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続、雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城。

一ヶ月以上経っちゃいましたが、先日、3日間ほど仕事で和歌山市を訪れていた際、寸暇を惜しんで和歌山城に行ってきました(参照:雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!)。
この日は4月6日で、ちょうどが綺麗な時期だったのですが、残念ながらこの日は朝からガッツリ雨で、前日まで満開だった桜を一気に散らしてしまいました。

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和歌山城のある紀州藩は、徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。
和歌山城と県庁の間の交差点には、吉宗の銅像があります。

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吉宗は、徳川の8代将軍として知られていますが、元々は紀州の2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、兄が相次いで亡くなるなどしたため、5代紀州藩主となります。その後、32歳で将軍に推され、30年近く将軍職を務めます。「享保の改革」を成し遂げた徳川将軍家、中興の祖として、後世に名高い名君ですね。

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「南海の鎮」として徳川御三家の一角をなす和歌山城ですが、元は豊臣秀吉の時代、天正13年(1585年)に羽柴秀長によって築城されました。築城を担当したのは城作りの名人として知られる藤堂高虎で、このとき「和歌山」という名称に改められたんだそうです。

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本丸御殿跡から撮影した天守です。
おそらくここからが最もきれいに撮影出来るポイントかと。
天守は弘化3年(1848年)に落雷によって焼失してしまい、嘉永3年(1850年)に再建された天守は、昭和20年(1945年)の和歌山大空襲で焼失するまで残っていました。

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和歌山城は、虎伏山の山頂部に天守曲輪本丸が並列された縄張りが特徴で、天守曲輪は、南東隅に天守、北東には玄関が付けられた小天守、北西隅には乾櫓、南西隅には、二の門櫓を多聞櫓で連結した姫路城伊予松山城と同様の連立式天守群です。

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天守からは市街地を360°見下ろすことができ、大パノラマが広がります。

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西の丸庭園(紅葉渓庭園)です。
その名のとおり、紅葉の季節に来ればきっと綺麗なんでしょうね。
この日はあいにくの雨で、片手に傘をさしながら片手で撮影していたので、ゆっくり庭園を散策する余裕はありませんでした。

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向こうに見えるのは、藩主の生活の場である二の丸と、紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた御橋廊下の復元です。

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実際になかを通ることができます。

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上の写真が坂の下から、下の写真は上からの撮影です。
上からの写真を見ると、床板にがついているのがわかるでしょうか?
おそらくこれは、急勾配の坂の廊下で滑り落ちないように工夫されているのでしょうね。
階段とは逆の段になっているので、歩くと角が足の裏を刺激して結構痛かった。
足つぼマッサージに最適です(笑)。

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外から撮影した御橋廊下です。
結構な傾斜でしょう?

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現存として残る貴重な岡山門です。↑↑↑
国の重要文化財に指定されています。

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本当はもっとゆっくり取材したかったんですが、仕事の合間だったことと、とにかく雨が激しかったこともあって、滞在は約1時間。
足早に歩き回っただけでした。
今度はもっと天気のいい日に、仕事ぬきで訪れたいと思います。
といっても、和歌山市って、神戸に住む私にとって同じ関西でありながら、なかなか縁がない場所なんですよね。
神戸から車で1時間ほどですから、来ようと思えばいつでも来れるんですが、いままで仕事以外できたことはなく・・・。
旅行となると、もっと南へ足を伸ばして、白浜とか那智勝浦とかまで行っちゃいますもんね。
和歌山市内に遊びにくるという発想になかなかならない(和歌山市に住む方々スミマセン)。
近くて遠い和歌山市です。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-18 01:50 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

出張ついでの尾張国紀行 その1 ~名古屋城~

もう1ヶ月ほど経っちゃったんですが、先月、名古屋出張の折、仕事の合間を縫って名古屋城に行ってきました(参照:尾張名古屋城なう!)。
今更ではありますが、そのときの旅記録です。

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名古屋城のある尾張藩は、周知のとおり徳川御三家のひとつで、慶長17年(1612年)、東海道の要所として、徳川家康が九男・徳川義直の居城として築城したものです。
以降は尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されました。
名古屋城は、姫路城熊本城と並んで日本三名城のひとつとして数えられます。

