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太平記を歩く。 その14 「上赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

隠岐に流された後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、それでも意気消沈することなく、隠岐から全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばし、鎌倉幕府倒幕を呼びかけます。

そんななか、元弘2年(1332年)11月、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王吉野挙兵

それに呼応するかたちで12月、楠木正成も挙兵します。


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再挙兵した楠木正成下赤坂城を奪回しますが、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いた上赤坂城が楠木氏の本城となります。


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上赤坂城は足谷川城ノ谷で囲まれた自然の要害で、標高約350m、比高150mの山頂に築かれた山城です。

上の案内板にあるように、上赤坂城を中心として猫路山城、国見山城、枡形城などの出城が築かれており、この一帯を赤坂城塞群と呼びます。

この城塞群は、尾根伝いに南方の金剛山まで続きます。


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登山口に設置されていた上赤坂城の縄張り図です。


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登山口です。


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登山口を登るとすぐに、「一の木戸跡」があります。

「木戸」とは城門という意味で、「一ノ木戸」は、いわば大手門ですね。


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登山道はこんな感じで、それほど険しい道ではありません。


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一ノ木戸跡から約50m登ると、「二の木戸跡」があります。


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さらに200mほど登ったところにある「三の木戸跡」です。


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「そろばん橋跡」です。

この両側に2重の堀切跡があったそうですが、草深くてよくわかりません。

やっぱ、城跡の遺構を見るには、雑草の枯れたに来ないとだめですね。


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二ノ丸本丸の分岐点です。

この辺りを「茶碗原」と呼びます。


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「二ノ丸跡」です。

結構な面積の削平地でしたが、人の胸ぐらいの高さの雑草が覆い茂っており、季節がらマムシが怖くて中には踏み込めませんでした。

やっぱ、城跡は冬に来るべきです。


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そして「四の木戸跡」を経て本丸に向かいます。


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「本丸跡」です。


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「史蹟 楠木城趾」と刻まれた石柱は、「昭和十四年三月建設」とありますが、その土台部分は、「昭和五十八年建立」と刻まれています。

40年以上、どこか他の場所にあったのでしょうか?


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「上赤坂城趾」と刻まれた石柱の方は、「昭和十一年四月二十五日」に建てられたもののようです。


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本丸跡からは、大阪平野が一望できます。


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上の写真の左に見える塔は、某教団の平和の塔です。

下の写真は、千早赤阪村郷土資料館にある上赤坂城の縄張り模型


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元弘3年(1333年)2月22日、大手筋から押し寄せた幕府軍は四の木戸まで迫り、激しい攻防戦が展開されますが、やがて幕府軍によって水路が断たれると、楠木軍の大将・平野将監(重吉)ら約300の城兵は堪えきれず、10日間の攻防戦の末、降伏

ときを同じくして、大塔宮護良親王の吉野山も陥落し、鎌倉北条幕府の大軍は楠木正成の千早城に殺到することになります。


次回は、その千早城跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-16 18:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その13 「下赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

大阪府は南河内郡の千早赤阪村にある、下赤坂城跡にやってきました。

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が逃亡先の笠置山で挙兵した際、楠木正成がこれに呼応してこの地で挙兵したと伝えられます。


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別名「赤阪城」とも呼ばれる下赤坂城は(の違いに注意)、城跡としての遺構は残っていませんが、現在、想定される千早赤坂村立中学校の丘の上に、石柱が建てられています。


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石柱には、「昭和十四年三月建設」と刻まれています。


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『太平記』によると、正成は笠置山が危なくなったときにはここに天皇を迎えようと考え、急いでこの地に城を築いたと伝えられます。


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9月27日に笠置山を追われた後醍醐天皇は、この地に落ちる途中に捕らえられてしまいますが、大塔宮護良親王はこの地に落ち延びることができました。

このため、下赤坂城は10月中旬から鎌倉幕府軍大攻撃の的となりますが、正成は熱湯二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて幕府軍を翻弄したと伝えられます。


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しかし、所詮はにわか造りの城であったための、しだいに大軍の攻撃に耐え切れなくなり、10月21日に落城

正成は城に火を放って金剛山に逃げました。

このとき、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体が20体以上見つかり、これを楠木正成とその一族と思い込んだ幕府軍は、11月に鎌倉に帰陣したといいます。

翌年12月、再挙兵した正成は夜襲をかけてこの城を奪回しますが、間もなく落城。

しかし、その後、千早城の戦いの最中に、鎌倉幕府滅亡します。


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下赤坂城跡は石碑が建てられているのみで、城跡としての魅力はさほどありませんが、わたしはかねてから一度ここを訪れてみたいと思っていました。

