「ほっ」と。キャンペーン

タグ:墓所 ( 30 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その9 「善通寺・秦武文の碑」 兵庫県尼崎市

尼崎市にある善通寺を訪れました。

ここは、阪神電鉄尼崎駅の南側にある街中の寺ですが、その境内に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の忠臣・秦武文の碑が建てられています。


e0158128_21052586.jpg

元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、このとき、皇子の尊良親王も、土佐国に配流となります。

このとき親王の共をしたのが秦武文でした。


e0158128_21052921.jpg

武文は親王のを土佐に迎えるため、尼崎から船を出しますが、その途中、海賊松浦五郎に襲われ、后を奪われてしまいます。

松浦の船を小舟で追った武文は、戦場で腹を切り、そのまま海へ飛び込むと、武文の怨霊渦潮となって松浦の船を襲い、后は助けだされたといいます。


e0158128_21053381.jpg

怨霊話はにわかに信じられるものではありませんが、武文が后を奪われた責任をとって自刃したのは本当かもしれません。


e0158128_21053951.jpg


『太平記』「金ヶ崎恋物語」に記されたこの物語は、謡曲舞曲などで人々に広く知られ、尼崎の地に永く伝えられることになったそうです。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-02-03 18:48 | 太平記を歩く | Comments(0)  

大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


e0158128_21552344.jpg

今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


e0158128_21563779.jpg

「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


e0158128_21582629.jpg

ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


e0158128_22011555.jpg

傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


e0158128_22011918.jpg

一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


e0158128_20156.jpg

上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




「大坂夏の陣ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。

  ↓↓↓

大坂夏の陣ゆかりの地



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~

前稿の細川城跡から直線距離で7kmほど北上した兵庫県加東市にあったとされる「小沢城跡」を訪れました。


e0158128_21105699.jpg

三木合戦が行われる直前、細川城主の冷泉為純・為勝父子が三木城主・別所長治の家臣で中村城主岡村秀治に攻められたとき、当時、ここ小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援に駆けつけますが、力及ばず敗北。

為純は討死し、息子の為勝は依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて観念して自刃します。


e0158128_21112319.jpg

写真の丘の上の森が、小沢城跡といわれています。

探索してみようと思ったのですが、柵がめぐらされていたため、森に入るのはやめました。


e0158128_21130543.jpg

小沢城の築城年代は定かではありませんが、一説によると、文治2年(1186年)に依藤豊季平家追討の功で播磨東条谷の地頭職に任ぜられたとき、ここ小沢城を築いたとの伝承があります。

それが事実なら、かなり古い歴史を持つ城ですね。

e0158128_21183193.jpg

小沢城跡から800mほど北西に、冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と伝わる場所があり、慰霊碑が建てられています。


e0158128_21184219.jpg

「冷泉為勝・依藤太郎左衛門自刃の碑」です。


e0158128_21185175.jpg

墓所です。

右が冷泉為勝、左が依藤太郎左衛の墓石です。


e0158128_21242210.jpg
e0158128_21243938.jpg

「天正六年四月一日」と刻まれています。

羽柴軍が三木城の包囲を開始したのが3月29日。

二人が自刃したのは、その3日後だったわけです。

三木合戦最初の犠牲者だったかもしれません。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
  ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-11-19 01:07 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その36 ~渡瀬城跡~

三木城から直線距離にして13kmほど北東の吉川町にある「渡瀬城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦のときに別所方に与し、羽柴秀吉軍によって滅ぼされた城です。

渡瀬城は兵庫県立吉川高校の裏山にあります。

おそらく、高校の敷地も城の一部だったんじゃないでしょうか?


