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太平記を歩く。 その57 「三人五輪」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和一族郎党の墓とは別に、ここ大山町名和地区には名和氏ゆかりのものと伝わる五輪塔があります。


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それが、これ。

「三人五輪」と呼ばれる大型の五輪塔3基で、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光首塚といわれています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を護衛して上洛した名和長年は、北条幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成の(キ)、結城親光の(キ)、千種忠顕の(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。


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『太平記』巻17「義貞軍事付長年討死事」は、長年の最期を次のように伝えます。


義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。

要訳すると、

新田義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、一人残らず討ち死にしました。


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向かって左から長年、長男の義高、三男の高光のものであると言われています。


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長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父の死と時を同じくして、比叡山の西側にあたる西坂本(現滋賀県)にて討死したと伝わります。

その後、それぞれを家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。


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さて、「その48」から10稿に渡って伯耆国の史跡を巡ってきましたが、この稿にて終了です。

次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-25 00:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その56 「名和一族郎党の墓」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した長綱寺の裏山に、名和一族郎党の墓と伝わる300基以上の五輪塔があります。

墓所への参道は、境内に誘導板が設置されているので、すぐにわかります。


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急な階段を登ります。


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ここが、その場所です。


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この五輪塔群は、名和長年船上山で幕府軍と戦ったときに戦死した一族を祀ったものか、あるいは、そのとき館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が都を追われて足利尊氏の天下になったとき、足利方によって墓を荒らされることを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋めたといわれ、それが、昭和5年(1930年)になって偶然、地元の農家の人によって発見されたそうです。


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発見当時は何の墓かわからなかったそうですが、名和長年の妹婿の家に伝わる古文書によって判明したそうで、その後、現在のかたちに祀られたそうです。


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ほとんどが五輪塔ですが、最上段の中央に1基だけ、大きな宝篋印塔があります。


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これが、名和長年の墓と考えられているそうです。


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参道から西を見下ろします。

右端に見えるのが、日本海です。


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下山して長綱寺とその裏山を見上げます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-24 00:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その45 「北畠具行の墓」 滋賀県米原市

清瀧寺徳源院から少し南の丸山という標高285mの山頂に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の重臣・北畠具行の墓があります。


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標高285mといっても、近くまで車でいけますので、徒歩での登山は5分ほど。

墓所までの参道も整備されていて、迷うこともありません。


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しばらく登ると「元弘忠臣北畠具行卿」と刻まれた石碑があります。

この横の道を登ると、墓所です。


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この日は、雨の降るなか傘をさしての参拝です。


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こちらは、墓所広場入口にある石碑です。


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北畠具行は後醍醐天皇の側近として活動し、従二位権中納言まで昇進した、公家の中でも国政を担う最高幹部の「公卿」という高い身分の貴族でした。

いずれ、このシリーズでも出てきますが、北畠宗家第4代・北畠親房の従兄弟にあたります。

元徳2年(1330年)に宗家の北畠親房は後醍醐天皇の皇子・世良親王急死の責任を取って出家し、宗家はまだ幼少の北畠顕家が継ぐこととなるのですが、具行はその後見人となります。


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元弘元年(1331年)の「元弘の変」で具行は中心的存在としてはたらきますが、計画に失敗し、幕府軍に捕えられてしまいます。

そして具行は鎌倉に護送されることになるのですが、この護送を命じられたのが、この時点ではまだ幕府方だった佐々木道誉でした。

護送の任務に就いた道誉は、具行の人となりと才能を惜しみ、幕府に助命嘆願を行ったといいます。

その間、京極氏の領地である清瀧寺に具行を約1カ月間留め置いたともいわれていますが、結局、道誉の願いは聞き入れられず、具行はこの地で斬首されました。

具行は処刑前、道誉に対して感謝の意を述べたとも伝わります。


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砂岩製で、総高は204cmあるそうです。


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「貞和三(1347年)丁亥十一月二十六日」の銘文があり、死後16年後に介錯を務めた田児六郎左右衛門尉により建てられたと伝えられます。


