タグ:大塔宮護良親王 ( 4 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その128 「金峯山寺・大塔宮御陣地」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した蔵王堂の正面、玉垣に囲まれたなかに桜の木が4本植えられている空間があります。


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時代は遡って元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府の二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に責められた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第二皇子・大塔宮護良親王は、ここに本陣を布いて戦ったと伝えられます。


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隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建てられています。


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『太平記』巻7「吉野城軍の事」によると、圧倒的な兵力で攻める幕府軍でしたが、天然の要害を持つ吉野城を攻めあぐみ、戦いは一進一退の攻防を繰り返します。

しかし、結局は衆寡敵せず、死を覚悟した大塔宮は、ここ蔵王堂前で最後の酒宴を開いたといいます。


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『太平記』の記述によると、このとき、大塔宮親王の鎧には7本の矢が刺さり、二の腕の2ヵ所に傷を負い、血が滝のように流れていましたが、宮は突き刺さった矢を抜こうともせず、流れる血を拭おうともせずに、毛皮の敷物の上に立って、大盃で3杯空けたといいます。

なんとも豪傑な親王ですね。


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雲が近いです。


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蔵王堂前庭の南側には、「村上義光忠死之所」と刻まれた石柱が建てられています。

村上義光は大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

吉野城落城の際、前庭での酒宴も終わり、いよいよ死を決した大塔宮護良親王に対して、「ここで宮に死なれるのは犬死というもの、恐れながら今お召しの鎧直垂と甲冑を賜り、それを某が身に着けて敵を欺きましょう。その隙に宮は落ち延びてください。」と涙ながらに説き、身代わりとなって二天門に駆け上がり、「われこそは大塔宮護良親王である。」と叫んだのちに見事に腹をかき切り、壮絶な最期を遂げたといいます。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせになって絶命したといいます。

この間に大塔宮は高野山に落ち延びます。

歌書よりも軍書に悲し吉野山

松尾芭蕉の門弟・各務支考が詠んだ有名な句ですが、まさに、そんな歴史が感じられる場所です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-21 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その36 「太山寺・太山寺城跡」 神戸市西区

神戸市西区にある太山寺を訪れました。

ここは、霊亀2年(716年)、元正天皇(第44代天皇)の勅願寺として藤原鎌足の子・藤原定恵が開山し、孫の藤原宇合が建立したと伝わる寺で、南北朝時代に建てられたとされる本堂国宝に指定されており、神戸市内ではもっとも由緒あるお寺です。


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この太山寺が、「その29」で紹介した「摩耶山合戦」と、深く関わっていたといいます。


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元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)の挙兵を知った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王は、ここ太山寺の衆徒に赤松応援を命ずる令旨を出しました。

令旨とは皇太子、皇后、親王などが発する文書のことです。


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この令旨は現存するそうで、現在、太山寺に保管されているそうです。

それによれば、「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と記されており、これを受けた同寺の衆徒は、さっそく摩耶山城に陣を布く赤松軍に加勢します。


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現存する太山寺衆徒の軍忠状によれば、赤松軍に加わった太山寺衆徒は、多くの死傷者を出しながらも、摩耶山の合戦、尼崎の合戦、坂部村の合戦を戦い、さらに京都まで攻め上ります。


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この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


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寺の東の背後の山上には、太山寺城跡があります。


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城跡への登山道には、古い石仏が連なるように並んでいます。


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堀切跡でしょうか?


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郭跡らしき山頂の削平地には、大きな石仏が建てられていました。

ここが本丸跡だとしたら、比較的小さな規模の城だっただろうと思われます。


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鎌倉幕府の滅亡に一役買った太山寺は、その後、多くの末寺をかかえ、寺内には、41もの支院や僧坊を数えましたが、やがて時代とともにその力を失っていき、現在は五つの支院を残すだけとなっています。


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現在の太山寺は、そんな往時を偲ぶものものしさは少しもなく、桜や紅葉の名所として、市民に広く親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-06 19:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その13 「下赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

大阪府は南河内郡の千早赤阪村にある、下赤坂城跡にやってきました。

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が逃亡先の笠置山で挙兵した際、楠木正成がこれに呼応してこの地で挙兵したと伝えられます。


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別名「赤阪城」とも呼ばれる下赤坂城は(の違いに注意)、城跡としての遺構は残っていませんが、現在、想定される千早赤坂村立中学校の丘の上に、石柱が建てられています。


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石柱には、「昭和十四年三月建設」と刻まれています。


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『太平記』によると、正成は笠置山が危なくなったときにはここに天皇を迎えようと考え、急いでこの地に城を築いたと伝えられます。


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9月27日に笠置山を追われた後醍醐天皇は、この地に落ちる途中に捕らえられてしまいますが、大塔宮護良親王はこの地に落ち延びることができました。

このため、下赤坂城は10月中旬から鎌倉幕府軍大攻撃の的となりますが、正成は熱湯二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて幕府軍を翻弄したと伝えられます。


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しかし、所詮はにわか造りの城であったための、しだいに大軍の攻撃に耐え切れなくなり、10月21日に落城

正成は城に火を放って金剛山に逃げました。

このとき、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体が20体以上見つかり、これを楠木正成とその一族と思い込んだ幕府軍は、11月に鎌倉に帰陣したといいます。

翌年12月、再挙兵した正成は夜襲をかけてこの城を奪回しますが、間もなく落城。

しかし、その後、千早城の戦いの最中に、鎌倉幕府滅亡します。


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下赤坂城跡は石碑が建てられているのみで、城跡としての魅力はさほどありませんが、わたしはかねてから一度ここを訪れてみたいと思っていました。

というのが、これ。


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石碑の建つ丘から見下ろす、広大な棚田です。

どうです、実に美しい光景でしょ。


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この日は梅雨真っ只中の7月3日。

でも、どうしてもこの景色が見たくて、田植えが終わって稲穂が育ち始めるこの季節で、天気の良い日をずっと狙っていました。

やっと、来ることが出来ました。


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この美しい景色を見ると、ここで幾度と無く戦が行われたなどとは、想像もつかないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-15 17:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)