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雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」

先週の続きです。
竹田城跡からハチ北高原で宿泊した翌日、「但馬の小京都」と呼ばれる出石のまちを訪れました。
現在は平成の大合併によって豊岡市の一地区となった出石ですが、かつては出石郡出石町として独立していた町で、歴史的に見ても、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全の本拠として、但馬国の中核を担っていた町です。
山名宗全は、「その2」で紹介した竹田城を最初に築城した人物でもありますね。

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まずは、まちを見下ろす出石城の紹介です。
出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)に出石藩2代目藩主・小出吉英によって築城されました。

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山名氏の守護時代は、ここから3kmほど離れたところの此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城します。
その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としますが、その後、山名氏は毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、かつて日本を二分した応仁の乱の一方の総帥だった但馬国山名氏は、ここに滅亡します。

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その後、秀吉の家臣だった前野長康、そして小出吉政が有子山城主を務めますが、徳川の時代に入ると、有子山の麓に建てられた出石城に本拠が移され、有子山城は廃城となります。
竹田城と同じく、平和な時代に入ると山城は不便ですからね。
このとき、城下町も整備されたそうです。

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その後、徳川幕府によって制定された一国一城令により、但馬国唯一の城郭となります。

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やがて9代続いた小出氏は無嗣改易となり、その後、出石藩主は松平忠周から仙石政明へと引き継がれ、以後、廃藩置県まで仙石氏7代の居城となります。

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明治に入って廃城令により出石城は取り壊されますが、石垣はそのまま残されており、昭和43年には本丸跡に東西の隅櫓が、平成6年には登城門・登城橋が復元されます。

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城跡最上段の本丸のさらに一段高い場所には、有子山稲荷神社があり、そこへ向かう参道には、朱色の鳥居37基も並び、157段の石段があります。

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京都の伏見稲荷大社みたいで、神秘的な空間を演出していました。

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さらに石段を登ると、有子山城跡へ向かう登山口がありました。
しかし、この日は天気が悪かったことと時間がなかったこともあって、ここで断念。
また今度、機会を作って山頂の城跡まで足を伸ばしてみたいと思います。

続いて「その4」では、出石の城下町を逍遥します。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-29 18:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」

但馬といえば、いま最も人気のスポットは、何と言っても竹田城跡ですよね。
いつの頃からか「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと呼ばれて注目されはじめ、昨年はなんと来場者が50万人を突破したとか。
10年前は年間1万人ほどだったそうですから、ブームというのは恐ろしいものですね。
で、そういうわたしは、同じ兵庫県民でありながらまだ行ったことがなかったのですが、今回せっかく但馬まで来たので、ブームに乗っかることにしました。
ところが、この日は同じ兵庫県内で冠水被害が出るほどの大雨
寸前までどうしようか迷ったのですが、雨の場合の予定をまったく立てていなかったので、とにかく行ってみることに・・・。

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JR竹田駅と竹田城跡を結ぶシャトルバス「天空バス」です。
以前はマイカーで山頂近くまで登れたのですが、いまは交通費規制がかかって中腹まで。
このバスを利用すれば、歩く距離は最も短くてすみます。
といっても、この日は大雨、そのちょっとの距離でも歩くのは大変なほどで・・・。

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で、なんとか濡れながら城跡に辿り着いたわけですが、景色は濃霧に覆われてほとんど何も見えず、やはりこの天気での登山は無謀だったか・・・とガッカリしていたのですが、山頂についてすぐに雨がやみ、しばらくすると霧が晴れはじめて・・・。

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ついさっきまで数メートル先が霧で見えなかったのに、たった数分で外界まで見渡せるほどに回復しました。
ほとんど奇跡でしたね。

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標高約350mの山頂に築かれた竹田城は、室町時代の嘉吉3年(1443年)に但馬の守護大名で応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられ、以後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めました。
その間、但馬の要所であるがゆえ、たびたび標的となり戦火の舞台となりますが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻めにおいて、秀吉の弟・羽柴秀長が陥落させて城主に納まります。

