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太平記を歩く。 その185 「赤松円心公墓所(常厳寺)」 兵庫県三木市

三木市にある常厳寺に赤松則村(円心)の墓があると知り、訪れました。


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でも、一般に知られている円心の墓所は京都の建仁寺にあり、供養塔はが兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺にあります。

それが、なぜ三木市にあるのか・・・まあ、墓所が複数あるという話はよくあることなので、とりあえず訪れてみることに。


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門前の「温故知新」の石碑の背面には、たしかに「開基・赤松円心公墓所」と刻まれています。


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しかし、探せど探せど、境内にそれらしき墓石が見当たりません。

そこでスマホでググってみると、どうやら境内内ではなく、近くの墓苑にあるようです。

早速周辺を逍遥。


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墓苑は常厳寺境内を出て少し北に行ったところにありました。

そこに、白塀で囲われた特別な場所といった空間が見えます。


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円心の墓、見つかりました。

でもちょっと、綺麗すぎるんじゃない?

ネットで見たときは、ほとんど崩れかけの古い墓だったような・・・。


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よく見ると、「維持平成廿八年二月建立」とあります。

なんだ、去年建て直されたんじゃないか!


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背後に並べられた古い石碑と、周囲を囲む白塀の下の石垣は、当時のものなんでしょうね。

崩れかけていたから建て直したのでしょうが、もうちょっと、元の墓石を修理するだけとか、なんか方法はなかったのでしょうか?

これじゃあ、歴史的価値は皆無で、もはや史跡ではありません。

わたしの親父の墓のほうが歴史があるという・・・(苦笑)。


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円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1351年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。


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なぜこの地に円心の墓があるかというと、円心が入道となって上郡に法雲寺を建立したとき、東播磨の三木にも守護仏を祀る寺を建てて聖観音を安置したそうで、それが君峯山常厳寺の縁起だそうで、その縁でこの地に埋葬されたのだとか。

京都で死んだ円心の亡骸が三木に埋葬されたとは考えづらいのですが、あるいは、分骨されて一部が埋葬されたのかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-20 22:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その181 「鷲林寺」 西宮市

西宮市にある鷲林寺を訪れました。

ここは、正平6年/観応2年(1351年)2月17日に起きた「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」において、足利直義が陣を布いたとされる場所です。


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「光明寺合戦」で勝負を決することができなかった足利尊氏軍は、軍勢を兵庫に移し、摂津の赤松範資と合流して大軍を形成します。


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同年2月17日、ここ鷲林寺や越水に陣を布く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を現在の神戸市東灘区の御影の浜に進めますが、あまりにも兵の数が多すぎて逆に統制がとれず、敗北を喫します。


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総崩れとなった尊氏は松岡城へ逃げ込み、そこで高師直を出家させるという条件で直義と和睦するのですが、師直らが京都に護送される途中、ここ鷲林寺前で養父を師直に殺された上杉能賢に襲われ、師直以下一族の多くが殺害されました。


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多宝塔です。


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ここを訪れたのは3月で、写真は裸木が目立ちますが、春は、秋には紅葉が綺麗なところです。


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敷地内にある石塔群です。

説明看板によると、これらの塔が作られたのは13世紀後半から14世紀初めと考えられているそうです。

あるいは、「打出浜の戦い」に関係してるかも・・・。


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七重塔に「信玄公墓」と書かれた木札が置かれていますが、そんな伝承があるそうです。

ただ、時代的に合わないようで、あくまで伝承の域をでません。


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この時代、大寺と城はセットだった場合が多く、かつてここにも鷲林寺(十林寺)城があったという説もあります。

そこで、寺の裏山を登ってみました。


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城跡らしき遺構は確認できませんが、登山道は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、城の名残といえなくもない気がしましした。


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かなり急勾配な登山道で、しかも大きな岩が多いため、結構キツイ登山でした。


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15分ほど登ったところにある岩場からの眺望です。

北は宝塚方面から川西池田まで、東は広大な大阪平野、南は西宮から大阪湾を望む大パノラマです。


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正面に見下ろすのは、標高309.2mの甲山です。


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このロケーションですから、として利用しないはずがありません。


