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太平記を歩く。 その18 「楠公生誕地」 大阪府南河内郡千早赤阪村

ここで少し時系列を離れて、楠木正成に関連した千早赤阪村の史跡を巡っていきます。

まずは、「楠木正成生誕地」の伝承地を訪れました。


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その伝承によると、楠木正成は永仁2年(1294年)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分(みくまり)に生まれたといいます。


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しかし、正成の出自については様々な説があり、詳しくはわかっていません。

『太平記』では、楠木氏は橘氏の後裔と伝えていますが、これも、その真偽は定かではありません。

つまり、正成以前の楠木氏のことは、ほとんどといっていいようです。


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現地説明板によると、このすぐ横にある「くすのきホール」の建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が発見され、14世紀のものとみられる出土品も見つかったことから、周囲の中世山城群と合わせて考え、楠木氏関連の建物であったと推定したそうです。


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文禄年間には増田長盛豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以降、楠邸にあった百日紅を移植したという記録が残っているそうです。

また、元禄年間には、領主の石川総茂が保護を加えました。


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現在残る石碑は、明治8年(1875年)、大久保利通によって建立されたそうで、碑文の「楠公生誕地」は、幕末三剣豪のひとりで、明治8年当時、誉田八幡宮の祠官だった桃井春蔵直正の揮毫だそうです。


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幕末には尊皇派の精神的支柱となり、第二次世界大戦前は忠臣の象徴的存在に祀り上げられた正成ですが、戦後は価値観の転換とともにその評価も変わりました。

吉川英治『私本太平記』では、戦前までのイメージとはまったく違う正成像を描いています。

その時代背景によって政治利用されてきた楠木正成。

本人が知ったら、決して気分のいいものじゃないでしょうね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-02-24 02:22 | 太平記を歩く | Comments(0)  

花燃ゆ 第46話「未来への絆」 ~西南戦争後の国事犯たち~

 8ヶ月に及んだ西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じ、政府軍の死者は6,403人、反乱軍の死者は西郷隆盛をはじめ6,765人に及びましたが、反乱軍の生き残りたちは国事犯として長崎で裁判にかけられ、そのほとんどが囚人となります。しかし、政府の管理する監獄ではそのすべてを収監しきれず、約2,700人の囚人が全国の監獄に護送されることとなりました。楫取素彦が県令を務める群馬県には、最初に57名、翌年に31名計88名が囚人として送られてきたそうです。

 ドラマでは、群馬県では囚人たちをただ労役につかせるだけでなく、仕事を与えて職業訓練をさせるという試みをはじめたとありましたが、実際には、群馬県のみならず多くの県で同じようなことが行われていたようです。ただ、それは現代のような職業訓練という趣旨ではなく、労働力としてのそれだったようですね。もっとも、奴隷のようにこき使われていたわけでもなく、むしろ囚人らが自発的に労働を望む場合が多かったようで、開墾作業土木工事に従事して、地域開発に大きな役割を果たしました。

 「国事犯」とは国家の政治的秩序を侵害する犯罪のことをいいますが、そもそも革命期においては、その政治的秩序そのものが不安定なもので、勝てば官軍負ければ賊軍、ひとつ間違えれば、裁く側裁かれる側が逆転していたかもしれないわけです。ドラマ中の美和も言っていましたが、官軍も賊軍も、国のことを憂い、国のために命を投げ出した者たちであり、罪人と言っても、極悪非道な人物たちではなかったわけです。先週、フランス同時多発テロ事件がありましたが、現代のように一定の政治的秩序が確立された時代の政治犯とは違いますからね。当時の国事犯のなかには、人格者が多くいたはずです。

 しかし、当時、国事犯とは最も重い罪で、その首謀者は、ほとんどがまともな裁判にかけられることなく死罪になっています。「佐賀の乱」江藤新平「萩の乱」前原一誠がそうですね。政治的秩序が不安定である以上、その秩序を乱す行為は見せしめとして厳罰に処し、秩序を正当化していく必要があったわけです。その恐怖政治を断行したのは大久保利通でしたが、それほど強引な姿勢で臨まないと、新しい秩序は確立されなかったんですね。新国家の陣痛時期とでもいうか・・・。現代でも、政治犯を問答無用で粛清する独裁国家がすぐ近くにありますが、それ即ち、国家の秩序が不安定な状態にあることを露呈しているといえるでしょうか。

