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三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~

前稿の細川城跡から直線距離で7kmほど北上した兵庫県加東市にあったとされる「小沢城跡」を訪れました。


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三木合戦が行われる直前、細川城主の冷泉為純・為勝父子が三木城主・別所長治の家臣で中村城主岡村秀治に攻められたとき、当時、ここ小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援に駆けつけますが、力及ばず敗北。

為純は討死し、息子の為勝は依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて観念して自刃します。


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写真の丘の上の森が、小沢城跡といわれています。

探索してみようと思ったのですが、柵がめぐらされていたため、森に入るのはやめました。


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小沢城の築城年代は定かではありませんが、一説によると、文治2年(1186年)に依藤豊季平家追討の功で播磨東条谷の地頭職に任ぜられたとき、ここ小沢城を築いたとの伝承があります。

それが事実なら、かなり古い歴史を持つ城ですね。

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小沢城跡から800mほど北西に、冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と伝わる場所があり、慰霊碑が建てられています。


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「冷泉為勝・依藤太郎左衛門自刃の碑」です。


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墓所です。

右が冷泉為勝、左が依藤太郎左衛の墓石です。


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「天正六年四月一日」と刻まれています。

羽柴軍が三木城の包囲を開始したのが3月29日。

二人が自刃したのは、その3日後だったわけです。

三木合戦最初の犠牲者だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-19 01:07 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その37 ~細川城跡~

三木城から北東へ7kmほどのところにある「細川城跡」を訪れました。

城跡というより、居館跡といった方が正しいでしょうか。

ここは関白藤原氏の血を引く名門・冷泉家の居館でした。


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三木合戦が行われる直前、三木城主の別所長治は冷泉家に対して反織田方に与するよう誘いますが、当時の主だった冷泉為純とその長男・為勝がこれを断ったため、別所氏の家臣で中村城主岡村秀治に攻められて為純は討死。

為勝は救援に駆けつけた小沢城主依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて自刃して果てます。

この戦いが、三木合戦関連の最初の戦いでした。


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居館跡に建つ銅像は、為純の三男で、のちに「近世日本儒学の祖」として名を成す藤原惺窩の像です。


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父・兄が討ち死にしたとき惺窩は17歳。

三男ということで幼いころから龍野の景雲寺で禅僧としての修行中だった惺窩は、凶報に接し、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に面会して仇討家名再興を願い出ますが、秀吉から時期を待つよう諭され、やむなく母や弟妹を伴い京都の相国寺に逃れました。


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以後、としての学問に励みますが、やがて秀吉の天下となり、朝鮮国使節が来国した際、惺窩は秀吉から使者との筆話役を命じられました。

この縁で惺窩は儒学に目覚め、仏道を捨てて学者の道を進みます。


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以来、学ぶところ幅広く、特に、それまで学問の一部にすぎなかった儒学を体系化し、ひとつの独立した学問として作り上げたことにより、広く名が知れ渡りました。

しかし、時の権力に媚びることを嫌い、のちに徳川家康から高禄をもって招かれるもこれを辞退。

士官を好まず自由気ままな学者人生を送りました。

名門・冷泉家に生まれながら、権力争いのなかで滅びていった父や兄の姿を見たことで、権力とは無縁の暮らしを望んだのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-17 20:54 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その36 ~渡瀬城跡~

三木城から直線距離にして13kmほど北東の吉川町にある「渡瀬城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦のときに別所方に与し、羽柴秀吉軍によって滅ぼされた城です。

渡瀬城は兵庫県立吉川高校の裏山にあります。

おそらく、高校の敷地も城の一部だったんじゃないでしょうか?


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高校前の県道354号線を南下すると、城跡の案内表示があります。

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どうやら、あの丘陵が城跡のようです。


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法光寺
という寺に向かう参道を少しだけ進み、すぐに道路脇の畑道を入っていきます。

そこから既に城跡は始まっていますが、案内表示等は何もないので、探りながら進みます。


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渡瀬城の歴史は古く、佐々木源十郎義範守護職として文治元年(1185年)にこの地に移り住んだのが始まりとされています。

その後、南北朝時代の明徳2年(1391年)に起きた明徳の乱において、渡瀬右衛門綱光赤松義則別所敦則らとともに戦功をあげ、その功により将軍・足利義満から摂津・播磨の境に2万石の領地を賜り、ここ渡瀬城を築いたとされます。


