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太平記を歩く。 その71 「室山城跡」 兵庫県たつの市

ここでまた少し神戸市を離れて、たつの市にある「室山城跡」を訪れました。

築城は播磨の守護大名・赤松則村(円心)といわれ、建武3年(1336年)に足利尊氏が九州に敗走する途中、西下して来る新田義貞の追討軍を阻止すべく、防衛拠点とした城といわれています。

円心は、長男の赤松範資を室山城の守りにつけますが、新田義貞軍によって落城

その後、範資は円心の白旗城に逃れます。


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室山城は兵庫県たつの市の南西端瀬戸内海に面した岬の先にあります。

江戸時代には参勤交代の宿場町として大いに栄えたという室津港が近くにありますが、現在は小さな漁港町となっています。


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城跡の遺構は残っていませんが、カーブT字路の多い町並は、かつて城があったことを感じさせてくれます。

写真は二ノ丸公園からみた瀬戸内海の景色です。


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二ノ丸公園から坂を登っていくと、本丸跡と見られる高台をぐるりと道が囲っています。


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左は高台、右はです。

いかにも城跡っぽい地形ですね。


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高台に登る坂を進むと、石碑が設置されています。


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石碑南面には「遠見番所跡」と記され、東面には「室山城跡」とあります。


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本丸跡と見られる高台は、一応城跡っぽい石垣に囲われています。

もちろん、遺構ではありません。


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高台頂上です。

たぶん、ここが本丸跡です。


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片隅に目をやると・・・「売物件」の看板が!

なんと、本丸跡が売りに出されていました(笑)。

これって、なんとかならないのかなぁ・・・。


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本丸跡から望む瀬戸内海です。


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城跡を離れて、近くの「道の駅」から城跡のあるを望みます。

その後、室町幕府のもとで播磨の守護となった円心は、この地に孫の本郷掃部助直頼赤松雅楽助頼則を置いて守らせました。

さらに時代は下って嘉吉の乱以後は、山名持豊(宗全)の城となりますが、応仁の乱以降は、浦上氏の城となり、赤松氏と対立します。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、黒田官兵衛の初恋の相手が婚礼の日に赤松氏の襲撃で命を落としたエピソードがありましたが、あの舞台は、ここ室山城です(実際は、官兵衛の妹と伝わります)。


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ここ室津のまちでは、黒田の姫の死を悼んでひな祭りを半年延期、8月に行う「八朔のひな祭り」という風習があるそうです。

この辺りは、冬は牡蠣が美味しいんですよね。

さて、次回は範資が逃げ込んだ白旗城を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-17 00:14 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」 大阪府岸和田市

だんじり祭で有名な大阪府岸和田市にある「岸和田古城跡」を訪れました。

ここは、現在の岸和田城から東へ500mほどのところで、住宅街のなかに石碑と説明版だけが設置されています。


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建武元年(1334年)1月より行われた「建武の新政」摂津国、河内国、和泉国3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成は、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に居を構えさせました。

それが、ここ岸和田古城跡と伝わります。


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ただし、城跡推定地は特定されておらず、諸説があるようです。


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石碑は大正10年(1921年)に建てられたもののようです。


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周辺は完全に住宅街として整備されており、遺構はもちろん、城跡を思わせる地形も残っていません。


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このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

あくまで一説ですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-06 22:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その48 「船上山行宮跡(前編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

島根県の東伯郡琴浦町にある標高687mの船上山までやってきました。

ここは、配流先の隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、挙兵したとして知られています。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は伯耆国名和にて海運業を営んでいたとされる名和氏を頼って名和の湊にたどり着きます。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、当初は出雲国を目指していたものの、風に流されて名和の湊についたとしています。

これを助けた名和一族の当主・名和長年は、天皇を奉じて元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月28日に、ここ船上山にて挙兵します。


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船上山は、「屏風岩」と呼ばれる比高100m以上の断崖絶壁が数kmに渡って続く山として知られています。

これ、一度見たかったんですよね。


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船上山は大山山系のひとつで、その南方に連なる勝田ヶ山(1,149m)、甲ヶ山(1,338m)、矢筈ヶ山(1,358m)などと連なり、古期大山(約100万年前)の外輪山といわれています。

古期大山の火山活動によって噴出した溶岩流が、長い間の浸食によって削られ、特異な山容を形成したと考えられているそうです。


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この山容が船底の形に似ていることから、「船上山」と名付けられのだとか。

ここは後醍醐天皇の挙兵の地となったことから、船上山城ともいわれますが、まさに、天然の要塞ですね。


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逆光でわかりにくいですが、頂上の台地から勢いよく流れ落ちる雄滝雌滝があり、この2つの滝を千丈滝といいます。


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屏風岩と愛車のプリウスαです(笑)。


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ここから屏風岩にズームしてみると、なっ、ななななんと!!!

