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太平記を歩く。 その141 「吉永院宗信法印の墓」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水神社から南へ1kmほどの登山道の木立のなかに、吉水院宗信法印の墓がひっそりとあります。


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「吉水院宗信法印御墓」と刻まれた石碑の建つ階段を登ると、「忠誠義烈」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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その奥にある苔むした墓が、宗信法印の墓所です。


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吉水院の僧、宗信は金峯山寺執行でしたが、延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京を逃れて吉野山潜行されたとき、天皇を迎えた人です。


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京都に対抗するには旗色の悪い後醍醐天皇を吉野山に迎えるに際しては、吉野山内でも賛否両論、さまざまな意見対立があったようですが、宗信法印は金峯山寺蔵王堂に大衆を集めて後醍醐天皇に味方する義を説き、衆議一決して、若い大衆300人が甲冑に身を固めて迎え出たと伝えられます。

『太平記』では、そのときの様子を伝えて余すことありません。


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時代が変わるとともに、宗信法印の評価も変転しましたが、後醍醐天皇の南朝設立に重要な役割を果たした人物であることは、間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-14 00:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その137 「村上義隆の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より南に約1.5km、勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道257号線沿いに、前稿で紹介した村上義光の息子・村上義隆があります。

地図では勝手神社の交差点から近いと思ったのですが、結構歩きました。


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義隆は父とともに大塔宮護良親王に従い、吉野城の戦いにも加わっていました。

元弘3年(1333年)閏2月1日、父は大塔宮の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げ、息子の義隆も父とともに死ぬ覚悟を決めますが、最後まで宮を守るよう父に諌められます。

父の遺言どおり宮を守ってこのあたりまで落ち延びてきたところ、敵に追いつかれ、10ヵ所以上の矢傷を受け、もはやこれまでと悟った義隆は、小竹の藪にかけ入って切腹して果てたと伝わります。

わずか18年の生涯でした。

この間、大塔宮は天の河へ落ち延びることができました。


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父・義光の墓は宝篋印塔でしたが、息子・義隆の墓は違いますね。

建てられた年代が違うのでしょうか・・・。


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地元に人に道を聞いたら、皆、父の義光の墓を案内してくれるので、義隆の墓に行きたいと聞くと、地元の人にもあまり知られていないようでした。

父のような壮絶な最期ではありませんが、同じ日に大塔宮のために腹を切ったことは同じ。

もうちょっと知られててもいいですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-07 12:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その136 「村上義光の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その126」で紹介した吉野神宮から1kmほど北へ坂を上りつめた右側の丘の上に、村上義光と伝えられる宝篋印塔があります。


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道路わきに古い石碑があり、その側に説明板が設置されています。


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その横にある石段を上ります。


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石段の上に上ると、広い空間にポツンとのさびた宝篋印塔石碑が見えます。

どうやら、あれが義光の墓のようです。


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これが、義光の墓です。


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村上義光は信州の人で、『太平記』には、大塔宮護良親王熊野に逃れる際、お供した9名のなかのひとりとして登場します。

『太平記』巻五「大塔宮熊野落事」によると、大塔宮とともに熊野から吉野山に来る途中で、賊に奪われた錦旗を取り返して、賊を田んぼにめがけて投げ飛ばし、勇名を轟かせたとあります。

このとき4、5丈(約12m)ほど投げ飛ばしたといいますから、かなりの怪力の持ち主だったようです。

「その128」でも紹介しましたが、元弘3年(1333年)閏2月1日、落城寸前の蔵王堂二天門の楼上で、大塔宮の身代わりとなって割腹して果てました。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせとなって絶命したといいます。

案内板によると、身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと判明して打ち捨てられていた亡骸を、哀れと思った里人がこの地に葬ったと伝わるそうです。


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宝篋印塔の横には、錆びた甲冑武士のミニチュアがありました。

誰が、いつ置いたものでしょう?


