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三木合戦ゆかりの地めぐり その10 ~這田村法界寺山ノ上付城・朝日ヶ丘土塁跡~

高木大塚城跡から更に500mほど北上したところに、這田村法界寺山ノ上付城跡があります。
三木城の南西にある標高78m、比高43mの山上に築かれた付城で、現在わかっている付城のなかでは羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城に次ぐ大きさです。

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『播磨鑑』『別所軍記』によると、城主は秀吉の重臣、宮部継潤と伝わっています。
平成20年(2008年)に発掘調査が行われ、平成25年(2013年)、平井山付城跡などとともに国の史跡に指定されました。

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国の史跡に指定されているところは、すべてこうして案内看板が設置されています。

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登山口です。

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登山用のまで備えてくれています。
ありがたいですね。

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規模が大きいこともあって、平井山付城跡と同じく順路表示が各所に設置され、迷うことはありません。

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傾斜のキツイ登山道ではありますが、観光者用に道は整備されていて歩きにくくはありませんでした。

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段状の平坦地群跡です。
斜面地を削ったり盛ったりして、段状に平坦地を造っています。
こうして斜面をひな壇のようにして、兵が駐屯しやすいようにしているんですね。
写真ではわかりづらいでしょうか?

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副郭に入る虎口跡です。

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副郭跡です。
四方を土塁に囲まれており、主郭より広い面積です。

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主郭の周囲をとりまく横堀跡です。

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主郭に渡る土橋跡です。
虎口の前にあって、周囲の堀を一部堀残すか、あるいは土を盛って造られた橋です。

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で、その土橋を渡ると、主郭に入る虎口があります。

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そして主郭跡です。
火気厳禁です(笑)。

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主郭を囲う土塁です。
写真ではわかりづらいですよね。

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馬出状の虎口です。
「馬出し」とは、主たる曲輪の前面に設けられた「出曲輪」状の小空間のことだそうで、「馬出し」の直接の意味は、出撃の際の兵の待機場所を指しているのだそうです。
攻撃型虎口の縄張り手法なんだとか。

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城跡南東にある展望台から見た北東の景色です。
前方約2kmの場所に三木城が見え、さらにその延長線上に秀吉の本陣、平井山付城を見通すことができます。

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城跡南東部は、朝日ヶ丘土塁と呼ばれる多重土塁と連結しています。
多重土塁とは読んで字の如く、土塁を幾重にも重ねて造ったもので、付城と付城をつなぐ防御線だったと考えられています。

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こうすることによって、三木城に兵糧を運び込もうとする荷車の運行を困難にしたわけです。
こうして兵糧攻め包囲網を貫徹していったのでしょうね。
こうして見ると、戦は土木工事で決まるといえるかもしれません。

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さて、次稿はこの山の麓にある法界寺を訪ねます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-22 18:31 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その9 ~高木大塚城跡~

シクノ谷峯構付城から更に北へ500mほどのところに、高木大塚城跡があります。
ここも、三木合戦における織田方の付城で、絵図『三木城地図』に描かれているものですが、どういうわけか、現地看板などの記載は「大塚城」となっており、名称に「付城」という言葉が入っていません。
なんででしょうね?

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この周辺には高木古墳群と呼ばれる5~6世紀の古墳が多くあり、この付城は、それらのなかでもっとも大きな古墳を利用して築かれた付城と考えられています。
そこで、大きな塚を利用した「大塚城」という名称になりました。

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現地看板の説明文によると、曲輪は主郭のみで、櫓台を中心に配し、その周囲を十字の形に土塁で囲み、南西に虎口(出入り口)を設けています。
曲輪の広さは約3,600㎡で、古墳が所在する周囲を含めると約6,500㎡が残っているそうです。

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古墳を利用した櫓台は、一辺約20mの隅丸方形を呈する高さ約5mを測る規模で、周囲を高さ150cmほどの土塁が囲んでいます。

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とにかく、この付城の遺構の保存状態は素晴らしく、これまで見てきた他の付城とは比べものにならないほど立派な土塁が残されています。

