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太平記を歩く。 その96 「阪本城跡(大倉山公園)」 神戸市中央区

前稿で紹介した廣厳寺のすぐ北に、大倉山公園という市民憩いの場があるのですが、ここに、かつて楠木正成が築いた阪本城があったといわれているそうです。


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阪本城が築かれたのは、建武年間(1334年~1338年)だったと考えられているそうですが、詳しいことはわかっていません。

ただ、時期的に見て、「湊川の戦い」に何らかの役割を果たしていたと考えられるでしょうね。


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公園は高台になっており、現在は高層の建物によって遮られていますが、かつては海まで広く見渡せていました。

攻防戦にはもってこいの場所といっていいでしょう。

城といっても、たぶんのようなものだったでしょうから、あるいは、正成軍は野戦に敗れて阪本城に逃れる途中、このすぐ南の湊川神社か廣厳寺あたりで自刃して果てたのかもしれません。


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また、時代は250年ほど進んだ天正8年(1580年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重が最後に籠城した「花隈城の戦い」のとき、織田軍の池田恒興がこの地に陣を布いたと伝わります。

時代は違えど、戦の砦となり得る場所は同じだったということですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-01 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その85 「瓦林城跡」 兵庫県西宮市

兵庫県西宮市にある日野神社を訪れました。

ここは、かつて瓦林城があったとされる場所です。


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白旗城で新田義貞の進軍を阻止した赤松則村(円心)でしたが、赤松軍は播磨だけでなく、摂津にも防衛線を張っていました。

そのなかの拠点のひとつが、ここ瓦林城だったとされます。

湊川の戦い時には、円心の家臣・貴志五郎四郎義氏がこの城を守っていました。


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「貴志義氏軍忠申書」という史料によると、湊川の戦いでは、北の香下寺城丹生山城から押し寄せてきた南朝軍と戦ったとあるそうです。


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その後、しばらく瓦林城という名は古文書から消えますが、やがて16世紀に越水城が出来ると、以後、瓦林城はその支城となります。


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現在は石碑のみが建ち、遺構は見られません。


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拝殿横にそびえ立つ楠の巨木です。

推定樹齢650年だそうで、あるいは、680年前の往時を知っているかもしれません。


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敷地内は「日野神社の森」として、県の天然記念物に指定、保護されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-13 10:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その84 「鏑射山城跡」 神戸市北区

舞台を東に移して、神戸市北区にある獨鈷山鏑射寺を訪れました。

ここ獨鈷山鏑射寺とその裏山に、かつて鏑射山城があったとされています。


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赤松則村(円心)の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は、建武3年(1336年)3月26日に円心の子・赤松範資に属して湊川の戦いでは南朝軍と戦い、やがてここ鏑射山城に籠城。

翌月2日よりこの地で合戦したといいます。

この戦火により鏑射寺の建物はすべて焼け落ちたそうです。


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現在の獨鈷山鏑射寺の建造物は、すべて近年に建て替えられたもので、当時を偲ぶものはなにも残されていません。


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この三重塔も、昭和48年(1973年)に建てられたそうです。


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こちらの本堂も、見るからに新しそうですもんね。


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標高327メートルの裏山の山頂に向かう山道です。

途中まで登ってみましたが、草深くかなり険しそう。

ここを訪れたのは初夏の7月2日で、マムシが怖かったので、登山は諦めました。


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鏑射寺の戦いで南朝方の攻めに後退した義氏は、13日には摂津西宮の瓦林城に移りました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-12 00:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その83 「三石城跡」 岡山県備前市

岡山県備前市にある三石城跡を訪れました。

ここは「その10」で紹介した船坂峠から西へ1kmほどの場所にある標高297mの山城で、備前国の東の玄関口を守る城でした。


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『太平記』によると、元弘3年(1333年)に三石保地頭の伊東大和二郎が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の挙兵に呼応して築いたと伝わる城で、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)白旗城にて新田義貞を50日間足止めにする戦いを演じた際には、足利尊氏の家臣・石橋和義がこの城を守備し、白旗城を援護したといいます。


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城跡に登るルートは、城山南側の大手から攻めるコースと、北側の搦手から攻めるコースがありますが、この日は駐車スペースがある搦手側から登ります。


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車道といってもは終始こんな感じの狭い道で、ガードレールもなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながら進みます。


