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豪壮な石垣群の津山城登城記 その3 「本丸」

ようやく本丸まで登ってきました。

3,496坪の本丸跡にも、多くの櫓跡が現存しています。

そのいくつかを追っていきます。


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まずは本丸東側の「矢切櫓跡」です。

石垣がみごとですね。


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その南側にある「包櫓跡」

「鐘撞堂」があります。


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矢切櫓跡北側にある「月見櫓跡」


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さらにその北側にある「栗積櫓跡」です。


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栗積櫓跡からみる津山城北面の眺望です。

遠方の山の頂には、「神楽尾城跡」が見えます。


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栗積櫓跡の西側にある「大戸櫓跡」


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その南側に位置する「長屋櫓跡」です。


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さらに、そこから裏鉄門跡を挟んで南にある「腰巻櫓跡」


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そして、そこから西側に向かった天守台北にある「長櫓跡」

そして、本丸南西に復元された「備中櫓」があります。


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津山城の建造物は、本丸に31棟、二の丸に12棟、三の丸に17棟が建てられ、門は本丸に15、二の丸に、三の丸に11あったそうです。

これは広島城姫路城よりも多い数だそうで、両城に比べて比較的コンパクトな面積の中に、これだけの建物がひしめき合っている様は、実に壮観だったでしょうね。

もともと、この地には嘉吉年間(1441~44年)に山名忠政鶴山城を構えていましたが、慶長9年(1604年)に森忠政が鶴山を「津山」と改め、12年間の年月をかけて築城したのが津山城です。

当時は築上の最盛期であり、おそらく、当時の技術の粋を集めた城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-06 13:12 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その2 「二の丸」

津山城二の丸に登ってきました。

かつて二の丸には、12棟の櫓と大小7棟の門があったそうです。


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現在二の丸広場となっているこの地には、かつて二の丸御殿があったと伝わり、津山藩3代藩主・森長武は、一時ここに移り住んだこともあったそうです。


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その後、4代藩主・森長成のときに改易となった森家に代わって、越前松平家から松平宣富が藩主として津山城に入城しますが、間もなく、二の丸の殿舎は撤廃されたそうです。


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二の丸から見上げた「備中櫓」です。


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二の丸から本丸への通路を仕切る切手門跡です。

2階部分は、南側にある「弓櫓」に接続されています。


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その弓櫓から見た備中櫓です。


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こちらは、搦手側の二の丸と本丸を結ぶ「裏中門跡」です。

左側の木の階段は、石階段が不安定のため観光客用に設置されたものです。


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裏中門横にある「荒布櫓跡」です。


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裏中門を上ったところにある「裏鉄門跡」です。

ここを上がると本丸に入ります。


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こちらは切手門を上がったところにある「仕切門(十四番門)」


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そしてこちらがその横にある「表鉄門」

本丸に入る正面入口です。


さて、次回は本丸を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-05 17:15 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その1 「城門~三の丸」

過日、岡山県津山市にある津山城跡を訪れました。

津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山に築いた平山城で、別名・鶴山城とも呼ばれます。


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現在は復元された備中櫓以外石垣しか残っていませんが、その豪壮な石垣群はみごとなもので、たいへん見ごたえがあります。


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入口の側には、忠政の銅像があります。

どう見ても、4頭身ほどの人間離れした銅像ですね(笑)。

忠政は、織田信長の小姓だった森蘭丸の弟にあたります。

兄貴は美少年に描かれることが多いのですが、弟はどう見てもがきデカのような・・・(笑)。


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冠木門です。

ここで入場料300円を払って、城跡公園内に入ります。


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冠木門を入ってすぐの階段を登ると、三の丸東の高台に鶴山館という建物があります。

ここは、かつて津山藩の学問所として建てられたもので、明治維新後も小・中学校や幼稚園、女学校などに使用され、明治37年(1904年)にこの地に移設されたものだそうです。


