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三木合戦ゆかりの地めぐり その35 ~福中城跡~

神戸市西区にある「福中城跡」を訪れました。

「城跡」といっても、それを思わせる遺構は存在せず、正確には「城があったとされる場所」です。

ここ福中城も、他の諸城と同じく、羽柴秀吉軍の手によって落城したと伝わります。


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現在、城のあった場所には国道175号線が南北に走っています。

その「福中」という交差点から「福中北」という交差点あたりが、福中城の敷地だったそうです。


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国道が通る以前は、内堀、外堀、居館、土居など多くの遺構が残っていたそうです。

神戸市内では最も遺構が残る城跡だったとか。

しかし、国道が通ることが決まると、たちまち地主さんたちはその土地を手放してしまい、またたく間にその姿は都市計画に埋もれてしまったそうです。
付近を歩いてみましたが、これといって往時を思わせるものは見られませんでした。


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福中北の交差点近くには、「福中城主・間島彦太郎菩提寺」と記された宝珠寺という小さな寺があります。

ここは間島彦太郎氏勝自身の創建と伝えられ、彦太郎の墓石と伝わる五輪塔があります。


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五輪塔横にある説明板です。


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説明板によれば、三木合戦の際、間島家では父・兵衛尉氏常が別所方につき、子・彦太郎氏勝が秀吉方について親子で戦ったとあります。

おそらくこれは、いずれが勝っても家名が続くための策で、この当時、めずらしい話ではありませんでした。


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その甲斐あって間島家の家名は残りましたが、三木合戦後、福中城は廃城となり、間嶋氏は明石海峡を挟んで対岸にある淡路岩屋城主に任命され、この地を去りました。


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その後、彦太郎は秀吉に仕え、九州征伐文禄の役などに従軍した記録が残されていますが、その後、文禄の役の功で加藤嘉明に淡路国岩屋1700石を与え、間嶋氏は何らかの理由で転封あるいは改易になったのかもしれません。

その後の彦太郎の動向はわからなくなりますが、一説によると、関ケ原の戦い西軍に味方し、間島氏は滅亡したとされます。

その後、彦太郎は同郷のよしみを頼って、筑前福岡の黒田官兵衛孝高に寄食したともいわれますが、これも定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-10 23:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その34 ~松原城跡~

前稿の茶臼山城跡から直線距離にして3kmほど東にある神戸電鉄三田線道場駅の東に、「松原城跡」があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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城跡というより、古墳跡といった感じに見えますね。


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丘陵はそれほど大きなものではなく、おそらく、この丘を中心とするこのあたり一帯が城だったのでしょう。


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説明板によると、松原城は別名「たんぽぽ城」とも言うそうですが、調べてみると、それ以外にも道場城、佐々城、蒲公英城、日下部城、道場川原城などなど、複数の名称があるようです。

まあ、江戸時代の城の名称というのは正確なものでしょうが、戦国時代以前の城の呼び名は、城主の姓だったり村の名称だったり複数あるものです。

おそらく、正式名称などといったものはなく、それぞれが、いろんな呼び方をしていたのでしょうね。


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「松原城」という名称は、城主の松原氏からとったものだと思われます。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代の播磨守護職・赤松則村(円心)の孫、赤松氏春が築いたと言われます。

氏春は永徳3年(1386年)に播磨清水寺の戦いで敗死したため、松原城は一時廃城となりますが、その後、応仁の乱以後に赤松氏幕下の松原越前守貞基が城主となり、以後、戦国時代を通して松原氏の居城となりました。


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三木合戦のときの城主・松原義富は、妻が「その13」で紹介した淡河城主・淡河弾正忠定範の娘だった関係で別所方に与し、野口城の戦いでは別所方の大将のひとりとして活躍したと伝わります。
その後、松原城に嫡子の貞富とともに籠城。

これに対して、羽柴軍は中川清秀、塩川国満、山崎家盛、池田輝政が城を囲み、『摂北有馬郡丹北城軍記』によれば、包囲軍の一斉攻撃によって城方はまたたく間に切り崩されたといいます。

義富は城を脱出すると、尼が谷に入り、そこで自害したという説や、また別の説では、三木城に籠城し、三木城が落ちたあと北谷村に逃れ、そこで帰農したともいいます。

いずれにせよ、ここ松原城は、羽柴軍を前になすすべもなく落城したようです。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-09 21:59 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その33 ~茶臼山城跡(上津城)~

神戸市北区にある「茶臼山城跡」を訪れました。

「茶臼山」という名称の山は、全国に200ヶ所以上あるといわれ、その多くが戦時の陣所として利用されていますが、ここも例外ではなく、三木合戦の際には別所方のとなった場所です。


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ここ茶臼山城は別名、上津城ともいわれ、現在の住所でも、神戸市北区上津としてその名が残ります。

あるいは、「茶臼山城」という名称は、全国各地の戦場となった茶臼山にあやかって、そう呼ばれたのかもしれませんね。


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現在、城跡は「茶臼山緑地」として公園整備されています。


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「南丸」の登り口です。

階段整備されていますので、苦もなく登れます。


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「南丸」とは、たぶん「二ノ丸」のような存在なんでしょうね。


