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太平記を歩く。 その170 「楠木正行本陣跡・墓所(往生院六萬寺)」 大阪府東大阪市

正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」の舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市ではなく、東大阪市の四条付近だったという説もあります。


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その説に則った史跡が、当地には複数あります。

まず訪れたのは、楠木正行本陣となったと伝わる往生院六萬寺

その参道には、「小楠公銅像 東千メートル」と刻まれた石碑がありました。

昭和10年(1935年)に建てられたもののようです。


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そして、ここが往生院六萬寺。

その入口には、「楠木正行公四条畷合戦本陣跡」と刻まれたドでかい石柱があります。


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しかし、写真撮影はここまで。

境内はすべて撮影禁止だと言われました。

また、境内には楠木正成、正行供養塔正行像があると聞いてきたのですが、それらを見せてもらうこともできませんでした。

聞けば、墓所へのお参りは事前に問い合わせが必要で、わたしのような趣味の史跡巡り目当ての人には、見せてもらえないそうです。

住職さん曰く、あくまで供養のためのものだからと・・・。

まあ、たしかにおっしゃるとおりなんですが。

残念です。


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その伝承によると、往生院の伽藍も兵火に巻き込まれて焼失し、正行の亡骸を持ち帰った黙庵周諭禅師が、胴体だけをこの地に埋葬したといいます。

前稿で紹介した寶篋院に黙庵周諭禅師が正行の首を埋葬したという話と合致しますね。

でも、なぜ胴体と首を別々に葬る必要があったのでしょう?

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Wikipediaによると、焼失した伽藍は承応3年(1654年)に鷹司信房によって復興され、このとき正成・正行父子の供養塔も建立されたそうですが、明治時代になって四條畷神社創立の影響を恐れた往生院が、自ら二石の供養塔を隠蔽古文献を処分し、往生院は破壊されたそうです。

四條畷神社創立の影響を恐れたって、どういうことでしょうか?

現在の寺院は、第二次世界大戦後に復興されたものだそうです。


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紹介できる写真が少ないので、寺院から見えるあべのハルカスでも載せておきます(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-17 00:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その169 「楠木正行首塚・足利義詮の墓(寶篋院)」 京都市右京区

「その166」「その168」楠木正行の墓を紹介しましたが、京都の嵯峨にある寶篋院にも、正行の首塚と伝わる石塔があります。


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正門の前には「小楠公菩提寺寶篋院」と刻まれた石碑があります。


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正門をくぐると、楓の木のトンネルが迎えてくれます。

紅葉の季節に来ればさぞ美しかったでしょうが、ここを訪れたのは10月2日、紅葉はまだ1か月以上先です。


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境内のいちばん奥に首塚はあります。

その入り口には、「小楠公首塚之門標」と刻まれた石柱があります。


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そして、これがその首塚。

立派な玉垣で囲われていますが、よく見ると、中には石塔が2つあり、石扉にも2種の紋章が・・・。


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なっなんと、足利家の二つ引両紋楠木家の菊水紋が並んでいます。

敵同士であるはずの両家の紋章がなぜ????


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ここ寶篋院中興の祖である黙庵周諭禅師が、楠木正行の生前に相識り、正行から後事を託されていたそうで、正行が正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃すると、黙庵はその首級を生前の交誼により、ここ寶篋院の前身である善入寺に葬ったそうです。

その後、黙庵から正行の話を聞いた室町幕府2代将軍・足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだといいます。

義詮が死没したのは正平22年/貞治6年(1367年)と伝えられますから、まだ、南北朝は分裂したままの時代。

そんな時代に、ここでは南朝・北朝の隔たりを超えた空間があったんですね。

これって、当時はスゴイことだったんじゃないかと。


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右が正行の首塚で、左が義詮の墓石。

義詮の方がずいぶん立派ですが、まあ、将軍ですからね。

これぐらいの差はあって当然なんじゃないかと。


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本堂です。


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本堂の中には、正行の木像が安置されていました。


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こちらの絵は、「黙庵禅師と楠木正行」だそうです。


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こちらは、「四条畷合戦の図」


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義詮が没すると善入寺はその菩提寺となり、8代将軍足利義政の代になって、義詮の院号に因んで寶篋院と改められたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-16 02:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その168 「楠木正行首塚(正行寺)」 京都府宇治市