天然の要塞を果敢に攻めるロッククライマーが!!!

崖の中腹にブルーの服を着たチャレンジャーがいて、崖の下でそれを見守る人が3人ほどいるのがわかるでしょうか?

よーやるわ!


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さて、標高400mほどの場所にある駐車場に車を停めて、ここから登山です。


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登山口にある説明板と案内板です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク初日の4月29日。

いい登山日和の天気です。


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登り始めて10分ほどすると、「駕籠立て場」という立て札が立つ場所を通ります。


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その説明によると、後醍醐天皇がこの地を発って京に向かわれる途中、この地に駕籠を立てて休憩されたのだとか。


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駕籠立て場から2~3分登ったところに、山頂へ向かう登山道と横手道に別れる分岐点につきます。

横手道を行くと、先程ロッククライマーがチャレンジしていた屏風岩の下に行くことができるようです。

試しに行ってみることに。


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進み始めてすぐに後悔。

急斜面にある細い山道は、高いところが得意でないわたしにはハードでした。


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足元を見下ろすと足が竦みます。


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なんとか屏風岩の最北端に這うようにたどり着き、下から撮影。


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振り向いた東の眺望です。


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行きはよいよい帰りは恐い。

登りは上を見て進んでいたのでまだ良かったのですが、帰りは否が応でも足元を見ながら進まなければならないため、足がガクガクでした。

まるで、崖の斜面に設置された平均台の上を歩いているかの如くで・・・。


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さて、気を取り直して山頂を見ざします。


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登り始めて約30分、山頂の尾根道にたどり着きました。


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丘の上に石碑が見えます。


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「船上山行宮之碑」と刻まれています。


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石碑裏面の碑文。

「大正十三年六月」とあります。


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石碑の横にある立て札。

標高616.5mとあります。


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その横に倒れていた石にも、何か文字が刻まれていました。

これも、かつて石碑だったのでしょうか?


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帰宅してネットで調べていると、この碑の立つ丘から少し下ったところに、「千丈のぞき」と呼ばれる屏風岩を上から見下ろせるスポットがあったことを知りました。(※参照)

この日、まったくその存在に気づかずに痛恨・・・と言いたいところですが、横手道でへっぴり腰になっていたわたしですから、たぶん、千丈のぞきは無理だったに違いないと思い、納得です。


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この日は4月29日ですが、山頂にはまだ山桜が残っていました。


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で、丘の下にある案内板です。

「後醍醐天皇行宮跡」とあります。

えっ?・・・ここが行宮跡じゃないの?

・・・てな訳で案内板に従って進んでみることにしますが、かなり長くなっちゃったので、続きは次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-09 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その47 「観音正寺~観音寺城跡(後編)」 滋賀県近江八幡市

前稿の続きです。

琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)山頂にある観音正寺と、その背後にある観音寺城跡をめぐっています。

観音寺城は、標高432m繖山の山頂に築かれた巨大城郭で、「日本五大山城」のひとつに数えられ、「日本100名城」にも選出されている国の史跡です。


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観音正寺境内に設置された観音寺城跡の縄張り図です。


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こちらは、駐車場でもらった縄張り図。


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この大手石段を登ると本丸跡です。


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本丸跡です。


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本丸跡の面積は約2000㎡あるそうです。

とにかく広い。


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本丸跡を囲む土塁跡です。


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本丸西面にある、食い違い虎口跡の石垣です。

後年の枡形虎口のようなものでしょうか。


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本丸跡から南に一段下がった二ノ丸のような曲輪跡です。

ここは、平井氏屋敷跡と伝わり、平井丸と名付けられています。

ここも約1700㎡あるそうで、広い曲輪です。


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周りには石垣跡が。


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何より圧巻なのは、平井丸を南側の高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡の石垣です。