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かつて鷲林寺は寺領70町歩・塔頭76坊を誇る大寺院だったそうですが、見てのとおり、陣を布くのに絶好の場所にあったため、その後も幾度となく戦火に巻き込まれ、最後は、天正7年(1579年)の荒木村重討伐の織田軍により、鷲林寺は兵火にかかり、衰退していったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-14 08:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その179 「光明寺城(滝野城)跡」 加東市

兵庫県加東市にある光明寺にやってきました。

この裏山にかつて光明寺城(別名:滝野城)があり、「観応の擾乱」における「光明寺合戦」の舞台になりました。


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足利直義によって派遣された石塔頼房が、中国筋平定のため書写山にいた足利尊氏を討つべく、ここ光明寺に陣を布いて京にいた直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は援軍の来る前にうち破ろうと、1万の兵で光明寺を囲みます。

正平6年/観応2年(1350年)年2月4日のことでした。


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尊氏は引尾山高師直鳴尾山赤松則祐八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦いますが、10日間に及ぶ戦闘にも決着がつかず、やがて援軍が迫ると、尊氏は光明寺の包囲を解いて摂津へと軍勢を移し、そして、「その66」で紹介した打出浜の戦いにつながります。


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標高230m、比高150mの場所に本堂がある光明寺ですが、かなり上まで車で登っていけますので、訪れるにそう難しくはありません。


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駐車場から見た東の眺望です。


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南は遥かに東播磨平野が広がります。


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入口には五峰山光明寺と刻まれた石碑があります。


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光明寺は推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられ、文明年間(1469年~1487年)頃には25の塔頭寺院が山頂に建つ並ぶ壮大な寺院だったそうですが、現在ではわずかに4つの院坊が残るのみとなっています。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日でしたが、紅葉の季節に来れば、きっとメチャメチャ綺麗だと思います。


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仁王門です。


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ここもの木だらけです。


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本堂です。


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本堂脇を抜けて裏山に入ると、すぐに「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた石碑があります。

ここが、石塔頼房が5000余りの兵で陣を布いた場所と推定されているそうです。


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本陣跡には、観光客用に足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ、本陣っぽく演出されていたようですが、随分以前のものらしく、ほとんど朽ち果てています。


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あるいは、大河ドラマ『太平記』のときに作られたものかもしれませんね。

だとしたら、25年前のことです。

そろそろ作りなおしてはどうでしょう?


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本陣跡の説明板です。


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本陣跡の近くには、『太平記』に記された「山鳩の悪夢」「高家無文の白旗」といった逸話を紹介した案内板がありました。


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本堂から少し下ったところに、物見台があります。

そこからの眺望です。


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ズームすると、遥か南に神戸市西区の雌岡山(めっこうさん)と雄岡山(おっこうさん)が見えます。


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参道脇には、滝野城主・阿閇重氏の墓があります。


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阿閇重氏という人物のことはよく知らないのですが、墓石には、「大永六丙戌年歿」と刻まれていますので、西暦1526年、現在より490年前に没した人物のようです。

その後、光明寺は現在まで続きますが、光明寺城(滝野城)がいつまで存在していたのかは、定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-11 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その178 「石龕寺」 兵庫県丹波市

兵庫県丹波市にある石龕寺までやってきました。

難しい漢字ですが、石龕寺(せきがんじ)と読みます。

ここは、「観応の擾乱」にて敗れた足利尊氏とその嫡子・足利義詮が、一時この地に身を寄せたと伝わる寺です。


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「観応の擾乱」とは、南朝、北朝の争いが続くなかで起きた、足利氏内部での内紛のことをいいます。

征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていました。

しかし、尊氏の弟・足利直義は、こうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざします。

こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまうんですね。

これが正平5年/観応元年(1350年)からの「観応の擾乱」です。


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まず、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまいます。