e0158128_19332709.jpg


高校前の県道354号線を南下すると、城跡の案内表示があります。

e0158128_19372037.jpg

どうやら、あの丘陵が城跡のようです。


e0158128_19350094.jpg


法光寺
という寺に向かう参道を少しだけ進み、すぐに道路脇の畑道を入っていきます。

そこから既に城跡は始まっていますが、案内表示等は何もないので、探りながら進みます。


e0158128_19383441.jpg

渡瀬城の歴史は古く、佐々木源十郎義範守護職として文治元年(1185年)にこの地に移り住んだのが始まりとされています。

その後、南北朝時代の明徳2年(1391年)に起きた明徳の乱において、渡瀬右衛門綱光赤松義則別所敦則らとともに戦功をあげ、その功により将軍・足利義満から摂津・播磨の境に2万石の領地を賜り、ここ渡瀬城を築いたとされます。


e0158128_19404172.jpg


時代は進んで三木合戦のときの城主・渡瀬小治郎好光は、妻を別所氏から迎えていたこともあって別所方に与し、弟の渡瀬左馬介好勝に兵を添えて三木城に送り込むと、自身は渡瀬城に立て籠もりました。

しかし、三木城が落ちる前に渡瀬城は落城。

その後、伊丹有岡城荒木村重をたよって落ち延びたと伝わります。


e0158128_19404611.jpg


城跡内の一角に、墓石が2つありました。


e0158128_19422734.jpg


ひとつは、家老の石田治重の墓。

治重は渡瀬城落城を機に帰農し、城下の渡瀬に永住し、地域の発展に尽力したそうです。


e0158128_19434209.jpg


そしていちばん高いところにある墓石は、城主・好光の弟で三木城に籠城していた好勝のものでした。

e0158128_19450396.jpg

なぜ城主・好光の墓ではないのか・・・と考えたのですが、おそらく弟の好勝は三木城の籠城戦で討死し、兄の好光は城を捨てて落ち延びたことから、弟の好勝が手厚く葬られたのではないかと・・・。


e0158128_19460942.jpg


最後に城跡東側の景観。

いい天気です。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
  ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-11-11 23:44 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その35 ~福中城跡~

神戸市西区にある「福中城跡」を訪れました。

「城跡」といっても、それを思わせる遺構は存在せず、正確には「城があったとされる場所」です。

ここ福中城も、他の諸城と同じく、羽柴秀吉軍の手によって落城したと伝わります。


e0158128_19153931.jpg

現在、城のあった場所には国道175号線が南北に走っています。

その「福中」という交差点から「福中北」という交差点あたりが、福中城の敷地だったそうです。


e0158128_19155498.jpg

国道が通る以前は、内堀、外堀、居館、土居など多くの遺構が残っていたそうです。

神戸市内では最も遺構が残る城跡だったとか。

しかし、国道が通ることが決まると、たちまち地主さんたちはその土地を手放してしまい、またたく間にその姿は都市計画に埋もれてしまったそうです。
付近を歩いてみましたが、これといって往時を思わせるものは見られませんでした。


e0158128_19155868.jpg

福中北の交差点近くには、「福中城主・間島彦太郎菩提寺」と記された宝珠寺という小さな寺があります。

ここは間島彦太郎氏勝自身の創建と伝えられ、彦太郎の墓石と伝わる五輪塔があります。


e0158128_19160112.jpg

五輪塔横にある説明板です。


e0158128_19160645.jpg

説明板によれば、三木合戦の際、間島家では父・兵衛尉氏常が別所方につき、子・彦太郎氏勝が秀吉方について親子で戦ったとあります。

おそらくこれは、いずれが勝っても家名が続くための策で、この当時、めずらしい話ではありませんでした。


e0158128_19202237.jpg

その甲斐あって間島家の家名は残りましたが、三木合戦後、福中城は廃城となり、間嶋氏は明石海峡を挟んで対岸にある淡路岩屋城主に任命され、この地を去りました。


e0158128_19203551.jpg

その後、彦太郎は秀吉に仕え、九州征伐文禄の役などに従軍した記録が残されていますが、その後、文禄の役の功で加藤嘉明に淡路国岩屋1700石を与え、間嶋氏は何らかの理由で転封あるいは改易になったのかもしれません。