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見事ですね。


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観音寺城がいつごろ築城されたのかはわかっていませんが、歴史の記録に初めて登場するのは『太平記』で、建武2年(1335年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)方の北畠顕家軍の進攻を防ぐため、足利方の六角氏頼が籠もったという記述があり、その頃にはすでに存在したことがわかります。

ただ、このときは、まだ本格的な城郭ではなく、臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられています。


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また、室町幕府樹立後、足利尊氏足利直義兄弟が対立した観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には、近江にて直義の兵が南朝と連合して尊氏方に属していた佐々木道誉六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らは、当時、「佐々木城」と呼ばれたここ観音寺城に逃げ込み、籠城したと伝えられます。


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以後、幾度となく戦火に巻き込まれ、応仁の乱では3度も観音寺城の攻城戦が行われています。


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平井丸からさらに一段下がった三の丸のような曲輪跡です。

ここは、池田氏屋敷跡と伝わり、池田丸と名付けられています。
池田丸の面積は約2700㎡だそうで、本丸より広い最大の曲輪です。

城の最南端に位置し、本丸の御屋形へ通じる城戸口になっていたと考えられています。


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池田丸の周囲も、土塁と石垣跡が見られます。

平井丸より石が小さめなのが特徴です。

石垣が積まれた時代が違うのかもしれませんね。


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そして、池田丸の南側を下ると、大石垣跡があります。

天然の岩のようにも見えますが、石垣跡なんですかね。


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大石垣跡からの南側の眺望です。


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最後に、観音寺城の東の端に一郭独立したような形である府施氏の居館、淡路丸跡です。

広さは東西43m×南北50mの規模があり、周囲は土塁と石垣跡が残っています。


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観音寺城は繖山全体にをめぐらせた、中世の山城としてはきわめて突出した規模を持っています。

正確な数はわかりませんが、1000ヵ所以上の曲輪があったとみられ、その多くが石垣で囲まれていたのではないかとみられています。

城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降とされていますが、観音寺城は本丸部分だけでなく山全体に石垣が配置されている点も注目されています。

ちなみに、この繖山の西に伸びる支尾根先端部に安土城があります。


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戦国期には六角義賢・義治親子の居城となりますが、永禄11年(1568年)織田信長上洛の際、支城である箕作城和田山城が落とされるとそのまま放棄され、その後、安土城が築城されると、その役目を終えたかのように観音寺城は廃城となりました。


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とにかく圧巻の遺構の数々で、さすがは日本五大山城に数えられる名城でした。

本稿で、近江の佐々木道誉関連の史蹟シリーズは終了、次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-05 00:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その42 「勝楽寺城跡」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿で紹介した勝楽寺の裏山に、勝楽寺城跡があります。

勝楽寺は「婆娑羅大名」異名で知られた佐々木道誉が、雲海和尚を請じて開山したものと伝わり、道誉の菩提寺となっています。

道誉は晩年この地に隠棲し、応安6年(1373年)に78歳で生涯を閉じました。

勝楽寺城は、道誉が館と領地を守護するために、応安元年(1368年)に家臣の高筑豊後守に命じて築城したものといわれています。


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登山道入口です。

この日は先日の4月16日、桜が満開から少し散り始めといった時期でした。


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登山道案内です。

所要時間は往復1時間半から2時間とあります。


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防獣ネットを開けて入山します。


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登りはじめてすぐに、「仕置場」跡があります。


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仕置場とは、いわゆる処刑場です。

その霊を弔うための地蔵菩薩が何体もつくられていました。


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そこから少し登ったところに、「経塚」といわれる平坦な場所があります。


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説明看板によると、佐々木道誉の第三子・高秀が父の菩提をとむらうために、山頂に穴を掘り諸大名を始め近隣の人々を集めて大法要をいとなみ、そのとき、集った人達に法華経の経文を一字一石に書き、その穴に埋め後世に残して菩提をとむらったものだそうです。

その中央には、「大乗妙典」と刻まれていると書かれていますが・・・。


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いわれてみれば、たしかに。


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さらに山頂の城跡を目指します。


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しばらく登ると、小さな鳥居が見えてきました。


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ここは「狐塚」といわれるそうで、この塚は、狂言「釣狐」の発祥の地といわれているそうです。


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道誉とは関係ない話なので、あとは、説明板をお読みください(笑)。