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下山したとたん、急に雲が切れて晴れ間が見え始めました。

遠くに見える高い山は、伊吹山です。


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ちなみに、前稿で紹介した清瀧寺徳源院境内の「京極家墓所」にも、具行の遥拝墓とされる宝篋印塔があります。

上の写真がそれ。

婆娑羅大名と呼ばれた道誉と上流貴族の具行が、どのように心を通わせたのか、興味深いですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-27 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その44 「佐々木道誉墓所(清瀧寺徳源院・京極家墓所)」 滋賀県米原市

前稿で紹介した道誉桜のある清瀧寺徳源院は、佐々木道誉(高氏)の一族・京極家菩提寺となっており、歴代の京極家当主の墓所があります。

京極氏は佐々木氏の分家で、道誉はその嫡流でもあることから、京極道誉とも呼ばれます。

道誉の墓は「その41」で紹介した勝楽寺にありますが、ここ京極家墓所にも、一族と共に祀られています。


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鎌倉中期に近江を領していた佐々木氏が、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれ、本家に当たる六角氏は、戦国時代、織田信長によって滅ぼされましたが、京極氏は、江戸時代も大名家としてつづき、現在に至っています。

寺は、弘安6年(1283年)京極家初代・氏信によって建立されたといわれ、寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものだそうです。


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墓標の配置図です。

名前の上の四角の中の数字は、何代目かを表しています。

数字のないものは嫡流ではありませんが、一族だそうです。

世襲順に並んでいないのは、もとと別の場所に散財していた墓を、後年ここに集めたとき、順番を気にせずに配置したからだそうです。


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上段の始祖・京極氏信を筆頭に、道誉を含む歴代当主の墓碑宝篋印塔18基並びます。

墓石は、そのほとんどが宝篋印塔です。


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これが佐々木道誉の宝篋印塔。

上段の右から4番目にあります。

既成概念にとらわれない「婆娑羅大名」と称されながらも、足利幕府内では評定衆政所執事を勤め、京極家が室町幕府四職の一家となる基を築いた道誉は、文中2年/応安6年(1373年)、78歳という長寿で死去しました。


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あと、全部の墓を紹介していられないので、主だった人物のみ紹介します。

まずは上の写真は初代・佐々木(京極)氏信の宝篋印塔です。


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上の写真は、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱にて、赤松邸猿楽観賞の最中、将軍・足利義教と共に殺された10代・京極高数の宝篋印塔です。


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下段には、それ以降の当主や分家やらの宝篋印塔14基と、淀殿の妹・をめとった19代・京極高次の墓石などが整然と並んでいます。


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これがその高次の廟です。

幼少期には織田信長に人質としてとられ、成人してからは豊臣秀吉に仕えて浅井三姉妹の次女・初の結婚。

関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、浅井氏の台頭とともに一時期衰えていた京極家を再び勃興させたことから、京極家中興の祖とされています。


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そしてこれが、丸亀藩二代藩主となった22代・京極高豊の廟です。

この墓所を作った人物です。

京極家の衰えとともにこの寺も一時荒れていましたが、寛文12年(1672年)、高豊が境内に三重塔(県の指定文化財)を建てて以来、勢力を取り戻しました。

このとき、付近に散在していた墓を一カ所に集めたといいます。

塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰を表しているといわれています。

現在、国の史跡および県の史跡に指定されています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-26 00:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その41 「佐々木道誉墓所(勝楽寺)」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿佐々木道誉の名が出てきましたので、ここで少し時系列を離れて、滋賀県にある道誉関連の史跡をめぐります。