「その166」で紹介した楠木正行の墓所以外にも、正行の首塚と伝わる場所があります。

まずは、京都府宇治市六地蔵にある正行寺を訪れました。


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何と言っても「正行寺」という名称ですからね。

いかにも正行と関係ありそうです。


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そして、これが正行の首塚とされる墓石です。

境内の隅にひっそりとあります。


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墓石の後ろにある正行寺由来によると、正成は正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃する直前、同行していた随臣の安間了意を呼び、「わが首を敵に取らしむる勿れ」と遺命し、了意は首級を携え吉野に逃れようとしたものの、足利の軍勢に遮られたため、ここ六地蔵に埋葬したとあります。

その後、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)がその忠死を追悼され、一宇の小堂を墳墓の上に建立し賜い、その墓は600年の間隠匿していましたが、昭和の時代になって陽のあたる場所にと、ここに正行寺の境内に移されたそうです。


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四條畷から吉野に首級を運ぶ途中に足利軍に阻まれて埋葬したのが、なぜ吉野とは全く方向違いの宇治市六地蔵だったのかがわかりませんが、まあ、正行寺という名称ということで、実話ということにしておきましょう。

この種の伝承を細かく詮索するのは、無粋というものです。


次回も、正行の墓を巡ります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-14 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その167 「和田賢秀墓所」 大阪府四條畷市

前稿で紹介した楠木正行の墓所から北東600mほどのところに、和田賢秀の墓所があります。

和田賢秀は楠木正成の弟・楠木正季の子で、正行・正時とは従兄弟にあたります。

父の正季は「湊川の戦い」の戦いで兄・正成とともに戦死しましたが、息子の賢秀も、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で正行・正時とともに討死しました。


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賢秀の墓所は国道170号戦に面した場所にあり、墓所の前は「塚脇」というバス停になっています。


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正行の墓所の入口には「忠」「孝」と刻まれた石柱がありましたが、賢秀の墓所の入口の石柱は、「忠」「烈」の2文字でした。


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賢秀は楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、四條畷の戦いにおいては剃髪して新発意(しんぼっち)と称して合戦に臨んだとも伝わります。


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その伝承によると、正行・正時が自刃したあと、賢秀は敵将・高師直の首を討とうと敵陣に単身乗り込みますが、かつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に見つかり、首をはねられました。

そのとき、はねられた首が敵に噛み付いたまま睨んで離れず、本宮太郎左衛門はその後、その恐怖から病に伏し、1週間後にもがき苦しんで死んだと伝わります。


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以下、『太平記』『太平記』巻26「楠正行最期事」原文


和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。


『太平記』は、本宮太郎左衛門の死因を賢秀の怨霊としています。


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墓石には「和田源秀戦死墓」と刻まれています。


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「むかし問へは すすき尾花の あらし吹く」

墓石の裏に刻まれている歌だそうです。


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首を討たれてもなお噛み付いて離さなかったというのは伝説としても、死に際に敵に噛み付いたのは本当だったかもしれませんね。

あるとき、地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ、たちどころに歯痛が治ったことから、地元では賢秀のことを「歯噛(神)さん」と呼んで祀っているそうです。 




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-13 23:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その166 「楠木正行墓所」 大阪府四條畷市

「その163」で紹介した四條畷神社から1kmほど西に、楠木正行墓所があります。

入口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があります。


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その附近には、建てられた時代が違うであろう石碑が、あちこちにあります。


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正行は、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日、足利方・高師直軍と激突した「四條畷の戦い」に敗れ、弟の楠木正時と共に自害しましたが、それが、この場所だったと伝わります。


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墓所内は厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のようです。


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墓所の門は閉ざされていて、中に入ることはできません。


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楠家の家紋・菊水です。


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玉垣の間から中を撮影。

バカでかい墓標があります。

本石の高さ約5.5m、礎石、中台を含めると約7.5mの高さになる巨大な墓標です。

墓標が立てられたのは明治11年(1878年)、銘は大久保利通の揮毫によるものだそうです。


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『太平記』巻26「楠正行最期事」は、正行の最期を次のように伝えます。


正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。


全身に矢が刺さって動けなくなった正行は、「もはやこれまでだ。敵の手には懸かるな」と言って、正時とともに北枕に倒れ込むと、同じく体中に傷を追った32人の兵たちは後を追って腹を切り、折り重なって倒れた・・・と。

