図のものとは異なることが判明したそうです。
おそらく、江戸時代中期頃に、それまであった堀の一部を埋め戻したり、新たに堀を開削するという土木工事が行われ、堀の形状を変えていたのだろうと考えられます。

e0158128_16405182.jpg

外堀と内堀の間には、二の丸が広がり、内堀の内側に本丸がある城郭だったことが明らかになりました。
上の図でもわかるように、大手道から幅約7m、長さ約16m土橋を渡り、城内に入ります。
この日、二の丸には入れましたが、本丸には入れてもらえませんでした。
本丸に天守のような建物があったかどうかは、史料がなくわからないそうです。

e0158128_16432066.jpg

直角に折れ曲がった石垣は、内堀の外側です。
角には、ここにも墓石が使用されていました。

e0158128_16454493.jpg

「悪水抜溝」の跡です。
「悪水」とは、今で言う下水のようなもので、「悪水抜溝」とは、下水道のことだと思います。

e0158128_16542858.jpg

今回詳らかになった城郭の構造は、安土城から大坂城への過渡的な様相を示しているそうです。

またまた長くなっちゃったので、もう一回続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-02-05 17:01 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1

先日、発掘調査中の兵庫城跡の一般公開に行ってきました。

e0158128_21543523.jpg

これまで兵庫城は、おおまかな位置は想定されていましたが、古文書などの史料が残っていなかったため、詳しいことはわかっていませんでした。
この地は神戸中央卸売市場の跡地で、2009年に老朽化のため市場が移転したあと、神戸市から土地を買い受けたイオンモールが建設される予定でした(2012年には、一時的に大河ドラマの広報事業で、平清盛歴史館が建てられていた場所です)。
イオンモールの建設に入った2012年、同地から石垣の一部が見つかったため、イオンモールの協力もあって工事を延期し、発掘調査にあたってきたそうです。
その調査もこの2月で終わりだそうで、今回が最後の一般公開だと聞き、寒空のなか寸暇を惜しんで行ってきました。

e0158128_2204210.jpg

上の画像がグーグルアースの画像で、下の画像が元禄時代に描かれた『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』、そのクリーム色で塗られた部分が、今回の発掘現場です。
今では、兵庫新川運河で半分以上が水没してしまっていることがわかります。

e0158128_2205984.jpg

今回の調査で、かなり詳細に遺構が浮かび上がり、築城当初の構造まではっきりしたそうです。

e0158128_225964.jpg

e0158128_2262581.jpg

兵庫城は、天正9年(1581年)に織田信長の家臣だった池田恒興によって築城されます。
恒興は、以前の当ブログでも紹介しましたが(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~)、信長に対して謀反を起こした荒木村重の籠もる花隈城を攻め落とし、その功により信長から兵庫の地を与えられますが、一部焼け落ちてしまった花隈城には入城せず、取り壊して兵庫城を築きます。
その際には、花熊城を解体した石材を使用したとの記録があります。

e0158128_2291727.jpg

写真は外堀内側の石垣です。
調査によると、内側の石垣は築城当初のもので、外側の石垣は、江戸時代に造られたものだとわかったそうです。
この石垣の中には、おそらく花隈城から移設された残材が含まれているのでしょう。

e0158128_22105677.jpg

こちらは外堀外側の石垣。
よく見ると、お地蔵さんの石が削られて使用されています。

e0158128_22115427.jpg

こちらを見ると、どう見ても天然石とは思えない四角い石があります。
これは、五輪塔の一部だそうで、つまり、墓石だそうです。

e0158128_22142045.jpg

外堀の幅は最も大きな所で18.5mあり、戦国時代の実戦的な城だったことがわかります。
兵庫城は、わずか1年半で建てられたといいますから、相当な突貫工事だったでしょうね。
恒興の次男で、のちに姫路城を今の規模に修築した池田輝政が、この築城にたずさわっています。
のちに城造り名人といわれる輝政ですが、このときは若干16才、おそらく彼の最初の作品が兵庫城だったのではないでしょうか。