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その鶴山館の建つ高台から見た石垣群です。

みごとですね。

中央に見える櫓は「備中櫓」といい、平成17年に建てられた復元です。

下の写真はアップ。


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三の丸です。


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ここ津山城は桜の名所だそうで、三の丸、二の丸ともに桜並木が続いています。

秋は紅葉が綺麗みたいですね。

わたしが訪れたこのときは初秋だったで、桜も紅葉もありません。


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三の丸から二の丸へ登る「表中門跡」「見付櫓跡」です。

表中門は城内にある門のなかでは最大のもので、正面玄関にあたります。

門の櫓部分の長さは16間(約32m)もあり、これは、大坂城や江戸城に匹敵するほどの規模だそうです。


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表中門跡から見上げた備中櫓です。


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こちらは搦手から三の丸に降りる、「裏下門跡」です。


さて、次回は二の丸を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-04 15:02 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「ポケモンGO」ならぬ「発見!ニッポン城めぐり」にハマった2016年下半期。

今年もあとわずかになりましたが、今年最も話題になったもの代表してひとつあげるとすれば、「ポケモンGO」ではないでしょうか?

聞くところによれば、世界で5億ダウンロードに達したのだとか。

世界中でスマホが何台使用されているのか知りませんが、5億っていうと、たぶん、かなりの確立ですよね。

もはや社会現象などといった言葉では言い尽くせない、ひとつの歴史的事象になりつつあります。

たかがゲーム、されどゲームですね。


で、じゃあ、わたしは「ポケモンGO」をやってるかっていうと、実はやってません

これまでスマホゲームってのを全くやったことがなかったのですが、これだけ話題になってるのだから、話のネタにやってみたらよかったのでしょうが、実は、「ポケモンGO」が日本でダウンロード開始された今年の7月から、別のスマホゲームにハマっちゃってたんですね。

それが、これ。


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「発見!ニッポン城めぐり」というスマホゲームで、GPS機能を使って、日本全国に設定された3,000ヵ所城郭をめぐるゲームで、城はすべてわが国に実在した城跡で、実際にその地に足を運んで城を攻略していくというゲーム。

つまり、「ポケモンGO」と同じシステムで、いうなれば「城めぐりGO」です(笑)。


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遊び方はいたって簡単、城跡の所在地近くで城攻めボタンをタップするだけ。

攻略エリア内に城があれば、上のような画面がでて攻略成功です。

攻略エリアは城によって様々で、数キロメートル離れたところからでも落とせる城もあれば、寸前まで近寄らないと落とせない城もあります。


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上の画像はトップ画面。

城は、行軍によって稼いだお金で私が築城したものです。

金といっても、ゲーム内のバーチャルな通過(両)で、加金はいっさいしないで楽しめます。

ゲームをはじめて約半年のわたし現在の成績は、271城攻略、308万石の知行を治めています。


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271城の内訳は上のとおりで、主に近畿エリアが中心です。

旧令制国内のすべての城を攻略すると、国守の官位が名乗れます。

ちなみに、現在、黄色い文字になっている和泉国河内国を平定しており、河内守を名乗らせていただいております。


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上の画像は総攻略城数で与えられる官職の一覧です。

黄色い文字が、わたしが就任した官職です。

総攻略城数271城のわたしは、現在、六位下・宮内まで与えられましたが、先はまだ長い。

3000城すべてを平定すると、正一位・征夷大将軍になれるみたいです。

そんな人いるのかなあ。

官位官職とは別に、同じ城を何度も攻めることによって、1ヶ月間、その城の城主になれます。

ひとつの城は2時間ないし3時間に1回しか攻略できず、1ヶ月毎に集計して1位が城主、2位が城代、3位が城番になれます。


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先月、はじめて城主争いを制覇し、神戸市東灘区にある平野城12月度城主になりました。

でも、来月は陥落決定です。

この画面もあと2日で見納め。


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あと、行軍中に牢人に遭遇すると、登用して家臣にすることができます。

つまり、家臣ゲットだぜ~!ですね(笑)。

現在、98人の家臣を抱えています。


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見てのとおり、結構錚々たるメンバーでしょ。

このなかでいちばん高い知行は豊臣秀吉15万石

現在、308万石中246万石を家臣登用に充てていて、わたしの石高は62万石です。


あと、定期的に合戦イベント狼煙伝達ミッションなど、攻城以外の楽しみも盛り沢山。

もともと史跡めぐりが趣味だったわたしとしては、いいアイテムができました。

実はこのゲーム、5年前からあったそうです。

GPSと連動させたゲームって、「ポケモンGO」が先駆けじゃなかったんですね。

このゲームを参考にしたとか?