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時代は進んで三木合戦のときの城主・渡瀬小治郎好光は、妻を別所氏から迎えていたこともあって別所方に与し、弟の渡瀬左馬介好勝に兵を添えて三木城に送り込むと、自身は渡瀬城に立て籠もりました。

しかし、三木城が落ちる前に渡瀬城は落城。

その後、伊丹有岡城荒木村重をたよって落ち延びたと伝わります。


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城跡内の一角に、墓石が2つありました。


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ひとつは、家老の石田治重の墓。

治重は渡瀬城落城を機に帰農し、城下の渡瀬に永住し、地域の発展に尽力したそうです。


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そしていちばん高いところにある墓石は、城主・好光の弟で三木城に籠城していた好勝のものでした。

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なぜ城主・好光の墓ではないのか・・・と考えたのですが、おそらく弟の好勝は三木城の籠城戦で討死し、兄の好光は城を捨てて落ち延びたことから、弟の好勝が手厚く葬られたのではないかと・・・。


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最後に城跡東側の景観。

いい天気です。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-11 23:44 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その35 ~福中城跡~

神戸市西区にある「福中城跡」を訪れました。

「城跡」といっても、それを思わせる遺構は存在せず、正確には「城があったとされる場所」です。

ここ福中城も、他の諸城と同じく、羽柴秀吉軍の手によって落城したと伝わります。


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現在、城のあった場所には国道175号線が南北に走っています。

その「福中」という交差点から「福中北」という交差点あたりが、福中城の敷地だったそうです。


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国道が通る以前は、内堀、外堀、居館、土居など多くの遺構が残っていたそうです。

神戸市内では最も遺構が残る城跡だったとか。

しかし、国道が通ることが決まると、たちまち地主さんたちはその土地を手放してしまい、またたく間にその姿は都市計画に埋もれてしまったそうです。
付近を歩いてみましたが、これといって往時を思わせるものは見られませんでした。


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福中北の交差点近くには、「福中城主・間島彦太郎菩提寺」と記された宝珠寺という小さな寺があります。

ここは間島彦太郎氏勝自身の創建と伝えられ、彦太郎の墓石と伝わる五輪塔があります。


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五輪塔横にある説明板です。


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説明板によれば、三木合戦の際、間島家では父・兵衛尉氏常が別所方につき、子・彦太郎氏勝が秀吉方について親子で戦ったとあります。

おそらくこれは、いずれが勝っても家名が続くための策で、この当時、めずらしい話ではありませんでした。


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その甲斐あって間島家の家名は残りましたが、三木合戦後、福中城は廃城となり、間嶋氏は明石海峡を挟んで対岸にある淡路岩屋城主に任命され、この地を去りました。


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その後、彦太郎は秀吉に仕え、九州征伐文禄の役などに従軍した記録が残されていますが、その後、文禄の役の功で加藤嘉明に淡路国岩屋1700石を与え、間嶋氏は何らかの理由で転封あるいは改易になったのかもしれません。

その後の彦太郎の動向はわからなくなりますが、一説によると、関ケ原の戦い西軍に味方し、間島氏は滅亡したとされます。

その後、彦太郎は同郷のよしみを頼って、筑前福岡の黒田官兵衛孝高に寄食したともいわれますが、これも定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-10 23:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その34 ~松原城跡~

前稿の茶臼山城跡から直線距離にして3kmほど東にある神戸電鉄三田線道場駅の東に、「松原城跡」があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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城跡というより、古墳跡といった感じに見えますね。


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丘陵はそれほど大きなものではなく、おそらく、この丘を中心とするこのあたり一帯が城だったのでしょう。


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説明板によると、松原城は別名「たんぽぽ城」とも言うそうですが、調べてみると、それ以外にも道場城、佐々城、蒲公英城、日下部城、道場川原城などなど、複数の名称があるようです。

まあ、江戸時代の城の名称というのは正確なものでしょうが、戦国時代以前の城の呼び名は、城主の姓だったり村の名称だったり複数あるものです。

おそらく、正式名称などといったものはなく、それぞれが、いろんな呼び方をしていたのでしょうね。


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「松原城」という名称は、城主の松原氏からとったものだと思われます。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代の播磨守護職・赤松則村(円心)の孫、赤松氏春が築いたと言われます。

