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大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

追手門向櫓の南側は、「毘沙門郭」と呼ばれていました。

もともとは「本丸ニの郭」と呼ばれていましたが、柳沢吉里入城以降に「毘沙門郭」と改名したそうです。

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毘沙門郭にある「久護門跡」です。

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毘沙門郭から見た「追手向櫓」です。

この櫓は、追手門を守るために置かれた櫓で、柳沢氏の前の本多氏時代には、「大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)」と呼ばれていたそうです。

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毘沙門郭は現在庭園になっていて、中央にあずまやがあります。

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毘沙門郭に建つ「柳沢文庫」

郡山藩最後の藩主となった柳沢保申が建てた迎賓館で、現在は柳沢家に伝わる藩や城に関する古文書や絵図、文化作品などが展示されておいます。

中は撮影禁止だったので紹介できませんが、この日は夏真っ盛りの猛暑日だったので、冷房が効いた館内でしばらく涼みました(笑)。

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毘沙門郭西側にあったという「極楽橋跡」です。

かつてここに、本丸主郭と毘沙門郭を結ぶ「極楽橋」があったそうです。

現在、この極楽橋を復元する案があるとか。

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その極楽橋が架かっていたとされる堀です。

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現在、毘沙門郭と主郭を結ぶ通路は、この門だけとなっています。

次回は主郭に入ります。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


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by sakanoueno-kumo | 2016-05-19 17:42 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

郡山城の本丸は、堀を挟んで天守台のある西側と、法印郭、毘沙門郭のある東側に分かれます。

本稿では、城跡東側から本丸に向かいます。

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本丸東側の石垣です。

ここも「野面積み」ですね。

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写真は昭和62年(1987年)に復元された「追手向櫓」です。

青空に映えて美しいですね。

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その追手向櫓に繋がっているのが「追手門」、別名、「一庵丸門」とも「梅林門」とも言うそうです。

天正13年(1585年)8月、豊臣秀長が入城したときに、この場所に築かれたといわれますが、慶長20年(1615年)4月26日に起きた大坂夏の陣の前哨戦、郡山城の戦いの際に焼失。

その後、元和4年(1618年)に松平忠明が入封したとき再建され、「一庵丸門」と呼ばれたそうです。

更に時を経た享保9年(1724年)、柳沢吉里が入城した際、「梅林門」と名を変えました。

やがて明治に入って全ての建物が取り壊されましたが、昭和58年(1983年)に市民の寄付などにより復元されたそうです。


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外側から見た追手門。

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追手門側から見た「追手向櫓」です。

内枡形構造になっています。

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内側から見た追手門です。

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「法印郭跡」です。

写真は明治時代に建てられた旧奈良県立図書館跡で、現在は市民会館となっており、県指定の文化財になっています。

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法印郭南東隅にある、「追手東隅櫓」です。

こちらも、昭和59年(1984年)に復元されたものだそうです。

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かつては、「法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていたそうですが、柳沢吉里が入城した際、現在の名称になったそうです。

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豊臣秀長の時代、ここ法印郭に筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷があったとされ、法印曲輪または一庵丸と呼ばれるようになったそうです。

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鉄砲狭間が6ヶ所あります。

次回は法印郭の南に位置する毘沙門郭

をめぐります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
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by sakanoueno-kumo | 2016-05-18 17:32 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

郡山城天守台は、石垣の倒壊の恐れがあるとして、現在は立ち入り禁止となっています。

そこで、「中仕切門」から「新宅郭跡」に入り、内堀沿いに天守台を見てみます。

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天守台です。

石垣は典型的な「野面積み」で、出隅だけのちに補強された跡が見えます。

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郡山城の天守閣が築かれたのは天正11年(1583年)、豊臣秀長が大規模工事を行う前の筒井順慶のときだったそうですから、野面積みが主流だった時代ですね。

伝承では、かつてここに五層六階の天守閣があったと伝えられますが、現在の建築学上から考えて、現存する天守台では不可能とされており、その真偽は定かではありません。

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ここ郡山城は、大坂夏の陣の火蓋が切られた場所でもあります。

豊臣秀吉の死後、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放され、その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶1万石を与えられ、郡山城に入城しました。

大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。

しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。
これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、2000の兵で大和に進軍してきますが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤り、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。

その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。

水野勝成は戦後、その功により郡山城主となります。

一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられます。

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天守台の裏手にが見えますが、この祠は、石垣築造の際の石不足を補うため、付近から石地蔵などをかき集めて徴用しており(この当時の築城ではよく行われていたことですが)、それらの地蔵を祀ったものだそうです。