長くなったので、明日に続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-02-04 22:21 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~

先日のつづきです。

尼崎城(大物城)を脱出した荒木村重は、嫡子の村次とともに花隈城に逃げ込みます。
花隈城は、花熊、鼻熊とも書かれ、現在の神戸市中央区にあります。
神戸の象徴であるポートタワーの真北あたりです。
この頃、花隈城は有岡城の支城として、荒木一族の荒木元清が城主を務めていました。
築城時期は諸説あるようですが、天正2年(1574年)頃、石山本願寺毛利氏に備えて、織田信長が村重に命じて築かせたといいます。

e0158128_20333889.jpg

現在、花隈城本丸跡には模擬石垣が築かれていますが、往時を類推するものではなく、単なる史跡っぽい演出施設です。
石垣の中は駐車場になっており、たしか1時間400円です(笑)。
村重もビックリでしょうね(笑)。

e0158128_20371110.jpg

石垣の上は公園になっていて、模擬天守台が築かれています。

e0158128_20372665.jpg

花隈城に逃げ込んだ村重でしたが、追撃してきた池田恒興、元助、輝政父子らに攻め込まれ、天正8年(1580年)7月2日に落城します。
その後、その恩賞として恒興に旧荒木領が与えられますが、のちに恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となります。
現在、花隈公園には、「花隈城趾」と書かれた石碑が建っていますが、その筆は、池田恒興の子孫にあたる池田宣政公爵のものだそうです。
この碑は阪神・淡路大震災で倒壊してしまったそうですが、資料に基づき新たに模造されたものだそうです。

e0158128_2039208.jpg

わたしは、この近くに親戚の家があったことから、子供の頃によくこの公園で遊びました。
もう40年以上も前のことですが、その頃は、この城跡公園から南を見ると、模擬石垣より高い建物はほとんどなく、ポートタワーだけがそびえ立っていました。
ところが、いまはご覧のとおり、建物の間からなんとかタワーを探せる状態です。

e0158128_20422262.jpg

史料として残されている花隈城の絵図によると、城は大きく三つの郭に分かれ、現在の花隈公園は、本丸の東南にあたるそうです。
天守は西北隅にあったようで、その地には、現在は福徳寺があります。
その山門脇には、「花隈城天守閣之趾」と刻まれた石碑があります。

e0158128_2045397.jpg

e0158128_2045533.jpg

村重の一連の戦いにおいて、物語などでは花隈城の戦いはほとんど描かれませんよね。
おそらくその理由は、ほとんど勝敗が決まった中での最後の悪あがきといった印象でしかなく、一瞬で片付けられたようなイメージでしかないからでしょう。
ところが、実際には、村重が花隈城に籠っていたのは約半年間で、池田恒興との戦端が開かれてからも、約4ヵ月持ち堪えているんですね。
尼崎城にいたのがわずか3ヵ月ほどだったことを思えば、花隈城は、なかなか堅固な城だったのかもしれません。
この場所で、村重は最後の望みをかけて援軍を待っていたのでしょうが、結局はそれも叶わず、この花隈城が文字どおり「最後の砦」となってしまいます。
まさしく、「兵どもが夢の跡」ですね。

(いまでは、このように高層マンションに見下されています)
e0158128_20495692.jpg

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、これまでになくフィーチャーされた荒木村重。
信長に反旗を翻した先見性のなさや、説得にきた黒田官兵衛を籠城したこと、妻子を見殺しにして逃げ出したことなどから、後世にあまり人気がありません。
しかし、一方で、ルイス・フロイスの著書のなかでは、きわめて穏和で陽気な人物として、たいへん好感を持って記述されている側面があります。
「その1」の稿で紹介した有岡城の惣構という城づくり、まちづくりから見ても、領民を大切にする、心優しい武将だったのかもしれません。
だから、信長の恐怖政治についていけなくなったのかもしれませんね。
そんなことを思い巡らせながら、村重ゆかりの史跡をめぐりました。
この辺で、このシリーズを終わります。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-12-18 20:55 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~

