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太平記を歩く。 その65 「一乗寺下り松」 京都市左京区

京都市左京区にある「一乗寺下り松」を訪れました。

ここに、「大楠公戦陣蹟」と刻まれた、大きな石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちによって混乱が生じはじめた建武2年(1335年)7月、滅亡した鎌倉幕府執権だった北条高時の遺児・北条時行が、幕府再興を掲げて信濃で挙兵し、進軍して鎌倉を占拠する「中先代の乱」が起きます。

これを鎮圧に向かった足利尊氏は、乱を平定したのちも鎌倉に留まり、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の帰京を促す呼びかけにも応じず、やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権の樹立を求める声に呼応するかたちで立ち上がります。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は、12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破(竹ノ下の戦い)。

その勢いで、尊氏は翌年1月に京都へ乱入します。

これを迎え撃つ天皇方は、各地で諸将が守備します。

その一人、楠木正成が陣を布いたのが、ここ一乗寺下り松でした。


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石碑の裏には、「昭和二十年五月二十五日建立」とあります。

第二次世界大戦終戦の約3ヶ月前ですね。

この時期といえば、各地が空襲に見舞われ、日本全土が焦土と化していた頃で、よくこんなものを建てる余裕があったなと思うのですが、そんな時期だからこそ、皇国の忠臣の象徴である楠木正成の碑が必要だったのかもしれません。

そう思えば、これは史跡というより、負の遺産ですね。


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傍らにある小さな石碑には、そんな正成を頌える文が刻まれています。


碑文

「建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す 官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす 乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し 明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬ これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せり しかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせず しかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り かゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし 即ち新に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」


強烈ですね。

碑文の後半を要訳すると、「楠公の貴いところは、その智をもって常に天皇のために尽くしたところにあり、この楠公の精神こそ、これからの日本の産業の指針とすべきで、日本の平和の標識とすべきだ」といったところでしょうか。

ほとんど敗色濃厚だったこの時期にこのようなことを言っているのですから、当時のわが国の指導者たちが、いかに狂っていたかがわかります。

正成自身、後世にこのような扱いを受けようとは、夢にも思っていなかったでしょう。


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ちなみに、ここ一乗寺下り松は、江戸時代初期に剣豪・宮本武蔵吉岡一門数十人決闘を行った場所としても有名で、「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた石碑があります。

ていうか、観光客用の看板などは、ほとんどが「武蔵ゆかりの地」を謳っており、「大楠公戦陣蹟」は知る人ぞ知るって感じでしたけどね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-06-07 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~

せっかく訪れたので、天守を登ってみましょう。

といっても、中は人人人、人しか撮れませんでしたが(笑)。

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地階から5階まで通る二本の大黒柱です。

この2本の柱が大天守を400年間も支えているんですね。

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地階にある武具庫です。

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こちらは地階のです。

用は足せません(笑)。

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二階の廊下には、一面に武具掛けが設置されています。

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窓の上にも武具掛けが・・・。

取りにくいですね。

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で、ここから大渋滞登城制限がかかっており、見てのとおりです。

これでも、だいぶピークは過ぎたときなんですけどね。

ここからは、もうどこを撮っても人しか写ってなくて、紹介できるような写真はありませんでした。

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大天守最上階にある刑部(長壁)神社です。

ここは、姫路城に住む刑部姫を祀ったものだそうです。

刑部姫とは、姫路城に古くから住み着いていた十二単を着た妖怪で、肥前国平戸藩藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、年に1度だけ城主と会い、城の運命を告げていたといいます。

また、別の伝承では、剣豪・宮本武蔵妖怪退治を命じられ、その謝礼として刑部姫から銘刀を授かったという話もあります。

どちらもにわかに信じがたい逸話ですけどね。

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天守の窓から撮影したです。

この瓦をつなぐ白漆喰が、白い屋根の正体ですね。

この白さを保っているのは、2年ほどだとか。

さて、大天守を制覇しましたが、まだまだ姫路城の見どころはたくさんありますので、次回につづきます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-10 18:49 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」