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「南丸展望広場」とありますが、木が茂っていて何も見えません。

やっぱ城跡は冬に来たほうがいいですね。


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「本丸」へ向かうには、一旦くだります。


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「南丸」と「本丸」の間にも、土塁跡堀切跡と見られる遺構が確認できます。


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「本丸」への登り口。


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「本丸」です。

ここ茶臼山城跡(上津城)は室町時代に有馬氏が築城したと伝えられます。

有馬氏とは、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の孫・有馬義祐に始まる摂津国有馬郡の地頭職の家系です。


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その後、有馬氏は没落し、三木合戦当時は一蓮坊祐之という土豪が250余名の家臣とともにここに籠城しますが、羽柴秀吉の家臣・仙石秀久に攻めかけられ、一蓮坊は、家臣の助命を条件に城を明け渡し、自決したと伝えられます。


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現地説明看板によると、現在地元のほとんどの家系に、当時の家臣たちのが残っているのだとか。

そりゃ、この城跡は破却できないでしょうね。


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城跡南側の景色です。

城跡北側は田園地帯なんですが、南側は新興住宅街として開発中です。

茶臼山城は「本丸」と「南丸」だけではなかったでしょうから、たぶん、このあたりもかつては城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-04 23:18 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その32 ~五社八幡神社~

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

かつてこの地に、三木城主別所長の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうです。


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当然の如く、三木合戦の戦火に巻き込まれ、時期ははっきりしませんが、羽柴秀吉軍によって攻め込まれ、社殿を焼失したと伝わります。


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その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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ところが、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものであると判明したとか。

伝承というのは、いい加減なものですね。

でも、別所方の拠点である以上、社殿は焼けずにすんだとしても、何らかの被害は被ったのかもしれません。


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時代は遡って、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。

室町時代の社殿というのは、あるいはこのときのものかもしれません。


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その社殿ですが、調査後に国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。

なんと、悪いやつがいたもんです。

現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-03 20:41 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


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別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


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登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


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比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


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30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


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そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


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説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


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たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


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山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


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木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


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素晴らしい眺望です。


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でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


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下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」

後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。


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といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれたを見つけ、つい立ち寄った次第です。

こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。

ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。


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看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。


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手前に見える森が、城跡のようです。


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城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。


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公園内は広場になっており、北側から東側ののなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。


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公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。


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南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。

天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。

しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。

その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。


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公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。


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ここは明らかに土塁跡でしょうね。


南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。

次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その15 「明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮」

シリーズ最終稿です。

羽柴秀吉軍の追撃を受けて勝龍寺城を脱出した明智光秀は、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命したと伝わります。

山崎合戦の舞台からはずいぶんと離れますが、ここまできたら、光秀の最期を見届けようと思い、京都市伏見区小栗栖に伝わる光秀落命の地にやってきました。


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「明智藪」という名称がついているようです。

付近まで行くと、上の写真ような誘導看板が設置されていて分かりやすかったです。


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民家の横の細い道を入っていくと、石碑のようなものが見えてきました。


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「明智藪」と刻まれた石碑と説明書きがあります。


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よく読んで見ると、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。

えっ? 光秀は土民に殺られたというのが通説だったと思いますが、「飯田一党」という武士団に殺られたの?


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石碑の奥は、まさしくただの竹藪でした。

現在は、近くに民家も学校もある開けた町なので、藪はほんの一角にすぎませんが、たぶん当時は、この辺り一帯が鬱蒼とした藪のなかだったのでしょうね。


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近くにある本経寺に、光秀の供養塔があると聞いたので、立ち寄ってみました。


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石碑は新しいもののようですが、前の石灯籠は古いもののようです。


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また、明智藪から北に500mほど上がったところに、光秀の胴塚と伝わる場所があります。

探すのに苦労したのですが、ぶどう直売店やコイン精米所の並ぶ一角に、ひっそりと墓碑が建っていました。


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説明板のようなものが設置されていなかったので、詳細はわかりませんが、墓碑が建てられたのは昭和45年と刻まれていました。

でも、それまでも、きっと地域の人々によって供養されてきたのでしょうね。


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最後にもう1か所、明智藪から200mほどしか離れていない場所に、小栗栖八幡宮という古そうな神社があるのですが、帰り道、吸い寄せられるように同地に立ち寄りました。


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創建は清和天皇(第56代天皇)時代の貞観4年(864年)と伝えられるそうで、説明板によると、室町時代には社領三十六石と栄えていたそうですが、その後は寂れていたようです。

ただ、そんなことより、由来を読んでみて目からウロコが・・・。


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「地頭は飯田左近将監。左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。」とあります。

ここで思い出されるのは、明智藪の石碑にあった「飯田一党」という武士集団。

あの「飯田」は、この「飯田」なんですね。


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即座にスマホでググってみると、かつてこの近くには小栗栖城があって、その城主だった飯田氏織田信長の傘下だったそうで、従って、「本能寺の変」後のこの時点では、光秀にとってだったと思われます。

まあ、光秀の最期も諸説あって、なかには生存説なんかもあったりしますから、これもひとつの説として鵜呑みにはできないのでしょうが、ここに本当に敵陣の城があったのなら、十分にある話ですね。