その後の彦太郎の動向はわからなくなりますが、一説によると、関ケ原の戦い西軍に味方し、間島氏は滅亡したとされます。

その後、彦太郎は同郷のよしみを頼って、筑前福岡の黒田官兵衛孝高に寄食したともいわれますが、これも定かではありません。



「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
  ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-11-10 23:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


e0158128_22243471.jpg

別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


e0158128_22243708.jpg

登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


e0158128_22244070.jpg

比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


e0158128_22244381.jpg

30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


e0158128_22245518.jpg

そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


e0158128_22250023.jpg

説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


e0158128_22250420.jpg

たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


e0158128_22250740.jpg

山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


e0158128_22261510.jpg

木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


e0158128_22261964.jpg

素晴らしい眺望です。


e0158128_22262242.jpg

でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


e0158128_22262565.jpg

下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
  ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その15 「明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮」

シリーズ最終稿です。

羽柴秀吉軍の追撃を受けて勝龍寺城を脱出した明智光秀は、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命したと伝わります。

山崎合戦の舞台からはずいぶんと離れますが、ここまできたら、光秀の最期を見届けようと思い、京都市伏見区小栗栖に伝わる光秀落命の地にやってきました。


e0158128_21015158.jpg

「明智藪」という名称がついているようです。

付近まで行くと、上の写真ような誘導看板が設置されていて分かりやすかったです。


e0158128_21020955.jpg

民家の横の細い道を入っていくと、石碑のようなものが見えてきました。


e0158128_21023881.jpg

「明智藪」と刻まれた石碑と説明書きがあります。


e0158128_21030000.jpg

よく読んで見ると、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。

えっ? 光秀は土民に殺られたというのが通説だったと思いますが、「飯田一党」という武士団に殺られたの?


e0158128_21033190.jpg

石碑の奥は、まさしくただの竹藪でした。

現在は、近くに民家も学校もある開けた町なので、藪はほんの一角にすぎませんが、たぶん当時は、この辺り一帯が鬱蒼とした藪のなかだったのでしょうね。


e0158128_21035433.jpg

近くにある本経寺に、光秀の供養塔があると聞いたので、立ち寄ってみました。


e0158128_21041320.jpg

石碑は新しいもののようですが、前の石灯籠は古いもののようです。


e0158128_21044176.jpg

また、明智藪から北に500mほど上がったところに、光秀の胴塚と伝わる場所があります。

探すのに苦労したのですが、ぶどう直売店やコイン精米所の並ぶ一角に、ひっそりと墓碑が建っていました。


e0158128_21045636.jpg

説明板のようなものが設置されていなかったので、詳細はわかりませんが、墓碑が建てられたのは昭和45年と刻まれていました。

でも、それまでも、きっと地域の人々によって供養されてきたのでしょうね。


e0158128_21052758.jpg

最後にもう1か所、明智藪から200mほどしか離れていない場所に、小栗栖八幡宮という古そうな神社があるのですが、帰り道、吸い寄せられるように同地に立ち寄りました。


e0158128_21055631.jpg

創建は清和天皇(第56代天皇)時代の貞観4年(864年)と伝えられるそうで、説明板によると、室町時代には社領三十六石と栄えていたそうですが、その後は寂れていたようです。

ただ、そんなことより、由来を読んでみて目からウロコが・・・。


e0158128_21061030.jpg

「地頭は飯田左近将監。左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。」とあります。

ここで思い出されるのは、明智藪の石碑にあった「飯田一党」という武士集団。

あの「飯田」は、この「飯田」なんですね。


e0158128_21091660.jpg

即座にスマホでググってみると、かつてこの近くには小栗栖城があって、その城主だった飯田氏織田信長の傘下だったそうで、従って、「本能寺の変」後のこの時点では、光秀にとってだったと思われます。

まあ、光秀の最期も諸説あって、なかには生存説なんかもあったりしますから、これもひとつの説として鵜呑みにはできないのでしょうが、ここに本当に敵陣の城があったのなら、十分にある話ですね。