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また、土塁が十字型に四方に張り出した形をしていて、変わった構造をしているのが興味深いところです。
この独特の土塁のかたちは、正面だけでなく側面からも攻撃できるように意識し築いたもので、これを横矢掛りと呼んでいるそうです。

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いまいち写真では伝わりづらいですね。

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他の付城のほとんどは現在も山の上にあるのですが、ここ高木大塚城は、住宅街の一角にあるので訪れやすく、城の全体像が素人でも容易に想像できます。
わたしが訪れたときは、ここを散歩していたご老人が主のように解説してくれました(笑)。

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ここを守っていた武将はわかっていませんが、たぶん、明石道峯構付城やシクノ谷峯構付城と同じく、小林伝右衛門が作図した絵図『三木城地図』に描かれており、織田信忠が築城した三木城包囲網の第二期の付城と考えられています。
約500m間隔で連なっていますからね。

で、次はここから更に500mほど北上したところの、法界寺山ノ上付城を訪れます。

三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その3 ~竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その5 ~平田村付城跡・平田村山之上付城跡・大村城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その6 ~谷大膳墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その10 ~這田村法界寺山ノ上付城・朝日ヶ丘土塁跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~
三木合戦ゆかりの地めぐり その12 ~三木城鷹尾山城(鷹ノ尾城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その13 ~淡河城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その14 ~端谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その16 ~枝吉城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その17 ~池尻城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その18 ~加古川城跡(称名寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その19 ~野口城跡(教信寺・野口神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その20 ~神吉城跡(常楽寺・神吉神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その21 ~生石神社(石の宝殿)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その22 ~志方城跡(観音寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その23 ~太閤岩~
三木合戦ゆかりの地めぐり その24 ~中道子山城(赤松城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その25 ~安楽寺・円照寺~
三木合戦ゆかりの地めぐり その26 ~井ノ口城跡・見登呂姫の石仏~
三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その28 ~御着城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり ~史跡分布図~



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-15 21:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~

前稿の明石道峯構付城から西へ500mほどのところにあるのが、シクノ谷峯構付城です。
「シクノ谷」とは変わった名称ですが、「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、「シクノ谷峯構」という名称になったそうです。

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入り口には看板が設置されていて、登山路も整備されていてわかりやすくなっています。

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説明看板によると、曲輪は、主郭腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の虎口から続く腰郭は、主郭のような土塁囲みではなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。

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主郭、腰郭を合わせた付城の範囲は約3000㎡で、西に隣接する平坦部を含めると約4600㎡あるそうです。

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案内板はありませんが、素人が見ても、遺構がはっきり見て取れます。

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こんもりと土が盛られた遺構は、たぶん櫓台の跡でしょう。

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主郭跡にある土塁です。

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城跡東側の景色です。
バイパス道路の向こうに見える低い山が、明石道峯構付城です。

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ここシクノ谷峯構付城も明石道峯構付城と同じく、小林伝右衛門が描いた絵図『三木城地図』に描かれていましたが、平成6年(1994年)に、このすぐ北に開園した三木ホースランドパークの建設事業中に、所在が確認されたそうです。
ここを守った武将については、残念ながらわかっていないようですが、おそらく、明石道峯構付城と同じく織田信忠が築城した6ヵ所の付城のうちのひとつと考えられています。

さて、次稿は高木大塚城跡を訪ねます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-10 21:40 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~

羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城や、谷大膳の墓所がある平田村付城は、三木城の北側にありますが、秀吉のつくった付城は三木城を中心として360度くまなく包囲しており、南側にも現在多くの遺構が確認されています。
まず訪れたのは、三木城から直線距離にして1.5kmほど南に築かれた明石道峯構付城です。

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国道175号線の東沿いにある小さな山の上にある付城跡で、山の周囲はミニゴルフ場となっています。

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天保12年(1841年)に描かれた小林伝右衛門という人物によって作図された絵図『三木城地図』には描かれていましたが、平成11年(1999年)の道路拡張工事で所在が確認されるまで、その存在は明らかではなかったのだとか。
その後、三木合戦に関する貴重な史料として、破壊せずに三木市が管理しているそうです。
三木市の行政に感謝です。
登山道は綺麗に整備されていて、説明板や遺構の表示板も設置されていてたいへんわかりやすくなっています。
先日の遭難しかけた平田村山ノ上付城跡とは、ぜんぜん違いますね。
わたしのような素人向けの遺構です。