先週の続きです。

織田信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重でしたが、1年近く続いた籠城戦がいよいよ戦況不利と判断すると、あろうことか、わずかな側近のみを連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・荒木村次のいる尼崎城(別名:大物城)に移ってしまいます。
このとき、妻子を有岡城に置き去りにして逃げ出したことが、後世に村重という人物の評価を著しく下げる要因となります。
しかし、近年の研究では、尼崎城に移った村重は、懇意にしていた武将らに援軍を要請する書状を複数送っていたことがわかっており、村重は逃亡したのではなく、援軍を得て立て直しを図り、反撃に転じる機会を狙うためだったのではないか・・・という、村重にとっては汚名返上の説が浮上してきています。
実際は、どうだったのでしょうね。

e0158128_16301491.jpg

現在、尼崎城跡には尼崎市立明城小学校が建っており、その片隅に石碑が建っています。
といっても、現在確認できる尼崎城の遺構は、すべて江戸時代に入ってから、尼崎藩主として入封した戸田氏鉄によって築かれたもので、村重が逃げ込んだ大物城ではありません。

e0158128_1631248.jpg

のちの近世尼崎城は、大物城を取り壊してその上に規模を拡大して築城されたと考えられていましたが、最近の研究では、大物城は近世尼崎城の北東にあったのではないか、とする説が浮上し、現在でも結論を見ていません。
いずれにせよ、尼崎城跡周辺は完全に住宅化されていますので、発掘調査は不可能、伊丹の有岡城のように、現在の地形から当時を読み取ることも難しく、大物城の場所を立証する術はありません。

e0158128_16415123.jpg

小学校の北西には尼崎城址公園があり、外郭の石垣の一部が復元されています。

e0158128_1642443.jpg

尼崎城に逃げ込んだ村重でしたが、すぐに城は包囲され、残された荒木一族は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。
この大虐殺『信長公記』には、次のように記しています。

「尼崎ちかき七松と云ふ所ににて、張付に懸けらるべきに相定め、各(おのおの)引き出だし候。 さすが歴々の上臈(じょうろう)達、衣装美々しき出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、其の母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付に懸け、鉄炮を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓、長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。 是れを見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。
此の外、女の分、三百八十八人。かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分、百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合せて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠め、こみ草をつませられ、焼き殺され候。 風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是れなるべし。 肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。」


632人が処刑されたと伝えられる「七松」は、現在の住所では尼崎城から北西に2キロほど離れたところにあたります。
信長は尼崎城を攻めるにあたって、七松に付城を設けたといいます(そのとき築いたものか、元からあった城なのかは定かではありません)。
現在、その七松城跡(かどうかも定かではありませんが)近くにある七松八幡寺神社に、信長によって処刑された六百二十餘人を弔う慰霊碑が建てられています。

e0158128_16502296.jpg

そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、京都に連行され、大八車に縛り付けられ引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。
村重が有岡城から抜け出し尼崎城に来たのが、逃げ出したのではなく援軍要請のためだったとしても、その浅墓な行動は大きな代償を払う結果となりました。
追い詰められた村重は、またも尼崎城を抜け出し、現在の神戸市中央区にある摂津花隈城に逃げ込みます。

というわけで、次回は花隈城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-12-16 16:55 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』は、いよいよ最終回を待つのみとなりましたが、今年、主役の黒田官兵衛以外で最も注目されたのは、荒木村重だったのではないでしょうか。
いままでの戦国ドラマでの村重といえば、織田信長反旗を翻すところで少し登場するだけでしたが、今回は官兵衛を1年間幽閉する役柄ということで、これまでになくフィーチャーされました。