というのが、これ。


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石碑の建つ丘から見下ろす、広大な棚田です。

どうです、実に美しい光景でしょ。


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この日は梅雨真っ只中の7月3日。

でも、どうしてもこの景色が見たくて、田植えが終わって稲穂が育ち始めるこの季節で、天気の良い日をずっと狙っていました。

やっと、来ることが出来ました。


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この美しい景色を見ると、ここで幾度と無く戦が行われたなどとは、想像もつかないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-15 17:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は玉垣が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その5 「天守台」

津山城シリーズ最終稿です。

本丸西側には、天守台石垣がそのままのかたちで残っています。

残念ながら明治初期の廃城令によって天守は取り壊されていますが、かつてここに五層の立派な天守がありました。


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津山城の天守は地上5階建で、破風を持たない質実な造りだったそうです。

城の造りはその築城主の人間性を表しているようにも思いますので、森忠政という人は、きっと生真面目な人物だったのでしょうね。

高さは天守台石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模のものだったようです。

壁は漆喰塗りの白壁とし、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものでした。


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現存している天守台には、自由に登ることができます。


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上から見ると、こんな感じ。


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天守台から見た本丸跡です。


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天守台から見た津山城西側の眺望です。


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こちらは南側の眺望


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こちらは、天守台から見た「備中櫓」です。

天守の南西側、西側、北西側を取り囲むように、「多門櫓跡」があります。


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こんな感じの細長い空間で、天守を西側から守っていた櫓です。


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多門櫓跡から見た天守台です。


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多門櫓北面は「七番門」に接続されています。

そして、下の写真は、本丸北側の「長屋櫓」から見た天守台。

なんか、但馬の竹田城みたいですね。


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森氏は初代の忠政から4代続きましたが、元禄10年(1697年)、4代藩主・森長成の跡継ぎを立てられずに改易となり、翌年に松平宣富が美作10万石を領して津山城に入城します。

その後、松平氏は慶倫まで9代続き、明治維新を迎えます。

江戸時代の終焉とともにその役目を終えた津山城は明治7年(1874年)から取り壊されますが、石垣はそのまま残され、明治32年(1899年)から公園化が進められ、現在に至ります。

この豪壮な石垣群を、よく残してくれていたものですね。

天守台の脇には、「森侯入封三百年記念碑」と刻まれた石碑が建てられています。


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最後に、三の丸に建つ松尾芭蕉の句碑を紹介します。


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鐘つかぬ里は何をか 春のくれ


今度は、名物の桜の季節に訪れてみたいものです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-11 22:40 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その4 「備中櫓」

60棟以上あったとされる津山城の櫓のなかで、現在ひとつだけ復元されているのが、本丸から南へ張り出した石垣上に建てられた「備中櫓」です。


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高さ約13m、幅約24m、奥行き約8mで、延べ面積は約288㎡という津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物だったと考えられます。


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津山城は美作国の城なのに、なんで“備中”櫓なんだ?・・・という疑問が浮かびますが、『森家先代実録』という史料によると、当時の鳥取藩主で、のちに備中国松山城主となる池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓だからだとか。

長幸と津山藩の関係は、初代津山藩主・森忠政の娘が池田家に二人嫁いでおり、忠政にとって長幸は娘婿にあたる人物です。


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奥向御殿のさらに奥という立地を考えると、備中櫓は藩主もしくはその家族という限られた者だけのスペースだったと推定されているそうです。


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そのため、通常の櫓ではまれな全室畳敷き、天井張りという構造で、絵図によると、「御座之間」「御茶席」「御上段」などが存在しており、それらも復元されています。


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御座之間です。


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御茶席です。


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御上段の間です。


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そしてです(笑)。


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この備中櫓は、森忠政が津山城の築城を開始してから400年の節目にあたる平成16年(2004年)に復元整備されたそうです。


次回、最終稿




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-10 23:12 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その3 「本丸」

ようやく本丸まで登ってきました。

3,496坪の本丸跡にも、多くの櫓跡が現存しています。

そのいくつかを追っていきます。


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まずは本丸東側の「矢切櫓跡」です。

石垣がみごとですね。


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その南側にある「包櫓跡」

「鐘撞堂」があります。


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矢切櫓跡北側にある「月見櫓跡」


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さらにその北側にある「栗積櫓跡」です。


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栗積櫓跡からみる津山城北面の眺望です。

遠方の山の頂には、「神楽尾城跡」が見えます。


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栗積櫓跡の西側にある「大戸櫓跡」


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その南側に位置する「長屋櫓跡」です。


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さらに、そこから裏鉄門跡を挟んで南にある「腰巻櫓跡」


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そして、そこから西側に向かった天守台北にある「長櫓跡」

そして、本丸南西に復元された「備中櫓」があります。


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津山城の建造物は、本丸に31棟、二の丸に12棟、三の丸に17棟が建てられ、門は本丸に15、二の丸に、三の丸に11あったそうです。

