タグ:城跡 ( 127 ) タグの人気記事

 

山崎合戦のまちを歩く。 その15 「明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮」

シリーズ最終稿です。

羽柴秀吉軍の追撃を受けて勝龍寺城を脱出した明智光秀は、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命したと伝わります。

山崎合戦の舞台からはずいぶんと離れますが、ここまできたら、光秀の最期を見届けようと思い、京都市伏見区小栗栖に伝わる光秀落命の地にやってきました。


e0158128_21015158.jpg

「明智藪」という名称がついているようです。

付近まで行くと、上の写真ような誘導看板が設置されていて分かりやすかったです。


e0158128_21020955.jpg

民家の横の細い道を入っていくと、石碑のようなものが見えてきました。


e0158128_21023881.jpg

「明智藪」と刻まれた石碑と説明書きがあります。


e0158128_21030000.jpg

よく読んで見ると、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。

えっ? 光秀は土民に殺られたというのが通説だったと思いますが、「飯田一党」という武士団に殺られたの?


e0158128_21033190.jpg

石碑の奥は、まさしくただの竹藪でした。

現在は、近くに民家も学校もある開けた町なので、藪はほんの一角にすぎませんが、たぶん当時は、この辺り一帯が鬱蒼とした藪のなかだったのでしょうね。


e0158128_21035433.jpg

近くにある本経寺に、光秀の供養塔があると聞いたので、立ち寄ってみました。


e0158128_21041320.jpg

石碑は新しいもののようですが、前の石灯籠は古いもののようです。


e0158128_21044176.jpg

また、明智藪から北に500mほど上がったところに、光秀の胴塚と伝わる場所があります。

探すのに苦労したのですが、ぶどう直売店やコイン精米所の並ぶ一角に、ひっそりと墓碑が建っていました。


e0158128_21045636.jpg

説明板のようなものが設置されていなかったので、詳細はわかりませんが、墓碑が建てられたのは昭和45年と刻まれていました。

でも、それまでも、きっと地域の人々によって供養されてきたのでしょうね。


e0158128_21052758.jpg

最後にもう1か所、明智藪から200mほどしか離れていない場所に、小栗栖八幡宮という古そうな神社があるのですが、帰り道、吸い寄せられるように同地に立ち寄りました。


e0158128_21055631.jpg

創建は清和天皇(第56代天皇)時代の貞観4年(864年)と伝えられるそうで、説明板によると、室町時代には社領三十六石と栄えていたそうですが、その後は寂れていたようです。

ただ、そんなことより、由来を読んでみて目からウロコが・・・。


e0158128_21061030.jpg

「地頭は飯田左近将監。左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。」とあります。

ここで思い出されるのは、明智藪の石碑にあった「飯田一党」という武士集団。

あの「飯田」は、この「飯田」なんですね。


e0158128_21091660.jpg

即座にスマホでググってみると、かつてこの近くには小栗栖城があって、その城主だった飯田氏織田信長の傘下だったそうで、従って、「本能寺の変」後のこの時点では、光秀にとってだったと思われます。

まあ、光秀の最期も諸説あって、なかには生存説なんかもあったりしますから、これもひとつの説として鵜呑みにはできないのでしょうが、ここに本当に敵陣の城があったのなら、十分にある話ですね。

でも、だとすれば、なぜこれほど敵陣に近い道を光秀は通ったのか?・・・という疑問が出てきます。

いずれにせよ、今となっては、真相はまさに藪のなか・・・ですね。

お後がよろしいようで・・・。



このシリーズの他の記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-08-04 16:38 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その13 「勝龍寺城跡 ~後編~」

勝龍寺城本丸跡は東西120m、南北80mの長方形で、現在は庭園として整備されています。


e0158128_14363075.jpg

向こうに人物像が2体見えます。


e0158128_14365055.jpg

像は細川藤孝の嫡子・細川忠興と、その妻・玉(ガラシャ)のものでした。

ふたりは勝龍寺城で盛大な結婚式を挙げ、天正8年(1580年)に丹後国宮津に移るまでの2年間、新婚生活をこの地で過ごします。


e0158128_14370335.jpg

15歳どうしの結婚でしたが、わずか2年の間に2人の子宝に恵まれます。

宮沢保浅井雪乃ですね(←これ、わかる人はわたしと同世代かな?)。


e0158128_14371557.jpg

しかし、ふたりが幸せだったのはつかの間

天正10年(1582年)に玉の父である明智光秀「本能寺の変」を起こして自らも滅んだため、忠興は「逆賊の娘」となった妻を丹後国の味土野に幽閉します。

その後、羽柴秀吉の執り成しもあって、玉は細川家に戻されますが、その頃から心の拠りどころをキリスト教に求め、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。


e0158128_14373053.jpg

管理棟内にある忠興とガラシャの肖像画です。

ガラシャは絶世の美女だったと伝えられます。

そのせいか、忠興のガラシャに対する愛情常軌を逸していたといわれ、玉の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたとか、玉のキリスト教信仰に影響を与えた侍女の鼻をそいだとか、異常といえる妻への愛情が伝えられます。