で、その舞台となった兵庫県に住む私としては、この機を逃す手はないだろうと、先日、寸暇を惜しんで村重ゆかりの地をめぐってきました。
まずは、村重の居城にして官兵衛を1年間幽閉した有岡城跡です。

e0158128_2118427.jpg

有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城で、もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていました。
しかし、天正2年(1574年)11月、信長から摂津国主に任じられた村重は、伊丹氏を追い落として伊丹城に入城。
城の名を有岡城と改めて、大改造をおこないました。

e0158128_21211992.jpg

現在は、城郭などは残っておらず、発掘調査された主郭部のみが史跡公園として残されているだけです。

e0158128_21223540.jpg

発掘、復元された石垣です。

e0158128_21273747.jpg

土塁跡です。

e0158128_21275037.jpg

井戸跡です。

e0158128_2129127.jpg

村重と、その妻・だしの歌碑ですね。
「霜かれに 残りて我は 八重むくら なにわのうらの そこのみつくに」 あらきたし
「思いきや あまのかけ橋 ふみならし なにわの花も 夢ならむとは」 荒木村重


e0158128_21314468.jpg

村重が築いた有岡城は、城だけでなく侍町と町屋地区全域を巨大な堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城だったそうです。
その跡が400年以上経った今でも地形として残っており、数メートルの段差が繋がっています。
現在では、最古の惣構の遺構として、国の史跡に指定されています。

e0158128_21315925.jpg

天正6年(1578年)秋、村重は織田信長に反旗を翻し、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末、村重は嫡男の荒木村次のいる尼崎城に逃れ、その後、主を失った有岡城は侍町を焼き払われて陥落しました。

次回は、その尼崎城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-12-11 21:38 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の讃岐高松城を訪ねて ~後編~

昨日の続きです。

生駒氏が転封になったあと、讃岐国は一時、隣国伊予国の西条藩主・一柳直重、大洲藩主・加藤泰興、今治藩主・松平定房により分割統治されますが、寛永18年(1641年)に西讃地域に山崎家治が入って丸亀藩ができると、翌19年(1642年)には水戸黄門様で知られる水戸城主・徳川光圀の兄・松平頼重が東讃地域に入り、高松藩12万石の藩祖となります。
入封した頼重は、すぐに城の拡張工事にとりかかり、光圀の子で養子となっていた2代藩主・松平頼常の代まで工事は続いたそうです。

e0158128_225473.jpg

写真は重要文化財に指定されている艮櫓(うしとらやぐら)
もともとは東の丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前になったそうです。
記録によれば、延宝5年(1677年)に完成されたようで、2代藩主・頼常の時代ですね。

e0158128_2274263.jpg

艮櫓の横にある旭門を出ると、濠に旭橋が架かっているのですが、写真で見てもわかるように、濠に対して斜めに架かっています。
これは、横矢が掛かりやすくしているのだとか。

e0158128_221168.jpg

写真は向かって左から月見櫓(つきみやぐら)・水手御門(みずてごもん)・渡櫓(わたりやぐら)です。
これらもすべて重要文化財指定です。
下の写真は正面から撮影。

e0158128_2211241.jpg

月見櫓は北之丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓だそうで、艮櫓とほぼ同時期に建てられたものと考えられているそうです。
月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられたのだとか。

e0158128_22144449.jpg

水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけたそうです。

e0158128_22152337.jpg

上の写真は城敷地内から見た水手御門。
門のすぐ外が濠になっていて、不思議な景色です。

e0158128_2217590.jpg

渡櫓は、生駒氏築城時からあった海手門を改修して建てられたと考えられているそうです。

e0158128_22182526.jpg

写真は渡櫓の中です。
壁がめずらしい波型壁になっているのですが、どういう意味があるのでしょう?