でも、だとすれば、なぜこれほど敵陣に近い道を光秀は通ったのか?・・・という疑問が出てきます。

いずれにせよ、今となっては、真相はまさに藪のなか・・・ですね。

お後がよろしいようで・・・。



このシリーズの他の記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-08-04 16:38 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その5 「禁門の変十七烈士之墓~酒解神社」

山崎合戦旗立松のすぐ上には、酒解神社大鳥居があります。

酒解神社は山崎の産土神で、大山崎町のある乙訓郡では最も古い神社だそうです。

ただ、この大鳥居は新しいもののようですね。

鳥居をくぐると、「その3」で紹介した道陶板絵図があります。


e0158128_20312724.jpg

大鳥居をあとにして山道を登っていくと分かれ道になっていて、標識を見ると、「十七烈士の墓を経て酒解神社」と書かれた誘導が・・・。

何かわからぬまま、そちらの誘導に従ってみました。


e0158128_20335745.jpg

で、石段を登ってみると、「禁門の変十七烈士之墓」とありました。


e0158128_20341335.jpg

思い出しました。

元治元年(1864年)7月19日に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」のとき、山崎のまちには長州藩の陣所が布かれましたが、敗走する際、長州藩士じゃない真木和泉ら十数人が長州藩主力兵たちと山崎で分かれ、自刃したんですね。


e0158128_20360218.jpg

以前、あるブログで、この地に真木たちの墓があると紹介されていたのですが、すっかり忘れていました。


e0158128_20361684.jpg

説明看板のよると、長州藩主力兵たちを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた、とあります。

e0158128_20383681.jpg

その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家200余戸を焼失した、と。


e0158128_20422745.jpg

埋葬されている志士17名を列挙すると、


土佐・千屋菊二郎菅原孝健

土佐・松山深蔵橘正夫

宇都宮・岸上弘安臣

宇都宮・廣田精一執中

土佐・能勢達太郎平成章

肥後・小坂小二郎源雄宗

久留米・加藤常吉任重

土佐・安藤真之助強怒

久留米・真木和泉守平保臣

久留米・松浦八郎寛敏

久留米・池尻茂四郎懋

筑前・松田五六郎

肥後・加屋四郎藤原時雄

肥後・中津彦太郎藤原義直

肥後・酒井荘之助

肥後・宮部春蔵

肥後・西嶌亀太郎


だそうです。

幕末が好きなわたしですが、残念ながら、真木和泉以外で知っていたのは、土佐の千屋菊二郎菅原孝健(菊次郎?)くらいでした。

調べてみると、肥後の宮部春蔵という人は、宮部鼎蔵実弟だそうです。

e0158128_20424105.jpg

真木和泉の墓石です。


e0158128_20434151.jpg

彼らが自刃してから151年が経ちますが、山の風景はきっと当時とそう変わらず時がとまったままで、いまでも彼らの無念の叫びが聞こえてきそうです。


e0158128_20443747.jpg

墓を過ぎたところにある三社宮です。

三社とは、天照大神・月讀大神・蛭子神だそうです。


e0158128_20454861.jpg

で、酒解神社のお社が見えてきました。


e0158128_20474484.jpg

が、残念ながら改装工事中で、本堂の中はみれませんでした。


e0158128_20481126.jpg

説明板によると、ここは山崎地方で最も古い神社で、創建は奈良時代だそうです。
詳しくは看板をお読みください(笑)。


酒解神社を過ぎると、いよいよ山頂です。

次回に続きます。

このシリーズの記事は、こちらから。

  ↓↓↓

山崎合戦のまちを歩く。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-07-01 18:24 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

千利休ゆかりの地めぐりと、その人物像に迫る。

今週の大河ドラマ『真田丸』で、千利休が切腹しました。

同作品の千利休は、これまでの作品で描かれてきた悟りを開いた高僧のような厳かな人物像ではなく、小田原合戦において豊臣方、北条方の双方に武器弾薬を売りつけるなど、悪徳商人まがいのいままでにないキャラでしたね。