それを知った尊氏は、年が明けた正平6年/観応2年(1350年)年1月、京へ引き返して直義と戦うも負けてしまい、兵庫へ落ちのびます。

その際、一時身を潜めていたのが、ここ石龕寺だったと伝わります。


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『太平記』巻29「将軍親子御退失事付井原石窟事」によれば、尊氏は嫡子の義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めたといいます。

このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上したそうで、それを受けた義詮は、そのひとつに爪痕を付け、「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)という歌を添え、栗を植え立ち去りました。

その後、首尾よくそのとおりとなったため、「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられるそうです。


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仁王門の金剛力士像(仁王像)は仁治3年(1242年)に作られたもので、国の重要文化財に指定されています。

ということは、尊氏、義詮も同じものを目にしたんですね。


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携帯電話も圏外になるほど人里離れた山奥にある石龕寺は、その名称のどおり、城郭のごとく各所に石垣が積まれています。


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本堂です。

方三間、宝形造り、銅板葺、唐破風向拝付です。


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本堂前にある巨木「コウヨウザン」です。

推定樹齢300年だそうですから、さすがに、『太平記』の時代は知りません。


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とにかく石垣が見事です。


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本堂横には、奥の院に向かう参道入口があります。

ここから奥の院まで約30分の登山です。


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登山口を登るとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて進むと、道はいきなりハードになります。


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道中、明らかに石垣跡と思われる遺構が所々に点在していました。


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ここも、この時代の他の大寺院がそうであるように、寺と城が一体となって要塞化した武装寺院だったのでしょうか?


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急斜面を約30分登ると、建物が見えてきました。


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どうやら鐘楼のようです。


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奥の院鐘楼からの眺望です。


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石灯籠群の道を更に奥に進みます。


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奥の院拝殿です。


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さらに奥に進むと、休憩小屋が建てられた平坦地に、「足利将軍屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

どうやら、尊氏、義詮がしばらく逗留していたというのは、この場所のようです。


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でも、すいぶん狭小な敷地で、どう考えても、ここに2000の兵を留め置いたとは思えません。

たぶん、ここには将軍と側近の仁木兄弟と、身の回りの世話をする小姓が少数いたのみで、あとは、ここに登ってくる途中にあった石垣跡などにあったと思われる曲輪などにいたんでしょうね。


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ここ石龕寺は紅葉が美しいことで有名で、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-10 23:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その176 「楠妣庵観音寺」 大阪府富田林市

楠木正成の妻で、楠木正行の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔った場所と伝わる「楠妣庵観音寺」を訪れました。


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参道入口では、「太平記の里」と書かれた大きな看板が迎えてくれます。


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「峰篠山楠妣庵観音寺」というのが正式名称で、その起源は、在世中の楠木正行が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の崩御を悼み、峰篠山の一角に後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが始まりとされます。


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山門に上る階段の横には、久子と正行の母子像があります。


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「その163」で紹介した四条畷神社にも、同じ母子像がありましたよね。


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これは、『太平記』巻16「正成首送故郷事」に出てくるくだりで、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が河内の一族のもとに送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、これを見た久子は正行をこう叱責して諭します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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山門への階段を上ります。


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山門横には、高さ30mケヤキの巨樹が聳えます。

樹齢どれくらいでしょうか?


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階段横には楠木正成像が。


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この短足具合が、大河ドラマ『太平記』武田鉄矢さん扮する正成に似てます(笑)。


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説明板によると、この像は元弘3年/正慶2年(1333年)5月に隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、「その60」で紹介した摂津国の福厳寺で対面したときの正成の姿だそうです。


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山門です。

もとは山形県の恵林寺塔頭青松軒に建立されていた門だそうで、本坊が焼失して門だけが残存していたものを昭和39年(1964年)、大楠公夫人600年祭に移築されたそうです。


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山門をくぐると、すぐに本堂があります。

大正11年(1922年)に再興されたものだそうで、正成の旗頭の文字「非理法権天」が掲げられています。


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本堂前にある「菊水」家紋入りの水桶


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本堂前の石段を上ると、久子の墓があります。


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こちらがその墓。


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久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹もしくは娘といわれ、ここ甘南備の矢佐利に生まれたと伝わります。

