「ほっ」と。キャンペーン

タグ:孝明天皇 ( 7 ) タグの人気記事

 

花燃ゆ 第23話「夫の告白」 ~八月十八日の政変~

 攘夷決行報復戦でコテンパンにやっつけられた長州藩は、その名誉挽回とばかりに、朝廷内の攘夷派公家たちと手を組んで、あからさまな工作を行います。その中心となって京で動いていたのが、久坂玄瑞でした。玄瑞らは孝明天皇(第121代天皇)を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない。討幕の先頭に立つなど滅相もない、と。

 一方、京の政局では、水面下で薩摩藩会津藩の提携が画策されていました。京都守護職として御所を警護する会津藩士が約1000人。ここに、近々交代制の藩士が会津から1000人くる予定で、そこに薩摩藩の兵約800人を加えれば、ざっと3000人近くになる。この機会に会津と薩摩が同盟して、いい気になっている長州藩を朝廷から追いだそう、というクーデター計画があがっていました。そんななか、大和行幸計画に怯えた孝明天皇からSOSが会津藩主・松平容保の元に届きます。会津、薩摩にすればチャンス到来「いつやるの?今でしょ!」と言わんばかりにクーデターに踏み切ります。

 文久3年(1863年)8月18日早朝、会津兵と薩摩兵は御所の門という門をすべて固め、登城してきた三条実美を始めとする攘夷派の公卿7人の入門を遮りました。また、長州藩の持ち場である堺町御門も、薩会の兵によって封鎖され、追い払われてしまいます。怒った長州藩士たちは、兵を率いて堺町御門に押しかけますが、あまりにも兵の数が違いすぎることを悟り、ここは残念ながらひとまず退却し、再起を期して落ち延びるしかない、という結論に至ります。まさに、おごる平家は久しからず。昨日までの栄華から一気に奈落の底に突き落とされた長州藩士と7人の公卿たちは、翌日、降りしきる雨のなか、長州に向かって京を離れます。いわゆる「七卿落ち」ですね。薩会のクーデターは成功しました。

 クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、薩会および公武合体派の公家たちが天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は討幕派から「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされたという、なんとも皮肉な話といえます。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派、ことに長州藩士たちは、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 ドラマでは、七卿落ちに随行して長州に戻ってきていた久坂玄瑞でしたが、実際には、玄瑞は政変後も京に残り、政務座役としてしばらく京で活動します。玄瑞がに宛てた手紙は数多く残っていますが、ちょうどこの時期に書いた手紙に、義兄である小田村伊之助の次男・久米次郎養子に迎えたいと書いています。つまり、この時期、玄瑞は死を覚悟したということですね。自分が死んでも久坂家が絶えないよう取り計らったわけですが、しかし、玄瑞の死後、久米次郎が久坂家を継ぐことはありませんでした。というのは・・・と、このあとはドラマの今後に譲ることにしましょう。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-06-08 20:07 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第17話「長崎からの贈り物」 〜孝明天皇の死〜

 慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇(第121代天皇)が36歳という若さで崩御しました。その5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝しており、奇しくも慶応2年後半期に、公武の最高位にある天皇将軍が相次いでこの世を去ることとなりました。政局が混沌としていたこの年、将軍家茂が死んだときにも暗殺の風説が流れたといいますが、孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。現代の学者さんたちの中にも、孝明天皇暗殺説を支持する方もいます。はたして真相はどうだったのでしょう。

 従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職の松平容保らも見舞いに参内したようです。ドラマでは、天皇の急逝の報を受けて、「青天の霹靂」といった感じの容保でしたが、実際には、まったく予期せぬ出来事というわけではなかったようです。

 ただ、18日以降、少しずつ病状は回復に向かっており、その意味では寝耳に水だったかもしれません。病状が急変したのは24日夜からで、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。嘔気をもよおし、痰は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。

 このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。なかでも多くささやかれたのが毒殺説。私は医学については門外漢ですので、このような病状の急変についての知識はありませんが、専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。

 ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は、佐幕派倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。

 「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」

 これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がしますね。事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。

 薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。天皇を味方につけた方が勝つということですね。しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-02 23:26 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第9話「八月の動乱」 〜八月十八日の政変〜

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きました。世に言う「八月十八日の政変」です。長い日本史のなかには、古くは「大化の改新」から近代では不成功に終わった「二・二六事件」まで数多くクーデターが起きましたが、幕末にも2回のクーデターが行われ、いずれも成功しています。そのひとつは、これより4年後となる慶応3年(1867年)12月の尊王討幕派による「王政復古」のクーデターで、もうひとつが、今話の「八月十八日の政変」です。

 この8・18クーデターとはどのようなものだったのかというと、一口にいえば、京都を制圧しているかのように見えた尊皇攘夷派勢力に対し、公武合体派が巻き返しを行い、尊攘派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したというものです。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩でしたが、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していきます。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した公武合体派の中川宮朝彦親王近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、攘夷派の三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていったというものです。