 話を戻すと、その後わが国における囚人の数は増え続け、明治18年(1885年)には8万9千人となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年(1881年)に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を、当時、開拓地だった北海道に求めました。開拓の労働力としても役に立ち、加えて、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得だという目論見もあったようです。そんなわけで、明治14年(1881年)には月形町に樺戸集治監、明治15年(1882年)には三笠市に空知集治監、明治18年(1885年)には標茶町に釧路集治監、そして明治23年(1890年)には有名な網走囚徒外役所が置かれます。こうして北海道の監獄の歴史がはじまるんですね。

 本稿は、ドラマから少し離れちゃいましたね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-16 17:54 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第45話「二人の夜」 ~「太陽暦耕作一覧」と「維新三傑」の死~

 日本の暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年(1872年)12月2日を明治6年(1873年)1月1日に改めたことにはじまります。この影響をいちばん受けたのは、いうまでもなく農業でした。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきたお百姓さんたちは、新しい暦に馴染めず、収穫に支障が出る有様だったといいます。

 これを問題視したのは、熊谷県(群馬県の前身)原之郷村(現在の前橋市)に住む船津伝次平という百姓でした。伝次平は独学で太陽暦を理解し、「太陽暦耕作一覧」と称したマニュアルを作成し、これを県令である楫取素彦に献上します。このマニュアルは、太陽暦に馴染めない農民たちでも、ひと目で理解できる優れた手引だったようです。これに感じ入った素彦は、「太陽暦耕作一覧」を県庁の予算で大量に印刷し、県下の農民たちに無料配布したそうです。このマニュアルのおかげで、熊谷県は他府県にくらべて改暦の混乱は少なくてすみました。伝次平の農業にかける熱意も素晴らしいですが、それをいち早く取り上げた素彦の英断もさすがですね。

 その後、伝次平の識見を高く評価した素彦は、伝次平を政府参議兼内務卿の大久保利通に紹介します。そして、やはり素彦と同じく伝次平を高く評価した利通は、伝次平を駒場農学校(東京大学農学部の前身)教師に登用します。後年、伝次平は奈良県の中村直三、香川県の奈良専ニとともに「明治の三老農」と呼ばれるようになります。

 「維新三傑」といえば、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして長州藩の木戸孝允ですが、この3人が、わずか1年の間に立て続けにこの世を去るんですね。最初に死去したのは木戸孝允。西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。享年45歳(満43歳)。死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。

 そしてその4ヶ月後の9月24日、鹿児島県は城山にて西郷が自刃します。決起から7ヶ月に及んだ西南戦争は、明治政府軍の圧勝で幕を閉じます。最後の決戦場となった城山にて、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年51歳(満49歳)。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 そして、その政府軍の首相である大久保も、木戸の死から1年が経とうとしていた明治11年(1878年)5月14日、石川県士族6人によって暗殺されます。享年49歳(満47歳)。暗殺者たちは事前に予告状を送り付けていましたが、大久保はこれに一顧だにしなかったといいます。いかにも腹の座った性格がうかがえますが、命を落としてしまったら何にもなりませんね。暗殺団に囲まれて馬車から引きずり下ろされた大久保は、抵抗する暇もなく、めった斬りにされ、喉へ突き刺されたトドメの一撃は、首を貫通して地面に突き刺さったといいます。

 こうして維新三傑たちは、その役目を終えたかのように立て続けにこの世を去りました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは、伊藤博文山縣有朋など、維新前後には脇役に過ぎなかった二線級の志士たちでした。このあたり、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』で、司馬氏が次のようなことを言っています。

 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

 楫取素彦なども、三代目に属する人物といえるかもしれませんね。幕末の英雄たちがこの世を去り、時代は変わろうとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-09 20:25 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第39話「新しい日本人」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。これにより、美和が務める奥御殿も、否応なく閉じられることになりました。ようやく、何が描きたかったのかよくわからない奥御殿編が終わりです。

 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。

 政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。

 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

 その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山県有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。

 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-28 20:51 | 花燃ゆ | Comments(2)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~

 明治6年(1873年)の政変によって鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、翌7年6月、旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。ここに篠原国幹の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を付属させ、また県内各地に分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育を施します。その費用は、すべて鹿児島県の公費でまかないました。

 鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらずを帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。

 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。

 明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。

 ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?