まずは、犬上郡甲良町の勝楽寺にある、佐々木道誉の墓です。


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勝楽寺のある集落の地名は滋賀県甲良町正楽寺といいます。

たぶん、元は勝楽寺の名称にあるのでしょうね。

名神高速の高架を潜って集落に入ると、いきなり「ようこそ道誉の郷・正楽寺へ」という看板が迎えてくれます。


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その向かいには、「道誉の郷」と記された石碑が。


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こちらが勝楽寺の山門

ここを訪れたのは先日の日曜日で、満開から少し散り始めといった状況でした。


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山門の軒瓦には佐々木京極家の「四つ目結紋」が。


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山門を潜ると、左手に「道誉記念堂」というお堂があります。


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道誉は北近江の守護・佐々木氏の支流京極家の当主で、京極道誉とも呼ばれます。

佐々木氏は鎌倉時代に二家に分派し、本家は六角氏、分家が京極氏となりました。


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「道誉」という名は法名で、諱(実名)は「高氏」といいます。

そう、共に鎌倉幕府を倒した足利高氏(尊氏)と同じ名前なんですね。

吉川英治の小説『私本太平記』では、同じ名の足利高氏をかねてから気に留めていた道誉との出会いが、たいへん面白く描かれています。


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また、道誉は「婆裟羅大名」という異名がよく知られていますね。

「婆裟羅(ばさら)」とは南北朝時代の流行語で、形式や常識から逸脱して奔放な生き方をポリシーとすることをいいます。

『太平記』では、を廻らし権威を嘲笑し、粋に振舞う道誉の逸話が多く記されています。


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道誉は尊氏と同じく、当初は北条幕府方に属していましたが、尊氏が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に呼応すると、これに従い、共に幕府を滅亡に追い込みます。

一説には、事前に尊氏と密約があったのではないかと言われていますが、定かではありません。

その後、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、新政権の役人になりますが、尊氏が新政権に参加せず反旗を翻すと、いったんは足利軍と戦う姿勢をみせながら、土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍に勝利させます。

これも、尊氏と同様はあらかじめ示し合わせていたんじゃないかとも言われています。


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その後は、一貫して尊氏のブレーンに徹し、高師直、土岐頼遠と並んで婆裟羅三傑のひとりとしてその歴史に刻みます。


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勝楽寺は閑静な正楽寺の集落の奥にあり、道誉の墓は境内のいちばん奥にあります。


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苔むした物寂しいたたずまいの墓石でしたが、図らずもこの日は桜舞い散る晴れた日で、婆裟羅大名として奔放に生きた道誉の人生を華やかに演出しているかのようでした。


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最後に、勝楽寺前にある西蓮池の桜並木です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-19 00:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その40 「北条仲時以下432名墓所(蓮華寺)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市番場にある蓮華寺を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受けて落ち延びた六波羅探題北方の北条仲時が、進退窮まり、一族432人と共に自刃した場所と伝えられます。


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蓮華寺は名神高速米原ICを降りてすぐのところにあります。

このあたりは、かつて中山道の62番目の宿場、番場宿として栄えたところです。

道沿いに、「南北朝の古戦場・蓮華寺」と書かれた誘導看板が見え、その横に「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」と刻まれた石柱があるのですが、なぜかその1面が、野暮ったいブリキ看板で覆われていました。

石柱に刻まれた文字が古くて読みづらくなったからかもしれませんが、なんだか安っぽくて・・・。


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山門です。

ここを訪れたのは年末押し迫る12月17日。

場所が米原ということもあったのですが、今にも雪が降りそうな寒い日でした。


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蓮華寺は聖徳太子の創建で、はじめは法隆寺と呼ばれたそうですが、弘安7年(1284年)、当地の地頭で鎌刃城主の土肥元頼が、良忠の弟子とされる一向を招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺と号したと伝わります。

山門横には、寺院の由緒と、仲時自刃を説明する看板が設置されています。


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山門横には、「血の川」と書かれた立て札が。

伝承によると、432人の鮮血滴り流れて、辺りは川の如しだったといいます。


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本堂です。


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境内の奥にある、北条仲時ら432人の墓所に向かいます。


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墓所です。


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元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)軍、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍らに六波羅探題の館を包囲され、追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は討死し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、5月9日、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。