 孝明天皇(第121代天皇)は強烈な攘夷論者でしたが、政治体制の変革などは望んではいませんでした。天皇の考えは、あくまで幕府を中心に公武合体で行う攘夷だったわけです。一方の尊攘派は、天皇の意志が攘夷にあるからと、その「攘夷」をたてにとって行動してきました。攘夷さえ行えば天皇の意志を尊重することになると考え、天誅で猛威をふるい、やがてはそれが討幕論にまで及びはじめます。しかし、当の孝明天皇はそんな尊攘派に恐怖すら感じていたようで、次第に彼らを疎んじるようになっていくんですね。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派は、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 クーデターは成功に終わり、公武合体派は朝廷での主導権を完全に掌握しました。クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、公武合体派が天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は尊攘派などから「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされるという、なんとも皮肉な話といえます。

 この政変をいたく満足した孝明天皇は、8月28日に京都守護職・松平容保や京都所司代・稲葉正邦ら在京の諸藩主らが参内した際、次のような宸翰(しんかん)を発布しました。

 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事」
 (意訳:これまでは、かれこれ真偽不明分の儀があったけれども、去る18日以後に申し出ることが、朕の真実の存意であるから、このあたり諸藩一同、心得違いのないように)


 つまり、これまで言ってきたことは全部インチキで、18日の政変以降にいったことが本心だよ・・・と。政変で失脚した尊攘派にしてみれば、ふんだり蹴ったりのお言葉ですね。とくに、松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚く、ドラマにもあったように、ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されます。

 「堂上以下、疎暴の論、不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也  文久三年十月九日」 
 (意訳:堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)


 文中にある「一箱」とは御製の入ったもので、次の2種の和歌が記されていました。

 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる
 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へむ」
 「武士(もののふ)と こころあはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

 (意訳:難しき世に武士(容保のこと)の忠誠の心を喜びて詠む
 「世にやすらぎを求める心も、敵に立ち向かう猛々しい心も相生の松のように根は一つ。松の葉が落葉しないように共に栄えようではないか。」
 「もののふと心を合わせて岩(困難)をも貫き通すことを私(朝廷)は末永く願う。」


 しかしその容保も、5年後の戊辰戦争では逆に朝敵第一とされたのも、歴史の皮肉といえるでしょうか。容保は終生、このご宸翰と御製を肌身離さなかったといいます。


 「八月十八日の政変」については以前の稿でも書いていますので、よければ一読ください。
     ↓↓↓
 「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。
 

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-03-08 23:08 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第5話「松蔭の遺言」その2〜桜田門外の変〜

 安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、翌万延元年、大老・井伊直弼の独裁専制と志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

 政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

 幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。

 この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。

 井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

 私は、そのどちらでもないと思います。開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

 私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、吉田松陰を殺したことだと思います。松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。

 いずれにせよ、「安政の大獄」「桜田門外の変」という2つの大きな出来事を引き起こした井伊直弼は、歴史を大きく動かした人物であることは間違いありません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-02-05 20:30 | 八重の桜 | Comments(0)  

「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きた。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩は、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していった。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した「公武合体派」中川宮朝彦親王(平井収二郎が取り入った人物)や近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、「攘夷派」三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていった。いわゆる「八月十八日の政変」である。

 皮肉にも、この政変を最も望んでいたのは、先の攘夷決行の勅許を出した孝明天皇だった。孝明天皇が望んだのはあくまで幕府による攘夷で、過激な長州藩の行動には恐怖すら感じていた。帝を尊び、帝の為に命をも惜しまなかった長州志士たちは、帝の意向によって朝敵にされた。京から長州藩が一掃されると、孝明天皇は本心を明らかにする宸翰(しんかん)を発布する。
 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事。」
 今までの「勅」は全部インチキだというのだ。長州藩にとっては全く寝耳に水であっただろう。そもそも彼らが藩をあげて戦ったのは、天皇の「勅」を奉じて幕府が5月10日を攘夷決行の日と諸藩に通達した結果ではなかったか。諸藩の中で最も純粋に天皇の「勅」を重んじた長州藩が、実は天皇から最も疎んじられる結果となった。孝明天皇にとって過激なラブコールを贈る長州藩はストーカーのような怖さがあったのかもしれない。これ以後、長州藩は幕末の最終局面で坂本龍馬の力を得るまで、辛苦の時代を過ごすこととなる。