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このときの秀吉軍の但馬攻略の目的は、ひとつには中国の毛利氏に帰服する但馬諸将の掌握、そしてもうひとつは、竹田城主の管轄する生野銀山の確保だったと言われています。
この生野銀山から採れる豊富なが、のちの豊臣政権の財政を潤すことになります。
このとき銀山確保を最初に秀吉に進言したのは、ほかならぬ黒田官兵衛だったとか。
さもありなんですね。

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竹田城の石垣は、先日別稿で紹介した洲本城と同じ穴太積みで(参照:天空の城・洲本城 探訪記 その1)、出角部分は算木積みが用いられています。
穴太積みとは、大小の自然石を積み上げたもので、算木積みとは、石垣の出角部分において、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなるそうです。
現在残っている豪壮な石垣は、最期の城主となった赤松広秀が整備したものだと言われています。
その後、江戸時代に入って竹田城は廃城
平和な時代に入ると、城はの役目から政庁の役目へと代わり、そうなると、山城は不便ですからね。

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雲海です・・・・というのはウソで、ただの霧です(笑)。
でも、見ようによっては雲海に見えなくもなかったですよ。
雲海も霧も、どちらも水蒸気には違いなく、要は見る側の意識の持ちようで、これも自然の美だと思えば、幻想的な光景なわけで・・・。
無理がありますかね(笑)。

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夏草や兵どもが夢の跡・・・松尾芭蕉ですね。

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見学通路には黒いラバーが敷き詰められていました。
昨年、来場者が増えすぎてケガ人まで出たという報道がありましたが、滑り止めのための配慮でしょうか?
あるいは、来場者が増えすぎて、石垣の上の地表にあったが踏みつけられ、生えなくなってしまったと聞きますが、そのため、草の根で守られていた地表の土がむき出しになり、そのせいで水を多く含んだ土が膨張し、石垣が崩落の危機にさらされているとか。
その保護のための黒ラバーでしょうか?
世界遺産になった観光地もそうですが、ブームになるのも考えものですね。
かくいうわたしも、400年の歴史を踏み荒らしに来たひとりなんですが・・・。

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しばらくしたら、また霧が濃くなってきました。
バスのりばに戻ると、また激しい雨が。
ほんの30分ほどでしたが、なんとも絶妙のタイミングだったようです。
ラッキーでした。
でも、もう一回、今度は晴れた日に来たいですね。

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そんなこんなで、その3につづく。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-23 00:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

昨日のつづきです。
洲本城の最初の城主だった安宅氏は、羽柴秀吉淡路討伐の際に滅ぼされたという話を昨日の稿でしましたが、その際、当時の洲本城主だった安宅清康を討ち取ったのは、今年の大河ドラマの主役・黒田官兵衛だったという説があります。
戦略家として名高い官兵衛ですが、この戦いでは珍しく自ら刀を振るって戦功を上げたといわれ、安宅清康は官兵衛が自ら手をかけた数少ない武将だったと伝えられます。
このとき使用した刀は、のちの「安宅切」と名付けられます。

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ただ、最近の研究では、秀吉の淡路討伐は天正9年(1581年)ではなく、天正10年(1582年)の誤りであったとも言われ、官兵衛は参戦していなかったとする説が浮上してきているようです。
たしかに、有岡城幽閉から救出されて間もない官兵衛が、自ら刀を振って武功をあげたという武勇伝は、少々無理があるようにも思えますね。

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江戸時代に入り、姫路城の城主だった池田輝政の三男・池田忠雄が淡路国の領主になったとき、洲本城は廃城になり、岩屋城由良成山城と拠点を移しますが、大坂夏の陣のあと、阿波国の蜂須賀至鎮が領主となり、その筆頭家老である稲田氏が城代となると、その後、ふたたび拠点を洲本城に戻します。
このときの移転は、「由良引け」と呼ばれるたいそう大規模な移転だったようです。