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主郭跡に設置された説明板です。

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縄張り図です。
主郭跡は約1,100㎡、東郭跡は約3,300㎡あるそうですから、ずいぶん規模の大きな付城だったことがわかります。

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上の写真は、その主郭跡です。

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西郭跡です。

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主郭と東郭を結ぶ虎口跡です。

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虎口の両サイドは、土塁が積まれています。

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上の写真は、もっとも広い東郭跡です。
建物があったかどうかは、わかっていません。

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その東郭の外にある堀跡です。

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史料によれば、三木城攻めが開始されてから1年近く経った天正7年(1579年)2月の平井山合戦に勝利した織田軍は、その後、織田信忠によって三木城の南側に付城が6ヵ所築かれ、魚住からの兵糧搬入経路が塞がれます。
やむなく迂回して北西からの搬入することになり、前稿で紹介した平田大村合戦に繋がっていきます。
そのとき造られた6ヵ所の付城のひとつが、ここ明石道峯構付城だった可能性が高いようです。

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下山道に、ここから約500m西にあるシクノ谷峯構付城への誘導表示がありました。
次稿はここを訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-09 21:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その5 ~平田村付城跡・平田村山之上付城跡・大村城跡~

羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城は、三木城の北東に位置しますが、その反対側の北西にも、平田村付城をはじめ多くの付城が築かれています。
最寄りの駅は、日本一乗車賃が高いことで知られる神戸電鉄の大村駅
その路線のなかでも、単線区間にあるのどかな駅です。

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思わず駅の写真を撮ってしまいましたが、目的は城跡です。
大村駅から北へ2~3分歩いたところに保育園があるのですが、ネット情報によれば、この保育園の場所あたりに、かつて大村城があったそうです。
その城主の大村氏は、三木城主である別所氏とは縁戚関係にあり、当然、三木合戦のときは別所方でした。

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大村城の遺構らしきものは何も残っていません。
『別所軍記』によると、この城の前に広い場所があって、別所氏の大軍が集結していたと記されています(現在、保育所の前は田んぼです)。
ここを守っていた大村九郎左衛門治吉は、大村合戦の激戦で討死したと伝わります。

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保育所の東側には、平田村付城があったと考えられている山があります。
この山はそれほど高くはなく、少し登ればすぐに遺構らしき場所にたどり着けます。
史跡に指定されていないので、看板や説明板などはありません。
『播磨鑑』によると、ここを守っていたのは吉田勝左ヱ門という織田方の武将だったと記されています。。

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このあたりは三木合戦の中でも激しい戦闘が行われたと伝えられます。
なかでも、天正7年(1579年)9月の「平田・大村合戦」では、織田方の豪将・谷大膳が、激しい戦いのすえ討死しています。
その谷大膳の墓が近くにあるのですが、それはまた次稿で紹介します。

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郭跡っぽい場所から見た、三木城方面の景色です。
写真中央の低い山が、三木城です。
丸見えですね。

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また、平田村付城から東へ10分ほど歩いたところに、「さつき園」という養護老人ホームがあるのですが、その裏山に、平田村山ノ上付城があったと考えられています。
『播磨鑑』によると、城主は古田馬ノ助という武将とされています。
谷大膳が討死したのは、この場所だったと伝えられます。

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平田村付城から距離にして500mも離れていない場所ですから、おそらく連動して北西からの補給路を塞いでいたのでしょうね。

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ところで、この日、老人ホームの横の登山口はわかったのですが、その後の山道があまりにも険峻で、山上まで登りきれませんでした。
案内板も何もないですから、道なき道をかき分けて登っていくも、なかなか遺構らしき場所にたどり着けず、帰路が不安になって途中で引き返した次第です。

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山登りの素人がいく場所ではなかったですね。
雪山ならともかく、城跡めぐりで遭難したとあっては、末代までの恥ですから(笑)。

そんなこんなで、次稿は谷大膳の墓所を紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-25 19:33 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~