『太平記』によると、仲時は自害するに際して、最後まで付き従ってくれた軍勢に感謝の意を表し、「自身の首を持って敵方に下り、恩賞を得よ!」と言って果てたといいます。

以下、『太平記』原文。


其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。


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寄り添うように眠る432人の墓。

境内奥の森のなかで、あまり光が挿さない場所ということもあったのですが、何かもの悲しげに思え、700年近く経ったいまも、その無念さが伝わってきます。


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説明板によると、仲時の墓だけは、享保年間(1716~36年)に近くの山に移されたそうです。

この日、周辺を探してみましたが、どの山も立入禁止で入れませんでした。


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432人の墓の側には、明治22年(1889年)に建てられた記念碑があります。


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境内には、樹齢約700年と伝わる「一向杉」と呼ばれる巨木があります。

あるいは、仲時らの最期を見届けていたかもしれません。


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六波羅探題が落ちた翌日の5月8日、新田義貞が関東の上野国で挙兵。

元弘3年(1333年)5月22日、激戦の末ついに鎌倉を落とし、北条一族は執権・北条高時をはじめ全員自害

ついに北条氏鎌倉幕府は滅亡します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-14 15:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村

千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。

そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。


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上の写真は「身方塚」です。


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総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。


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そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」

総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。


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「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。

また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。

これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。

ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。


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寄手塚・身方塚から望む景観です。

右が金剛山、左が葛城山です。

五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その9 「善通寺・秦武文の碑」 兵庫県尼崎市

尼崎市にある善通寺を訪れました。

ここは、阪神電鉄尼崎駅の南側にある街中の寺ですが、その境内に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の忠臣・秦武文の碑が建てられています。


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元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、このとき、皇子の尊良親王も、土佐国に配流となります。

このとき親王の共をしたのが秦武文でした。


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武文は親王の后・御匣殿(みくしげどの)を土佐に迎えるため、尼崎から船を出しますが、その途中、海賊松浦五郎に襲われ、后を奪われてしまいます。

松浦の船を小舟で追った武文は、戦場で腹を切り、そのまま海へ飛び込むと、武文の怨霊渦潮となって松浦の船を襲い、后は助けだされたといいます。


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怨霊話はにわかに信じられるものではありませんが、武文が后を奪われた責任をとって自刃したのは本当かもしれません。


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『太平記』「金ヶ崎恋物語」に記されたこの物語は、謡曲舞曲などで人々に広く知られ、尼崎の地に永く伝えられることになったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-03 18:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


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今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


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「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


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ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


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傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


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一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


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上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~

前稿の細川城跡から直線距離で7kmほど北上した兵庫県加東市にあったとされる「小沢城跡」を訪れました。


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三木合戦が行われる直前、細川城主の冷泉為純・為勝父子が三木城主・別所長治の家臣で中村城主岡村秀治に攻められたとき、当時、ここ小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援に駆けつけますが、力及ばず敗北。

為純は討死し、息子の為勝は依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて観念して自刃します。


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写真の丘の上の森が、小沢城跡といわれています。

探索してみようと思ったのですが、柵がめぐらされていたため、森に入るのはやめました。


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小沢城の築城年代は定かではありませんが、一説によると、文治2年(1186年)に依藤豊季平家追討の功で播磨東条谷の地頭職に任ぜられたとき、ここ小沢城を築いたとの伝承があります。

それが事実なら、かなり古い歴史を持つ城ですね。

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小沢城跡から800mほど北西に、冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と伝わる場所があり、慰霊碑が建てられています。


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「冷泉為勝・依藤太郎左衛門自刃の碑」です。


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墓所です。

右が冷泉為勝、左が依藤太郎左衛の墓石です。


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「天正六年四月一日」と刻まれています。

羽柴軍が三木城の包囲を開始したのが3月29日。

二人が自刃したのは、その3日後だったわけです。

三木合戦最初の犠牲者だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-19 01:07 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)