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このときより、洲本は淡路国の政庁として定められ、明治維新まで稲田氏が城代を務めます。
ただ、平時となった由良引け以降は山頂の城は使用されず、三熊山の麓に新しく築かれた城を居城としたそうです。
だから石垣の傷みが少なく綺麗に保存されているんでしょうね。

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天守からの眺めです。
この日は少しがかかっていたので残念ですが、空気が澄んだ日には、大阪は堺の紀淡海峡から大阪湾を経て神戸までの大パノラマを一望できるそうです。

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昨今、同じ兵庫県内にある竹田城が、「天空の城」として人気ですが、ここもある意味「天空の城」といえます。
あちらが雲海の上に浮かぶ城なら、こちらはまさに本物の海の上に浮かぶ城といったところでしょうか。
メディアの取り上げ方次第では、人気観光スポットになれるのではないかと。
竹田城のように観光客がいっぱいになる前に、一度足を運んでみられてはいかがでしょうか?

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-31 19:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

過日、淡路島洲本市にある洲本城を訪れました。
洲本市は、淡路島の中核を担うまちで、小泉政権時代の「平成の大合併」で淡路市と南あわじ市が誕生するまでは、島内唯一の市だったところです。
淡路島東海岸に面する市の中心部は、大阪湾に流れる洲本川を中心に平野が広がり、古くから栄えてきました。
その市街地の南に位置する三熊山山頂に、まちを見下ろすように建っているのが、洲本城です。

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洲本城は、室町時代末期の大永6年(1526年)に、三好氏の家臣で紀州熊野水軍安宅治興が、この地に築城したことに始まります。
といっても、当時の安宅氏は同じ洲本市内にあった由良城を本拠としており、洲本城は島内8ヶ所に築いた支城のひとつに過ぎず、山頂の砦のようなものだったようです。

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それから約半世紀後の天正9年(1581年)、羽柴(豊臣)秀吉淡路討伐の際、安宅氏はあっけなく討ち滅ぼされて、城は仙石秀久に与えられました。
その後、高松城に転封となった仙石秀久に代わって、賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる脇坂安治が洲本城に入り、本格的な天守を築いたとされています。
脇坂安治は、先日紹介した龍野城の城主である脇坂家の始祖にあたる人物です(参照:播磨の小京都、龍野をたずねて その1「龍野城」)。
洲本城主となった脇坂安治は、淡路水軍を吸収し、24年間ここに在城しました。
その間、何度も城の増改築を実施したとか。

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ここ洲本城の見どころは広大な石垣で、同じ兵庫県内で今話題の竹田城に匹敵するほど状態のいい石垣が現存しています。

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東西800m、南北600mに及ぶ総石垣造りの曲輪は日本最大級とも言われ、400年前の姿をそのまま残す遺構は全国でも貴重な存在だそうです。

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写真は、本丸へと続く大石段
斜面に築かれた階段状の登り石垣は希少で、他には、松山城彦根城にしか現存していないそうです。

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大小の自然石を積む穴太積が特徴です。

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現在の天守は模擬天守で、当時の天守よりはスケールダウンしたものだそうです。
もっとも、この模擬天守が建てられたのは、昭和天皇即位式を記念した昭和3年(1928年)のことで、模擬天守としては日本最古のものだそうです。
模擬といっても、年代を重ねれば、それはそれで価値が出るもので・・・。
プレミアのついたプラモデルのようなものでしょうか。

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長くなりそうなので、後日、その2に続きます。

天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-30 22:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」

2ヵ月ほど前になっちゃいましたが、なんとか1日だけ休めたゴールデンウィークのある日、兵庫県の西南部に位置する龍野を訪れました。
龍野のいまの正式名称は「たつの市」です。
たつの市は、小泉政権時代の市町村合併の際に、龍野市、新宮町、揖保川町、御津町が合併してできた市で、吸収合併のような印象を拭うため、ひらがなに改名したとか。
同じような理由でひらがなの自治体名にした例は、全国にもたくさんあるそうですが、なんとも残念な話ですよね。
いうまでもなく、地名の由来には歴史と風土が刻まれているわけで、ここ龍野に至っては、約1300年前の8世紀はじめに編まれたといわれる『播磨国風土記』にも確認される地名だそうで(同史料の中では「立野」)、そんな、いにしえより続いてきた名称を、それぞれの自治体の譲れない理由があったにせよ、軽々しく変えてしまっていいものだろうか・・・と思いますよね。
まあ、おそらくそんな議論は山ほどし尽くされて、それでもそこしか着地点がなかったんでしょうけどね。
残念な限りです。