これは広島城姫路城よりも多い数だそうで、両城に比べて比較的コンパクトな面積の中に、これだけの建物がひしめき合っている様は、実に壮観だったでしょうね。

もともと、この地には嘉吉年間(1441~44年)に山名忠政鶴山城を構えていましたが、慶長9年(1604年)に森忠政が鶴山を「津山」と改め、12年間の年月をかけて築城したのが津山城です。

当時は築上の最盛期であり、おそらく、当時の技術の粋を集めた城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-06 13:12 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その2 「二の丸」

津山城二の丸に登ってきました。

かつて二の丸には、12棟の櫓と大小7棟の門があったそうです。


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現在二の丸広場となっているこの地には、かつて二の丸御殿があったと伝わり、津山藩3代藩主・森長武は、一時ここに移り住んだこともあったそうです。


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その後、4代藩主・森長成のときに改易となった森家に代わって、越前松平家から松平宣富が藩主として津山城に入城しますが、間もなく、二の丸の殿舎は撤廃されたそうです。


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二の丸から見上げた「備中櫓」です。


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二の丸から本丸への通路を仕切る切手門跡です。

2階部分は、南側にある「弓櫓」に接続されています。


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その弓櫓から見た備中櫓です。


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こちらは、搦手側の二の丸と本丸を結ぶ「裏中門跡」です。

左側の木の階段は、石階段が不安定のため観光客用に設置されたものです。


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裏中門横にある「荒布櫓跡」です。


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裏中門を上ったところにある「裏鉄門跡」です。

ここを上がると本丸に入ります。


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こちらは切手門を上がったところにある「仕切門(十四番門)」


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そしてこちらがその横にある「表鉄門」

本丸に入る正面入口です。


さて、次回は本丸を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-05 17:15 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その1 「城門~三の丸」

過日、岡山県津山市にある津山城跡を訪れました。

津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山に築いた平山城で、別名・鶴山城とも呼ばれます。


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現在は復元された備中櫓以外石垣しか残っていませんが、その豪壮な石垣群はみごとなもので、たいへん見ごたえがあります。


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入口の側には、忠政の銅像があります。

どう見ても、4頭身ほどの人間離れした銅像ですね(笑)。

忠政は、織田信長の小姓だった森蘭丸の弟にあたります。

兄貴は美少年に描かれることが多いのですが、弟はどう見てもがきデカのような・・・(笑)。


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冠木門です。

ここで入場料300円を払って、城跡公園内に入ります。


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冠木門を入ってすぐの階段を登ると、三の丸東の高台に鶴山館という建物があります。

ここは、かつて津山藩の学問所として建てられたもので、明治維新後も小・中学校や幼稚園、女学校などに使用され、明治37年(1904年)にこの地に移設されたものだそうです。


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その鶴山館の建つ高台から見た石垣群です。

みごとですね。

中央に見える櫓は「備中櫓」といい、平成17年に建てられた復元です。

下の写真はアップ。


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三の丸です。


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ここ津山城は桜の名所だそうで、三の丸、二の丸ともに桜並木が続いています。

秋は紅葉が綺麗みたいですね。

わたしが訪れたこのときは初秋だったで、桜も紅葉もありません。


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三の丸から二の丸へ登る「表中門跡」「見付櫓跡」です。

表中門は城内にある門のなかでは最大のもので、正面玄関にあたります。

門の櫓部分の長さは16間(約32m)もあり、これは、大坂城や江戸城に匹敵するほどの規模だそうです。


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表中門跡から見上げた備中櫓です。


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こちらは搦手から三の丸に降りる、「裏下門跡」です。


さて、次回は二の丸を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-04 15:02 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「ポケモンGO」ならぬ「発見!ニッポン城めぐり」にハマった2016年下半期。

今年もあとわずかになりましたが、今年最も話題になったもの代表してひとつあげるとすれば、「ポケモンGO」ではないでしょうか?

聞くところによれば、世界で5億ダウンロードに達したのだとか。

世界中でスマホが何台使用されているのか知りませんが、5億っていうと、たぶん、かなりの確立ですよね。

もはや社会現象などといった言葉では言い尽くせない、ひとつの歴史的事象になりつつあります。

たかがゲーム、されどゲームですね。


で、じゃあ、わたしは「ポケモンGO」をやってるかっていうと、実はやってません

これまでスマホゲームってのを全くやったことがなかったのですが、これだけ話題になってるのだから、話のネタにやってみたらよかったのでしょうが、実は、「ポケモンGO」が日本でダウンロード開始された今年の7月から、別のスマホゲームにハマっちゃってたんですね。