ちなみに久子という名は、観心寺過去帳によるとされます。

元亨3年(1323年)、20歳で正成と結婚。

ここ楠妣庵観音寺の説明書きには、正成との間に正行、正時、正儀、正秀、正平、朝成6人の子をなしたとありますが、実際には、実子とみられるのは正行、正時のふたりで、そのほかの子が久子の子であるかどうかは定かではありません。


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墓は600年余りささやかな五輪一基が寂しく祀られていましたが、現在は玉垣に囲われた立派な墓所になっています。


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墓所の側らには楠木一族の供養塔が。


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墓所の隣にある観音堂です。

久子の念持仏である「十一面観音」が祀られている小堂で、大正6年(1917年)5月に建立されたそうです。


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こちらは、久子が隠棲したとされる草庵「楠妣庵」復元です。

観音堂と同じく大正6年(1917年)5月に建立。


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皇太子時代の昭和天皇(第124代天皇)もここに行啓されたそうで、お手植えのクスノキがあります。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」正行、正時兄弟が戦死すると、久子は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を「敗鏡尼」と称し、夫正成をはじめ一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと16年間の余生を過ごしたといわれます。

その隠棲地を「楠妣庵」といい、久子の没後、正行の弟・正儀が観音殿を改め「観音寺」として楠一族の菩提寺としたことから、「楠妣庵観音寺」と呼ばれるようになったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-05 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その172 「楠木正行首洗の井戸(枚岡神社)」 大阪府東大阪市

東大阪市に枚岡神社という由緒ある神社があるのですが、その参道にあたる枚岡梅林の入口に、楠木正行ゆかりの井戸があります。


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その伝承によると、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」において、楠木正行・正時兄弟率いる南朝軍と、足利幕府方の高師直率いる北朝軍が激突し、南朝方は惨敗を喫しますが、そのとき、討ち取られた正行の首が、この井戸で洗われたといいます。


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四條畷の戦いの舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市通説となっていますが、「その170」「その171」で紹介した東大阪市の四条付近だったという説も根強く、もし、この井戸が伝承どおりの井戸だったとすれば、後者の説に沿ったものだと思われます。


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井戸を囲う石はそれほど古いものではなさそうで、とても由緒ある井戸には見えません。


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立札には、「楠木正行公縁の井戸」と記されていますが、以前は、「楠木正行公首洗いの井戸」と書かれていたそうです。

表現が惨たらしいので、変えちゃったのでしょうか?

縁の井戸と言われても、どんな縁かわからないですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-25 19:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その165 「楠公寺」 大阪府大東市

前稿で紹介した飯盛山山頂から少し南に下ったところに、「楠公寺」という名称の小さなお寺がありました。

「楠公」と名がつくからには、楠木正成・正行父子と何らかの関係があるのだろうと思い、立ち寄ってみることに。


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こちらが本堂

それほど古い寺ではなさそうです。


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説明看板です。


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その説明によると、楠木正行をはじめ「四條畷の戦い」戦死者を弔うために開山したとあります。

昭和25年(1950年)に飯盛山妙法寺改め楠公寺としたと。

その名付け親は、池田隼人大臣(故)とありますが、池田勇人元総理大臣の間違いではないでしょうか?


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ただ、正行を忠臣と評し、高師直賊将としているあたりは、あまりよろしくないですね。

第二次世界大戦後に開山した寺だというのに、戦前の皇国史観から脱却できないままです。


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境内横の傾斜面にある墓石群の中央には、「楠氏有縁無縁之諸々霊位報恩塔」と刻まれた石碑があります。


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最後に、寺周辺の紅葉写真です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-10 01:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その163 「四条畷神社」 大阪府四條畷市

大阪府四條畷市にある「四條畷神社」にやってきました。

ここは、楠木正成の嫡男・楠木正行を主祭神とする神社です。


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正平2年/貞和3年(1347年)9月から11月にかけて、南朝方・楠木正行軍に摂津国天王寺・住吉浜にて大敗を喫した北朝方は、翌年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、本格的な南朝攻撃を開始します。