そして、慶長5年(1600年)の「関が原の戦い」の際は、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャは石田三成人質になることを拒み、壮絶な最期を遂げます。

忠興はその後も半世紀近く長寿しますが、ガラシャが幸せだったのは、ここ勝龍寺城で暮らした新婚時代だけだったといえるでしょうね。


e0158128_14374210.jpg

本丸南西の土塁上から、天王山が見えます。


e0158128_14375533.jpg

同じ場所から見下ろした南側の堀です。


e0158128_14381757.jpg

本丸の西側には、「沼田丸」という曲輪跡があります。

かつてここには、細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられているそうです。


e0158128_14383168.jpg

話を山崎合戦に戻して、一時、勝龍寺城に逃げ込んだ光秀でしたが、羽柴軍の追撃を受けて同城を脱出、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

光秀にとって勝龍寺城は、まさに「最後の砦」でした。


次回に続きます。





このシリーズの他の記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-07-29 16:06 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その12 「勝龍寺城跡 ~前編~」

前稿で紹介した恵解山古墳から北東へ500mほどのところに、勝龍寺城跡があります。

山崎合戦において羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、一時、ここ勝龍寺城に逃げ込んだと伝えられます。

当時、勝龍寺城には光秀の三女・玉(ガラシャ)が嫁いでいました。


e0158128_14095464.jpg

応仁・文明の乱頃から、寺院としての勝龍寺が臨時的なとしてしばしば使われていたようですが、恒常的な城として確実な史料が残されているのは、元亀2年(1574年)に織田信長が京都の防御拠点として細川藤孝に勝龍寺城の普請を命じたことに始まります。

「幽斎」の雅号で知られる藤孝は、肥後細川家の中興の祖と言われる人物で、あの細川護熙元総理大臣のご先祖さんとして有名ですね。

藤孝は光秀との親交が深く、一説には、藤孝と信長を引き合わせたのも光秀だったといいます。


e0158128_14103593.jpg

現在の勝龍寺城は、昭和63年(1988年)から発掘調査が行われ、平成4年(1992年)に勝龍寺城公園として蘇ったものです。

発掘調査の結果、穴太積の石垣枡形虎口など、のちの安土城大坂城など織豊時代の城郭に見られる特徴の先行的城郭だったことがわかったそうです・・・と、現地のボランティアで解説されていたご老人がおっしゃっていました。


e0158128_14105904.jpg

現在公園として整備されているのは、本丸跡と西側の沼田丸跡です。

本丸跡の周辺は、で囲われています。


e0158128_14111230.jpg

本丸を囲む土塁の上に石垣を積んだを作り、角の隅櫓と連結して守りを固める構造の建物を「多聞櫓」といいますが、これも、確認された遺構としては、ここ勝龍寺城が最古なんだそうです。


e0158128_14112586.jpg

南門です。

枡形虎口になっています。

「枡形」とは、出入り口の通路を直角に曲げて、大軍が侵入しづらく考えられた設計のことを言います。


e0158128_14113925.jpg

城門の向こうに見えるのは、模擬天守(櫓?)です。


e0158128_14115603.jpg

天守が存在していたことは間違いないようですが、文書の史料しかなく、復元はできません。

現在の建造物は、あくまで模擬です。


e0158128_14121079.jpg

こちらは北門跡

やはり、枡形になっています。


e0158128_14122112.jpg

外側から見た北門跡です。


e0158128_14124632.jpg

北門跡の側には、発掘調査の際に石垣跡から多数出土した石仏五輪塔が祀られていました。

当時、石垣にそれらの石材を使用することは、珍しくありませんでした。


e0158128_14130086.jpg

やっぱ、城跡レポートは長くなっちゃいますね。

もう一回、勝龍寺城の続きをやります。




このシリーズの他の記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-07-28 14:17 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その6 「天王山山頂(山崎城跡)」

山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴(豊臣)秀吉は、天王山山頂に天守を持つ城を築きます。