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名古屋城は桜の名所でもあるそうですね。
ここを訪れたのは3月10日、残念ながら桜にはまだ少し早かったのですが、桜に似た花が咲いていたので撮影しました。
花には詳しくないので名前はわかりません。
(この日はあいにくの天気だったので、残念ながら暗い写真ばかりです)

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名古屋城が築城される以前にあった那古野城(なごやじょう)は、織田信長が生まれた城だといわれています。
那古野城は信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため廃城になります。
その跡地に家康が名古屋城を建てました。

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名古屋城の築城は徳川家康から命じられた20名の助役大名たちによって工事が進められました。
いわいる「天下普請」による建築土木工事の一貫です。
なかでも、最も高度な技術を要した天守台石垣は、加藤清正の担当だったそうです。
清正は城づくりの名人として有名ですよね。
天守台石垣は、上部で外側に反り出した「扇勾配」の技法が採り入れられ、別名「清正流三日月石垣」とも言われているそうです。
この技法は、石垣を内側に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるため・・・と、現地案内看板に書いてありました(笑)。
一級建築士さながらの構造計算がなされているんですね。

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加藤清正の銅像です。
築城に関わったのは清正だけではないんですけどね。
やっぱ、知名度と後世の人気度の違いでしょうか・・・。

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あと、名古屋城といえば思い出すのが、金の鯱ですね。
名古屋城は別名「金鯱城」「金城」とも呼ばれ、大天守に上げられた金鯱(きんこ)は、名古屋の街の象徴的存在といえます。
現在のものは復元ですが、400年前の築城当初の金鯱は、215キログラム純金が使用されたといわれているそうです。
今の時価に換算すると、いくらになるのでしょう?・・・・見当もつきません。
(実物大だそうです↓↓↓)

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もっとゆっくり見たかったのですが、仕事の合間を縫って訪れただけに、小一時間ほど足早に見て回っただけでした。
このあと、清洲城にも行ったので、また後日起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-11 22:28 | 愛知の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!

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スマホからの投稿です。
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一昨日より仕事で紀州和歌山市に来ています。
昨日、一昨日の二日間は終日仕事だったのですが、最終日の今日は少しだけ時間が空いたので、和歌山城に来ました。
ただ、残念ながらあいにくの057.gif007.gif
昨日まではめっちゃいい天気だったんですけどねぇ…。
今日の雨で、がおおかた散っちゃうんじゃないでしょうか。

和歌山城のある紀州藩は徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。

スマホからなので、長文はしんどいです。
詳しくはまた後日の起稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-06 15:31 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

尾張名古屋城なう!

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スマホからの投稿です。
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今日は仕事で早朝から名古屋に来ています。
仕事の合間に少しだけ時間が空いたので、名古屋城を訪れました。
出張先に女あり…とはよく聞きますが、色恋ごとに縁の薄い私は、出張先にお城あり…です(笑)。
ケータイからでは長文は無理なので、詳しくはまた後日。

ところで、今日の名古屋市街は名古屋ウィメンズマラソンが開催されており、カラフルなユニホームで走る女性ランナーや沿道の応援客で賑わっていました。
写真は名古屋城の外堀沿いの道です。
   ↓↓↓
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優勝したのは、昨年のロンドン五輪で悔しい思いをした木崎良子選手だったようですね。
そして、アテネ五輪金メダリストの野口みずき選手が3位に入ったとか。
野口選手と言えば、たしかもう30代半ばですよね。
女王復活といったところでしょうか…?
たいしたもんですね。

さてさて、そろそろ仕事に戻ります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-10 13:36 | 愛知の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

仕事ついでの駿河国紀行 その1 ~駿府城跡~

先日、仕事で静岡に行ったのですが(参照:旅ゆけば、駿河の国に茶の香り…なう!)、普段あまり関西を出ることのない私としては、せっかくなので仕事を早めに切り上げて、少しだけ市内中心部を彷徨いてきました。
静岡県は、旧令制国時代いえば、駿河国、遠江国、伊豆国に別れますが、県庁所在地である静岡市は駿河国になります。
駿河といえば、徳川家康の最後の居城・駿府城があった国。
現在では、駿府城跡は県庁公園になっているんですね。