別所長治が籠城する三木城を包囲するため、羽柴秀吉は四方八方に多くの付城を築きます。
『信長公記』によると、その数は50~60か所にも及んだといわれます。
付城とは、別名、出城、陣城とも言い、恒久的な城郭ではなく、戦のための仮の城、いわば前線基地のようなものですね。
秀吉は、この付城づくりを得意としていました。
三木市内には、当時の付城跡と考えられている場所がいくつも残っていますが、この日は、平成25年3月に三木城跡とともに国史跡指定された、秀吉本陣跡を訪れました。

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秀吉本陣が置かれたのは、三木城から北東へ約2km離れた平井山という標高143mほどの山上です。
秀吉が三木城包囲を開始してから約3か月が過ぎた天正6年(1578)7月、織田信長の嫡男・織田信忠によってこの地に築かれ、その後、秀吉に引き渡されたといいます。

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付城跡の入口は、平井山北西部分にあり、新しく造られたという丸太階段で整備されていました。
この登り口は、当時は搦手(裏口)だったようです。

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階段で整備されていたのは最初の100mほどで、その後はガッツリ山道になります。
結構ハードです。

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段状の平坦地群跡です。
斜面地を削ったり盛ったりして、段状に平坦地を造っています。
こうして、兵が駐屯しやすいようにしているんですね。
写真ではわかりづらいでしょうか?

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急な斜面を10分ほど登り続けると、ようやく坂が緩やかになり、歩きやすい山道が現れます。
この尾根上の山道は、太閤道と呼ばれていたそうです。
この同じ道を、約430年前に秀吉も歩いていたんですね。

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主郭跡と考えられている場所だそうです。
城の最高所ではありませんが、山道が拓けた比較的平坦な場所で、三木城を監視するには絶好の場所だったのでしょう。
3方が土塁で囲まれています。

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主郭に設置された展望台から見た、三木城下です。
あいにくこの日は霞がかっていて、わかりづらいのですが、写真中央にある樹木と真ん中あたりに見えるのが、三木城跡です。

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現地の説明書きによると、赤線で囲まれた部分が三木城です。
ここから、飢えに苦しむ三木城内の様子を監視していたんですね。
もっとも、人々の様子が見えるほどの近さではありませんが。

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天正6年(1578)10月15日、秀吉は飢えに苦しむ三木城の籠城兵を日和見に、この地で茶会を催したと伝えられます。
なんとも趣味の悪いいやがらせだと思っていましたが、こうしてその場所に来てみると、籠城兵から茶会の様子までは見えなかったでしょうね。

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主郭跡から更に奥へ進むと、櫓台状の土盛と表記された遺構がありました。
ここの櫓があったのでしょうか?

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さらに奥へ行くと道は下り始め、大手口と推定されている遺構に着きます。
地面を深く掘って両側を一段高く切盛りし、その段状に平坦地を設け、見張り兵を駐屯させていたと考えられているそうです。
ここを降りて行くと、与呂木という集落に繋がっていたそうですが、いまは、この先は行き止まりとなっていて立ち入り禁止です。
観光順路は、裏口から入って正門でUターンさせられるコースとなっていました。

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この平井山付城跡は、これまで民間が所有していたそうですが、平成25年(2013年)に三木市が買収し、国の史跡に指定されたそうです。
よく遺構が破壊されずに残っていたものですね。
これからは、三木市が遺跡の保存や整備を管理していき、三木城跡とセットの観光地としてアピールしていくそうです。
結構、しんどい登山ですが・・・。

いつになるかわかりませんが、次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-06 23:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~

過日、兵庫県三木市の三木城跡に行ってきました。
三木城というと、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の行った「三木の干殺し」で知られる三木合戦の舞台として有名ですよね。
旧令制国でいえば播磨国の東端に位置し、現在の三木市は、神戸市の西北にあたります。

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現在、城跡は本丸周辺だけが丘の上に上の丸公園として残っています。
形式は平山城で、別名「釜山城」「別所城」とも呼ばれていたそうです。
当時は、小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称されたそうです。