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ここに車を停めて、ここからは徒歩で登山です。


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説明板です。


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北側から望む城山です。


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登山道はこんな感じで整備されていて、歩きにくいといったことはありません。

ですが、傾斜は結構キツイです。


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登山途中に設置された東側を望む第一展望所


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こちらは、南西を望む第二展望所


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30分ほど歩くと、城跡に到着。

まず着いた場所は、本丸北側の鶯丸跡です。


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こちらは、鶯丸跡と本丸跡の間を通る大きな堀切跡です。


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そして、いきなり本丸跡です。

搦手から登城したので、本丸から順番に下っていきます。


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約500坪あるそうです。


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居館跡には、説明板が設置されています。


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足利尊氏は九州に落ち延びてから再挙東上するまでの間、備前国には足利一族の石橋和義を大将に据え、守護の松田盛朝ら国人衆を組織して軍備を固めました。

そして建武3年(1336年)、白旗城の赤松則村(円心)、感状山城赤松則祐とともに新田軍約6万を迎え討ち、足止めにします。

その間、態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて進軍し、勝利します。


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本丸跡には、軍用石の残骸が残っています。

攻め寄せる敵に対して本丸からこの石を投じていたわけです。


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木々が邪魔でわかりづらいですが、本丸跡から見下ろした南側の集落です。


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本丸から南西に下った二の丸跡です。


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こちらは三の丸跡

長細い敷地です。


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三の丸南側には、立派な石垣跡が残っています。


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こちらは、三の丸東側の馬場跡


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そして、こちらが三石城最大の見どころ、大手門です。

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見事に残った野面積の石垣の遺構。

感動ものです。


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足利幕府が誕生し、赤松則祐が備前守護職となると、その重臣の浦上宗隆が守護代となって三石城に入り、その後、室町時代から戦国時代にかけて浦上氏の歴代の居城となります。


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これだけ立派な遺構を残した城跡ですが、この日、登山の道中ひとりも人に出会いませんでした。

あまり知られていないようですね。

城めぐり好きな方は、必見の史跡ではないでしょうか。


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おまけ。

城山下山途中にある、深谷の滝です。

たぶん、『太平記』の時代にもあったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-08 00:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その82 「大嶋城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から南東7kmほど下った相生湾の入江にある大嶋城跡を訪れました。

ここも、赤松則村(円心)に関係する城です。


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写真に写るおわん型の山が、大嶋城跡と伝わる大島山です。

かつて大島山は蝦江(相生湾)に浮かぶ離れ島だったそうで、長治元年(1104年)、播磨国の海老名家季がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。

海老名氏は、代々矢野荘別名の下司職、矢野荘例名の地頭職等に任ぜられた豪族です。


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ここを訪れたのは4月、桜が満開の日でした。


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登山口には、「大嶋城址」と刻まれた石碑が建てられています。


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側面には説明書きが。

建武3年(1336年)5月19日、児島高徳の父・和田範によって火を放たれ、灰燼に帰したとあります。


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大島山の由来です。

この説明書きによれば、保元2年(1157年)に小千通清が架僑し、次に赤松氏が船橋をかけて、赤松則村(円心)のときに、ここに城を築いたとあります。

その後、赤松氏の家臣・宇野弥三郎重氏速弥太の兄弟が城主となったとあります。

そして、焼失したのは嘉吉の乱のときと伝えています。

石碑の説明と少し違いますね。


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山頂にも、説明板が設置されていました。

こちらの説明では、石碑と同じく海老名家季が築城主としています。

建武3年(1336年)の白旗城の戦いのとき、7代目海老名景知は赤松方に属し、弟の詮季や同族の泰知と共に白旗城にたてこもって戦功をあげましたが、留守にしていたここ大嶋城は、新田義貞軍によって焼き落とされたといわれています、とあります。

築城、落城共に、諸説あるようですね。


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現在、山頂には住吉神社善光寺が並んで鎮座しています。

大嶋城は別名・浜御殿と呼ばわれるほど、美しい城だったといいます。

かつては離れ島だったことから、洋上の要塞といった感じだったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-06 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その81 「感状山城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から東へ7kmほどの場所にある感状山城跡を訪れました。

ここは、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)が白旗城にて新田義貞軍を50日間足止めにする戦いを演じた際、円心の三男・赤松則祐が、父に呼応してこの城に籠城し、白旗城を援護したと伝わる城です。