最後に、播磨六坊のひとつである圓光寺を訪れました。

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播磨六坊とは、蓮如上人が播磨国に浄土真宗を広めるため、文明16年(1484年)に高弟6人が英賀(現在の姫路市南部)に派遣され、その高弟たちが建てた6箇所の寺のことです。
ここ圓光寺の初代当主は多田祐全ですが、残り5人の高弟と五坊を紹介すると、浄覚・光源寺(姫路市)、順念・光善寺(たつの市)、空善・法専坊(姫路市)、善祐・永応寺(赤穂市)、誓元・万福寺(赤穂市)となります。

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元は英賀を拠点としていたそうですが、天正6年(1578年)に羽柴(豊臣)秀吉の命により、この龍野に境内を賜ったそうで、そのとき、圓光寺と号したそうです。

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浄土真宗の開祖、親鸞の像です。

ここ圓光寺に残る伝承として、剣豪・宮本武蔵が慶長年間の一時期、この寺に滞在し、境内の道場で圓明流の師範として剣術指導をしていたと伝えられています。

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宮本武蔵の生涯は不明なところが多く、生年や出生地についても諸説ありますが、武蔵が書き残した有名な兵法書『五輪書』の「序」には、「生国播磨の武士」と記されており、それを元に、現在、高砂市説太子町説などが有力とされています(吉川英治『宮本武蔵』では、お隣の美作国生まれ説を採っていますが)。
ここ圓光寺との関わりは、圓光寺多田家家譜に残る7代目住職の多田半三郎頼祐の名が、圓明流系図のなかに記されており、それによれば、頼祐が武蔵のいちばんの弟子であったと記されているそうです。
これにより、武蔵と圓光寺は深く関わりがあったとされていますが、ただ、この圓明流系図は、武蔵から3代のちで頼祐の孫にあたる多田源左衛門祐久の代に書き記されたものだそうで、どこまで信憑性があるかは疑問とされているそうです。

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あくまで伝承の域を出ない武蔵と圓光寺のつながりですが、現地の説明看板では、「確かな足跡として知られています」と記されていました。
いいのかなあ(苦笑)。

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さて、そろそろこのへんで龍野シリーズを終わりにします。
たった1日だけ休めたGWのドライブ備忘録でした。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-25 21:04 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

キムタク版 『宮本武蔵』 鑑賞記

先週末、木村拓哉さん主演の『宮本武蔵』が2夜連続で放送されていましたよね。
宮本武蔵といえば、言わずと知れた江戸時代初期の剣豪兵法家で、これまで何度も映画化やドラマ化されてきた時代劇の定番中の定番ですよね。
古くは片岡千恵蔵さんや嵐寛寿郎さんなどの伝説の名優に始まり、戦後は三船敏郎さん、萬屋(中村)錦之介さん、北大路欣也さんらビッグネームの俳優さんが演じ、今世紀に入ってからは、上川隆也さんや本木雅弘さん、そして2003年の大河ドラマでは市川海老蔵(新之助)さんが抜擢されて話題を呼びました。
武蔵を演じるということは、ある意味、一流の俳優としての箔がつくといっても過言ではないかもしれません。

で、名前の大きさでいえば、過去の俳優さんたちに決して引けをとらない平成のトップスター木村拓哉さんの武蔵ですが、わたし個人的には、なかなか良かったと思います。
やはり彼は、何を演ってもサマになりますね。
キムタクは何を演じてもキムタク・・・なんて批判する人もいますが、それを言うなら高倉健さんだってそうですからね。
何を演ってもカッコいい役者さんというのは、そうはいないと思います。
いろいろ言われるのは、それだけ彼がスターだということですね。

そもそも、宮本武蔵という人物については、実はほとんど謎の人物といっていいほど、詳しいことは何もわかっていません。
わたしたちが知る宮本武蔵は、吉川英治著の不朽の名作小説『宮本武蔵』で描かれた武蔵像で、ほとんどの映画やドラマが、この作品を下敷きにしています(今回のドラマもそうでしたよね)。
関が原の合戦後に始まって、巌流島の戦いをクライマックスに描くこの小説は、吉川英治氏自身も語っているように、史実をベースにした伝記小説ではなく、剣の道を通して自己を研鑽していくひとりの男を描いた娯楽小説であり、そのほとんどがフィクションです。
わたしたちの知る宮本武蔵は、吉川英治氏が作った虚像なんですね。