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三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしないそうですが、15世紀末ごろに別所則治によって築城されたとされおり、以後、代々別所氏の居城となります。
別所氏は、播磨国の守護大名・赤松氏の家臣であり、同じく家臣である浦上氏に次ぐ有力な一族として、播磨東部辺りに勢力を誇っていました。

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秀吉に攻められる以前にも、時の勢力争いに幾度となく巻き込まれ、山陰の尼子氏や四国の三吉氏、三田の有馬氏などに攻められますが、なんとか落城は免れてきました。
その後、織田信長が勢力を伸ばすと、その傘下に入ります。

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しかし、天正6年(1578年)3月7日、信長の命による秀吉の中国攻めが始まると、5代目当主・別所長治は突如、反旗を翻します。
その理由ははっきりしていませんが、以前の拙稿でも紹介したとおり(参照:軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」~加古川評定~)、加古川評定における対立が原因とされています。
謀反を受けた秀吉は、ただちに三木城を包囲。その数3万とも言われる大軍でしたが、それでも、三木城の堅牢さを知っていた秀吉は、無駄に自軍の兵力を失うことを避け、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというものでした。

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下の三木城跡から望む城下です。
写真右奥に見えるのが、秀吉が本陣をおいた平井山かな?

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なんとか別所氏を支援したい毛利氏は、さまざまなルートから三木城への食料搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。
籠城する7500人の別所勢は、孤立無援となります。
やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者が数千人に及んだといいます。
飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミや土壁のなかのをも食べたといいます。
その光景はまさに地獄絵図
この兵糧攻めは「三木の干殺し」と呼ばれ、のちの「鳥取の渇え殺し」とともに戦国史上最も凄惨な籠城戦と評されています。

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本丸跡です。
天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。
このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。
本丸跡には、長治の辞世の句が刻まれた石碑があります。

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「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

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長治像です。
23歳の若者らしい幼い顔ですね。

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城跡公園のすぐ近くにある雲龍寺には(戦国当時は、三木城郭内にあった)、長治と照子夫人の首塚が残されています。

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長治は切腹にあたって、照子夫人と3歳のわが子を刺殺し、その後、切腹にのぞんだと言われます。
武士の世の慣いとは言え、無念だったことでしょう。

近日中の「その2」につづきます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-26 21:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

昨日の続きです。

内堀の外から見た広島城二の丸の写真です。
手前から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓です。

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この石垣と3つの櫓から成る二の丸は、馬出の機能を持つ郭で、全国の城郭の中でも特異な配置だそうで、広島城の特徴とされています。

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上の写真は表御門
橋を渡って表御門をくぐり、二の丸内に入ります。

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で、こちらが二の丸内側から見た太鼓櫓と多聞櫓です。
これらはもちろん復元ですが、戦前まであった郭は、毛利輝元の築城当初からのものだったそうです。
3つの櫓の外観は、天守と同じく黒漆塗りの板貼りですね。

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こちらは内部の天井。
梁をむき出しにし、柱も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素なつくりです。
下の写真は、太鼓櫓のなか。

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工事が始まって2年後の天正19年(1591年)に輝元は入城しますが、その後も並行して工事は進められ、全工事が完工したのは慶長4年(1599年)、しかし、その前年に豊臣秀吉が死去しており、時代はふたたび戦乱の様相を呈していました。
そして、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦い
このとき、名目上、西軍の総大将となった毛利輝元は、実際に出陣はしなかったものの、その責任を負わされ、徳川家康によって周防・長門の2ヵ国に押し込められます。
それが、幕末まで続く長州藩となるんですね。

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毛利家に代わって広島城に入城したのは、安芸・備後の2カ国(現在の広島県域)45万余石の領主となった福島正則でした。
正則はさっそく城の修築工事を進めるとともに、西国街道が城下を通るように南下させるなど、城下町を整備します。
しかし、洪水で破損した石垣を修築する際、幕府への修築届けの不備を咎められ、元和5年(1619年)、正則は安芸・備後両国を没収されます。
この一件については、豊臣恩顧の正則を失脚させるための幕府の陰謀説もありますが、真相は闇の中です。