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もとはこの城は瓜生城と呼ばれ、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられますが、「白旗山合戦」の戦功により、足利尊氏から感状を与えられて「感状山城」と呼ばれるようになったと伝えられています。


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標高305m、比高220m感状山ですが、中腹に「羅漢の里」というキャンプ場公園があり、そこから約650mの道のり。

登山道も整備されていて、2.5kmの険峻な登山だった白旗城跡に比べれば、楽に登れます。


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整備された登山道を15分ほど登ると、大手門跡にたどり着きます。

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その横には、物見岩跡があります。


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そのすぐ北側に曲輪跡」があります。

いわゆる「三の丸」のことですね。


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かなり広い面積です。


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ここから急な岩場を登ります。

おそらく、石垣が崩れた跡でしょう。


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岩場を登ると、みごとな石垣の遺構が目に入ります。


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標識には、「南曲輪群」とあります。


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綺麗に残っていますね。

中世の山城では、これほどみごとな石垣跡はなかなか見られないのではないでしょうか。

ただ、この石垣が南北朝時代のものかどうかはわかりませんが。


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南曲輪群から見た南側の眺望です。


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そしてその北側が曲輪跡」です。


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そして更に北へ進むと、曲輪跡」に到着します。

つまり「本丸」ですね。


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曲輪は広大でしたが、曲輪、曲輪は、それほど広い面積ではありません。

白旗城の支城ですから、本城よりは規模の小さなものだったのでしょう。


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本丸からの東側の眺望です。


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その後の感状山城については詳しくはわかっていませんが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉上月城攻めの際に落城したとの説があります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-05 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その80 「高田城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

「その72」で紹介した白旗城から直線距離にして南へ約5km駒山城から東へ約5km苔縄城から南東に6kmほどのところに、高田城跡があります。

写真中央にそびえる標高359mの山頂が、高田城だったとされています。


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時系列から少し逆戻りしますが、ここは元弘3年(1333年)に苔縄城にて赤松則村(円心)幕府打倒の兵を挙げたとき、東進する赤松軍によって攻め落とされたと伝えられます。


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『太平記』によると、挙兵した赤松軍は苔縄城からまず山陽道を西へ下り、「その10」で紹介した国境の船坂山六波羅探題の軍勢を破り、転じて東の高田兵庫助の城を攻め落とした勢いで、京へ向かって攻め上ったとあります。

その高田兵庫助の城というのが、ここ高田城と考えられています。


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山の麓にある奥甲八幡神社は、高田城主の居館跡と見られています。


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拝殿はかなり古いように思いますが、由緒書きや説明書きがないため、詳細はわかりません。


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こちらの建物には、絵馬や由緒書きが掲げられているのですが・・・。


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由緒書きは文字が消えてて一切読めません。


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絵馬も、ほとんどが色褪せていて、説明書きもないためほとんどわかりません。


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唯一分かったのがこれ。


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「南朝忠臣村上彦四郎義光」とあります。

村上義光後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

その後、元弘3年(1333年)の吉野山の戦いで、親王の鎧を着て身代わりとなり、切腹して果てました。

このとき、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る人物です。


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これだけ多くの絵馬がありながら、何の説明書きもないとは残念ですね。

帰宅してググってみても、ここ奥甲八幡神社の情報は皆目見つかりません。

あまり知られていないようですね。


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神社の裏山へ向かい、登山口を探しました。


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神社の西から北へ谷間を入る林道を行くと、防獣ネットで囲われた登山口が。


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少し登ってみたのですが、ほとんど登山道らしき道がなく、かなり険しそう。

午前中に駒山城を登った疲れもあり、季節がらマムシも怖かったので、登城は断念することにしました。


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ここを訪れたのは6月18日。

田植えが終わった美しい田園の景色を堪能しました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-04 23:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その75 「駒山城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

「その73」で紹介した苔縄城跡の南に見えていた駒山城跡を訪れました。

駒山城跡は、苔縄城跡とされる愛宕山から2.5kmほど南下した場所にある標高263メートル生駒山頂上にあります。


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登山道は2コースあるようでしたが、この日は、距離はあるものの比較的緩やかな南側からの登城コースを選びました。