まあ、こちらは社会現象にはなってないですが(笑)。


以上、わたしの2016年下半期のマイブームの紹介でした。

それでは、良いお年を。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-31 04:04 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その44 ~西脇城跡~

兵庫県西脇市にあったとされる「西脇城跡」を訪れました。

ここは、三木城から直線距離にして20km以上北上した場所にある城ですが、ここも、三木合戦時に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わる城です。


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西脇城跡のある西脇市は、東経135度・北緯35度が交わる地点で、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとPRしています。

北は北海道から南は沖縄まで、日本列島すべての時刻はここ東経135度線(子午線)に合わせていますから、日本で最も正確な時刻を刻むまちでもあります。

もっとも、西脇城があった時代には、そんなこと知る由もなかったでしょうが。


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西脇城の遺構は市街地に埋没して全く残されておらず、パチンコ屋駐車場脇の一角に、石柱のみが建てられています。


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石柱横の階段を上ると、大きな石碑五輪塔、石地蔵が建てられた廟所になっています。


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高さ3mほどの石碑には「西脇城主高瀬氏政所之址」と刻まれています。

高瀬氏播磨守護職赤松氏の一族で、三木合戦時は三木城主の別所長治方に与していました。


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こちらは五輪塔

「高瀬家」とありますから、おそらく高瀬家の誰かの墓石でしょう。


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こちらの石仏にも、「高瀬家」とあります。


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西脇城は、古地図の復元から約100m四方を堀と土塁で囲った方形居館と呼ばれる城だったことがわかっていて、現在、廟所がある場所より西にあったと伝えられていますが、現在はその痕跡を見ることはできません。

また、城主についても、高瀬土佐守円山兵庫頭祐則が伝えられ、最近では這田荘と呼ばれていたこの地域の政所であったとの研究もあるそうです。

三木合戦時の城主と伝わる高瀬氏は、合戦を境に滅亡したと伝えられます。


次回も西脇市内の史跡を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-07 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~

山下城跡から3kmほど北西にある飯盛山山頂に、春日山城跡があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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春日山城は兵庫県神崎郡福崎町の最南端ある標高198mの飯盛山山頂にあります。

写真は西側から撮影した飯盛山。

この少し南は、姫路市になります。


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山頂にズームイン!


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登山口は2ヶ所ありますが、この日は南側山麓にある春日山キャンプ場からの登城。


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キャンプ場内にある登山口です。


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登山道は写真のように整備されていて、登りづらいといったことはありませんでした。

ただ、勾配は急なので、決して楽ではありません。


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道標です。


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頂上近くになると、登山道脇には曲輪跡と見られる削平地が目につき始めます。


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頂上らしき空が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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結構広い面積の山頂です。


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三木合戦のときの春日山城主は、後藤基信

基信はあの後藤又兵衛基次の父・後藤基国の兄で、又兵衛の叔父にあたる武将です。

天正5年(1577年)の加古川評定を機に後藤家は別所方に与し、三木合戦が始まって間もない5月、羽柴軍によって城は落とされ、基信は討死したと伝わります。

春日山城の築城時期は南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨の守護赤松氏の幕下としてこのあたりを統治していた後藤三郎左衛門尉基明が築城したと言われます。