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30分以上登り続けて、ようやく尾根にたどり着きました。

ここからが城跡のようです。

案内看板には「正楽寺城」とありますが、この山の麓にある道誉の菩提寺は「勝楽寺」ですが、その勝楽寺のある集落の地名が「正楽寺」といいます。

城名などは後世につけられたものでしょうから、どっちが正しいということもないのでしょう。


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主郭近くになると、石垣跡と思われる大きな石が見え始めます。


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そして本丸跡

標高317m、比高170mあります。


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それほど広い面積ではありません。


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説明板によると、この城はところどころに縦堀があり、全国的にめずらしい「うね状縦堀山城」の姿をしているそうです。

「うね状縦堀山城」とは、「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」とも書き、竪堀(縦堀)とは、斜面に縦に造られた堀のことをいいます。

ただ、わたしにはどれが竪堀なのか、よくわかりませんでした。


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本丸北側斜面の石垣跡です。


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本丸跡からさらに北へ進むと、見張り台跡があります。


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見張り台跡です。


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説明板によると、ここから佐々木六角の居城・観音寺城と、京極家との境界である愛知川以北が一望できるとありますが、いまは高い樹木に覆われて周囲を見渡すことはできません。

道誉の時代、江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていましたが、時代は下って戦国時代になると、六角氏の勢力が拡大して国境は北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれました。

その後、永禄3年(1560年)の野良田の戦い浅井長政六角義賢を破り、勝楽寺城は浅井氏の支配下におかれました。

しかし、その後、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされます。


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城跡の尾根伝い南端には、「上臈落とし」いわれる場所があります。


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説明看板によると、何か悲しい伝説があるみたいですが、調べがつきませんでした。

ただ、その立地からみて、ここも南側の見張り台的役割を果たしていた曲輪跡なんじゃないかと想像します。


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上臈落としからの西(湖東平野)の眺望です。

前方に見える山は、荒神山城跡のある荒神山です。


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そして南西に目を移すと、樹木のあいだに六角氏の居城、観音寺城のある山が見えます。

絶好の見張り台です。


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最後に、下山して麓から勝楽寺城を撮影。

いかにも城跡らしい山の形状ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-20 00:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その37 「滝山城跡」 神戸市中央区

「その8」で紹介した布引の滝の西側にある滝山城に来ました。

場所は、JR山陽新幹線・新神戸駅の裏山です。


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滝山城の築城年代は定かではありませんが、京都東福寺良覚が記した『正慶乱離志』によると、摩耶山合戦から1ヶ月余りあとの元弘3年(1333年)4月、赤松則村(円心)の陣として、ここ滝山城が使われたと記されています。


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城跡への登山道は2とおりありますが、この日は先に「布引の滝」を訪れたので、東から攻めます。

標高は316.5m、比高は約250mの山頂にある滝山城への登山道は、ハイキングコースとして整備されているので、藪をかき分けて進むような場所はありません。

ただ、斜面はかなり急で、結構ハードです。


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道中から望む神戸市内の眺望です。

目の前に広がるのは三宮の町並み

神戸市のド中心部です。

このような大都会のすぐ近くに中世の山城跡が残っているというのが、山と海が接近する神戸ならではという気がします。


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しばらく登ると、いかにも曲輪跡と見られる削平地が次々に表れます。


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ここ滝山城跡の遺構の保存状態は良好で、30以上の曲輪跡が確認されています。


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たいぶん上まで進むと、ところどころに石垣跡と見られる大きな岩が見られます。


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これなんて、間違いなく石垣跡でしょう。


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傾斜がゆるやかになって、尾根伝いになると、いよいよ土塁堀切などの遺構の宝庫となります。


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三の丸下に設置された説明板です。


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縄張り図です。


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大きな堀切跡です。


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立派な土塁跡です。

写真じゃ、なかなか伝わりづらいですね。


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三の丸跡と思われます。


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そして二の丸跡

ハイキング客用のあずまやが設置されています。


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そして頂上の本丸

昭和13年(1938年)に建てられた石碑があります。


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摩耶山合戦に勝利した赤松軍は、これを好機と捉え、京都近くまで攻め上りますが、そこで今度は逆に幕府六波羅軍に反撃されて後退し、ここ滝山城に立て籠もったそうです。

赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃し、ふたたび六波羅軍を攻撃しますが、またしても敗退。

その後、赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六波羅軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たし、六波羅を攻略するに至ります。