氏春は永徳3年(1386年)に播磨清水寺の戦いで敗死したため、松原城は一時廃城となりますが、その後、応仁の乱以後に赤松氏幕下の松原越前守貞基が城主となり、以後、戦国時代を通して松原氏の居城となりました。


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三木合戦のときの城主・松原義富は、妻が「その13」で紹介した淡河城主・淡河弾正忠定範の娘だった関係で別所方に与し、野口城の戦いでは別所方の大将のひとりとして活躍したと伝わります。
その後、松原城に嫡子の貞富とともに籠城。

これに対して、羽柴軍は中川清秀、塩川国満、山崎家盛、池田輝政が城を囲み、『摂北有馬郡丹北城軍記』によれば、包囲軍の一斉攻撃によって城方はまたたく間に切り崩されたといいます。

義富は城を脱出すると、尼が谷に入り、そこで自害したという説や、また別の説では、三木城に籠城し、三木城が落ちたあと北谷村に逃れ、そこで帰農したともいいます。

いずれにせよ、ここ松原城は、羽柴軍を前になすすべもなく落城したようです。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-09 21:59 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その33 ~茶臼山城跡(上津城)~

神戸市北区にある「茶臼山城跡」を訪れました。

「茶臼山」という名称の山は、全国に200ヶ所以上あるといわれ、その多くが戦時の陣所として利用されていますが、ここも例外ではなく、三木合戦の際には別所方のとなった場所です。


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ここ茶臼山城は別名、上津城ともいわれ、現在の住所でも、神戸市北区上津としてその名が残ります。

あるいは、「茶臼山城」という名称は、全国各地の戦場となった茶臼山にあやかって、そう呼ばれたのかもしれませんね。


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現在、城跡は「茶臼山緑地」として公園整備されています。


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「南丸」の登り口です。

階段整備されていますので、苦もなく登れます。


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「南丸」とは、たぶん「二ノ丸」のような存在なんでしょうね。


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「南丸展望広場」とありますが、木が茂っていて何も見えません。

やっぱ城跡は冬に来たほうがいいですね。


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「本丸」へ向かうには、一旦くだります。


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「南丸」と「本丸」の間にも、土塁跡堀切跡と見られる遺構が確認できます。


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「本丸」への登り口。


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「本丸」です。

ここ茶臼山城跡(上津城)は室町時代に有馬氏が築城したと伝えられます。

有馬氏とは、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の孫・有馬義祐に始まる摂津国有馬郡の地頭職の家系です。


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その後、有馬氏は没落し、三木合戦当時は一蓮坊祐之という土豪が250余名の家臣とともにここに籠城しますが、羽柴秀吉の家臣・仙石秀久に攻めかけられ、一蓮坊は、家臣の助命を条件に城を明け渡し、自決したと伝えられます。


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現地説明看板によると、現在地元のほとんどの家系に、当時の家臣たちのが残っているのだとか。

そりゃ、この城跡は破却できないでしょうね。


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城跡南側の景色です。

城跡北側は田園地帯なんですが、南側は新興住宅街として開発中です。

茶臼山城は「本丸」と「南丸」だけではなかったでしょうから、たぶん、このあたりもかつては城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-04 23:18 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その32 ~五社八幡神社~

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

かつてこの地に、三木城主別所長の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうです。


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当然の如く、三木合戦の戦火に巻き込まれ、時期ははっきりしませんが、羽柴秀吉軍によって攻め込まれ、社殿を焼失したと伝わります。


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その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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ところが、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものであると判明したとか。

伝承というのは、いい加減なものですね。

でも、別所方の拠点である以上、社殿は焼けずにすんだとしても、何らかの被害は被ったのかもしれません。


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時代は遡って、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。

室町時代の社殿というのは、あるいはこのときのものかもしれません。


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その社殿ですが、調査後に国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。

なんと、悪いやつがいたもんです。

現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-03 20:41 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


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別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


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登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


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比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


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30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


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そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


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説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


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たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


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山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


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木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


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素晴らしい眺望です。


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でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


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下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」

後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。


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といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれたを見つけ、つい立ち寄った次第です。

こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。

ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。


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看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。


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手前に見える森が、城跡のようです。


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城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。


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公園内は広場になっており、北側から東側ののなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。


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公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。


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南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。

天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。

しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。

その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。


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公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。


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ここは明らかに土塁跡でしょうね。


南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。

次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)