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残念ながら立ち入り禁止で観ることはできませんでしたが、石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは「逆さ地蔵」と呼ばれているそうです。(参照:Google画像検索

かつては、この逆さ地蔵の祟りで天守が倒壊した、なんて俗説もあったそうです。

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天守台石垣は、平成25年10月から29年3月まで3年半かけて修復工事を行うそうです。

当分の間は立ち入り禁止のようですね。

でも、石垣保存のためには、必要な期間だと思います。

同じく野面積みの石垣で昨今人気の兵庫県朝来市にある竹田城は、急激な観光客の増加で踏み荒らされたため、地面の草が枯れ、雨水がたまった土が膨張し、石垣が崩壊の危機にあるといいますが、観光客を確保したい朝来市は立ち入り禁止などの策を施さないばかりか、あろうことか、観光客の通路確保のため、国指定の史跡にも関わらず国の許可なしで勝手に朝来市が史跡に手をいれて工事をすすめ、大問題になっていましたね。

観光誘致史跡の保存管理相反するところにありますが、やはり、優先すべきは史跡の保存管理で、その点、朝来市と違ってさすがに奈良や京都は、史跡保存に対する意識が成熟していますね。

次回に続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
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by sakanoueno-kumo | 2016-05-13 00:52 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

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郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

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城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

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時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

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城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

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南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

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こちらの石垣も同じく野面積みです。

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まずは内堀に沿って歩いてみました。

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鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

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道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

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本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

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そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

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ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

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この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

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更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

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さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

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大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

福山城三の丸北側は現在テニスコートや護国神社になっていますが、その北側に「赤門」と呼ばれる門があります。

時代は進んで幕末長州軍と幕府軍の激戦地となった場所です。


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慶応4年(1868年)1月9日、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を攻めるべく福山城下に侵攻しました。

ちょうどこの3日前、京都は鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍は幕府軍を破っており、勢いづいていました。

反対に福山藩は、前年の11月22日に9代藩主・阿部正方が病没していたものの、時局多端のためその死は秘され、1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前に、城内北西の小丸山仮埋葬されたばかりでした。

長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃を開始。

しかし、天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃はここ赤門で阻止されます。


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その後、7代藩主・阿部正弘の側近で福山藩の儒学者・関藤藤陰(当時は石川和助)が、福山藩家老の三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行い、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に、福山藩と長州軍の間で講和が成立。

これ以後、福山藩は新政府軍に加わり、福山城下は戦火を免れます。


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赤門をくぐったところに建つ捨生取義の石碑です。


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明治維新前後の動乱(石州の役、函館の役、佐賀の役、台湾の役、西南の役)の戦闘で命を落とした旧福山藩士110名の名が刻まれています。

明治19年(1886年)に建てられたものだそうで、その揮毫は、最期の藩主となった阿部正桓によるものだそうです。


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長州軍から福山城を死守した小丸山は、「先人の森」として福山の礎となった人々の顕彰碑が建てられています。


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これは、寺地舟里という医学者の碑。


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こちらは、江木鰐水という兵学者の碑。


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そしていちばん奥には、福山藩初代藩主の水野勝成の碑。

なんだ、慶応4年1月の攻防とは関係ない人ばかりじゃないか!

なんで、ここに関藤藤陰を入れないんでしょうね。


次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-27 13:37 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

本丸を降りて二の丸を歩きます。

福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。

まずは南側から。

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いまは桜並木になっています。

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上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。

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こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。

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二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。

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猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。

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銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。

ここ、絶好の撮影スポットです。

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青空だったらいい写真になったでしょうけどね。

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少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。

ここも結構、いいポイントかな。

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二の丸北側にやってきました。

上の写真は真北から見た天守です。

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二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。

現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。

上の写真は、そこの庭園から見た天守です。

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そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。

備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。

とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。

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阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。

正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。

次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

福山城天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。

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8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。

広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。

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福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階層塔型の天守でした。

現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。

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明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城松本城と同時に国宝に指定されたそうです。

重ね重ね残念ですね。

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この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。

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天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。

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ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。

写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。

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曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。

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扉の家紋です。

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さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

過日、広島県は福山市にある福山城に行ってきました。

福山城は山陽新幹線福山駅のすぐ北側にあり、城跡周辺は「ふくやま文化ゾーン」として観光地化されています。


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この日はあいにくの曇り空だったのですが、なんとか雨に降られず一日中城跡周辺を歩きました。