 「おいが、みな抱いていく」

 ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
 ナレーションはいいます。

 内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第33話「尚之助との再会」 〜征韓論争と明治六年政変〜

 時代は一気に征韓論争まで進みましたね。この「征韓論」を詳細に解説するとめちゃめちゃ長文になっちゃいますし、いろんな解釈があるのでたいへん難しいのですが、ここではできるだけ簡単にまとめます。

「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮に出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうというもので、このときまだ鎖国攘夷の策をとっていた朝鮮にとっては、ありがた迷惑な話だったわけです。朝鮮側は日本の新政府の要請を頑なに拒絶し、そんななか、明治6年(1873年)ごろから急速に日本国内で征韓論が沸騰し始めます。

 その頃、岩倉具視大久保利通木戸孝允ら政府首脳陣は欧米諸国を外遊中(岩倉使節団)、その留守政府を預かっていたのは西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らでした。西郷以外は土佐藩肥前藩の出身者で占められており、明治初期の政府としては、唯一、薩長閥政府ではなかった時期でした。その留守政府が征韓論を推し進めます。

 まずは板垣が閣議において、居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷は派兵に反対し、自らを大使として朝鮮に派遣するよう求めます。この意見に後藤、江藤らも賛成し、いったんは閣議において使節として西郷を派遣することを決定しますが、ときを同じくして順次帰国の途についた岩倉具視や大久保利通ら外遊組は、時期尚早だとしてこれに猛反対。留守番組と外遊組の対立の板挟みとなった太政大臣・三条実美は病に倒れてしまい、最終的には、太政大臣代理となった岩倉の工作により(大久保の書いたシナリオとも)、明治天皇のご裁断で遣韓は中止されます。閣議でいったん決定しながら土壇場で覆されるという異常事態に、西郷をはじめ板垣や江藤ら征韓論派は一斉に参議を辞職してしまいます。

 この征韓論争に始まった政変を明治六年政変(征韓論政変)といい、やがてこれが、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る内乱につながっていくわけです。

 なぜ、この時期に「征韓論」が沸騰したのか、また、彼らの主張した「征韓論」の真の目的は何だったのか、あるいは、「征韓論」が政変の真の火種だったのか、などなど、この政変については専門家の間でも様々な解釈があり、いわゆる史実・通説というものがありません。ドラマで西郷が朝鮮出兵の理由について、「不平士族(行き場を失った元武士たち)の目を国内から外に向けるため」といった意味の説明をしていましたが、それとて、後世の歴史家が説いたひとつの説であって、西郷自身がそのような記述を残しているわけではありません。後世に征韓論の首謀者的扱いとなっている西郷ですが、一説によれば、西郷はあくまで平和的な交渉を目的とする遣韓論者だったという人もいますし、いやいや、西郷の目的は武力を用いて朝鮮を植民地化しようというものだった、という歴史家もいます。結局のところ、いまもって真意はわからないんですね。

 ただ、外遊組と留守番組の間に、激しい温度差があったということは間違いなさそうです。近代文明国家を目の当たりにしてきた大久保たちと、ずっと国内にいた西郷たちとでは、見えているものが違ったんでしょうね。結果的に政局は外遊組に軍配が上がり、西郷や江藤らは政界を去ってしまうわけですが、それが、後世の日本にとって良かったのか悪かったのか、今となっては確認のしようがありません。

 さて、本話のタイトルは「尚之助との再会」でしたが、八重川崎尚之助が離縁後に再会したという記録は残っていません。そもそも八重は尚之助との結婚、離婚についてほとんど何も語っていないそうですから、実際のところは何もわかってないんですね。ただ、斗南藩の罪を被って訴訟を起こされた尚之助が東京で暮らしていたというのは事実のようです。時代が時代ですから、たぶん、八重と会うことはなかったでしょうね。のちに尚之助は、裁判の判決を受けることなく明治8年(1875年)に病死します。ドラマには、たぶんもう出てこないでしょうね。八重の女紅場での活躍を尚之助が知っていたかどうかは、知る由もありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-21 18:57 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第20話「開戦!鳥羽伏見」 ~勝てば官軍、負ければ賊軍~