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向かって右にあるこの石碑は、大和高取藩士・内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」だそうです。

江戸時代から、忠臣として崇められていたんですね。


同じ吉野山には、義光のい息子、村上義隆の墓もあります。

次回は、そちらを紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-05 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その123 「尊良親王墓所」 京都市左京区

金ヶ崎城の戦いで自害した尊良親王が、紅葉の名所として知られる京都の禅林寺(永観堂)の近くにあると知り、訪れました。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、『太平記』『梅松論』などには「一宮」と記されていることから、後醍醐天皇の数多い皇子のなかで最初に生まれた皇子と考えられています(大塔宮護良親王の方が先という説もあり)。

母は権大納言二条為世の娘・為子で、宗良親王が同母弟と伝わります。

幼いころに母を亡くしたこともあってか、幼少期は後醍醐天皇の側近・吉田定房に養育されました。


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元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

鎌倉幕府滅亡後に京に戻った尊良親王でしたが、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、京へ撤退。

その後、足利尊氏が京を占領すると、幼い恒良親王とともに新田義貞に奉じられて越前国に落ち、約半年間におよぶ金ヶ崎城での籠城戦のすえ、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに自害して果てます。

享年27

尊良親王の最期については、「その110」「その111」で詳しく紹介しています。


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金ヶ崎城にて自害した尊良親王のは、京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、葬礼のあと、この地に埋葬されたと伝わります。

つまり、ここは首塚ということですね。


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『太平記』には、尊良親王の死を知ったその后・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみが描かれています。

その信憑性については定かではありませんが、『太平記』によると、御匣殿には別の婚約者がいたにもかかわらず、彼女に一目惚れした尊良親王は1000通におよぶ熱烈ラブレターを送り続け、やがて自分の后にしてしまったという馴れ初めが描かれています。

今流行のゲス不倫ですね(婚約だけだから不倫にはならないかな)。

しかし、二人の幸せな結婚生活は元弘の乱以降の戦乱によって終わりを告げます。

そのときの逸話は「その9」で紹介しています。


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尊良親王の死を知って深い悲しみに打ちひしがれた御匣殿は、嘆き苦しんだ末にになり、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと『太平記』は伝えます。

この話は「金ヶ崎恋物語」として後世に広く知られるようになりますが、一方で、『太平記』と同じ時代に成立した『増鏡』によると、御匣殿は元弘の乱時には既に亡くなっていたと伝えます。

どちらが事実はわかりませんが、『太平記』の伝承のほうが、ドラマチックでいいですよね。


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そんな劇的な生涯を歴史に刻んだ尊良親王の墓所の前の道が、あろうことか附近のゴミステーションになっていました。

これ、なんとかならないのかなぁ・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-15 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その122 「新田義貞首塚(滝口寺)」 京都市右京区

新田義貞の墓所は「その120」で紹介した福井県坂井市の称念寺にありますが、あちらの墓は胴塚で、京都嵯峨野にある小さな山寺・滝口寺の境内に、義貞首塚と伝わる墓石があります。


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境内入口です。

中央にNO PHOTOと書かれた立て札がありますが、これは、参拝料を払わない人は撮影禁止という意味で、ちゃんとお金を払ったわたしは撮影オッケーです。


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この苔むした墓碑が、新田義貞の首塚だそうです。


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燈明寺畷自刃した義貞の首は、越前国守護の斯波高経によって検められたあと、すぐさま京に運ばれ、都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

それを見た義貞の最後の妻・勾当内侍は泣き崩れ、その日のうちに髪を剃り落して尼となり、かつてこの地にあった往生院で余生を義貞の菩提を弔うことに費やしたといいます。


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『太平記』が伝えるのはそこまでで、その後、晒された義貞の首がどうなったかは伝えられていません。

ここ滝口寺に伝わる伝承によれば、晒された義貞の首を妻の勾当内侍が盗み出し、秘かにこの場所に葬ったといいます。


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たしかに、この説は真実味がありますよね。

足利尊氏は信心深い人で、一旦は晒した楠木正成の首を河内の親族の元に丁重に送り返したり、あれだけ確執があった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の死後、その菩提を弔うために天龍寺を建立したりしています。

そんな尊氏が、最大のライバルだった義貞の首を、そのまま捨て置くとは思えないですよね。

もし、その妻が盗み出して葬ったとあらば、それが発覚したとしても、尊氏は見て見ぬふりをしていたんじゃないかと。


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義貞の墓所の側には、その妻の勾当内侍の供養塔があります。

勾当内侍は公家の出で、後醍醐天皇によって義貞のもとに降嫁されたと伝わります。


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『太平記』では、義貞の最期をこう評します。


「此の人、君の股肱として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」


「うたてかりし」とは「情けない」といった意味だそうで、要訳すると、

「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした。運が悪いというより、軽率である」

といった感じでしょうか?