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現在、城跡公園として整備されているのは、かつて内堀のなかだったところです。

南面の階段を登ると、すぐに本丸南側につながります。

なので、今回は先に本丸から攻めていきます。

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本丸南側にある筋鉄御門(重要文化財)です。

この門をくぐると、本丸広場になります。

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本丸南側には、かつて伏見御殿がありました。

なぜ「伏見御殿」という名称かというと、元和5年(1619年)に廃城となった京都の伏見城から多くの移設されており、それにあやかって「伏見御殿」と名付けられたそうです。

ちなみに、先述した筋鉄御門も、伏見城から移設されたものです。

他には、

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本丸南東角の月見櫓

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本丸南中央の御湯殿

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本丸南西角の伏見櫓などが、同じく伏見城から移設されました。

このうち、月見櫓と御湯殿は空襲で焼けたため復元ですが、伏見櫓と筋鉄御門は当時のもので、重要文化財に指定されています。

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その伏見御殿跡から北を見ると、天守がそびえます。

この日は本丸広場でイベントが開催されていて、テントやらステージやらが設置されていて残念でしたが。

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福山城は、元和5年(1619年)に福島正則が改易され、備後10万石の領主として入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した平山城です。

次稿では、その天守を攻めます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-14 00:37 | 広島の史跡・観光 | Comments(4)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

さて、この日は朝9時から夕方5時すぎまで、みっちり姫路城とその周辺を歩き廻ったのですが、最後に、どの稿でも紹介しきれなかった姫路城の眺望も含めて、もう一度姫路城天守いろんな角度から望みたいと思います。

まずは、大手門から。


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続いて、大手門を入った南側三の丸広場から。


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三国堀から。


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二の丸広場から。

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本丸広場(備前丸)から。


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西の丸から。

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東側の喜斎門跡から。

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北側シロトピア公園から。

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男山配水公園から。

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だいぶ夕方になってきました。
南東の城見公園から。

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千姫ぼたん園から。

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そして最後は、南側イーグレひめじからです。

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どの角度から見ても、素晴らしいですね。

この美しい城を築城した池田輝政公と、その後、城の保存に従事してきたすべての関係者に感謝です。

以上で姫路城めぐりのシリーズを終わりますが、姫路はわがまち神戸から車で30分ほどの距離ですから、今回めぐりきれなかった中堀外堀なども、いつかまたレポートしたいと思います。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-05 00:35 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~

三の丸南側に、武蔵野御殿跡があります。

ここはかつて、千姫の居館があった場所だそうです。

屋敷内にあった襖には、武蔵野の風景を思い起こされるすすきが描かれていたことから、「武蔵野御殿」と呼ばれるようになったそうです。

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徳川家康の孫娘である千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしましたが、周知のとおり大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣家は滅亡します。

落城間際の大坂城から助け出された千姫は、夫の死を悲しむ暇もないまま、今度は本多忠政の嫡男・忠刻と再婚させられます。

千姫20歳、忠刻21歳のときでした。

千姫は、忠刻とのあいだに一男一女をもうけ、束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。

その後、江戸城にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送りました。

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千姫の実母は、浅井三姉妹の三女・お江、叔母であり義母となったのは、あの淀殿ですね。

ということは、祖母にあたるのが織田信長の妹・お市の方ということになります。

いずれも、戦国の世の政局に翻弄されて波乱万丈の生涯を送った女たちばかり、数奇な一族といえます。

いずれ、千姫を主役にした大河ドラマが作られるんじゃないでしょうか?

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西の丸の西側の掘り沿いに、「千姫の小径」と呼ばれる散歩道があります。

実際にここを千姫が歩いたというわけではないと思いますが、千姫ゆかりの化粧櫓を西側から眺めながら、自然を感じて散策できる遊歩道になっています。

小径の最北端には、千姫と忠刻の連歌が刻まれた石碑がありました。

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初秋の風を 簾にまきとりて (忠刻)

軒はにおふ 竹の葉の露 (千姫)

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この歌は長男幸千代が生まれ、千姫が幸せに包まれていたときに詠まれた句で、軒までのびた竹にこの幸せがずっと続くようにと、想いが込められています。

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晩年の千姫は、「忠刻と暮らした姫路城での10年間が、生涯でいちばん幸せだった」と語っていたとか。

わずかでも、幸せな時間があったことが救いですね。

次回に続きます。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-26 23:37 | 姫路城めぐり | Comments(2)