そして1月5日、両軍が激突したのが、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)でした。

後世にいう「四条畷の戦い」です。


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結果は、圧倒的な兵力の足利軍が圧勝します。

『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったと伝えていますが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようです。

正行は弟の正時刺し違えて自決しました。


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ここを訪れたのは12月3日でしたが、かろうじて紅葉が残っていました。


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神社の歴史は比較的新しく、社殿が完成して御鎮座祭が執り行われたのは、明治23年(1890年)だそうです。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成「大楠公」として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も、「小楠公」と呼ばれ崇められるようになりました。

そして、討死したと伝わるここ四條畷の地に、正行を祀る神社ができたわけです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に父の正成を祀る神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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社殿の横に目をやると、見憶えのある2体の石像が。


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そう、「その87」で紹介した櫻井驛跡や、「その144」で紹介した吉野山如意輪寺にあった、楠木正成・正行父子の桜井の別れ像です。


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題して、「紅葉と楠木父子」(笑)。


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拝殿の横には、正成の妻であり正行公の母である久子を祀った御妣(みおや)神社があります。


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その側には、久子・正行母子の石像が。


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『太平記』巻16「正成首送故郷事」によると、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、久子がこれを叱責し、父の遺志を継いで忠臣となるよう諭したといいます。


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叱られているのに笑ってます(笑)。


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父の正成は江戸時代から英雄視されていましたが、父子ともに神格化されたのは明治に入ってから。

多分に政治的意図が含まれた神といえます。

人神とは、そういうものなんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-08 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その159 「景徳山安国寺」 京都府綾部市

足利尊氏生誕地と伝わる京都府綾部市を訪れました。

足利氏といえば、栃木県の足利荘を思い浮かべるのですが、実は、尊氏が生まれたのは母・清子の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘だったそうです。

700年前にも、里帰り出産があったんですね。


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その生誕地にある安国寺に、尊氏と母の清子、そして妻の登子供養塔があると知り、車で約2時間かけて遠路はるばる訪れました。


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寺に入口には、「足利尊氏公誕生の地」と刻まれた石碑があります。


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紅葉の名所だと聞いていたので、その季節を狙って11月20日に訪れたのですが、あいにくので、残念ながら暗い写真ばかり。


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全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、その多くは、尊氏の時代に建立および改修・改名されたものです。

延元3年/暦応元年(1338年)、征夷大将軍となって室町幕府を開いた尊氏は、禅僧・夢窓疎石の勧めで前稿で紹介した天龍寺の建立を始めるとともに、元弘の乱以降の戦死者を弔うため、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てます。

このときの寺を「安国寺」、塔を「利生塔」と称しました。

山城国の安国寺には、あの一休宗純(一休さん)がいたことで有名ですね。


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山門の扉には、足利氏の二つ引の紋章が。


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安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありましたが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もありました。

ここ綾部市の安国寺は、もとは清子の実家・上杉氏の菩提寺・光福寺としてあったものを、尊氏が丹波国の安国寺と定め、諸国安国寺の筆頭におきます。

自身の生誕地ということもあったでしょうが、母を敬う尊氏の思いが込められていたのでしょうね。


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雨じゃなければ、きれいな写真だったでしょうけどね。


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茅葺の仏殿は寛保3年(1743年)に再建されたものだそうです、。


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ここにも二つ引が。


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そして、こちらが境内奥にある、尊氏・清子・登子の供養塔と伝わる宝篋印塔です。

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向かって左から、清子、尊氏、登子の供養塔と伝わります。


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説明板です。

『安国寺文書』によると、二代将軍・足利義詮によって尊氏と登子の遺骨が安国寺に奉納されたと記されているそうで、南北朝時代のものとさせるこの宝篋印塔が、その墓碑だと考えられているそうです。

でも、だったら、清子の墓っていう伝承は、なんの根拠なんでしょうね?