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もともと駿河国は室町時代、今川氏守護職として治めていましたが、9代・今川義元の頃、家康は人質として8歳から10歳の間を駿府で暮らしました。
しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長の手によって討たれると、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568年)、武田信玄によって駿府を追われます。

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その信玄亡き後の武田氏を、家康が天正10年(1582年)に追放し、天正13年(1585年)には駿府城の築城を開始し、浜松城から移り住みました。
しかし、天正18年(1590年)、家康はときの天下人・豊臣秀吉に関東への移封を命じられ、駿府城の城主には豊臣系の中村一氏が配置されます。

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しかししかし、秀吉亡き後の関が原の戦いに勝利した家康は、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、慶長12年(1607年)に三たび駿府に入りました。
この時に城が拡張リニューアル工事され、駿府城は壮大な城として生まれ変わります。
大御所となった家康の居城として、築城に際しては「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な職人や良質の資材が集められたと伝わります。

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家康の死後20年近く経った寛永12年(1635年)の火災により、天守閣など殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されますが天守閣は再建されませんでした。
以後、駿府城に城主はおらず、建物の規模も次第に縮小していくこととなります。

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ちなみに駿府城の火災はそれ以前にも幾度となくあったらしく、家康の生前中にも、リニューアル工事が完成した慶長12年(1607年)からわずか3年の間に、小火も含めると3度も火災に遭ったという記録が残されています。
これにはさすがの家康も辟易していたようで、とくに慶長14年(1609年)の火災では、原因となる火を出した女中が火罪で処刑され、その上司の女中も島流しの刑に処せられています。
たしかに3年間で3度の火災は多すぎですよね。
この辺りが、特に空気が乾燥した地域だとも思えないのですが・・・。

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本丸跡には家康の銅像が建っています。
なかなか凛々しい顔の家康でした(たぬきオヤジではありませんでした)。
左手にとまっているのはです。
家康が鷹狩りマニアだったことは有名ですね。

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よく、縁起のいい夢として「一富士、二鷹、三茄子」と言いますが、これはすべて家康が好きだったものだという説があります。
であれば、本丸から富士山が見えるはず・・・と見渡してみたら、言わずもがなでした。

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ここにあった天守閣は、5層7階で約55m×48mという城郭史上最大の天守閣だったと言いますから、さぞかし美しい眺めだったことでしょう。
いまから400年前、この場所で家康は富士山を眺めながら、鷹を片手に茄子を食していたのでしょうか(笑)。

ちなみに家康の銅像はJR静岡駅前にも建っていて、それがこちらです。
こちらの像は胴長短足でとっつぁん坊やの家康ですが、こっちのほうが本当の家康に近いんじゃないかという気がするのですが、いかがでしょうか?

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他にも近くには、家康の幼年期・竹千代像もありましたし、駅の南側には、大正4年に建てられた久能山東照宮三百年祭の塔が残されていました。
信長、秀吉、家康の戦国三英傑の中では、他の2人に比べてどうしても後世の人気に劣る家康ですが、お膝元であるここ静岡市のまちでは違うようですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-15 15:57 | 静岡の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(0)  

越前北ノ庄なう!

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ケータイからの投稿です。
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ただいま福井県は福井市にいます。
写真は北ノ庄城の復元模型。
北ノ庄城といえば、あの織田信長の妹・お市の方が、2人目の夫・柴田勝家と共に最期を遂げた場所として有名ですね。
勝家は天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」豊臣秀吉に敗れ、妻のお市と共に自害して果てますが、その際、城には火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失してしまったため、いまでは本丸の正確な位置もわかっていません。
写真の模型は本丸の推定位置とされている柴田神社に展示されているもので、この城跡を柴田公園と称して観光スポットになっています。
といっても、今日の私は観光のために福井を訪れたわけではなく、出張で来ているのですが、せっかくなので仕事の合間を縫って足を運びました。
残念ながら夜になっちゃったので、写真じゃわかりにくいですけどね。