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福島氏が去ったあと、領内は広島藩福山藩に分かれ、広島城には紀伊国和歌山城主だった浅野長晟が42万余石の領主として入城します。
以後、明治2年(1869年)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代に渡って広島城主を勤めます。

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明治時代、広島城内には旧大日本帝国陸軍の施設が徐々に設けられ、日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っています。
上の写真はその大本営跡です。

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なぜ広島に大本営が置かれたかというと、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が広島まで開通していたことや、近くに宇品港を擁するといった諸条件が揃っていたからです。
ここに大本営が置かれると、明治天皇が広島に入られ、城内にあった建物を行在所として、戦争を指揮されたそうです。

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太平洋戦争時にも、周辺に軍事施設が集中していたことから、この広島城が、原爆投下の目標点になったと言われています。
当然ながら、天守をはじめ城内の建造物は、すべて壊滅しました。

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夜の広島城です。
三脚などは持っていなかったので、手ブレご容赦ください。

毛利時代、福島時代、浅野時代のみならず、日清戦争、太平洋戦争と、近世近代の歴史を見つめ続けた広島城。
いまは、堀と緑に囲まれた城跡公園として、市民憩いの場となっています。
まさに、「兵どもが夢の跡」ですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-13 18:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

3ヶ月近く前になりますが、昨秋、広島出張の折、広島城跡を訪れました。
広島市内の観光といえば、原爆ドーム平和記念資料館を訪れる人が多いと思いますが、そこから歩いて行ける距離のところに、日本三大平城に数えられる名城・広島城があります。

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広島城の特徴として最初に目についたのは、黒漆塗りの板が貼りめぐらされた天守の壁面ですね。
たしか、岡山城もこんな感じの外観だったと思いますが、姫路城などに代表される白壁の城も優雅で美しいですが、この板貼りの天守は、なんともいえない重厚感で、圧倒されます。

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この板貼りの壁面は、大坂城天守を模したといわれているそうですが、現在復元されている大坂城は、板貼りではないですよね。
実は、豊臣秀吉築城当時は、こんな感じだったようです。
戦国時代には、白の漆喰は風雨に弱いとされ、外壁にはあまり使われなかったそうで、白壁が使用されるようになったのは、主に江戸時代に入ってからだそうです。

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広島城は、天正17年(1589年)に毛利輝元によって築城が開始されました。
毛利氏は、南北朝時代から吉田郡山城を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父・毛利元就の時代に山陰の尼子氏をはじめ各地の有力武士を倒し、中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。

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その息子・毛利隆元が若くして急逝したため、わずか11歳で家督を継いだ輝元は、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受けながら引き継いだ中国地方を治めます。
一時は織田信長と対立して、山陽・山陰の各地で織田軍と覇権を争いますが、やがて秀吉の時代になると、輝元は秀吉に臣従して「五大老」のひとりとなり、豊臣政権を補佐します。

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秀吉の天下統一によって乱世の時代は終わり、城の役割は軍事から領国統治へと変わります。
秀吉の招きによって上洛した際、大坂城や聚楽第を見た輝元は、もはや吉田郡山城が時代遅れであることを痛感し、広島城の築城を決意したと言われます。

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広島城の城郭構成は京都の聚楽第をモデルにしたといわれ、本丸に続く二の丸が小さく、馬出として利用された独特の構造だそうです。
本丸を中心にを三層にめぐらせ、三の丸、大手郭、北の丸、北の郭、西の郭などを配し、さらに外側は太田川を天然の要害に利用しています。

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天守から望む景色です。

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現在の天守はもちろん復元です。
本来の天守はいうまでもなく、原爆投下によって破壊されました。
戦前の天守は、昭和6年(1931年)に国宝に指定されていたそうです。
同じときに国宝となった姫路城が、20世紀末に世界遺産となったことを思えば、もし、原爆で被災しなければ、あるいは世界遺産となっていたかもしれません。
まさか、そのすぐ近くにあった洋館が、原爆ドームとなって世界遺産に指定されようとは、当時は思いもよらなかったことでしょう。

つづきは明日にします。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-12 17:59 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