e0158128_22184356.jpg

石落としです。

e0158128_22211194.jpg

梁の継手の下面に、「延寳四年卯二月十日井上氏□□」という墨書が確認でしかます。
340年前の落書きですね。

e0158128_22212569.jpg

こちらは月見櫓の内部。
急な階段で3階まで上れます。

e0158128_22252236.jpg

上からの景色です。

e0158128_22253223.jpg

こちらは北側の景色。
海がすぐそこにあるのがおわかりいただけるかと思います。

e0158128_22254866.jpg

瓦の先には言うまでもなく「葵の御紋」です。

e0158128_2226178.jpg

向こうに写っているのは、藩の政庁および藩主の住居として使われていた披雲閣(ひうんかく)です。
明治5年(1872年)に老朽化のため解体されましたが、大正6年(1917年)に建てなおされて現在に至るそうです。
かつては昭和天皇・皇后両陛下も2度宿泊されたそうです。

e0158128_22261896.jpg

その後、高松松平氏は11代続き、幕末まで西国大名の監視と瀬戸内海の要としての役目を担います。
しかし、幕末には宗家である水戸藩が尊皇に傾く一方、11代藩主・松平頼聰の正室が井伊直弼の娘という立場から、尊皇・佐幕の板挟みで苦しい立場に立たされます。
結局、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に与したため朝敵とされ、やがて高松城は無血開城され、高松松平氏は終焉を迎えます。

e0158128_2229474.jpg

とにかくこの日は1日中雨で、片手に傘、片手にカメラでたいへんでした。
ハッキリ言ってどう考えても城見物などできる状態ではなかったのですが、せっかく高松に来て、しかも城の隣の施設にいて、見物に行かない手はないだろうと、無理やり強行した次第です。
まあ、それでも行ってよかったですけどね。
というわけで、自己満足の讃岐高松城見物備忘録は、このへんで終わりにします。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-11-14 19:00 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の讃岐高松城を訪ねて ~前編~

先日、香川県は高松市に出張の折、仕事の合間を縫って雨のなか高松城跡を訪れました。
高松城というと、豊臣秀吉の中国征伐で水攻めされた高松城を思い出しがちですが、あちらは備中高松城で、現在の岡山県に位置します。
こちらは四国の讃岐高松城
瀬戸内海を挟んでちょうど向かい合わせるような場所に同じ名前の城というのも、ややこしいですね。
ただ、備中高松城は江戸時代に入って廃城になっていますから、二つの高松城が同時に存在した期間は短かったようです。

e0158128_19352040.jpg

ここ讃岐高松城を訪れると、潮の香りが漂っています。
というのも、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。
海上から見るとその威容は素晴らしいものだったようで、明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城竜宮のごと」と詠まれたりしています。

e0158128_19373558.jpg

濠が海とつながっているため、潮の干満による水位調整のための水門があります。

e0158128_19394124.jpg

讃岐高松城は、別名、玉藻城ともいいます。
その由来は、万葉集柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を玉藻の浦と呼んでいたからだそうです。

e0158128_20201910.jpg

模型で上空から見るとこんな感じです。
海と濠がつながっていることがわかるでしょうか?

e0158128_19405929.jpg

ここ讃岐高松城は天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国17万3千石を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588年)に築城が開始されました。
その縄張り(設計)を行ったのは、藤堂高虎、黒田官兵衛、細川忠興など諸説あります。
いずれも当時の築城には必ず名前が出てくる面々ですね。
城は約3年かけて完成し、「高松」という地名も、このとき付けられたものだそうです。

e0158128_19425988.jpg

天守台です。
かつては「南蛮造り」と呼ばれる三層四階の天守があったそうですが、明治17年(1884年)に老朽化のため解体されています。
かつてあった天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」だったそうです。
その様子は、解体される以前に写真におさめられているそうです。
高松市では、天守の復元を企画しているそうで、老朽化した石垣の解体・積み直し工事が行われていました。

e0158128_19455137.jpg

写真は復元イメージ図。
たしかに、最下層が天守台より出張っています。
たぶん、この出張ったところに石落しがあったのでしょうが、現代の建築基準法ではあり得ない設計ですね(笑)。

e0158128_20211296.jpg

復元模型で見るとこんな感じです。

e0158128_19482426.jpg

e0158128_19483917.jpg

天守台の上も見学できます。

e0158128_19491793.jpg

天守台と二の丸を結んでいる唯一つの連絡橋、鞘橋です。
この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。
絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。