では、その吉川武蔵像のベースはどこから来ているかといえば、江戸時代中期から歌舞伎浄瑠璃講談などの題材として脚色されてきたもので、これもまた、明らかなフィクションといっていいでしょう。
武蔵の本来の人物像を見るうえで唯一の史料として重視されるのが、武蔵自身が著した兵法書『五輪書』ですが、これとて、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、武蔵直筆のものは存在しません。
しかも、その内容は明らかに武蔵の武勇伝を誇張して書いているとしか思えない部分が多く見られ、ほんとうに武蔵自身が書いたものかどうかも疑わしいとする歴史家の方もたくさんいます。
なかには、宮本武蔵という人物の実在性すら疑問視する歴史家さんもいるほどで・・・。
結局のところ、宮本武蔵という人物は、歴史上ほぼ謎の人物といってよく、日本史のなかよりも、物語のなかで輝いてきた人物といえるでしょう。
ですから、いろんな武蔵像があっていいと思うんですね。
キムタク武蔵、わたしは良かったと思います。

他のキャスティングも実に良かったですね。
セクスィー部長・沢村一樹さんの佐々木小次郎もハマってましたし、真木よう子さんのお通も、予想に反して合ってたと思います。
ユースケ・サンタマリアさんの又八は、いちばんのはまり役だったんじゃないでしょうか(彼のためにあるような役かと・・・笑)。
松田翔太さんの吉岡清十郎は、吉川英治作品よりも、漫画『バカボンド』のイメージに近かったでしょうか?
ただ、これらの登場人物たちも、ほとんどが吉川氏の作った架空の人物か、実在性が定かでない人物ばかりですから、正解の人物像はないんですけどね(明らかに実在した人物といえば、香川照之さんの沢庵和尚と、鈴木福くんの宮本伊織くらいでしょうか?)。

とにもかくにも、民放テレビでの時代劇がめっきり減ってしまった昨今、こうして人気俳優さんを主役に王道の時代劇を作ってくれるのは嬉しい限りです。
定期的に続けてほしいものですね。
とりあえず、保存版で録画しました。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-19 21:08 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

宮本武蔵も築城事業に関わったといわれる「明石城」を散策。

本日はJR明石駅北側の明石公園内にある、明石城跡を紹介します。

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別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、または錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。

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明石城に天守閣はありません。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を最後に戦乱の時代が終わり天下太平となったという、いわいる「元和偃武」の時代に築かれた城には天守閣のないものが多いそうです。
ただ、いつでも天守閣を建てられるように大きな天守台は設けられていました。

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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:左) と 「巽櫓」(たつみやぐら:右)です。
国の重要文化財に指定されています 。

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空の色が青かったら、もっといい写真になったんですけどね・・・残念でした。

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「坤櫓」の石垣です。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模の櫓で、たいへん立派な石垣です。

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「坤櫓」と「巽櫓」を結ぶ長大な塀(帯廓)は、明石市街地を見渡せる展望台となっています。
「巽櫓」の向こうに見えるのは、本州と淡路島を結ぶ明石海峡大橋です。

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「坤櫓」の向こうに見えるのは明石球場です。
この写真を撮影したのは7月のことで、実はこの日ここを訪れたのは、わが愚息の高校野球兵庫県予選の観戦が目的でして、その試合開始までの待ち時間で城跡を散策していました。

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球場内から見ると、こんなロケーションとなります。
プロ野球のオープン戦も行われるいい球場です。

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明石の地は播磨国に位置し、山陽道が通り、北には丹波国但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。
そのため徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についでこの明石城を重要視していたといいます。

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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、15年ほどで豊前国小倉藩(小倉城)に転封となり、それ以後わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前家の松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで10代189年間親藩として松平氏の居城となりました。
そして明治7年(1874年)の廃城令により廃城となり、その後、明治16年(1883年)に明石町の有志によって整備されて明石公園となり、大正7年(1918年)には兵庫県立明石公園となって現在に至ります。

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話は築城当時に戻って、ちょうどそのころ小笠原忠真の客分として姫路にいた剣豪・宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。

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公園内は緑に囲また自然豊かな環境で、私も子どもが小さかった頃はたびたび自転車を車に乗っけて弁当持参で訪れました。
春には桜の名所として、たくさんの花見客で賑わいます。
今度は桜の季節にでも、また取材して紹介してみたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-06 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)