その拠点となったのが、ここ滝山城だったんですね。


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その後、滝山城の城主は則村の息子・赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子・赤松光範に戻ったりしたそうですが、やがて歴史の記録からその名が消え、再び滝山城が記録に登場するのは戦国時代、三好長慶の西の拠点として松永久秀が改修したことで登場します。

その後も幾度となく戦いの舞台となり、最期は、織田信長に反旗を翻した荒木村重花隈城籠城戦のとき、落城したと考えられているそうです。


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本丸からは、木が茂って景色が見えません。

たぶん、木樹が枯れただったら、神戸の町を望めたのでしょうね。

ここを訪れたのは5月14日。

森林浴には最適な季節でしたが、景色や遺構の縄張りを見るには、冬のほうが良かったかも。

山城を訪れるのは、真冬がいいですね。


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下山して新神戸駅南側から撮影。

写真左側の山が、滝山城です。

700年経った今も、神戸の中心部を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-08 11:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その36 「太山寺・太山寺城跡」 神戸市西区

神戸市西区にある太山寺を訪れました。

ここは、霊亀2年(716年)、元正天皇(第44代天皇)の勅願寺として藤原鎌足の子・藤原定恵が開山し、孫の藤原宇合が建立したと伝わる寺で、南北朝時代に建てられたとされる本堂国宝に指定されており、神戸市内ではもっとも由緒あるお寺です。


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この太山寺が、「その29」で紹介した「摩耶山合戦」と、深く関わっていたといいます。


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元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)の挙兵を知った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王は、ここ太山寺の衆徒に赤松応援を命ずる令旨を出しました。

令旨とは皇太子、皇后、親王などが発する文書のことです。


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この令旨は現存するそうで、現在、太山寺に保管されているそうです。

それによれば、「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と記されており、これを受けた同寺の衆徒は、さっそく摩耶山城に陣を布く赤松軍に加勢します。


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現存する太山寺衆徒の軍忠状によれば、赤松軍に加わった太山寺衆徒は、多くの死傷者を出しながらも、摩耶山の合戦、尼崎の合戦、坂部村の合戦を戦い、さらに京都まで攻め上ります。


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この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


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寺の東の背後の山上には、太山寺城跡があります。


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城跡への登山道には、古い石仏が連なるように並んでいます。


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堀切跡でしょうか?


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郭跡らしき山頂の削平地には、大きな石仏が建てられていました。

ここが本丸跡だとしたら、比較的小さな規模の城だっただろうと思われます。


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鎌倉幕府の滅亡に一役買った太山寺は、その後、多くの末寺をかかえ、寺内には、41もの支院や僧坊を数えましたが、やがて時代とともにその力を失っていき、現在は五つの支院を残すだけとなっています。


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現在の太山寺は、そんな往時を偲ぶものものしさは少しもなく、桜や紅葉の名所として、市民に広く親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-06 19:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その34 「唐櫃城跡(専念寺)」 神戸市北区

神戸市北区の有馬温泉の近くにある「専念寺」というお寺の地が、かつて唐櫃城があったとされる場所で、赤松則村(円心)が一時滞在していたといわれているそうで、訪れました。


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専念寺は、「その33」で紹介した五社八幡神社から直線距離にして約2km南にあり、摩耶山城からは六甲山脈を超えた北側になります(神戸では、六甲山北側のことを「裏六甲」といいます)。


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現地説明板によると、円心が滞在していたのは「建武の頃」とありますが、その立地から考えると、円心がこの地に居たのは、摩耶山合戦の頃、すなわち元弘3年(1333年)2月前後ではなかったかと想像します。


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説明板によると、境内には円心とその三男・赤松則祐供養塔があると紹介されているのですが、肝心の供養塔を示す標示がなかったので、どれかわかりませんでした。

ご住職に訪ねようと思ったのですが、どなたかの法事が行われていて、聞くこともできず・・・。

とりあえず、それっぽい古い石碑を片っ端に撮影しました(笑)。


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これなんて、円心と則祐が二つ並んでるっぽくないですか?