e0158128_19523868.jpg

現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。

天守台から見下ろした鞘橋です。

e0158128_19533553.jpg

藩祖となった生駒親正は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担しますが、嫡男の生駒一正東軍に与して戦功をあげたため、戦後も所領を安堵されます。
家を守るために父子・兄弟が敵味方に別れる例は、他にもいくつかありますね。
しかし、第4代藩主の生駒高俊の代にお家騒動(生駒騒動)が起き、寛永17年(1640年)に改易され、出羽国矢島藩1万石に転封されてしまいます。
17万石から1万石の降格ですからね。
ほとんど流罪のようなものだったでしょう。

長くなっちゃたので、「後編」に続きます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-11-13 19:58 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」

先週の続きです。
竹田城跡からハチ北高原で宿泊した翌日、「但馬の小京都」と呼ばれる出石のまちを訪れました。
現在は平成の大合併によって豊岡市の一地区となった出石ですが、かつては出石郡出石町として独立していた町で、歴史的に見ても、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全の本拠として、但馬国の中核を担っていた町です。
山名宗全は、「その2」で紹介した竹田城を最初に築城した人物でもありますね。

e0158128_1740135.jpg

まずは、まちを見下ろす出石城の紹介です。
出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)に出石藩2代目藩主・小出吉英によって築城されました。

e0158128_17453581.jpg

山名氏の守護時代は、ここから3kmほど離れたところの此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城します。
その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としますが、その後、山名氏は毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、かつて日本を二分した応仁の乱の一方の総帥だった但馬国山名氏は、ここに滅亡します。

e0158128_1801558.jpg

その後、秀吉の家臣だった前野長康、そして小出吉政が有子山城主を務めますが、徳川の時代に入ると、有子山の麓に建てられた出石城に本拠が移され、有子山城は廃城となります。
竹田城と同じく、平和な時代に入ると山城は不便ですからね。
このとき、城下町も整備されたそうです。

e0158128_1875998.jpg

その後、徳川幕府によって制定された一国一城令により、但馬国唯一の城郭となります。

e0158128_1874133.jpg

やがて9代続いた小出氏は無嗣改易となり、その後、出石藩主は松平忠周から仙石政明へと引き継がれ、以後、廃藩置県まで仙石氏7代の居城となります。

e0158128_1884375.jpg

明治に入って廃城令により出石城は取り壊されますが、石垣はそのまま残されており、昭和43年には本丸跡に東西の隅櫓が、平成6年には登城門・登城橋が復元されます。

e0158128_18122086.jpg

城跡最上段の本丸のさらに一段高い場所には、有子山稲荷神社があり、そこへ向かう参道には、朱色の鳥居37基も並び、157段の石段があります。

e0158128_18124313.jpg

京都の伏見稲荷大社みたいで、神秘的な空間を演出していました。

e0158128_18155139.jpg

さらに石段を登ると、有子山城跡へ向かう登山口がありました。
しかし、この日は天気が悪かったことと時間がなかったこともあって、ここで断念。
また今度、機会を作って山頂の城跡まで足を伸ばしてみたいと思います。

続いて「その4」では、出石の城下町を逍遥します。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-08-29 18:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」

但馬といえば、いま最も人気のスポットは、何と言っても竹田城跡ですよね。
いつの頃からか「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと呼ばれて注目されはじめ、昨年はなんと来場者が50万人を突破したとか。
10年前は年間1万人ほどだったそうですから、ブームというのは恐ろしいものですね。
で、そういうわたしは、同じ兵庫県民でありながらまだ行ったことがなかったのですが、今回せっかく但馬まで来たので、ブームに乗っかることにしました。
ところが、この日は同じ兵庫県内で冠水被害が出るほどの大雨
寸前までどうしようか迷ったのですが、雨の場合の予定をまったく立てていなかったので、とにかく行ってみることに・・・。