実際の利休とは、いったいどんな人物だったのか。

そこで今日は、以前に訪れた堺の利休関連史跡を紹介しながら、その人物像に迫ってみます。


e0158128_20245854.jpg

写真は大阪府堺市にある千利休屋敷跡

阪堺電車宿院駅のすぐ近くのビルとビルの間に、異質な空間として残されています。


e0158128_20252039.jpg

千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商・魚屋(ととや)の当主・田中与兵衛の長男として生誕。

幼名は与四郎といいました。

17歳のときに北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事し、「わび茶」を大成させます。

その後、茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいます。

しかし、小田原合戦の後、何らかの理由で秀吉の怒りにふれ、自刃して果てます。

享年70。


e0158128_20253213.jpg

屋敷跡には「椿の井」が残っています。

この井戸は、利休が産湯につかったと伝えられるものだそうで、いまなお清水が湧き出ているそうです。


e0158128_20255256.jpg

井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだそうです。


e0158128_20261292.jpg

一般に「利休」という名で広く知られていますが、実は、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしています。

「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇(第106代天皇)から与えられた居士号です。


e0158128_15433660.jpg


同じく堺市内にある南宗寺には、利休一門の供養塔があります。

ここは、若き利休が修行したと伝わるゆかりの寺院です。


e0158128_20270362.jpg

豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきました。

しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界なんですね。

というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年(1936年)に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたんだそうです。

現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識ですが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったそうですね。

この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年(1940年)に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうですが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたそうです。

現代でも、大河ドラマの設定に難癖つける自称歴史マニアがたくさんいますが、あれと同じですね。

「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようです。

e0158128_20272461.jpg

海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきました。

そのなかでも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、利休の等身大の木像を紫野大徳寺の山門の2階に設置してその下を秀吉に通らせたという大徳寺木像事件や、利休が朝鮮出兵に強硬に反対したため疎んじられた・・・とか、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・などなど、どの説にもそれなりの信憑性はありますが、どれも決定力に欠けます。

のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いですが、はたしてそうだったのでしょうか。

最も信頼していた豊臣秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えられなくもありません(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。

その意味では、今回の大河ドラマでの「死の商人」として暗躍していた利休なら、じゅうぶん死罪に値しますよね。

ない話ではないのかな・・・と。


e0158128_20273779.jpg

中央に利休の供養塔、左右に表千家、裏千家、武者小路家の供養塔があります。


e0158128_20275171.jpg

こちらが利休の供養塔です。


e0158128_20280478.jpg

「天正19年 利休宗易居士」と刻まれています。


e0158128_20284228.jpg

隣には、利休の師匠である武野紹鴎の墓があります。


e0158128_20285891.jpg

利休が愛した茶室「実相庵」です。


e0158128_20291000.jpg

その前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」があります。


e0158128_20293717.jpg

結局のところ、千利休という人物については茶道千家流の始祖ということ以外はなんですね。

その人物像がどうだったのか、切腹させられた理由がなんだったのか、そもそも、豊臣政権において利休の存在がどの程度の影響力を持っていたのか、すべては想像するしかありません。

千利休=芸術界の巨人という今日の常識自体が、実は後世が創りだした虚像かもしれませんね。


e0158128_20295357.jpg

ちなみに余談ですが、ここ南宗寺には、実は大坂夏の陣で死んでいた徳川家康がここに埋葬されたという伝承があります。

以前の稿ですが、よければ一読ください。

   ↓↓↓

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~




ブログ村ランキングに参加しています。

よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。

   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-06-29 18:11 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

e0158128_15575128.jpg

織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

e0158128_15580327.jpg

その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

e0158128_15581527.jpg

境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

e0158128_15583471.jpg

いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

e0158128_15585173.jpg

まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

e0158128_15590867.jpg

また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

e0158128_15592321.jpg

写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

e0158128_16010291.jpg

日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

e0158128_16033956.jpg

ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

e0158128_16052838.jpg

日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



ブログ村ランキングに参加しています。

よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。

   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)