 「攘夷は倒幕のための手段」というすり替え論は、この長州藩に限っては当てはまらなかっただろう。彼らは本気で攘夷が可能だと信じていた。作家・司馬遼太郎氏は、その著書「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。国内的な、または国際的な諸条件が万位一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行きついた。・・・(中略)・・・当時の長州藩は、正気で文明世界と決戦しうると考えていた。攘夷戦争という気分はもうこの藩にあっては宗教戦争といっていいようなもので、勝敗、利害の判断をこえていた。長州藩過激分子の状態は、フライパンにのせられた生きたアヒルに似ている。いたずらに狂躁している。この狂躁は、当然、列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制と列強それぞれが日本と戦争できない国内事情にあったことが、さいわいした。さらにいえば、当時のアジア諸国とはちがった、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして、日本との戦争の前途に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。・・・(中略)・・・いずれにせよ、長州藩は幕末における現状打破のダイナマイトであった。この暴走は偶然右の理由で拾いものの成功をしたが、・・・これでいける。という無知な自信をその後の日本人の子孫にあたえた。とくに長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した。昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断し、ついには大東亜戦争をひきおこした。かれらは長州藩の暴走による成功が、万に一つの僥倖であったことを見抜くほどの智恵をもたなかった。」
 後半の大東亜戦争云々はここではおいておくとして、幕末の長州藩の姿がとてもよくわかる見解だ。他にも司馬氏は同作品の中でこんな表現をしている。
 「長州藩は火薬庫のようなものだ。過激藩士が、火薬庫の中で、松明をふりまわして乱舞している。あぶない、どころではない。」
 ダイナマイトや火薬庫に比喩されるほど過激なこの長州藩の存在がなければ、後の明治維新はまた違ったものになっていたかもしれない。が、この時期の長州藩はまだ無意味に暴発する危なっかしさだけであった。ダイナマイトも使い方次第である。後に歴史はその使い手に坂本龍馬を選ぶ。龍馬はその導火線に火をつけることなくその威力を発揮させ、やがて幕府を倒すに至るのである。


下のバナーを応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-05-26 00:14 | 歴史考察 | Comments(2)  

龍馬伝 第19話「攘夷決行」

 「尊王攘夷」。帝を尊び、外敵を武力で退けようという思想。250年もの長い間鎖国によって天下泰平を維持してきた我が国だったが、ペリー艦隊によってその扉がこじ開けられ、以後、外敵による侵略を憂う、主に下級武士たちの間で高まった思想である。その背景には、この時代より少し前、隣国である清国がアヘン戦争時の通商の結果、西欧列強に支配されるに至った実情が影響していた。攘夷という言葉の元は中国の春秋時代の言葉で、日本での原点は朱子学を重んじた水戸学から発した思想である。水戸学とは水戸藩で形成された学問で、全国の藩校で教えられ、その「愛民」「敬天愛人」などの思想は、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの志士たちに多大な感化をもたらした。最初は純粋に外敵による自国への侵略を防ごうという国防精神によるものだったはずだが、時の帝・孝明天皇の意向が攘夷であったことで「勤王思想」と結びつき、やがてそれが「倒幕運動」のエネルギーと化していった。これは一種のすり替えであった。

 その「尊王攘夷」をスローガンに結集された「土佐勤王党」とその旗頭の武市半平太。謹厳実直で「天皇好き」とあだ名された彼だったが、果たして彼の掲げた「攘夷」とはどのようなものだったのだろうか。本当に純粋な国防精神によるものだったのだろうか。下級武士に過ぎない彼にとって藩内で出世するのは容易ではない。そこに追い風となって吹いてきた「尊王攘夷論」という世論。聡明な彼ならば、攘夷論が現実的でないことなどわからないはずもなく、その本質を知った上で、自身の立身出世の手段として世論を利用したともとれなくもない。彼の行った攘夷運動は、吉田東洋をはじめとする開国論者を暗殺し、世情に無知な公卿を操って幕府に働きかけるといった政治的な策謀ばかりで、そのたびに自身が出世していくというものだった。
 「土佐勤王党言うたち、所詮は武市先生のものじゃきのぅ。」
ドラマ中、海軍操練所に派遣された望月亀弥太が言った言葉だが、その言葉どおり、武市半平太の掲げた「攘夷論」とその徒党「土佐勤王党」は、結果的に彼自身を栄進させるための手段でしかなかった。

 文久3年(1863年)、長州藩と英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争や、同じ年に薩摩藩と英国の間で起きた薩英戦争などにおいて外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論というものが急激に息をひそめ、外国との交易によって富国強兵を図り、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「大攘夷論」が登場する。これによって、攘夷運動の主力であった長州藩・薩摩藩も事実上開国論へと転換していき、やがて時代は坂本龍馬を必要とし始める。そしてその一方で、単純攘夷論だった武市半平太と土佐勤王党は、歴史の中での役割を終えて、時代に切り捨てられ消えていくこととなる。


ブログ村ランキングに参加しています。
下記、応援クリック頂けると嬉しく思います。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2010-05-10 01:46 | 龍馬伝 | Comments(2)