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たぶん、この中のどれかです(笑)。


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唐櫃城の遺構らしきものは確認できませんでした。

たぶん、この裏山なんでしょうが、柵があって入れませんでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-31 17:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その32 「五鬼城展望公園」 神戸市灘区

摩耶山の麓にある、「五鬼城展望公園」を訪れました。

かつてここは摩耶山城のひとつだったと考えられています。

摩耶山の登山口に位置し、「摩耶山合戦」に関わっていないはずはないと思い、シリーズに加えました。


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「五鬼城展望公園」へのルートは、摩耶山登山道と同じです。


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五鬼城の名称の由来は、昔この地を支配していた豪族・五鬼氏からきたものだそうです。

以下、説明板より引用。


五鬼城之由来


昔この地に五鬼氏と云う豪族が住んでいた。祖頃この辺りは昼尚鬱蒼たる大森林に覆われていた。この自然の要塞を砦として外敵のしばしばの襲来にも一度として敗れた事なく、従って一族は益々隆盛を極めて繁栄したものである。当時この付近に住む土着民達の暮しは大変貧しく「病気貧乏ふしあわせ」等で苦しむ人々が多く実に憐れな生活であった、此の姿を見た五鬼氏は五情の戒めを説いて幸せの道として多くの人々の救済に尽くされた。この素晴らしい威徳を讃えて永くこの地の守護神とされたが、今日では僅かに五鬼城の名称のみ残されているにすぎない。


五鬼城講


調べてみましたが、五鬼氏という豪族がいつの時代にいたのか、よくわかりません。

そもそも、この伝承が事実かどうかも定かではありません。


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南北朝時代から戦国時代にかけて、志摩国の海を支配した水軍で有名な九鬼氏がいますよね。

「九鬼氏」「五鬼氏」・・・なんか関連があるのかな?

ここ摩耶山周辺も海に近い海運の要地

あるいは、五鬼氏も兵庫津を支配する水軍だったのでは・・・なんて、これ、すべて私の想像で、根拠はありません。


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公園は標高270m付近にあり、神戸市東部から大阪湾にかけて一望できる展望台になっています。


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西南の三宮方面の眺望です。


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ビルの間に港神戸の象徴ポートタワーが埋もれています。

わたしが子どもの頃は、ポートタワーが神戸でいちばん高かったんですけどね。


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真南の眺望です。

遥か彼方に見えるのは、大阪泉南から和歌山にかけてです。


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そして西側の眺望、大阪湾が一望でき、その彼方に見える山は、右から「その14」「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山、その左が葛城山、そして「その27」で紹介した二上山です


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拡大です。


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ちなみに写真左端に見えるのが、「その30」で紹介した神戸大学キャンパス、その少し右に見える森が、「その31」で紹介した六甲八幡神社です。

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神戸大学にズームイン。

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六甲八幡神社にズームイン

こうして見ると、戦場となった位置関係がわかりますね。

赤松則村(円心)・則祐親子はこの地に立って一王山十善寺の配下と連携を取りつつ、八幡の森に陣を布いていた六波羅軍を撃破したわけです。

たしかに、この位置関係を見れば、赤松軍の圧勝の理由がわかるような気がしますね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-29 18:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その30 「赤松城跡(神戸大学キャンパス内)」 神戸市灘区

神戸市灘区の山の手にある国立神戸大学のキャンパスが、赤松則村(円心)の建てた「赤松城」だったという伝承があります。


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『太平記』によると、円心は大塔宮護良親王令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と伝えたといわれますが、その赤松城というのが、ここ神戸大学の敷地だったとの説です。


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明治41年(1908年)の発掘調査遺構石垣跡が発見され、ここが『太平記』に出てくる赤松城に違いないという郷土史家の意見から、神戸大学構内に「赤松城之址」という標柱も立てられ、昭和7年(1932年)9月には、このあたりの地名も赤松町と名づけられました。

ところが、その後の調査で、実際の赤松城は播磨国佐用郡の苔縄城とわかり、ここにあったのは一王山十善寺の跡であることが判明。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際に、円心はここ一王山十善寺をとして利用し、六波羅軍によって焼かれたようです。


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城跡(砦跡)は大学敷地内では最も高い場所にある経済学部付近だと知り、キャンパス内を歩いてみたのですが、「赤松城之址」の標柱は見当たりませんでした。

あるいは、もうないのかもしれませんね。


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神戸大学から見た摩耶山です。

この地を訪れてみて、なるほど、摩耶山合戦に際しては、東の砦として絶好の場所だと思いましたね。

西に摩耶山を見渡せ、このちょうど真南には、六波羅軍が陣を布いた八幡の森が一望できたはずです。


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標柱は見つかりませんでしたが、「赤松町」という地名はしっかり残っています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-24 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)