シリーズ最後です。

江戸時代も後期に入った明和6年(1769年)兵庫津一帯は尼崎藩領から離れ、幕府の直轄領となります。
このとき、兵庫陣屋の敷地を縮小して「勤番所」となり、兵庫城の堀も幅2間分(約3.6m)を残して埋め立てられ、町人地として払い下げがおこなわれました。

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外堀の外にある、町屋街路の跡です。
いわゆる城下町ですね。
調査によると、何度も火災に遭いながらも再建し、町屋を営み続けていた様子が明らかになったそうです。
その一軒一軒の町屋の区画は、何度も何度も同じ区画のまま踏襲されていることがわかったそうで、その礎石も、ほとんど同じ場所に敷かれていたことが明らかになったそうです。

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写真は、街路を掘った断面です。
何層にもなっているのが、その時代時代の道の跡だそうで、グレーの部分が地表、茶色の部分が埋められた土だそうです。
焼けては埋めて道を造り、また焼けては埋めて道を造る、そうした250年の繰り返しの歴史の跡が、この地層だそうです。
すごいですね。

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出土品も数多く展示されていました。

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明治元年(1868年)5月、この場所に兵庫県庁が置かれ、初代知事にのちの初代内閣総理大臣・伊藤博文が赴任します。
初代兵庫県知事が伊藤博文ということも、知らない人が多いですよね。
しかし、わずか4ヶ月で県庁は現在の中央区に移転。
その後、明治6年(1873年)までは外郭となっていた土塁が残っていたようですが、市街地発展のため取り除かれ、翌年には大規模な兵庫港改修工事が始まり、兵庫新川運河の開削によって、兵庫城はほとんど破壊されてしまいます。
今となっては、なんで史跡として残さなかったのかと思ってしまいますが、城跡を史跡とみなすようになったのは近年のことで、明治新政府の発足当時は、城跡は無用の長物でしかありませんでした。

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兵庫城が水没した兵庫新川運河です。
上の写真左側に少し写っているのが、今回の発掘現場ですね。
下の写真は、運河の東側から西側の発掘現場に向かって撮影したものです。
この運河が出来たことによって、船を風や波から守る避難泊地として大いに活躍し、それまで頻繁にあった海難事故激減したそうです。
当時、神戸港発展のためには、不可欠な工事だったということですね。
兵庫城が運河の底に消滅したのも、やむを得ないことだったのでしょう。

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現在、その運河西側の遊歩道に、「兵庫城跡、最初の兵庫県庁の地」と刻まれた碑が立っています。

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運河西側から発掘現場を望む場所に、城跡を見守るかのように無数のかもめが整然と並んでとまっていました。
あまりにも印象的だったので、思わすシャッターを切りました。

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まるで、発掘調査を見守るかのようですね。

こののち、発掘調査は終了して、当初の予定どおりイオンのショッピング施設が建設されます。
イオンモール側にしてみれば、金を出して神戸市から土地を買ったにもかかわらず、この発見のおかげで工期が延期になり、迷惑千万な話だったと思いますが、われわれ歴史ファンの無責任な意見としては、これほど立派な遺跡が発掘されたのに、調査が終われば破壊というのは、なんともやりきれない思いです。
これまで謎だった兵庫城は、地元神戸市民ですら、その存在自体を知らない人のほうが多かったと思います。
今回の発見は、学術的価値だけでなく、神戸市民、兵庫県民の宝でもあると思います。
この歴史的遺産が、こののち完全に破壊され、もう二度とその姿を表すことはありません。
残念でならないですね。
もう決まったことでしょうから、今更わたしがここで訴えても、どうなるものでもないでしょうが、なんとか遺跡を残してほしいと思っているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
明治の運河開削はやむを得ななかったのかもしれませんが、平成のショッピングモール建設は、400年前の歴史的遺産を破壊してまで建てなければならないものでしょうか?
いったん神戸市がイオンモールに売ったものを、ふたたび買い戻すなどといったことがあり得ないことはわかっています。
ですが、400年前の先人たちからのメッセージを、どうにか保存する手立てはないものかと、素人ながら思う次第です。
壊してしまったら、もう二度と元へは戻せないですからね。


二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-06 16:54 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)