その後、応仁の乱では赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てたと伝わります。

三木合戦時の城主・基信は、初代・基明から数えて9代目にあたります。


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説明板です。


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食料貯蔵庫跡だそうです。


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北側の眺望です。


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こちらは西側の眺望。

撮影は夏至近い6月18日の夕方4:00頃です。


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こちらは南側の眺望。

3kmほど南下したところには、甥の後藤又兵衛基次が生まれたとされる南山田城跡があります。

三木合戦時、又兵衛は姫路城主の黒田官兵衛孝高の元にいましたが、黒田家は羽柴方に、後藤家は別所方についたことから、黒田家を去ることになるんですね。

又兵衛18歳のときでした。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-01 20:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~

前稿の野上城跡(常泉寺)から直線距離にして4.5kmほど西の兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは三木合戦当時、別所長治の幕下・浦上久松の居城だったと伝わります。


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城跡近くに常行院という寺院があり、その横に駐車場があります。

寺院前には城跡までの案内板が設置されています。


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城跡に向かう遊歩道にも誘導表示が設置されていて、迷うことはありませんでした。


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しばらく進むと、丘の麓に登城口が見えます。


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おそらく、ここは大手口搦手口といった正式な城の入口ではなく、城巡り客用に作られた登城口だと思います。


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しばらく登ると、大きな堀切跡に目を奪われるのですが、写真じゃわかりづらいですね。


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登城道は整備されていて、簡単に登れます。


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二ノ丸跡です。

それほど広くはありません。


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上から見下ろした二ノ丸跡です。


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そして更に上を目指し・・・。


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本丸跡です。


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本丸跡には、常行院前にあった案内板より詳細は想定縄張り図が設置されています。

いま登ってきたルートは、左下の遊歩道入口から大堀切横を通って、二郭、本郭というルートです。


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ここ山下城主の浦上久松は、三木城主・別所長治の幕下として兵を伴い三木城籠城戦に参陣、最後は長治と共に自刃して果てたと伝わります。

その久松の母は、黒田官兵衛孝高の父・黒田職隆の娘とも言われます。

ということは、久松は官兵衛のということになりますね。

久松は長治と同じく若い城主だったのでしょうか?


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山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

その本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます。


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城跡の外周を散策しました。

田園が美しい。


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南西から見た山下城跡です。

さぞ立派な城だったんでしょうね。


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先ほどいた本丸跡を見上げます。

浦上久松が三木城に籠城したという記録は残っていますが、ここ山下城が三木合戦でどんな戦いをしたかはわかっていません。

これだけ立派な城ですから、別所方の拠点として何らかの役割を果たしていたのではないでしょうか?


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ちなみに、ここ山下城は、南北朝時代の光明寺合戦にも関わっていたようです。

その話は、また別の機会で。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-30 18:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その39 ~豊地城跡~

小沢城跡から2kmほど南西に「豊地城跡」があります。

現在の住所でいえば、兵庫県小野市と加東市のちょうど境目あたりが城跡とされています。


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かつては小沢城主の依藤氏が豊地城を居城としていたようですが、三木合戦当時は、三木城主・別所長治の叔父・別所重宗の居城となっていました。

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三木合戦以前は、兄の別所吉親(賀相)と共に若き長治の補佐役を務めていた重宗でしたが、かねてから兄との折り合いが悪く、家内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。

その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。


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一時は織田氏指示でまとまったかに見えた別所氏でしたが、「その18」で紹介した加古川評定の席で兄の吉親(賀相)が羽柴秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は織田氏に叛旗を翻します。

しかし、重棟は納得がいかず、別所家を出奔して織田方につきました。

この、いわば兄弟喧嘩が、三木合戦のキッカケだったともいえます。

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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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土塁の南側(写真右側)は外堀跡です。


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みごとな土塁跡ですね。


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土塁に登って北側を望みました。


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紺のプリウスαは、わたしの愛車です(笑)。


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豊地城の歴史は古く、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に焼き払われたと伝わる東条城は、ここ豊地城の前身と考えられているそうです。

その後、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城となり、その依藤氏から城を奪ったのが、別所氏だったと伝わります。

しかし、三木合戦終結後に重宗は但馬国に移封となり、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下され、豊地城は破城となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-23 19:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)