e0158128_0215638.jpg

JR竹田駅と竹田城跡を結ぶシャトルバス「天空バス」です。
以前はマイカーで山頂近くまで登れたのですが、いまは交通費規制がかかって中腹まで。
このバスを利用すれば、歩く距離は最も短くてすみます。
といっても、この日は大雨、そのちょっとの距離でも歩くのは大変なほどで・・・。

e0158128_0175244.jpg

で、なんとか濡れながら城跡に辿り着いたわけですが、景色は濃霧に覆われてほとんど何も見えず、やはりこの天気での登山は無謀だったか・・・とガッカリしていたのですが、山頂についてすぐに雨がやみ、しばらくすると霧が晴れはじめて・・・。

e0158128_0191469.jpg

ついさっきまで数メートル先が霧で見えなかったのに、たった数分で外界まで見渡せるほどに回復しました。
ほとんど奇跡でしたね。

e0158128_0214617.jpg

標高約350mの山頂に築かれた竹田城は、室町時代の嘉吉3年(1443年)に但馬の守護大名で応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられ、以後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めました。
その間、但馬の要所であるがゆえ、たびたび標的となり戦火の舞台となりますが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻めにおいて、秀吉の弟・羽柴秀長が陥落させて城主に納まります。

e0158128_0232622.jpg

このときの秀吉軍の但馬攻略の目的は、ひとつには中国の毛利氏に帰服する但馬諸将の掌握、そしてもうひとつは、竹田城主の管轄する生野銀山の確保だったと言われています。
この生野銀山から採れる豊富なが、のちの豊臣政権の財政を潤すことになります。
このとき銀山確保を最初に秀吉に進言したのは、ほかならぬ黒田官兵衛だったとか。
さもありなんですね。

e0158128_024583.jpg

竹田城の石垣は、先日別稿で紹介した洲本城と同じ穴太積みで(参照:天空の城・洲本城 探訪記 その1)、出角部分は算木積みが用いられています。
穴太積みとは、大小の自然石を積み上げたもので、算木積みとは、石垣の出角部分において、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなるそうです。
現在残っている豪壮な石垣は、最期の城主となった赤松広秀が整備したものだと言われています。
その後、江戸時代に入って竹田城は廃城
平和な時代に入ると、城はの役目から政庁の役目へと代わり、そうなると、山城は不便ですからね。

e0158128_0253214.jpg

雲海です・・・・というのはウソで、ただの霧です(笑)。
でも、見ようによっては雲海に見えなくもなかったですよ。
雲海も霧も、どちらも水蒸気には違いなく、要は見る側の意識の持ちようで、これも自然の美だと思えば、幻想的な光景なわけで・・・。
無理がありますかね(笑)。

e0158128_0265694.jpg

夏草や兵どもが夢の跡・・・松尾芭蕉ですね。

e0158128_0293969.jpg

見学通路には黒いラバーが敷き詰められていました。
昨年、来場者が増えすぎてケガ人まで出たという報道がありましたが、滑り止めのための配慮でしょうか?
あるいは、来場者が増えすぎて、石垣の上の地表にあったが踏みつけられ、生えなくなってしまったと聞きますが、そのため、草の根で守られていた地表の土がむき出しになり、そのせいで水を多く含んだ土が膨張し、石垣が崩落の危機にさらされているとか。
その保護のための黒ラバーでしょうか?
世界遺産になった観光地もそうですが、ブームになるのも考えものですね。
かくいうわたしも、400年の歴史を踏み荒らしに来たひとりなんですが・・・。

e0158128_0274517.jpg

しばらくしたら、また霧が濃くなってきました。
バスのりばに戻ると、また激しい雨が。
ほんの30分ほどでしたが、なんとも絶妙のタイミングだったようです。
ラッキーでした。
でも、もう一回、今度は晴れた日に来たいですね。

e0158128_0283673.jpg

そんなこんなで、その3につづく。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2014-08-23 00:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)