つまり、「犬死」だとい言っています。

かなりの酷評ですね。


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新田義貞も足利尊氏も、源氏の中興の祖である源義家を祖先にもつ家系で、いわば同族でした。

共に鎌倉幕府瓦解の立役者であり、ライバル関係だった義貞と尊氏でしたが、建武の新政以後、朝廷に対して反旗を翻した尊氏を討伐する目的で官軍を率いたはずの義貞が、最期は足利氏から朝廷に抗う反乱軍というレッテルを貼られてしまい、無念の死を遂げてしまいます。

そんな義貞に対する後世の評価は微妙で、戦には強かったものの、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりしたことから、時代の趨勢が読めなかった武将とか、機を見るに敏という能力が足りなかったなど、その器量、能力に対しては酷評気味です。

同じく一貫して後醍醐天皇方に与して討死した楠木正成英雄扱いを受けているのに対し、なぜ義貞は微妙な評価になっちゃったんでしょうね。

客観的に見て、鎌倉幕府滅亡にもっとも尽力したのは義貞だったと思いますし、建武の新政以後、尊氏が反旗を翻したあとも、最も長く、足利方と互角に戦ったのは義貞でした。

後世の評価は、ちょっと、気の毒な気がしないでもないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-13 23:37 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その120 「新田義貞墓所(称念寺)」 福井県坂井市

前稿で紹介した燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地から8kmほど北上した坂井市にある称念寺に、新田義貞の墓があります。


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山門の横には、「新田義貞公墓所」と刻まれた大きな石碑が。


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広い境内です。


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境内には、かつて「近衛中将新田義貞公贈位碑」と刻まれていた大きな石碑があるのですが、上の方の「近衛」の部分が欠けてしまっています。


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これは、昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際に折れてしまった跡だそうで、その後も修理されることなくそのままになっているそうです。


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石碑の建つ場所から左(北)に目を向けると、境内の一画に森のような場所があり、そこに廟所と思われる唐門が見えます。


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ここが、新田義貞の墓所。

まるで天皇陵のような厳かさです。


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廟所のなかにある墓です。


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燈明寺畷で自刃した義貞の首は、すぐさま小黒丸城の斯波高経のもとに届けられますが、討ち取った敵兵は、その首が誰のものであるのがわからなかったといいます。

ところが、高経が首実検をしたところ、所持していた刀などから義貞の首と判明し、すぐさま時宗の僧8人を戦地に派遣して首なしの遺骸を収容し、ここ称念寺に運ばれて葬儀が行われたそうです。


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その後、義貞の首は朱の唐櫃に納められ、京の足利尊氏のもとに送られます。

そして都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

ということは、つまり、ここ称念寺の墓は首なしの胴塚ってことですね。


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時代は下って江戸時代になると、徳川将軍家の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。

元文2年(1737年)には義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したと『徳川実記』に記されているそうです。

現在の墓石は、天保8年(1837年)の義貞500回忌の際に、福井藩主・松平宗矩が建立した高さ五輪石塔で、高さ約2.6mあります。


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墓石の裏手にある顕彰碑(?)です。

古くてところどころしか読解できませんが、最後に「天保十年」という文字が確認できます。

五輪石塔が建てられた2年後ですね。


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墓所とは別に、境内には義貞を慰霊する宝篋印塔もあります。


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詳しくはわかりませんが、「昭和十年七月」と刻まれており、おそらく昭和10年(1935年)に日本全国で行われた建武の中興600年祭に際して建てられた供養塔でしょう。


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あと、ここ称念寺は若き日の明智光秀ゆかりの地としても知られ、その伝承にまつわる松尾芭蕉の歌碑があるのですが、『太平記』とは関係ないので、また別の機会に。


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義貞の死は、南朝方にとっては決定的な打撃となり、その死後、義貞の息子らも戦乱に斃れ、時世は徐々に南朝方の劣勢へと傾いていくことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-09 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その115 「瓜生保戦死の地・墓所」 福井県敦賀市

前稿で紹介した杣山城の城主・瓜生保戦死したと伝わる地を訪れました。

ここは、杣山城跡から20kmほど南下した場所で、すぐ近くに「その110」で紹介した金ヶ崎城跡があります。


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戦死の地と伝わる場所には、贈正四位瓜生判官保公戦死之地」と刻まれた石碑と説明板が。