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登山口には、説明版と案内板が設置されています。


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たしかに登山道は整備されていて藪をかき分けていくようなことはなかったのですが、楽に登れるというわけでもありませんでした。


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しばらく登ると、「馬の蹄跡」と書かれた立札が設置されており、その先に、大きな岩が見えます。


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よく見ると、確かに馬の蹄ほどの大きさのが、岩の表面にたくさんあります。

立札の案内によると、これは礫岩の礫が抜けてできた穴だそうですが、これが馬の蹄によく似ていることから、そう呼ばれているそうです。


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山頂まで400m

こういう立札は、目安になってありがたいですね。


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山頂が目の前にそびえます。

いかにも、山の形状そのものは城跡らしい山頂ですね。


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そろそろ山頂が近づいてきた感じです。


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荷置岩

たしかに、上部が平らな形状で物が置きやすそうですが、こじつけじゃね?(笑)


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そして登ること約40分

ようやく城跡にたどり着きました。


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本丸跡の登り口には、案内板が設置されています。


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本丸跡です。


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本丸の面積はそれほど広くありませんので、それほど規模の大きな城ではなかったのでしょう。


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駒山城の歴史ははっきりとされていないがませんが、『播磨古城記』には「赤松律師則祐妙善が居城」とあり、『赤松家播備作城記』には「安室五郎義長が天文年間に築城した」とあるそうです。

赤松則祐は言うまでもなく赤松則村(円心)の三男ですが、安室義長という人物のことはよくわかりません。

ただ、その立地から考えても、赤松氏の拠点であることは間違いなさそうですから、おそらく、白旗城を中心とする赤松の里の南の砦として、白旗城合戦でも大いにその役目を果たしたのではないかと想像します。


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本丸から北側を望めば、苔縄城跡や白旗城跡が見えるはずなのですが、樹木が覆い茂っていて展望できません。

やはり城跡めぐりはに来なけりゃだめですね。


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それでも、隙間から辛うじて望む苔縄城跡です。


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こちらは白旗城跡。


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本丸を降り、二の丸へと続く道を進んでいくと、大きな空堀跡が出現します。


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堀の縁には石垣跡が見られるのですが、これが当時の遺構かどうかはわかりません。


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二の丸跡です。


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二の丸は3段構成になっており、ここは最上段の二の丸です。

本丸はそれほど広くはありませんでしたが、二の丸は結構な面積です。


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二の丸中段から再下段を見下ろします。


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二の丸再下段から望む南側の景色です。

千種川上郡のまちを一望できます。

白旗城の南側の見張り場としては、最適ですね。

それにても、白旗城、苔縄城、そして駒山城と立て続けに近隣三城も攻めると(日はそれぞれ違いますが)、周辺の山々がすべて城跡に思えてきました。


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下山後、麓から見上げた駒山城跡です。


さて、上郡の三城を制覇しましたが、もうちょっと赤松氏の里をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-24 10:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その73 「苔縄城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した白旗城から千種川を挟んで西へ3kmほど離れたところに、標高411m愛宕山があるのですが、この山上が白旗城と同じく赤松氏の拠点だった苔縄城があった場所だと伝えられます。


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登城口は、いまは廃校となっている旧赤松小学校の敷地裏にあります。


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駐車スペースにあった案内板。

愛宕山への登山道は、「苔縄ふれあいの森」と名付けられたハイキングコースになっているようです。


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旧小学校敷地内にあった案内板。


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入山するとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて中に入り、登山道を進みます。


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道中は各所に誘導板が設置されていて、迷うことはありません。


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所々に休憩所が設けられています。


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道中、石塔のようなものを見つけたのですが、よく見ると、上に乗っかっているのは首のない地蔵のようです。


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台座には、『寛政四子七月日』と刻まれています。


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首なし地蔵を過ぎると、傾いた鳥居があります。


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鳥居を抜けると、展望台が見えます。


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展望台付近に石垣跡のようなものがあったのですが、よく見ると石が新しく、たぶん、城跡とは関係ないでしょうね。


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ただ、展望台が設置されている場所は急斜面に突然あらわれた平坦地で、あるいは、ここに曲輪のようなものがあったのではないでしょうか。


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説明板です。

苔縄城は(伝)となっていますね。

ここが苔縄城だったという確証は得られていないようです。


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左端の山が説明板に解説されていた、展望台から見た白旗城です。
下はその拡大。