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あいにくの雨でしたが、せっかく綾部市まで来たので、次稿、もう一回綾部市をやります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-01 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その5 「福禅寺・對潮楼(いろは丸事件第2・3回談判場)」

前稿で紹介した旧魚屋萬蔵宅の東側の高台にある福禅寺・對潮楼が、慶応3年(1867年)4月25日と26日に行われた「いろは丸事件」2回目、3回目の談判場となりました。


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細い路地の坂道を上ると、「国史跡 對潮楼」と書かれた誘導板が出てきます。


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海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。


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石碑には、「日東第一形勝」と刻まれています。

この言葉は、正徳元年(1711年)にここを訪れた朝鮮通信使が、あまりにも美しい景観に感動して言った言葉だそうです。

つまり、朝鮮より東で一番美しい景色ってことですね。

楽しみです。


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本堂です。

元禄年間(1690年代)に建立されたそうです。


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隣接する客殿・對潮楼も、同じ時代に建てられたものだそうです。

「對潮楼」という名称は、延享5年(1748年)に訪れた朝鮮正使の洪啓禧が名付けたそうです。

さっそく對潮楼に行ってみましょう。


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おおっ!


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おおおおっ!


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たしかにこれは素晴らしい!


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窓枠が額縁の絵画のようです。


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話をいろは丸事件の談判のことに戻します。

慶応3年(1867年)4月25日、2回目の交渉の席についた坂本龍馬は、要領を得ない紀州藩汽船・明光丸船長の高柳楠之助に対し、急場の難を救うために1万両を要求します。

これを受けた高柳は、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい」と返答します。

ところが、これに対して龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない」と、強気に跳ね返したといいます。

万国公法に明るい龍馬は、よほど自信があったのでしょうか?


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坂本龍馬率いる海援隊の船・いろは丸と紀州藩汽船・明光丸が瀬戸内海で衝突したこの事故ですが、実は、海援隊側に重大なミスがあったという説があります。

西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。

この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵、つまり右折して回避するのがルールなんだそうです。

ところが、記録では、いろは丸は左折し、右折の明光丸と衝突しています。

あわてた明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

つまり、致命傷となった2回目の衝突は明光丸側に過失があるとしても、最初の操縦ミスはいろは丸側にあったというんですね。

もし、これが本当の話なら、いろは丸側の方が不利な立場だったんじゃないでしょうか?

龍馬はこれを知らなかったのか・・・。

神戸海軍操練所航海術を学び、さらに国際ルールにも明るい龍馬ですから、知らなかったとはとても思えない。

だとしたら、なかなかしたたかですね。


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交渉は翌26日も平行線をたどり、27日午後に交渉は決裂

談判の場は長崎に移されることになります。

このあと龍馬は、身の危険を感じたのか、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っています。

それほど殺気立った交渉だったのでしょうね。

龍馬も見たであろうこの景色。

とても景色を楽しむような気分ではなかったでしょう。


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観光客用の渡し船「平成いろは丸」です。

実際のいろは丸に比べるとぜんぜん小ぶりですが、まあ、町おこしの一環でしょうね。


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長崎での談判では、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が根負けし、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めます。

しかし、それでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけて海援隊側を威圧する策に出ました。

ところが龍馬も負けておらず、世論を味方につけます。


 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う♪」


こんな狂歌をつくり、長崎丸山の妓楼で歌わせたそうです。

この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まりました。

さらに龍馬は、追い打ちをかけるように交渉の席に土佐藩家老の後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者vs紀州藩の事件を、土佐藩vs紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としました。

藩同志の談判となれば、紀州側もこれまでのような脅しまがいの交渉は出来ません。

もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助(のちの五代友厚)に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやく事件に決着がつきます。

龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには、大藩相手に怯まない腹の据わったリーダーシップ

どれをとっても、一級品の外交手腕ですね。

現代の政治家さんにも見習ってほしいものです。


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くつろいでいるのは、わたしの高1の娘です(笑)。


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サザエさんも鞆の浦に来たようです(笑)。


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最後に、下の道路に降りて、さっきまでいた對潮楼を見上げます。

この日、鞆の浦での滞在は約3時間

まだまだ観光スポットはたくさんあったのですが、時間に限りがあったため、龍馬関連に絞って観光しました。

また機会があれば。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-26 00:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)