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない・・・。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる・・・・、さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある・・・そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。それを阻止しようとした会津藩兵・佐川官兵衛林権助らに、「余に深謀あり」と言ってなだめます。このあたり、ドラマにあったとおりですね。慶喜は松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年(1868年)1月2日、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。これは、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだと言われています。その首謀者は西郷隆盛でした。西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。そして、ことはその狙いどおりに進みます。

 江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、一連の騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。その報が大阪に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。

 「この声を聞け! 一万五千の猛り立つ兵をどうやって鎮めるのだ! 薩摩を討たねば、この怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺される。もはや戦うしかない。」

 ドラマ中の慶喜の台詞ですが、まさにこの台詞どおりの心境だったんじゃないでしょうか。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。

 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保一蔵の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-25 16:50 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第19話「慶喜の誤算」 ~王政復古の大号令~

 慶応3年(1867年)10月15日、徳川慶喜から受けた大政奉還の上表を承認した朝廷でしたが、やはり慶喜が考えていたとおり、ただちに政権を運営できる能力が朝廷にはなく、どうにも手のうちようがありませんでした。したがって、ことごとに慶喜の意見を聞き、指示を仰ぎ、結局は政務を慶喜に委託するしかありませんでした。慶喜の思惑どおりにことが運んでいたといえるでしょう。

 薩摩を始めとする討幕勢力は、なんとしても諸大名を京都に召集し、列藩の衆議によって今後の政治のあり方を決定したいと考えていました。そこで朝廷は諸大名に京都参集を命じますが、旧幕府の顔色をうかがって容易に足並みが揃いません。大政奉還という事態を前にして、諸藩主がどう対処すべきか迷うのも、当然といえば当然のことだったでしょう。これを薩長の陰謀と考える藩主、あくまで幕府に対して忠節をまっとうすべしという藩主、あるいは病気と称して上京の延期を願い出る藩主、あるいは藩主に代わって重臣の上京を出願する藩主など、さまざまでした。

 これでは諸藩主会議による国是決定など、とてもできるものではない・・・そう考えた討幕側は、こうした状況を打開するために、次なる手立てを画策します。それは、武力を背景として王政復古の大号令を出すという宮廷クーデターでした。この計画を中心的に進めたのは、薩摩藩士・大久保一蔵(利通)岩倉具視。まず、大久保は討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、自身もすぐさま藩地に帰って藩兵を促します。さらに大久保らは、土佐藩にも強力を仰ぎます。土佐藩は大政奉還論の中心的存在であり、彼らにクーデター計画を漏らすのは危険なことでしたが、しかし、土佐藩が反対側に立ってはあとあと面倒なことになると考えたのでしょう。

 大久保は西郷吉之助や長州藩士・品川弥二郎などと協議して、このクーデターをの決行日を12月8日に決定します。列席者は薩摩藩を中心に、土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。長州藩は、長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保も下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。クーデター実行部隊で会議に参加できるのは公卿である岩倉のみ。岩倉を会議に出席させるには、まず出仕を停止させられている岩倉の罪を解かなければなりません。

 そして決行日の12月8日。この日、朝廷内では会議が開かれていました。その議題は、朝敵となっている長州藩主父子の罪の赦免と復位、先の八月十八日の政変によって追放されている三条実美を始めとした公卿の赦免についてでした。昼夜を通して行われた話し合いの結論は、長州藩主父子の罪の赦免が決定、罪人となっている公卿の赦免も認められ、このとき、蟄居の身であった岩倉具視の罪も解かれます。じつはこの徹夜の会議は、そのために行われた伏線だったんですね。