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『太平記』によると、苔縄城の城主は赤松則村(円心)とあります。

円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれますが、その赤松城というのが、かつては「その30」で紹介した神戸大学キャンパス敷地内との説もありましたが、現在ではここ苔縄城と考えられています。

しかし、『播磨鑑』では「赤松円心の三男・則祐は元徳3年(1331年)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されているそうで、初代城主を則祐としています。

また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまな記述があるようですが、初代城主は円心と考えるのが正しいとされているそうです。


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東側山麓に千種川が流れ、自然の要害をなしています。


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南側の眺望です。


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真南に見える山の山頂は、同じく赤松氏の拠点・駒山城があった場所です。


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拡大です。

ここも後日足を運びましたので、別の稿で紹介します。


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さて、ここから山頂に向けて登山、といきたかったのですが、ここを訪れたのは初夏で、ここからの道中は見てのとおりシダが生い茂っており、マムシが怖いので登山はここで断念しました。

説明板に(伝)とあったように、特に目を見張る遺構は確認されていないようですしね。


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愛宕山を背後に、下山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-21 23:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その72 「白旗城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

兵庫県の西の端にある白旗城を訪れました。

ここは、播磨国守護の赤松氏の居城とされたところで、『太平記』によれば、東上する足利尊氏軍を迎え撃つ新田義貞軍約6万を、赤松則村(円心)がここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたと伝わります。

この標高440m比高390mの登山にチャレンジしました。


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城跡への登山の手引は、上郡町のHPで懇切丁寧に紹介してくれていましたので、迷うことなく登れます。

写真に記したように、山頂の北から南へと連なる尾根筋に三の丸・本丸・馬場の丸・二の丸・櫛橋丸と曲輪が梯郭式に並ぶ縄張りとなっています。

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ここを訪れたのはGW初日の4月29日。

新緑が美しい麗らかな日でした。



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登山口には獣除け金網の扉が閉じられて針金で縛られていますが、「扉を開閉できる方はご自由にお通りください」と書かれています。

開けたらちゃんと閉めて、針金で縛って進みます。


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しばらく歩きやすい山道を進むと、城跡の説明看板が表れます。


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城跡まで、約1.6kmとあります。


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ここからの道のりが、大きな岩がゴロゴロ転がった険峻な山道で、たいへん進みにくい。


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これって、元は石垣だったものが崩れた跡じゃないでしょうか?


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更に登ると、どうみても石段跡らしき道があります。


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約1.6kmの標識から歩くこと険峻な道を30分強、城跡南側の分岐にたどりついたのですが、標識はまだ残り0.8km

あれから800mしか進んでいませんでした。


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でも、ここからは尾根道で歩きやすく、北へ5分ほど進むと、はっきりとした遺構が始まります。

まずは堀切跡


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さらに北へ5分ほど進むと、櫛橋丸への誘導表示が。

登ってみます。


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櫛橋丸です。


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櫛橋丸からの眺望です。


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さらに5分ほど進むと、二の丸跡にたどり着きます。


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結構な面積です。


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そして、さらにそこから5分進んだところに、本丸跡があります。


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標高440mの山頂です。


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本丸跡に設置されている案内板。


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縄張り図です。


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九州で勢力を立て直した足利尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、これを阻止すべく新田義貞が西へ向かいます。

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ところが、その動きを見た播磨国の守護大名・赤松則村(円心)がこれを食い止めます。

この戦いを「白旗山合戦」と呼びます。


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『太平記』によれば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約6万を、ここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたといいます。

その結果、楠木正成はわずかな兵力で、負けるとわかっていた湊川の戦いに出て行かなければならなくなったわけです。


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本丸跡のさらに北側を下ると、三の丸跡があります。


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ここも山頂近くとは思えないほど広い面積の平滑な地で、周りは土塁で囲われています。


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登山は麓から約70分、なかなかハードな道のりでした。


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下山途中、麓にある白旗城跡五輪塔群と、白旗八幡神社、栖雲寺跡に立ち寄りました。


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栖雲寺は円心の次男・赤松貞範が建てたといわれ、ここにある五輪塔群は、白旗城合戦で落命した兵たちの供養塔と言われています。


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麓にある「円心の里」記念碑

その後方に見えるのが、白旗山です。

もう少し、円心の里をめぐってみます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-20 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)