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柴田勝家の銅像です。

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いかにも「鬼柴田」と呼ばれた勇猛果敢な戦国武将の面構えですね。

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こちらはお市の方です。
戦国時代一の美女といわれたお市の像は、どこか寂しげな顔をしていました。

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そんなお市を霊を慰める慰霊碑です。

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お市の娘たち、お茶々、お初、お江です。
昨年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で活躍した三姉妹ですね。
夜のバカチョンカメラでの撮影なので、ちょっと不気味な写真になっちゃいました(苦笑)。

今日、私は神戸から車で福井を訪れたのですが、北陸自動車道を走ってみて、あらためて勝家がなぜ秀吉に勝てなかったかがわかったような気がしました。
名神高速から北陸道に入ってすぐのあたりに長浜市がありますが、そこから高速を約1時間北上したところが福井市で、その間ずっとトンネルに次ぐトンネルで、ほとんどが山岳地帯でした。
天正10年(1582年)6月の清州会議から半年後の同年12月、越前にいる勝家が雪で動けないと見た秀吉は、勝家の甥である柴田勝豊の居城・長浜城を攻めて降伏させますが、なるほど、これほど険しい道程であれば、勝家が動けなかったのも頷けます。
長浜と越前は、現在では北陸道で約80キロほどの距離。
車でたかだか1時間ほどで移動できちゃいます。
もし、勝家の時代に北陸道があれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ちなみに今日の私は西宮から名神高速にのって、秀吉軍が明智光秀を下した「天下分け目の天王山」でお馴染みの天王山トンネルを抜け、京の都を横目で見ながら、彦根、長浜を通り過ぎ、越前は北ノ庄を訪れました。
その間、約3時間半の戦国ツアーでした。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-24 20:00 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

宮本武蔵も築城事業に関わったといわれる「明石城」を散策。

本日はJR明石駅北側の明石公園内にある、明石城跡を紹介します。

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別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、または錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。

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明石城に天守閣はありません。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を最後に戦乱の時代が終わり天下太平となったという、いわいる「元和偃武」の時代に築かれた城には天守閣のないものが多いそうです。
ただ、いつでも天守閣を建てられるように大きな天守台は設けられていました。

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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:左) と 「巽櫓」(たつみやぐら:右)です。
国の重要文化財に指定されています 。

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空の色が青かったら、もっといい写真になったんですけどね・・・残念でした。

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「坤櫓」の石垣です。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模の櫓で、たいへん立派な石垣です。

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「坤櫓」と「巽櫓」を結ぶ長大な塀(帯廓)は、明石市街地を見渡せる展望台となっています。
「巽櫓」の向こうに見えるのは、本州と淡路島を結ぶ明石海峡大橋です。

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「坤櫓」の向こうに見えるのは明石球場です。
この写真を撮影したのは7月のことで、実はこの日ここを訪れたのは、わが愚息の高校野球兵庫県予選の観戦が目的でして、その試合開始までの待ち時間で城跡を散策していました。

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球場内から見ると、こんなロケーションとなります。
プロ野球のオープン戦も行われるいい球場です。

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明石の地は播磨国に位置し、山陽道が通り、北には丹波国但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。
そのため徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についでこの明石城を重要視していたといいます。

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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、15年ほどで豊前国小倉藩(小倉城)に転封となり、それ以後わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前家の松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで10代189年間親藩として松平氏の居城となりました。
そして明治7年(1874年)の廃城令により廃城となり、その後、明治16年(1883年)に明石町の有志によって整備されて明石公園となり、大正7年(1918年)には兵庫県立明石公園となって現在に至ります。

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話は築城当時に戻って、ちょうどそのころ小笠原忠真の客分として姫路にいた剣豪・宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。

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公園内は緑に囲また自然豊かな環境で、私も子どもが小さかった頃はたびたび自転車を車に乗っけて弁当持参で訪れました。
春には桜の名所として、たくさんの花見客で賑わいます。
今度は桜の季節にでも、また取材して紹介してみたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-06 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)