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瓜生保が戦死したのは延元2年/建武4年(1337年)正月12日、金ヶ崎城に籠る新田義貞軍を援護すべく5千の兵を率いて杣山城を出た瓜生保は、あともう少しで金ヶ崎城にたどり着くという樫曲地区で、足利方の今川頼貞2万と対峙することとなり、激戦のすえ弟の義鑑と共に討死したと伝わります。


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その説明板です。


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横にはお決まりの忠魂碑が。


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戦死の地の裏山には、瓜生保のがあると知り、登ってみることに。


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山道を登ることに約10分。

墓碑らしき石柱が見えます。


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山道の少しだけ開けた場所に墓碑が一基だけあり、「瓜生判官保之墓」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)10月、金ヶ崎城に入った新田義貞から援軍要請を受けた瓜生保は、一旦はこれに応じますが、その直後に義貞討伐命令の綸旨が保のもとに届くと、身を転じて足利方に味方し、斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻めます。

しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈します。

ところが11月になって、その綸旨は足利尊氏が送った偽物だと発覚。

すると保は、またまた身を転じ、新田軍に与することを決めます。

このあたり、優柔不断な人物のようにも思えますが、都から遠く離れた田舎武将ですから、中央での政情など疎かったでしょうし、綸旨が届くなんてことなど経験がなかったでしょうから、右往左往するのは無理もなかったでしょうね。


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以後は新田軍に味方してたびたび足利方の軍勢を蹴散らしますが、冒頭で述べたとおり、年が明けた延元2年/建武4年(1337年)正月12日、この地で落命します。


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この墓は明治44年(1911年)に瓜生家の末裔の方が建てたものだそうです。

新田義貞の北陸落ちに巻き込まれなければ命を落とすことはなかったでしょうが、歴史の名を残すこともなかったでしょう。

瓜生保にとっては、どっちが本望だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-01 22:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その105 「楠木正季・和田和泉守重次の墓(寶國寺)」 大阪府和泉市

大阪府和泉市にある寶國寺にやってきました。

ここに、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、兄・楠木正成と刺し違えて自決した弟・楠木正季の墓があります。


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自決後、兄・正成の首級は京都六条河原で晒された後、足利尊氏の命で河内国の観心寺に届けられ、首塚として祀られたと伝えられますが(参照:その101)、正成に殉じた者たちがどうなったかは伝わっていません。

普通に考えれば、兄と一緒に弟の首も京都六条河原に晒され、その後、楠木家の菩提寺である観心寺に送られたと考えるのが自然だと思うのですが、観心寺に正成の首塚しかないことを思えば、正季の首は、違うルートで葬られたことになるのでしょうか?

でも、じゃあ、なぜ和泉国の寶國寺なのか、はっきりした理由はわからないようです。


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手前の細長い墓碑と、その向こうの低い自然石の墓石と、どちらが正季の墓石かわかりません。


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細長い墓石の裏を見ると、「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑」と刻まれています。

和田二郎とは、正季の改名。

和田和泉守重次という人物がわからないのですが、「嫡子」とありますから、正季の息子ということでしょうか?


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自然石の墓石の台座には、「和田墓」と刻まれています。


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『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」と答えたというくだりは有名ですね。

吉川英治の小説『私本太平記』でも、兄より忠誠心の熱い男に描かれています。

兄の首塚はたくさんありますが、弟は、こんなところにひっそりと眠っていたんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-16 23:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その104 「楠木正成首塚(杜本神社)」 大阪府羽曳野市

大阪市羽曳野市にある杜本神社にも、楠木正成首塚があると聞いて訪れました。


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神社入り口には、「水分神社併楠公遺物陳列場」と刻まれた石柱があります。

「水分神社」とは、「その21」の稿で紹介した千早赤阪村にある建水分神社のことだと思いますが、「楠公遺物陳列」というのは、正成の首ってことでしょうか?