それが、これ。


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「発見!ニッポン城めぐり」というスマホゲームで、GPS機能を使って、日本全国に設定された3,000ヵ所城郭をめぐるゲームで、城はすべてわが国に実在した城跡で、実際にその地に足を運んで城を攻略していくというゲーム。

つまり、「ポケモンGO」と同じシステムで、いうなれば「城めぐりGO」です(笑)。


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遊び方はいたって簡単、城跡の所在地近くで城攻めボタンをタップするだけ。

攻略エリア内に城があれば、上のような画面がでて攻略成功です。

攻略エリアは城によって様々で、数キロメートル離れたところからでも落とせる城もあれば、寸前まで近寄らないと落とせない城もあります。


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上の画像はトップ画面。

城は、行軍によって稼いだお金で私が築城したものです。

金といっても、ゲーム内のバーチャルな通過(両)で、加金はいっさいしないで楽しめます。

ゲームをはじめて約半年のわたし現在の成績は、271城攻略、308万石の知行を治めています。


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271城の内訳は上のとおりで、主に近畿エリアが中心です。

旧令制国内のすべての城を攻略すると、国守の官位が名乗れます。

ちなみに、現在、黄色い文字になっている和泉国河内国を平定しており、河内守を名乗らせていただいております。


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上の画像は総攻略城数で与えられる官職の一覧です。

黄色い文字が、わたしが就任した官職です。

総攻略城数271城のわたしは、現在、六位下・宮内まで与えられましたが、先はまだ長い。

3000城すべてを平定すると、正一位・征夷大将軍になれるみたいです。

そんな人いるのかなあ。

官位官職とは別に、同じ城を何度も攻めることによって、1ヶ月間、その城の城主になれます。

ひとつの城は2時間ないし3時間に1回しか攻略できず、1ヶ月毎に集計して1位が城主、2位が城代、3位が城番になれます。


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先月、はじめて城主争いを制覇し、神戸市東灘区にある平野城12月度城主になりました。

でも、来月は陥落決定です。

この画面もあと2日で見納め。


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あと、行軍中に牢人に遭遇すると、登用して家臣にすることができます。

つまり、家臣ゲットだぜ~!ですね(笑)。

現在、98人の家臣を抱えています。


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見てのとおり、結構錚々たるメンバーでしょ。

このなかでいちばん高い知行は豊臣秀吉15万石

現在、308万石中246万石を家臣登用に充てていて、わたしの石高は62万石です。


あと、定期的に合戦イベント狼煙伝達ミッションなど、攻城以外の楽しみも盛り沢山。

もともと史跡めぐりが趣味だったわたしとしては、いいアイテムができました。

実はこのゲーム、5年前からあったそうです。

GPSと連動させたゲームって、「ポケモンGO」が先駆けじゃなかったんですね。

このゲームを参考にしたとか?

まあ、こちらは社会現象にはなってないですが(笑)。


以上、わたしの2016年下半期のマイブームの紹介でした。

それでは、良いお年を。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-31 04:04 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その44 ~西脇城跡~

兵庫県西脇市にあったとされる「西脇城跡」を訪れました。

ここは、三木城から直線距離にして20km以上北上した場所にある城ですが、ここも、三木合戦時に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わる城です。


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西脇城跡のある西脇市は、東経135度・北緯35度が交わる地点で、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとPRしています。

北は北海道から南は沖縄まで、日本列島すべての時刻はここ東経135度線(子午線)に合わせていますから、日本で最も正確な時刻を刻むまちでもあります。

もっとも、西脇城があった時代には、そんなこと知る由もなかったでしょうが。


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西脇城の遺構は市街地に埋没して全く残されておらず、パチンコ屋駐車場脇の一角に、石柱のみが建てられています。


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石柱横の階段を上ると、大きな石碑五輪塔、石地蔵が建てられた廟所になっています。


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高さ3mほどの石碑には「西脇城主高瀬氏政所之址」と刻まれています。

高瀬氏播磨守護職赤松氏の一族で、三木合戦時は三木城主の別所長治方に与していました。


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こちらは五輪塔

「高瀬家」とありますから、おそらく高瀬家の誰かの墓石でしょう。


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こちらの石仏にも、「高瀬家」とあります。


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西脇城は、古地図の復元から約100m四方を堀と土塁で囲った方形居館と呼ばれる城だったことがわかっていて、現在、廟所がある場所より西にあったと伝えられていますが、現在はその痕跡を見ることはできません。

また、城主についても、高瀬土佐守円山兵庫頭祐則が伝えられ、最近では這田荘と呼ばれていたこの地域の政所であったとの研究もあるそうです。

三木合戦時の城主と伝わる高瀬氏は、合戦を境に滅亡したと伝えられます。


次回も西脇市内の史跡を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-07 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)