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で、その龍野ですが、「播磨の小京都」と呼ばれる脇坂家5万3千石の城下町で、背後には小高い山々が連なり、市内中央を南北に清流・揖保川が流れ、白壁の土蔵や武家屋敷など風情ある家並みがつづく静かなまちです。
歴史的には、山陽道から因幡街道に抜ける交通の要衝の地として、古くから栄えてきました。
寛文12年(1672年)に信州飯田から脇坂安政が移封して以来、明治維新まで200年間、脇坂家の所領として続きました。
脇坂家とは、あの賤ヶ岳の七本槍のひとりとして知られる脇坂安治を始祖とする家ですね。
この日、まず訪れたのは、その脇坂安政が築城したという龍野城です。

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写真は隅櫓ですが、石垣のみが当時のもので、建物は昭和の再建です。
背後に見えるのは鶏籠山
もともとは、明応8年(1499年)に赤松村秀が鶏籠山の山頂に城郭を築いたのが龍野城(鶏籠山城)の始まりでしたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉によって開城され、それから約100年後に脇坂家が城主となったとき、山頂の城郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になったそうです。
今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』でも、前半たびたび龍野赤松氏が出てきましたが、あそこに出てきた龍野城は、山頂の城のほうということになりますね。

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本丸正面に復興整備された埋門です。

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本丸御殿です。
こちらも、昭和54年(1979年)に再建されたものです。

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隅櫓の下から撮影しました。

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向こうに見えるのは隣接する龍野小学校のプールですが、その入口はというと、

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龍野小学校水練場となってました(笑)。
景観を損ねないための配慮、頭が下がります。

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この日はあいにくの雨だったのですが、雨の城下町の風情もまた、おつなものでした。
まち全体が景観を大切にしていることがうかがえるつくりで、逍遥するにはいいところですね。
そんなわけで、少しばかり備忘録にお付き合いください。

後日その2につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-09 19:56 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

年の瀬の阿波国紀行備忘録 その2 「徳島城跡」

徳島城址は、徳島中央公園として市内中心部にあります。
天正13(1585)年、豊臣秀吉四国征伐で勲功をあげた蜂須賀正勝(小六)が、阿波国19万石を与えられますが、入国してまもなく、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、その家政が徳島城を築城したました。
その後、蜂須賀家は家政の嗣子・至鎮大阪の陣での功績により淡路国も加増され、以後、江戸時代を通じて14代に渡ってここ徳島城に居城し、阿波国・淡路国の両国26万石を支配します。

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上の写真は大手門跡です。

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そしてこちらは南麓曲輪
石垣隅に隅櫓、橋向かいの石垣上に旗櫓があったそうです。

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上の写真は鷲の門
この鷲の門は、城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、説明看板によると、その造りは脇戸付きの薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられているそうです。
当時の門は、昭和20(1945)年の空襲によって焼失してしまったそうで、現在のものは、平成元(1989)年に復元されたものだそうです。

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徳島城は、標高61mの城山に建つ平山城でしたが、明治6(1873)年のた廃城令によって存城処分となり、その後、明治8(1875)年に建築物のすべてが取り壊され、いまでは石垣のみが当時の面影を偲ばせています。

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徳島城の石垣は、「阿波の青石」として有名な緑色片岩を用いた「緑色の石垣」として知られているそうです。
偏平に割れ、城郭のような 大規模な石垣を築くのに適しているとは言えないものだそうです。