 翌朝、朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして、たったいま罪を解かれたばかりの岩倉が、かねてから用意していた王政復古の大号令なる文書を読み上げ、これを天皇に献上しました。その内容は、徳川幕府を廃止すること、摂政などの旧制度を廃止し、代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことなど。そして、ただちにその3職による会議を開きます。これが小御所会議と呼ばれる会合です。メンバーは岩倉のほか、越前藩主・松平春嶽、土佐前藩主・山内容堂、尾張藩主・徳川慶勝ら。3職でない西郷と大久保は、別室で控えていました。

この会議のポイントは、徳川慶喜が出席していなかったことでした。春嶽、容堂、慶勝らは、幕府が廃止されても新政府の一員として慶喜が参加すると考えていました。彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、まさか、慶喜抜きの展開になるとは考えていなかったんですね。3人は岩倉の示す新政府案に難色をしめします。特に容堂の反論は激しく、クーデター政権を批判します。さすがの岩倉も押されぎみになり、会議は一旦休憩に入ります。この休憩時間が、歴史を大きく変えることになるんですね。

 会議の経過の報告を受け、助言を求められた西郷が、「短刀一本で用は足りもす」と答えたという有名な話。要は「刺し違える覚悟で臨めばことは自然と開ける」といった意味の言葉だったのでしょうが、この言葉を聞いた岩倉は、「容堂と刺し違える覚悟で臨む」と周囲の者に言い放ち、それを聞いて驚いた土佐の後藤象二郎は、主君である容堂に伝えます。これには容堂もビビったようで、再開された会議の席では、容堂はすっかり沈黙のひととなってしまいます。これで全ては決着。新政府に慶喜を加えないこと、慶喜に幕府領を差し出させること、慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することなどが決定します。ここに、討幕勢力のクーデターは成功します。

 ドラマにあったように、慶喜自身はこの日、自分が出席すればかえって不利になると考えたらしく、ずっと二条城にいたようです。これが、本話のタイトルどおり、「慶喜の誤算」でしたね。もっとも、出席していたら違う結果になっていたかどうかは、今となってはわかりませんが。あるいは、本当に「短刀一本」でケリを付けられていたかもしれません。そう考えれば、やはり欠席は正解だったのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-15 19:57 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第14話「新しい日々へ」  〜岩倉具視登場〜

 岩倉具視が出てきましたね。岩倉卿といえば、現在40歳代以上の人は、まず500円札を思い出すでしょう。その肖像の人相が悪かったこともあってか、明治維新の元勲のひとりでありながら、後世にあまり人気がありませんね。かく言う私も、子供の頃は500円札を見て、「目つきの悪いガマガエルオヤジ」だと思っていました。実際にはどんな人物だったのでしょう。

 岩倉具視は下級公家の出身でしたが、1858年(安政5年)、幕府が日米通商条約締結の勅許を朝廷に求めてきた際、岩倉は幕府の苦境に乗じて朝廷の権威回復を図ろうと考え、中山忠能をはじめ条約調印に反対の考えを持つ公卿88人に呼びかけ、勅許を阻止すべくデモを起こします(八十八卿列参事件)。本来、朝廷内での列参(デモ行為)は許されていませんでしたが、岩倉はそんなことは一切頓着せず、このとき彼は、一晩で100人以上もの公卿のもとに訪問して説得して回ったといいますから、公卿には珍しい豪胆な人物だったことがうかがえます。結果、岩倉の起こした運動は受け入れられ、幕府大老・井伊直弼の独断での条約調印となってしまうんですね。これが、幕末動乱の銃爪になっていったのは、これまでのドラマで観てきたところです。

 その後、幕府と朝廷の対立が深まると、今度は「公武合体論」を掲げて幕府と朝廷の仲介に乗り出します。それが、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮親子内親王と第14代将軍・徳川家茂との婚姻でした。これを機に岩倉は、「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだと画策しますが、ことは思うように運ばず、あまりにも派手に立ち回り過ぎたため、尊攘派の志士や廷臣の反発を買って失脚、京都の北に位置する岩倉村に隠遁せざるを得なくなります。そこでの生活は困窮を極めたものだったといいます。