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鳥居をくぐって丘の上にある本殿を目指します。


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こちらは拝殿です。


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由緒書きには、たしかに「大楠公首塚」が紹介されています。

それによれば、河内に送られてきた正成の首を、この地に密かに隠して敵の目を逃れたとあります。


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拝殿横の小さな鳥居をくぐります。


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その奥に、さらに小さな鳥居があります。


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その奥にある小さな祠には、「南木神社」と書かれています。

「南木神社」は、千早赤阪村の建水分神社境内にある、楠木正成を祀った最古の神社です。

その横に、隠れるように五輪塔が見えます。


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どうやらこれが、「大楠公首塚」のようです。


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たしかに、かなり古いもののようですね。


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花立には、「楠公御墳前」と刻まれています。


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まあ、英雄であればあるほど、この種の伝承は数多く存在するものですが、それにしても、楠公さんの首ってどんだけあんねん!って感じですね。

ほとんどキングギドラ八岐大蛇状態です(笑)。


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ちなみに『太平記』とは無関係ですが、楠公首塚のすぐそばに、奈良時代の左大臣・藤原永手の墓があったので、せっかくなので掲載しておきます。

どんな人物かは、調べてください(笑)。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-13 16:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その94 「楠木正成墓所(湊川神社内)」 神戸市中央区

前稿前々稿で紹介した湊川神社の境内には楠木正成の墓所があります。


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墓所の入口門です。


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墓所です。


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この正成の墓は、正成の死から350年以上経った元禄5年(1692年)に、水戸黄門の呼び名で知られる徳川光圀によって建てられたものです。


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墓碑に刻まれた「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は、光圀公の揮毫だそうです。

裏面にはの遺臣・朱舜水の作った賛文が刻まれているそうです。

この墓碑建立の実務を担当したのは、あの「助さん」でお馴染みの佐々宗淳だったとか。


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この墓碑の建立によって、正成の名声は大いに宣揚され、180年後の幕末勤王思想の力強い精神的指導力となりました。

西郷隆盛坂本龍馬木戸孝允など幕末の名だたる志士たちのほとんどが、この墓前を訪れ、至誠を誓ったといいます。

そのとき志士たちが詠んだといわれる歌の一端を紹介すると、


「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ攘(はらわん)こころ我忘れめや」 吉田松陰

「湊川にてみなと川身を捨ててこそ橘の香しき名は世に流れけん」 久坂玄瑞

「桜井のその別れ路もかかりけむいまのわが身に思ひくらべて」 入江九一

「日頃ながさん私の涙、何故に流るるみなと川」 吉田稔麿

「月と日の昔を偲ぶ湊川流れて清き菊のした水」 坂本龍馬


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上の写真は裏面の賛文の写しです。

幕末、あの吉田松陰はこの拓本を松下村塾に掲げて志士の教育にあたったといいます。


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墓所の側には、光圀公の像があります。

何となく東野英治郎さんに似てるように思うのですが、気のせいでしょうか(笑)?

そうそう、今秋はじまる新しい『水戸黄門』では、武田鉄矢さんが黄門様を演じるそうですね。

武田鉄矢さんといえば、大河ドラマ『太平記』における楠木正成。

こんなところにも繋がりがあろうとは。


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この水戸光圀が作り始めた『大日本史』が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)や楠木正成を正統化し、正義と認定したせいで、それに反逆した足利尊氏逆賊となりました。

その思想が、幕末の足利三代木像梟首事件を生むわけです。

現代ではその歴史観は見直されつつありますが、それでも、今なお天皇家の正統は南朝とされたままであったり、少なからずその名残は残っているといえます(ちなみに、現在の天皇家につながる血筋は北朝のものです)。


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銅像の横に立つ頌徳碑の文は、徳富蘇峰の文によるものだそうです。

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光圀が墓碑を建てる以前からも、正成の墓所と伝わる塚はあったようで、そこに、同所(坂本村)を領していた尼崎藩主・青山幸利が塚に松梅を植え石塔を安置して墓標としたと伝わり、その後、光圀が墓碑を建てたあとも、尼崎藩主は代々、灯籠を寄進しており、常夜灯の油料も藩が下付していたそうです。


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それが、写真の石灯籠です。


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こちらは尼崎藩桜井松平家5代・松平忠名の寄進。


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こちらは7代・松平忠寶


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こちらは8代・松平忠誨


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こちらは10代にして尼崎藩最後の藩主・松平忠興の寄進です。


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傷まずにすべてきれいに残っているあたり、ちゃんと手入れを怠らずに管理してきたことがわかります。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」は、最後にこう結びます。


智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

(「智・仁・勇」の三つの徳を持ち合わせた人間が、死をもって人としての道義を守った例は、いにしえから今に至るまで、正成ほどの者はいない。そんな正成兄弟が共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのだろう。)


正成が稀代の英雄とされたのは、『大日本史』以前からだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-28 00:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)