でも、だとすれば、なぜこれほど敵陣に近い道を光秀は通ったのか?・・・という疑問が出てきます。

いずれにせよ、今となっては、真相はまさに藪のなか・・・ですね。

お後がよろしいようで・・・。



このシリーズの他の記事は、こちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2016-08-04 16:38 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その13 「勝龍寺城跡 ~後編~」

勝龍寺城本丸跡は東西120m、南北80mの長方形で、現在は庭園として整備されています。


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向こうに人物像が2体見えます。


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像は細川藤孝の嫡子・細川忠興と、その妻・玉(ガラシャ)のものでした。

ふたりは勝龍寺城で盛大な結婚式を挙げ、天正8年(1580年)に丹後国宮津に移るまでの2年間、新婚生活をこの地で過ごします。


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15歳どうしの結婚でしたが、わずか2年の間に2人の子宝に恵まれます。

宮沢保浅井雪乃ですね(←これ、わかる人はわたしと同世代かな?)。


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しかし、ふたりが幸せだったのはつかの間

天正10年(1582年)に玉の父である明智光秀「本能寺の変」を起こして自らも滅んだため、忠興は「逆賊の娘」となった妻を丹後国の味土野に幽閉します。

その後、羽柴秀吉の執り成しもあって、玉は細川家に戻されますが、その頃から心の拠りどころをキリスト教に求め、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。


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管理棟内にある忠興とガラシャの肖像画です。

ガラシャは絶世の美女だったと伝えられます。

そのせいか、忠興のガラシャに対する愛情常軌を逸していたといわれ、玉の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたとか、玉のキリスト教信仰に影響を与えた侍女の鼻をそいだとか、異常といえる妻への愛情が伝えられます。

そして、慶長5年(1600年)の「関が原の戦い」の際は、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャは石田三成人質になることを拒み、壮絶な最期を遂げます。

忠興はその後も半世紀近く長寿しますが、ガラシャが幸せだったのは、ここ勝龍寺城で暮らした新婚時代だけだったといえるでしょうね。


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本丸南西の土塁上から、天王山が見えます。


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同じ場所から見下ろした南側の堀です。


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本丸の西側には、「沼田丸」という曲輪跡があります。

かつてここには、細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられているそうです。


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話を山崎合戦に戻して、一時、勝龍寺城に逃げ込んだ光秀でしたが、羽柴軍の追撃を受けて同城を脱出、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

光秀にとって勝龍寺城は、まさに「最後の砦」でした。


次回に続きます。





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by sakanoueno-kumo | 2016-07-29 16:06 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その12 「勝龍寺城跡 ~前編~」

前稿で紹介した恵解山古墳から北東へ500mほどのところに、勝龍寺城跡があります。

山崎合戦において羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、一時、ここ勝龍寺城に逃げ込んだと伝えられます。

当時、勝龍寺城には光秀の三女・玉(ガラシャ)が嫁いでいました。


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応仁・文明の乱頃から、寺院としての勝龍寺が臨時的なとしてしばしば使われていたようですが、恒常的な城として確実な史料が残されているのは、元亀2年(1574年)に織田信長が京都の防御拠点として細川藤孝に勝龍寺城の普請を命じたことに始まります。

「幽斎」の雅号で知られる藤孝は、肥後細川家の中興の祖と言われる人物で、あの細川護熙元総理大臣のご先祖さんとして有名ですね。

藤孝は光秀との親交が深く、一説には、藤孝と信長を引き合わせたのも光秀だったといいます。


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現在の勝龍寺城は、昭和63年(1988年)から発掘調査が行われ、平成4年(1992年)に勝龍寺城公園として蘇ったものです。

発掘調査の結果、穴太積の石垣枡形虎口など、のちの安土城大坂城など織豊時代の城郭に見られる特徴の先行的城郭だったことがわかったそうです・・・と、現地のボランティアで解説されていたご老人がおっしゃっていました。


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現在公園として整備されているのは、本丸跡と西側の沼田丸跡です。

本丸跡の周辺は、で囲われています。


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本丸を囲む土塁の上に石垣を積んだを作り、角の隅櫓と連結して守りを固める構造の建物を「多聞櫓」といいますが、これも、確認された遺構としては、ここ勝龍寺城が最古なんだそうです。


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南門です。

枡形虎口になっています。

「枡形」とは、出入り口の通路を直角に曲げて、大軍が侵入しづらく考えられた設計のことを言います。


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城門の向こうに見えるのは、模擬天守(櫓?)です。


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天守が存在していたことは間違いないようですが、文書の史料しかなく、復元はできません。

現在の建造物は、あくまで模擬です。


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こちらは北門跡

やはり、枡形になっています。


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外側から見た北門跡です。


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北門跡の側には、発掘調査の際に石垣跡から多数出土した石仏五輪塔が祀られていました。

当時、石垣にそれらの石材を使用することは、珍しくありませんでした。


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やっぱ、城跡レポートは長くなっちゃいますね。

もう一回、勝龍寺城の続きをやります。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-28 14:17 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)