 蟄居生活約5年、慶応元年(1865年)あたりから、次第に反幕派の志士たちが岩倉のもとを訪ねるようになり、土佐藩士・坂本龍馬、同・中岡慎太郎、薩摩藩士・大久保利通らとの交流を重ね、やがて政界復帰の準備をはじめます。本話で大久保と面会していた場面がこの頃ですね。大久保と岩倉は、こののちの王政復古から明治維新にかけて、深く関わっていくことになります。そういえば、岩倉同様、大久保も後世に人気がありませんよね。ふたりとも権謀術数の人というイメージが強いからでしょうか。マキャベリストという点で言えば、この時期の西郷隆盛も大同小異なんですが、どうもこの二人は人気がない。やはり、人相が大いに影響しているでしょうね(笑)。少々気の毒な気がしないでもないです。

 事実、権謀術数をたくみに操った人ではあったのでしょうが、明確な意思表示を避けて遠回しな表現を好む公卿たちのなかにおいて、岩倉のような豪胆な人物が公家社会にいたことが、明治維新の追い風になったことは間違いありません。もうちょっと評価してあげてもいいような気もしますね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-08 23:42 | 八重の桜 | Comments(4)  

夏休み丹波路紀行 その1 「府民の森ひよし」

お盆休みに京都府は南丹市に行ってきました。
南丹市は京都府の中部に位置する市で、小泉政権時代の市町村合併に伴い、船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町が合併して2006年に誕生した新しい市です。
南丹の語源は丹波の南という意味で、丹波とは言うまでもなく、かつての丹波国のことですね。
丹波国は大きく分けて現在の京都府中部と兵庫県北東部の一部に分かれます(一部、大阪府北部も含まれます)。
明治維新後の廃藩置県によって令制国は廃止され、いくつかの編制を繰り返しながら今の47都道府県になりましたが、旧令制国の区分が複数の県に分かれてしまった例は珍しいんじゃないでしょうか(複数の令制国がひとつの県になった例はたくさんありますが)。
なぜそうなったかは詳しくは知りませんが、明治初年、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らによって、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられたそうです(Wiki参照)。
そのため現在でも、京都丹波・兵庫丹波と分類されたりします。
今回訪れたのは、その京都丹波地方です。

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この日の宿は、日吉町の天若湖畔に広がる森林公園『府民の森ひよし』内にある宿泊施設。
ここ『府民の森ひよし』は、128ヘクタールの広大な森林公園で、美しい緑に囲まれて自然に親しむにはたいへん良い場所です。
ここを訪れたのは7年ぶり2度めのことでした。

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この日一緒に宿泊したのは3家族12人
子供が幼い頃から毎年夏休みにはどこかのアウトドア施設に泊りにいくことを恒例としてきたのですが、いつの間にやら子どもたちも大きくなり、スケジュールを合わせるのもたいへんになってきました。
我が家の愚息も、高校生になってからはずっと野球部の練習があり不参加だったのですが、この夏はれて引退したため久々の参加です(もし甲子園にでも行っていたらここにはいなかったでしょうが・・・笑)。

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アウトドアといえばバーベキューですよね。
これも十数年ずっと続けてきましたが、炭加減などなかなか難しいものです。
あと、食材の量も毎年買いすぎちゃって大量に余っちゃうんですよね(汗)。
学習能力がありません(苦笑)。

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スイカ割りも毎年恒例です。
と言っても子供たちは大きくなり、小学生は二人だけ。
数年前までは最も盛り上がるイベントだったんですが、さすがにそろそろ限界かもしれません。

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もともと子供たちが小さかった頃、上げ膳据え膳の観光旅行よりも、自然の中に放牧しておもいっきり遊ばせてやったほうが子供たちにとっては良いと思って始めた夏キャンプでしたが(費用も安上がりですしね)、あと数年後には爺婆だけの老人会になりそうです(笑)。

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揃って記念撮影。
ここは宿泊費用も安く、子供連れや団体で泊まるにはたいへん良いところです。
例年はもう一家族いて、もっと大人数になるのですが、残念ながら今年は野暮用にて不参加、この3家族12人でした。
盆正月くらいのんびりと過ごしたいという人も多いと思いますが、こうして気心知れた仲間と賑やかな夏のひとときを過ごすのもいいもんですよ。

明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-28 23:58 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)