正行23歳、正時22歳でした。


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墓所には、樹齢600年と伝わるクスノキ大樹が聳えます。


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正行らの遺骸が葬られた当初は、土を盛った上に墓石が置かれただけの墓所だったそうですが、死後80年が過ぎた正長2年(1429年)、当地の人々が彼らの塚の両脇に2本のクスノキの苗を植えたそうで、そのクスノキはその後成長を続け、墓石をはさみ込み、2本が1本に合わさって現在に至っているそうです。


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そのクスノキの根本です。

写真では伝わりづらいですが、高さ約25m、幹周り約12mというかなりの大樹で、大阪府の天然記念物に指定されています。


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境内に建つ楠木夫人の碑。

明治35年(1905年)に建てられました。


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他にも、いろんな場所に石碑があるのですが、誰の何の石碑か説明書きがないので、よくわかりません。


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現在、墓所は四条畷神社の管理下にあり、大阪府指定史跡となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-12 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区

北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。

現在は北畠公園として整備されています。


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公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。


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由緒書です。


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墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。


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墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。


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こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文要訳が記載されています。その内容は、


一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。

一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること

一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること

一、臨時の行幸や酒宴は控えること

一、法令に尊厳をもたせること

一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり  益のないものは退けること

延元三年(1338)5月15日

従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上


この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。


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柵の隙間から墓石を撮影。


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碑文は、手前の看板で紹介されていました。

「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」


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顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。


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公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。

その窓を覗いてみると・・・。


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中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。


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さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その148 「北畠親房の墓」 奈良県五條市

前稿で紹介した賀名生の里の裏山に、南朝方の公卿・北畠親房の墓と伝わる古い墓石があります。


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北畠親房は、当時、学識の高い万里小路宣房吉田定房とともに「後三房」と称された公卿で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の信頼厚く、その第二皇子である世良親王の養育を任されるほどでした。

また、大塔宮護良親王は親房の娘で、親王から見れば親房は義父にあたります。

北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」で始まる『神皇正統記』の著者として有名ですね。


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建武の新政下では、鎮守府将軍となった嫡子の北畠顕家と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めますが、足利尊氏謀叛によって後醍醐天皇が吉野に落ちると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力します。

後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論のひとつである『神皇正統記』を著し、それ以外にも、後世に伝わる『職原抄』・『二十一社記』などを著しています。


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正平3年/貞和4年(1348年)に「四條畷の戦い」楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は賀名生行宮に落ち延びます。

その後、観応の擾乱による混乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功しました。

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しかし、その後、親房の動静を記す史料はなく、2年後の正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去したと伝えられます。

享年62。


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墓所の隅には、「南朝三帝賀名生皇居之地」と刻まれた石碑があります。

その横には見える石碑は「五条高校賀名生分校跡」と刻まれていました。

墓所のある丘の上は、かつて五条高校賀名生分校があったそうです。


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親房の死後、南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていくことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-24 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。

この長い階段の上です。


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吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついにに伏します。


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自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳義良親王攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。


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『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。


「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」


現代文に読み下すと、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」


凄まじい限りの執念ですね。

そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。

御齢52歳。

右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。

辞世の句

「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」


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後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。

これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。


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後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その141 「吉永院宗信法印の墓」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水神社から南へ1kmほどの登山道の木立のなかに、吉水院宗信法印の墓がひっそりとあります。


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「吉水院宗信法印御墓」と刻まれた石碑の建つ階段を登ると、「忠誠義烈」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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その奥にある苔むした墓が、宗信法印の墓所です。


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吉水院の僧、宗信は金峯山寺執行でしたが、延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京を逃れて吉野山潜行されたとき、天皇を迎えた人です。


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京都に対抗するには旗色の悪い後醍醐天皇を吉野山に迎えるに際しては、吉野山内でも賛否両論、さまざまな意見対立があったようですが、宗信法印は金峯山寺蔵王堂に大衆を集めて後醍醐天皇に味方する義を説き、衆議一決して、若い大衆300人が甲冑に身を固めて迎え出たと伝えられます。

『太平記』では、そのときの様子を伝えて余すことありません。


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時代が変わるとともに、宗信法印の評価も変転しましたが、後醍醐天皇の南朝設立に重要な役割を果たした人物であることは、間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-14 00:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)