この城は山崎城とも天王山城ともいい、のちに大坂城が築かれるまでの秀吉の本拠地となりました。


e0158128_20564685.jpg

酒解神社を過ぎたあたりから、いくつもの曲輪跡らしき遺構が確認できます。


e0158128_20575887.jpg

土塁っぽいですね。


e0158128_20591877.jpg

山頂に繋がる登り口、どうやらここが虎口のようです。


e0158128_21005108.jpg

山頂にあがると、主郭跡は広場になっています。

この日はたいへんいい天気だったので、ハイキング客で賑わっていました。


e0158128_21031861.jpg

説明看板です。


e0158128_21033048.jpg

こちらは縄張り図


e0158128_21060893.jpg

主郭の北側は、さらに盛り上がった丘になっています。

縄張り図によると、ここが天守台のようです。


e0158128_21062567.jpg

中央には、「天王山山頂、標高270.4メートル」と書かれた標識が建てられていました。


e0158128_21082136.jpg

こちらは井戸跡


e0158128_21104221.jpg

主郭の周りには、土塁跡が確認できます。


e0158128_21105737.jpg

秀吉がこの地を本拠地としたのは、わずか2年ほど。

天正12年(1584年)4月には、山崎城は破却されてしまいます。

このとき、山崎城の天守も取り壊されたと伝わり、どの程度の規模かは定かではありませんが、天守があったことがわかっています。

山崎地方では、この地は字古城と呼ばれ、その後も城跡と認識されていました。

わずか2年の歴史しかない山崎城ですが、秀吉の天下統一の出発点として、歴史に大きな存在感を残しています。


e0158128_21134561.jpg

ゆっくり史跡を見ながらの登山だったので、麓から山頂まで1時間ほどかかりましたが、帰路は20分ほどで下山できました。

帰りに宝積寺によって、こんなものをいただきました。


e0158128_21192420.jpg

天王山登頂証明書

天王山を制覇しちゃいました(笑)。

でも、何度もいいますが、天下分け目「関ヶ原」です!


さて、天王山を制覇したので、次回からは周辺史跡をめぐります。




このシリーズの記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-07-07 07:12 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ひと通り城跡内を歩いたので、次は中堀の外を散策します。

まずは、鉄御門を出た南側にある「三の丸緑地」

e0158128_20143020.jpg

現在は、市民憩いの場となっています。

e0158128_20164905.jpg

三の丸緑地から道路を挟んで東側にある「柳御門跡」

ここも石垣は「野面積み」ですね。

e0158128_20165319.jpg

石垣と押しボタン信号のミスマッチです(笑)。

e0158128_20181175.jpg

大和郡山市役所前の「中堀跡」

e0158128_20192580.jpg

そこから更に東へ進むと、「外堀跡」「外堀緑地公園」として整備されています。

写真はその南門

かつて郡山城の外堀は、惣構として九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の4つの大門を通じて出入りをしていましたが、この南門は、柳町大門をイメージして再現されたものだそうです。

e0158128_20231188.jpg

その外堀公園に設置されていた城下町MAPです。

e0158128_20263090.jpg

外堀を普請したのは、豊臣秀長の死後、文禄4年(1595年)に20万石で入部した増田長盛でした。

e0158128_20265528.jpg

この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町では商工業が発達するなど、外堀で城下全体を囲む惣構の必要が生じていました。

そこで長盛は、秋篠川の付け替えや溜池をつないで、周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させます。

e0158128_20285954.jpg

外堀のほとんどは素掘りで、中堀や内堀のように石垣は積まれなかったようですが、掘削した土を堀の内側に積み上げて土塁を作り、防御壁としました。

e0158128_20290354.jpg

それらの説明板です。

赤いTシャツを着たわたしが映っています(笑)。

e0158128_20301416.jpg

城下町には、箱本十三町と書かれた説明板とMAPが各所に設置されていました。

天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長は、城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除などの特権を与えて箱本制度という自治組織を作りました。

e0158128_20310650.jpg

城下町に復元された「火見櫓」です。

延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒あまりが焼失しました。
貞享3年(1696年)、当時の藩主・
本多忠平が、この延宝の大火」を教訓として城下町の防火進めるために、堺町、本町、柳5丁目、今井町に火見櫓を建てました。

城下町を描いた町割図という絵図には堺町の火見櫓が描かれているそうです。

建物の屋上に四角い望楼を高く建てて、四方に窓を開けたもので、17町が交代で見張りを行っていたそうです。

さて、シリーズ6まで続いた郡山城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

この日は2015年8月8日の夏真っ盛りの猛暑日で、汗だくになって歩きまわりました。

郡山城は桜の名所だと聞きますから、今度は春に訪れてみたいですね。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-26 23:12 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