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天守跡です・・・といっても、何もないただの原っぱですけどね(笑)。

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城山から城下を見渡した写真です。
標高たった61mとはいえ、山頂まで登るのは、おじさんには結構な運動でした。

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城山の麓の御殿跡には、蜂須賀家政の銅像が建てられていました。
なぜ家祖の小六(正勝)ではなく家政なのかと思ったのですが、考えてみれば徳島城を築城したのは家政であって、家祖は正勝でも藩祖は家政なんですね。

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でも、説明看板によると、戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の小六の銅像が建っていたそうですが、戦時中に供出されてしまったそうです。
で、昭和40(1965)年に、この家政像に生まれ変わったそうで・・・。
だったら、なんで小六にしなかったんでしょうね。

さて、だらだらと思いついたまま綴ってきましたが、そんなわけで、そろそろ出張ついでの徳島城址レポートを終わります。
このあと徳島ラーメンを食べて、仕事に戻ったわたしでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-23 22:56 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

阿波国徳島のクリスマスイブなう!!

スマホからの投稿です。

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ただいま、出張で徳島市に来ています。
写真は徳島駅ではなく、徳島城址の徳島中央公園内にある駅看板です。
詳しくはまたの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-24 12:41 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

続、雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城。

一ヶ月以上経っちゃいましたが、先日、3日間ほど仕事で和歌山市を訪れていた際、寸暇を惜しんで和歌山城に行ってきました(参照:雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!)。
この日は4月6日で、ちょうどが綺麗な時期だったのですが、残念ながらこの日は朝からガッツリ雨で、前日まで満開だった桜を一気に散らしてしまいました。

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和歌山城のある紀州藩は、徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。
和歌山城と県庁の間の交差点には、吉宗の銅像があります。

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吉宗は、徳川の8代将軍として知られていますが、元々は紀州の2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、兄が相次いで亡くなるなどしたため、5代紀州藩主となります。その後、32歳で将軍に推され、30年近く将軍職を務めます。「享保の改革」を成し遂げた徳川将軍家、中興の祖として、後世に名高い名君ですね。

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「南海の鎮」として徳川御三家の一角をなす和歌山城ですが、元は豊臣秀吉の時代、天正13年(1585年)に羽柴秀長によって築城されました。築城を担当したのは城作りの名人として知られる藤堂高虎で、このとき「和歌山」という名称に改められたんだそうです。

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本丸御殿跡から撮影した天守です。
おそらくここからが最もきれいに撮影出来るポイントかと。
天守は弘化3年(1848年)に落雷によって焼失してしまい、嘉永3年(1850年)に再建された天守は、昭和20年(1945年)の和歌山大空襲で焼失するまで残っていました。

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和歌山城は、虎伏山の山頂部に天守曲輪本丸が並列された縄張りが特徴で、天守曲輪は、南東隅に天守、北東には玄関が付けられた小天守、北西隅には乾櫓、南西隅には、二の門櫓を多聞櫓で連結した姫路城伊予松山城と同様の連立式天守群です。

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天守からは市街地を360°見下ろすことができ、大パノラマが広がります。

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西の丸庭園(紅葉渓庭園)です。
その名のとおり、紅葉の季節に来ればきっと綺麗なんでしょうね。
この日はあいにくの雨で、片手に傘をさしながら片手で撮影していたので、ゆっくり庭園を散策する余裕はありませんでした。

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向こうに見えるのは、藩主の生活の場である二の丸と、紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた御橋廊下の復元です。

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実際になかを通ることができます。

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上の写真が坂の下から、下の写真は上からの撮影です。
上からの写真を見ると、床板にがついているのがわかるでしょうか?
おそらくこれは、急勾配の坂の廊下で滑り落ちないように工夫されているのでしょうね。
階段とは逆の段になっているので、歩くと角が足の裏を刺激して結構痛かった。
足つぼマッサージに最適です(笑)。

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外から撮影した御橋廊下です。
結構な傾斜でしょう?