郡山城主郭は、現在、柳澤神社となっています。

本丸南側の入口には、その鳥居があります。

e0158128_19583329.jpg

鳥居をくぐって進んだところにある、「竹林門跡」です。

e0158128_19591992.jpg

石碑には、「祭神旧川越甲府城主柳澤美濃守吉保公」と刻まれています。

柳沢吉保とは、郡山城に入った初代・柳沢吉里の父にあたります。

e0158128_20020713.jpg

この神社は、明治に入ってから旧藩士たちによって、吉保・吉里の遺徳を偲んで建立されたそうです。

e0158128_20043027.jpg

神社境内の西側に、小さな鳥居と祠がありました。

その向こうに見えるのが、立ち入り禁止になっている天守台です。

e0158128_20051957.jpg

この祠が何を祀ったものかは説明板がなかったのでわからなかったのですが、おそらく、「その2」で紹介した石地蔵などを祀ったもので、天守台が立入禁止の間は、ここに参拝するようになっているのかと。

e0158128_20062193.jpg

祠から見た天守台石垣です。

e0158128_20073207.jpg

柳沢氏は第19代城主・柳沢吉里から第24代・柳沢保申まで6代に渡って郡山城主を務め、郡山城の最期を見届けました。

明治6年(1873年)に郡山城は破却され、櫓・門・塀などの建築物は、入札によって売却されます。

多くの城がそうでしたが、維新後、旧藩主は知藩事に任命され、城も藩庁としての役目を担うものの、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によってほとんどの知藩事は罷免となり、東京に移住させられます。

そのとき、ほとんどの城が破却されてしまうんですね。

今となっては残念なことですが、維新当時は、城など無用の長物の極みだったでしょうから。

あと1回だけ続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-25 20:31 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

追手門向櫓の南側は、「毘沙門郭」と呼ばれていました。

もともとは「本丸ニの郭」と呼ばれていましたが、柳沢吉里入城以降に「毘沙門郭」と改名したそうです。

e0158128_19463328.jpg

毘沙門郭にある「久護門跡」です。

e0158128_19474077.jpg

毘沙門郭から見た「追手向櫓」です。

この櫓は、追手門を守るために置かれた櫓で、柳沢氏の前の本多氏時代には、「大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)」と呼ばれていたそうです。

e0158128_19482826.jpg

毘沙門郭は現在庭園になっていて、中央にあずまやがあります。

e0158128_19491255.jpg

毘沙門郭に建つ「柳沢文庫」

郡山藩最後の藩主となった柳沢保申が建てた迎賓館で、現在は柳沢家に伝わる藩や城に関する古文書や絵図、文化作品などが展示されておいます。

中は撮影禁止だったので紹介できませんが、この日は夏真っ盛りの猛暑日だったので、冷房が効いた館内でしばらく涼みました(笑)。

e0158128_19501844.jpg

毘沙門郭西側にあったという「極楽橋跡」です。

かつてここに、本丸主郭と毘沙門郭を結ぶ「極楽橋」があったそうです。

現在、この極楽橋を復元する案があるとか。

e0158128_19511133.jpg

その極楽橋が架かっていたとされる堀です。

e0158128_19515607.jpg

現在、毘沙門郭と主郭を結ぶ通路は、この門だけとなっています。

次回は主郭に入ります。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-19 17:42 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

郡山城の本丸は、堀を挟んで天守台のある西側と、法印郭、毘沙門郭のある東側に分かれます。

本稿では、城跡東側から本丸に向かいます。

e0158128_19165689.jpg

本丸東側の石垣です。

ここも「野面積み」ですね。

e0158128_19432288.jpg

写真は昭和62年(1987年)に復元された「追手向櫓」です。

青空に映えて美しいですね。

e0158128_19434877.jpg

その追手向櫓に繋がっているのが「追手門」、別名、「一庵丸門」とも「梅林門」とも言うそうです。

天正13年(1585年)8月、豊臣秀長が入城したときに、この場所に築かれたといわれますが、慶長20年(1615年)4月26日に起きた大坂夏の陣の前哨戦、郡山城の戦いの際に焼失。