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現存として残る貴重な岡山門です。↑↑↑
国の重要文化財に指定されています。

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本当はもっとゆっくり取材したかったんですが、仕事の合間だったことと、とにかく雨が激しかったこともあって、滞在は約1時間。
足早に歩き回っただけでした。
今度はもっと天気のいい日に、仕事ぬきで訪れたいと思います。
といっても、和歌山市って、神戸に住む私にとって同じ関西でありながら、なかなか縁がない場所なんですよね。
神戸から車で1時間ほどですから、来ようと思えばいつでも来れるんですが、いままで仕事以外できたことはなく・・・。
旅行となると、もっと南へ足を伸ばして、白浜とか那智勝浦とかまで行っちゃいますもんね。
和歌山市内に遊びにくるという発想になかなかならない(和歌山市に住む方々スミマセン)。
近くて遠い和歌山市です。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-18 01:50 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

出張ついでの尾張国紀行 その1 ~名古屋城~

もう1ヶ月ほど経っちゃったんですが、先月、名古屋出張の折、仕事の合間を縫って名古屋城に行ってきました(参照:尾張名古屋城なう!)。
今更ではありますが、そのときの旅記録です。

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名古屋城のある尾張藩は、周知のとおり徳川御三家のひとつで、慶長17年(1612年)、東海道の要所として、徳川家康が九男・徳川義直の居城として築城したものです。
以降は尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されました。
名古屋城は、姫路城熊本城と並んで日本三名城のひとつとして数えられます。

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名古屋城は桜の名所でもあるそうですね。
ここを訪れたのは3月10日、残念ながら桜にはまだ少し早かったのですが、桜に似た花が咲いていたので撮影しました。
花には詳しくないので名前はわかりません。
(この日はあいにくの天気だったので、残念ながら暗い写真ばかりです)

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名古屋城が築城される以前にあった那古野城(なごやじょう)は、織田信長が生まれた城だといわれています。
那古野城は信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため廃城になります。
その跡地に家康が名古屋城を建てました。

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名古屋城の築城は徳川家康から命じられた20名の助役大名たちによって工事が進められました。
いわいる「天下普請」による建築土木工事の一貫です。
なかでも、最も高度な技術を要した天守台石垣は、加藤清正の担当だったそうです。
清正は城づくりの名人として有名ですよね。
天守台石垣は、上部で外側に反り出した「扇勾配」の技法が採り入れられ、別名「清正流三日月石垣」とも言われているそうです。
この技法は、石垣を内側に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるため・・・と、現地案内看板に書いてありました(笑)。
一級建築士さながらの構造計算がなされているんですね。

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加藤清正の銅像です。
築城に関わったのは清正だけではないんですけどね。
やっぱ、知名度と後世の人気度の違いでしょうか・・・。

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あと、名古屋城といえば思い出すのが、金の鯱ですね。
名古屋城は別名「金鯱城」「金城」とも呼ばれ、大天守に上げられた金鯱(きんこ)は、名古屋の街の象徴的存在といえます。
現在のものは復元ですが、400年前の築城当初の金鯱は、215キログラム純金が使用されたといわれているそうです。
今の時価に換算すると、いくらになるのでしょう?・・・・見当もつきません。
(実物大だそうです↓↓↓)

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もっとゆっくり見たかったのですが、仕事の合間を縫って訪れただけに、小一時間ほど足早に見て回っただけでした。
このあと、清洲城にも行ったので、また後日起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-11 22:28 | 愛知の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!

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スマホからの投稿です。
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一昨日より仕事で紀州和歌山市に来ています。
昨日、一昨日の二日間は終日仕事だったのですが、最終日の今日は少しだけ時間が空いたので、和歌山城に来ました。
ただ、残念ながらあいにくの057.gif007.gif
昨日まではめっちゃいい天気だったんですけどねぇ…。
今日の雨で、がおおかた散っちゃうんじゃないでしょうか。

和歌山城のある紀州藩は徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。

スマホからなので、長文はしんどいです。
詳しくはまた後日の起稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-06 15:31 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)