その後、元和4年(1618年)に松平忠明が入封したとき再建され、「一庵丸門」と呼ばれたそうです。

更に時を経た享保9年(1724年)、柳沢吉里が入城した際、「梅林門」と名を変えました。

やがて明治に入って全ての建物が取り壊されましたが、昭和58年(1983年)に市民の寄付などにより復元されたそうです。


e0158128_19193463.jpg

外側から見た追手門。

e0158128_19210172.jpg

追手門側から見た「追手向櫓」です。

内枡形構造になっています。

e0158128_19215799.jpg

内側から見た追手門です。

e0158128_19230956.jpg

「法印郭跡」です。

写真は明治時代に建てられた旧奈良県立図書館跡で、現在は市民会館となっており、県指定の文化財になっています。

e0158128_19244287.jpg

法印郭南東隅にある、「追手東隅櫓」です。

こちらも、昭和59年(1984年)に復元されたものだそうです。

e0158128_19260727.jpg

かつては、「法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていたそうですが、柳沢吉里が入城した際、現在の名称になったそうです。

e0158128_19273655.jpg

豊臣秀長の時代、ここ法印郭に筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷があったとされ、法印曲輪または一庵丸と呼ばれるようになったそうです。

e0158128_19285002.jpg

鉄砲狭間が6ヶ所あります。

次回は法印郭の南に位置する毘沙門郭

をめぐります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-18 17:32 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

郡山城天守台は、石垣の倒壊の恐れがあるとして、現在は立ち入り禁止となっています。

そこで、「中仕切門」から「新宅郭跡」に入り、内堀沿いに天守台を見てみます。

e0158128_19513960.jpg

天守台です。

石垣は典型的な「野面積み」で、出隅だけのちに補強された跡が見えます。

e0158128_18571506.jpg

郡山城の天守閣が築かれたのは天正11年(1583年)、豊臣秀長が大規模工事を行う前の筒井順慶のときだったそうですから、野面積みが主流だった時代ですね。

伝承では、かつてここに五層六階の天守閣があったと伝えられますが、現在の建築学上から考えて、現存する天守台では不可能とされており、その真偽は定かではありません。

e0158128_18581902.jpg

ここ郡山城は、大坂夏の陣の火蓋が切られた場所でもあります。

豊臣秀吉の死後、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放され、その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶1万石を与えられ、郡山城に入城しました。

大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。

しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。
これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、2000の兵で大和に進軍してきますが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤り、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。

その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。

水野勝成は戦後、その功により郡山城主となります。

一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられます。

e0158128_19020272.jpg

天守台の裏手にが見えますが、この祠は、石垣築造の際の石不足を補うため、付近から石地蔵などをかき集めて徴用しており(この当時の築城ではよく行われていたことですが)、それらの地蔵を祀ったものだそうです。

e0158128_19051027.jpg

残念ながら立ち入り禁止で観ることはできませんでしたが、石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは「逆さ地蔵」と呼ばれているそうです。(参照:Google画像検索

かつては、この逆さ地蔵の祟りで天守が倒壊した、なんて俗説もあったそうです。

e0158128_19002164.jpg

天守台石垣は、平成25年10月から29年3月まで3年半かけて修復工事を行うそうです。

当分の間は立ち入り禁止のようですね。

でも、石垣保存のためには、必要な期間だと思います。

同じく野面積みの石垣で昨今人気の兵庫県朝来市にある竹田城は、急激な観光客の増加で踏み荒らされたため、地面の草が枯れ、雨水がたまった土が膨張し、石垣が崩壊の危機にあるといいますが、観光客を確保したい朝来市は立ち入り禁止などの策を施さないばかりか、あろうことか、観光客の通路確保のため、国指定の史跡にも関わらず国の許可なしで勝手に朝来市が史跡に手をいれて工事をすすめ、大問題になっていましたね。

観光誘致史跡の保存管理相反するところにありますが、やはり、優先すべきは史跡の保存管理で、その点、朝来市と違ってさすがに奈良や京都は、史跡保存に対する意識が成熟していますね。

次回に続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-13 00:52 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

e0158128_18111208.jpg

郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

e0158128_18124526.jpg

城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

e0158128_1951539.jpg

時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

e0158128_18175659.jpg

城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

e0158128_18194084.jpg

南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

e0158128_18204881.jpg

こちらの石垣も同じく野面積みです。

e0158128_19512360.jpg

まずは内堀に沿って歩いてみました。

e0158128_18271370.jpg

鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

e0158128_18291083.jpg

道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

e0158128_18310008.jpg

本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

e0158128_18324741.jpg



そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

e0158128_18341505.jpg

ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

e0158128_18365221.jpg

この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

e0158128_18393839.jpg

更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

e0158128_18395225.jpg

さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)